思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

今日は、明治天皇の誕生日=文化の日です。明治維新ー明治政府がつくった天皇教とは何か? シリーズをはじめます。

2023-11-03 | 学芸

どなたもご存じのように、
水戸学に基づく吉田松陰の熱き情熱に心酔した長州松下村塾の10代中心の若者たちの合言葉=基本理念が「尊王攘夷」(天皇を尊重して外国を打ち払え)でした。
その思想により過激極まる明治維新が行われたわけですが、

今日は、明治天皇の誕生日=文化の日ですので、天皇教に基づく天皇制とは何か?のシリーズを始めようと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『令和から共和へ』ー天皇制不要論ー(同時代社刊・2750円)の出版記念パーティー

2023-10-30 | 学芸
今日は、昨年出た(出した)本『令和から共和へ』ー天皇制不要論ー(同時代社刊・2750円)の出版記念パーティーでした。
編著者の堀内哲さんの主催ー湯島の全国家電会館で。著者たちプラス数名が集まり、ワイワイガヤガヤ。わたしはとくに大きな声で(笑)楽しい時間で気分いい~~
それにしても、わたし(左端)より年上は、一人しかない!!年寄りだ~(笑)
前列の左端は、宗教学の島田さんですが、いま(29日夜9時~)、NHKに出ています。統一教会問題などの信者2世へのアドバイス。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日言われる日本独自の神社信仰なるものは国体思想・国家神道によって歪められたもの (古林治)知らない人ばかり

2023-05-28 | 学芸

 白樺教育館ホームページより。

日常にあふれる「民主制」を阻む装置、
    そのひとつ「神社のお話」  

  元号、皇族への敬語、天皇称号の乱用、初詣や神棚の推奨、天皇を讃える国歌・「君が代」、国家神道と結びつけられた祭日、偏った歴史教科書、等々・・・
民主政」を阻む装置、「国体思想の刷り込み」装置は21世紀になってもそこら中、日常の中にあふれています。 「神社」も実はそうした装置の一つであると自覚することは大事です。
洗脳されないために。 

 以下の論考は、私(古林)がFacebookに載せたものです。転載します。 


 
上は北斎の「富嶽三十六景」から 三重塔が見える。 下は歌川広重の相州江之島弁財天開帳参詣群衆、参拝客で賑わう、かつての霊場 江ノ島の姿。歌川広重、19世紀。画像:東京国立博物館
「江の島神社」は明治の廃仏毀釈の後に作られたもの。 その前は、およそ1050年にわたって金亀山与願寺(よがんじ)という密教系の寺だったようだ。 祀られている弁財天は、もとはインドのヒンドー教の女神・サラスヴァティ(創造神ブラフマーの奥さん)で琵琶のような楽器・ヴィーナを抱えている。 サラスヴァティは仏教を守護する神として取り込まれ、中国に渡り、そしてこの国にやって来た。 習合の塊だ^m^
 
こちらは江戸時代の鶴岡八幡宮寺の様子。
仏教色の濃い堂塔は破壊され、看板からは「寺」の文字が削られた。なにしろお寺だったからね。
僧侶たちは全員、路頭に迷うか神官になるかを迫られ止む無く神官になった。

僧形八幡神像も主祭神のひとつだったはずだが、焼却されたのか叩き売られたのか不明である。(習合の典型である)僧形八幡神像は明治政府によってもっとも嫌われていたのでおそらく焼却されたのだろう。
ごく最近、筑波の椎尾山薬王院で修復された像が、鎌倉八幡宮寺から勧請された僧形八幡神像であることが判明した。室町時代のものである。これが八幡宮寺にあった主祭神の僧形八幡神像にちかいものなのかもしれない。 
 
最近、椎尾山薬王院で再発見された僧形八幡神座像。
室町時代、鎌倉八幡宮寺から勧請されたものと考えられている。 
廃仏毀釈の折、住職が自ら頭をたたき割って首と胴体を保存したのではないか、と推測されている。
廃仏に狂奔する役人たちを誤魔化すためだ。
八幡宮寺から勧請されたということは、鎌倉にあった僧形八幡神もこれに近い姿であったのではないか、と想像する。  撮影:古林
 
宝暦5年(1755)ころの筑波山中禅寺の様子。
廃仏毀釈によって、一部の神社を除き、ほぼすべて破壊焼却された。

仁王門は隋神門と名を変え、辛うじて残された。
ただし、仁王像の代わりにヤマトタケル云々の新しい像が置いてある。
本堂のあったところには、今は筑波山神社拝殿が、その左側にあった三重塔のあとには社務所ができている。
中禅寺は法相徳一による創建(9世紀初め)以来、1100年近く続いた寺である。 が、現在、神社があたかも太古の昔からあるように語られているのである

天皇家ゆかりの碑や水戸劇派天狗党ゆかりの碑などがそこら中にある。昭和以降もそれは続いている。
主祭神のイザナギ、イザナミが正式に認められたのは、大正時代になってからのこと。 東国の古代に朝廷の神々がいるわけがなかろう。ここは蝦夷の国なのだ。 筑波男(お)の神、女(め)の神が崇められていたのである。
詳細は以下で。

筑波山で起きた廃仏毀釈とその後
 - 現代に生き続ける国家神道 -

《神社の歴史と今日的意味》  
2023年1月11日 古林 治   

 年末年始を迎える度、いつか気になる「神社」について簡単に記そうと思っていた。
ブラタモリの「江の島編」がきっかけで書くことにした。
だいぶ時間が経ってしまったけど (*´▽`*)
少々長いのでご容赦。 

 私たちが日常聞く、神社のさまざまな由緒は、中世以降に書き加えられたものが多い。
中には、明治、大正期に書き加えられたものも少なくない。
筑波山神社のイザナキ、イザナミが正式に主祭神となったのは大正時代だ。

 ちなみに、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てくる鎌倉八幡宮は中世鎌倉時代、頼朝の命で僧侶によって建てられ、江戸時代初期にはさらに多くの堂塔が建造されて巨大な寺院群となっていた。
もともとが「八幡宮寺」なのだが、明治になって『寺』の文字は削られ、仏塔は破壊、移築、焼却の憂き目に遭い、仏像の類は焼却されるか、たたき売られるなどして多くの貴重な宝物類は散逸した。
ともあれ、八幡宮に祀られるカミサマも多様である。が、そのうちの一つ、仏教色の強い「僧形八幡神」は徹底的に排除されてしまったことは言うまでもない。

 神社は、中国から入ってきた仏教(道教、儒教との混淆)の影響を受け、同時にそれへの対抗もあって、抽象的な存在だった神の人格神化、定住化、視覚化が進み、社(神社)が形成された。
つまり、国家形成のために太古からある自然信仰を仏教(+道教、儒教)の思考、様式を利用して取り込んでしまったのである。だからその意味では、神社は最初の国家主義の象徴であり、端から神仏習合・混淆であり、創建は古くとも7世紀、多くは8世紀以降のことになる。

 ただし、「神社」も「神道」という語もずっと後、中世に作られた語である。当時、書き残された「神道」とは「じんどう」もしくは「しんどう」と読まれ、神を祀る営み一般の意だと言われる。
つまり、古来の信仰も道教も一緒くただったのだろう。 

 伊勢神宮は天武・持統朝期に創建されたが、最初の天皇である天武・持統夫婦とも実は道教〈神仙思想〉狂いと言われ、神=「天界の高級官僚」になれると信じていたようだ。
天武の和風諡号(しごう)は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひと)である。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(えいしゅう/残る2つ蓬莱、方丈)のことであり、「真人」とは天界(神仙世界)の最高位の官僚(神仙)のことである。 修練によって人間も神(天仙の格下の神仙である地仙や尸解仙(しかいせん))になれると信じていた。人神不分離の考えはここから来ているのかもしれない。 

 こうして神社創建が始まった。しかし、ほとんど(特に地方で)は朝廷の命にもかかわらず、神社は作られなかった。 「神は形のないもの」だったからであり、創建や維持管理のための費用を出したくなかったからであろう。 

 平安中期から朝廷による中央支配が弱まり天皇称号が消え中世に入ると、人々は皆自由な発想を始める。仏教・道教に記紀神話とを融合して自由な物語創作がブームとなった。
これは中世日本記と呼ばれるが、多くの神社はこの中世日本記というブームの中で作られたのであろう。ちなみに、最初の神道書なるものは僧侶によって書かれたのである。
こうして、さらに習合が進み、インドや中国の神さま、道教の神さま、日本古来の神さま、それに仏さまに観音さままで何でも神社の御祭神となっていった。 これが八百万の神々の由縁であり、わが国の伝統と呼ばれ、長らくその形をとどめていたと考えられる。 

 幕末、光格の時代に「天皇称号」が800年以上ぶりに復活し、明治に入って再び強力な政治的意図が入り込む。 

 神仏分離令により、もともと習合状態であった神社仏閣内の仏塔・仏像・経文は破壊焼却され、習合色の強い寺は神社に変えられ、由緒も書き換えられ、御祭神はすり替えられ、量産された鏡の御神体があちこちに配され、後の国家神道(万世一系神の国、国体思想)につながるように再編された。
つまり、明治になって神社という歴史と伝統は、国民を国体思想に染め上げるための洗脳装置に変えられ、国家主義の象徴になっていったのである。 ただし、今度は仏教・道教を介してではなく、儒教(朱子学)に強く影響された水戸学、平田国学、津和野国学とキリスト教という一神教を介在して再編され、父権的要素満載の新国家宗教となった。

 こうして生まれたのが天皇現人神、万世一系の物語というイデオロギーを支える今日の神社である。
国民は生き神である天皇の赤子として位置づけられ、個人という存在は認められない時代を迎えることになる。 

 敗戦後、国家神道解体のため国家管理であった神社は宗教法人化された。一宗教法人として認知され、ほとんどは神社本庁のもとに組織化された。
だが、明治政府によって再編された神社の実態がそれ以前に戻されたわけではなく、内実はそのままであり、中にはさらにエスカレートして国家神道まっしぐらの神社もある。 

 神社は歴史と伝統の象徴であるかのごとく思っている人は多いが、その意味はまるで異なってしまった。明治政府の意図が深く浸透し変質してしまった神社を単なる習俗と軽んじて誰も問い返さないのは非常に危険である。侮ってはいけない。
今の神社の姿が日本古来の伝統・信仰を現わし、万世一系の天皇の国・神の国だという空気感(国家主義の土台)が知らぬ間に、刷り込まれていくのだ。
伊勢神宮(アマテラス)を頂点とする序列化された神さまたちの存在は、私達人間社会の序列化も当然視することになる。 

 洗脳は深刻だ。 現在の自民党国会議員はほぼ全員、神道政治連盟所属であり、今日の神社の在り様を全面肯定支援していることをお忘れなく。 

 そういうわけで、私は政治的意図にまみれた神社にはあまり近づかない。
気持ち悪さが先立つのである(*´▽`*)
ちなみに、ブラタモリ『江の島編』に登場する江の島神社も、よくそばまで行く筑波山神社も明治になってから作られたもの。いずれも国家神道敷衍のための存在であったし、いまなおそのような存在である。
タモリさん、突っ込みが足らんよ! 

