思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『キャリアシステムという歪んだ想念』が「最新メディア関連情報」に。 東大病(教)という日本の精神の病は、主観性の知(人間知)を潰す。

2020-05-27 | 社会思想



この下のblogでご紹介したわたしの論考(参議院調査室から依頼された「キャリアシステムという歪んだ想念」)を、

「最新メディア関連情報」が記事にしてくれました。
分かりやすく説明を加えてつくっています。ネット時代の面白さだな、と思いました。ご紹介します。
お役立てください。
武田康弘






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お受験というイデオロギーは、人間の脳を破壊する。

2020-05-23 | 教育

 
(写真は昨日・クリックで拡大)


 小学生から毎日毎日、丸暗記とパターン知を仕込まれたこども=「芸を仕込まれたアシカ」のような存在が優秀だとすれば、

 それは、機械の優秀さでしかなく、人間の頭脳ではない。ただのAI(とても劣等なAI)に過ぎない。人間とは欲望存在であり、すべての学問も藝術も、原理上、人間の欲望から生まれるので、そのありようのよさ・悪さは、人間の欲望の質を検討することと同義だ。人間存在とAIとは存在仕方がアベコベであることも弁えないのでは、【根源愚か】と呼ぶしかない。

 この究極の土台を無視して出来合いの知を仕込む【お受験というイデオロギー】は、本質次元で、人間の心と頭を殺してしまう。人間性を根絶やしにする悪である。

 人間性を豊かにする頭脳活動は、意味と本質を問う【意味論=本質論】の世界であり、【事実学】というレベルに留まるのでは、生きた人間とその現実に資することがない。形式知にすぎない知は、人間のよき生にとり意味を持たないどころか、害を与える存在だ。

 こういう本質論を理解→了解しないまま突き進むのが受験勉強の世界であり、そこで得られるのは受験知でしかなく、羅列的な暗記とパターン認識という人間性を基から破壊する知だ。それを請け負う受験塾=神学(笑)進学教室とは、恐ろしい存在で、元から人間脳を壊して紋切脳(ステレオタイプ)にするシステムといえる。

 東大教という宗教を奉じる日本という国は、みなが東大病に犯されているために、【理性】という言葉=概念がない。大人(上位者)の言うことに従うのがよいことになり、既成の知を貯め込むことが勉学だとなってしまう。恐ろしいことだ。自分の日々の体験を基にして自分の頭で考えるという最も上位の頭脳活動が抑圧される。もはや狂気=集団狂気というほかない(参議院からの依頼原稿を参照50ページ)だろう。

 【高得点を取る使えない頭の製造所】になり果てているのが、日本の教育機関だが、そのことに無自覚なので、救いがない。物知り=クイズの知が頭のよさを測ると思う国民が大多数という国は、おわっている。


 以下にfbのコメントに応えた短文を載せる。

 わが国最高の作曲家・清瀬保二(県立高校中退)とその愛弟子武満徹(普通科の私立高校卒)は、オリジナリティの塊。

 小説の神様と呼ばれた志賀直哉は、学習院で二度落第・成績は親友の武者小路実篤とビりを争う。ただし当時は学習院から東大へは文科ならば無試験だったので東大に入るが授業にはほとんど出ずに中退。

 小澤征爾は、芸大へは到底入れなく、斉藤秀雄がつくったばかりの桐朋短大(実態は私塾)で、斉藤に師事。

 政界一の実力者だった桁違いの頭脳=生きた頭の田中角栄は、義務教育のみ(実際は小学校しか出ていない)だが、議員立法でつくった法律の数は2番がいない1番。
 左右を問わず最も高く評価される石橋湛山(55代総理大臣)は、田中の師だが、早稲田大学で哲学を学んだプラグマティスト(東大法学部とも哲学科とも対極にある思想)、彼の尊敬した師の田中王堂も学歴者ではない。

 書き出したらきりがないが、

 海外では、天体物理学者で20世紀最高の頭脳と言われたアインシュタインは、高校落第で中退、別の高校に入り直し大学に進むも学業成績は振るわなかった。就職にも失敗し、1年浪人でようやく特許庁の役人になる(友人のコネがあったが初年度はあまりに成績が悪いので落とされた。

