思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「超越」へのコメントー茨木のり子さんの詩「倚りかからず」(25日増補)

2006-02-24 | メール・往復書簡

昨日のこの下のブログに対するメールです。
私も、茨木のり子さんの詩に深く共感します。楊原さま、ありがとございました。


武田様

ありがとうございました。
頂いたメールを拝見しながら、先日亡くなった詩人茨木のり子さんの
「倚りかからず」という詩を思い出しました。


もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
もはや
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


カッと目と耳を開いて、しっかり学び、自分の良心、価値観を常に向上させる
努力を続けながら、どんなことがあっても、背筋を伸ばして、死ぬ日までを
真直ぐに生きたいと思います。
楊原

文学言語のもつ力をまざまざと感じさせる見事な詩だと思いました。まだ数日前・2月19日に誰も知らずに亡くなっていた茨木のり子さん(茨木さんらしい見事な死でした)の有名な詩に「私が一番きれいだった時」があります。実は、この詩による一曲を2002年「白樺教育館」のオープン記念に棚兼子さんの高弟ー相川マチさんが我孫子市「アビスタ」でその演奏会の最後に歌いました。駆けつけていた兼子さんのただひとりの内弟子で極めて厳しい批評をする大島久子さん(クリック)も、ただ一曲彼女の歌に絶賛をおしまなかったのが「私が一番きれいだった時」でした。不思議な因縁を感じます。

武田康弘



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私の超越ならざる「超越」

2006-02-23 | 恋知(哲学)

いまある自分にこだわらず、どこまでも「私」を掘り進めて行くー深い納得をつくる営みを続けていく。

どのような種類の権威にもけっして従うことなく、「私」が心中に深く感じ、想い、考えることに誠実に生きる。人間的な善美=存在の深い魅力とは何か?を生活世界の中で追求する。

それが、「私」がよく生きることを支えるのだ。

このように、主観性を掘り進めていく営み以外に、「普遍性=深い納得」をつくる道はない。――これが私の絶対の信念だ。

自分=経験的な自己を捨て去ってしまうまでに徹底された『自己性』、言い換えれば、外的な価値(知識・履歴・財産等の所有)に幻惑されることなく、内的な意味充実の深さ、存在のよさ=魅力だけを己の生の基準とすること。

それが私の超越ならざる「超越」である。


 蛇足:以上のような私の「超越」と、王室や皇族という特権や権威のシステムとが二律背反であることは明白でしょう。特権者はいない、ましてや、生まれながらの特権者などあってはならぬこと。これは非・階級社会の基本原理です。)

(以上は、1998年12月12日の「日記」を一部手直ししたものです。)

武田康弘



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「わがまま」が大切です。-シリーズ「教育の原理」つづき

2006-02-22 | 教育

以下は、公共哲学ML内での平野さんとのやりとりです。
この下の「個性」につてのブログ記事についてです。


武田さん、みなさん 平野慶次@京都です。

 個性についてのご意見、頷けることが多いです。

 そもそも個性とは、生まれ持ってくるものですよね。それを学校という文化装置が壊していくのだと思っています。

 本当は生まれた時に備わっている様々な力を教育が立ち枯らせるのではないか、それに対抗するためには、相当なエネルギーが必要とされる、そんな風に考えています。

 脱学校化社会をこそ今目指さないと、持続可能で多様性に溢れる世界は存続できなくなるでしょう。

 勿論、自分のことを考えても何処までが自分の個性に由来しているのか、どこから他者の影響に拠っているのか、その区別はできないです。

 ですが、誰一人他人の人生を歩くことはできないのは確かなことでしょう。

 そのためにも、確かな個性=主観を育つように環境を整備することが大事な気がします。

========================================

平野さま。みなさま。
武田です。

「脱学校化社会をこそ今目指さないと、持続可能で多様性に溢れる世界は存続できなくなるでしょう。」(平野)

確かに、イヴァン・イリッチの「脱学校化の社会」・「脱学校化の可能性」は、示唆に富む本ですね(学校をなくせ!という無茶な主張ではありませんー念のため)。
「過激」ではなく「根源的」という意味でラディカルです。人間の活力を根絶やしにする「管理社会」を支える「制度知」=(いまキム・テチャンさんも克服すべき中心課題だとしている)をどうクリアーしていくかの「原理的思考」たりえていると思います。

