思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「脳幹」 恋知=哲学とは、脳幹を鍛えること。キーは「反芻」

2024-09-26 | 恋知(哲学)
古林治さんがわたしの写真とビデオ(押し相撲)を載せて、体幹を鍛えることの重要性を書いていましたので、
それでは、脳幹!?を鍛えるとは?と思い、書いてみました。
体験談です。
ーーーーーーーー
 
わたしは、考える力(脳幹?)が強いのですが、
それは何故か?とふり返ってみました。

幼いころからの毎日のような父との対話、なぜ?どうして?が基礎なのですが、
それは、いつも考える問題(自分自身の関心)があって、それを質問していたのです。
だから、教えられた通りに考えたり、やったりしないのです。納得がえられるまでシツコイのです(笑)。 なんで、それはなんで・・・・ 分からない、うん、ずっとずっと考える~~

だから本を読んで、とは大きくちがいます。小さなときから「本に頼る人は馬鹿だな~~~」と思っていました。点数のいい人と話すと、「ああ、自分で考えていないな」と思いました。それではダメだ。利口な人は馬鹿だな、と。

それで、父は結論を求めないし、言いもしませんでした(断言するタイプでは全然ないのでした)。なので、いつも自分で反芻して考えていました。結論は出ても、それをまた考えるのです。反芻です。シツコク反芻です。それが習い性になり、今でもずっとそうです。結論はあってもないのです(笑)

なので、「こうだ」という言い方をする人が嫌いです。嫌いでも付き合いますが、ああ、ダメだな~~と思っています。わたしは、小学生の算数を中心に教科の問題を教えていますが、いつもはじめに戻って(まだそれを知らな子どものように)考え、教えます。それは反芻と同じで、絶えず、考え直すわけです。でもこれは、相手(こども)に意味を追うことを求める結果になるので、頭の楽しい労働です(笑)。

この反芻の繰り返しと強度が、思考する頭をつくるのではないかな? と思います。効率よく、ではなく、教えてもらい、ではなく、自分で自分の頭で反芻して考える。というわけです。

また、それとダブるのですが、わたしは、言語で覚えない。書き言葉(=活字)を覚えるのではなく(それが苦手)で、イメージ記憶なのです。イメージ、 必要だな、価値があるな、と思うイメージを思い浮かべます。これもシツコイです(笑)。意味と価値があると思うイメージを反芻します。楽しいし、面白いし、嬉しいからです。そのイメージから必要な時に言語化しますので、同じようなことでもその時その場で、言葉が変わります。変えているのではなく、自動的に変わります。イメージは言葉ではないので、言葉から言葉へ、ではないからです。

言語は好きでなく、色や形や音が好きなのですが、でもなぜか、小学1年生のときから、作文は最高評価をつけられ、学校代表、在校生代表、卒業生代表、とされてしまい、なぜだか分からずいつも戸惑いです。文学少年ではなく、作文の練習などしたことは一度もなかったのに。わたしは、読む人に意味がわかるように書こう、という気持だけで、よい文章を書こうとは考えませんでした。

いま、書いているうちに思いました。わたしは現実から立ち昇るイメージの中に生き、何事も反芻しているのだな~~~と。
繰り返しです。筋トレと同じで、考えも繰り返すので、脳の幹がだんだんと自然に鍛えられるようです。恋知=哲学とは想いや考えの繰り返し=反芻=捉え直しのようです。

武田康弘
 
 
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竹田青嗣らのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、人間を受動的存在へと導く。既成価値の内側に閉ざすために、哲学の意味は元から消える。

2024-09-14 | 恋知(哲学)
武田fb

竹田青嗣とそのグループのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、恋知(love of thinking)
としての哲学の息の根を止める。彼らは、西欧哲学の読解作業に依拠して「一般化の海」に沈む生を成熟としてしまう。人間の主体性を消して受動的存在へと導くために、既成価値の内側に人間を閉ざす。哲学の意味は元から消える。
 
 
 
後藤 敦子

おひさしぶりです。いま、「主体」という言葉を使うことは禁じられている(そうです→)「学習理論」(心理学)が、教育、児童福祉の現場で最大権威となっています。自分でものを考えることは禁じられており、こどもを「どこか」(?)が考える「ある方向」に「学習させ」、「どこか」が考える「リスクのない」安全な環境にのみ生きられる児童に変容させる、という…。リスクや葛藤、苦悩を経験することが認められない、これほど脆弱な、めぐまれない境遇はないと私は思いますし、訓練をへて学習理論の実践者になれば、全員、この心理療法で同じ成果が出せると、言い切る…。

日本・精神医学史を築いた、「度肝をぬく、二度と出ない」哲学を基盤とする精神医学者が次々と亡くなられて、学習理論の大問題を思考検討できる方がいない。パブロフ、ワトソンの系譜が乳幼児に行ってきた実験の重大性を考える力量を、心理学がもてない。識者? の学力低下により、現場は… ご存じかわからないのですが、信じがたい現実がありまして、書かせて頂きました。
 
デジタル機器のデジタル思考に合わせてデシタル的に生きる人間を製造し、他者承認の哲学で受動的に生きるようにします。それが成熟した人間。アナログ存在である人間をデジタル存在に変えるのが教育の主眼。訓練をそのまま受け入れるのが優秀な人。実存するのではなく存在する、人間ではなくてデシタル機器。それらを元からすべて雲散霧消させましょう~~~~
「恋知する実存者」として生きるのが人間のよさ、卓越、魅力。
 
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家系図は原理上、書けません。何の意味もなく、愚かの象徴です。天皇制はもう詰んでいます。抗弁不可能です。

2024-07-24 | 恋知(哲学)

女性の遺伝子(卵子)と男性の遺伝子(精子)が一つになり子ができるのです。

ですから、家系図をつくるとなると、せいぜい10世代くらいしかつくれません。

私の母+父、その母プラス父母、その父プラス父母、となりますから、10世代目で1024名ですが、9世代目、8世代目・・を足して約2倍になりますから、2000名越え。

20世代目で1048576人(100万人越えで、総計は200万人越え)となり、到底家系図など書けません。

家系図というものは、特別の一人の存在を起点としなければ書けませんが、その特定の人もまた無数の男女の遺伝子をもっているのですから、何のことか意味不明です。

誰であれ、無数の男女の遺伝子により存在してるわけですから、特定の人から始める家系図を書くという行為は、愚か極まる所業であり無意味です。家系図とはそれ自体が無意味なのです。

無意味を前提とする天皇家の家系図など、あまりに馬鹿バカしい代物で、冗談にもほどがあるとしか言えません。万人は平等とは、特定の思想なのではなく、事実そのものなのです。

武田康弘

続・最終結語

天皇一家に超特権を与える差別の制度を支えるイデオロギー=神武からはじまる家系図という虚構は、わたしの簡明な指摘で、元から崩れました。誰も何の抗弁も不可能でしょう。

神武(実在しないですが)からはじめた家系図、実在したと仮定して、神武も無数の男女の遺伝子からなりますから(わすか20世代で200万人越え)、その男系家系図には、何の意味もないわけです。残念でしたね、天皇さんとその関係者のみなさん(笑)

マスコミの天皇制喧伝者も、自民党や維新の会などの天皇制支持者も、元からお終いで、詰んでいます。
 
 
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哲学の土台=倫理について

2024-07-07 | 恋知(哲学)

哲学の土台=倫理について

分かりやすい例を出してお話します。

誰でも、友人や仲間とは、対面しての対話をするでしょうが、齟齬や行き違いが生じた人とは、とくに対面での(少なくとも電話)での対話は不可欠です。

文字(メールなど)でのやりとりでは、ますます拗れることが多いのは、活字では左脳ばかりになりますので、言葉はかえって誤解や溝を広げる結果になるからです。文字だけからの印象は人による違いが大きいので、あべこべの伝達になってしまうこともあります。

時間を合わせて、対面で話すのは、人間が生きる上で一番大事な「倫理」の実践といえます。生身の人間と人間の話・応接は、生きる者同士が、対等で自由な存在として交わることですので、倫理そのものです。

それを避けるのは、自分の言動に負い目があるからで、自己存在から逃げることになります。自他の存在を見つめるのが哲学=人間的生の大元ですから、逃げたら元からおしまいです。自己だけの倫理的誠実とは、ありえないことで、生身の他者との交わりがなければ、自閉症にしかなりません。自己存在の認識とは、厳しい他者の目に曝されなければ無価値ですので、自分の思いや考えと違いがある者との対面対話が必須で、それが倫理の根本です。

一例をあげれば、言語学の天才といわれるノーム・チョムスキーは、世界の良心と目されていますが、95歳の現在まで絶えず対面での対話を続けてきました。若者とも思想界の大御所とも厳しく対立する人とも、です。1対1で、あるいは数名、数十名とでも。対面での直接対話を驚くほどの時間と労力をかけて行ってきたので、説得力が桁違いに大きいのです。

それが倫理価値の根本です。人が人として生き合う土台が倫理です

 

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史上はじめての【宗教を超え神を越えた】ナーズムオラトリオ  今日の恋知サロンで感動の全曲80分

2024-06-13 | 恋知(哲学)
 原爆で死んだ少女、紙切れのように燃やされ灰になった7歳の少女は、10年たっても7歳のまま。世界的大詩人ナームズによる悲しみと怒りの哀歌は、ファジル・サイの熱く激しいアメリカ原爆投下への憤りのオラトリオとなり、
 人体実験で原爆を落としたアメリカの蛮行を、「神」ではなく「人間」の名で告発し、人間の名で激しく抗議し、人間として悪業と戦い、人間の名で鎮魂した。史上はじめての【宗教を超え神を越えた】この曲は、万人の胸を打ち、万人に勇気を与え、万人を鎮魂する。作曲者のサイは、愛娘と広島で死んだ少女とを重ね合わせてこれを作曲したのが分かる。
 演奏者も数千人の観衆も全員が一丸だ。21世紀初年の傑作「ナーズムオラトリオ」は、アメリカの悪業を糾弾し元から正す。少女の魂にはどんな軍隊でも勝てぬ。
 
  ラストは、どこにいようとも決して死ぬことはないように生きるべきだ。わたしが生きたと言えるために。
わたしが生きたと言えるために、と何回もみなで歌います。最後は広島の少女が「わたしが生きたといえるために」(そう生きれなかった)を歌い、深い鎮魂のフィナーレ。言葉にならぬ感動が広がる。アメリカによる人類史上最大の蛮行による死は、トルコの大詩人ナーズム・ヒクメットと同じくトルコの音楽の天才ファジル・サイにより永遠に刻まれた。


 今日の恋知サロン。【恋知する実存者】の集まりです。あなたもどうぞ。
 
 
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武田先生(タケセン)との哲学対話-認識論を超やさしく 6月22日(土)第一回 アイアイスクール

2024-06-01 | 恋知(哲学)

アイアイスクール五反田。6月22日(土)武田先生と哲学対話。誰でも分かる認識論=純哲学

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ソクラテスによる【恋知者=哲学者の魂の定義】

2024-05-25 | 恋知(哲学)
昔から書いていますので繰り返しですが、ソクラテスによる【恋知者=哲学者の魂の定義】は、
「真実在をこれまに最も多く見た魂は、知を求める人、あるいは美を愛する人、あるいは楽(音楽と詩)を好むムーサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人間の種の中へー」です。(「パイドロス」185ページ岩波「プラトン全集5」)

哲学=恋知の象徴は、エロースです(ルーブル美術館蔵・ラコステ人形)プラトンの学園「アカデメイア」の主祭神はエロース。


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「他者承認の哲学」ではなく「自己承認の哲学」へ上りましょう。

2024-04-10 | 恋知(哲学)
    一般的に受け入れられるかどうかと考えて、他者の視点により語るという人が多いですが、そのような「他者承認の哲学」は、哲学ですらなく、処世術にすぎません。
 
 他者に受け入れるか否かではなく、自分の赤裸々な経験を正直に見て話します。そこからありのままの心を自覚し、開示するのです。
 他者から何をどう言われようと、心の真実を曲げずに貫くことが必要です。もし齟齬が生じたら、個人間の問題ならば、対面して堂々と話すのです。逃げ隠れしたら、元から終わりです。

 それは「自己承認の哲学」で、深い納得を目がけます。そのためには、自己を絶対化せず、相手との直接対話を辞さない精神と実践が求められます。自己の主張が正当性をもつためには、ナマの話し言葉でのやりとりが必要なので、文字(ソクラテスのいう死んだ言葉)を投げつけるのでは、話になりません。そのような言動は、害ばかりで益なしです。卑怯でダメな人間の見本です。

 他者から承認されるのは、もちろんよいことですが、そこに留まるのではなく、また、それを目がけるのでもありません。最も大切なのは、善美への憧れと真実の探求です。今ある自分の肯定ではないのです。他者からの賞賛でもなく、孤塁を守ることでもありません。心身の全体ー内部から湧き出る【自然な確信】で、「おれは最高だ」とか「お前よりおれが上だ」というような稚拙な想念とは元から無縁です。静かで深く、かつパワフルで美しい輝きです。攻撃による他者排除ではなく、愛の心から真実を求めるのです。斜に構えるのではなく、真正面から真剣に、でなければいけません。

