思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

内村航平さんーお菓子大好き、偏食、「栄養学」の常識が覆る!(笑)

2011-10-28 | 社会批評

「圧巻の演技だった。
 先日、東京体育館で行なわれていた体操の世界選手権で、内村航平は個人総合3連覇を達成した。
 史上初の3連覇も見事だが、内容が素晴らしかった。
内村は今、ライバルと言える選手もいないほど突出した位置にいる。」


と報じられ、しなやかで強靭、美しい体操を見せてくれた内村航平さんは、テレビ出演して、驚きの食生活を語りました。

お菓子が大好きで、子どもが食べるようなお菓子をたくさん買い込んで食べている。
かなりの偏食、肉が好きで野菜は嫌い。
一日一食のことも多い。
うーーん、「栄養学」の常識って何なのでしょうね~~(笑)。

彼は、開けっ広げで、自由で、およそ体育会系とは無縁です。
体操選手だった両親は、体操に関して細かいことはなにも言わず、本人の判断に任せてきたとのこと。

スポーツも勉強も様々な活動も趣味も、型ハメせず、その人にあったやりかたで、が一番です。

これは、中日の落合監督も同じですが、ヘタクソな選手だった落合さんは、コーチの言うことを遮って、オレ流の練習を貫いて幾度も三冠王に輝く大選手になりました。監督業もまったくのオレ流で、快挙を上げました。
ただし、オレ流なので、日本のマスコミからは嫌われ者(笑)

人の目を気にし、常識に縛られ、他者の評価に一喜一憂するような人生では面白くないですが、どうもわが日本人はオレ流を貫く人が少ないので、愉悦が広がりません。せっかくの人生、エロース豊かに生きたいものです。


武田康弘
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体験(明証性)から出発する哲学――「具体的経験の哲学」批判Ⅱ――

2011-10-20 | 恋知(哲学)

体験(明証性)から出発する哲学
――「具体的経験の哲学」批判Ⅱ――


わたしは、高校3年生の時、竹内芳郎著の『サルトル哲学序説』に出会い、深い悦びを得ました。それ以降、この意味の塊のような本は、わたしの思想の基点となりました。

しかし、わたしは竹内さんとは異なり、高校・大学時代の一時期を除いてマルクス主義には懐疑的です。巨大理論は生理的に受けつけないからです。わたしにとっては、自らの心身の声に従う生き方(自然・自由・ふつう・健康)以外の生はあり得ませんので、体系的な哲学や社会理論には魅力を感じません。というよりも、そのような理論構築物は、日々を創造しながら生きるこの今の「私」を抑圧する無用の長物としか思えないのです。

1986年に出版された『具体的経験の哲学』(竹内著・岩波書店)は、その標題に惹かれました。わたしは、『サルトル哲学序説』をはじめどのような本を読むときも、自らの体験に照らしてその意味を汲み取るという習慣を持ちますので、「具体的経験」という概念=言葉はわたしにピッタリなのでした。けれども、わたしは、竹内さんの「具体的経験」が「理論を賦活させるために理論のなかに不断に復元されるべき或る種の次元でしかない」(はしがき2ページ)というのには、なにか釈然としないものを感じました。竹内さんは、「自分の具体的経験は、自己異化の作用をはじめから含んでいるからだ」と説明し、それは、「マルクス主義という客観主義的な理論体系と切り結ぶ」ためだと言います。

わたしは、人間の生き方や社会のありようについて考える時、「客観主義的な」思想は成立しないと見ています。それは認識論の原理(現象学)を踏まえれば分かります。もちろん社会の構造的理解は必要であり可能ですが、そこから「よい生き方」や「どのような社会が望ましいか」を導くことは不可能です。よい生を拓くことと、社会の構造的理解や歴史解釈とは、別次元の話ですから。いま私たちがどのように生き、どのような関係をもてば生産的になるかを考えるための条件は、互いの主観性を尊重することにあります。人が内的に通じ合い相互性を得るには、まずは、主観性に徹することが必要です。徹することではじめて意識の地下水脈が通じるのです。だから「民主的倫理」(自然な人間性を肯定する倫理)の基盤は、互いの主観性の肯定・尊重・開発にあると言えるでしょう。

