思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

儀式好き・形や名まえで判断・陛下万歳!とか言う(笑)それは、「ネクロフィリア」という怖い精神の病です。日本文化の危険な性向。

2019-06-23 | 社会思想

 ネクロフィリアということばがあります。ヒトラーとナチズムを分析した著名な社会心理学者のエーリッヒ・フロムが繰り返し使った概念が、ネクロフィリアです。

 死んでいるものへの愛、とか、死体への愛という意味で、バイオフィリア(生きているもの・命への愛)という言葉の対義語ですが、ネクロフィリアの傾向を持つ人は、教師や医師や官僚などの上位者に多く、人と対等な関係を持てず(それを恐れる)従わせようとします。

 上下倫理を尊び、上か下かに敏感に反応します。 互いを対等な存在として認め合うのでなく、権威、権力、金力、学力、暴力などにより他者を自分の思う通りにしようとするのです。

 生きているものは、予想がつかない行為をするので苛立ちます。子ども、とりわけ幼子を嫌います。すべて予め決めてある通りにならないと不安になります。厳しい規則や固い組織など動かないものを愛します。モノや思い通りになる人だけしか愛せないのです。

 臨機応変、当意即妙とは無縁で、すべて自分の計画通りにならないと怒ります。固く、ぎこちなく(独裁者の言動や軍隊行進がよい例)、表情は紋切型で、魅力がありません。心から笑うことができず、作った笑顔しか示せません。

 生きているものは、思い通りにならず、たえす流動しますから、恐れます。イキイキとしてることを不審に思い、愉悦の心は取り締まりの対象です。エロース豊かなことを罪悪だと感じます。〈根源的な不幸〉としか言えませんが、そういう人は、自身も親や教師によりそのように扱われた人に多く、なかなか自覚できず、不幸と抑圧の再生産に陥ります。表情が紋切型でいつも同じ、身体の動きがどこかギコチナイのが特徴です。

 

 わたしは、先にも書きましたが、 安倍首相は、自著『美しい国へ』で、個人とか市民という概念を嫌い、「日本人ないし国民という概念を第一にすべきだ」 と言いますが、  いま、ここで、イキイキと生きている一人の人間、一人の女・一人の男から始まる社会・国という「社会契約」(人民主権)の考え方が受け入れられず、自分の思う「日本人」とか「伝統」の枠内にこどもや市民を閉じ込めようとします。そのように管理したいと「欲望」するのです。

 彼をはじめ『日本会議』のメンバーのように「戦前思想」に郷愁や肯定感をもつ人は、物や制度(国家など)そのものを愛するという倒錯=「物神崇拝(フェティシズム)」ですが、その精神の基本の様態は、ネクロフィリアと言えます。

 心のありようがネクロフィリア的な傾向にある人は、管理社会を好みますから、こどもや人々が自立心をもち、「私」からはじまる生き方をすることを恐れます。

 個人や自由や解放というイメージを嫌い、批判されるのを避けます。オープンな話し合いが苦手で、一方通行です。そのような傾向にある人は、様々な手段を用いて他者を抑圧しますが、それを合理化するための理論をつくり、その概念で、生きている人間を管理しようとします。

 特定のことば=概念に人々を閉じ込め、様式(パターン)の下に意識を置き、儀式的な生を営む「紋切人」をよしとするわけです。「神武天皇から125代続く男系男子の遺伝子を守れ!」と異様な主張をする『日本会議』のメンバーはその典型ですが、ネクロフィリアの傾向が強い人は、対等な関係性ではなく、上下倫理で自他を縛りますので、「民主的倫理」とは無縁ですし、個々の市民を主権者とする「民主政」とはひどく相性が悪いのです。人民主権の社会契約論を否定するのですから呆れます。

 ネクロフィリアは怖い精神疾患です。 もちろん、現実の人間を単純にバイオフィリアとネクロフィリアの二つに分類することはできませんし、ネクロフィリアそのものという人がいるわけでもないですが、そのような傾向にある人を見分けること、と、自分自身がそのような傾向に陥らないように注意することはとても大切です。

 精神の基本のありようがネクロフィリアの傾向が強い人が政治権力をもったり、教育者になったりするのは、社会にとって大変危険です。大きな厄災をもたらす可能性が高いのです。個々の「自由な市民の敵」とさえ言えます。彼らは、「幸福をつくらない日本というシステム」(ウォルフレン)の担い手となります。


武田康弘(2015年8月1日の再録)

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ベンジャミン・フリスのベートーヴェンの世界に感動! 墨田トリフォニー小ホールでのピアノ独奏会=ディアベッリの主題による変奏曲など。

2019-06-19 | 学芸

 

 

  人類の生み出した最高のピアノ曲・ベートーヴェンの「ディアベッリの主題による変奏曲」、これを自家薬籠中のものとしているフリスの名演に感動しました。派手さや見栄とは無縁の内的充実の極みで、50分を超える大曲があっという間でした。

  前半の二曲、とりわけ6つのパガテル(作品126・最後のピアノ曲)も聴きごたえ十分の名演、ディアベッリを含めすべて暗譜でした。

  フリスは曲に没入し、実に楽しそうにピアノを弾き、音楽の表情が豊かです。62歳の充実期の来日なのに聴衆が少なかったのは残念でしたが、NHKが5台のテレビカメラで完全収録していましたので、後日に、見、聴くことができます(放映日は未定)。


  それにしても「ディアベッリ変奏曲」の独白と対話、
リアルとロマンが一体の恐るべき曲のもつ面白さを自在に演奏したフリスの実力は素晴らしいの一言。この曲は、あるゆる既成観念を超えて自由そのもの、強烈なまでのファンタジーを持ちます。それが目の前で現実の音になって鳴り響いたのですから、ただ感動あるのみ!  ディアベッリの知名度が上がったのは、まださほど昔ではありません。ベートーヴェンはとんでもない曲を創ったもの、と改めて感じ入りました。


 10月1日には、同じイギリスのピアニストで、現代最高のベートーヴェン弾き(少なくともその一人)のポール・ルイスによるディアベッリの演奏会もあり、とても楽しみです。銀座王子ホールです。



武田康弘

 


 

 

 

 

 

 

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上間綾乃さん(沖縄の唄者)にただ感動!ぜひ、聴いてください。 埋め立てられる海を前にしての深い悲しみと祈り=『声なき命』など。

2019-06-08 | 芸術

 ぜひ、お聴きください。深い感動と癒し。

 埋め立てられる海を前にしての深い悲しみと祈り『声なき命』(作詞・上間綾乃うえまあやの)
上間綾乃さんの祈りは、【制度化=儀式化された祈り】の世界とは、まったく次元を異にする【深い実存からの祈り】で、現代人が忘れた真実の心があります。

 





以下の日本テレビの画像は、七年前のものです


「声なき命」(クリック)




 









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理想を求める心が、おぞましい人と社会をつくります。ありのままを受け入れる心がないと、永遠に不幸が続きます。

2019-06-04 | 教育

何事もみなそうですが、
特に子育て・教育において最悪なのは、「理想」を求める心、言葉と行為です。

ふざけたり、悪さをしたり、「ばか」「クソ」という悪い言葉を言うことを認められないで育つ子は、心に不満をためます。マイナスとみなされる感情を表出することを禁じられて育つと人間はどうなるか?

欧州でテロや殺人を行う家庭の半数以上は牧師の家の子であるという衝撃の事実が明らかになったのは、精神科医のアリス・ミラー著『魂の殺人』によります。もうだいぶ前の著作で、世界的なベストセラーになりましたが、数多くの犯罪者とその家庭を調べた上で、記憶にもない幼少期において抑圧された精神(悪いとされる言葉や感情が禁止される)がもたらす結果について報告したものです。

「理想」を求め、その鋳型にはめる、上手に誘導するという教育=躾と称される行為のおぞましさがよく分かります。

必要なのは、豊かな表情と目、ボディーランゲージ、スキンシップを含む最広義の『対話』です。心身全体での交流=対話なしに育った=躾けられた人間の歪みは、暴力(家庭内暴力や戦争肯定のウヨク戦前思想なども含む)の正当化をもたらします。

必要なのは、ありのままを受容し、一緒におどけ、ふざけ、悪さもする大人の存在なのです。

この真理が分からないと永遠に不幸が再生産されます。

 



武田康弘


 

 

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何より大切なのは、イデー・理念を生み育てる努力です。他者承認を基準とする生は小賢しくツマラナイ。 ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想から学ぶ恋知の生

2019-06-01 | 恋知(哲学)

 エロース(恋愛)の神が象徴する〈善美への憧れ〉こそがすべての動力源という古代アテネのソクラテスからは大きな翼が、

 一切は縁によりつくられるという自覚に基づき自身と法(ダルマ)とに帰依せよという古代インドのブッダからは深い教えが、

 女性原理につき水のようなしなやかさと強さに象徴される無為自然を説く古代中国の老子からは自由なる意思が、やってくる。

 

 それは、現代の「他者承認に怯えて牙を抜かれた脆弱な思想」に基づく生からの脱却をもたらします。

 

 こう生きるぞ!というイデー・理念をつくり、それを育てつつ生きなければ、私から発する価値ある生は始まりようがなく、外的価値(知識や履歴や財産の所有)に縛られたツマラナイ人間として一生を終えるほかありません。所有の量ではなく存在の魅力こそが核心です。

 

 イデー・理念の欠如は、人間としてよく生きることを不可能にし、周りに合わせて生きる集団同調人(単なる「事実人」)となりますが、20世紀後半に流行った哲学(西洋哲学書の読解を哲学だとする人やグループ)は、驚くことにみなこの「理念」を嫌い、「他者承認」を神としたのですから、呆れます。

 

 強く豊かな「理念」を生み育てる努力がなければ、人間は、「私」という一人の人間としての生を歩めません。古代の根源的な実存思想から、大きな翼と、深い教えと、自由なる意志をもらおうではありませんか。「恋知」という発想がなければ、一人の人間としての生と公共人としての生は共に始まりようがないのです。


☆「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想と恋知」


武田康弘

 

 

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