 明確な自覚がないと皆、知らぬ間にあのおぞましい国体思想に取り込まれてしまう。
要注意! 

 ちなみに、「神仏習合・混淆」は明治政府による造語であり、あたかも、本来は神道と仏教が別のものとして存在したかのような倒錯をもたらしてしまう。
神仏分離を本気でやれば、神社そのものは消え失せ、残るのは太古からある自然への畏敬の念だろう。
今日言われる日本独自の神社信仰なるものは国体思想・国家神道によって歪められたものなのである。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白樺ヨガフィロソフィー第1回】福田 南さん(インド政府公認教師)が体験に基づき分かりよく深く。インドの道4分のビデオも

2023-05-18 | 学芸

第1回 白樺ヨガフィロソフィー クリックしてください。楽しさ満載です。
5月17日(水)白樺教育館




写真撮影は、わたし武田康弘です。

内容は、クリックしてください。よく分かります。インドで撮影のビデオもあります。


白樺ヨガフィロソフィーは、第二水曜を除いて、毎週水曜日午後1時30分より開催します。


 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白樺同人の集いー-2月5日「白樺w祝いの集い」のコラボ写真集。

2023-02-25 | 学芸
2月5日の【白樺w祝いの集い】=A4でコラボ写真集をつくりました。
ワードでつくったものを複写しましたので、画像の質は落ちていますが、様子はよく分かると思います。【恋知する実存者】として生きる白樺同人です。


武田康弘
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次回描かれる「鎌倉殿の13人」を見る前に、2年前のBLOGをぜひご覧ください。後鳥羽上皇vs北条政子

2022-12-06 | 学芸

2年2か月前のBLOG再録ですが、北条と後鳥羽上皇と法然と法然と親鸞との深い関係を歴史家も知りません。  
情けないことです。以下をぜひごらんください。来年2023年は、最大宗派の浄土真宗開宗800年(茨城の稲田と八郷などが中心)親鸞生誕850年です。

後鳥羽上皇の悪業=承久の乱 と 北条政子・義時・泰時 と 法然・親鸞の念仏宗。茨城における浄土真宗開宗。2

2020-10-10 | 学芸

2 承久の乱と念仏宗


 1221年、朝廷(平安時代初期の村上天皇までは天皇家と呼ばれていた京都王)を真正面から打ち破り、完全勝利して新たな日本をつくったのは、権力や財への興味などなかった北条政子と弟の義時とその息子の泰時でした。日本史最大の革命でした。

 伊豆の片田舎の小豪族でしかなかった北条の姉弟は、朝廷と戦うことなどは夢にも思っていませんでした。伊豆に流されていた源頼朝への政子の純粋な愛がすべての始まりでした。親の反対を押し切り、政子は頼朝の元に飛び込み結婚しましたが、頼朝が平氏との戦いに勝ち、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたので、その国造りを全力で支えたのでした。

 政子は、頼朝の突然の死(1199年)の悲しみから僧となりましたが、二代目の息子頼家は情けなく力に欠け、三代目の実朝も貴族文化に憧れ軟弱で、鎌倉幕府は求心力を失い、結局は、冷静で頭がよく胆力も強い弟の義時が執権としてトップに立ったのでした。

 京都の後鳥羽上皇は、大変に権力欲が強く、王者意識をもっていましたので、源頼朝が征夷大将軍の時から東国も朝廷の支配下にしたいと考え、頼朝の忠誠心など当然の事とし、遅れた東国の武士集団の長としか見ていませんでした。
 後鳥羽は、源から北条に実権が移ったのをチャンス見、「義時を討て!」という院宣を全国に出し、朝廷による全国支配を企てたのです。義時が「朝敵」となれば、幕府は瓦解し、東国武士団は分裂するとみた頭のよい策士・後鳥羽上皇ならではの決断でしたが、

 彼の大誤算は、法然の念仏宗に帰依し、愛情深く恐れをもたぬ天才政子の存在を見なかったところにあります。頭も心も優れた武将の義時とはいえ男集団だけならば、犬のように上下意識の強い武士集団は分断され、戦いにならなかったでしょうが、女性の政子の東国武士への熱い想い、最愛の夫頼朝が言語を絶する苦難により拓いた鎌倉幕府を守ることへの強固な意思、再び京都に支配され誇りのない惨めな生活に戻ることへの断固たる拒否、それらを訴えた「大演説」により、動揺していた鎌倉武士たちは一致団結したのでした。

 朝廷軍が鎌倉に攻めてくるのを迎え撃つのでは敗北する、直ちにこちらから京へ攻め登る必要を政子は、弟の義時の息子で心身とも強壮な泰時に話しました。幼少時からずっと伯母の政子を慕い尊敬していた若干22才の泰時は、死を覚悟し、わずか18騎で出陣しましたが、泰時出陣の3日後には、関東の武士たちは続々と京へと進撃を開始したのです。ついにはその数19万に達しました。

