人権と民主主義の思想に基づく主権在民の近代民主制国家には、「根源ルール」ないし、「原ルール」とも呼ぶべきものがあります。端的に言えば、「思想の自由を否定する思想」の自由は認められないというルールです。例えば、戦前の「国体思想」(天皇神格化による日本主義)を現実政治や社会生活の場面で主張することは許されていないのです。
近代市民社会では、自由と平等の理念は絶対的であり、この理念に反する行為は認められないのです。
人として生まれながらの差別、特別待遇は、認められません。したがって、「天皇」に主権者である国民の意思で一定の仕事を与えるのはよいですが(儀礼としての国事行為を担わせる)、天皇を生まれながらの特別な人間として遇したり、特別な存在として見ることを求めるのは、近代民主主義の哲学と明らかに背反します。それは、通常のルールに反するのではなく、根源ルールに反するのです。これは、現代社会に生きる者にとっての基本常識=哲学思想なのですから、わが国が主権在民の民主主義を国是とするならば、教育の場で、子どもたちにそのことをしっかりと教えなければいけません。現在のネットウヨクは、こうした「常識」に無知であるために、議論以前の言辞を振り回すことになっています。
古代政治の中心者であった天皇、神主の代表であった天皇、明治政府がつくった国家神道の現人神であり現実政治の主権者でもあった天皇。そうした天皇という存在に、現代政治がなお何か特別な価値を置き、その思想を社会の成員に強制することなどは論外である。これは、現在ではふつうに誰でもが知っていることですが、哲学する(自分で考える)習慣に乏しく、無思想的なわが国の精神風土の中では、「ありえないはず」の想念がいつの間にか新たな意匠のもとに復活してしまう可能性がゼロだとは言い切れないので、あえて、書いておきます。
近代民主主義国家に「絶対者」を置くことはできません。絶対者は個人の想念の中にだけで認められるのであり、社会的・現実的な次元においては認められないのです。
近代民主主義の社会では、自由と平等の理念の下に、社会の成員が互いの自由を認め合い、互いの努力によって国をつくるのであり、したがって、近代社会では、「私」は、プライベートな私でありながら、公共的な私でもあるという二重性(さらに組織や団体の一員としての私を考慮すれば、三重性)をもちます。この「相互性」による社会・国家運営は絶対的であり、これを超えた絶対者や特別者を現実の社会思想の中に設けてはなりません。これが近代民主主義国家の根源ルール(原契約)なのです。個人であると同時に市民であるわたしが、あなたが、国家をつくっているですから。
以上は、現代社会に生きる者にとって当然の前提となる思想ですが、あえて記しました。
武田康弘
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コメント
霧が消え、スッキリ晴れました (C-moon )
2010-02-05 11:40:40
僕はこれまで、憲法の定めるところによる「思想と良心の自由」から、いかなる思想がはびこっていても仕方ないのかな……と思っていました。
思想的にも心情的にも、排他的で硬直的で強権的な、しかも幼稚な右翼思想と左翼思想には辟易していたのですが……
こんなふうに実に短絡的と言えば短絡的で、恥ずかしい話、考えも何もないところにいたわけです。
こんな僕ですが、タケセンさんのブログを最初から拝見させていただきながら、ようやく理解できるようになりました。
そして今回の冒頭の
”人権と民主主義の思想に基づく主権在民の近代民主制国家には、「根源ルール」ないし、「原ルール」とも呼ぶべきものがあります。端的に言えば、「思想の自由を否定する思想」の自由は認められないというルールです”
この部分を読ませていただき、これまで霧が巻いていた光景がスッキリ晴れました。もう最後まで砂浜に波が吸い込まれるように読ませていただきました。
すっかり心洗われました。心もですけど頭の中もです。
恥ずかしい話ですが、憲法にも僕は認識を大きく欠いていました。
すべては、近代民主主義の主権在民の上に成り立っている……ですね。
また、ブログに戻りまして、勉強させていただきます。