思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「喜怒哀楽」が人の生きる意味です。「論理」それ自体に価値はありません。

2010-12-22 | 恋知(哲学)

わたしたち人間は、何かを成し、何かになるために生きるのではありません。
生きることそれ自体が価値です。

このあまりにも簡明な原理を知らない人が多いのは、大変に困ったことです。
とりわけ、子育てや教育においては、この生の原理を鮮明に意識しておかないと、外的人間=情報ロボットをつくるために努力するという悲喜劇に陥ります。

生きることを【心の底から楽しめる】ようにするには、どう考え、どう行為したらよいのだろうか?心身の健康・健全で豊かな頭を育てるにはどうすればよいのだろうか?そのように発想しなければ、何をしようと、すべては砂上の楼閣です。生きる意味が希薄な人間は、根源的不幸の中に沈むしかないのですから。

このことの明晰な自覚を持てない大人は、子どもから「知的好奇心」を取り上げ、「受験勉強」を強い、企業戦士に育てるために努力しますが、その結果、子どもを人間(=喜怒哀楽の豊かな存在)にすることに失敗するのです。必然的に鬱病者ばかりの社会になります。この悪弊は「エリート」サラリーマンの家庭ほど強いようです。

人間の生きる意味と価値について知らないとは、本質的に「愚か者」でしかありませんが、成績優秀者(パターン知の持ち主)ほど、自らの愚かさを自覚できず、表層的な理論・理窟で本質的な問題から逃げ回る人生に終わります。

自らテストしてみてください。
あなたは、「情報・知識」を基に「考える」ことをしていませんか?
自らの五感で捉え・心で想う世界を鋭敏に豊かにする→「感じ知り想う」を基にして、そこから「考える」ことをしていますか。

前者のように知識や理窟が先行しているのでは、健全な悦びとは無縁の人生にしかなりませんね。でも、現代人は、後者のような健全性をもつ人は少ないのです。知識で誤魔化す・知識に逃げるのでは、【心の底から楽しめる】人生は永遠にやってきません。これは生の原理です。


武田康弘

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C-moon2010年12月23日 00:18

これまでの自分自身ではなく、今の自分を深く見つめても”情報”や貧困な”知識”を基に考え、”知識や理窟”を前面に出して語っていることが多々あります。実際のところ、mixi日記でもこうした傾向にあることを自覚しています。
なかなか脱しきれないのが現実です。
特に政治問題を語る時は、自分ではこれまでの集積を基に、自分の意見を書いているつもりなんですけど、後で読み直して見ると、オリジナル性に欠け、目新しくもないし、あちこちから仕入れた情報をつきはぎにして繋いでいるに過ぎないのではないかと、愕然とすることもしばしばです。

一方で、自分自身を見つめなおすつもりで、これまで五感で感じて生まれた記憶の中の風景を基に、心の五感を通して小説を”描いて”います。
こちらは描きだすと、たまに詰まることもありますが、意識の深層にすーっと入り、さまざまな風景を見ることができます。そしてそれを描く。描けるんです。
もちろん好んで読んでいる小説家の影響を受けていますが、それを自覚していても、何とも言えない心地良さがあります。
辛い場面では、辛くなり、幸せな場面では、本当に幸せを感じる。
登場人物になりきって描ける。風景をそのまま感じたままに描ける……

そこで思いました。”書く”ことと”描く”ことに、僕の場合大きな違いがあり、”描く”ことができた時、”描いている”時、心の五感を通じた視線が蘇り、知識や・情報というものに束縛されない、自由な意識の中に自分がいることです。

たぶん、この感覚、状況が、タケセンさんが言われていることに共通しているのではないか……と思うのです。

いつも自分を見つめさせていただき感謝しています。

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人生(たび)の途中2010年12月23日 10:44

わたしは、杣人(そまびと)ですので、、、、

人間に必要なものは「インテリジェンス」だけではなく「エモーショナルインテリジェンス」も併せ持つことが必要だと思っています。。。

「心の知性」。。。これを欠如した「知性」だけで生きてしまうと、どうしても偏向してしまいますから・・・人間界だけで自己完結をしてしまうのです。。。

自然界には、理屈では測りきれないものが存在しているのですもの。
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タケセン2010年12月23日 11:25

