思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

松方とブラングィン、ふたりの情熱が生んだ『国立西洋美術館』

2010-05-31 | 趣味

松方コレクションをつくったイギリスの画家・総合芸術家であるHrank・Brangway(フランク・ブラングィン)の展覧会が昨日終わりました。国立西洋美術館(松方コレクション)の50周年記念の最後を飾る展覧会でした。

松方とブラングィン、ふたりの個人の思いと行動によって集められた美術コレクションが、国立の西洋美術館を誕生させ、それが今年で50周年を迎えたわけです。

この日本を代表する美術館=『国立西洋美術館』は、20世紀最高の建築家・フランスのルイ・コルビジェの設計で、シンプルで品位の高いデザインです。これみよがしなところがなく、内外装ともに美しく親しみのある建造物です。

「普遍性」とは、「私」の情熱が生みだすものであり、それに裏打ちされない単なる「一般性」は、よろこびのない灰色の世界しか生みませんが、そのことを見事に証明するのが、『国立西洋美術館』です。日本にある「国立」と名のつく施設は色気のないものばかりで、美しさと親しみのある普遍性を感じさせる世界とは無縁ですが、松方とブラングインの「私」の想い・情熱からうまれ、コルビジェの「私」につく設計から誕生した『国立西洋美術館』は、何度でも足を運びたくなる素晴らしい美術館です。わたしは、小学5年生の時から47年間、数え切れないほど来館しましたが、訪れるたびにいつも嬉しくなります。西洋美術館はわたしの美術館です。

今回のフランク・ブラングィンの展覧会は、実に素晴らしいもので、はじめてみる油絵の大作には圧倒されました。その色彩とボリュームは、イギリスのドラクロワ!とさえ言いたくなるほどで、大変な力量の持ち主であることを知りました。彼は、若いころはウイリアム・モリスの工房で働いていたとのことですが、職人技に支えられた芸術がもつ普遍的な強さを改めて感じました。

船乗りの仕事をしたこともあったブラングィンは、造船所や労働者の姿も生き生きと描き、よい意味での現実性をもつ創作は、生活世界の強さと安定性をもち、最良のコモンセンスです。
食器や家具のデザインもみな楽しく親しみのある美しさで、ほんとうによい展覧会でした。はやく知っていれば、このブログで期間中にご紹介できたのに、残念です。


(いかにして西洋美術館がつくられたか、その数々のエピソードについては、『芸術新潮』の2009年2月号をご覧ください。実に面白い!)


武田康弘



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『思考停止社会』(郷原信郎著)講談社新書

2010-05-25 | 書評

『思考停止社会』(郷原信郎著)講談社新書(遵守に蝕まれる日本)


法とは人間がよく・楽しく・気持ちよく生きるためにのみあるもので、具体的な生活世界で上手に使いこなすものである。もしそうでなければ、単なる無意味な強制―法の前に人間がひれ伏すというバカげた逆転が起きる、ということを、論理のみならず日々の生活においても主張し、貫いてきたわたしは、まさか、検事というお堅い仕事をしてきた人から、わたしの思想とまったく同じ考えを聞くとは思わず、とても楽しくなりました(笑)。

法令の「遵守」、さらには、社会的規範の領域も「遵守」という精神に侵されているいまの日本は、完全な思考停止状態であり、これでは「真の法治社会」とは無縁で、恐ろしく、愚かであるという郷原信郎さんの主張は、哲学的にもまったく「正しい」もので、一読されることをお勧めします。

郷原さんの一連の検察庁批判が極めて的を得たものであるのは、このような明確な思想的背景を持つからでしょう。最新刊の『検察が危ない』(ベスト新書)における検察とマスコミの実態の叙述には背筋が寒くなりますが、検事としての23年間経験、明晰な論理、社会的公正への情熱が生む「真実」の提示です。

それにしても、法や規範を「何も考えずにただ守る。守らせる」というレベルの低い思想と態度(=人間の昆虫化)を生みだす元になっている日本の教育は、極めて重い罪を持ちます。受験主義を支え、管理社会・受動性社会を生みだす暗黙の想念=「思想」を元から断たなければ、この愚かな状態から脱することは不可能です。