 自己承認に至るには、自己の経験を土台にしつつ、しかし、それを絶対化する愚を犯さず、近代的自我の確立というイデオロギーに囚われず、「自我の武装解除」が必要です。自由で伸びやかな心身と頭は、自己防衛とか他者攻撃という発想からは生まれません。
 
 自己承認の哲学を生きたいものです。

武田康弘
==============

関口徹
最近よくわからなくなってきてしまいました。自己承認が良しで他者承認、承認欲求が悪というこですか?
 
武田 康弘
他者からの承認が得られて悪いはずはないです。
しかし、
他者承認を気にして生きるのは哀しいです。
悪とか善という話しではなく、承認欲求を超えないと、自分のよき生が始まりません。
関口徹
つまり承認欲求…スゴいね、さすがだね、みたいなものを求めず生きるってことですよね。自己承認はできてるはずなのですが…仕事が年々つまらなくなっていくのです
 
武田 康弘
仕事が面白い人はとても少数ですよね。どうしたらよいでしょうか。
関口徹
仕事辞めることですかね(笑)
でも、やりがいはあるんですよ。給料も安いですが求めてません。自分ではパーフェクト‼️な仕事をできてると思ったり、自画自賛というか、特に後輩たちにはこうやるんだよ。見て覚えてねみたいに実践で示してるつもりなんだけど
他者承認を気にするのは哀しい
わかります。
他者承認を求めるあまり自分を追いつめ、孤独に、そして自分の健康まで害してしまいました。
死にたいほどツライです。
でも、旅をして、自然に抱かれ同化して、美味しいものを食べる。仕事以外はメチャクチャ充実しているのです。
仕事おそるべし
 
石谷 真
仕事に自分なりの目標と、満足を得られるようにしたらどうでしょうか?
それは生き様すべてにおいて、自分なりの方法を貫くというコトです。
他人は、結果しか見ないので、こちらの途中の行動にアレコレ言ってきます。
承認欲求ばかり、求めると自分なりの方法を貫くコトができなくなります。他人には結果まで待ってもらうコトが重要だと思います。いや、結果ばかり求める今の風潮は、途中の考えや、途中の失敗も重要だというコトを、分からなくしてしまって、良くないと思います。
自分なりにやれる寛容なトコロに身を置くコトも大切です。特に仕事としては。
石谷 真
ボクは昔、他人の言葉に乗っかって、仕事を辞めたコトがあります。
後悔しました。他人はあくまで他人です。
他者承認を求めて行くと、さすがだね、すごいねって言われないと、もうダメだ。オレは出来損ないだ、になるコトがあります。
他人が、「つまらないなら、辞めたら良いよ」と言って辞めたとして、その他人は何の責任も取ってくれない。他者承認を求めていくと、承認されるコトしかできなくなる。そこが問題です。承認欲求は持っても良いけど、信頼を誰に置くか?誰のタメにその仕事をするか?何のタメにそもそも仕事をしてるのか?お金が少なくて良いのか?その仕事は、重要なのか?考えるべきコトは、たくさんあります。仕事が面白くないのは、どこに問題があるのか?
死にたいほどツライけど、ホントに死ぬほどなのか?今、死んで無いからツライの表現に、死にたいを使うコトの意味は?死にたいでは無く、逃げたいかも知れない。
ツライコトと、しんどいコトは、同じですか?頭がツライですか?身体がツライですか?旅をして充実する人生に、仕事は必要ですか?必要なら、後輩の承認、もしくは同僚の承認では、ダメなんですか?上司からの承認じゃなきゃダメなんですか?
承認欲求を満たしてくれる他者とは、誰か考えませんか?ボクとか、武田さん達ではダメなんですか?関口様、ボクはあなたを承認しますよ。やりがいのある仕事を辞めるコトくらい愚かなコトは無いと思います。
関口徹
石谷 真さん。
みずしらすの私に熱いメッセージありがとうございました。まさにおっしゃるとおりです。
承認欲求求めすぎてさすがすごいと言われないと満足できない。ドツボにハマるとわかりました。
今日職場の歓送迎会で普段口を聞いてくれないトップともう一人の管理職の方に私なりの体調の現状を伝えました。
自分のことに感心なんか持ってないこともよくよくわかりました。そんな上の人に認めてもらうために働くのがバカらしくなりました。
他者承認を求めるのがいかに愚かでくだらないかよくわかりました。武田さん、石谷さんありがとうございます。
自分の好きな仕事を自分のために続けていきます。

石谷 真
敢えて管理職ばかりに気を取られると、足元の仲間たちのコトが疎かになるとボクは考えます。
この国のヒトたちは、上ばかり見て、自分を見ていない。それは承認欲求というカッコいい言葉を使うけど、自分自身の能力に自信が無いコトの裏返しだと思います。自分のコトをきちんと見ましょう。
体調が悪くて、チカラを出し切れていないかも。もっと自分自身を大切にしてください。われわれは武田さんのような超人では無いのだから。
 
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明治政府が創作した「天皇教に基づく天皇制度」に呪縛され続けて抜けられない日本人の不幸は底知れず。

2024-04-05 | 恋知(哲学)

日本人は、会社員も公務員も主婦も政治家も学者・・・もみな明治政府が創作した「天皇教に基づく天皇制度」に心が呪縛され、そこから抜け出せません。それがどれほどの不幸を生み出しいるかを自覚できません。

「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、人々の無意識領域まで管理して、みな腑抜けの状態にさせられますが、
保守主義=国体思想の政治家には、これほど有難いことはなく、政治支配はどこの国よりも楽です。

哲学までも、ヘーゲルの最初の著作「精神現象学」に依拠して、「他者承認の哲学」こそ哲学の最高到達点だという竹田青嗣と彼のグループが人間を羊化させることに努力するありさまです。
深く「自己承認」できるためには、どう考えどう生きるか、こそ哲学の使命であり意味であることを忘れ、日本的集団同調主義(天皇教・東大病・官僚主義) をソフィスティケートするのですから呆れます。


天皇教の序列絶対主義は、エリート職業の人の精神的拠り所となるために、「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、永続化してしまいます、個々人の人間としてのパワー・良心・魅力は元から消し去られ、型が優先し、儀礼が優先し、社会的価値に縛られ、個人は死ぬのです。この序列主義を元から断たない限り、永遠に日本は不幸です。実存の生=個々人からの出発は、はじまりようがありません。

駐留米軍のトップであったマッカーサーの発案で、天皇をシンボルとして天皇制を存続させることで、日本を永遠に支配する=個々人の精神的自立をさせないで、日本人を「天皇教という集団同調主義」で一つにさせ、アメリカの属国のようにすること。天皇家に特権を保障することでアメリカに好意を持たせ、日米同盟の永続化を果たす、という大戦略は見事なまでに成功し、人間家畜化の日本国ができあがりました。


人々を騙す底から嘘の大学教授(直接体験のない書物だけ人間)の書く本に踊らされるのを止めない限り、思想や哲学が民衆の力になり現実の花が咲くことはないのです。公共哲学などという東大哲学は、支配のためのごまかしで、トップに韓国人を据えるなど用意周到ですが、関係者自身も騙されているのは、滑稽でさえあります。


武田康弘



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今日23日は徳仁さんの誕生日でおやすみです。明治政府がつくった天皇教と天皇制について考える日にしましょう。

2024-02-22 | 恋知(哲学)

ユダヤ教にはじまる一神教(ユダヤ教を母としてキリスト教とその弟分のイスラム教)の騙し=荒唐無稽の物語も、
明治政府が創作した天皇教の儀式主義への馴致も、宗教のもつ詐術の強さ・怖さをあらわしています。
わたしは、こどもたちに誰もみな天上天下唯我独尊として生れてきたのだと話し、至上の価値は人間の個々の実存だと教えています。真実を。

23日は、徳仁天皇の誕生日なので国民の休日いまだに続く天皇教は、明治政府が作成した国家カルトですので、天皇制についての批判や制度の見直しについては、話し合うことすらできません。テレビも新聞も批判的な言説をまったく許しませんので、完全なる独裁国家と同じですが、他国を言論の自由の抑圧といい非難する日本のテレビや新聞は、はるかに徹底した言論統制が行われている自国の問題については、頬かむりです。

天皇現人神(天皇は生きている神)という明治政府のつくった天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、ものすごい暴力(特別警察と憲兵隊)で、反対者をなぎ倒し、また、全国の数万以上の寺を焼いたり破壊したりし神社にかえました。明治政府の出した神仏分離令を端緒にした廃仏毀釈(仏法を排し釈迦の考えを捨てる)の大運動は、野火のように広がり、国宝級の仏像や寺院を破壊した為に、いまある国宝は3分の1程度と言われます(故 梅原猛さんによる調査)。

天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、敗戦後にいったんは否定された思想でしたが、1946年からはじまったアメリカの占領政策の大転回(逆コースと呼ばれる)で岸信介をはじめとするA級戦犯の解放により、再び彼らやその親族が日本政府の中枢を占める政治となり、天皇教は徐々に復活してきたのです。

明治政府は、天皇教=国家宗教を作成するために、まず、京都御所の天皇とされる男性を江戸城に連れてきてここを皇居となづけて占有させること、次に、日本史上、一度もなかった一世一元の元号制度をつくり、全国民にそれを使わせることを強要しました。時代=時間も天皇が支配することで、空間も時間も日本という国は、天皇が中心であるという意識を国民の無意識領域にまで浸透させるのが岩倉具視による計略でした。

ここで分かるのは、いったんは国のありようを変えたかに見えた戦後日本の今も、明治政府が作成した天皇教という国家宗教は、そのまま生きているということです。江戸城占有は変わらず、一世一元の元号も変わらすですから、日本は、天皇教のままです。天皇教は、教義(内容)を持たず、その時その場の政治勢力と世俗価値に合わせます。形式=儀式だけがあり、それを仰々しく行うのが天皇教という国家宗教の特徴です。まさに日本の特色で、中身・内容は問いません。形式を強要することで、日本人という型をつくるわけです。

「門地(家柄)により差別されない」という日本国憲法14条は空文化され、皇族はよくも悪くも差別され、超がつく特権が与えられます。天皇は、国籍も住民票もなく、そのためにあらゆる義務から逃れ、税金も保険料の支払いませんし、パスポートも発行されず(できない)ために、パスポートなしで外国に行きます。法的には日本人ではなく、人間でさえありません(人権がないのです)。明治政府がつくったように、やはり生きている神なのでしょうか?



明治政府が作成した天皇教とそれに基づく天皇制をしっかり考え直すことは、とても大きな意味をもちますが、それは日本人の義務でさえあると思います。今日23日の天皇誕生日はそのよい機会でしょう。詳しくは、「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをお読みください。



武田康弘(哲学者)


「皇族と統一教会」の深い関係を示す写真。明治政府がつくった天皇教が、文鮮明の手本となった。
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/bd971b6f2aed5162891b443b0b85c614?fm=entry_awp




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マジメ=芯が固いは、ダメ。『真剣』が大切です。

2024-02-21 | 恋知(哲学)
日本人の多数はマジメ=芯が固い。だから人間性の豊かさ・魅力に乏しいのです。心の底に真の自由がないので、せいぜい新奇に飛びつくだけ。『真剣』が大切です。真面目はダメ、堅マジメは超ダメです。『真剣』は、人間の底を深め豊かにし、魅力を生みます。
 
 
 
関口徹
凄くよくわかります。
職場は真面目人間が多いように感じて、世間一般的には良い人とされると思いますが、私から見て真面目な人ほどおもしろくなくて魅力を感じない。
命令には絶対服従でどんな酷暑で仕事しててもマスクはずさないし。
障がい者支援の仕事ですが、わたしは利用者支援誰よりも真剣です。マジです。真剣に関わります。だからダメなことにはダメだよとも伝えられます。時には真剣に伝えることもあります。
でも、利用者は真面目職員よりわたしのところに来ますね。わたしのことが大好きです。
他の真面目職員、堅真面目職員よりもね。
遊ぶにしても、何するにしても、叱らなくてはならない時もわたしは常に真剣ですから。
真剣に愛して、真剣に関わりをもっています。


武田 康弘
関口さん、実に素晴らしいです。
外なる規則や道徳に従う外人間は、ほんらいの人間性とは真逆な人です。内なる真剣は、実存をかけた営為で、内的充実があります。他者承認で生きる愚かで哀しい日本人とはちがいます。
日本人ではなく、人間にならねば、ですよね。
 
関口徹
武田康弘さん
まさしく日本人でも、ウクライナ人でも、ユダヤ人でもなく人間であることが大切ですよね。
国も守るために、領土を守るために戦え❗徴兵❗敵を撃て、殺せ
冗談ではない。まともな人間にそんなことできるはずがない。
あらゆる意味で○○人でなく人間にならねばと思わされます。
コメント (1)
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天皇象徴という文化では、最大の価値は金と名誉。 自由はいいから、お金と名誉を!

2024-01-14 | 恋知(哲学)
大多数の日本人は金が第一の価値だ。自由ではなく金品だ。天皇や皇族を象徴とする文化は、裕福と他者承認を至上の価値とし、そのためなら自由の価値は二の次という文化の象徴だ。だから日本には人間=哲学なしが続く。縛られてもいい、大金をくれ(笑)ついでに名誉も。
 
 
鈴木 英男
彼ら(どなた?)にとって金は自由の象徴だ。
 
 
武田 康弘
うん、金があれば何でも、買える~~~~~。心も精神も健康も金次第じゃ、超すばらしい天皇象徴文化の日本は世界一!(笑)

関口徹
激しく同意です👍
 
Itaro Yoshida
関口徹 さん その上続けるほど年金がふえる。
 
鈴木 英男
世界唯一と言って誇り、他には見られないと言って自嘲する。
 
武田 康弘
特別天然記念物として、ユネスコに有形文化財として登録しよう。
自由がなければ、とっても保護されて特別待遇になれる見本です。自由なんてどうでもよい、人間ではなく、神話から続く神もどきなので~~~
鈴木 英男
天の皇、ゼウスが聞いたら怒ります。
 
武田 康弘
多神教のギリシャ神話で大王のゼウスは、かみさんにはへいこらで頭があがらず、
恋愛の神エロースには、かないません。
面白いですよね~~
 
 
 
 
 
コメント (2)
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一神教ほど酷い人権侵害はないのです。あなたも神の被造物!という。

2024-01-13 | 恋知(哲学)
一神教ほど酷い人権侵害はないのです。あなたも神の被造物!という。自然の自然性により生まれた宇宙も地表の生命も人間もみなOneGodの創造物なので、信仰せよ??これは、精神の病ですが、超がつく上から目線でしかなく、人権を大元から奪います。最悪です。
一神教徒は、自己絶対化の底意を背後に隠し持ち、神の名によって自分の信仰する道徳を他者に押し付けます。従わない者には、神をも畏れない悪者という烙印を押すわけです。
 
金時綾小路
ほんとに最悪ですね。例えば安倍晋三は名称はいろんな形で変えるが統一教会と癒着、政治的目的の為。一方でその信徒の凶行ですが、これは信徒に取っても不幸な事であるが、これまた宗教の病気。安倍晋三の死に様は、言葉と行動に一致しないいい加減な行動の結果と考えます。敗戦後、今が最悪。
関口徹
とてもよくわかる話です。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
Hideo Isoyama

信じる、
信じないは自由ですが、
太古から現在まで、
いやこれから未来永劫
信仰は続くんです。
誰がどうさからっところで
信仰は無くなりません。
 
 
ーーーーーーーーーーーーー

武田 康弘
自分が「神」がいると思うのは、その限りではもちろん自由なわけですが、
クリスチャンと話をすると、わたしたちの最大のミッションは布教することです。と言います。
神はいる、神に従え(聖書なり教会なりの教え)と言いますから、
否、あなた方の妄想は大きな迷惑になっているから、やめてください、と言います。それももちろん私の自由です。
人を惑わす信仰の世界に入らないように、というのがわたしの活動です。自分の内奥にある善美の座標軸に基づいて生きるのが、よき生です。超越者を外部に求めるのは不幸の源です、とね。
 
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松島 義雄
神は存在するとは思ってません。(多分書物に触れてからでは、)生まれた時は誰もが無垢です。どう変わるかは環境だと思います。神も仏様も両親に連れられて神社仏閣に行ったときに自然に生まれたものではないでしょうか、神、仏様を信じたから生活が特段良くなることも悪くなることもありません良否は個人の度量(努力)にあると思ってます。
信じるか信じないは本人次第です。人に進めるものではないと思います。
やり取りを楽しませて頂きました。
金時綾小路
強烈に流布する創価学会の信徒の経験ありの私。職場にて約3ヶ月の体験あり。この体験により、宗教教義の帰結は実利と洗脳です。信じる人、信じない人と言う程度では個人的核を失うと思います、血も涙もない侵略行為は宗教流布と密接な関係です。信じるのは勝手にしていただいで他宗教を批判蔑視するなと。余計な物は要らない。あえて云えば愛が神。搾取する神、人殺しを止められない神、税をむさぼり食う天皇と言う神、こんな哲学の無い神も珍妙だ。
 
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「自己反省なき他者攻撃」というのと、「高踏的な上から目線」というのは、同じ精神の裏表だな、と思います。結局は、「自分と自分ち」だけで、「公共性=社会問題への批判精神」がないのです。ダメの見本で、自他を活かす愉悦感がありません。皆に広がる面白さなし。

武田康弘
 
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武田哲学の土台 「欲望」という基本原理 60年が経ち一巡り。 恋知する実存者として生きる。

2024-01-08 | 恋知(哲学)

 2024年辰年の幕開け~ 


武田哲学の土台 「欲望」という基本原理 60年が経ち一巡り。 恋知する実存者として生きる。

 わたしは、ちょうど60年前、小学6年生の時に、ある考え(悟り)に至りました。父、祖父とも浄土真宗大谷派の僧侶でしたので、欲望についての悩みでしたが、終止符をうったのです。

 人間が生きるのは「欲望」であり、あらゆる営みは欲望による。だから考えなければいけないのは、欲望の質である。自分も皆も社会もよくする欲望はすばらしいが、逆はダメだ。何がよくするか、よいとは何か、を考えて生きることこそが根本だ。

という基本原理を得たのです。

 自他の欲望のありようをよく見ると、存在がどのようなものか、炙り出しのように浮かび上がります。

 その地点から自分自身のことだけではなく、社会悪・公共悪とも戦ってきました。60年が経ち一巡しました。ここからまたガチンコで自分を鍛え、よい教育実践をし、公共悪と戦います。よい理屈を言っても結局は、「自分と自分ち」ばかりで公共世界への寄与がない人には、厳しくします。

 それを伝えるのが恋知の営みです。恋知する実存者として生きる!

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新春 わたしのFb語録ー1             

 音楽家は身体が自然と音楽になっいています。写真家は身体が写真眼になっています。
 恋知者(哲学者)は身体が自然と思考しているのです。
 思考が本質に向かって進み、ピントが合う。直観と体験能力が卓越して働いているからです。活字を読み理解するレヴェルとは異なるのです。

 なぜだろう、と考えることは、自分自身の実存からしか出てきません。生きるという地点からしか生まれません。だからAIのような生きていない存在は、考えないで処理するのです。
 いまの受験知は、考えないで処理する正確さとスピードをつけるものですので、「優秀」になるほど、人間でなくなります。内的に生きる意味が消えていきますから、

 お金や肩書きや名誉などの外なる価値を追うしか生きられなくなります。【精神死】に至る病で、「人間は死んだ」となるのです。

 

わたしのFb語録ー2

 私はず~~と「ふつう」が凄い・素晴らしいを求めてきました。日々の行為・思想・食事・住まい・音楽・写真・学習。世間やTVは特別がいいと言い、世俗的上下の価値観です。わたしは全然違います。ふつうにこそ偉大があるという確信で生き「最高のふつう」を追求する哲学です。

 

「ふつう」というのは、世間価値ではまったくありません。わたしの心身にフィットすること。呼吸が楽になる生き方です。他者承認などに惑わされない心と頭のこと。自己承認できる思想で、世俗的な価値観に染まらぬことです。自慢もなく自己卑下もなく、自然体で生きることです。理論家や理屈屋さんではなく、微笑んで生きるのです。こどもたちの笑い声のようにね。それが「ふつう」です。

 

武田康弘

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2024年迎春 コラボ写真の年賀状です。今年もよろしくお願いします。

2024-01-01 | 恋知(哲学)
わたしは、年男です。ちょうど60年前(小学6年生)、人間の欲望について、悩みに悩み、考えに考えて、ついに結論(悟り)を得ました。

それは簡明にして不動のもので、
人間が生きるのは「欲望」であり、あらゆる営みは欲望による。だから考えなければいけないのは、欲望の質である。自分も皆も社会もよくする欲望はすばらしいが、逆はダメだ。何がよくするか、よいとは何か、を考えて生きることこそが根本だ。
という基本原理を得たのです。

その地点から自分自身のことだけではなく、社会悪・公共悪とも戦ってきました。60年が経ち一巡しました。ここからまたガチンコで自分を鍛え、よい教育実践をし、公共悪と戦います。よい理屈を言っても結局は、「自分と自分ち」ばかりで公共世界への寄与がない人には、厳しくします。

昇竜の年にしましょう~~~~! 共に。

 

 

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