「公共」をつくり支える最大のキーは「教育」にある、と私は確信していますが、これは普遍了解的な視点のはずです。ほんらいの教育とは、平野さんも言うように、まさに個性=主観性の深化・拡大をその原理として要求するものです。
そして、ほんとうの教育とは、よい「理論」をつくればどうにかなるような甘い話ではなく、心身全体で考え、泥まみれになりながら「全細胞で思考=実践」しなければ何も見えず・分からず、という世界なのです。

ありがとうございました。感謝!
=====================================
追伸―まとめ 武田康弘

「わがまま」が大切です。
自分の思いをそのまま出してみる(言葉や行為に)ことが絶対に必要な「はじめの一歩」であり、それがなければ、何も始まりません。
予め決まっている「正しさ」!?に誘導すれば、必ず、こころからの納得をつくることに失敗し、歪んだ「ヒズミ人間」や型はまりの「紋切り人」しか生みません。「正しさ」を外側から強要する「しつけ」は、ただの「事実人」しかつくらず、人間を人間にしません。無味乾燥な全く魅力のない人間や、おぞましい「犯罪者」を生むだけです。
はじめの一歩が間違っているから、日本人は自己肯定のできない哀れな人間にしかなれないのです。気づいたときがはじめです。何歳からでも遅くはありません。自分の心に素直にー他者の視線などに惑わされず、一からやり直すことを始めましょう!一歩一歩「実存」の階段を昇っていく作業は、最高に愉しく有益です。最もよきもの・すばらしきものは、一人ひとりの心の内にすべて備わっています。外に「超越的なよきものー真理!?」を求めるような悲しく不幸な心から解放されることが21世紀のよき人間の条件なのではないでしょうか。

「主観を消去する日本というシステム」をご覧下さい。



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個性をつくることはできませんー個性とは湧き出るものなのです。ーシリーズ「教育の原理」

2006-02-19 | 教育

よく教育現場で言われます。個性を育てる教育を!
果たして個性を育てる、さらには個性をつくる、ということは可能なのでしょうか?

人間は生まれたときから個性的であり、同じ人間はいません。
ほんらい、人間は個性的であり、個性的でない人はいません。
むしろ、個性的たらざるをえないのだ、といった方がよいでしょう。

それをわざわざ「類型化」するから、無個性―没個性になるのです。
日本の家庭や学校は、もともとは個性的な人間を、わざと没個性化させるように計り、
その後で「個性を育てよう」!というのです。

これはどういうことかというと、集団同調という無言の圧力によって、既存の価値意識・序列意識に従うように調教しておき、その後で、付録のように「特技」や「得意教科」をつくろうというにすぎないのです。

日本人には情緒音痴や紋切り型の「つまらない顔」が多く、存在感の薄い人間が多いのは、前にも書いたように、個性=主観性を消去する詐術=「型の文化」に絡めとられているからです。

個性とは、素直に自分のやりかたで生きると、自然とそこに生まれてしまうものであり、わざわざ「個性的」を意識すれば、「癖っぽい」偏狭な人間が生じるだけです。本質的で、まっとうな人間の面白さ=魅力ではなく、意図的につくられた個性とは、個性ではなくクセでしかありません。

個性とは、めがけるものーつくるものではなく、結果として生じるものなのです。

個性的たろうと意図すると、狭小な世界―クセっぽい閉じた世界しかつくれません。余計なことを考えず、のびのびと考え・話し・行為することー逡巡せず対象にまっすぐに向かっていくことが、よきもの・美しきものを生むのです。

核心は、人間の自発性を悦ぶこと。抑圧せず、信じればよいのです。個性はつくるものではなく、湧き出てくるものなのですから。

武田康弘


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「不良」になる努力!?を始める。徹底的に「バカ」になるぞ!-コメントです。

2006-02-17 | メール・往復書簡


以下は、この下のブログに対するコメントです。(ミクシィ内)

ナルケッケ

上司(命令をする)→部下(命令に従う)

今の社会はこの関係が当たり前になってるんですよね・・。
「年上や位の高い人には敬意を払い、尊重し従う。」それがイイ事であると小学生から・・もっと前から聞かされてきた俺は最近まで当たり前のことと思っていました。
言われたことを素直に聞くのは善人、言うことを聞かないで逆らうのは悪人(不良とか)って勝手に善悪を決めて。
今思えば、不良って呼ばれてた人たちはタケセンが言う「型の世界」からの脱却をしようとしていたのかな?w