「客観主義的」な考えが有効性をもつのは自然を対象とした学問や技術の分野であり、人間の生き方や社会のありようについて考察するときは、「主観性の知」によらなければならないはず、それがわたしの不動の確信です。右であれ左であれ、「客観的な正しさ」という想念は必ず他者を抑圧し、権威主義・管理主義を招来します。民が主体の民主主義は、互いの自由(主観性)を承認し合うという土台の上に成立するルール社会です。民主主義という社会思想と、民主的な生き方という関係性の倫理は、「主観性の知」にその基盤をもつのです。


さて、いよいよ本題です。

具体的経験には、本を読んだりテレビを見たりという「間接経験」と自分の五感で直接経験する「体験」の双方が含まれますが、わたしは、この両者の違いをよく意識することが重要だと考えてきました。それが、20年前の『竹内芳郎「具体的経験の哲学」批判』6000字(91.10.30)のテーマでした。

今年の『白樺教育館』のパンフレットには、その時に書いたものを簡略化して載せていますので、以下にコピーします。

「情報化された知 と 心身全体での会得」

「活字・音声・映像の溢れるような情報の中で、私たち現代人は、〈情報化された知〉と〈心身全体での会得〉との相違をあまり自覚しなくなっているようです。
このことが、子どもたちの教育の場において深刻な問題を生みだしています。
現代は、受験主義の手法が支配しているために、なまの直接経験をもつ余裕がなく、記号や観念の操作が優先されます。しかし、〈五感〉を使っての認識や思考錯誤がおろそかになると、現実と観念が遊離する結果、自分の力で「意味をつかむ」ことが出来なくなります。
「心身全体による会得」という知の方法を身につけないと、当否を確かめる最終の根拠である内在が希薄化し、生き生きとした現実感が消えるのです。これは、実に恐ろしい現代の病と言えましょう。」

物事の確かめの最終の根拠は、体験=心身全体を用いての確かめ(認識論では「内在」と言う)にありますが、それは「客観的真理」だというのではなく、人間の認識にとってこれ以上は遡れないという意味で、「明証性」が得られるとよびます。

この「明証性」は、よく五感を働かせて確かめる直接経験(体験)がないと得られませんので、情報化された知(活字や映像や人伝ての話し・・)を基にした生き方をしていると、内的な確信はやってきません。内的な確信がなければ人は権威に頼る生き方をするほかなくなりますが、それが現代の専門知の権威による支配(=官僚集団による支配)を導く深因なのです。クリア―な実感、イキイキ・アリアリとした現実感は、知識以前の直接経験(体験)がつくる「明証性」の領域ですので、これが失われれば、人間の自発性・主体性も消えてしまいます。そうなれば、一人ひとりの内的な欲望から出発するまっとうな生は始まらず、外なる規範と要請によって生きる外的人間に陥ります。

現代人が抱く不全感や疎外感は、自分の内側からの声と衝動がないために、何事においても内的な追求ができないところに生じるのですが、心身の奥から湧き上がる内発的な生という基盤が失われてしまうという根源的な不幸は、なまの直接経験の重大性を知らず、記号や観念の操作を優先する小賢しくかつ脆弱な「知」(単なる事実学の総和)から生じているのです。

その意味で受験主義の勉学は、人間性を元から奪い、深い不幸をつくる根源悪と断じるほかありません。「東大病」の克服は必須です。

話を戻しますが、
意識存在である人間が、心身ともに健康に生きるための基盤は、クリア―な実感、イキイキ・アリアリとした現実感をもてることにありますが、それは体験がつくる明証性の領域のことでした。したがって、哲学の土台・基盤とは、「体験」なのです。日々のさまざまな体験を流れゆくままにしないで「私」に根付かせること、体験を意識化する作業は、意識存在である人間がよく生きるための絶対条件です。

哲学的な理論好きが哲学者なのではありません。知識の有無は関係なく、体験をよく省察する人が哲学者なのです。哲学とは絶対的真理を求めることではなく、また、世俗を超越することでもありません。哲学とは、自らの内側から内発的に生きることを可能にする根源知=意味論としての知なのです。その知のためには、体験によって得られた明証性の領域を省察し、同時にそれを吟味する対話が必要です。各自の異なる体験により得られた明証性を示し合うことが、豊かな認識をもたらす条件になります。哲学(人間の生)に客観的真理はありませんから、認識は「正しさ」の追求ではなく、「豊かさ」の追求なのです。目的はよく生きること。イキイキ・アリアリとした現実感の基に、囚われなく、自由に、自然に、健康に、自分自身として内発的に生きることです。