Cmoonさんは、他者の問題ではなく、いつもご自身のこととして主体的に捉えてコメントされますが、それは、希有な事で、尊敬します。

「情報・知識」は、もちろんとても大切なわけですが、「感じ、想う」世界が希薄で、記号処理が優先する現代文明は、人間を「つまらない」存在に貶めてしまいます。わたしは、そういう人間の姿を見るのが心底イヤなのです。腹の底から頭の芯から「気持ち悪さ」がこみあげて、心身が不調になるのです。東大病・東大教は「反・エロース」の象徴です。

人間の生は、ほんらい、「感じ想うこと、豊かな感情世界」が先なのに、「情報・知識」を先にする逆立ち・逆転は、生きることからエロース(魅力)を奪います。生きる意味が内的には得られないという恐ろし事態になりますよね。

よいコメント、感謝です。


タケセン2010年12月23日 11:31

人生(たび)の途中♪さん

心の知性は、「意味論としての知」(現代の単なる「事実学としての知」ではなく)がなければ生み出せないのです。

頭の使い方・理性の用い方と、心の知性は、ほんらいは一つなのです。

よい視点でのコメント、ありがとう。

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納得 (ラルゴ)
2010-12-25 11:25:17

この日記を読んで、私がなぜ、タケセンさんの以前お書きになった文章に関心を持ち、面白く感じたのかわかりました。

人間、もちろん生きてゆく上で、情報や知識を持っていたほうがいいけれど、大切なのはその知識の運用能力。

言葉を適切に使い、人に何かを伝えるために知性を働かせることを楽しめる人を教養のある人だと感じるし、そこには押し付けや、ひけらかしが無く、難しい事を可能な限り、解りやすく他者に伝えることの出来る人は素敵です。

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ほんらいの哲学 (タケセン)
2010-12-25 11:43:51

ラルゴさん

心のこもったコメント、感謝です。

わたしは、個別学問の「論理」は単純で面白くないな~、と感じて、もっと広い、もっと深く大きな、意味が豊かな論理はないかな、と思って「哲学」を好きになりました。高校生のときです。小学校での「政治クラブ」(内実は「自由対話」でしたので、「哲学するクラブ」でした)以来の思いが、哲学という全体的=人間的論理に向かわせたのです。
というわけで、大学は哲学科にしましたが、入ってみて後悔しました。大学の哲学科は、哲学する場では全くなく、ただ文献学と語学があるだけでした。

わたしが思う哲学とは、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えること、既存の知識や既存の個別学問に囚われず、大元(人間の生きる意味と価値の問題)から考えること、心身全体の深い納得を目がけ、それに基づいて考えること、だったのですが、大学の哲学は、それとは全く無縁の世界(哲学を個別知識に分解し、その各々を専門とするヘンテコな学)でした。

わたしが、「ソクラテス教室」を開き、『白樺教育館』を創ったのは、わたしが考えるほんらいの哲学を実践するためなのです。1976年のことですから、もうずいぶん昔ですね(笑)。これからが本番ーいつもそう思って取り組んでいます。

これからもぜひ、よろしくお付き合いください。

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(青木里佳)
2010-12-30 23:17:35

現実社会を見ると、悲しいことに、「何かができる」「何かになる」ために生き
ている人が多いのではないのでしょうか。
私もその1人です。今まで自覚していなかったのですが、ある日それを自覚した
時ショックでした。

知らぬ間に企業戦士の考え方・捉え方に染まり、無意識にそのように行動してい
たことをハッキリと自覚した時、「何かができる」と言える人間ではないと認め
られないのではないか、ありのままの自分は受け入れてもらえないのではないか
という恐怖感を長年持って生きてきたことに気付きました。
自分自身を見つめ直すと同時に、影響を与えてきた環境や人間関係を見つめ直
し、その根源となる原因がわかり、愕然としましたが、自覚する前に比べると自
分の問題がハッキリ認識できるようになったので少しは前進できたかなと思います。
恐らく私のように知らずに企業戦士のような考え方で生きてきて、自覚せずに一
生をまっとうする人の方が多いのではないでしょうか。
豊かな感情や心よりも、合理的に考えて生きることが中心になってしまうと、機
械のような人間が増え、その人だけでなく、周りも不幸になります。

自分の五感をないがしろにせず、心で想う世界を豊かにしていくことが大事だと
認識できれば、この世の中で病んだ人は少なくなり、健全な世界になるのではな
いでしょうか。




コメント (4)
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かつてサイトウもオザワも蹴飛ばしたNHKの降伏。裸の個人vs巨大組織

2010-12-18 | 社会批評


(1972年・70歳の斎藤秀雄)

