思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

伊藤真・【立憲主義で権力監視を】ー「当たり前」の自覚化が何より大切。

2008-04-30 | 社会思想
【立憲主義で権力監視を】 という題で、『司法試験塾』を開いている伊藤真さんのインタビュー記事が昨日の
東京新聞朝刊(29日4面)に載っています。
「見出し」にある通り、「当然」のことをきちんと堂々と言い、実践している人で、感心しました。
「日本国憲法の中で一番の価値は、個人の尊重、個人の尊厳です。
一人ひとりの人間が個として尊重されること、お互いの違いを認め合って共生できる社会を
築いていくことを憲法は目指している。」
「日本国憲法の優れている点は、個人の尊重と平和主義です。フランス革命やアメリカ独立宣言など数百年に
わたって引きついできた人類の英知が日本国憲法の個人の尊重に基づく立憲民主主義という考え方です。
一人ひとりの国民が主体となって。政府を監視していくということです。国民は憲法を守る側ではなく、
政府に守らせる側ということです。」
「平和主義、非暴力主義は、どんな名目の戦争も一切しない、何より、平和を人権としてとらえている。
世界の英知を引き継ぐと同時に、日本の素晴らしい英知の結晶です。」
「本来、あるべき日本や世界はどういうものか?理想と現実が違うからこそ、大いに理想を語るべきです。」
「生活する市民が自分のこととして憲法を考えることです。
きっかけは山ほどあります。問題のなっていることを憲法の視点から見るとどうなんだろう、と考えることが大切です。
国会の中ではなく、市民の間で憲法を議論できたらいいと思います。」 ここに書かれている立憲主義は、
「近代憲法」の常識ですし、また、個人の尊重(19条ー「思想及び良心の自由」を核とする)と平和主義の
日本国憲法の基本理念は、日本に住む多くの人が当然のこととして承認しているわけですから、
とりたてて言うほどのことではないかもしれませんが、下のブログに書きましたように、元総理大臣でさえ、
呆れ返る発言を大新聞でするのですから、伊藤さんのように、原理・原則をしっかり確認し、実践するのはとても大切なことです。
【復古主義】の政治家が跋扈する「危険」な状況にあるいま、戦後の新憲法の基本理念=天皇主権から
国民主権への転回=【皇室を特別扱いする天皇中心主義】の国から【民こそが社会の主役・中心である民主主義】の国への
転回を再度確認することには大きな意義があります。
「当たり前」の意識化・自覚化が何より大事です。
武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中曽根元首相の朝日新聞対談ー論評以前で、困ったものですね。

2008-04-28 | 社会思想

27日(日)の朝日新聞での中曽根康弘元首相の発言(国家主義)を批判して行こう!というメールが友人の*山脇直司さんから来ましたので、朝日を取りよせて読みました。朝日の前論説主幹・若宮啓文さんの質問に応える記事で、7面の全部を使ってのものです。

一読、わざわざ批判するのも愚かなほどの内容だと思いました。「日本とアメリカとの共同の価値観は、人道と民主主義で、それは、明治天皇が作られた五箇条の御誓文からも発生している、」という主張は、ほとんどマンガでしかありません。

言うまでもなく、大日本帝国憲法(明治憲法)は、主権者である明治天皇から国民に与えられた【欽定憲法】なのであり、人民主権を基本原理とする【民主主義】とは、原理からして異なるものです。

近代の立憲主義における憲法(主権者が代行者である為政者に課する憲法)と、それ以前の国家が国民に上から与える「憲法」(支配者としての国王が臣民に与える恩寵)とは、言葉は同じでもまったくその意味が異なるわけであり、これは日本の義務教育(「公民」)で勉強するものです。

このような基本レベルで間違っているようでは、哲学(=原理的思考)としては、全く失格であり、論評以前ですが、中曽根さんは、戦前の教育(天皇現人神)を幼い頃に叩き込まれたわけですから、同情すべきかもしれません。「教育」とは怖いものですが、この発言を問題にしない朝日新聞の元・論説主幹にも呆れました。若宮さんは戦後教育のはずなのに~です。

それにしてもこのような思想の持ち主が、哲人を気取る、というのでは、哲学が泣きますね。

(*山脇直司さんは、「公共哲学」運動を進める東京大学教授で、国連・ユネスコ
「哲学会議」のメンバーです)



武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原理の確認―民主主義国家の権力とは【公共権力】です。

2008-04-25 | 社会思想
民主制の国家とは、それ以前の王制(天皇制)や貴族制の国家とは根本的に異なるものです。

「公権力」という言い方は、民主制以前の国家を指す言葉としては適切です。それはふつうの市民の上にたつという意味を持ち、「公権力としての国家」vs「市民」という図式を想起させます。

しかし、市民が主権者(市民の合意=公共意思を超える意思はない)である民主制の国家には原理上「公権力」は存在しません。民主制国家における権力とは【公共権力】なのです。

市民の集合意思によりつくられる民主制国家とは、個々人の自由を守り、個々人の生の可能性広げ、個々人の安全を守るためのシステムです。それを担保するためになくてはならぬ力が、公共権力としての国家権力なのです。したがって、本来は、「国側vs住民側」という図式は生じません。そういう図式がリアリティを持つのは、日本の国家システムがまだ民主主義の国家になっていない証拠です。

権利として対等な市民がつくる民主主義国家とは、市民が税金を出し合ってつくる【共同経営】の国であり、王制(天皇制)としての国家=公権力が市民の上の立つ国家とは、国家原理が全く異なります。

したがって、民主主義国家においては、国家の諸機関それ自体には価値はありません。それがふつうの市民の利益(個人の自由の現実化ー自由の確保と調整)のために働くところにはじめて価値が生じるのです。従って、本来は、民主制国家の権力は、「国家権力」という名称よりも【公共権力】という名称の方が適切で、そうすればおかしな想念が生じにくくなる、とわたしは考えています。

「個人の上に国家がある」とか「国家の側に立つ」という言い方、あるいは逆に「国家とは悪である」という言い方は、ともに民主主義国家の基本原理(社会契約論)を理解していない人の言うことです。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合法的に「生き地獄」を経験させて殺すという刑罰=死刑

2008-04-22 | 日記
死刑の宣告 元少年表情崩さず
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=467730&media_id=4


肉親を殺された遺族は、殺した者を殺すことで「落着」するのだろうか?

死刑囚には、
執行の日は知らされない。
「明日か、明日か、」と殺される日を恐怖におののきながら待ち、生きる。
この世にこれ以上の地獄はないだろう。
どうあがこうと助からない。苦痛の時間が、瞬間的な「死」とは比較にならぬ観念の恐怖が、寝ても覚めても持続する。
地獄の中で生かされながら、ついにその時がやってくる。
合法的に、絶対的に、殺される。万が一にも助かる可能性はない。

この「生き地獄」を味わせた後に殺すという刑罰=死刑に処することで、殺された者は、浮かばれるのだろうか?
遺族は満足する?ほんとうにそうなのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政府や官僚組織のありようを民主主義の原理に合致させること=「公共哲学」の核心

2008-04-22 | 社会思想
政府や官僚組織のありようを民主主義の原理に合致させること=「公共哲学」の核心


「白樺ML」の公開です。


----- Original Message -----
From: 武田 康弘
To: shira_freeml.com
Sent: Tuesday, April 22, 2008 10:57 AM
Subject: [shira_2878] Re: 国事行為に関する内閣法制局見解


武田です。

杉山さんの危惧は、金泰昌さんの危惧と似ている(天皇の存在についての評価は異なりますが)と思います。

【公権力の解釈=力】の前には一市民は無力で、違和を感じてもどうしようもない、いくら抗っても風の前のチリに同じ、という実感が、
公権力とは異なる【市民の自治としての公共】という概念を生んだのです。

惰性態としての「自民党永久政権+お役所」の現実は誰でもが知っているわけで、このおぞましい【日本の官僚政府】に対してどうしたら【市民がつくり拓く公共領域】を確保できるか?という課題が「公共哲学」を要請したのです。

だから、その意図するところ(市民的な公共という領域を確保してそれを広げていく)は、金泰昌さんや山脇直司さんや稲垣久和さんや小林正弥さんとも一緒(その意味では彼らは同志)なのですが、ただ、それを実現するための基本思想=哲学に違いがあるわけです。

わたしは、国家や政府や官僚組織の位置づけとありようそのものの変革なくしては、ほんとうの改革にはならない、と考えています。「市民の上に国家がある」という想念・思想・価値意識を大元から断つ、そういう意識が生じる人間の意識の深層を抉り出し、それを白日の下に晒すことでその愚劣さを誰の目にも見えるようにすることが必須の営み=核心だと思っています。

だから、「東大病」の具現化であるキャリアシステムを問題にするのですし、更に大きく深い問題である「知」のありようそのもの(事実学の支配とそれを生む言語至上主義)の変革=「根源的な教育改革」に己のすべて、全実存を賭けているわけです。生の現場から撃て!!というわけです。国家の公権力や現実政治をはるか下に見下ろすもの、それが哲学する者の生であり、したがって民主主義社会においては全員が哲学者(恋知者)であるべきだ、というわけです。

政治家とは市民の代行者であり、官僚とは市民サービスマンであり、国家とは国民のためのみに存在していて、それ自身が自立した価値を持たないのです。一人ひとりの市民(=哲学者)による共同経営社会が民主主義国家です。名実ともに主権者である個々の市民の上にたつものは存在しない、この原理を「民主主義の原理」と呼ぶわけで、したがって民主主義社会における国家とは、国民国家でななく、市民国家なのです。

市民国家においては、天皇とは、市民の一般意思を、代行者である為政者に示す儀式を司る者、と位置づけられるでしょう。市民主権の民主主義国家においては、天皇とは市民のしもべ=一般意思を象徴する者としてのみ存在を許されるわけです。主権者の上は存在しないのですから、これは当然の話です。日本国憲法にも、「この地位(象徴)は主権の存する日本国民(The Japanese people)の総意に基づく」と明記されています。文字通りの【君主】はすでに存在せず、象徴としてその名残を留めるに過ぎないのですから、儀礼のみを行う元「君主」のいる国の政治体制は、【立憲象徴君主制】と呼ぶべきでしょう。

また、議員や政府人や官僚は、市民主権を具現化するために働く人であり、もしそうでないならば、彼らには存在する理由・価値はない、これまた原理中の原理です。

杉山さん、みなさん、どうでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふつうの判決が「画期的」!?航空自衛隊のイラク派遣は「違憲」

2008-04-19 | 社会思想
なぜ、自分の仕事に誇り=倫理感を持てないのか?
わたしはほんとうに不思議です。

裁判官であれば、司法の独立を誇り高く己の心に刻む、それによって民主主義の原理を守り活かす、という生き方が自己の存在を深く肯定できる条件でしょう。

しかし、現状は、政府という行政権力に頭を下げ、検察庁という行政権力に追随するだけ(有罪率99パーセントという民主主義国家は日本以外にはありません)です。

これでは民主主義の基本である権力分立(三権分立)が無いに等しく、【行政権力による独裁的な政治】と言われてもまったく抗弁できないでしょう。

このような悲しい現実がつくられるのは、もちろん裁判官個人の問題だけではなく、システム上の欠陥と官府の巧妙な詐術によるものですが、これを正すためのはじめの一歩=基本条件は、民主主義の原理を明晰に自覚することです。

航空自衛隊のバクダット(戦闘地域)への米軍の輸送が「イラク特措法」に違反し、それは武力行使を禁じた憲法9条の一項に違反する、という名古屋高裁の青山裁判長(3月で退官)の判決は、普通の人の常識で考えればそれ以外の答えは論理上導けないわけで、あまりに当然の判決ですが、こういう裁判官の良心に従ったふつうの判決が「画期的」とされるところに、日本の司法の危機があります。

また、【違憲】という判決が下されても、なにも変えようとしない日本国政府は、民主主義国の政府として失格であることはこれまた当然の話でしょう。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みんなの歌ークリスタルズ・素敵なメッセージソングー「全てを愛に代える勇気」

2008-04-14 | その他
NHK「みんなの歌」でとても素敵なメッセージソングを流していました。【全てを愛に代える勇気】

以下は、「みんなの歌」のホームページのコピーです。
ぜひ、お聴きください。
CDかDVDが出ないかな~と期待しています。


作詞:めけてとにせん
作曲:めけて
編曲:めけてとみみ
映像:Chris&Patty
アニメーション:ホッチカズヒロ
振付:CHIHARU・ETSU(TRF)

クリスタルのようにどこまでも透明で、強い光を放つ心を持つこども達が、自らの言葉で「全てを愛に代える勇気」を歌う直球勝負の作品を届けたい。その想いを胸に、実力派ソングライターの“めけて”が、自らの娘(当時4歳)が母親を勇気付けるために何気なくつぶやいた日々の言葉を下地に、書き下ろした。学級崩壊、非常識、学力低下、減らないイジメ・・・ 様々な問題が大人たちによって叫ばれ、こども達が不安と焦りを募らせている日本。世界に目を向ければ、終わりのない憎しみの連鎖・・・遠のく平和への道・・・。この現実を真正面から見つめ「戦わなくていいんだよ、好きになっちゃえばいいんだよ」「憎しみも涙に代えて、許せる勇気持って生まれてきたんだ!」「この地球を光で満たす、心の愛を持って生まれたんだ!」と、こども達が自らの言葉で力強く歌う曲を通して、混沌とした世界で進むべき道を模索し続ける大人たちにも多くを感じてもらえる作品としたい。
歌うは、本作の為のオーディションで、全国各地から選抜された618歳までの特別ユニット「クリスタルズ」。振付に「みんなのうた」初参加となるTRFのCHIHARU・ETSUを迎え、本格的なダンス(実写)と、夢溢れる映像(アニメ)の合成で綴る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無実の人に刑を科せる!?裁判官の倫理的退廃―「サンデーモーニング」で紹介

2008-04-13 | 社会思想
「疑わしい場合は、証拠がなくとも有罪とする」、どこの国の話かと思ったら、日本の裁判所の話でした。

なんとも呆れ返る(恐ろしい)ことですが、午前中、テレビ朝日の「サンデーモーニング」を見ていたら、【有罪判事】と呼ばれる上記のような裁判官が拡大再生産され、いまやそれが多数派となっている実態が詳細にレポートされていました。

司法研修所の教育でも、有罪の判決文しか書かせないという凄まじい証言がありましたし、元判事で、最高裁判所の調査官でもあった法政大学教授の木谷さんは、「裁判官(有罪判事)は詭弁を弄している」と批判していました。

白を黒と言いくるめるー言葉はどうとでも使える、というソフィストの態度で裁判に臨んでいる?というより、思考停止・自分の頭では考えない、としか言えない判事は、どのようにしてつくられるのか?警察や検察の証言を鵜呑みにして、被告や弁護人の言をあっさり退ける「法の番人」とは、ブラック・ジョークにしかなりませんが、丸暗記の受験勉強、単なる事実学だけを詰め込んできた頭では、人権も民主主義も意味論・本質論としては、まったく理解できない=自分のものにできないということでしょう。

これは、ほんとうに恐ろしい話ですが、昨日の最高裁判所のとんでもない判決とも符合することで、【公務員倫理】が低下しているというより、無いに等しいという話です。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「良心の囚人」を囚人とした最高裁の知的・道徳的退廃は、倫理なき日本の象徴

2008-04-12 | 社会思想
イラク派兵反対のビラを自衛隊員の宿舎に入れた市民グループの3人が逮捕され、75日間も拘置されましたが、この処罰は合憲、という判決が昨日最高裁判所で出ました。

わたしはこのビラの内容には賛同する者ではありませんが、ビラをポストに入れただけで逮捕され、2か月半も拘置される国は、軍事独裁政権や共産主義政権など国家が国民を下に置くような政治体制をとっている国以外にはありえません。

いうまでもなく、民主主義の核心・原理中の原理は、日本国憲法第19条にある「思想及び良心の自由」ですが、しばしば警察は、この原理から逸脱する行動をとることがあります。右翼の行動には甘い対応をし、左翼の行動は厳しく取り締まる、というのは、戦前の「治安維持法」下の思想警察の名残りかもしれませんが、これでは民主主義を守ることが使命の現代の警察とは言えません。その間違いを正すのがほんらいの司法の役割であるにも関わらず、最高裁判所が警察や検察の判断を追認するだけというのでは、わが日本は、戦後60年以上たってもいまだに「お上」に従うという後進国でしかないことになります。

国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、彼らを日本ではじめて「良心の囚人」に指定しました。ミャンマーの軍事政権下で民主化を訴え、自宅監禁されているスーチーさんもこの「良心の囚人」に指定されていますが、その「良心の囚人」を救うはずの裁判所が、彼らを「囚人」として罰する!!これは、知的にも道徳的にも許し難い「堕落」であり、最高裁判所の裁判官は、日本の【公務員倫理】の低下を世界に向けて発信したとしか評しようがありません。

もし、真の愛国者がいるならば、このような事態に憤慨しなければならないでしょう。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公共哲学とは何か?

2008-04-11 | 恋知(哲学)

公共哲学とは、「私」の考えや行為を公共的な広がりを持つものにしようとする営みです。「私」はどこまでも「私」であることをやめないで、同時にふつうの多くの人の利益になる世界を拓こうとする努力ですが、それは、「私」自身の世界を深め豊かにすることでもあります。

公共哲学は、哲学と名乗る限り、法学や経済学や政治学などの個別の知を総合した学際的学問を指すのではありません。もしそうならば、単に「公共学」あるいは「公共社会学」とでも言うべきです。

私が私の生の可能性を広げるには、狭い自我の世界から抜け出なくてはなりませんが、そのためには、「私」をよく見つめ、「私」をよくフルイにかけることが必要です。「私」の存在のありようへの浄化的反省が「公共」世界を開くのです。外なる世界を「私」のものとする営みが「公共哲学」なのです。

その意味では、公共哲学は、皆にとってなくてはならぬものです。狭いエゴの世界に閉じこもり、いまある自分に拘れば、自我を武装し肥大化させる人生を歩むしかなくなりますが、それでは永遠に不幸です。実際的・現実的に自分自身の生の悦び・可能性を広げるには、極めて個人的な領域以外の「私」を公共世界に開くこと=公共哲学が必要です。オープンマインドは、公共世界を生むと同時に「私」をよく活かすのです。

武田康弘


※ 公共哲学論争とその結語は、「恋知」第3章 をごらんください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義とは、その場の多数派に従うことではありません。

2008-04-10 | 日記
ある言説に他より大きな説得力があれば、それまで違うことを言っていた人もその考えに従わざるをえないわけで、その場合、従うのは「人」ではなく、その言説内容です。

より優れていると思える考え・言説に従うのが民主主義です。

もし、「既得権益を廃棄する」という思想が、他の言説よりも上位であれば、それに従うのが民主主義というものです。

自問自答と自由対話がなければ成立しないのが民主主義ですから、民主主義は教育とセットですが、自治を可能とする自由対話の教育がないわが国は先が見えません。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知識と思考は両立し難いものーエロースは考えることから生まれる。

2008-04-08 | 恋知(哲学)
沢山知ろうとすると、自分の頭で考えることができなくなります。
これは、誰でも自分の経験を振り返ると分かることでしょう。
哲学とは考える作用・力ですから、現代のように情報や技術が思考の代わりをしてしまうと、ほんらいの≪哲学すること≫は、なくなっていきます。

知的作用のうちで、考えること・考えを交換し合うことほど面白いものはないのに、受験知・試験知が優先し、それを強要される社会では、一番人間的なエロースに満ちた「自分で感じ・思い・考える」ことが奪われ、事実学・技術知・情報知の量の多さを競うツヤ消しの知が大手を振るうことになります。

博識ではなく、考えることで生きたソクラテスや、落第生だったが、宇宙の不思議を考えつづけ、相対性理論を生みだしたアインシュタインや、己の煩悩に悩まされ、朝廷から迫害されても愚直に考え続けて新世界を開いた親鸞や、学業成績はビリに近かったが、己の頭を信じ続けた志賀直哉や武者小路実篤(白樺派)には魅力がありますが、【受験秀才】には、魅力がありません。

自分で考えるのではなく、知識に逃げることで多くを得ようとする精神は、よきものを生まないからです。彼らの求めるのは、自我の満足だけです。
考えない人に魅力がないのは、皆の役に立たないからでしょう。皆にとってのよきもの・面白いもの・楽しいもの・有益なものを生まず、自分の得・満足だけが優先する事実人=思考しない優等生が優遇される社会は、本質的に不幸です。

情報をため込むのではなく、考えることをする。「知る」ことは必要に応じてでいい。わたしはそう考えています。エロース豊かな知=考える世界を共に。

武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルリオーズの世界ー歌劇「トロイ人」全曲

2008-04-04 | 趣味

コミュニティ【べルリオーズの世界】に以下のトピックを書きました。


ヘクトール・ベルリオーズ(1803~1869)
歌劇「トロイ人」全曲
コリン・デイヴィス指揮 コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団

「トロイ人」は、ベルリオーズ畢生の大作で、上演時間4時間、音楽があまりにも想像力を刺激するために舞台化が難しく、ベルリオーズ死後100年記念の年にようやく完全な全曲録音が実現しました。それが1969年録音のこのCDhttp://www.hmv.co.jp/product/detail/1500358(71年の発売時はLP5枚組・一万円)です。


1971年の発売時に購入したLPは、繰り返し聴き、私の宝物となりました。その後発売されたのは、ジェイムズ・レヴァイン指揮のLD、その後にデュトワ指揮のCDが出て、最近ではベルリオーズ生誕200年記念で、再びデイヴィス指揮の全曲盤がロンドン交響楽団の自主制作盤(ライブ)として出ました。

わたしはすべて聴きましたが、総合的にこの最初の全曲盤を凌ぐものはありません。時代(1969年)の影響もあるでしょうが、この演奏の熱さ・迫力・鋭さは、「トロイ人」に必須の要素です。

オペラの範疇を超えてしまったような音楽・劇的な音楽世界創造のためにオペラという外皮を借りただけのようなこの恐るべき作品=想像的創造力そのもののような音楽をぜひ多くの方に聴いてほしいと長年願ってきました。しかしCDにしても4枚組みで高価であり、なかなか勧めづらかったのですが、いまは、デイヴィスの最高の演奏が比較的廉価で求めることが出来ます。ぜひ時間をかけて聴いてみて下さい。ただし国内盤ではないので、歌詞対訳は付きません。


武田康弘

追加

2012年に収録されたパッパーノ指揮のDVDは、はじめての日本語字幕付きで、演奏も熱く見事です。 日本語の字幕付きで見れる日が来るとは思いませんでした。感激です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする