昨年同様、大晦日の14時より、拙宅で「音楽を聴く会」をしますので、
わたしの友人のみなさま、よろしければ、どうぞ。
松橋桂子さんや吉田まどかさんに、「奏者の心をレントゲンのように透視する」(笑)と評されたオーディオでお楽しみください。
武田康弘
昨年同様、大晦日の14時より、拙宅で「音楽を聴く会」をしますので、
わたしの友人のみなさま、よろしければ、どうぞ。
松橋桂子さんや吉田まどかさんに、「奏者の心をレントゲンのように透視する」(笑)と評されたオーディオでお楽しみください。
武田康弘
村川堅固、堅太郎
ギリシア史を中心とした西洋古代史の日本のパイオニアである村川堅固は、白樺派の柳宗悦(むねよし)・兼子(かねこ)と同じく、嘉納治五郎 かのうじごろう(哲学・倫理学、教育者でいくつもの学校の校長、講道館の創設者、柳宗悦の叔父)に惹かれて我孫子の手賀沼湖畔に別荘を構えました。我孫子に集結した白樺派と時代も同じです。
息子の堅太郎も、父と同じ道を歩み(堅固は堅太郎に中国史をすすめたようですが、地中海世界に憧れた堅太郎は、アテナイの研究を中心に西洋古代史を探求)、日本を代表する世界的な学者となりました。
キリスト教誕生以前のアテナイの民主政とギリシア文化に倣った初期ローマは、キリスト教化された後の世界とは大きく異なります。村川堅固は、実証主義の学者でしたので文芸と思想の「白樺運動」には関わりませんでしたが、白樺派の面々も古代ギリシアへの共感をもっていましたので、そこに共通する世界を感じます。村川邸には、白樺派の同伴者バーナード・リーチがデザインし、佐藤鷹蔵(我孫子に住む「宮大工」でしたが、元号を使わず「西暦」で通した)が造った椅子があり、今も邸内に展示されています。
また、堅固は、1920年代(大正末~昭和初期)に計画された政府=農林省の手賀沼干拓計画に反対して、師の嘉納治五郎や杉村楚人冠すぎむらそじんかん(国際的ジャーナリスト・朝日新聞論説委員・堺利彦の「平民新聞」を支持し執筆)らと「手賀沼保勝会」を立ち上げて干拓を阻止しましたが、これは当時としては画期的な市民運動であり、アテナイの直接民主政の研究者にふさわしい行動でした。
堅太郎は、父を受け、世界的な古代史家(ペリクレスによるアテナイの民主政を核とする古代ギリシア史家)となりましたが、その思いは、以下の「アテナイ人の国制」(岩波文庫・1980年初版)のまえがきに明瞭でしょう。
「・・・・・・・・・・・・・・・・
一口に国家といっても、日本の小さな県くらいの広がりきりなかった古代アテナイと一億を超す人口を擁する巨大な官僚王国の現代の我が国とではその隔絶はあまりにも大きいように見える。
しかし市民参加による民主主義、情報の公開、市民による行政の監視、地方への分権等々を主張する声が高まっている今日、直接民主政の典型ともいうべき古代アテナイ人の国制を顧みることも無意味ではあるまい。
その成立の史実、また機構、運営の枝葉末節については専門家の間に未だ定説のない場合が少なくない。読者はよろしくそれらの些事にこだわることなく、今日的な問題意識に立って本文を味読していただきたい。
そこに展開するアテナイ人の発想、試行錯誤の数々は二千年を超す歳月のひらきや社会体制のちがいにも拘わらず、今日の我々にも示唆するところが少なくないであろう。」
1980年1月 村川堅太郎
(注)この岩波文庫は、発見されたアリストテレスの論考を堅太郎が翻訳したもので、学術書です。文庫版としたのは、アテナイの民主政がもつ現代性を鑑みてのこと。
また、堅太郎は、教え子の長谷川博隆・高橋秀との共著「ギリシア・ローマの盛衰」(講談社学術文庫1993年刊・元は「古典古代の市民たち」文芸春秋刊)の冒頭で、次のように述べています。
「18世紀の末に古典的な市民革命といわれるフランス大革命がおこった。フランス市民たちにはその間を通してローマ共和政期の古代市民社会へのあこがれの風潮が流れている。・・・・
近代の市民社会の誕生の時代に、人々が二千年の昔にさかのぼって、いまひとつの市民の社会をかえりみ、ときには理想化してそれに心酔したのは不思議ではない。そこには世界史の異例ともいうべきはっきりと個性的な市民の社会があった。ローマにさきだつギリシアのポリスの社会と共和制期のローマ社会とは、その間の大きな差異にもかかわらず、古典古代の都市国家の社会としての共通性をもち、われわれはそこの市民に、古典古代の市民たちとよびうる共通の人間類型をみることができる。
・・・・・・・・
ギリシアの市民たちのあいだに生まれた文化はローマの帝国の各地に普及し、ヨーロッパ文明のひとつの源流となったが・・・・・それが古典古代末期ともなれば、それはもはや市民ではなく臣民の世界であり、古代市民の考え方とはまさに対立するキリスト教が、苦難の道をへてついに最後の勝利を獲得する。それはまた帝国が衰退の道をたどった時代でもあった。」
堅太郎は、このように、近代民主政をはじめに生み出したキリスト教の清教徒思想に基づく革命(その理論をつくったジョン・ロック)とは異なる古典古代の直接民主政に着目していたのでした。
これは現代の課題に応える実に優れた見方と言える、とわたしは思います。
※拙宅向いの旧村川別荘の写真は、fbの白樺教育館のページに発表していますのでご覧ください(下線をクリック)。
武田康弘
わたしの手元にある村川堅固と堅太郎の本 拙宅から見る旧村川別荘の紅葉と手賀沼に沈む夕日
昨日は、サントリーホールで、ヘンデルの「メサイア」全曲を堪能。午後3時から6時まで。演奏は、鈴木雅明と彼がつくったバッハコレギウムジャパン。CDで彼らのバッハや鈴木のオルガンを聴いていたが、演奏会ははじめて。
優れた演奏ではあったが、大ホールで、管弦楽18名+合唱18名では、「メサイア」としては編成が小さすぎ。やはりダイナミックレンジが足りないのは大きなマイナスである。
欧米での高評価は、彼らにない日本的な細やかな美しさゆえであることがよく分かるが、ダイナミックな力や大きさ、強靭さがないと、面白さに欠ける。バッハのカンカータ専門から脱皮し、レパートリーを広げて発展させるためには、いまの一管から二管編成に拡大する必要があると思う。
昨晩の演奏のよさは、ソリストの力量に支えられたもの。
あまりに見事なチャールズ・ダニエルズのテノール(英国)。語る力に満ち、頭の芯まで染み通る声と音楽の内容を伝える強靭な歌唱には、もう全身が痺れて、ただ感動あるのみ。
自信に溢れ、パワフルで圧倒的な力に満ちたバスは、ロデリック・ウイリアムズ(英国)。朗々とした美声と低音の魅力、まるで辺りを払うかのような堂々たる歌唱は、実に気持ち良い。
第一ソプラノのクリステン・ウィットマー(韓・米)は、まだ若いが、女性らしい色香と甘さと優しみのある歌唱で好感。声量も豊か。第二ソプラノの松井亜希は、大ホールでは無理、気の毒。ウィットマーとの差が歴然。
カウンターテナーの クリント・ファン・デア・リンデ(英)もよいが、ダニエルズとウイリアムズの前では霞む。彼らに刺激されて今後どう発展するか。
鈴木雅明は、もう楽しくてしかたないという感じで指揮をしていて、素晴らしい! 日本だけにいたのでは、彼のような生気は出ない。「個人消去システム」の日本では、個人は輝いたままでは生きられないーそれを変えるのがわたしのライフワーク、話がズレました(笑)。
ズレたついでに、ですが、
歌手に限らず、声を使う職業の人は、「平泳ぎ」でのスイミングが大切(大胸筋をつける)。また、肺活量を増やしパワーをつけるためには息継ぎなしで泳ぐこと。それから、腕立て、腹筋、スクワットは毎日やらないといけません。
日本人が周りの目を気にしてチマチマ生き、自己主張が弱いのは、型ハマり・紋切り型の「ダメ教育」と共に、全身の筋力と肺活量の小ささという肉体に原因があります。日々、楽しみながら、自分流の基礎体力アップに取り組まないと、いつまでも誰かに・何かに「支配」されたままの人生です。チェンジしないとつまりません。
武田康弘
勝負の面白さも分かります。
独特の緊張感も分かります。
でも、わたしは、内的な充実、深い納得、内から湧き出る悦びの世界にはるかに大きな価値を感じます。
勝負にたずさわる人や、勝負好きの人は、「勝負の人生」の充実があるでしょう。分かりますし、それはそれでよいでしょう。
けれど、わたしは、わたしの内から立ち昇る意味充実の日々を送ります。
静かに広がる楽しみの世界を生き、それを生徒や友人たちに伝える生き方をします。
外的な刺激を求めるのではなく、深みのある豊かで暖かな人生を送ります。
芸能とスポーツ勝負ばかりを派手に伝えるマスコミ人は、とても偏った人生観をもっている、わたしはそう思います。
「私」の沈思=精神の充実に応える世界は、何より人間味に溢れた優れた演奏による音楽です。コマーシャリズムや権威主義(N響がその象徴)とはまったく無縁の音楽です。エロース溢れる豊かな音楽に言葉はいりません。お喋り人よ、黙れ! 小賢しい批評家よ、黙れ!です。
まあ、音楽の世界も現代ではコンクール主義で、勝ち負けの人が大勢入り込んではいますが、そんなものとは無縁の「ほんもの」を味わえばよい、わけです。「有名人」を追いかけるのでは、勝ち負け世界の住人とまったく同じです。
いま、レナード・バーンスタインが指揮するマーラー3番の終楽章が終わりました。全身に鳥肌が立っています。なんという愛の歌か!この世には、これほどまでに美しい音楽ー言葉にならぬ深い感動があります。
(注)本題とはズレますが、写真のバーンスタインのマーラー交響曲全種(たぶんはじめてのマーラー全集だった)は、分かりよく若々しい演奏ですが、必ずしも最高水準の演奏とは言えません。
クレンペラー盤の形而上的深さの音楽を知っている方が聞けば、、軽いな、とか、アメリカの限界、とかと思われるでしょうし、その後に出たよい演奏の前には色あせてしまっているものもあります。
総じて感情が先走っている、と言えます。ただ、3番の終楽章の「愛」は、バーンスタインにピッタリ合っているのです。感動美!
武田康弘
以下は、以前にこのblogで紹介した明仁さんと美智子さんの発言ですが、整理しまとめられていますので、もう一度、記事にします。
安倍晋三ら政治ウヨクが天皇制を称賛するのは、天皇制というシステムが、自分たちの【醜い権力を《聖化》するアイテム】として利用できるからに過ぎません。天皇や皇后個人などどうでもよい、という厚顔無恥・夜郎自大が彼らの正体なのです。
明治の伊藤博文や山県有朋が、まだ中学生(今の学制では)に過ぎなかった睦仁を、京都から江戸城に連れてきて「明治天皇」として仕立て、神聖化(現人神)し、自からの政治権力を絶対化する道具としたことでも分かるように、です。安倍晋三は、彼ら長州藩の末裔なのです。
人権はく奪の象徴が皇族の人たちです。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員ー哲学講師)
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以下、LITERA(本と雑誌の知を再発見)2014年11月5日より転写。
http://lite-ra.com/i/2014/11/post-605-entry.html
それは、安倍首相に対して発せられたとしか思えないものだった。10月20日の誕生日を前にした文書コメントで、美智子皇后が「来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい」という質問に、こう答えたのだ。
「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」
実はこの皇后発言の2ヶ月前、安倍首相がA級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを送っていたことが報道されていた。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、安倍首相は戦犯たちを「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞賛したという。
皇后の言葉はこうしたタイミングで出てきたものだ。しかも、それは記者からA級戦犯をどう思うかと質問されたわけではない。自らA級戦犯の話題を持ち出し、その責任の大きさについて言及したのである。
「天皇と皇后両陛下は、安倍政権の改憲、右傾化の動きに相当な危機感をもたれている」
宮内庁記者や皇室関係者の間では少し前からこんな見方が広がっていた。天皇・皇后は、即位した直後からリベラルな考えをもっているといわれていたが、それでも以前は、一言か二言、憲法や平和、民主主義についてふれる程度だった。それが、第二次安倍政権が発足し、改憲の動きが本格化してから、かなり具体的で踏み込んだ護憲発言が聞かれるようになったのだ。
たとえば、昨年、天皇は誕生日に際した記者会見で、記者の「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事を」という質問にこう答えている。
「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
日本国憲法を「平和と民主主義を守るべき、大切なもの」と最大限に評価した上で、わざわざ「知日派の米国人の協力」に言及し、「米国による押しつけ憲法」という右派の批判を牽制するような発言をしたのである。
また、美智子皇后は昨年の誕生日にも、憲法をめぐってかなり踏み込んだ発言をしている。この1年で印象に残った出来事について聞かれた際、皇后は
「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます」
としたうえで、以前、あきる野市五日市の郷土館で「五日市憲法草案」を見た時の思い出を以下のように語り始めたのだ。
「明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」
日本国憲法と同様の理念をもった憲法が日本でもつくられていたことを強調し、基本的人権の尊重や法の下の平等、言論の自由、信教の自由などが、けっして右派の言うような「占領軍の押しつけ」などでないことを示唆したのである。
そして、今回のA級戦犯発言──。これはどう考えても偶然ではないだろう。この期に及んでA級戦犯を英雄視する首相に対して、「責任をとることの意味を考えなさい」と諭したとも受け取れる言葉だ。
もっとも、安倍首相やそれを支える右派勢力にこうした天皇・皇后の発言を真摯に受けとめようという気配はまったくない。それどころか、首相の周辺からは、天皇に対する批判発言までが飛び出している。
今年4月、安倍政権下で教育再生実行会議委員をつとめるなど、安倍首相のブレーンとして知られる憲法学者の八木秀次が「正論」(産業経済新聞社)5月号で「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」という文章を発表。そこで、天皇・皇后に安倍内閣の批判をするな、と説教をしたのである。
「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない」
「宮内庁のマネジメントはどうなっているのか」
この憲法学者は、日本国憲法第99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という条文があることを知らないらしい。そもそも現天皇は戦後憲法によって天皇に即位したのであり、自己の立脚基盤を憲法におくことは当然なのだ。象徴天皇制とは戦後レジームの象徴であり、だからこそ天皇と皇后は常に戦後憲法理念である平和と民主主義の擁護を語ってきた。そういう意味では、先に喧嘩を売ったのは、その戦後天皇制の立脚点をはずしにかかった安倍政権のほうなのだ。
だが、彼らにこんな理屈は通用しない。ネット上では安倍首相支持者が、護憲発言を繰り返す天皇・皇后に対して「在日認定」という表現で非難するケースまで出てきている。
これまで、安倍首相が議連会長をつとめる神道政治連盟はじめ、右派勢力は天皇を再び国家元首にかつぎあげることを公言し、天皇を中心とした祭政一致国家の復活を声高に叫んできた。ところが、天皇が護憲や平和、民主主義を口にし始めたとたん、その存在を敵視し、天皇を棚上げするかたちで国家主義政策を進め始めたのだ。現在の天皇・皇后はむしろ、政権に疎んじられ、完全に孤立しているようにすら見える。
しかも、こうした状況に拍車をかけているのが、マスコミの対応だ。新聞、テレビはオランダ王室との華やかな宮中晩餐会などを大々的に報道する一方で、天皇や皇后のこうした憲法発言はほとんど取り上げようとしない。
たとえば、天皇が昨年の誕生日会見で、「平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り〜」と憲法に言及した部分について、NHKは安倍政権に配慮して、完全に削除してしまった。また、今年の美智子皇后の「A級戦犯」発言についても、この部分を大きく取り上げた新聞、テレビは皆無に近かった。全国紙の政治部記者がその理由をこう解説する。
「読売、産経、NHKは安倍政権の広報機関のようなものですから、改憲に水を差すような発言は報道しない。一方、朝日などの左派系メディアは今、弱っていますから、それを取り上げることで『天皇の政治利用だ!』 と言われるのを恐れて腰が引けている。結局、天皇陛下や皇后陛下がどんなに護憲発言をしても、国民には伝わらない、そういう状況になっています」
この先、おそらく天皇と皇后はますます孤立を深め、何を話しても政権から無視される状態になっていくだろう。だが、そのことは、天皇が政治利用される危険性がなくなるということとイコールではない。たとえば、代替わりをして、次の天皇や皇后が自分たちの意に沿う発言をしてくれるとなれば、改憲をめざす国家主義的勢力は確実に「天皇のお言葉を聞け」と政治利用に乗り出すはずだ。
実際、安倍政権と一部の保守勢力はすでに皇太子、雅子妃夫妻を今の天皇、皇后とは逆の方向に導くべく動き始めているという見方もある。次回はその辺りについても検証してみたい。
http://lite-ra.com/i/2014/11/post-605-entry.html
今朝の「東京新聞」のトップ記事です。
政府=防衛省は、民間に資金援助をして、武器を積極的に外国に売り、その武器を相手国が使いこなせるように訓練や修繕・管理も行うことを決めたとのことです。
戦後の平和国家は、「安倍首相とその一味」によって終らされたわけですが、こんなことが許されていいはずはありません。
わたしたち市民は、平和国家を守るために、創意工夫し、さまざまな手段で、正義を貫きたいと思います。
良識をもつ市民は、どんど声をあげなくては!!
それにしても、海外の戦争のための武器をつくるお父さんをもつ妻や子は、何を思うでしょうか? その父は、武器輸出をする職業=防衛省や武器製造会社に務めることに誇りを持てるのでしょうか? 女性や子供を含む他国の人を殺す機器をつくり、売ることをする人は、自からの人生を肯定できるのでしょうか?
罪をつくる政府、防衛省の役人や、武器輸出の企業に勤める人々よ!
こんなことをして心が痛まないのか? それとも、そもそも心=内面世界は持ち合わせていないのか?
「戦前の国家主義」を反省しない安倍晋三とその一味により、日本は、坂を転げ落ちて行きます。ストップ・ザ・アベ! わたしたち国民は、ウヨク思想で身を固める〈チーム安倍〉の策謀に明白に「ノー」を突きつけましょう!! わたしは、強い公共的な怒りを覚えます。
武田康弘(元、参議院行政監視員会調査室客員調査員・哲学講師)
比例区を見ると分かるように、自民党への投票者は、わずか、3人に1人(33.1パーセント)。
安倍自民党の支持者は、有権者の6人に1人(投票率5割なので)に過ぎません。
これで、圧勝!?!? 信任を得た!?!?
不平等な選出=最高裁が違憲状態と判決を出しても、そのまま選挙を繰り返す。なんのこっちゃです。わが日本は、インチキな「民主?国家」に なってしまいますね。
とにかく、安倍自民党を国民は支持したわけではない、まして、圧勝などしていない、それだけは間違いありません。
マスコミは、誘導による国民の洗脳をやめてください。ここは、北朝鮮ではないのですから。
武田康弘
以下は、今朝の『東京新聞』二面です。
主権は「官僚政府」にあり、とどのつまりは、わたしにある、というわけですが、これほど夜郎自大で危険極まる態度の首相を許してよいはずはありません。
日本の悪しき歴史をかえましょう~~~。市民精神をもつわたしたちの手で。手段はいろいろあります。
公平、公正、差別なく、人間性豊かに生きるわれわれ市民は、国家主義者=「支配者がいる国」への転落を許さず、明るくおおらか、のびのび自由、楽しい公共社会をつくりたいもの。
主権は、われわれ市民にある。この民主政=現憲法の大原則をゆがめたら、大元から崩れて、すべておしまいです。一人ひとりがイキイキできる思想をつくり、現実化するのです。
戦後、アメリカと旧日本の支配層が手を組んでつくった「民の支配」に終止符を打たないと、わが日本人は、永遠に浮かばれません。
変革は、沖縄から始まるでしょう。そして、東へ東へ。
武田康弘
すでによく知られているように、昭和天皇の裕仁と米軍のマッカーサーによる握手ー密約により、日本人全体の懐柔は成功し、戦後社会がつくられたわけですが、
それにより切り捨てられた沖縄(昭和天皇の申し出によりアメリカに譲渡された)は、戦後社会の矛盾を象徴する存在となりました。言語に絶するアメリカ軍の沖縄支配はどなたもご存知の通りです。
その沖縄で、自民党候補全敗という事態(自民党は超多額の補助金を出すと約束したにも関わらず)は、歴史家のトインビーの言う通り、周辺革命の始まりです(大変革は、必ず周辺から中心へ)。
【市民のみが主権者である】という民主政の原理が、ウヨクな国家主義=天皇制度を頂く官僚政府が市民の上に立つという政治を打ち破る時代への予兆を感じる選挙結果です。
(※いま、天皇や皇后など皇族の役目を果たす人間は、明治政府がつくった近代天皇制の下で、人権・人間性を奪われています。)
その時に備えて、わたしたち良識ある市民は、明晰な認識をもとうではありませんか。社会を楽しく健全なものにするのには、一人ひとりが主役にならねばなりませんので。
とてもよい本、目が覚める良書が二冊出ていますので、再度ご紹介します。必読です。1 矢部さんの本、 2 泥さんの本
以下は、東京新聞の朝刊です。
連日、一万人以上の方に見て頂き、とっても感謝です。
引き続き、ご愛読を!!