武田康弘


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広告代理店の逆立ちした思想が生む現代文化

2010-05-17 | 社会思想

わたしは、電通や博報堂に代表される広告代理店のもつ思想を大変困ったものと思っています。

彼らがつくる作品は、外面文化そのものであり、心の真実とは無縁です。輪郭線だけで内容が希薄、内面から湧き上がる豊かさを持ちません。現代社会の受動的な「一般化」の象徴であり、「私」からはじまる豊饒とはまったく無縁です。そこにあるのは、紋切り型の美に過ぎず、空虚な形式の世界に過ぎません。

わたしは、以前に、友人の電通マンと一緒に仕事をした経験がありますが、選挙用のポスター写真を撮るのに、あらかじめ彼がきめたイメージ通りの写真を撮影することを求められましたが、そうすると、写真の内容は今ここでという一期一会の本質から外れ、広告マンが頭の中でつくったイメージの僕(しもべ)となってしまうのです。
その時・その場で、撮る人と撮られる人との交流によって生み出される個性の「よさ」の内実ではなく、型にはめられたイメージが先行するために、写真は「つくりもの」となり、死んでしまうのです。生命力の弱い形式美の支配です。過去(事前のイメージ)により現在のかけがえのなさが失われるのです。

このように形式を先行させるのは、人間の存在論を知らない根源的誤謬だと言わざるを得ません。いま立ち昇る豊かな内容が自ずと形式をうむのではなく、形式・パターンが現在を支配するのは管理主義であり、生き生きと今を生きる人間を否定する思想でしかありません。これは恐ろしいことです。

受動性が蔓延し、固い概念や形式によって生きたイメージが抑圧され、「外面的な美」が支配する現代社会を生み出すのは、広告代理店に象徴される逆立ちした思想にあるのです。現代文明の最先端を気取る彼らは、その実、非人間的な「愚かな文化」を生む尖兵に過ぎないのです。自覚と反省が求められます。

武田康弘
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『親鸞思想の核心』 837年前の今日、ユリウス暦1173年5月14日親鸞誕生

2010-05-14 | 恋知(哲学)

数年前に書いた「親鸞思想の核心」を再度アップします。現代に生きる親鸞の驚くべき革新性・民主制・根源性に晩年のハイデガーのみならず、誰しもが驚愕するでしょう。

ユリウス暦で今日5月14日は親鸞の生誕日だそうですが、わたしの誕生日と同じことを知り、驚くと共によろこびの気持ちが湧き上がります。


親鸞思想の核心(1)此岸と彼岸の峻別 

親鸞は、此岸(この世)と彼岸(あの世)とを峻別しました。

その立場で、万人の救いー阿弥陀仏が等しく皆を救ってくださる、と考える(信じる)のです。人間とは煩悩にさいなまれる存在であるがゆえに、それを気の毒に思った阿弥陀仏が大願をかけ、死後の世界では等しく皆を「極楽浄土」住まわせてくれる、往生はまちがいないというのが、親鸞の他力念仏宗=「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依する)です。

都に暮らす恵まれた人々=「善人」でも救われるのだから、欲望に苛まれ、罪を犯しこの世で苦しむ人々=「悪人」は、なおのこと救われるのだ、という悪人正機説も、そこから自ずと導かれる思想です。親鸞自身は狂おしいまでの「女犯」の欲望に衝かれていました。

幼いころより比叡山で学問と修行に勤しんだ親鸞は、自身の体験から、欲望存在である人間は、生きたままこの世で仏になること=「即身成仏」などありえないことを確信します。29歳のとき法然の念仏宗に回心して山を降り、空海の真言密教を否定。それまでの天皇や貴族のための仏教から、民のための仏教への大転換を成し遂げたのです。密教=旧・仏教のもつ呪術性を徹底して排除、寺院を建てることを禁止し、お布施を納める必要もないとしたのです。(2005.4.10)


親鸞思想の核心(2) 地獄の消去 

親鸞は、仏教のみならずさまざまな宗教に見られる地獄の思想を、「南無阿弥陀仏」の六文字によって意味のないものにしてしまいました。根源的な宗教革命をなしとげのです。

阿弥陀仏は、すべての人・煩悩に苛まれる人間を例外なく救うという大願をかけてくださったがゆえに、往生は間違いない。われわれ欲望存在である人間は、そうであるからこそ、死後の救いー極楽浄土は約束されているのです。