 宇治川を渡り切り、東国武士が勝利を目前とした時、後鳥羽上皇の使者が来て、院宣が渡されました。

「この度の合戦は、朕(ちん)の意志からではなく、周囲の者たちが企てたことだ。今となっては、北条義時が言う通りに万事を行う。よって、洛中での狼藉(ろうぜき)を禁ずる旨を東国武士に命じてほしい」

 泰時は苦笑しました。父の義時の殺害を全国の武士に命じておいて、負けるとなると、周囲の者のせいにし、自分は戦いもせず、責任を取ろうともしない。

 京都・朝廷を完全制圧した後、義時は、後鳥羽上皇らを処分しました。後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しで、終身刑。後鳥羽は、流刑を解けばまた何をするか分からないので、流刑者は数年で元の場所に戻すという従来の慣行を変え、60歳で死去するまで19年間隠岐の島に閉じ込めました。順徳天皇も流刑地の佐渡で21年後に45歳才で死去。土御門は自ら申し出て流刑となりました。皇室所有の荘園数百か所はすべて没収されました。

 後鳥羽上皇の残りの息子10名は、出家させられましたが、その中から、ちょうど東国茨城の地で誕生しつつあった親鸞の浄土真宗を助ける者が出たのです。親鸞の弟子となったのですが、なんという劇的な展開でしょうか。誰でもが南無阿弥陀仏の6文字で救われるという念仏宗は、傷心の息子たちの拠り所になったのでしょう。

 1207年、後鳥羽上皇は、「法に背き、義に外れ、法然門下4名を不当にも死罪とし、法然上人他を流罪とした」(「教行信証」親鸞著)のですが、その14年後に起こされた後鳥羽上皇の鎌倉北条幕府転覆の企て失敗により、自らは終身刑となり、息子たちは僧となり、なんと彼が弾圧した念仏宗に帰依して、親鸞を助けることになったのです。

 なお、親鸞が念仏門の法然門下となったのは1202年ですが、政子が法然門下になったのも同時期、少し前であったと思われます。また北条幕府と親鸞は深い結びつきをもちますが、それはまた後日に。

ーー続くーー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「NHK歴史探偵・後鳥羽上皇」=とんでもない歪曲・事実隠蔽に呆れ返りました。

2022-11-02 | 学芸

今日のNHKの後鳥羽上皇の紹介番組(歴史探偵)は驚きです。

まるでよい人のような紹介が続き、朝廷が鎌倉幕府=北条政権を抑え込もうとしたことをプラスに見るような話には呆れました。

1221年の承久の乱(後鳥羽42歳)は、東国も実際上、朝廷がコントロールしようとして、義時を討てとの院宣を出したわけですが、それは、京都の朝廷支配から脱して、兄の意思を受け継ぎ、東国を自立させようという北条義時の強靭な理念をつぶそうとした後鳥羽という人間の激しい権力欲であることを等閑に付すもので、ひどい番組でした。

そもそもその14年前の1207年(後鳥羽28歳)に、日本史上一度もなかった僧侶4名を死罪にするというとてつもない悪行を働いたのが後鳥羽上皇で、しかもそれは、後鳥羽が熊野詣で留守にしていたとき、女官二人が、法然の念仏宗に惹かれて出家してしまったことに怒り狂ってのことでした(後鳥羽は法然門下の僧に劣っていたことの証明)。親鸞の兄弟子4名を、罪状も告げず、取り調べもせずに死罪にしたこと、それは決して許さない、と親鸞は主著「教行信証」の末尾で怒りをこめて書いています。

男盛りの28歳の時の愛欲がらみの権力欲の激しさと、承久の乱で東国を再び自分のコントロール下に置こうとした「義時を討て」の政治権力欲とは二つで一つのことなのです。

法然門下の法然、親鸞など7名を流罪にし、親鸞の兄弟子4名を死刑にした史上最悪の建永の法難にはまったく触れない番組は、綜合的判断力のない教養に不足する番組制作者の無能ぶり(それともわざと?)を露わにしていました。


武田康弘

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄土真宗「親鸞会」へのコメント。1207年の法然門徒の死刑 流刑と1221年の承久の乱は、つながっている。

2022-06-25 | 学芸

以下は、FBの浄土真宗「親鸞会」への投稿(コメント)です。

 今の大河「鎌倉殿の13人」で、クライマックスとなるのが1221年の「承久の乱」で、これは日本史最大の変革=革命でしたが、
「北条義時を討て!」と院宣を出した後鳥羽上皇は、
 その14年前(1207年)に、法然門下の僧の4人を死刑とし(日本史上死刑が実行されたのはこれが初めて)師の法然を含む親鸞など8名を流罪にしましたが、
 これは、旧仏教側の訴えにより起きたことではなく(訴えたのは興福寺ただ一寺のみ)、上皇のお気に知りの女官二人が、熊野詣に行っていたときに、念仏宗に帰依して出家したことによる【私怨】によるものでした(2008年に中世史の第一人者・上横手氏が書籍で分明に)。