一昨日、NHKの「BSベストオブベスト」で、2年前の小沢征爾のインタビュー番組を放映していました。音楽の意味と価値について平易な言葉で情熱的に語る73歳の「若き」小沢の話を楽しみました。40年以上前(1960年代後半)から彼の音楽を愛聴し、30年以上前から『ぼくの音楽武者修行』を授業で幾度も使ってきたわたしは、若い頃のままの彼の飾らぬ人柄にまたまたとてもよい気分!!
(ただ、インタビュアーの有働由美子の「分かりの遅さ」には呆れましたが、まあ、ご愛敬でしょうか)

最近のNHKは、小沢やサイトウキネンオーケストラのことを幾度も紹介していますが、それは、わたしのように過去を知る者には感慨深いものがあります。以下にその訳を少し書きましょう。

実は、NHKは、小沢征爾がウィーン国立歌劇場管弦楽団の音楽監督への就任が決まったころ、21世紀になって、ようやく彼の活躍を大きく報道するように変わったのです。

斉藤秀雄は小沢の恩師ですが、彼は、中国への侵略で始まった15年戦争の敗戦後すぐに、こどもの音楽教室→桐朋学園音楽科で、徹底したアンサンブルの基礎教育を「私塾的な自由な個人教育」によっておこないました。周知の通り、チェリストで指揮者であった斉藤は、基礎を徹底する独自の教育で、数知れない世界的な名演奏者(弦楽奏者)と小沢征爾・秋山和慶・山本直純らの指揮者を育てたのです。
斉藤は、1941年39歳のときに、NHK交響楽団の前身の新交響楽団を退団、というよりも、音楽と奏法に対する「原理」の徹底指導と強靭な個人意識を持つゆえに「排除」されたというのが実情ですが、そこでの経験から、日本の音楽教育には「合理的なメソッド」の確立が必要であり、「幼いころからの音感教育」が不可欠であることを痛感したのでした。

小沢征爾ら斉藤秀雄の教え子が集まり、「サイトウキネン・オーケストラ」を結成したのは、斉藤没後10周年記念演奏会の3年後1987年ですが(ヨーロッパ演奏旅行で大絶賛)、一年に一度、世界中で活躍する教え子が集まってつくる世界最高水準のオーケストラは、1992年からは松本につくられた新しい音楽ホールを拠点にして数々のユニークな活動を行っています。音楽好きの方なら誰でもが知っていることです。

斉藤秀雄が独自に編み出した「メソッド」により、指揮法と音楽に対する姿勢をゼロから叩き込まれた小沢征爾は、フランス・ブザンソンの指揮者コンクールで優勝し(当時、世界で唯一の指揮者コンクールでしたが、日本人で受けたのは小沢が最初であり、東洋人が優勝したのも最初であり、政府の援助も音楽大学の援助もない個人参加も例のないことでした)、そのあとアメリカに渡り、帰国してNHK交響楽団の常任指揮者となりましたが、「生意気な若造」の言うことには従えないとして、演奏会当日に楽団員が誰も来ない=演奏ボイコットという異常事態となりました。1961年小沢25歳のときです。いわゆる「N響事件」ですが、若き大江健三郎ら多くの小沢支持者が彼を励ましたのでした。

これにより日本での活躍の場を奪われた小沢は、再び海外に出ざるを得なくなりましたが、それは結果として幸いしました。ただし、巨大放送局のNHK(東京大学と同じような特権をもつ)から離縁された小沢は、その後アメリカで驚異的!な活躍を続けましたが、その模様はNHKテレビではほとんど何も放映されませんでした。ボストンやタングルウッドなどでの活躍が放映され出したのは、ずっと後になってからです。フランスで、ドイツで、オーストリアで、アメリカで大人気の名指揮者の映像が一番少ないのが日本であるという異様な事態が何十年も続いたのです。これが公共放送!!

その小沢の音楽番組がようやく「正常」に放映され出したのは、彼がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することが決まってからのこと。世界で最も人気があり、最も「由緒正しき」オーケストラの音楽監督に小沢征爾が就任する(2002年~2010年)という大事件!があって、はじめて彼を認める「日本放送協会」とは一体何なのか、ですが、組織の上位者に反省がまったくないのも「日本文化」のようです。

しかし、愉快なのは、斉藤秀雄という一人の人間の個性、音楽にかける情熱とそれを支える音楽原理の探求が、小沢征爾らの優れた個性を生み、その個性の集まりが、斉藤イズムの原理を生かして、サイトウ・キネンオーケストラとして見事な音楽をつくりだしていることです。N響を抱え、圧倒的な組織力をもつNHKをはるかに見下ろすオーケストラを生み出したのは、燃えるような情熱と明確な原理と持続する志をもった一人の人間=「個人」だったのです。

☆余談ですが、フランス・ザンソンの指揮者コンクールを受ける手続きを取ろうとして、パリの日本大使館に助けを求めた若き小沢は、大使館員に「君はどこの大学か?」と聞かれ、「桐朋学園です」と答えると、「聞いたこともないね、芸大ではないのか」と言われて追い返されたとのこと。彼に便宜を図ってくれたのは、なんとアメリカ大使館でした。


(残念なことに、わたしは、この優れた音楽集団のつくる音楽に全面的に賛同・共感はできないのですが、彼らが世界的に極めて高く評価される優れた音楽家集団であることは確かです。)


武田康弘


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ラルゴ2010年12月19日 01:03

私がテレビをゆっくり見る環境になったのは、割と最近のことなので、世界の小澤が、そのようにNHKから扱われていたとは知りませんでした。

日本もNHKも 生きている天才を大切に評価してほしいですね。

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タケセン2010年12月19日 09:45

日本社会は、あらゆる面で「学校化」されていて、権威と組織の上位者には従うほかない状況が続きます。自由がない、音楽もまたNHKの音楽官僚に支配されてきました。新潮文庫の小沢と武満の対談本『音楽』には、その現実が赤裸々に語られています。日本社会の民主化が求められますね。

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茶所博士2010年12月19日 23:36

 何十年も前になるけど、小平がアメリカ訪問から帰国してボストンフィルハーモニーを北京まで連れて来て、その指揮者が小沢氏でした。彼の育ちが満州国で、少年時代の家を訪ねたりした、という報道があったのはなんとなく覚えています。征爾という名前自体、板垣征四郎と石原莞爾から来ているのだそうです。元々日本国内に縛られるような人ではなかったのでしょう。
 食道癌の手術を終えたばかりだったそうですが、今でも精力的に活動しているのには感銘を受けました。

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タケセン2010年12月20日 10:37

よい音楽に国境はありませんものね。
「個人」としてを強く貫く小沢征爾さんは、とても日本を愛し、日本に責任を感じています。恩師・斎藤秀雄の「思い」を継承する意思は半端ではありません。日本の現状を厳しく批判し、日本から追い出された「個人」が一番日本のために努力し、巨大な成果をあげる。この逆説を知らない日本主義者は、愚か者以外のなにものでもありませんね。

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権威ではなく。 (Sam)
2010-12-20 21:02:28

私が武満徹作曲、小澤征爾指揮のノヴェンバー・ステップスのLPを買ったのはもう何十年も前のことですが、小澤さんはまだ若手の異端の指揮者でした。私は硬直した既成の権威(芸大やらNHKやら)と違った形で、創造活動に励む小澤さんに拍手喝采したものです。
 今現在、内外を問わず活躍されていることは大変うれしく思いますが、一方で複雑な気分にもなります。あの頃の小澤さんに対する批判はなんだったのか、何故今認められているのか、わけがわからないのです。その間の検証とか反省とかが何も無いままにいつの間にか小澤さん自身が本人とは関係なく権威としてこの国では機能してしまうことに戸惑いを覚えます。
 こうした現象は音楽に限りません。かつてポスト・モダニズムと呼ばれた異端の思想・哲学がいつの間にか主流に置き換わってしまっています。どこの大学でもルソーの悪口がまかり通っています。とうてい反省や検証があったとは思えません。ちゃんと読んでるとも思えません。一体どうなっているのか?
話が外れましたね。
 食道ガンはひどく転移しやすいガンなので、これからも健康に注意して元気に活動してほしいものです。

*有働由美子というインタビュアー。今はNHK総合の朝の番組に出ています。私はその中の料理番組をときどき見るのですが(笑)、ときどき彼女の表層的なものの(必然的に権威主義に堕す)とらえ方に苛立ちを覚えます。小澤さんが異端の指揮者だったら多分、見向きもしなかったでしょう。NHKも、、あのようなインタビュアーとしては採用しないしょうね、きっと。


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人権とは、日々の「私」の言動から。楽しく生きるためのアイテム。

2010-12-12 | 恋知(哲学)
(下のブログの続きです。)

「人権」を抽象的な概念としたのでは、現実には何の意味も持ちません。
「私」の日々の言葉や行為を「人権―民主的倫理」に基づいたものにしようとする具体的努力が何より求められます。