わたしは、竹内芳郎さんのいう【具体的経験の哲学】をさらに還元して、【体験から出発する哲学】(学としての哲学とは異なるほんらいの哲学)を提唱しています。それは、明証性から出発し、明証性に戻る哲学とも言えます。「理論としての哲学」ではなく、「いまを生きる哲学」(日々の体験を哲学する実践)です。


武田康弘




写真は、10月16日 サンシャイン神奈川のレストランで 竹内芳郎さん・87歳(クリックで拡大します)撮影・武田康弘 

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竹内芳郎さんとの白熱の討論会 2011.10.16

2011-10-18 | 恋知(哲学)

日曜日(10月16日)に、竹内芳郎さんが主宰する討論塾(討論に参加する塾員は3名、外部の討論者としてわたしたち白樺同人の3名、竹内さんを含めて計7名)に参加しましたが、20年前の大激論の再現となりました。

NHKの羊頭狗肉のような「白熱教室」ではなく、ほんものの白熱教室!です(笑)。

震えるほどの興奮で声を大にし、鍛え上げた第二次言語(理論言語)で自説を主張する竹内さんと、
それを全身で受け返し、ふつうの言葉で現実的に哲学する営み(柳宗悦の「民芸」思想を一般化したわたしの「民知」)に大なる価値を置くわたしの言説(※注を参照)は、
共に実存・人生をかけた営みゆえに、激しくぶつかるのでした。

まず、はじめは、竹内さんがたえず用いる【超越性の原理】という言葉を巡る激論でした。
わたしは、大多数の人にとって「超越性」とは宗教性を意味する言葉であり、それでは了解は得られないと言い、
みなが言うからという「一般的」な正しさに留まらず、より深い考察をめがける対話は「普遍性」の追求と呼ぶべきであり、「超越性」という言い方はよくないと述べました。
竹内さんや欧米人の多くは、「超越性」と「普遍性」を同じような言葉として用いるが、それでは、宗教(超越性)と哲学(普遍性)は重なってしまいマズイと主張したのでした。

わたしは、これからの新しい思考(哲学ならざる哲学)は、人間存在の対等性に基づくみなの哲学、みなの自由対話であると確信し、大なる価値はその営みにあると思っています。狭いエゴに囚われない普遍性のある思考と対話する能力は、誰でもが持つ先験的な(生まれつき持っている)ものだと確信しています。こどもたちと一緒に生きるとよく分かりますが、自分の利害・損得に囚われない自由対話は、「なんでも話せるザックバランな場」をつくれば自然に生じます。

竹内さんも超越性の原理を説明されるときは、「普遍的な」、と言っていますので、そのまま「普遍性(納得の相互性)を求めよう」とされればよいのではないでしょうか? 目がけるのは、世俗からの超越(竹内)ではなく、納得の相互性(武田)であるはずです。

(※注) 自からを反省したり、現実を明晰に意識化しようとして話される言葉は、たとえ書き言葉ではなくとも第二次言語的性格を持ちますが、わたしは、それを第二次言語として自立させる方向に鍛えるのではなく、生活世界に通用する言葉に深めていく努力が必要だと考えています。そのためには日々の体験を省察する営みが必須です。

以下は、参加された内田卓志さんからのメールの一部です。

「竹内先生のいわれている、超越性原理は、非世俗的な共通了解性(普遍性)を持ったものと考えます。ところが、武田先生は、そのような非世俗ではなく、民知や民芸のように世俗の中から共通了解性を(普遍性)を探求する姿勢のように思います。だから超越性とは、呼ばないのでしょう。結論は、同じなのかもしれませんが、そこへいたる方法が違いますね。竹内先生は、世俗より人類の生きた普遍宗教のような知の累積の方が、批判原理としては有効と考えるのでしょう。」


