思想がなければ、現実の政治も行えません。
明治維新を成したのは、吉田松陰の思想です。それは水戸学であり、松陰の誤読ではあるのですが、本居宣長の国学でした。松陰は、自身が述べている通り、1857年(安政4年)春に思想が完成しました。
松陰は、尊王(天皇崇拝)を強調しても、なお攘夷(外国を打ち払う)ための手段として考えていましたが、1857年春からは、尊王自体を絶対的化させて、水戸学と完全に一致したのです。そこから従来の漢学中心をやめ、国学を読むようになり、水戸学と共に本居宣長を高く評価します。
松陰は、1859年12月27日に処刑(29才)されましたが、彼の思想・意思は、処刑により熱く松陰を慕う松下村塾の10代の若き塾生に受け継がれ、その後の過激な維新革命を生んだのです。
伊藤博文ら長州藩の若者は、江戸に積み立ててあった多額の長州藩藩金を横領してイギリスに渡りますが、彼等は、ロンドンに着くなり、日本とのあまにも大きな文明の差に愕然とし、攘夷(外国を打ち払う)など不可能なことを悟りました。伊藤は、その差が、強い宗教=キリスト教をもつところにあることを知り、日本は仏教という個人を救済し平等を重んじる弱い宗教しかないのでダメだ。強い宗教をつくらないといけないと考え、皇室の伝統を利用して、天皇教という一神教もどきを創り出したのです。
天皇という名をもつ者=京都の朝廷内の人間は、平安時代初期の村上天皇で終り、※その後800年以上は、今上とか御門とか様々な名で呼ばれ、天皇という称号をもつ者はいなくなりましたが、江戸後期の光格が再び天皇を名乗り出してから(在位1780~1817)は、天皇という名称が復活して、明治の睦仁で4人目(今の徳仁さんは8人目)でした。この睦仁を京都御所から江戸城に連れてきて、満年齢で14才の睦仁を教育して明治天皇=現人神に仕立てたのが伊藤や山県有朋らでした。
※ 詳しくは、学習院大学と大学院で教鞭をとる遠山美都男さんの『名前でよむ天皇の歴史』(朝日選書・2017年刊)をご参照ください。
武田康弘
つづく。