繰り返しです。筋トレと同じで、考えも繰り返すので、脳の幹がだんだんと自然に鍛えられるようです。恋知=哲学とは想いや考えの繰り返し=反芻=捉え直しのようです。
武田康弘
女性の遺伝子(卵子)と男性の遺伝子(精子)が一つになり子ができるのです。
ですから、家系図をつくるとなると、せいぜい10世代くらいしかつくれません。
私の母+父、その母プラス父母、その父プラス父母、となりますから、10世代目で1024名ですが、9世代目、8世代目・・を足して約2倍になりますから、2000名越え。
20世代目で1048576人(100万人越えで、総計は200万人越え)となり、到底家系図など書けません。
家系図というものは、特別の一人の存在を起点としなければ書けませんが、その特定の人もまた無数の男女の遺伝子をもっているのですから、何のことか意味不明です。
誰であれ、無数の男女の遺伝子により存在してるわけですから、特定の人から始める家系図を書くという行為は、愚か極まる所業であり無意味です。家系図とはそれ自体が無意味なのです。
無意味を前提とする天皇家の家系図など、あまりに馬鹿バカしい代物で、冗談にもほどがあるとしか言えません。万人は平等とは、特定の思想なのではなく、事実そのものなのです。
武田康弘
哲学の土台=倫理について
分かりやすい例を出してお話します。
誰でも、友人や仲間とは、対面しての対話をするでしょうが、齟齬や行き違いが生じた人とは、とくに対面での(少なくとも電話)での対話は不可欠です。
文字(メールなど)でのやりとりでは、ますます拗れることが多いのは、活字では左脳ばかりになりますので、言葉はかえって誤解や溝を広げる結果になるからです。文字だけからの印象は人による違いが大きいので、あべこべの伝達になってしまうこともあります。
時間を合わせて、対面で話すのは、人間が生きる上で一番大事な「倫理」の実践といえます。生身の人間と人間の話・応接は、生きる者同士が、対等で自由な存在として交わることですので、倫理そのものです。
それを避けるのは、自分の言動に負い目があるからで、自己存在から逃げることになります。自他の存在を見つめるのが哲学=人間的生の大元ですから、逃げたら元からおしまいです。自己だけの倫理的誠実とは、ありえないことで、生身の他者との交わりがなければ、自閉症にしかなりません。自己存在の認識とは、厳しい他者の目に曝されなければ無価値ですので、自分の思いや考えと違いがある者との対面対話が必須で、それが倫理の根本です。
一例をあげれば、言語学の天才といわれるノーム・チョムスキーは、世界の良心と目されていますが、95歳の現在まで絶えず対面での対話を続けてきました。若者とも思想界の大御所とも厳しく対立する人とも、です。1対1で、あるいは数名、数十名とでも。対面での直接対話を驚くほどの時間と労力をかけて行ってきたので、説得力が桁違いに大きいのです。
それが倫理価値の根本です。人が人として生き合う土台が倫理です。
アイアイスクール五反田。6月22日(土)武田先生と哲学対話。誰でも分かる認識論=純哲学
日本人は、会社員も公務員も主婦も政治家も学者・・・もみな明治政府が創作した「天皇教に基づく天皇制度」に心が呪縛され、そこから抜け出せません。それがどれほどの不幸を生み出しいるかを自覚できません。
「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、人々の無意識領域まで管理して、みな腑抜けの状態にさせられますが、
保守主義=国体思想の政治家には、これほど有難いことはなく、政治支配はどこの国よりも楽です。
哲学までも、ヘーゲルの最初の著作「精神現象学」に依拠して、「他者承認の哲学」こそ哲学の最高到達点だという竹田青嗣と彼のグループが人間を羊化させることに努力するありさまです。
深く「自己承認」できるためには、どう考えどう生きるか、こそ哲学の使命であり意味であることを忘れ、日本的集団同調主義(天皇教・東大病・官僚主義) をソフィスティケートするのですから呆れます。
天皇教の序列絶対主義は、エリート職業の人の精神的拠り所となるために、「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、永続化してしまいます、個々人の人間としてのパワー・良心・魅力は元から消し去られ、型が優先し、儀礼が優先し、社会的価値に縛られ、個人は死ぬのです。この序列主義を元から断たない限り、永遠に日本は不幸です。実存の生=個々人からの出発は、はじまりようがありません。
