詳しくは、以下の『東京新聞』をご覧ください。
異常としか言いようのない安倍政権ですが、国内は、とくにテレビ局と出演者には懐柔と恫喝で報道規制できても、海外・国連をだますことはできません。
国際的な信用は、ますます地に落ちていきます。「みっともない憲法」(安倍首相の発言)ではなく、「みっともない日本政府」というのが真実です。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員ー「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
こちらもぜひ見てください。 「異なる報道」(クリック)大本営なのか?
詳しくは、以下の『東京新聞』をご覧ください。
異常としか言いようのない安倍政権ですが、国内は、とくにテレビ局と出演者には懐柔と恫喝で報道規制できても、海外・国連をだますことはできません。
国際的な信用は、ますます地に落ちていきます。「みっともない憲法」(安倍首相の発言)ではなく、「みっともない日本政府」というのが真実です。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員ー「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
こちらもぜひ見てください。 「異なる報道」(クリック)大本営なのか?
「官邸で複数回面会した和泉洋人首相補佐官から『総理は自分の口から言えないから、私が代わりに言う』との趣旨の発言があり、手続きを早くしてほしいと求められた。」文科省のトップ=前文部科学事務次官の前川喜平さんの証言。
万死に値するといわれるのが、国家の私物化です。安倍首相の恐ろしい罪です。
法学者もふうつの市民も大多数が違憲という法案を強行採決。憲法裁判所があれば、すでに終わっている安倍政権。
その安保法制の審議が山場をむかえた中、夫人の森友講演日に合わせて「森友学園の小学校を開校させるために」無理なスケジュールを押して大阪入りした安倍首相。
たった二枚の稚拙で内容のないペーパーで合格!となった加計学園は、安倍政権の意向を文科省に飲ませたもの。
どれほどの私物化が行われてきたか、すでに誰もが知るところです。
主権者の公共的利益を実現するために働くはずの政治権力者が、自分個人の思想を実現するために、あるいはお友達を優遇するために国家権力を使う(絡め手により従うしかないように誘導または要請)というのは、
国家権力の私物化で、民主政国家ではもっともしてはならぬことです。それをした戦前の日本は、人権抑圧国家となり、奈落の底に落ちました。
国家権力を首相が私物化するのは、最も重い罪であり、恐ろしいことです。それを許す国家ならば、朽ちていくほかありません。
武田康弘
「巨人・大鵬・卵焼き」
通産省に出入りしていた新聞記者たちが、官僚だった堺屋太一さんの言葉を広めたのですが、大鵬はそれを不愉快に思っていた、と東京新聞は20日に一面で紹介していました。
「金の力で有力選手を集める「巨人軍」が強いのは当たり前、自分は貧乏どん底からの一人、同じにされるのは不愉快」との大鵬の言葉=反骨精神は、見習うべきものと思います。
今朝の東京新聞には、昨夜の通夜での王貞治さんの言葉が紹介されています。
「巨人、大鵬、卵焼きと言われたが、あなただけが個人。いかに偉大だったか」と讃え、
自分と同じ1940年生まれのゴルフのジャク・二クラウスさんと合わせて、ひそかに自分の中で『大鵬、二クラウス、王貞治』と思っていた、と明かした。と書かれています。
「私」からの出発、個人の自由と責任、いまも過去もわが日本に一番欠けているものは、この思想=精神だと思います。一人ひとりの「主観性」を豊かにする努力こそが何より求められます。誰でもが例外なく個性をもった個人です。日本的集団主義は、人間的輝き・悦び・魅力を消去してしまいます。
武田康弘
わたしが、最初にオーケストラを聞いたのは、小学5年生のときに父に連れられてです。上野の東京文化会館で、曲目は、ベートーヴェンの交響曲3番「英雄」でした。その前に序曲でも演奏されたかどうか?覚えていません。とにかく長かったです(笑)。1963年ですから、54年前のこと。
自分のお小遣いで最初に買ったLPは、ベートーヴェンの交響曲5番(ショルティ指揮・ウィーンフィル)と6番(エーリッヒ・クライバー指揮・アムステルダム・コンセルトヘボウ)、高校生になったばかりのころ。次に「英雄」を買いました。ベーム指揮、ベルリンフィルです。LPは2000円でとても高かったですから、大事に繰り返し聴き、みな覚えてしまいました。
それで、今日まで半世紀以上にわたりさまざまな音楽を聴いてきました。好きな作品も書き切れないほど多いですが、一番多く聴いてきて、今も聴いているは、「英雄」です。少しも飽きることがなく、いつも心身と頭の全部が満足する曲です。
「英雄」の最初は、母の兄が残したSP(フルトヴェングラー指揮)でしたが、何枚もあり聞くのがたいへん。高校生以降は、LPで、またFM放送を録音して。今はCDですが、長いことお気に入りだったのは、クレンペラー指揮・フィルハーモニー管弦楽団、1959年の録音です。一昨年は、このオケでサロネンの指揮する「英雄」を東京芸術劇場で聴き、感無量でした。
今は、新しい演奏もみなそれぞれ面白く、さまざまなよさを楽しんでいます。新たな感動が次々と、です。昔のワルターやフルベンもよく、「英雄」の魅力は絶対的で、しかもいつも新しい~~~~~~。ただし、やはり一番感動するのはクレンペラー盤で、音楽の大きさと格が違います。
今年12月には、ジョナサン・ノットが、東響と「英雄」をやります。いまからドキドキしますが、驚くことに、そして嬉しいことに、ノットがインタビューで次のように言っていました。
「BBCミュージックマガジンが、指揮者たちに「最も好きな交響曲」と「最も重要な交響曲」を3曲あげてほしいというアンケートを取ったが、結果は両方とも「英雄」が一番だった。わたしも両方に「英雄」を上げた。英雄は、非常に現代的で、スリリングで大胆だ。」
ナポレオンが共和主義を欧州にもたらすという期待が見事に裏切られた時、ベートーヴェンは怒り、スコアの表紙に書いたあった「ポナパルトに捧げる」の文字を消しましたが、ではエロイカ=英雄とは誰でしょう。もちろんベートーヴェン自身ですが、同時に、市民精神に富む共和主義者すべてが英雄です。ノットは、この曲は、「神」ではなく「人間」の民主主義的関係を歌ったものと言います。まさしくその通りで、デモクラシーの交響曲です。
だから、オケの全員が話し合って解釈を決めるドイツカンマーフィルの演奏は、理念通りですし、ノットの民主的な人柄と言動もまた理念の現実化にふさわしいもの(東響の演奏会は12月ですが、すでにドイツの若手オケでの演奏がYouTubeで視聴できます)。かつてのクレンペラーの磐石不動の名演も各楽器の音が全部平等に聞こえ、しかもクリアーで十分に歌い切り、民主的でした。レイホヴィッツは、今生まれたばかリのように新鮮でダイナミック、心身が動きだします。ラトル・ウィーンフィルは、速めのテンポながらウィーンフィルの美質をよく引き出した現代的演奏(名演とまではいきませんが)。アインザッツに拘らないプレートル・ローマ聖チェチリア管は、楽しく豊かなエロイカ・・・これからもさまざまな心躍る「英雄」が登場するでしょう。楽しみは永遠です。
武田康弘
ポール・ルイスは、既存の枠組みをブチ壊して進む。常識?なんだそれ、常識はわたしがつくるのだ。
わたしは、こう感じ、こう思い、こう考え、こう弾く。誰がどうしようと、巨匠の解釈がどうであろうと、そんなものは、全然関係ない。
打鍵は、強く深く落ち、揺るぎない自信に満ちている。
変わったこと、恣意的なことはしない。堂々と自己の信じる道を進み、外連味(けれんみ)がない。ためらわずに、少しも歪まずに、天空を駆け巡り、大地をグングン進む。
なんと気持ちがよいのだろう。 この晴れやかさは、同時に、人間的な優しさと愛に満ちている。
ルイスのCDは、日本盤がない。この断固たる自己への忠実は、「ああでもない、こうでもない」のウジウジの人には分からないのかな? 日本のクラシック専門家には「音楽音痴」が多い?(笑・失礼)。
いま、ルイスのCD=ムソルグスキー「展覧会の絵」をかけていたら、妻が清瀬保二?と言った。なるほど、孤高で揺るぎない自然態は同じ。高音の輝きと打鍵の確固たる強さも。ああ、そうだ!清瀬保二はムソルグスキーが好き、とお弟子の故・松橋桂子さんが話していた。みな、観念優先ではなく、足が地についている。
そして、その強さには、優しさと愛の強い支えがある。だから、温もりがあり、ファンタジーの世界が広がる。二曲目のシューマンの幻想曲は、しっかりとした芯をもつ美しさだ。透明感のある音で、かつ豊かな身体性をもつ。
大好きなピアニスト、ポール・ルイスに、乾杯!! 今年11月の来日公演、とても楽しみだ。
武田康弘
個人レベルで行うテロを防ぐのに、防衛費の増額!?など、なに一つ関係ないのは、誰にでも分かる話です。
子どもじみている、というレヴェルを超えて、論じる意味すらなく、そんなことを考えたり、信じたりする人間がいるのが不思議というほかありません。
「共謀罪」を新設することが、なぜテロ対策になるのか? 爆弾テロを防ぐのに共謀罪が何も関係しないことは、誰でも分かります。
ねらいは、政府に対する批判・反対運動を抑え込むことであるのは明白で、国連の特別報告者の指摘にもあるように、あまりにも危険な法案です。
安倍政府は、国際問題や種々の事件を利用して、実際上、主権を国民から官僚政府に移したい(すでにかなりそうなっていますが)のです。国家という名の幻想的な共同体を利用して、一人ひとりの人間の自由と責任に基づく自立ではなく、「政府 内 個人」にすることが目的です。
愛国心教育、国旗に敬礼する人間の育成、あるゆる場面で「国歌斉唱」、教育の政府統制、明治維新史観の徹底、アメリカ軍と自衛隊の完全な一体化(米軍に寄り添うことで国内を「戦前思想」に戻すという基本戦略)、防衛費増額、違憲の安保法制、スパイ法の新設、共謀罪の新設もくろみ・・・・・すべては、明治維新の【国体思想=靖国思想】という想念に基づきますので、理性など通るはずがないわけです。
民主政治=自治政治とは二律背反で、ふつうの健全な理性をもつ人、市民精神をもつ公共人の考え方・生き方とは、根本的に異なる政治です。
いま必要なのは、理性(綜合的な判断能力)の回復です。
武田康弘
日本政府のあまりに稚拙で危険な「共謀罪」新設に対して、
30年間にわたり日本のプライバシー権の実態と歴史を研究してきた法学者のケナタッチ氏による国連特別報告が出されましたが、
政府の菅官房長官は、批判内容についてまったく応えず、逆ギレして怒りを表明しました。
まともに応えようとしない日本政府に対して、国連がアクションを起こす方向にあるとのことです。
日本政府は、まるで戦前の「国連脱退」と似た発想と言動で、世界的な普遍性を持たず、自閉的な自国絶対主義に陥っているというほかありません。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
以下は、「東京新聞」特報部のデスクメモです。
戦前、国際連盟を脱退した当時の松岡洋右元外相は後に「脱退は真意ではなかった」と述べた。
A級戦犯容疑者の多くも「戦争には反対だった」と弁解した。「無責任」が国を亡ぼしかけた。
共謀罪審議の粗雑な議論も自由や民主主義の名に値しない。後から何を言っても遅い(洋)
2017. 5.20
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A級戦犯容疑者の岸信介は、安倍首相の最も敬愛する祖父ですが、東条英機と共に対米戦争の決定者です=昭和天皇の意思を後ろ盾にして。
岸信介は、戦後も「あの戦争は正しかった」と述べていて、反省はしていません。安倍首相も「戦後体制を終わらせる」をスローガンにして、戦前体制(超国家主義)への批判は一度もしません。確信犯なのです。
敬愛するお爺さんの国家を再び!は、安倍首相の悲願です。どのような手段を用いても実現させたいのです。平成版の「治安維持法」(政府が国民を支配する)である「共謀罪」の成立は、強い戦前国家のニッポン復活のためには欠かせません。
無条件降伏=「ポツダム宣言」受諾で敗北した明治維新の伊藤博文や山県有朋らの思想=皇室を利用した国家主義(「万系一世」という作り話による)の思想を再び日本人に植え付ける【全員洗脳】のために、あらゆるメディアや政治勢力を駆使します。現天皇の明仁さんや美智子さん、皇太子夫妻らが嫌がり、反対する思想をです。
アメリカへの敗北を心理的に消去し、すでに敗北した日本主義を復活させるために、アメリカ軍との完全なる一体化を目がけます。アメリカ軍部と一つになったニッポンをつくることで、復古主義=戦前回帰の思想で日本国内を統一するのが、安倍首相グループの根本戦略なのです。電通の自民党担当なども絡むどす黒い野望です。今のアメリカは、アメリカ軍と一体化した国家であれば、その国がどのようなイデオロギーを持とうと干渉しません。同盟国であるか否かだけが問題なのです。
武田康弘
わたしは、大好きで、大絶賛を繰り返しているジョナサン・ノットですが、
ただ一つ、欠点があります。
「ブラームスの1番」や昨日の「ブルックナー5番」で顕著なのですが、
休止の問題です。
楽譜通りの正しい休止のほかには休止がないことです。
それでは、すべてが一続きになります。それが欠点にならない曲もあれば、欠点になる曲もあります。
止まる、スキをつくることで、大きく呼吸ができ、音楽世界は深みと広がりを露わにします。音楽が深く落ちる・沈むので、大きくなるのです。
それは音楽に限らず何事でもそうです。
余るほどの能力を持ち、優しく豊かな人間性で、エロースあふれる音楽を次々と生みだす稀有な人物であるジョナサン・ノットを、わたしはとても敬愛しています。
彼が、もし、この休止=スキをつくることの重大さに気づき、成功すれば、21世紀のもっとも優れた指揮者(音楽家)になると思います。
頑張れ!ノット。
写真は、2016年10月15日 サントリー・ホールで、
見事な「ショスタコーヴィチ10番」演奏会終了後、
わたしのブラボーに応えるノットさん。
武田康弘
おそらく繰り返しの世界記録のようなブルックナー5番が始まった。ピーンと張り詰めた空気の中で、次々と現れる音型を追うのは快感だ。一楽章だけで終わってもOKと思えるほどの充実。
ノットの緻密で新鮮な解釈と東響サウンドの見事さには驚かされる。一昨々日聴いたイギリスの名門、フィルハーモニー管弦楽団とも優劣はない。個性の違いで、弦は東響が音の透明度としなやかな美しさで優り、輝きと強さでフィルハーモニーが勝る。管楽器の上手さは互角で、聴き惚れてしまう。わたしには東響が優れているように聞こえる。金管はフィルハーモニーか。
ノットの指揮は、全楽章とも見事なまでの緊張感で、糸がピンと張られているような美しさ。オケへの指示=表情と手と身体の動きはまったく無駄がなく、惚れ惚れしてしまう。まるで最高の競技者のような動作だ。
2楽章の天国的な美しさは、弦の有機的な上手さ、強奏しても音の品位が高く繊細さを失わないことで生みだされている。
3楽章の感動、充実感あふれる躍動が終わると、再び1楽章が回帰する終曲へ。美しくかつパワフルな音たちは、同一メロデーと強弱を執拗に繰り返し、最後の爆発へと登り詰める。すごい迫力だが、すべてが美しい、いままで聴いたことのないブルックナー。隙がなく最初から最後まで気が抜けない。現代的な優れた演奏の典型で感動した。ただし、ブルックナーの素朴さ(野暮さ)とは無縁で、聴くのには心技体の充実が求められる(笑)。
それにしても繰り返しの鬼のような5番を二日続けて同一会場でやるのは、ノット・東響くらいなもの?
最初の小曽根のモーツァルトピアノ協奏曲は、ピアノがジャズのリズムと変則的な動きで、これは、完全なる確信犯(笑)、面白い。アンコールの即興のジャズ(クラシック曲のアレンジのよう)は、楽しくて、オシャレ、身体が動き出す。
東響は、音楽の核心を明確につかんだ、と思われる。こういうオケは今までの日本にはなかった。ノット・東響おそるべしだ。
なお、昨年の欧州演奏旅行のプレコンサートで演奏された「ショスタコーヴィチ交響曲10番」がSACDで発売となり(サントリーホールでのライブ)、今日のブルックナーにもマイク機材が入った。
武田康弘
※ 新発売のSACDショスタコーヴィチ交響曲10番今聴きましたが、当日のわたしの絶賛でさえ全然足りていないな、と改めて感動!
日本のオケ云々という話ではなく、10番の新たな金字塔で、こんなに面白い演奏、血が騒ぐ演奏は今までありませんでした。このSACDは「客観的」証拠です。ああ~~気分いい!当日のわたしの大賛辞の確かな証拠だ!(笑)これを聴いて幸福になれない人はいない。悦びの10番!
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東京新聞、5月20日(土)朝刊です。
オケが引き上げた後も、幾度も呼び出されるサロネン。熱気が写真からも伝わります。このホールでこれだけの盛り上がりは今までなかったとのこと。よい記録になりました。
サロネン・フィルハーモニー 白熱の名演、超満員のタケミツメモリアルホール、鳴りやまぬ拍手、スタンディングオベーション、ブラボーの連呼、マーラー6番「悲劇的」ーすべてを終わらせる最後の一撃は、絶頂のカタルシス。
興奮冷めやらず、今朝は、6時に目覚めた。キラキラと輝く新緑が、爽やかな香りで空気を満たし、心身に染み込むよう。
ティンパニー7台、ホルン9本、トランペット7本、トロンボーン4本、コントラバスは8丁、舞台ギリギリに並ぶ楽器が目に焼き付いている。
オケの全体は有機的に一つだが、個々のプレーヤーは、自分の音をクリアーに出し、アインザッツも核心部分以外では神経質でなく、余裕がある。楽曲のイデーが明瞭で、音楽が立体化し、生きて輝いている。細かく緻密にやりすぎてノッペリとしてしまうのとは逆で、見事に立っている。マーラーと同じく作曲家でもあるサロネンは、音楽の捉え方が斬新で、いま生まれたかのように初々しい。シャープで現代的だが温かく、管理的ではなく、エロース豊かだ。
昨年、発見され、世界初演されたばかリのストラヴィンスキーの「葬送の歌」が序曲のようになり、休憩なしでマーラー6番に入り100分連続だったが、少しも弛緩せず、充実の極み。サロネンは全力投球で、途中で水分補給した。顔面紅潮し、途中からはずっと真っ赤だった。
長大な終曲4楽章は、海のよう。愛に溢れるサロネンの指揮は、いつまでも続いてほしいと願ってしまう。豊かな水の動き、透明な海水が渦巻き、泡立ち、流れる。曖昧さがなく明晰で鋭利だが、溢れるばかリの悦びがある。「悲劇的」と題されたこの曲は、運命により斃れ、すべての終わり=破局を告げる強打で幕を閉じる。しかし、サロネンの演奏は、これ以上はない鋭利な切断が、そこから目も眩むばかりの眩い生への飛躍を予感させる。強烈なカタルシスに全身が痺れる。
この演奏は、指揮者もオケも聞く者も、全員で行う格闘技のようだ。あるいは愛のルツボか。それにしても、音楽家のタフさには毎度舌を巻く。5月14日からこの日まで、5日間休みなしで、西宮(兵庫県)、東京、名古屋、熊本、そして昨日の新宿オペラシティ。
心身の底まで充足。帰りに一人、テラスで黒ビールを飲んたが、同じテーブルの母娘さんと対話。話があい、意気投合。ジョナサン・ノットのファンでもあり、嬉しい限り。一昨年のサロネン・フィルハーモニーでも、わたしと同じシベリウス、ベートーヴェン3番、ブラームスヴィオリン協奏曲(ヒラリー・ハーン)を聞いたと言う。縁。今日の演奏会のこと、ソニーのカメラのこと、日本のひどい型ハメ教育のこと(オランダに長く住んでいたそうです)。白樺派と白樺教育館のこと、国体思想ー安倍政権のおぞましさ、など楽しくお話しして帰路についた。
武田康弘
追記・fbの友人で、幾度か演奏会でお会いしている長谷川京介さんのblogを読みました。長谷川さんは「音楽の友」などで批評活動をしています。
国の主権者は誰か?
明治維新政府の伊藤博文は、大日本帝国憲法(明治憲法)の作成者ですが、主権は天皇にあるとしました。そして、わが国では将来にわたり主権が国民に移ることはない、と教説しました。
1945年「ポツダム宣言」受諾で、無条件降伏した後も、政府と二大政党は、新憲法でも天皇主権は変えないとし、国民主権を頑なに拒否しましたが、占領軍(GHQ)は、人民主権(国民主権)を絶対条件とし、民間人七人のつくった憲法草案(「治安維持法」違反の第一号逮捕者であった憲法学者の鈴木安蔵、後にNHK初代会長となる共和主義者の高野岩三郎らによる)を下敷きにして、天皇は象徴・主権は国民にあるとする現『日本国憲法』が、ようやく誕生したのでした。
その主権者が、政治を主権者の代りに行う政治家に対して示す政治理念が憲法ですので、もし、憲法を変える必要があると主権者の多数が判断した時は、その意思を受けた国会議員が、国会において発議します。
約束事の憲法理念を守る最大の義務を負ってるのは、いうまでもなく行政権力のトップである総理大臣ですので、その総理大臣が、憲法改定の先頭に立つのは、明白な憲法違反なのです。国会で改定が承認され国民投票で過半数の賛同が得られれば憲法は改定されますが、改定されるまでは、首相は現憲法を順守する義務があり、これに反することはできません。
繰り返しますが、最大の順守義務のある首相が憲法をないがしろにするような言動をすることは、絶対に禁止されています。主権者の国民及び国会によるのではなく、内閣=行政権のトップである総理大臣が改定の音頭を取るのは違憲であり、それをするなら、民主政国家は元から崩れてしまいます。まさに戦前のヒトラー=ナチス・ドイツと同じです。「三権分立」を少しづつ破り、行政権力がすべてを掌握することで独裁政治は可能となったのです。
これは、民主政国家の成員ならば、誰もが肝に銘じなければならない国家政治の原理中の原理なのです。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員「日本国憲法の哲学的土台」を国会職員に講義)