友達、兄弟、親子、夫婦、恋人・・・という現実の関係においてこそ「人権―民主的倫理」は意味をもちます。知識・勉強・学問の領域ではなく、日々人間が生きる場において試されるのです。

 互いに楽しく生きる・生のエロースを広げ深めるためる条件は、「人権―民主的倫理」を具現化していこうという意思と行為にあります。
 
人権という思想をよく知り、それを実現しようする行為は、わたしやあなたの日々の生活の可能性を広げ、面白くします。

「子どもの人権」は、哲学的かつ社会的に最も深い思想ですが、家庭での親子関係、学校での生徒と先生の関係を具体的に反省してみることがよき世界を拓く条件です。また、男女の関係においても、互いに相手をひとりの人間として尊重する思想を持たないと、単なる異性関係に陥り、楽しさは広がりません。

身近な日々の関係性を見直すことによってのみ、「人権―民主的倫理」は現実的な意味と力をもちます。それは、一人ひとりがよく・楽しく・豊かに生きるための必須アイテムなのです。


武田康弘
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1948年12月10日パリでの国連総会で「世界人権宣言」が採択―わが国の現状

2010-12-10 | 社会思想

今日は、「世界人権宣言」が採択されてから62年目。誰でもが互いに対等な人間としての権利を認め合うことが必要としてつくられた宣言ですが、先進国のはずのわが国では、いまだに人権意識が希薄で、日々の生活や仕事において民主的な人権思想が具現化しません。

驚くことに、安倍元首相の中心的ブレーンであった八木秀次氏(憲法学、思想史)は、『反「人権」宣言』(ちくま新書)の中で、「人権とはヨーロッパのつくりだした思想であり、日本社会にはなじまない。日本人は、『人権』の呪縛から解放され、共同体=国民の常識に戻るべきだ」と主張しています。

「人権」という近代民主主義が生み出した普遍的な思想を認めずに、「共同体主義」(国体思想)による反「人権」宣言を行う学者をブレーンとする政治家とは何なのか?これでは「日本国憲法」の基本理念に反する存在だと言うほかありません。

戦前の国体思想(明治政府がつくった近代天皇制)に対する反省がなく、靖国思想を日本的共同体復活のシンボルとするのは、保守反動思想そのもので、[日本国憲法]の依拠する近代民主主義思想とは二律背反です。

わが国が、今日の鹿児島県の検察による死刑求刑―地裁での無罪判決に象徴されるように、警察と検察の人権無視、役人による市民の抑圧が続き、冤罪天国と揶揄されるほどの人権後進国なのは、上記のようにいまだに「戦前レジーム」からの脱却が不十分だからですが、それは、主権者は市民・国民であるという民主制の「原理中の原理」の自覚が弱いからでしょう。

今日,12月10日の「国連人権宣言」記念日についても、我孫子の小中学校では一言も話されなかったようですが、人権と民主主義の知識+実践教育がなければ、民主制社会・国家とは絵に描いた餅にしかなりません。官僚・役人が中心になるような「戦前体制=官治主義」を底から破らなければ、個々人が輝くための民主制は、「はじめの一歩」が歩み出せないのです。

武田康弘
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<平面的な形式論理>から<立体的な弁証法的論理>へ至るには?

2010-12-08 | 恋知(哲学)

ニュートン的宇宙観は、空間は同じ大きさを保ち、時間は一様に流れるとする「静止した宇宙モデル」ですが、現代の宇宙観は、ビッグバンに始まる「動的宇宙モデル」です。

論理といえば、アリストテレスの「形式論理学」が有名ですが、これは、ニュートンの「静止した宇宙モデル」と同じで、AはAでありBではないというものですが、この論理は、一定の時間内で、一つの視点から見るという条件であれば、当然「正しい」のです。

しかし、視点を変えてみると、Aは必ずしもAとは言えず、また、時間を考慮にいれると、AはいつまでもAであるとは言えないことが分かります。
とりわけ、人間や社会の問題を考えるときは、一つの視点だけで見、判断することはできず、また、事象は時間の経過と共に変化していきますので、形式論理の枠内で考えると、言語上は明晰でも、非現実的な判断・結語となります。
また、量の大小は質の違いを生みますし、場の違いも対象の性質を変えますので、この点にも留意しないといけません。

(1)事象を、時間的変化を意識し、生成・発展するものとして見ること、
(2)いくつもの視点から見て、だんだんと認識内容を豊かにしていくこと。
(3)量質転化を自覚し、場の相違も考慮しなければならないこと。
思考・論理は、この三点を絶えず意識しなければ、現実において有用な内容をもちません。

ほんとうに論理的に考えるとは、現実・実際を「形式論理」の中に閉じ込めることではなく、文字言語が陥りがちな平面的明晰さを超えて、事象を立体視する営みです。日々の現実の中で、問題意識をもち現状打開的に生きないと、論理は必ず平面化して、形式論理に陥っていきます。

生々しいビビッドな現実感覚を持つことが、生きた立体的論理・弁証法的論理に至る条件です。優れた論理的思考の基盤は、生活世界における鋭敏な感覚・生き生きとした感性・柔軟な心・豊かなイメージにあります。自我防衛の鎧を着ていたのでは、論理は硬直化して、有害な「為にする理屈」になってしまいます。

よき思考、立体的論理を生むためには、ソクラテスの昔からいわれる【話し言葉による直接対話】が必要です。ネットで活字ばかりの現代は、ますますその重要性が増しています。平面的な形式論理から脱却するには、何よりまず、顔を合わせてのコミュニケーションが求められるのです。全身で感じ、想い、考える営みを広げるには、よき他者を必要とします。

武田康弘

以上は、先週の大学クラスでの授業のひとコマです。


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「頭がよい」って? 

2010-12-05 | 恋知(哲学)
わたしは、人間・社会問題において「問題を解決できない」日本の現状は、知の評価基準が偏っているところに最大の原因があると見ています。

欧米に追い付け・追い越せの明治以来の日本人の意識は、欧米出自の「既成の知識」を覚えることを第一としてきたために、「コピー能力」と「パターン知」が頭のよさを計る基準でした。

したがって、評価を決める試験は、答えが一つと決まっている「客観テスト」です。細かなことまで正確に覚える能力の持ち主、出題者の意向通りに考える=なぞる能力の持ち主を優秀だとしてきたのです。

主観性の知(思考力、対話力、決定力、作文力、観察力、想像力、創造力、企画力、問題発見能力、解決能力・・・・創意工夫、臨機応変、当意即妙・・・)の育成への取り組みは、ほとんどゼロに等しく、それを評価する方法も知りません。

「減点法」の客観テストによる評価では、これからの社会に必要な人間の能力は計れないでしょう。主観性の知を育てる「加点法」による評価にしなければ、さまざまな個人のもつ面白さ・有能さは花開きません。個人性の開花は、よろこびの多い、プラス思考による評価でなければならないからです。従来の常識を根本的に変えなければオシマイだ、とわたしは見ています。

ついでに言えば、テストは(暗記の程度を問うテスト以外は)、電子辞書持ち込みで行うべきです。これから求められるのは、問題の本質へと向かう意味論的思考力であり、広義の表現力なのですから。


武田康弘


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人生(たび)の途中



うわ~。。。いまの教育界が「狭育・狂育」になっていることの証ですね~。。。

就職活動の問題・イジメやパワハラ、セクハラ、アカハラの問題。自殺率急増の問題。

そのすべての、問題の根っこにタケセンさんのおっしゃることがあてはまりますね。

その、歪んだ「頭の良い子像」に支配され、それに合わせようとするから、ストレスが発生する。。。

運よく「勝ち組」になったとしても、常に人を蹴落として歩んでいかなくてはならない状況に、やがて疲弊してきます。

画一的な評価判断基準のモノサシは、心理的に「同調圧力」を産み、「心の過疎化」が進行し、人間の本来あるべきコミュニティーの姿からはどんどんかけ離れて行くことになります。。

平成の日本。。。平和なのか??武器のない戦争なのか???

自殺者は、相変わらず、公表されているだけでも、年間三万人超えです。。。

本当に頭がよい人ならば、この異常性に気がつくはずですよね。。。

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心身全体による会得 (タケセン)
2010-12-06 20:05:32

よいコメント、ありがとう。

生きた有用な頭は、「心身全体での会得」によってつくられるもの。
感じ知ること・想うことから立ち上がる「ほんものの知」の育成が不可欠です。はじめから記号化された勉強に従順に従うのが「よい子」「えらい子」だとされている現状は、知と人間性の根を腐らせてしまいます。

また、ネットウヨクと呼ばれる人たちの言説をみると、極端な言語中心主義の形式論理(=言葉の表層的意味に引っ掛かり、平面的思考に陥る)ですが、かれらもまた現代の「パターン知」教育の犠牲者だといえましょう。なんとか救ってあげたいとは思うのですが..


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