 北条政子、弟の義時(小四郎)、義時の長男の泰時(子ども時代は金剛)この3人が一体となって新しい日本を誕生させたのですが、政子を誰よりも敬愛していた泰時は、政子の供養のための校合を茨城の稲田に居た親鸞に依頼し、その作業をねぎらいに幾度も訪ねています。親鸞はその後で京都に帰ってからも(北条政権が後鳥羽上皇を流刑=終身刑として関係者を全員処分したので帰れたのです)、政子の供養のために尽力しました。親鸞は、主著「教行信証」末尾には、後鳥羽や順徳の名をあげ、彼らは法に反し義に違しと厳しく批判しています。また、政子は法然門下ですので親鸞の兄弟子にあたります。

 というわけで、1207年の「建永の法難」と1221年の「承久の乱」の二つは一続きのものなのです。思想的な革命と政治社会的な革命は同時に起こったことが分かります。
 どちらも後鳥羽上皇の激しい欲望(愛欲と権力欲)が端緒になっていますので、彼は、反面功労者ということになります。

 以上は、浄土真宗開宗(来年2023年は、開宗800年・親鸞生誕850年)の地の茨城八郷の板敷山大覚寺を3年前に37年ぶりに訪れたときに、「寺の開基は後鳥羽上皇の第三皇子」と書かれているのを見て、なぜ上皇の息子が?と疑問をもち、寺に聞きましたが、「そう書かれているだけで分からないのです」とのことでしたので、わたしが頑張って調べ、突き止めたことです。

 後鳥羽上皇とその息子たちは、承久の乱で、全員処分され(5名が遠島、8名が出家)、比叡山に出家した一人、周観(のち善性=親鸞が命名)は、おそらくは自身の傷心を救う「悪人正機」を唱える親鸞を頼って東国の茨城に来たのでしょう。同時に親の罪滅ぼしの気持ちもあったのでしょう。なお、東弘寺(東本願寺派)も善性の開基で、善性の木像があります。板敷山大覚寺(西本願寺派)には親鸞の木像があります。

武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK歴史探偵ー北条政子(15日放映)は素晴らしかった。情の深さと頭のよさ・新しい日本をつくりあげた偉人!

2022-06-17 | 学芸

昨晩(15日水)のNHKの歴史探偵『北条政子はどんな人物か』は、素晴らしい番組でした。

政子の情の豊かさと深さをあらわす新発見、鎌倉幕府をつくる過程で数多くの戦いをし、また、その後の後鳥羽上皇との戦い(承久の乱)で未亡人になった武士の妻たちに寄せる濃やかな心をあらわす櫛(くし)の紹介。

朝廷=後鳥羽上皇と戦うことになり動揺する鎌倉武士たちを一つした有名な名演説を、ジュリアス・シーザーが殺されたときに、ブルータスを弾劾したアントニーの名演説を引き合いに出しての説明など面白さも満載。知情意すべてに傑出した政子だからこその演説の説得力に改めて感心。

弟の執権 泰時の死後の混乱を、戦いや刑罰ではなく、協力で乗り越える新たな手法で幕府を安泰に導く知恵と度胸の実行力

二代目執権・泰時の武力ではなく、法(御成敗式目)による統治の成功への架け橋となった政子の思想と行動。それは、後の時代よりも進んだ日本を生み出したこと。江戸時代の儒教道徳を超えた男女同権の世を現実のものとした政子の偉大さを伝えていました。

実力ある安定した北条政権の日本だったからこそ、その後の元寇に勝つことができたことなど、まことにわたしが言いたいこと、このblogで描いてきた見方が示されていて、最高の気分でした。う~~ん素晴らしい。再放送をぜひご覧ください。

ー--------------------

以前に示しましたように、北条政子・義時(政子の弟)・泰時(義時の長男)の3人により、日本は新たな日本になったのです。日本史最大の変革を成し遂げた北条政権は、まことに素晴らしい。

また、同時代に親鸞による浄土真宗が茨城の地で開かれ、承久の乱で処分されて僧になった後鳥羽の息子の一人、周観(のち善性)が自身の傷心をうめるために、また父の罪滅ぼしのために父が流罪とした親鸞に帰依し、弟子となって板敷山大覚寺と東弘寺を開基したのです。わたしが調べたことが世に知れると嬉しいです。来年は開宗800年です。泰時は、政子の供養のための校合を親鸞に頼み、その作業中、いくども労いに訪れています。

1207年の法然門下の死刑と流罪は、後鳥羽上皇が28才の時に起こした愛欲に基づく悪行で、その14年後1221年の承久の乱は、後鳥羽上皇の権力欲による悪行です。この二つの悪行が、結果として日本に思想(宗教)と政治の同時革命を起こしたわけです。親鸞は主著「教行信証」の末尾で、後鳥羽と順徳の名をあげて、法に反し義に違した朝廷を厳しく批判しています。


武田康弘



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1991年の討論塾・討論会【竹内芳郎・竹田青嗣・武田康弘を中心とする3回シリーズ】 恋知エピソード1

2022-06-13 | 学芸

 31年前、1991年の討論塾・討論会【竹内芳郎・竹田青嗣・武田康弘を中心とする3回シリーズ】1、社会批判の根拠。2、自我論と真理論。3、現象学の意義、と関連資料などをまとめて「恋知エピソード1」として冊子にしました。送料込みで870円ですが、pdfでも無料で読めます。編集と製作は古林治さん。  クリックでpdfに飛びます。

恋知とは、
理論としての哲学から、体験を礎とする哲学(これを恋知という)への大転回のことで、
意味充実の生き方と学び方を獲得&実践していく営み。




武田康弘

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神社とは、681年から作られ始めたもので、古来の自然宗教とは無関係です。初詣は明治の半ばからです。