もし、上司⇔部下(互いに意見し、助け合う)という関係ができればお互いに気兼ねなしに馬鹿なこと言ってられる楽しい職場になるでしょうね。

時間かかると思うけど、おれも「型の世界」から脱却して不良になりたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヌルハチ

僕は「型」には、勉強にせよ運動にせよそれなりの価値を置いております。ですが、それを生徒に使わせるのではなく、生徒をそれにはめようとするのは間違いですし、塾講師としては僕は半ばこれをやりかけておりました。

 一方的にではなく双方向的に、型よりも前に愛と笑いが飛び交う授業を目指します。

 そのためにはまずは、私は徹底的な馬鹿になることを宣言いたします!!

------------------------------------------------------

2006年02月16日
23:11
タケセン

それぞれよく考えて自分の言葉で書いてくれて、ありがとう。
双方向を可能にするための条件は、イマジネーションの力です。段々と心を通わせる力を養うことー表層的な誤魔化しの交流を超えて、深く豊かな交歓は、自己の赤裸々な姿ー「欲望」(人間の存在原理としての「欲望」)を知り、それを深く肯定できるまでに心と頭を鍛えることですね。

武田康弘



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「する」ことと「してもらう」こと。

2006-02-15 | 日記

教えることは、教わること。
教わることは、教えること。

助けることは、助けられること。
助けられることは、助けること。

する方とされる方の区別はあります。でも、それを固定化してしまうと、よきものは生まれないと思います。

愛のある愉しい人間関係をつくること、という土台がなく、区別にこだわる考えとシステムは、カタイ心を生んで、つまらない世界をつくってしまいます。

私は「勉強」には興味がありましたが、学校は嫌いでした。
カタイ心とカタイ頭とカタイ言葉と・・・で心が壊れてしまいそうだったからです。

頭が動くことは楽しいことです。規則だらけの「型ハメ教育」や「厳禁の精神」は、明らかに間違いです。心も頭も体も止まってしまうからです。

私が30年前から私塾を開いて勉強を教え・教わり、助け・助けられてきたのは、ほんとうの勉強―ほんとうの人生をつくるためです。そのためのキーは、愛ですね。「理想」??の型に入れようとするのは、一人ひとりの人間を愛していない証拠です。

「主観を消去する日本というシステム」
「福嶋浩彦・我孫子市長の原点」の二つのブログも見て下さい。

武田康弘


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日本人という人類(人間)が存在する!?へんですね。

2006-02-14 | 私の信条

人類または人間の話です。

このごろしきりと、わたしたち日本人は・・・とか、日本人として・・・とか、日本の伝統を守るためには・・・ということが言われます。

私はこの歳(53歳)になっても、こういう言辞を弄する政治家や評論家や学者や教育者や役人が何を言っているのかさっぱりわかりません。

中国人という人類(人間)がいる? 韓国人という人類(人間)がいる? 日本人という人類(人間)がいる?
あべこべですよね。
人類=人間としてはみな同じであり、たまたま私は日本という地域に生まれ育っただけです。
日本人という意匠をもった人間がいるのであり、韓国人という意匠をもった人間がいるのであり、中国人という意匠をもった人間がいる、そういうことにすぎません。

普遍的な了解への道が開けるような考えや行為をつくるにはどうしたらよいか? 国家エゴイズム(自分たちだけが特別な存在だという思想)をどうしたら小さくできるか?そういう方向での言動をするように、ひとりひとりが努力する、それがおおきな意味での利益=ほんとうの得をもたらすのではないでしょうか?

