ネクロフィリアということばがあります。ヒトラーとナチズムを分析した著名な社会心理学者のエーリッヒ・フロムが繰り返し使った概念が、ネクロフィリアです。
死んでいるものへの愛、とか、死体への愛という意味で、バイオフィリア(生きているもの・命への愛)という言葉の対義語ですが、ネクロフィリアの傾向を持つ人は、教師や医師や官僚などの上位者に多く、人と対等な関係を持てず(それを恐れる)従わせようとします。
上下倫理を尊び、上か下かに敏感に反応します。 互いを対等な存在として認め合うのでなく、権威、権力、金力、学力、暴力などにより他者を自分の思う通りにしようとするのです。
生きているものは、予想がつかない行為をするので苛立ちます。子ども、とりわけ幼子を嫌います。すべて予め決めてある通りにならないと不安になります。厳しい規則や固い組織など動かないものを愛します。モノや思い通りになる人だけしか愛せないのです。
臨機応変、当意即妙とは無縁で、すべて自分の計画通りにならないと怒ります。固く、ぎこちなく(独裁者の言動や軍隊行進がよい例)、表情は紋切型で、魅力がありません。心から笑うことができず、作った笑顔しか示せません。
生きているものは、思い通りにならず、たえす流動しますから、恐れます。イキイキとしてることを不審に思い、愉悦の心は取り締まりの対象です。エロース豊かなことを罪悪だと感じます。〈根源的な不幸〉としか言えませんが、そういう人は、自身も親や教師によりそのように扱われた人に多く、なかなか自覚できず、不幸と抑圧の再生産に陥ります。表情が紋切型でいつも同じ、身体の動きがどこかギコチナイのが特徴です。
わたしは、先にも書きましたが、 安倍首相は、自著『美しい国へ』で、個人とか市民という概念を嫌い、「日本人ないし国民という概念を第一にすべきだ」 と言いますが、 いま、ここで、イキイキと生きている一人の人間、一人の女・一人の男から始まる社会・国という「社会契約」(人民主権)の考え方が受け入れられず、自分の思う「日本人」とか「伝統」の枠内にこどもや市民を閉じ込めようとします。そのように管理したいと「欲望」するのです。
彼をはじめ『日本会議』のメンバーのように「戦前思想」に郷愁や肯定感をもつ人は、物や制度(国家など)そのものを愛するという倒錯=「物神崇拝(フェティシズム)」ですが、その精神の基本の様態は、ネクロフィリアと言えます。
心のありようがネクロフィリア的な傾向にある人は、管理社会を好みますから、こどもや人々が自立心をもち、「私」からはじまる生き方をすることを恐れます。
個人や自由や解放というイメージを嫌い、批判されるのを避けます。オープンな話し合いが苦手で、一方通行です。そのような傾向にある人は、様々な手段を用いて他者を抑圧しますが、それを合理化するための理論をつくり、その概念で、生きている人間を管理しようとします。
特定のことば=概念に人々を閉じ込め、様式(パターン)の下に意識を置き、儀式的な生を営む「紋切人」をよしとするわけです。「神武天皇から125代続く男系男子の遺伝子を守れ!」と異様な主張をする『日本会議』のメンバーはその典型ですが、ネクロフィリアの傾向が強い人は、対等な関係性ではなく、上下倫理で自他を縛りますので、「民主的倫理」とは無縁ですし、個々の市民を主権者とする「民主政」とはひどく相性が悪いのです。人民主権の社会契約論を否定するのですから呆れます。
ネクロフィリアは怖い精神疾患です。 もちろん、現実の人間を単純にバイオフィリアとネクロフィリアの二つに分類することはできませんし、ネクロフィリアそのものという人がいるわけでもないですが、そのような傾向にある人を見分けること、と、自分自身がそのような傾向に陥らないように注意することはとても大切です。
精神の基本のありようがネクロフィリアの傾向が強い人が政治権力をもったり、教育者になったりするのは、社会にとって大変危険です。大きな厄災をもたらす可能性が高いのです。個々の「自由な市民の敵」とさえ言えます。彼らは、「幸福をつくらない日本というシステム」(ウォルフレン)の担い手となります。
武田康弘(2015年8月1日の再録)