 受験知 と 創造的頭脳や理性(総合的思考能力)とは異なるのです。 また、受験知は、日常世界での生きた頭の用い方とも次元を異にします。
こういう基本すら知らないのが今の日本で、ほんとうに情けない。


 武田康弘



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お受験坊ちゃん・嬢ちゃん、ママのいい子が仕切る国。東大病&東大教ますますで日本沈没。

2020-05-14 | 社会批評

わたしが、44年前から言いつづけてきたことが、ますます加速しています。

実際の力のない、言葉だけ、点数だけの「ママのいい子ちゃん」が頭がよいと言われる国。

お受験ぼっちゃんと嬢ちゃん、テストの点だけ最高!の【東大病者】が行政を仕切る国。

 

では、どう考え、どうしたらよいか?は、さんざん説明し、議論し、実践し続けてきましたが、どんどんダメな国になって、AIが人間のかわりになりそう(笑)

満点大笑いの悲喜劇が毎日、繰り返され、テレビは一面だけを強調して、ヒステリーを拡大しています。マスコミ人も東大病・東大教なので、救いがありません。

元から変えないと、バカばかりで、その【お受験バカが国を仕切る】世界一の国に堕ちます。皆さん、目を覚まして。


武田康弘

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キリスト教が日本に入れないのはなぜか? わずか0.7パーセント。

2020-05-12 | 学芸

「私たちはすべて被造物であり、これはキリスト教でもイスラム教でも同じです。
私たちの罪がゆるされたという福音をあらゆる人たちに伝えること。
これがミッションです。
ほかは枝葉にすぎない。」

fbで友人のクリスチャンのSさんが、わたしのと討論的対話で言われてた結語で、とても分かりやすいと思いました。

日本でも各種キリスト教会は、幼稚園から大学までたくさんのキリスト教の学校をつくり、布教に努力していますが(Sさんの言う「これがミッションです」)、広がらず、キリスト教徒はわずかつづですが減少していて、現在はすべての派をあわせても70万人台です。全国民の0.7パーセントほどに過ぎません。

キリスト教もイスラム教も、世界を創造した神=創造神が実在するという一神教思想ですが、韓国では60パーセントがキリスト教徒になっているとのことです。

 

「私たちの罪がゆるされたという福音で、これを伝えることが最大のミッションだ」というキリスト教の宗教思想は、

「南無弥陀仏と唱えれば直ちに救われる、また、唱えずとも救われたいと願えば、誰でもが直ちに救われる」という親鸞の驚くべき宗教思想があるために、入れないのだな、と思いました。親鸞はさらに、「都にすむ善人でさえ救われるのだから、悪人はなおのこと救われる」と言い、阿弥陀仏の救いの徹底性を明らかにします。これ以上は不可能な思想の徹底性に感嘆した晩年のハイデガー(20世紀最大の哲学者と言われるが、わたしは、彼の存在論の挫折=敗北宣言により近代西欧哲学は終焉したと見ている)は、親鸞思想に帰依しました。阿弥陀仏の救いとは、救いに特化していて、他の余分な世界観を持ちません。

 一言でいえば、親鸞思想があるために(浄土真宗はわが国最大の宗派)、キリスト教は日本に入れないのでしょう。 
(これは偶然ですが、私の父も祖父も親鸞門徒で修行僧でしたーわたしは違いますが、「恋知」はかなり重なるでしょう)



武田康弘

コメント (2)
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内閣は国民に要請する(ナチズムに至る)という図が首相官邸のホームページに載っています。官邸に改定を強く求めます。

2020-05-10 | 社会批評

驚くべき図=内閣は国民に要請する!? 首相官邸のホームページに、行政独裁となる図が掲載されています。これはせんじ詰めればナチスの思想となります。

5.首相官邸 内閣制度の概要

画像1

矢印の向き(内閣➡国民)を見て、仰天です。上の図は、もしも、この通りなら、内閣(行政機関)による独裁政治となってしまいます。
小学校の教科書にも三権分立の図は載っていて、主権者である国民が国の頂点であり、すべてを決める権限をもつことが明記されています(主権者の「一般意志」が頂点)が、それとは逆となっています。単純ミスでないことは、次の図でも明らかです。誰がいつ、民主主義の原則を覆す図=思想を作ったのか❓ とんでもない「事件」です。

6.首相官邸 II 現行憲法下の内閣制度

画像6

 わたしは、元参議院行政監視委員会調査室の客員調査員(参議院に所属する官僚に「日本国憲法の哲学的土台」を講義)として、首相と官邸に対して、改定を求めます。
また、こんなとんでもない図=思想を書いた者への厳しい処分を求めます。
 なお、わたしの公共思想は、10年前に、国会から行政への監視を行う「参議院行政監視委員会」の土台となる思想として、故 山下栄一 行政監視委員長により、明確に定義されています。山下栄一氏は、公明党所属の参議院議員でした。


 上記の意味が分からない人がいるようですので、少し詳しく説明します。
➡(矢印)を 要請という意味ではなく、サービスの提供とした場合も同じです。


 国民は、国民のための各種サービスを行政機関にさせる・要求するのです。 内閣に代表される行政機関は、人権思想に基づき、国民の要望を現実化するために仕事をするのですから、国民➡内閣とならないといけません。
 それをあべこべにして、内閣➡国民というのは、内閣(行政機関)から国民にサービスするとなり、一見よさそうですが、、そうすると、国民の望まないサービスをも内閣(行政機関)がする、または、できることになります。
 サービスとはプラスの意味でだけではなく、マイナスの意味もあります。例えば、国民全員を家に閉じ込めるために、警察官を使って監視し外に出た者を逮捕するというサービスもあります。また、戦争に協力させるために、拒否する者を連行するサービスもあります。戦前はこのサービスは盛んでした。法律に明記されていないのに行政機関の決めたことに従わせるサービスは、本来できないのですが、現実には多くそれが見られます。逆によきサービスをやめてしまうというサービス?(行政が学校を休校にしてしまう)というのあります。多額の税金を使い、お粗末な布マスクを2枚配るというサービスもあります(事故続きで届きもしない・笑)。
 ですから、国民がサービスを内閣(行政機関)に要求する、としなければ、主権者を国民とする民主制・民主政とはならないのです。要求されるサービスをスムースに効率よく公正・公平に行うのが内閣(行政機関)の仕事なのです。この基本原則がわからないので、日本の政治は民主政にならず、官が公共だという逆転が生じてしまうのです。官は、市民的公共を現実化するために、主権者の意思とお金で作られた機関であり、官が公や公共を名乗るのは逆立ちした思想に基づくものです。官とは主権者の僕(しもべ)なのです。わたしが仕掛けた公共哲学論争は、その問題をめぐって行われ、結論が出ましたが、それを高く評価して行政監視の土台としたのが、行政監視委員長の山下栄一参議院議員でした。

武田康弘

「武田の公共の本質論が、都の職員の研修論文にー首都大学東京機関誌「みやこ鳥」」

追伸・みなさまからの情報で知りましたが、この間違っている図(考え方)は、だいぶ以前からのもので、誰がつくったかは、まだ分かりません。


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わたしの日常~~ ソクラテス教室で と 公園でのアーシング。写真5枚。

2020-05-08 | 教育

今日は、気持ちのよい五月晴れ!昼間は、高野山の公園(前原古墳跡)でアーシング、 
夕方からは、ソクラテス教室~~ 自由に伸び伸び学習で、はかどるし、楽しい~~








 

 

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安倍自民党ー憲法改定の目だまは「非常事態条項の創設」と話す。コロナを利用する戦略は、さすがで、どこまで悪なのか。

2020-05-03 | 社会批評

わたしが、3月2日のblogで書いた通り、安倍首相は、憲法に非常事態条項を創設する、意向を示しました。

いま出されている「緊急事態宣言」「緊急事態条項」は、言葉は似ていても、まったくの別物で、条項は主権者一人ひとりの自由権をはじめとする人権を、国会の承認なしに制限できるものです。

政府の一存で(今で言えば安倍首相の一存)で、強い私権制限ができるものです。三権分立の停止、人権の大幅な停止を可能とするのが緊急事態宣言で、ヒトラーはこれを使い、独裁政治を進めました。

感染症などに対応するには、いまある憲法の枠内で十分に可能ですので、まったく意味のないのが緊急事態条項です、緊急事態条項は、全面戦争の時にだけ有効なもので、政府の一存で、全国民に有無を言わせずに戦争協力をさせる場合にのみ意味を持ちます。個人の意思を消去して、政府の戦争決定に誰も逆らえなくする以外には、実際上の意味も意義もないのです。


(注)自由権など人権の制限とは、警察力を用いて、物理的=暴力的に市民の自由を取り締るという意味で、いまの緊急事態宣言とは全く意味が異なります。

 

以下は、3月2日のblogの再録です。

全国一斉の休校要請は、「非常事態法」制定・実施の予行練習です。いよいよ安倍晋三の国体思想による永久政権へ。

2020-03-02 | 社会批評


  (写真は毎日新聞より)

 
かねてから、安倍晋三が最も望み、憲法改定の目玉中の目玉と考えていたのが、非常事態条項の新設ですが、

彼は、新型コロナウイルスによる肺炎の流行を、この望みをかなえる最高のチャンス!と捉え、小・中・高の全国一律の休校という前代未聞の要請をだしました。他に相談せずに一人で決めたのは、まさに首相一人で出来る非常事態宣言の予行練習として、「正しい」!決断でした。

エリート政治家にとって、国家主義=愛国教育(日本の場合は天皇教=元号教を国民に染み渡らせることで実現できる)に基づく政治以上の望みはありません。

なにかもっともらしい理由をつけて、全権を首相が掌握できれば(非常事態条項を立法化する=かつてヒトラーが全権を掌握した手法)、事は思うがまま。なんでもできます。非常事態法を発令するぞ!というゼスチャーを見せれば、みな何もできなくなります。首相に従うのは当然で、反対者は和を乱すもの(非国民)となります。また、その条項があるだけでも、首相の意向に従うのを当然とする意識をつくりだします。

それにしても、さすがの安倍首相です。この機を逃さす、こどもたちのため(こどもへの感染はとても少なく30才以下の死者は一人もいない)という言い訳により、非常事態条項がない今、「要請」という形で非常事態をつくりだし、国民を慣らす。その後でいよいよ憲法改正の目だま=非常事態条項の新設に向かう、よく考えられた戦略です。さすがの安倍首相です。

主権者は私、という意識に乏しい国(哲学なしー精神的自立の弱い国民)では、案外簡単にこれが通る可能性があります。まだまだ日本とはそういうレベルの国なのかもしれません。どうしますか、若者たち。 じじいの私は、民主制=民主政=民主性を前進させるために頑張り続けます。古代の実存思想(ソクラテス・ブッダ・老子)に学びつつ、恋知(ほんらいのフィロソフィー・Love of thinking)という発想と態度により。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室客員調査員=哲学と日本国憲法の哲学的土台を国会所属の官僚に講義)

 

 

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白石優子さんと武田康弘によるコメントやりとりー2 科学と哲学 (了)

2020-05-01 | メール・往復書簡
 

白石 優子

私の記憶によると、知覚心理学の時代には意識はブラックボックスで、認知心理学になってから、選択的注意の問題が出てきた。

中心窩は色かたちを判別するが、周辺視では動きを感知するとか。

無意識と言われるのは自律神経系で空腹になればお腹がなるのは無意識と呼べるか?

むしろ、意識せずに取り込む情報のほうが遥かに多く、その中で意思を持ち取り込む機能のほうは少ない。しかも、よく使う機能は、ニューロンが構築され伝達速度は速いかわりに、使わない神経細胞は毎日おそろしいほど死んでいく。

フッサールについてはよく知りません。哲学的な手法を否定しているため、役に立たないと思われています。

ただ、個人的にはゲーテの色彩論はすごいと思った。内観報告という自己観察を通じて、かなり具体的でユニークです。

観念論は意味ないし。

武田 康弘

だんだんと核心に迫っています。

個別学問(認知心理学など)と哲学(認識の価値論)との違いと、その位置づけの問題です。

哲学の認識論(フッサールの現象学が代表)がないと、個別科学の心理学は根が張れないとわたしは確信していますが、その点はどう思われますか?

「意識せずに取り込む情報のほうが遥かに多く」はその通りですが、

それを意味付け・価値付ける意識の働きをよく自覚しようとする営みがないと、不味いですよね。意識化・自覚化の営為です。

 

白石 優子

これは、人間の視覚の仕組みであって、鳥やトンボになると中心窩を持たず、動きから識別するのでしょうかね。
牛は色盲だし、哺乳類で色彩を識別できるというのは珍しい。
つまり、高次精神機能と知覚の仕組みを同列に扱うのは困難だし、知性があるのは人間だけだし、知能は動物にも人間にもある。
簡単に単語で締め括れないし、証明が必要。哲学では実証や実験は必要ない。

意識下というのは、単に高次精神機能以外に人間の生物的な機能を維持するに必要なものです。

ただね、泣くから悲しくなるのか、悲しくなるから泣くのかという有名な理論がありましたが、人間は泣くと悲しくなるそうですよ。そういう意味で、意識下の意識化というのも無意識による制御を受けているし、赤ちゃんが泣くのは悲しいからではない。

別の赤ちゃんが泣いていると他の赤ちゃんたちも一緒に泣き出すそうで、共鳴するということと情緒は別のもので、悲しいなど感情や情緒が関係してくるのはもっと発達してからです。

武田 康弘

心理学であれ大脳生理学であれ、どのような知や学であれ、個々の事実を知るという営みは、その営みに意味や価値を見出しているからですが、

人間の生にとり、各々の個別学問とその成果とされる事実には、どのような意味があり、なぜそれに価値があるとするのか、それを探求するのが哲学の仕事です→主観性の知。

実験観察して実証できる領域は、対象を狭く限定する個別学問(個別科学)ですが、そこで得られる事実は、人間の生の意味と価値という、実証という概念が不成立な生の底板です。

ですから、個別科学(学問)と哲学は対立するものではなく、人間の生の意味を考え、生を吟味する営みに支えられて学知は成立するのです。

この原理を弁(わきまえ)ることは知の基盤ですが、それに無自覚な学者ばかりなのが日本の現実で、これでは根がない学知になり、不毛です。

(これは学ではなく芸術にも言えることですが)

 

白石 優子

哲学タブーの世代だから仕方ないです。

それは哲学だ、言われたらボツ。

それこそまだ新しい分野だったから。

とりあえず教養としてラッセルの西洋哲学史くらい読めというのが性格の悪い高校教師で、仕方なく読んだら中世史で退屈になりボツ。

哲学は流行らなかったし。

やっぱり人間生物学は面白かったし、精神を科学するということは魅力的だった。

当時はAIもないしね。

実験は楽しいですよ。

データがすべて。

統計的な有意差のほうが正直。

武田 康弘

白石さんの個人的な楽しみやよろこびがどこにあるかは分かります。

ただし、それは、普遍性のある学問論にはならない(なりようがない)ですね。

感想・思い出だけの話に留まります。

でも、白井さんが正直に書かれるので、実証科学のみを立場にすることの問題性が浮かび上がり、これからの教育をどうしたらよいかがハッキリします。

人間論、西欧哲学に縛られない実存論と認識の原理論を必修にするようにしないと、日本人の知的退廃はどんどん進みます(受験知の東大病)。ただの「事実学」だけとなり、「意味論=本質論」はなく、知は根を張る場をもたいないので、切り花の世界で終わります。

日本における芸術も同じ。

白石 優子

個人の意向というのがあると思うんですよ。スコラなんぞつまらんし、それなら比較宗教学のほうが楽しいと感じるのは、学問ではないですよ。単なる趣味の領域だし、脳をアクティブにしておくことは大切ですから。  だけど、最大のアクティブさは感動においてのみ得られると思いますよ。だんだん加齢していくと、感動が薄くなる。加齢とともに味覚が衰えるようなものですかね。

料理は後から覚えればいいけど、食べたことのないものは作れない。だから、教育、ってことだったら、それこそ経験や体験のほうが記憶として蓄積される。 逆に職人なら、料理の方法を知り、後から考えて作りますかね。

武田 康弘 

 それは、賛同です。わたしの教育はそういう考えと実践で44年間続けてきました。ゆえにこどもたちは大喜びで奇跡のような話もたくさんあります。一般人(大人)には受けないですが(笑)

また、感動も賛成です。わたしのBlogをご覧になれば、情熱や感動がキーワードになることはお分かりと思います。

愛情とそして理性です。

武田 康弘

「教育、ってことだったら、それこそ経験や体験のほうが記憶として蓄積される。」

は、わたしもそう思い、実践を続けています。

同時に、人間の認識とはどういうものか、を例えば「ことばと文化」(岩波新書)を使い教えています。それは、極めて重要で、そのような原理的な次元での押さえは、優れた思考のためには必須です

 

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