日本だけは時代区分まで「一人の人間の生死」で変えるのだ!「元号制度」こそ世界のどこにもない日本の個性だ!
私はそのような頑なな思想=制度は、ひどい自我主義であり、幸福をつくらないシステムでしかないと深く、強く確信しています。開かれた文明―開かれた国家―開かれた思想のためには、まず何よりも自分の心身を開かなければダメですね。
日々、新鮮。日々、創造。
囚われのない自由な心の想いを羽ばたかせてこそ、真の友好、真の国益は得られるのです。
「国益」を先に考えるような思想は、小さく固いです。そういう想念では何事もなしえません。これは原理です。個人でも政府でも、ひょうひょうと「狭い自我」を超えられる者が豊かな世界を生み出すのではないでしょうか?
相手を変えようとするから失敗するのです。己を変えることです。自分が変われば相手も変わります。人間の生・文化は「逆説」でできているのですから。

武田康弘




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中国人の「理」ー韓国人の「気」-日本人の「場」

2006-02-13 | 教育

1月28日に金泰昌(キムテチャン)さんが「白樺教育館」のソクラテス教室(大学クラス)の授業に参加されて述べられていたことですが(「公共的良識人」紙にも書かれていますーキムさんの「生い立ち」からくる実体験に基づく話です)、

中国人は「」(合理・論理・・・・)
韓国は「」(気持ち・元気・・・・)
日本人は「」(場所・場合・・・)
を重んじる。
この三つが揃うことが大事。

これはほんとうにその通りで、深く噛みしめたい言葉だと思いました。
どれか一つが欠ければ、その言動は無価値になってしまいます。
心しようと思いました。

キムさんに感謝です。


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戦争ゴッコー男の子の成長(メール対話)

2006-02-12 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML内でのメール対話です


武田です。
久松さんらの努力に感謝します。

小学生の時以来の考えですが(まったく進歩なし!笑)、自衛隊は、大規模災害の救助をその中心任務とすると規定し、日本の領土が攻撃された場合のみ、防衛のために闘うとすればいいのにな~、それが一番現実的な考えなのに、なぜそうしないのか?今日までずっと不思議に思っています。

そうすれば自衛隊に入りたいという人も増えるし、皆から喜ばれて仕事のやりがいも出て「得」なのに、という考えは今も変わりません。幼稚でしょうかね?

いい年のおじさんが毎日本気で「戦争ゴッコ」をやっているなんて、「頭がおかしい」としか私には思えません。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

武田さん、まったく同感。きくちゆみ

On Feb 7, 2006, at 8:58 AM, 白樺教育館ー武田康弘 wrote:

> 武田です。
> 久松さんらの努力に感謝します。
>
> 小学生の時以来の考えですが(まったく進歩なし!)、自衛隊は、大
> 規模災害の救助をその中心任務とすると規定し、日本の領土が攻撃さ
> れた場合のみ、防衛のために闘うとすればいいのにな~、それが一番
> 現実的な考えなのに、なぜそうしないのか?今日までずっと不思議に
> 思っています。
>
> そうすれば自衛隊に入りたいという人も増えるし、皆から喜ばれて仕
> 事のやりがいも出て「得」なのに、という考えは今も変わりません。
> 幼稚でしょうかね?

いえ、戦争ごっこをやっている方が幼稚ですよ。
男の子と女の子を育てていると、つくづく思うのですが、うちの男の子
(4歳)はやっぱり戦う事や戦闘機などをかっこいいと思い、そ
ういうもので遊びたがり(うちはそういうおもちゃは買ってあげないの
で)、自分で作ったりして、戦争ごっこをします。女の子(5歳)は
まったく興味をしめしません。男の子はいつもいつも「バババーン」と
やっています。

性差なんですかね。それとも個性なのかな。男の子でも違う子もいるで
しょうが。

>
> いい年のおじさんが毎日本気で「戦争ゴッコ」をやっているなんて、
> 「頭がおかしい」としか私には思えません。

ねえ。

――――――――――――――――――――――――――――――――
きくちゆみ様。
武田です。

人間は本能で規定されている部分が少ないために、それに変わる第二の本能とでも言うべき「文化」=秩序をつくり、それに従って生きているわけですが、それは必ず制度疲労を起こします。たえず賦活化していかないと、人間の生の実情と合わなくなり、「文化」による自己疎外が起きます。
人間の文化のありよう=型は、壊し、創る作業を不可避のものとして要請してくるというわけです。

男の子が怪獣や最新鋭の機械、強力な破壊兵器に興味を持つのは、破壊と創造=「型」そのものの変更への欲求で、頼もしい能力です。そうでなくっちゃ!

でもそれが成長しないで、止まる(親が止めてしまう)と、社会をよく変えていくための営為=新たな建築・創造へという方向に進歩せずに、単純な力=戦争への潜在的な憧れを抱えもつ大人になるようです。心の成長が止まってしまった結果です。欲求は十分に肯定される(認められる)と階段を昇るようにできていますが、せき止められると、隠れて増殖してしまいますね。

ダイナミックな逆説を必要とするのが人間とくに男(の子)です。男はバガでどうしようもないですが、そのバカゆえに「地上の星」にもなるというわけです。女性でももちろんそういう人はいますが、大雑把に巨視的に見れば、そういう傾向を持つ、というように思えます。

では、また。
メール、ありがとうございました。


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憲法と世界人権宣言に反した「東京拘置所」の実態―6チャンネルの意図的な放送(付・デタラメな裁判)

2006-02-09 | 社会思想

私のブログに反証するかのような番組が、いま、お昼の6チャンネルの番組で流されました。東京拘置所はホテルのようです!?お正月には豪華な重箱もでます!?と。

しかし、よく内容を聞けば、「情報」はまったく遮断され、拘置所で編集したラジオが聞けるだけ。黙秘者には接見も差し入れも不可、とのこと。「腕立て伏せ」をすることも禁止!?!?
これは、間違いなく、「日本国憲法」と「世界人権宣言」に反すると私は判断します。責任ある教育者として。
「黙秘権」は、基本的人権の一部として明文化され、人権宣言にも大事な権利として掲げられています。なぜ為政者―「官」は、法律を守らないのですか?どなたか納得のいくようにご説明願えませんでしょうか?

「容疑者の人権」をもしっかり守ること、それができない稚拙な思想=制度では国が滅びます。
人権に対してどれだけ敏感か?それがよき社会=健康な社会のバロメーターなのです。おおきく深く全体的に考えることができない人々ばかりでは、活力ある健全な国にはなれません。これは原理です。

武田康弘

(付き) 10日(今日)の新聞をみると、横浜事件で、また裁判所は自己の非を認めず、逃げを打ったとのことです。裁判所や警察、検察を市民の良識でチェックする第三者機関=オンブズマンをつくらないと、民主制とは名ばかりの「官僚独裁社会」から抜け出せません。なにかどんどんひどくなるとの思いを強くします。無実の人が警察と検察によって罪人にさせられる日本という社会を正していくのは、良識ある市民の役目でしょう。


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紹介に感謝です。「主観を消去する日本というシステム」他

2006-02-09 | メール・往復書簡

武田の「主観を消去する日本というシステム」(クリック) に対して以下の紹介文が「ソフィオロジー(叡智学)へむけて」に載りました。感謝です。

『 以下は、正鵠を射た洞察である。私が日本社会における桎梏であると考える父権的部族主義・封建的共同体主義を捉えて、的確に日本社会の病巣・患部を指摘し、また、処方箋を説いていると考えられる。多くの日本人に読んでいただきたい。』=「主観を消去する日本というシステム」 武田康弘



また、破れる前に目覚めよ(クリック)にも 「海舌」に以下の紹介文が載りました。これも合わせて感謝です。

『⇒端的で深い内容の記事で何も付け足す必要が無い。』=深く感動的な名社説ー今朝の東京新聞ー破れる前に目覚めよ。ー「思索の日記」





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福嶋浩彦市長の転換点=原点。 ルビコン川を渡った1988年6月

2006-02-08 | 恋知(哲学)


以下は、松戸市の市民団体(松戸市民ネットワーク)からの依頼で書いたものです(一部加筆)。現・我孫子市長の福嶋浩彦の政治思想と武田の哲学(民知という発想による「恋知」)との関係についてです。


 豊かな主観性を! 発想の転換ー福嶋浩彦の転換点=原点


 まず、皆が自分のありのままの「思い」を肯定し、そこから出発しようではないか。深く豊かな「主観性」を形成しあおうではないか。誰でも自分の頭の外には出られないのだから、絶対的な合意は得られないことを互いに了解しあおうではないか。

 人間・社会問題においては、「客観的な真理」という想定は背理であること。したがって、目指すべきは、原理的にはありえない「正しい」人間や社会とは?を考えるのではなく、「魅力」ある人間や社会とは?を考えること。これが武田の思想ですが、その思想を支える認識論(哲学)の基盤は、解釈し直された「現象学」(最大の功労者は私の旧友・竹田青嗣さん)です。

 1987年の冒頭から始めた「哲研」(哲学研究会)では、従来の客観主義的な思想や哲学(その象徴は社会主義・共産主義)と様式主義=「型」の文化(その象徴は近代天皇制・靖国思想)とは全く次元を異にする「実存論」的な思想とそれを支える「現象学」の探求をその主要テーマとしました。右と左の同時超克を目がけたのです。当時私が師事していた竹内芳郎さん(サルトルやポンティの訳者)の思想を徹底することで「民知」(この造語は後のものですが)をつくろうと苦闘しました。直接体験(内在としての知覚―情感)から出発する哲学、従来の哲学とは次元を異にする哲学ならざる哲学を生むための猛烈!な努力を続けました。

 私の心友、現・我孫子市長の福嶋浩彦(当時33才・我孫子市会議員)は、最初から「哲研」のメンバーでしたが、1988年6月に私の提案により個人紙「緑と市民自治」を発行。我孫子市の全家庭に新聞折込による配布を始めました。福嶋さんと私の二人で作成・編集したそのミニコミ紙の内容は、上記の思想・哲学に基づいたもので、当時まだどこにもなかった「思想」をつくり、それに拠る新しい「実存論に基づく社会運動」を創造しよう!という意気軒昂なものだったのです。

 あえて文学的な言い方をすれば、私は私に閉じ込められているという「絶望」からの出発が、深い地点で、生産性に富む思想の湧出と、人間関係の深化・拡大を可能にしたのです。当時、社会党市議だった現我孫子市長の福嶋さんが依拠していた「社会主義」という体系的な思想から「市民自治」という「民知」に基づく不定形な思想への跳躍が、その後の彼の発展・飛躍を可能にした原動力だと言えましょう。

 「合意」とは得がたいものであること、「客観的な真理」や「絶対的な基準」とは背理であることを互いに自覚しあうことが、非生産的で無用な言葉の応酬や、互いの「真理」の主張による深刻な対立を回避するための基本ルールではないのか?

 こういう当時としては(今でも?)逆転の発想は、人を強くします。自ずと心を鍛えます。しがみつく「学の伝統」や「思想信条」や「権威ある他者」は存在しないわけですから、自他の知恵、生活世界から立ち昇るふつうの知=健康な知だけが頼りであり、それを生かし合う道だけが残されている、ということになります。真理の保持者はいない、という民主制社会の原理=初心を絶えず賦活化させるこの「考え」を貫くことができるか否か?それが核心。

 当時、一人の社会党市議であった福嶋浩彦は、実は、社会党内のルール破り!全戸配布の個人新聞―「緑と市民自治」を出すことで、一人の自立した政治家への道を歩み出したのです。この新聞の発行はその原点です。地域割りして出していた「社会新報・福嶋浩彦版」を廃止し、市内全域に配布する個人新聞を出すということは、当時どれほどの勇気を必要としたか?は、今では想像し難いことでしょう。

 最後の確認、「青刷り」を前にして、柏市の岡田印刷・待合室で再び悩む彼の姿は、今でも鮮明に脳裏に焼きついています。「もし、社会党内で困った事態になれば、私が責任をもって彼らを説得する。私が強引に全戸配布を決めたのだから。」という悪魔(笑)武田の断固たる囁き?で、社会党市議・福嶋浩彦は、ルビコン川を渡ったのでした。1988年6月のことでした。


武田康弘


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深く感動的な名社説ー今朝の東京新聞ー破れる前に目覚めよ。

2006-02-05 | 書評

戦艦「大和」に散った人たちの悲痛な叫び声が聞こえます。

「負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。敗れて目覚める、それ以外に日本はどうして救われるか。今目覚めずしていつ救われるのか・・」(臼淵磐大尉)

という書き出しで始まる今日の東京新聞の社説は、頭脳を感動させることで、涙さえさそう見事な社説です。

昭和初期、革新官僚と呼ばれた人たちが日本を次第に泥沼に引きずりこんでいった歴史の真実を思い起こし、改憲・改革の集団催眠からさめ、「今度こそ破れる前に目覚めよ」の声を聴こなければ、とい結語に至る「論説」をぜひご覧下さい。

ココをクリックすれば出ます。


武田康弘


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体力・学力低下の深因は、こども囲い込み運動にある(付・平野さん、色平さんのメール)

2006-02-04 | 教育

1970年代初頭、学生運動終結後に、
自民党文教族と文部官僚は、徹底してこどもたちの管理に乗り出しました。
こどもの自発性を封じ込める三点セット
? 長時間の運動部活動
? 管理主義の校則
? 受験主義の勉学です。
これを私は、こども「囲い込み」運動と呼びます。
左派もこの管理化には抵抗せず、彼らの「理論の中」にこどもを閉じ込めたのです。

ありのままの元気横溢な子どもの姿は次第に見ることができなくなりました。
それは意図的な「囲い込み」運動の成果であり、自然な成り行きなどではありません。まことしやかに囁かれるコンピューターゲームの普及などとは無関係です。
こどもたちの「自由」は意図的に消去されたのです。
管理者たちは、「集団同調」の圧力を作り出すことで、個人の自由を盗んだのです。

体力の低下も、学力の低下も、この管理化―「囲い込み」運動の結果です。
責任が政府と文部官僚にあることは明白です。三十数年前からの保守主義の見事な!「成果」だ、と皮肉を込めて言いましょう。
スポーツ部活動、学外の子どもたちの自由な運動ーあそびもまた大人の統制化におく「スポーツクラブ」。「あそび」クリックが奪われ、単一のスポーツ競技をさせられることで、総合的な体力は落ちていきました。
受験第一の効率主義は、自分で考え出す面白さを奪い、底力のない上っ面な知性を生みました。なぜ?どうして?何のため?が奪われ、技術主義的な知がもてはやされれば、勉学に内的な意味や面白みを感じることは不可能です。

競技主義のスポーツ訓練が「体力」を奪い、技術主義の効率主義が「頭脳」を奪ったのです。大きな悦び、面白み、ワクワク・ドキドキの自分からする体験が奪われれば、人間の生の力-人間力は落ちていきます。さまざまな物質的条件が整えられても、自由が奪われれば、人間は死ぬのです。後にはただの事実としての人=「事実人」(フッサール)しか残りません。
このひどい、あまりに愚かな政策の立案者(共同正犯)は、一体どのように責任をとるのでしょうか?
偽装・偽造建築程度の問題ではありません。人間の活力根絶やしの「根源悪」を生み出した管理主義=こども「囲い込み」運動を早急に改めなければ、未来はありません。

おどけ・ふざけ・悪さ(クリック)の上にしか、未来は築けないのです。これは原理です。

武田康弘


以下は、「公共哲学ML」内でのメール交歓です。

武田さん みなさん 平野慶次@京都です。

 今の子どもらに起きている変化は、もう既に大人になっている人にも起きていると感じています。
 新人類なんて言われた来た人たちがもう既に40歳代です。マニュアル世代もそろそろ40歳代です。
 つい先頃、京都で中学校教師をしていた友人が言ってましたが、「最近の教師は何でもできるのに言われないことはしない。」と。これが、今の「でもしか先生」です。
 そんな教師の指導によって良い影響があるとすれば反面教師ってことしかないでしょうね。
 特に公立中学校は、みんな揃っててな掛け声によって更なる同調圧力が高まってい
ます。
 実は今我が家にも「不登校」のレッテルを戴いているのが一人います。中学校3年
です。14歳と言うと、人生の重荷を一度降ろす時期です。感受性豊かな息子は、徹
底的にさせられる勉強を避けています。
 このレッテル貼りをするまでは、毎日のように電話と訪問がありました。仲の良い
クラスメートの派遣もありました。一度レッテルが貼られると週に一度のアクセスに
なりました。とてもデジタルな対応ですね。
 息子に関しては、これからどうなるのか見当もつかないですが、愉しみです。
 「囲い込み」については、似たような感覚です。更に言い進めるなら、「思考の時
間の剥奪」でしょうね。運動系のクラブ浸けにし、余計なことを考える気力も体力も
奪います。文系クラブでも似たような忙しさに浸らせます。

 ではでは

平野さんの専攻は数学で、「ホリスティク教育」の推進者の一人です
―――――――――――――――――――――――――――――――
平野様。皆様。
武田です。

「今の子どもらに起きている変化は、もう既に大人になっている人にも起きていると感じています。
新人類なんて言われた来た人たちがもう既に40代です。マニュアル世代もそろそろ40歳代です。」(平野)

全く同感です。
構造欠陥人間が構造欠陥社会をつくっています。不定形なものをそのまま掴む、という深い力がなく、マニュアルがないと何もできない頭の硬い人間は、「管理社会」でなければ生きられないようです。
カタログで商品を選ぶがごとく、右のマニュアルか?左のマニュアルか?西洋風のマニュアルか?和風のマニュアルか?はたまた第三のマニュアルか?(笑)
どれにしようかな、と思案!?するわけです。三十数年間もの「囲い込み・思考消去」の集団同調主義教育は、自己決定するとはどういうことかが分からない人間だけをつくり出してしまいました。

硬い岩盤の下を支えるのは流動物だ、ということが分からない硬直した精神では何事もなしえませんね。
ここからいろいろ書きたいのですが、もう遅いので今日はここまでにします。
では、また。
武田。
―――――――――――――――――――――――――――――――
(色平哲郎さんから)

「感受性豊かな息子は、徹底的にさせられる勉強を避けています。」(平野)

いやーっ、「させられる勉強」、、、
レジスタンスは必要ですよね!
私の場合、小学校2年で、九九を覚えること、漢字の書き取り、の二つにレジスタンスして、「お宅のお子さん、特殊学級、いかがですか?」と担任の先生に言われちゃったのよ、と母が語っております
今も、九九は半分しか言えないし、漢字も中途半端で、かっこ悪い、、、でも現実にはほとんど困っておりません。

信州・佐久にて いろひら拝

色平さんは、医師で、いろいろな社会活動もしている人です

―――――――――――――――――――――――――――――――
武田です。

レジスタンスは必要ですよね!(いろひら)

そうです!!
盗まれ、消去された「自由」を取り戻し、さらに新たな「自由」を生み出すために、徹底した「非暴力不服従」のレジスタンスを日本中で巻き起こしたいですね。
子どもの心を失わない大人と子ども自身との「連帯」で。




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アメリカ軍と自衛隊の共同訓練ー暴力の自己増殖、その根を絶とう!

2006-02-01 | 社会思想

いざという時のため、という理屈でアメリカ軍と自衛隊の共同の軍事訓練が始まりました。
中国が仮想敵国だそうです。
中国が日本に攻めてくる!?そんなことを本気で考えている人がいるなら「病気」でしかありませんが、
実はそれがウソだということは、当事者たちも分かっているのでしょう。
軍事力には、強烈な自己保存、自己拡張の「本能」があります。
お金と同じです。それ自体が自己目的化するのです。
明瞭な意志、その「力」をコントロールする健全な思想のパワーが弱まれば、ただちに増殖を始めてしまいます。

極めて分かりのよい直接的な力―単純な暴力という力で問題を解決し(もちろん解決はしませんが)、己の優越を示すというのは、男が金や暴力で女を支配するという発想や、東大だから一番偉い!という発想と同じです。
こういう不幸を呼ぶ不毛な発想を断つのは、とてもやっかいです。
文明は「力の論理」に乗って発展してきたわけで、それを覆すためには、人間の生きることーその意味と価値に対する見方をおおもとから変えなくてはなりません。

多くの人がエロース豊かな生を生きるためには、その「力」の論理を支えている「所有」に価値を置く見方の変更が必要です。知識・履歴・財産の所有を追いかける人生から、存在そのものの魅力を広げる生き方への転換です。( 「主観を消去する日本というシステム」クリック)私たちの「哲学の会」―それが発展した「民知の会」を支える中心理念は、『所有から存在へ』なのですが、それを生き方のエロース革命と呼んでいます。

アメリカも世界中から嫌われる露骨な「力」の論理から、柔らかな共生の論理へ転換する必要がありますが、相当に困難な話です。軍事力の維持を自己目的化し、そのためにさまざまな「脅威」を意図的に作り上げる政策を転換するためには、アメリカ人の生の実存的回心が必要だからです。

私たちも日本人という枠組みを越えて、ひとりの人間としてどう考え、生きるのがよいか?というおおきなスケールで物事を捉えたいと思います。囚われのない普遍性の強い見方ができれば、皆の「得」になるのですから。
中国・韓国とのダイナミックで生産的な関係の構築は、日本とアジアの発展と世界平和のために何よりも大切なもの。私はそう確信します。
為にする宣伝、扇情的な言説(石原慎太郎のような)に惑わされるのは、誰にとっても「損」なことです。

武田康弘


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