次は、「具体的経験の哲学」をめぐる白熱ですが、それはまた明日のおたのしみにします。

※写真は、討論会終了後に「サンシャイン神奈川」の玄関前で撮ったもの



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学歴・資格・検定→知的教育の貧困

2011-10-16 | 教育

日本の知的教育の貧困は、驚くべきものと思います。
学歴、資格、検定・・・・点数=カタチを追う教育は、「外付け」の知しか生まないのです。
知りたい・分かりたいという欲望からの出発がなければ、知は形骸化し、人間が生きることを豊かにしません。

内側から湧き出す力を育てるのがほんらいの知的教育なのですが、それを知りません。
心の内から、
頭の奥から、
身体の芯から、
という基本がないのです。知の貧困化という事態が進みます。

知はパターン化され、有機的連関をもちません。
何故、何のために、何をめがけて、という核がないのです。
意味充実とは無縁なバラバラ知の暗記があるだけです。
「技術知」ばかりとなり、生を価値づけ豊かにする「英知」がありません。

自らの具体的な生の現場につき、大元に戻して考える哲学までも、一つの技術と説明されてしまいます。
それでは哲学にはなりません。
全体的な思考とは、豊かなイメージの世界を多少とでも言語化しようとする努力ですが、現実的な意味と価値をもつイメージは、日々の生活世界(家事を含む生活の細事、慣習・仕事・活動・趣味・遊び)から生まれます。哲学の揺籃は生活世界なのです。それは、思考する実践であり、固定した知識ではありません。

哲学に限らず、個別の知、個々の勉強・学問も、自らの経験に照らして生活世界との結びつきにおいて知らなければ根がなく、生にとっての有用性を持ちませんが、この「疎外された知」は、内的なよろこびを殺し、紋切り型の知を持つ外面人間しかつくりません。

受験主義―点数を目的とした知は、歪んだ精神を生みます。
関心・必要・欲望から出発する内的な知の方法と世界を知らなければ、未来は拓けないのです。

わたしたち日本人も、そろそろ型の文化から脱し、内側から湧き出す知と生を開発したいものです。


武田康弘

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医療・医学 と 恋知・哲学の核心―ヒポクラテスとソクラテス

2011-10-11 | 恋知(哲学)

以下に、医療者の大塚晃志郎さんの文章をご紹介しますが、ここで語られている「ヒポクラテス」を「ソクラテス」に、「医療・医学」を「恋知・哲学」に置き換えてもほとんどそのまま通用する話です(ただし、ソクラテス全集はないので、『ヒポクラテス全集』は、『プラトン全集』に置き換える)。


ヒポクラテス医学大賞の受賞と21世紀の医療

ホリスティック医学研究所 所長・ヒポクラテス・コス財団名誉会長
                          大塚晃志郎

現代では、ヒポクラテスの医の倫理と規範についての評価は、大学医学部や医療機関などで、お題目として存在しても、ヒポクラテス医学の根本の発想や本質についての評価はなされておらず、ヒポクラテスは、ただ骨董品のように銅像として飾られるばかりになってしまっている。

ところが、『ヒポクラテス全集』をひも解き、その本質を洞察していくと、驚くべき発見があった。というのは、実はヒポクラテスの医学が、西洋医学のルーツであり、西洋医学を象徴するものでありながら、実は、現代西洋医学とは根本的に異なった発想に基づくものであり、むしろ東洋医学を含めたアジアのさまざまな伝統医学の発想に数々の共通性がある、という驚くべき事実であった。すなわち、医の原点の発想において東西の医学と医療は、もともと同根であったことを発見し、驚愕させられたのである。

また、医の原点の発想を理解することにより、そこから、これからの21世紀の新しい医学と医療についての大きなヒントとビジョンをかいま見ることができ、まさに「古きをたずねて、新しきを知る」ということを痛感したものであった。
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官治主義=集団同調主義の中で、小沢さんはよく頑張っている。

2011-10-07 | 社会批評
官治主義の管理化された日本=旧い「政」と「マスコミ」が長年結びついて悪者小沢というイメージをつくりあげた中で、小沢さんはよく頑張っている。集団同調の圧力は言語に絶するものだ。4億円の出所という裁判ではないのに、論点をズラす報道は洗脳に過ぎない。誰であれ土地を買う時の資金は複数の出所をもつもの。政治に金がかかる仕組みは大問題だが、そのことは、この裁判で裁かれるべきことではない。法に反していない人を裁くとしたら、人権思想に基づく民主主義は死んでしまう。気にくわない者を集団リンチにすることは、集団同調による衆愚政治に過ぎない。

武田康弘
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憲法第99条の意味と価値ー民間人による草案だからこそ、名実ともに「立憲主義」なのです。

2011-10-03 | 社会思想

現『日本国憲法』の骨子は、「憲法研究会」を結成した民間人7人による憲法草案が元になっていますが、この草案をつくった7人とは、まことに近代民主主義の柱である「立憲主義」を体現するにふさわしい人たちでした。

【近代民主主義における憲法】とは、主権者である国民が、政治家・裁判官・行政マンなどの公務員に対して、その遵守と擁護義務を負わせるものであって(わたしたち国民が立法権・行政権・司法権を行使する者を縛る=『日本国憲法』第99条)、為政者が国民に与える【国家主義による憲法】(天皇が臣民に与えるという『大日本帝国憲法』)とは根本的に異なります。

これを立憲主義と呼びますが、『日本国憲法』の基本思想は、まさしく主権者たる国民の意思をまとめる(立憲)にふさわしい人々によって草案がつくられています。

彼らを簡単にご紹介します。

まず「憲法研究会」でただ一人の憲法学者であった鈴木安蔵は、戦前は悪名高き「治安維持法」違反の第一号(最初の犠牲者)として逮捕・投獄された人(社会主義的な研究を行った京都大学の学生が多数逮捕された)。

この憲法研究会を立ち上げた高野岩三郎は、東大教授を辞し、民間の「大原社会問題研究所」(白樺派・柳宗悦らを支援した大実業家の大原孫三郎により設立)で活躍。1928年に結成された日本大衆党の委員長。戦後は天皇制撤廃(日本共和国)を主張。戦後改組されたNHKの初代会長となり民主的放送を目指す。

森戸辰男は、クロポトキン思想(国家主義とは逆に対等な人々による相互扶助の社会をつくる)を広めようとして東大を追われた(森戸事件・1919年)。戦後は衆議院議員。1947年6月片山内閣・芦田内閣の文部大臣に就任し、教育の徹底した民主化を志向、広島大学の初代学長も務めた(なお、クロポトキンの無政府思想は、白樺派にも大きな影響を与えた。有島武郎はロンドンでクロポトキンに会い、大杉栄(甘粕事件で憲兵に殺害される)を経済的に援助している。は、相互扶助を相互補助と訳し共鳴)。

杉森孝次郎は、徹底した民主主義者として名高い55代総理大臣の石橋湛山と共に、早稲田大学で田中王道(プラグマティズムの哲学者)に薫陶を受けた哲学徒。「天皇は儀礼のみを行う存在」という象徴天皇制の提唱者。英国の倫理思想を身につけ、学生を愛し、慕われたことでも有名。早稲田大学教授、戦後は駒沢大学教授。

馬場恒吾は、現・早稲田大学の政治科に学んだリベラルなジャーナリストで、読売新聞の主筆の後、社長を務めた。

岩淵辰男は、読売新聞の政治記者。自由主義の政治評論を書く。1944年に早期終戦を主張して検挙。

室伏高信は、雑誌「改造」の特派員としてヨーロッパに渡り、柳宗悦と同じく「ギルド社会主義」を目がけていたが、柳とは異なり、小集団や地方的なものを否定して国家的なギルドを追求した結果、大東亜共栄圏の思想に基づく戦争を積極的に肯定することになった。しかし戦況が不利となると沈黙し、戦後はすぐに思想を反転させた。敗戦の翌月(1945年9月)に発刊された戦後最初の総合誌『新生』の顧問となり、憲法研究会のメンバーに紙面を提供した。

以上のように、室伏には疑問符がつくとしても、他の6名は「民」を主権者とする「立憲主義」の憲法をつくるにふさわしい人々であったと言えます。

彼らによってつくられた憲法草案は、当時の日本政府や政党、東京帝国大学法学部の思想とは大きく異なるもので、主権在民に基づく人権と民主主義思想による国家(新生・日本)をつくるための礎を提供するものでした。


武田康弘

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うーむ、ついにデジカメは終着駅に行き着いた!?ソニーのNEX-7

2011-10-01 | 趣味


ソニーが11月発売予定の新コンセプトのデジタルカメラは、通常の新製品ではなく、デジタルカメラの終着駅とも言える革命的な製品ではないかと思います。

ソニーは、α55で半透明ミラーを用い、一眼レフの構造上の難点であった、シャターを切る前後にミラーを上下させるクイックリターン機構をなくしました(フィルム時代にはキャノンが一時この方式を採用しましたが、ファインダー画像を電子化できない時代でしたので廃れてしまいました)。これは、一眼レフの構造上の難点であったミラーショックの問題を克服し、数々の新機構(特に秒間10コマもの連写)を可能にしましたが、液晶ファインダーゆえに画像の悪さを甘受しなければならない欠点がありました。

今月発売になるα65と77は、有機ELファインダーにより画像を大幅に改善し、一見、光学ファインダーと変わらないレベルに達したとのことですが、これと同じファインダーを内蔵したのが、11月に発売になるMEX-7です。

NEXシリーズのNEZ-7は、ミラーレスの一眼ですので、平ぺったく小型軽量ですが、受光部はAPSサイズで一般の一眼レフと同じ大きさです。α65や77と同じ有効2430万画素のCMOSセンサーですが、光が半透明ミラーを経由しませんので、ミラーの平面性や反射の問題から完全に自由で、原理上は同等以上の画質が得られるはずです。

更によいのは、ミラーボックスがないこの形式では、広角レンズを逆望遠タイプ(レンズ後部がミラーに当たらない工夫)にする必要がなく、設計の自由度が大きいことです。12月に発売が予定されているツァイスの24mmF1.8は、この利点を活かし、ディスタゴンではなくゾナータイプです。大口径にも関わらず小型にできるため価格も安くなります。

α65や77と同じ新機構が満載で(レンズ収差も倍率色収差・歪曲・周辺光量をカメラ側で補正)、通常の一眼レフと同等の画質を実現したNEX-7は、小型カメラと一眼レフの利点を融合して生まれた新コンセプトのカメラと言えます。

この形式がデシタルの普遍的な構造になるのではないか、とわたしは思います。
よいレンズがたくさん出ると、今までの一眼レフの世界を脅かす存在になることは間違いないでしょう。

NEX-7は、デザインもよく、ボディー材質もマグネシュウム合金、パーツも金属削り出しで高級感があります。これはα77以上に買いですね~~。


武田康弘


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このブログを「価格コム」のクチコミ欄に掲載したところ、大反響で、わずか数日で「燃えるコメント」!?が59件も寄せられました。反響の大きさにビックリです。小型であるのにも関わらず確固とした存在感をもつNEX-7が放つオーラの強さを実感しました。
文学的レトリックを用いた標題=「ついに終着駅に行き着いた!?」には、反発された方が多いのをみて(ちゃんと受けとめられた方もいらっしゃいますが)、
ルソーの『社会契約論』(創造的書物に共通するレトリカルな表現をもつ)の意味を掴めず、ルソーは全体主義者だ、と言う社会学者の言説を思い出しました。言葉を部分としてしか読めない人(単なる事実学による事実人)が増えたのは、現代教育の悪しき成果かもしれません。

わたしは、以下のコメントを出して終わりとしましたので、コピーします。

なにはともあれ、活発な議論になり、よかったです。

もちろん、一般的な言い方をすれば、
「高い質感の金属ボディーもち、現代的に洗練されたデザインのデシタル一眼の高級機」
「一眼レフの主流と同じAPSサイズのイメージセンサーを搭載し、従来とは比較にならない高精度の有機ELファインダーを内蔵」ーーーこれは、画期的な新製品。
ということですが、
わたしは、あえて表題を「終着駅!?」にしましたので、インパクトが大きかったようです。
!?が付いていることで分かるように、文字通りの「終着駅」でないのは言うまでもありません。「一つの優れた結論」というのが正確でしょう。
ただ、
「部分」ではなく「全体」についての総合判断(あるものが優れたもの=魅力あるものであるかどうか)をし、それを書き表すときは、【レトリカル】な言い方のほうが適することが多いのです。
「終着駅に行き着いた!?」という文学的表現を使って、このカメラのもつ力を表現したのは、そのためです。

いろいろ有益なご意見を書いて下さった方々には感謝です。ありがとうございました。

武田康弘

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