2014.12.13(土) | 22273 | PV | 12189 | IP | 10 位 / | 2102880ブログ |
2014.12.12(金) | 26549 | PV | 16216 | IP | 7 位 / | 2102580ブログ |
2014.12.11(木) | 25587 | PV | 16595 | IP | 6 位 / | 2102237ブログ |
2014.12.10(水) | 22576 | PV | 14483 | IP | 6 位 / | 2101892ブログ |
2014.12.09(火) | 19510 | PV | 12388 | IP | 9 位 / | 2101598ブログ |
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以下は、昼間、facebookに出したものです。
以下は、まさに、不正義の象徴です。
政権党が、権力ををかさに圧力をかけるとは、何事か!です。
わたしは、強い公共的怒りを覚えます。
自民党の悪行を、市民精神に富む一個人として、断固として許すわけにはいきません。
私は、彼らとの対決はおおいに望むところです。いつでも相手になろうではありませんか!
民主と自由と正義のために。
武田康弘(元、参議院行政監視員会調査室客員調査員・哲学講師)
嘉田学長の民主支援に自民抗議 大学反論「信条の自由」
京都新聞 12月12日(金)8時38分配信
滋賀県の前知事でびわこ成蹊スポーツ大(大津市)の嘉田由紀子学長が、衆院選で民主党の候補者を支援していることに対し、自民党滋賀県連が「教育の政治的中立を大きく損なう」と抗議する文書を同大学の運営法人に送り、法人が「勤務時間外の活動は制限されない」と文書で反論していたことが11日、分かった。
自民県連は8日付で学校法人大阪成蹊学園の石井茂理事長に宛てた文書で、多額の税金から私学振興の補助金が出ているとした上で「特定の政党、候補を応援するのは公平中立であるべき学長のとるべき姿とは考えられない」と批判。 「しかるべき対応を取らざるを得ない場合も生じる」「政権与党としても大きな危惧を抱かざるを得ない」として、嘉田氏に「節度ある行動」を促すよう求めた。
一方、同法人側は10日に同県連の佐野高典幹事長宛てに反論文書を送付。学内での政治活動や地位を利用した活動は制限しているが、 「勤務時間外に個人の立場で憲法に保障される思想・信条の自由に基づく行動まで制限されるものでない」と説明した。また自民党参院議員も私立大学の法人理事長を兼務していた例があると指摘した。
佐野幹事長は「街頭で選挙活動に動いたので文書を送った。理事長の回答に『節度ある行動について学長に伝えた』とあり、今後の対応を見守る」としている。嘉田氏は「日本や滋賀県のためになる政策が進むよう、個人の立場で活動している。政治活動の自由を制限する不当で過剰な介入だ」と話している。
主権者は国民であり、主権者の「一般意思」を代行するのが民主政における政治家です。これは原理中の原理であり、異論反論の余地がない話。
首相とは、その主権者の意思を実行する最高責任者です。
もしも、首相の個人的な想念、思想や信念により政治を行うことがあれば、民主政ではなく、独裁政治に陥ります。
選挙で選ぶのは、上記の民主政の大原則を踏まえた上での政策選択ですが、いまの状況は、そうではなく、極めて危うい事態です。憲法を内閣の一存で解釈替えし海外への武力派兵を可能とし、大多数の法曹関係者が危惧を抱くスパイ法を議員の数で通し施行し、武器輸出禁止の日本政治の大原則も閣議で瞬時に変えてしまう。戦前の「天皇現人神」思想に則る靖国神社を首相が参拝することで、民主政の原則を破ると同時に、被害国の怒りや西側諸国からの顰蹙を買い関係を悪化させるーーーーまったく公共性をもちません。
その見本が、アベノミクスという言葉です。
自分の名前をつけた経済政策を争点にする戦略で、上記の民主政の原則に反する行為を話題にすらさせない、というわけですが、ここで「目くらまし」として使われている、自分の氏を冠したアベノミクスという政策名(ただのキャッチコピーに過ぎない軽い言葉ですが、内実はすでに終わっています)により、公共性そのものであるはずの選挙を行う、というのですから、評しようもない話です。
ただただ《小児病》と呼ぶ他はありませんが、《自己想念の絶対化》という彼の人間性を明瞭に表すのが、自分の名をつけた政策名であるわけです。公共世界の私物化の見本といえるでしょう。
わたしは、どんなに不利な状況にあろうとも、そうだからこそ必ず選挙に行き、この流れを批判する人と政党に一票を投じます。戦前社会への逆戻りは誰のためにもなりません。
武田康弘 (2014年11月22日・62歳)
最もよい人=魅力的な人と は、
自分を愛し、自分の心を大事に生きる人です。
ほんとうに人を愛することができるのは、 自分を大事にする人だけだからです。
自分の心を大事にできない人は、
心が発達しないので、人を愛することがで きません。
自分の心の世界が貧弱だと、
その時々の気分や都合で人を振り回す自分 勝手な人=最も悪い人となります。
愛されて育つ子は、自分の心を大事にする人になります。心身全体による愛こそが、道徳の究極の基盤です。
以上は、白樺教育館・ソクラテス教室に貼ってある武田康弘の言葉です。
音楽の演奏をするにも、
教科の授業をするにも、
大事なことは、
わたしが、自分の中に沈潜して、自分をあらわすことではなく、
わたしは、自分に囚われずに、自分を超えて、普遍性をめがけることです。
普遍性を生み出す努力ーわたしの営みの価値は、そこにあるはずです。
わたしの「自分性=個性」とは、普遍性をめがける行為の中に自ずと現れ出るものであり、
わたしが直接に「自分性=個性」を目がければ、その世界は、閉じたものとなります。
したがって、授業をする者も音楽の演奏者も、ことばの最良の意味でエンターテイナーであることが必要です。演奏者が作曲家に成り替わってはダメですし、授業をする教師は、自分を売る(よく見せる)のではなく、システムに従うのでもなく、相手に内容をよく伝えることに没頭しなくてはなりません。
自分が、自分を、と思うのではなく、
内容を豊かに・魅力的に・分明に示す努力に沈潜すること、それにのみ集中し、自分のことは何も考えないこと、それこそが、却ってわたしの自分性=個性を一番よくあらわすことにもなるはずです。なぜなら普遍性の追求とは、その人の個性を通じてしか行えず、一生懸命にそれを求めると、その人の深いよさが自ずと現れ出るからです。
形式を優先させ、外なる価値に従うのではなく、「内的に、内側から、内発的に」というのは、そういう意味です。自分に固執するのとは逆に、自分の心身を普遍性(=深い納得)に向けて羽ばたかせるのです。それが、「外=他者」を気にするという心から、「内=良心」に従う心への転換をもたらし、深い人生・豊かな心・意味の濃い言動を導きます。
他人を神とする(外なる権威に従う)というわが日本人の生き方の根源的反省=回心が必要です。
マレイ・ペライアのピアノを聴いていると、作曲者のつくった楽曲のよさを読み取りそれを音化しようとする誠実さをひしひしと感じます。自分の個性を売るのではなく、聴いている人に、その曲のよさを伝えるための営為です。言葉の最良の意味でのエンターテイナーであること、それは彼が若いころ親交していたホロビッツから受け継いだのでしょうか。
武田康弘
https://www.youtube.com/watch?v=apR1RlYYeh8&sns=fb
日本の若者たち、素晴らしい!!!
希望が広がります。ぜひ、ご覧下さい。
至急、拡散をお願いします。
ラップで民主主義を訴えるデモ!!明日も。