駐留米軍のトップであったマッカーサーの発案で、天皇をシンボルとして天皇制を存続させることで、日本を永遠に支配する=個々人の精神的自立をさせないで、日本人を「天皇教という集団同調主義」で一つにさせ、アメリカの属国のようにすること。天皇家に特権を保障することでアメリカに好意を持たせ、日米同盟の永続化を果たす、という大戦略は見事なまでに成功し、人間家畜化の日本国ができあがりました。
人々を騙す底から嘘の大学教授(直接体験のない書物だけ人間)の書く本に踊らされるのを止めない限り、思想や哲学が民衆の力になり現実の花が咲くことはないのです。公共哲学などという東大哲学は、支配のためのごまかしで、トップに韓国人を据えるなど用意周到ですが、関係者自身も騙されているのは、滑稽でさえあります。
武田康弘
ユダヤ教にはじまる一神教(ユダヤ教を母としてキリスト教とその弟分のイスラム教)の騙し=荒唐無稽の物語も、
明治政府が創作した天皇教の儀式主義への馴致も、宗教のもつ詐術の強さ・怖さをあらわしています。
わたしは、こどもたちに誰もみな天上天下唯我独尊として生れてきたのだと話し、至上の価値は人間の個々の実存だと教えています。真実を。
23日は、徳仁天皇の誕生日なので国民の休日。いまだに続く天皇教は、明治政府が作成した国家カルトですので、天皇制についての批判や制度の見直しについては、話し合うことすらできません。テレビも新聞も批判的な言説をまったく許しませんので、完全なる独裁国家と同じですが、他国を言論の自由の抑圧といい非難する日本のテレビや新聞は、はるかに徹底した言論統制が行われている自国の問題については、頬かむりです。
天皇現人神(天皇は生きている神)という明治政府のつくった天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、ものすごい暴力(特別警察と憲兵隊)で、反対者をなぎ倒し、また、全国の数万以上の寺を焼いたり破壊したりし神社にかえました。明治政府の出した神仏分離令を端緒にした廃仏毀釈(仏法を排し釈迦の考えを捨てる)の大運動は、野火のように広がり、国宝級の仏像や寺院を破壊した為に、いまある国宝は3分の1程度と言われます(故 梅原猛さんによる調査)。
天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、敗戦後にいったんは否定された思想でしたが、1946年からはじまったアメリカの占領政策の大転回(逆コースと呼ばれる)で岸信介をはじめとするA級戦犯の解放により、再び彼らやその親族が日本政府の中枢を占める政治となり、天皇教は徐々に復活してきたのです。
明治政府は、天皇教=国家宗教を作成するために、まず、京都御所の天皇とされる男性を江戸城に連れてきてここを皇居となづけて占有させること、次に、日本史上、一度もなかった一世一元の元号制度をつくり、全国民にそれを使わせることを強要しました。時代=時間も天皇が支配することで、空間も時間も日本という国は、天皇が中心であるという意識を国民の無意識領域にまで浸透させるのが岩倉具視による計略でした。
ここで分かるのは、いったんは国のありようを変えたかに見えた戦後日本の今も、明治政府が作成した天皇教という国家宗教は、そのまま生きているということです。江戸城占有は変わらず、一世一元の元号も変わらすですから、日本は、天皇教のままです。天皇教は、教義(内容)を持たず、その時その場の政治勢力と世俗価値に合わせます。形式=儀式だけがあり、それを仰々しく行うのが天皇教という国家宗教の特徴です。まさに日本の特色で、中身・内容は問いません。形式を強要することで、日本人という型をつくるわけです。
「門地(家柄)により差別されない」という日本国憲法14条は空文化され、皇族はよくも悪くも差別され、超がつく特権が与えられます。天皇は、国籍も住民票もなく、そのためにあらゆる義務から逃れ、税金も保険料の支払いませんし、パスポートも発行されず(できない)ために、パスポートなしで外国に行きます。法的には日本人ではなく、人間でさえありません(人権がないのです)。明治政府がつくったように、やはり生きている神なのでしょうか?
明治政府が作成した天皇教とそれに基づく天皇制をしっかり考え直すことは、とても大きな意味をもちますが、それは日本人の義務でさえあると思います。今日23日の天皇誕生日はそのよい機会でしょう。詳しくは、「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをお読みください。
武田康弘(哲学者)
「皇族と統一教会」の深い関係を示す写真。明治政府がつくった天皇教が、文鮮明の手本となった。
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/bd971b6f2aed5162891b443b0b85c614?fm=entry_awp
2024年辰年の幕開け~
武田哲学の土台 「欲望」という基本原理 60年が経ち一巡り。 恋知する実存者として生きる。
わたしは、ちょうど60年前、小学6年生の時に、ある考え(悟り)に至りました。父、祖父とも浄土真宗大谷派の僧侶でしたので、欲望についての悩みでしたが、終止符をうったのです。
人間が生きるのは「欲望」であり、あらゆる営みは欲望による。だから考えなければいけないのは、欲望の質である。自分も皆も社会もよくする欲望はすばらしいが、逆はダメだ。何がよくするか、よいとは何か、を考えて生きることこそが根本だ。
という基本原理を得たのです。
自他の欲望のありようをよく見ると、存在がどのようなものか、炙り出しのように浮かび上がります。
その地点から自分自身のことだけではなく、社会悪・公共悪とも戦ってきました。60年が経ち一巡しました。ここからまたガチンコで自分を鍛え、よい教育実践をし、公共悪と戦います。よい理屈を言っても結局は、「自分と自分ち」ばかりで公共世界への寄与がない人には、厳しくします。
それを伝えるのが恋知の営みです。恋知する実存者として生きる!
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新春 わたしのFb語録ー1
音楽家は身体が自然と音楽になっいています。写真家は身体が写真眼になっています。
恋知者(哲学者)は身体が自然と思考しているのです。
思考が本質に向かって進み、ピントが合う。直観と体験能力が卓越して働いているからです。活字を読み理解するレヴェルとは異なるのです。
なぜだろう、と考えることは、自分自身の実存からしか出てきません。生きるという地点からしか生まれません。だからAIのような生きていない存在は、考えないで処理するのです。
いまの受験知は、考えないで処理する正確さとスピードをつけるものですので、「優秀」になるほど、人間でなくなります。内的に生きる意味が消えていきますから、
お金や肩書きや名誉などの外なる価値を追うしか生きられなくなります。【精神死】に至る病で、「人間は死んだ」となるのです。
わたしのFb語録ー2
私はず~~と「ふつう」が凄い・素晴らしいを求めてきました。日々の行為・思想・食事・住まい・音楽・写真・学習。世間やTVは特別がいいと言い、世俗的上下の価値観です。わたしは全然違います。ふつうにこそ偉大があるという確信で生き「最高のふつう」を追求する哲学です。
「ふつう」というのは、世間価値ではまったくありません。わたしの心身にフィットすること。呼吸が楽になる生き方です。他者承認などに惑わされない心と頭のこと。自己承認できる思想で、世俗的な価値観に染まらぬことです。自慢もなく自己卑下もなく、自然体で生きることです。理論家や理屈屋さんではなく、微笑んで生きるのです。こどもたちの笑い声のようにね。それが「ふつう」です。
武田康弘