親鸞思想の前では、「地獄」は意味を持ちません。生と死の間には明瞭に切断線が引かれ、死後の世界については、すべて阿弥陀仏が救ってくださるのだから、心配はいらないのです。

そうなれば、私たち煩悩につかれた人間は、煩悩につかれたまま、この世で自身の納得のいくような生を営むこと、心から望むことに従い生きる道を進むことが可能になります。

権力者・権威者・管理者に従ってビクビクする必要はありません。従うのは、親でも教師でも上司でもありません。自分の内から自然と湧き上がる心の声(これが他力)のみです。ここではじめて各自の人生は各自のものになります。「根源的な民主主義」=実存思想の成立です。誰であれ人を支配することも支配されることもない、皆「ご同胞ご同行」ということになるのです。

秩序は、外的な道徳律から内的な納得へと180度回転します。内から湧き上がるエネルギッシュな人生への転換です。驚くべきことに、他力に徹する念仏門は、自力正道門をはるかに超えた個人のパワーを引き出すことに成功したのです。自己のうちに眠る巨大な潜在的な力を解放するのが、親鸞の絶対他力の思想なのだと言えるでしょう。

世界の思想のうちで、これほどの徹底性と大衆性を併せ持った思想はほとんど例がありません。800年前にこのような見事な思想を生み出した日本はすばらしい国です。誇るべき日本の伝統とは、こういうものなのです。ウソで固めた「万系一世」などという神話ではありません。(2005.4.30)


親鸞思想の核心(3) 天皇制国家思想の根源的否定

親鸞とは、表層の思想(イデオロギー)ではなく、
最も深い地点(欲望と生死そのものの価値)から「天皇制国家」の詐術を打ち破った、日本史上最大の人物です。

「南無阿弥陀仏」=善人でさえ往生できるのだから、まして悪人の往生は間違いない=全ての人間を救う願をかけた「阿弥陀仏」への帰依、ただそれだけに凝縮した絶対他力の「救い」の思想は、やがて多くの民衆の心を捉えていきます。
念仏を唱えるだけで誰でも直ちに救われる、という権力者にとっては極めて「不都合な」この思想は、死罪・流刑の大弾圧を被ることとなります(親鸞の師である浄土宗の開祖・法然とその弟子たちが受けた法難)。親鸞は法然の思想を更に深め、都(京都)に住む「善人」でさえ救われるのだから・・・・としたのです。

僧籍を剥奪された親鸞は、わざわざ、朝廷に、「愚禿(ぐとく)親鸞」(愚かなハゲの親鸞)という名前の使用を許可するように申し出ました。
なんという不敵な、いや、そういう言葉も不似合いなほどの徹底した行為でしょうか。


「親鸞は天皇のためには礼拝せず」(主著「教行信証」)、と言い切ったこの優れて民衆的な、同時に「エリート」という名の俗物性から超越したほんものの人間は、多くの日本人に深い感動をもたらします。やがてその思想は野火のように広がり、その後の蓮如の働きにより「浄土真宗」は、日本最大の宗派になったのです。

信長による大量殺戮、徳川幕府による懐柔支配、明治の凶暴な近代天皇制の下に苦しみ、妥協を強いられてきた「浄土真宗」は、今こそ始祖―親鸞の初心に帰ることで、真の普遍宗教の役目を果たすべきでしょう。

「天皇制」の亡霊を復活させようとする勢力が台頭しつつある今、親鸞思想の意義は計り知れないおおきさをもつと思います。真宗教団の奮起を祈念します。(2005.9.11)
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親鸞の徹底した民主思想―真宗の「しきたり」から知る

2010-05-12 | 恋知(哲学)

わたしの家の宗教は、親鸞を開祖とする浄土真宗(大谷派)です。
わたしは、自家の宗教には関心をもっていませんでしたが、大学生のときに読んだ『歎異抄』(唯円著)に震撼して以来、親鸞は最も尊敬する思想家になりました。浄土真宗と縁の深い家に生まれてよかった、と心底思いました。もし他宗だったら宗派を変えなくてはならないところでした(笑)。

真宗は、儀式が極めて少なく、特別な「しきたり」はほとんどありません。
それは、死後はみな阿弥陀仏が救って下さり、極楽浄土に往生するという思想から来ています。阿弥陀仏のはからいで誰でもが救われるのであり、「救い」のための修行はいらないのです。阿弥陀仏への絶対他力の心=南無阿弥陀仏。

ですから、真宗でいう回向(えこう)とは、死者が、生者に楽を与える、という思想であり、生きている人から故人へ、ではないのです。故人は極楽浄土に往生しているので、往生している者に対して生者が何かをする、ということはありません。

だから、墓に水や米を供えることもしないのです。また、死者を穢れたものとは見ませんから、葬儀の「清めの塩」などの迷信めいたこともしないのです。

『法事』にも「死者の冥福を祈る」という意味はありません。すでに極楽浄土にいるのですから、冥福を祈るのはおかしな話です。そうではなく、故人を想い、生者がよく生きていくために仏法を聴き・考えるのが、法事を催す意味です。『お盆』も同じで、先祖供養という狭い意味ではなく、先祖を想いつつ、仏法を聴き考えるよろこびの行事なのです。ご同朋ご同行。

真宗には『戒名』はありません。戒名とは、戒律を守ることを誓ってもらうという仏名というほどの意味ですが、故人は、阿弥陀仏によってすでに救われているのですから、戒めることはおかしいのですし、そのような発想を根本的に否定したのが親鸞です。
戒名ではなく、仏の弟子になったという意味で『法名』と言います。2008年に死去したわたしの父は生前に法名をつけてもらっていましが、それが本来のすがたです。「釈實相」といいますが、他宗ではお釈迦様を意味する最高の言葉=「釈」が誰でも必ず付きます。徹底した平等思想なのです。

こんなふうに鎌倉時代に起こった仏教の改革は、平等な対話を基盤とし、始祖の親鸞も含めてみなご同朋ご同行であり、神の命を聞く、神に従うという一神教の垂直的思想とは反対の水平的な民主主義でした。
浄土真宗は日本最大の宗派です。「しきたり」から親鸞思想を知り味わうことは、今日の自由と平等、人権思想の近代民主主義社会に生きるわたしたちにも大きな意味があると思います。「民」は800年前からすでに徹底した民主思想をもっていたのです。

親鸞が宗教改革として成したことを、わずかではあれ哲学(恋知)改革として成せたらいい、それがわたしの思いです。民主思想の発展のために。


武田康弘
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自分の中のモンスター。不毛な修行でしかない「哲学」

2010-05-12 | 恋知(哲学)


昨日の古林治さん、内田卓志さんの哲学コメントにつづき、
青木里佳さんと綿貫信一さんのコメントです。

恋の比喩、ソクラテスの優位」に対するものです。


自分の中のモンスターと向き合う  青木里佳


これを読んで感じたことです。

人間は生まれ持っているものを忘れてしまい、成長と共に外にある価値観に縛られるようになってしまう生き物。

学歴・地位・お金等、後から得るものによって思考も人生も支配されてしまう。それが全ての判断の基準になってしまう。
良い学校に入れるか?一流企業で昇格できるか?お金持ちになれるか?あるいはお金持ちと結婚してセレブ生活が送れるか?
自分が元々持っているもの(個性・才能)を育て、活かすよりも、外の価値観を身に付け、人々や社会に自分の存在を認めてもらおうと努力する。
「ありのままの自分」ではいられない状態に置かれ、強迫観念が自然と生まれる。それは人によって程度の差はあるが「人々や社会に認められないのではないか」という不安と恐怖感を糧にしてじわじわと成長していく。

気が付いた時にはその観念は巨大なモンスターと化して、自分をコントロールしている。
そのモンスターの存在を自覚し、徹底的に向き合って闘わないと一生支配され続けてしまう。

ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
(タケセン)

これは本来の豊かな生き方を示しているが、現代はこの生き方・考え方から随分離れてしまっている。
生まれた時からこの生き方を知らず、教えてくれず、外の価値観で固まってしまった環境に放り込まれる。

現代の人々が恋知者のように生きることができれば、とても豊かで充実した人生を送れるのではないかと思います。
1人でも多く恋知を実践し、それが広がっていけば世の中少しはマシになると思います。
まずは自分の中にいるモンスターと向き合ってみませんか?

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源は想像力ー不毛な修行に過ぎない「哲学」    綿貫信一


初めて「ソクラテスの弁明」を読んだ時、従来イメージしていた哲学書(論文)とは全く違うものだと感じました。ガチガチの論理言語とは程遠いものの、内容の分かりやすさ、深さ、面白さ…は抜群です。

豊富なイメージを喚起するには、文学的とも言える「比喩・たとえ話し」が必要です。これらを非論理的なものとして排除する従来の哲学書は、ストイックなだけで、不毛な修行に過ぎないのではないかとすら思えます。

それともう一つ、(「豊富な比喩を用いた」)「問答的対話」と言う点も恋知にとってとても重要だと思います。書き言葉ではなく、話し言葉。

人間の創造性の源は想像力だと思います。
想像力を喚起するために、比喩・たとえ話、対話。まさに恋知にとってとても大切なことだと思います。


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哲学することの意味。「超越性原理」の批判

2010-05-11 | 恋知(哲学)

以下は、5月4日のブログ『恋の比喩、優れたイメージの喚起がソクラテスの優位を生んだ』に対する古林治さんと内田卓志さんのコメントです。


哲学することの意味   古林 治


10代の頃から哲学には関心がありました。哲学には、より良く生きるために必要な知恵、もしくはヒントのようなものがあるのかも、と思っていたせいでしょう。
哲学がタケセンの言う、
『自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)』
であったならまったくその通りで、「哲学する」とは、人が追求する価値のある行為です。

一方で、学校で学ぶ哲学はそれとは異なるもので、何か『奇妙なモノ』、『私たちの生きる世界と乖離したモノ』という印象を持っていました。
難解な用語を駆使し、現実とは異なる崇高な(観念の)世界があるかのように語る人が少なくなかったですし、哲学を語る動機に不純なものを感じてもいたからです。それはタケセンの次の指摘の通りです。
『異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。』
哲学することで、他人(ひと)にわからぬ難解な概念を操作できることが優れている、という錯覚に陥ってはならないでしょうし、私たちの生きる『意味と価値の世界』から乖離した哲学であったなら哲学などないほうがよいとさえ言えます。

健全に哲学する、そのためにはどうしたらよいのか。
タケセンが実践している通り、徹底して生活世界に身を置き、徹底して日常言語によって考え、徹底して他者と対話し続けることでしょう。(私も専門用語‐哲学用語を出来うる限り使わないよう配慮してます。)
当然のことですが、他者とともにより良い考えを導き出そうという強い意思を前提にしていることはいうまでもありません。
実はこれが本当は難しい。学歴の高い人、地位のある人ほどこれができない。この国で長い間醸成された序列意識というものが邪魔をするのでしょう。東大病はその際たるもの。
私の考えは正しくなければならない、という意識が強すぎて柔らかく自分の考えを紡ぎ上げることができず(非を認めず)、過剰に自己防衛に走ったり攻撃的になったりするのです。
実際に偉い人がソクラテス(タケセン)にやり込められる場面を数多く目の当たりにしてきたので、強くそう思います(笑)。気をつけねば。
自戒をこめて。

追伸.
昔、タケセンのところで(確かフッサールの勉強会やってたとき)、なぜここまで異様に執拗にこねくり回してしつこくしつこく却ってわかりにくくなるような説明や表現が哲学には必要なのか理解できないと尋ねたとき、
『一神教(キリスト教)と強力なギリシャ哲学との折り合いをつけるための2000年間にわたる葛藤の集積があったのではないか。』
というような答えに妙に深く納得した覚えがあります。それ以来、哲学との距離のとり方が少しわかったような気がします。
そういうわけで、次の一節は今も私にはふか~く響いてきます。
『ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。』

哲学ではなく、恋知であるならば、これからもせっせと鍛え上げていこうと思いますし、皆さんにも積極的にお勧めです。


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以下は、内田卓志さんのコメントと、「超越性原理」についての武田の見解です。

大変共感する内容  内田卓志


 大変共感する内容です。
 武田先生のご主張よく分かります。哲学に携わっていない人、関心がないと言っている人にこそ、本来の哲学が必要だということでしょう。武田先生に共感する最大の点はつまりそこなのです。哲学は、大学で行う哲学史と難解な認識論や言語論を探求する重要な側面を持っています。
 つまり純粋学問の世界では、このような研究や探求が人文科学や学問の進歩・発展に大変重要なことです。
 ただし、本来のソクラテス以来の哲学の本筋は、民が現実世界の問題や困難に対峙したところで、どう原理的に物事を考え、そこからどう行動していくかという切実な問いかけにあると思うのです。だから武田先生に共感します。
 今までは、私も大学の哲学者がそういうことをやるべきと思っていました。(山脇先生は大学内で健闘していますね)ソクラテスは、「恋」という誰もが身近な問題に対しそこで対話を行いました。仏教の哲人たちは、「恋」を執着と考える傾向が強く、執着をすて自由になることに重きを置き対話の対象とはならなかったのです。
 その後、龍樹がでて『中論』等により縁起説(空)を展開して東洋的関係論を確立するのですが、そこでも深遠かつ難解な哲理(言語論)のため民の関心とはなりませんでした。
 恋(愛欲の肯定)については、「密教」にいたって興味深い展開を示しますが、これも一方通行で民と民の対話にまでには発展しなかったのです。
 ただし、最近になってようやく本筋である民の側から行動を起こして行かないとダメだということがわかってまいりました。行為の主体は、生活しているこの「わたし」であり「あなた」なのです。白樺の運動の要はそこにこそあると見ております。

追伸:一神教と哲学の問題、大変興味深く拝読。この問題に関しは、かつて梅原猛氏が一神教の危険性を指摘し、加藤周一氏が反論しました。竹内芳郎氏は、解放の神学等の超越性原理貫徹の態度を高く評価していたと思います。私は仏教徒なので一神教論者ではないですが、検討すべき重要な問題です。今後武田先生と考えてまいりたいと思います。

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「超越性の原理」は乗り越えるべき思想  武田康弘


「竹内芳郎氏は、解放の神学等の超越性原理貫徹の態度を高く評価していたと思います。」(内田)

その通りです。わたしは、20年~30年ほど前ですが竹内芳郎氏の著作を全部読んで、いくつかは詳細なレジュメもつくり、討論会も催しました。竹内さんも「武田さんほど私の思想を理解している人はいない」と公言していたくらいです。

しかし、わたしはその「超越性の原理」という思想は、乗り越えられるべきものと見ています。自己や既成社会への反省・批判の立脚点を「超越性」に求めると、その自らが選んだ(つくった)特定の視点に縛られ、批判は外在化し、思想は宗教化(絶対化・超越化)するからです。

そうではなく、イマジネーションを広げる営みにより、いろいろな立場の他者の眼・心を少しでも自分のものとして複眼化し、その眼・心による「自問自答と他者との対話」をラセン的に繰り返し行うこと。それが優れた反省や批判の視点・立脚点になる、というのがわたしの考えです。
自らの生活世界における具体的経験を「対象化」する視点は、人間であれば誰でもが持っていますが、その対象化する力を意識的に鍛えることにより「自問自答と他者との対話」は豊饒化していくわけです。

超越性の原理ではなく、己を対象化する(これは人間の本能と言える)営みに基づく「自問自答と他者との対話」こそが、反省や批判の拠り所なのです。(武田)

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宗教の超越性原理に代わるもの  内田卓志


 私も先生のご意見に賛成です。
 先生のご主張から、私も考えてみました。

 超越性原理は、宗教的な原理でありそれは普遍宗教だったら必ず所持しているものでしょう。宗教内部では、この原理が教義ですので徹底的に守り貫く姿勢が本来求められます。
解放の神学や日蓮宗の不授布施派などが最も良い例です。ただ、ほとんどの日本の宗教(特
に仏教教団)は超越性原理を権力側からの弾圧を恐れ放棄したのでした。本覚思想の拡大・
展開は必然だったのかもしれません。

 そこで、21世紀に求められる批判原理とは、このような超越性原理に代わるものでなければならないはずです。超越性原理はある場合、強力な批判原理として成立しましたが、またある場合は排他的原理として成立し、究極的には宗教戦争を引き起こす要因ともなりました。そのような超越性原理を乗り越え、多様な宗教や人種の人々が同じ土俵で対話可能な批判原理の形成が必要なはずです。

 やはりそれは、ギリシャ以来の哲学の伝統から導き出せると思うのです。それこそ哲学の王道(山脇先生曰く)である主観性の知を鍛え深耕することに他ならないと思います。 
          
 自己に対する徹底的な智見・徹底個人主義による生活の実践により生活(世界)の具体的経験を対象化していく。その上で必要なことが、「自問自答と他者との対話」なのです。
そのような具体的経験をもとに弁証法的に対話(継続的にらせん状に自問し対話を行うこと)を継続的に行っていくこと、そのような一歩一歩の地道な行為により哲学的な批判原理を合意形成すべきものと考えます。

 もちろんその合意形成とは、文明の衝突論とは異なる東洋や西洋を包括するところのある種の普遍性が必要であり、それは宗教の超越性原理ではありません。認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を徹底的な智見でもって深く、強く、鍛え耕す思考であり、また主体的な行為でなければならいでしょう。

 つまり、どこまでも主観的な知と主観的な知との対話から生み出され成立する共感や鳴・共有、そこから合意形成を始めるべきものが、現代の批判原理たりうるものだと考えます。
 また、この批判原理はかつてハーバーマスが批判されたような、西洋中心主義の知ではないことを付け加えましょう。(内田)

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試されているのは「アメリカの良心」-普天間基地問題

2010-05-08 | 社会批評

世界一危険な場所にある普天間基地、何十年間もここで訓練訓練を続けるアメリカ政府と軍は、北朝鮮など他国の人権侵害を批判することができるのでしょうか。

人口密度の高い沖縄にこれほどの基地を置き(本島の20パーセントの面積がアメリカ軍基地)軍事訓練を続けることが正当化できる理由はなんでしょうか。

これは、日米の関係性という問題のレベルを超えています。沖縄の人々への「蔑視」と「差別」がなければ、このような事態にはならなかったはずです。もしもアメリカで、こうした人口密集地に軍事基地をつくり訓練したら、どうなるでしょうか?抑止力のために我慢すべきとアメリカ政府は住民に説明するのでしょうか。否ですよね。

これは、人間の最低限度の生活を保障するという基本的人権の問題なのであり、アメリカ政府と軍は、自ら率先して軍事基地を安全性が高く、住民の賛成が得られる場所(積極的に誘致をしているテニアンやグアム)に移転すべきなのです。この問題の本質は、誰のため・何のための軍隊かという点にあります。試されているのは、「アメリカの良心」なのだと言えます。

アメリカ政府は、民主主義国としての基本、人権侵害をやめなければいけません。

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コメント

国連の勧告 (Cmoon)
2010-05-09 14:22:42
狭い沖縄に米軍基地が集中している現状――日本の国土の6%に過ぎない沖縄に在日米軍基地の総面積の75%が存在する現状。県の面積の20%を占めている現状――と基地がもたらす県民へのさまざまな被害に対し、国連人権委特別報告者が調査し、06年国連人権理事会で差別だと報告しています。

◇「基地集中は差別」 国連人権委特別報告者 政府に是正再勧告
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-13696-storytopic-1.html

こうした事実は、中央のメディアでは大きく取り上げませんね。だから知らないのではなく、感じてほしいです。
状況を知ることで、どんな苦難を日常的に沖縄の人たちが味わっているか、想像できるし、感じることはできるはずです。
日米関係や軍事的な問題、国際関係といった難しい話ではなく、人権というもっとも良心にこだまする、人間的な、根源的なところにある原点の問題ですから。仰るように問題の本質です。

そして仰るように「試されるアメリカの良心」。同時に「本土の人たちの良心」も試されていると思います。
また、罪深いのは、外務、防衛官僚の言いなりになってしまった閣僚と政治家。県内案をかつて約束した自民党。関係省庁の官僚と大手マスメディア。
そして何といっても、軍産共同体に与するアメリカ政府。
戦争を仕掛ける国に、国内向け人権はもとより、他国の人権などほとんど考慮の対象になっていないのでしょう。

川内議員を代表とする超党派議員団が、グアム、テニアンに向かいました。
まだ、与党は海外移設を諦めたわけではありません。
こうした姿勢と活動を支えるのも私たちの役割です。
私たちにできることは、たくさんあります。沖縄の人たちとの共鳴、共振、共感することです。そして、どんなところでもいい。身近なところで声を上げることが大切ですね。みんなで何とかしなくては!

タケセンさんの、いつも鋭い見解と指摘に共感します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

C-moon さん

いつも具体に沿った情報と的確なコメント、大変に感謝です。

国連の人権部会もアメリカ政府への勧告をぜひやってほしいと思っています。
われわれ市民も沖縄の海人との連帯を強めなければいけないと思います。

1969年、わたしは自治会長をしていた高校3年生のとき、学園祭で「沖縄・安保問題」を取り上げ、70年沖縄返還にまつわる米軍基地の問題=当時の佐藤栄作政権の欺瞞性・ウソを批判する資料展示と解説をしました。沖縄の核兵器付き米軍基地の固定化と引き換えの返還は、日米軍事同盟をより強固にする偏った外交にしかならず、沖縄の願いを裏切るものであり、本土の日本人のアメリカへの従属的意識を強めるだけであると。反米でも親米でもない【第三の道】を訴えての学園祭でしたが、今もなお正当な考えだと思っています。


タケセン=武田康弘







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恋の比喩、優れたイメージの喚起がソクラテスの優位を生んだ。

2010-05-04 | 恋知(哲学)
哲学教師や、哲学書読みの専門家や、哲学マニアではない人にとって求められる優れた哲学(恋知)とは何か?
自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)とはどのようなものか?

わたしは、それをつくりたいのですが、
そのためには、まず、哲学(恋知)とは何か?のイメージをうまく提示することが必要。論理言語でカチッと定義し切れないのが哲学(恋知)なので、比喩・たとえ話しを上手に用いてイメージを喚起しよう。イメージとは、直截に与えられる全的なものだから。それがわたしの考えです。

古典中の古典といわれるプラトンの『饗宴』や、フィロソフィーを定義した『パイドロス』を読むと分かるように、ソクラテスの偉大さは、多くの人にとって切実な「恋」の作用・力動として「考えること(思慮)の意味と価値」を説明(豊富な比喩を用いた問答的対話)したところにあります。

それによってつくられた「イメージ」は、一般的かつ普遍的な広がりを持ったので、多神教のギリシャ世界とは根本的に異なる一神教の西ヨーロッパ世界においてさえもソクラテス出自の哲学(恋知)は圧倒的な力を発揮したのでしょう。というより、恐らく、キリスト教信仰にとって最も手ごわいギリシャ哲学と全面的に闘わなければならなかった彼らは、精緻で堅固な言葉の構築物をつくらざるを得ないところに追い詰められたのだと言えます。それが却って西ヨーロッパで哲学を発展させることになったわけですが、しかし同時に神学的な歪みももたらしました。異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。

また、東洋思想がギリシャのソクラテス出自の恋知に敵わないゆえんも、同じくそこにあります。
ペリクレスが史上はじめて民主制を敷いた都市国家アテネで、ペリクレスの賢妻が開いたサロンに出入りしていた若きソクラテスが後年、アテネの街で市民との対話を活発に行ったという歴史的事実に、その思想(ディベートを否定し、真実を求めて行う問答的対話)の普遍性の源を見ることができますが、
ソクラテス思想の優位性を生んだ本質は、誰にとっても切実な「恋」をテーマにして「考えること(思慮)の意味と価値」を示し、よく生きる=哲学する生を追求したところにあります。ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
君子に仕える武士の道徳を説いた孔子(儒教)がソクラテスの営為に敵わないのは当然ですが、インドの優れた思想や孔子を批判した老子や孟子でさえ及ばないのは、民主制により花開いた自由人の恋愛に普遍的な価値を見出したソクラテスの思索がもつ強みです。ありのままの人間性に基盤を置く思索=哲学(恋知)の営みは、時代を超えて世界的な広がりをもったのです。

ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。

現代において、白紙に戻して自分の頭で考える哲学(恋知)の営みを多くの人のものにするには、ソクラテスの卓越したアイデアをヒントにして、分明、豊饒、愉快な哲学(恋知)イメージを提示することが鍵である、わたしはそう確信しています。
それにしても西周のつくった言葉=「哲学」は、無粋で困った訳語です。わたしは「恋知」に変えようと提案しています。


武田康弘

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