2021-12-29 | 学芸

 初詣とは、昔からのものではなく、明治の半ばころから始まった習慣です。
 【神社】とは、最初に天皇を名乗った天武の命令で、681年から作られ始めたもので、古来のものではありません。
 民を従わせるために律令国家が設立しました。アニミズムなどの自然宗教とは無関係です。
 神社に行かれる方は、それを知った上でお出かけください。

 武田康弘





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナワクチン重篤副作用問題=心筋炎と言う一生抱える爆弾 江口 美都絵著

2021-12-09 | 学芸

江口 美都絵

  •  

コロナワクチン重篤副作用問題、大展開ですね(最初に警告してた通り)。

とりあえず、心筋炎と言う一生抱える爆弾をワクチン接種で背負った事を、誰がどの責任で、そしてどう精神的に、社会コストとして受け止めて先に行けるか、患者を置き去りにした深刻な闘争と逃走がすごいことに。

--->打った人は心臓に二重の意味で悪いので、以下読まないでくださいね。

現時点で、少なくとも心筋炎については国が重大な副作用勧告をしたわけですが、心筋炎は悪化して死因になることはあっても治らない。今症状出て無い人でも全然セーフでは無いし、非可逆進行性で軽症と言うものがないので、命に関わる心筋炎ファクターは誰にとっても時限爆弾であり続ける。問題はいつ爆発するかだけ。

とりあえず接種者には心臓のMRI、心臓の負荷をかけない、心臓に異常を感じたら設備の整った循環器系の病院に定期的にかかるしか他ないだろうとのこと。

長期的な治験してないので、他の指摘されている影響は同じように発生しうる。

さあどうやって新しい状態と付き合うべきかを考えなくてはなりません。研究医でない人間にとって、ある程度諦めて豊かな人生について考える方がいいかも知れません。

何で私が今になって書いているのかと言うと、一時別件の医療問題で非常に慌ただしくしていたので大展開の瞬間を見逃してしまい、しかしこの一年でもなんだか必要以上に殺気立ってるなと思ったら、この展開と今日認識した次第。人事もあっての展開で、岸田効果ではあるんですけど。

とにかく責任の押し付け合いとか、私は推奨していないとか、言われて打っただけだとか、リスクを知らされかったから勧めただけだとか、貰ったお金はあくまで少額だったとかの論点で殴り合いが起きていてカオスです。

論文上や臨床上の事実、in vitro,in vivo 様々で明確だった事象が、医学会やメディアが日本では自律性を失っていたので、政治の結果に各方面の専門家が右往左往している状態です。

1億人打っちゃった後なので、健康というものの基準、スタンダードの位置を変えるしかないのかも知れません。フクイチ後の基準値が変わったまま10年を超えている様に(既に死亡者数は超えてますが)。

こうなっても対照群があるのは非常に問題なので、ワクチン接種圧は当分続くでしょう。接種者や接種キャンペーンに関わった人は事実は受け入れない努力をさらにするでしょう、出来る限りは。

カタストロフが常態化し続けるんですね。何も学んでいない。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

800年前、日本史最大の変革。北条政子らの前に後鳥羽上皇らが無条件降伏。 法然、親鸞の念仏宗と深く関係。

2021-12-01 | 学芸


後鳥羽上皇

 1221年の5月19日、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府=北条政権を倒し、東国の実権も握ろうとして、「北条義時を討て」と全国の武士団に院宣を下しました。


 それに対して、鎌倉幕府=北条政権側の武士たちは、上皇軍が攻めてくるのを迎え打つとの意見でしたが、京都出身で幕府のご意見番の大江広元は、「運を天に任せて兵を京都に派遣すべき」と発言しましたので、執権の北条義時は、第4代鎌倉幕府将軍=姉の北条政子に判断を仰ぎました。

 政子は「上洛しなければ、絶対に官軍を破ることはできないでしょう・・・・すみやかに京に参るべきです」と言い、動揺する武士たちを感動で涙させた大演説で一つにまとめあげ、後鳥羽上皇との全面対決が決まりました。

「吾妻鏡」の複写  クリックで拡大


 政子は、夫の頼朝が、平氏をやぶり東国初の政権を打ち立てた後も、朝廷の慇懃無礼な態度と無理な要求に呆れ返っていましたが、京都出身の頼朝は、それでも朝廷を重んじて、いつも耐え忍んでいるのを見て気の毒に思っていました。
 頼朝の死後、二人の息子は第2代、第3代将軍となりましたが、不遇と悲劇で二人とも早世し、第4代将軍となった政子と、優秀な弟の執権・義時は、上皇らの毎度の嫌がらせに辟易していました。彼女は上皇ら京都の狡知なやり口を熟知していましたので、「直ちに上洛すべき」と判断したのでした。

 3日後の5月22日に、北条義時の長男で、伯母の政子を心から尊敬する北条泰時(22才)は、わずか18騎で京に向けて出陣しましたが、その後直ちに、東国各地からの軍が泰時に合流し、宇治川についた時には、19万の大軍に膨れ上がっていました。敗戦は間違いないと悟った後鳥羽上皇は、使者を介して「この度の戦は、朕の本意ではなく謀臣らの企んだことである。今後は、北条義時が申請するとおり万事院宣を下すので、洛中での狼藉は禁ずる旨を東国武士たちに命じてほしい」との無条件降伏の書状を、戦の総大将泰時に届けたのです。

 6月15日、京都は東国武士たちにより焼き払われ、鎌倉幕府の御家人でありながら朝廷側についた者たちは処分されました。日本史を大変革する戦は、わずか1か月余りで終わり、直ちに天皇家(当時はすでに天皇という呼称は存在せずただ王と呼ばれていたが)の処分が検討され、後鳥羽上皇は隠岐へ順徳は佐渡に流刑(再び謀反を起こさぬように結局は「終身刑」となりますが、日本史上、終身刑となったのは初めてのことでした)。また、この戦に反対した土御門(つちみかど)の処分は見送られましたが、自ら進んで流刑を望み、土佐へ。後鳥羽上皇の息子の残りの8名は、出家を命じられ、仏門に入りました。

 また、朝廷の財産は、全国の荘園すべて没収され、御家人たちに分け与えられました。京都および京都以西の朝廷が支配してた土地もすべて北条政権により管理され、御家人たちに与えられたのです。

 この800年前の「承久の乱」により、日本史は、東西が完全に逆転し、以後、江戸幕府末まで800年以上にわたり武士政権が続くことになったのです。北条政権の厖大で詳細な日記『吾妻鏡』(あずまかがみ)は、後の徳川家康の愛読書ともなりました。

 ついでに言えば、江戸の幕末には、開国し、朝廷と幕府が合体して(公武合体)新たな日本をつくることが合意されていましたが、天皇を神とするというカルト宗教の思想をもつ長州藩の下級武士たちの過激な暴力により、明治維新という逆転が起きたのです。アジアで最初の市民社会への成長(欧米の一神教=キリスト教に基づくのではなく、仏教=ブッダの実存思想(注)に基づく民主主義)は、天皇中心の国へと捻じれて後戻りしてしまいました。これについては、「明治政府がつくった天皇という記号」(ネットで読めます)をぜひお読みください。

 話を戻します。

 この1221年に起きた承久の乱により、後鳥羽上皇の息子たちが出家させられて仏門に入ったことは、その14年前・1207年に起きた法然門下の「建永の法難」と結びつくのです。


石岡市八郷の板敷山大覚寺 2020.8.19 photo 武田康弘  


板敷山大覚寺で住職から親鸞と弁念の話を聞くソクラテス教室の面々 2020.10.4 photo 武田康弘



板敷山大覚寺にある800年前の親鸞像   2020.10.4  photo 武田康弘

 親鸞が佐渡での流刑を終え、茨城(稲田や八郷など)を中心に念仏宗を広めて、師である法然の「浄土宗」のほんとうの教えという意味で、「浄土真宗」を布教していた時期に、出家させられた後鳥羽上皇の息子の一人が縁あって親鸞を訪ね、師と仰いだのです。周観(後に善性)は父である上皇が流刑とした親鸞の弟子になり、現常総市大房に東弘寺(写真4~5)、八郷(現 石岡市)に板敷山大覚寺(写真1~3)、現 古河市磯部に勝願寺を開基するという大逆転が起きたのです。もし承久の乱がなければ、あり得なかったことなのです。念仏宗は、傷心の善性を救ったのでした。


常総市の東弘寺にある善性像  2020.10.28  photo  武田康弘


東弘寺全景  2020.10.28  photo 武田康弘

 1207年の「建永の法難」とは、後鳥羽上皇が28歳、熊野詣に出かけていた時に、二人の女官が法然の念仏宗に帰依して出家してしまったことへの私怨により、法然の弟子、親鸞の兄弟子にあたる4名を死刑にした驚くべき事件で、実際に死刑が執行されたのは、日本史上これが初めてでした。高齢の法然を含み親鸞など8名は流刑となりましたが、この事件は、従来言われていたような旧仏教側の仕掛けたことではなく、後鳥羽上皇の愛欲に基づく恨みであることが今日では明白となっています(詳しくは、上横手雅敬・うわよこてまさたか・京都大学名誉教授が2008年に出版した『建永の法難』をお読みください)調べも行われず、罪状も告げられずにいきなり死刑が執行されたことにたいして、親鸞は、主著『教行信証』の末尾で、「(上皇らは)法に背き義に違し、怒りをなし怨を結ぶ」と書き、厳しく批判しています。

 鎌倉幕府最後の将軍で、北条政権の中心者であった北条政子は、夫の頼朝の死後に仏門に入り尼となりますが、政子は法然門下ですので、親鸞の兄弟子にあたります。親鸞より16歳年上。その政子の供養に親鸞は尽力しています。 
 当時は、追善供養のためには、一切経を書写して関係する寺に寄進することが最も大切とされていましたが、そのために一切経の校合(今でいう校正)という大変な作業を、親鸞は、北条泰時(承久の乱の総大将で、父の義時をつぎ、執権、名君として知られる)に頼まれて引き受けます。その作業の最中に、泰時は幾度も親しく親鸞をもてなしました。
 また、泰時の息子の泰次は、親鸞が京都へ帰る直前に親鸞に帰依し、成仏という法名になりました。
 詳しくは、今井雅晴(元 茨城大学と筑波大学教授)著の『67歳の親鸞』『70歳の親鸞』をご覧下さい。

 1207年の建永の法難(28才の後鳥羽上皇の愛欲による僧の死刑と流刑)
 1221年の承久の乱(42才の後鳥羽上皇の権力欲による戦争)

 この二つは、深く結びついています。
 親鸞は、60歳で茨城の稲田から京都に帰りますが、これも後鳥羽上皇が隠岐の島に流刑・終身刑となったことで可能になりました(自由に活動ができる)。

 話を承久の乱に戻します。

 北条家は、平家で、伊豆の片田舎の一豪族でしかありませんでしたから、京都の朝廷と争うとか、大きな権力を得ようとは夢にも考えていませんでしたが、なぜ、北条政権が誕生し、全国を統一することになってしまった(笑)のでしょうか。

 それは、20歳の政子が伊豆に流刑とされていた源頼朝に燃えるような激しい恋をしたことによります。政子は、「恋とはただの好色とはちがう。女の恋には命がかかっている。女の恋は、命がけのことじゃ」と弟の義時に言ったと言われます。
 平氏の北条時政の娘、政子は、源氏の頼朝に恋し、親の監視の隙をついて大雨の日に20km離れた頼朝の家に転がり込んだです。頼朝も「政子は野趣の大胆さと女の濃やかさを兼ね備えている。さまざまな知識にも通じていて、話していて飽きることがない。これほど面白い女はいない」との思いであったのでしょう。
 平氏と源氏、まるでシェークスピアの「ロメオとジュリエット」ですが、この二人の激しい恋愛こそが日本最大の変革を生み出したのです。エロース(キューピット)の神こそがこの世の始原だというギリシャ神話を想起させる実話です。

 政子が幼いころから最も信頼し何でも話せる弟の義時と、義時の長男で、政子を深く敬愛していた泰時、この三人は、みな、天下を取るとか日本を統一するというような野心など持っていませんでしたが、政子と頼朝が親の反対に従わずに結婚したことで、北条家が中心となる東国初の政権=鎌倉幕府が生まれたのです。無心が大事を為したのですが、この後の元寇を打ち破ったのも、最強の武士団の北条政権が西国まですべて統治していたがゆえだったと言えましょう。


 ともあれ、今年は、この日本史の大変革から800周年でしたが、学校の授業でもテレビでも話題にならないのは、まことに不思議な話です。いまだに明治維新がつくった天皇教の中にいるのでしょうか。北条政子という日本史最大の女性についてもその実像を知らせないのは、あまりに愚かです。ああもったいない! いつまで明治維新の過激派が水戸学に基づいてつくった「天皇という神話」に呪縛され続けるのか、情けない話です。


(注)ブッダ思想の核心は、以下の3点にまとめられます。

   「天井天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)とは、人は誰もみな、われ一人尊い存在として生まれてきた、比較できないそれぞれの存在で、上下はないという意味です。
 「縁起の法」(えんぎのほう)とは、固定した実体は存在しない、我(われ)というのは意識であり、自我ではなく、さまざまな縁によってつくられるという意味です。
 「自帰依・法帰依」(じきえ・ほうきえ)とは、遺言としての教え=遺教ですが、自分自身と法則に従え、という意味です。

 ブッダには「神」という思想はなく、人間の自由と責任を拠り所とする現代思想に直結しています。同時代、紀元前400年ころに活動したソクラテスとも重なるところが多く、紀元前3世紀には、多くのギリシャ王(各ポリスの王)が仏教に帰依しました。詳しくは、『古代インド』(中村元著)をお読みください。
 

武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のNHK Eテレ 承久の乱 後鳥羽上皇 vs 鎌倉幕府 まだまだ北条政子をぼかしていたのは残念。

2021-09-21 | 学芸

NHKは、かつて、大河ドラマ「草燃ゆる=北条政子伝」で、クライマックスの承久の乱を省いて終わりにしてしまうという考えられないドラマをつくりましたが、このところのNHKは、当然ですが、承久の乱をきちんと取上げています。

 しかし、残念なのは、まだまだ男性優位思想から抜け出せず、北条政子の力を正しく伝えていないことです。今日の番組でも、18基で最初に出陣したのが伯母の政子を深く敬愛する泰時であることの説明はなく、大江の進言に比重を置いた解説でした。

「我妻鏡」には、正確に書かれていますので、以前のBlogをご覧下さい。

Eテレは、よく頑張りましたが、もう一段深く、正確に!

今年の5月19日は、龍となった北条政子が、後鳥羽上皇への反撃の烽火をあげて800年。日本史最大の変革!

明日5月19日は、北条政子が、後鳥羽上皇の攻撃に反転攻勢した800年記念日=日本史最大の変革。まず、「吾妻鏡」をご紹介


武田康弘







 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1918年のスペイン風邪は、薬物の処方により多くの人が亡くなった。シンプルな治療法では高い治癒率。

2021-02-02 | 学芸
 
 
 以下は、田代正一さんのfbからです。示唆に富む内容と思います。
 
 1918年のスペイン風邪は世界中で2千万人の人々が死亡したとされている。しかし、実際には、彼らは、当時の医者による、未熟でひどい治療や、薬物によって亡くなったのだ。これは厳しい告発ですが、薬物を処方しない治療家と薬物を処方する当時の医師の成功率を比較すると、それが事実なのが明らかである。

 当時の医師及び病院が抱えていたスペイン風邪患者の33%の死亡率と比較して、薬物を処方しない、バトルクリーク、ケログやマクファデンの治療院では、水療法、入浴、浣腸、断食やその他のシンプルな治療方法の後に献立を綿密に工夫された自然食の食事によって100%近い治癒率を達成していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする