我孫子市寿の拙宅(古代ギリシャ史を中心に据えた歴史家の村川堅固・堅太郎父子の旧別荘の向かい)から徒歩10分のところに旧・杉村楚人冠邸があります。
杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)旧邸は、我孫子市が管理し資料館にもなっています。昨日30日に、楚人冠の遺品から夏目漱石の未発表の手紙が見つかったというニュースが、東京新聞記に大きく取り上げられましたが、そもそも二人はどのような関係にあったのでしょうか
まずは、杉村楚人冠について。
反骨精神あふれる優れたジャーナリストして知られる楚人冠は、「新聞記者の教科書」といえるものを1915年に出しています=『最近新聞紙学』(慶応義塾出版)。また彼は、同年、サンフランシスコで開かれた第1回の世界新聞大会で演説もし、英文原稿が残されています。所属した『東京朝日新聞』では、倫理の重要性を主張し、調査部、さらに記事審査部を創設し、新聞の倫理と社会的役割と、さらに経営のあり方についても考察し実践しました。
思想は、リベラリズムでプラグマティスト、1898年(明治32年)以来「社会主義研究会」のメンバーで、「仏教同志会」もつくりましたので、人間性豊かで自由な民衆主義者と言えるでしょう。
『平民新聞』にも幾度も寄稿し、幸徳秋水、堺利彦とも交流しました。楚人冠の所属する『東京朝日新聞』は日露戦争を支持する中心でしたので、反戦-政府批判を妥協せずに貫いた『平民新聞』に書くことに主筆の池辺三山は快く思いませんでしたが、彼は書くのをやめませんでした。
楚人冠は、忌憚なく自説を言い、論争も積極的に行い、権力におもねることのない見事なジャーナリストでした。そのために、「朝日新聞」で連載小説を書いていた夏目漱石とも仲がよかったのでした。漱石は、東大教授を蹴って小説家として自立・独立し、後に『わたしの個人主義』を著しました。
なお、「夏目さんだけを師」とした白樺派の武者小路実篤や志賀直哉らが白樺派のコロニーをつくったのも我孫子ですので、みな深い縁があります。
杉村楚人冠は、幸徳秋水と親しく、彼から幸徳秋水の話を聞いた漱石は、小説『それから』の中に書き入れました。
※(注)幸徳秋水は、「大逆事件」で無実であるのに、その思想の伝播力に脅威を感じる政府により死刑(再審もなしで即刻、死刑執行!)にされました。政府=警察による思想弾圧の象徴で、この年1910年より自由が抑えられる「冬の時代」となり、政府関係者の森鴎外までも小説を書くことを諦め、歴史小説に転向しました。
この「冬の時代」の始まりに、個性と自由を謳う同人誌『白樺』が創刊され、白樺は、文学のみならず、思想、宗教、美術、音楽などを含む日本最大の文芸運動になったのです。皇室の藩屛としての学習院と学習院卒業生がエスカレーター(文科のみ)で進んだ東京大学の出(武者も志賀も中退)の中から、大胆なまでに自由な個性を主張する白樺が出来たのでした。彼らは、明治天皇の死に際して殉死した乃木希典を厳しく批判し、政治には疎かった志賀直哉も、幸徳秋水の死刑に対し「憤まんやるかたなし」と書いています。
この1910年に東京と大阪の「朝日新聞」に連載がはじまったのが『それから』で、漱石は楚人冠から聞いた秋水の話をもとに、以下のように書いています。
「平岡はそれから、幸徳秋水と云う社会主義者の人を、政府がどんなに恐れているかと云う事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人ず昼夜番をしている。一時はテントを張ってその中から覗(ねら)っていた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一みうしないでもしようものなら非常な事件になる。今本郷に現れた、今神田に来たと、夫(それ)から夫へと電話が掛かって東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円を使っている。」(現代表記に直しました)
(楚人冠著作、各種論考と黒岩比佐子さんの傑作で、絶筆(52歳で没)となった『パンとペン』を参考にしました。)
追記 この記事は、9月8日に「白樺教育館ホーム」にアップされましたので、ご活用を。クリックで出ます。
武田康弘
東京新聞ー28面 (一面に案内記事がありました)
以下の写真は、2015年5月撮影・武田
白樺教育館の蔵書(全集の3)