昨年7月にアップした泥 憲明さんの街頭初演説は、1年3か月で31万件の「いいね!」を頂きました。とっても感謝です。
これはまずない記録でしょう。
引き続き、安倍首相の愚かで危険な政策(背後には「戦前思想」のおぞましさ)を明白にする泥演説の拡散をお願いします。
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/40768d2be233f251b6ff75903613f0db
クリックしてください。
武田康弘
昨年7月にアップした泥 憲明さんの街頭初演説は、1年3か月で31万件の「いいね!」を頂きました。とっても感謝です。
これはまずない記録でしょう。
引き続き、安倍首相の愚かで危険な政策(背後には「戦前思想」のおぞましさ)を明白にする泥演説の拡散をお願いします。
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武田康弘
10年前のBlogですが、コピーします。
写真は、奥多摩。
ソクラテス教室のハイキングで。
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【靖国神社職員有志の会】の方の主張は、明確です。
以下は、靖国神社職員の方の主張、一部転写です。
キリスト教等、異教徒の戦死者遺族の方から時々、合祀に反対する意見を寄せられることがあります。
しかし、誰を合祀するかしないかは私たちの自由です。これも私たちの「信教の自由」です。
国家功労者をお祀りするにあたって遺族の意思を確認するつもりは一切ありません。国のために犠牲となった英霊は、もはや遺族だけの独占物ではないと考えるからです。
今後海外派兵が盛んになり、自衛隊等で殉職者が出ることもあるでしょうが、どの殉職者を祀り、祀らないかは、その都度その都度私たちだけで判断します。部外者の誰にも相談するつもりはありません。
今まで自衛隊員は祀られませんでしたが、今後、日本も積極的に世界平和のために戦うようになれば、将来的に自衛隊の殉職者を合祀することもありえると思います。
さらには憲法改正されて正規軍が組織されれば、「日本軍戦死者」も出てくることが予想されます。その際には戦死者本人の宗教に係わりなく平等に扱うこととなるでしょう。
これを止めることは誰にもできません。
私たちの「信教の自由」は、誰にも止められません。
以上には、靖国神社職員の方々の正直な考えがきちんと表明されています。
もうこれでどなたもお分かりのことと思いますが、
「日本も積極的に世界平和のために戦うようになれば、」「憲法改正されて正規軍が組織されれば、」
というように、靖国という宗教は、とても政治的です。「戦争神社」と呼ばれる理由がよく分かりますが、これは、明治政府=長州藩の下級武士たちが、天皇側で戦った戦死者だけを祀る施設として創設したのですから、当然のことです。
問題の核心は、そのような【思想神社】を主権在民の原理に拠る近代民主政の「日本国憲法」下の議員=公人が支援したり関与したりすることは、明白な憲法違反になるということです。これは、憲法学者の90パーセント以上が「ノー」と言った集団的自衛権容認の時以上の割合で「ノー」となるはずです。恐らく全員でしょう。
特定の宗教を政府関係者や議員など公務員が支援することはできない、憲法20条に極めて明瞭です。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
結語、
靖国神社の職員の方々が主張する通り、宗教活動の自由は保証されています。憲法20条で保障されたその自由を守ることは必須です。
そのためには公務員は、靖国神社を特別扱いにしてはならないわけです。もしも、政府関係者や議員が靖国神社に対して優遇や支援をすることがあれば、明白な憲法違反です。
靖国神社と政治が結びつくことは憲法違反であり、できません。議員の資格での参拝は不可能なのです。「日本国家のために斃れた英霊を祀る」と言い、それに特別の価値を与える言動を政府関係者をはじめ公務員はしてはならないわけです。
なお、靖国神社の思想のうち、「祀るのは靖国神社の自由であり、そこでは個人の自由はない」という主張は、そのままでは憲法違反となります。誰であれ、公共の福祉に反しない限り個人の自由意思を否定する権利はない、これは、近代市民社会の常識です。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室 客員=「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
いま、教え子の染谷裕太君が自転車でヨーロッパを旅しています(1年半前には自転車で南北アメリカ縦断)。
イギリス(ロンドン)に入ったところですが、そこでの批評はとても興味深いので、ここに転写します。
後半の三枝恭子さん(コロラド州在住の言語学者・大学で教鞭)と私のコメントやりとりは、宗教表象の問題になり、大スケールの話です。
(※裕太君は中1から17年間にわたり生徒であり、白樺同人です。)
大英博物館
イギリスというのは実に憎たらしい国だと思う。わりぃこと一杯やったり、あったりしても、車優先で道路が汚くて(というか全体的にドイツ、オランダより汚い)オランダ、ドイツとの落差にダメだこりゃと感じたりしても、ちゃっかりと凄いところは凄いんである。ロンドンフィルはベルリンフィルと比べても遜色ないほど滅茶苦茶に上手く、それが立ち見なら8ポンドで見れるほどに気軽で身近。しかも、来れなくなった友人の分のチケットを持っていた英国紳士が「座っていいよ」と、立ち見の私に声をかけてくれるではありませんんか。
ロイヤルフェスティバルホール (ロンドンフィルとフィルハーモニー0.の本拠地)
大英博物館は世界中から強奪してかき集めた遺産の数々を堂々と展示して見せびらかしていて「うわっ」となるけど、きっちりタダで入れるようになっている。実に憎たらしい。
この国はたぶん確信犯で良いことも悪いこともやっているんじゃないかと思う。まだドイツとオランダしか行ってないけど大陸の国とはやはり全然違う。表現としては逆だけど、イギリスに来てからアメリカみたいだと思うことが何度もある。アメリカ人が元イギリス人というのがよく分かる。日本ではよく「欧米」と一括りにするけど、...欧と米は全然違うと思うが、英と米は通じていると感じる。イギリス人をアメリカのような乾燥した広大な国土に住まわせるとアメリカ人みたいになるのか。なるほどな、と一人で納得。相当単純化しての見方ではあるけど。
ロンドンはもう少し居ようと思ったけど、ゴチャゴチャしているし、ポンドが異常に高いし、冬になってしまうので、さっさとフランスへ渡ろうと思います。
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仲 誠一
大英博物館 盗品?だらけ、ミイラの部屋にはいると、なにか背中につきものが着きそうで、気味悪かった。 ミイラは異国の建物の中で成仏できるのでしょうか?
染谷 裕太
あれで展示されて見れるのは一部ですから凄いですよね。もちろん全部奪ったわけではないですが。エルギンマーブルの前で「ギリシャに返せ!」と書いたギリシャ国旗を持って少年とたぶんそのお父さんが写真撮っていました。
エルギンマーブル
武田 康弘
「この国はたぶん確信犯で良いことも悪いこともやっているんじゃないかと思う。まだドイツとオランダしか行ってないけど大陸の国とはやはり全然違う。表現としては逆だけど、イギリスに来てからアメリカみたいだと思うことが何度もある。アメリカ人が元イギリス人というのがよく分かる。日本ではよく「欧米」と一括りにするけど、欧と米は全然違うと思うが、英と米は通じていると感じる。イギリス人をアメリカのような乾燥した広大な国土に住まわせるとアメリカ人みたいになるのか。なるほどな、と一人で納得。相当単純化しての見方ではあるけど。」
これ素晴らしい評論で、さまざまな知識と共に、心と身体と頭脳(感覚と感情と理性と)でなまの直接体験をしている裕太君ならではの慧眼だな-----、と感心した。
大陸合理論とイギリス経験論という近代哲学における相違を映してもいるようだな。
染谷 裕太
英国は鼻につく国(笑)というか、あまり長居したくない感じなのですが来てよかったと思います。来る前から違うよなとは思っていましたが、直接見て感じて「うん。なるほど」です。同じヨーロッパでも違いがとても面白い。
武田 康弘
各写真のところにも長々と書いたよ(失礼おば)。
三枝 恭子
わはは、染谷さん面白い。大英帝国はどうして可能だったんでしょうね。そういえば、フランス、スペイン、英国、どうしてあんなに強大な力で植民地を維持したんでしょうね
武田 康弘
三枝さん、そりゃ、強い宗教=一神教がバックボーンですよね。
伊藤博文はそれに気づき、日本にも一神教を!というので、皇室の伝統という神話による「天皇現人神の新宗教」をつくったわけです。
その威力はもうすばらしい、じゃなくて凄まじいものでしたよね。だから、その戦前=明治思想を!!といま、安倍ちゃんと自民党はがんばってる(笑憤)わけで~~す。
仲 誠一だんだん神髄に入ってくると、ついていけなくなりました。イギリスも、ギリシャも、英国の植民地にも住んだことがあるのですがねえ・・・。うわっぺらしか見てこなかった。
三枝 恭子
イスラムも、そうですよね。一神教、中央集権、世の中を、上下関係で統制する考え方と、生き物だけでなく全てのものに魂があるという汎神論的なかんがえかたと、これは個々の人間に両方とも内在するものなんでしょうか、そしてある時点でどちらかを選ぶんでしょうか。自分は前者をいいと思った記憶がないのですが。
武田 康弘
ユダヤ教を母とする兄弟です、キリスト教とイスラム教は。
人類史では、一神教は新参者で、元々は多神教です。
一神教の超越的真理という思想を変えるのが、本来のフィロソフィの普遍性の探求(個々人の善美への憧れを座標軸として自他の納得を生みだそうとする生き方)です。ーーー人類史の転回です。
三枝 恭子
人類史の回転、新参者、そうなんですね〜。わかります。
それが急激に拡散して世界を席巻してるかのように見えますが、人一人一人のなかでは、やはり多神教、汎神論、そして個々の尊重が基準ですよね、それも感じます。
今その新参者の限界がきてると思います。
武田 康弘
うん、転換点ですね。人類は前史を終えられるか?という最大の課題に直面している、と見ています。
三枝 恭子
染谷さんの記事を借りて、申し訳ないですが、
私もとみに、人類は一大転換期、といいうか、これで終わっちゃうか、さらに進化するかの瀬戸際だと思ってます。またお会いしてお話し伺いたいです。
(写真は、染谷裕太君撮影 ソニーRX1-R)
ソニーRX1-Rの新型がアメリカソニーに載っています。
究極のコンパクトで、過剰なほどの画質 (35mmフルサイズ2400万画素) がさらにアップで4200画素へ。本体デザインは変わらず(ファインダーは内臓に)、レンズもツァイス ゾナー35mmf2で同じ。
必要を超えた超品質をつくる過激なソニーは、面白い(笑)。この過激さはツァイスから感染した?
なお、日本では発表されていません。
RX1-Rは、わたしの愛用カメラです。他に替えることのできない描写力と利便性をもちます。
染谷裕太君がいまヨーロッパを写して出しているのもRX1-Rによりますーー色抜けがよく、美しくかつ実在感があります。間違いなくデジタルカメラの歴史に残る名機です。
武田康弘
これでは、政府批判はさせない!日本人はみな一緒だ!という戦前の政府言動とまったく同じ。
「一億総活躍」と「一億玉砕」とは思想的にはまったく同一です。次は、「滅私奉公」の言い直しによる国民洗脳を準備しているのは手に取るように分かりますが、はてさてどんな文言になるのやら。
戦前思想の安倍自民党を支持する国民は、自らがそれにより酷い目に合うだけでなく、反対者も巻き込むのです。戦前の日本の思想と行動ーー懲りたはずなのに、また繰り返す愚かには何と言ったらよい?
中国侵略→対米戦争を決定し岸信介(東条内閣の重要閣僚・戦後はA級戦争犯罪人)を敬愛するという安倍首相により再び戦前思想の大日本になる!!実にバカげた話です。
良心・良識ある人はこの事態を批判します。 「国民一致の目的をもち、一丸となって進む」?? 主権者の上に政府あり!!?? いい加減にしたらどうですか。
「戦前回帰」(山崎雅弘著)は必読本です。
岸と東条
武田康弘(元 参議院行政監視委員会調査室 客員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
個人、一人ひとりから始まる新たな生。
個人、一人ひとりから立ち昇るパワー、輝き、面白味。
組織や団体、国=政府からではなく、
個人、一人ひとりから発するよろこび、魅力。
個人、一人ひとりの想念・思想から生み出される公共世界。
それこそが社会全体を活性化します。社会全体の活性化はけっして目的ではなく、結果です。個人が個人として尊重され励まされ助力された結果であり、国全体の発展とは目的にはなりません。
政府の仕業ではなく、政府の思想ではなく、政府の要請ではなく、
個人から発するよきものを援助する、個人の力になるのが国=政府の役割であり、けっしてその逆ではありません。
これが近代市民社会の普遍的思想であり、民主政の原理中の原理です。
すべてはわたしとあなたから始まるのであり、政府の思惑からはじまるのではないこと、これは民主政社会に生きるみなが肝に銘じておかなければならない根本思想です。
政府が一億総活躍!!を謳い、そのための担当者を置く、そのためにわれわれ納税者のお金を使う、冗談もほどほどに、です。越権行為もいいところ。「戦前思想」そのままの焼き直し。
政府、お前はなにものなのだ。お前は主権者なのか。
政府は、わらわれ主権者の意思により動くもの、政府の意思で主権者が動くのは、ありえない話。
一億総活躍!!おふざけなのか。戯けたスローガンは、主権者を舐めている証左。
活躍するも活躍しないのも、わたしの意思であり、政府が要請できることではないのです。原理に反する仕業は、明白な公共悪というほかありません。違憲の安倍政権よ、あんまり図に乗るとひどい目にあいますよ。
武田康弘(元 参議院行政監視委員会調査室 客員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
ずいぶん前のことですが、ヘーベルハウスの建築現場で、捨コンと呼ばれる基礎の基礎の作業で、ミキサー車がコンクリートを流して何もせず、そのままにしているのを見て、驚きました。
わたしの自宅は、大成パルコンでしたが、捨てコン(隅だし)の時は、作業員が道具や足でこまめにコンクリートをならしていましたので、何もせずに見た目もフワフワの状態で固めてしまってもいいのかな? と思ったのでした。
すべての現場がそのようにしていたかは分かりませんが、わたしが見て驚いて写真を撮ったのがこれです。その上につくった基礎の一部も、型枠をつくらずに、コンクリートブロックを置いてあるだけの場所もあり、これでいいのかな?と疑問に思いました。
昔のことでしたのでそのことはすっかり忘れていましたが、今度の事件を知り、旭化成の基礎に対する考え方や施工が元々あまりしっかりしていなのではないか?と思えました。なお、一般住宅の基礎がどの程度であれば「よい」のかをわたしは知りませんので、これが「問題」になることかどうかは分かりません。これでよいのであれば、杞憂ということですが。
とにかく、ほとんどの人にとって家を建てるのは一生に一度ですから、基礎や躯体についてはよく知り、納得できるまで聞き、現場も見て工事を進めることが大切だと思います。
武田康弘
「隅出し」と呼ばれる基礎の基礎(わたしは自宅を建てる時、つききり見ながら現場の人と話をして、いろいろ教えてもらいましたので多少知識があります)。
基礎の一部はブロック。
場所が特定されないように上下とも写真はトリミングしました(住んでいる人が不快にならないように)。
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ご参考までに、自家の大成パルコンの捨てコン(隅出し)の写真ー1984年(31年前)。
宗教についての対話 第1回。 (内田卓志による武田哲学へのインタビュー)
武田康弘(63歳) 内田卓志(49歳)
そろそろ武田先生への教育についての質問を終わり、次のテーマについて伺おうかと思いますが、一点申し上げておきましょう。
それは、デューイの研究家の藤井千春教授が、『「山びこ学校」の教育的意義の再評価 ―ジョン・デューイの「公共性」概念を観点にして―』で述べている点です。長くなりますが引用します。
(1)「初期社会科」の構造
「昭和22 年度版学習指導要領社会科編(Ⅱ)(試案)」では,社会科の学習活動について,「生徒の経験を中心として,これらの学習内容を数個の大きい問題に総合」したと述べられている。その理由について,次のように示されている。
「(一)学校内外の生徒の日常生活は常に問題を解決して行く活動にほかならない。
(二) 学校は生徒にとって重要な問題を解決するために必要な経験を与えて,生徒の発達を助けてやらなくてはならない。」
「初期社会科」では,自主的に調べ,考え,判断して行動のできる民主主義社会の建設を担う,合理的で自律的な人間の育成がめざされた。それは戦前・戦中の教育 が上からの命令に従順に従う人間を育成してきたことに対する,そして,そのことが軍国主義・超国家主義へと国民を導いたという反省に基づいている。「初期 社会科」では,合理的で自律的な人間の育成のために,子どもたちが自分たちで事実を調べ,自分たちでその事実の有する意味を究明し,どのように行動すべき か
を考えるという学習活動の方法,すなわち問題解決学習が採用された。子どもたちのそのような学習活動を展開されるために,「実生活で直面する切実な問題」を取り上げることが要請されたのである。
以上のように、戦後の初期社会科教育理念には、武田先生の教育論と共通する思想を読み取れます。この教育理念には、ジョン・ディーイの教育哲学がベースに あるようです。かつて、敬愛する経済学者の宇沢弘文先生も、戦後の旧教育基本法の教育理念には、ジョン・ディーイの弟子たちの力が大きく関与していたと、 述べられておりました。私は、詳しくは存じ上げませんが、重要な視点と思いましたので言及しました。
さて、次に宗教について考えていきたいとおもいます。宗教については、武田先生は、宗教家や信者との多くの対話を重ねておいでのようです。武田先生の経験 について伺う前のイントロとして、竹内芳郎先生の宗教論について述べたいと思います。竹内先生は武田先生の恩師とのことで私も数年前お会いしました。私が 大学生の時に最も影響された宗教論のひとつが竹内先生のそれでした。(『意味への渇き―宗教表象の記号学的考察』)この本のポイントの一つを私なりに簡単に説明すると以下のようになると思います(武田先生、間違っていれば訂正してください)。
普遍宗教と呼ばれている宗教には、超越性原理(普遍性原理)が備わっている。仏教なら「慈悲」とかキリスト教なら「愛」とかいうものだと思います。竹内先 生は、もっと精緻に分析しています。そのような超越性原理は、平等思想や人権思想の根拠となり、社会の民主化や反戦平和思想にまで及び、また、超越的普遍 者をもち、超越的で普遍的な(信仰)対象を持つことによって、現世の一切を存在論的にも価値論的にも相対化してしまう視点を形成できると言っています。「愛とか慈悲のような超越性原理」を否定する存在や価値があれば、徹底的に批判し闘うということだと思います。そのような普遍宗教を竹内先生は、非常に評価して いたと思います。神道のような宗教には、そのような力は望めないわけです。
イントロはそろそろ終わりにして、武田先生の宗教観について、また個人の主観性との関係にまで踏み込んで順次お話して頂ければ、たいへん幸いです。
内田卓志
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内田さん、デューイの教育論、整理して示して頂き、ありがとうございます。
わたしも「プラグマティズムの哲学者であり社会思想家で教育者でもあるデューイ」を学生時代に読み、優れた思想家だと感心しました。
わたしは、私塾というたぶん日本的な伝統の方法でこどもたちと、また成人者との交わりをしてきましたので、デューイとは直接には関係しないのですが、彼の教育思想と実験教育が戦後日本の民主教育の柱になったのはよく知っています。
わたしの場合は、わたしの実存を基底としての教育なので、はるかに個人的です。実践は小さく、一人ひとりに相対するもので、いまの日本の状況では、「小ささこそが大切」との思いがあり始め、その理念と方針に従い40年間続けています。
教育は人間の教育ですから、人間の存在論的事実を踏まえることが前提で、よい教育とは、幼子の示す赤裸々な人間性を愛すことから出発します。そのため教育への基本姿勢は自然と似てくるものと思います。特定の思想や理念に縛られず、一人ひとりのありのままの存在をよく知り、そこからその都度発想するわけです。原理は示せますが、個々に対応するマニュアルはないのです。
では、本題の宗教についてです。
わたしの場合は、何について考えるのも、私自身の赤裸々な生の現実からですので、宗教についても同じで、一般的宗教論ではなく、私の宗教への見方です。
わたしの父は、浄土真宗の門徒で学生時代は檀家回りをしていました。植木等(後年クレージーキャッツの一員)と共に文京区の真浄寺で修行していたのです。祖父が僧侶でしたので。
しかし、父は、わたしに宗教や宗派のことなど何も話しませんでした。わたしも高校生まで無頓着で、たまたま野間宏の書いた『歎異抄』の解説本を読み、親鸞というのはなんと凄い人だと感嘆し、それを父に話すと、親鸞は自家の宗派の開祖だと言うのでビックリしたのでした。これでは笑い話ですね。
わたしにとって宗教とは一つの思想であり、信じ込むこととは違いました。まして、人格をもった神が実在するという話は、荒唐無稽であり、それは物語の登場人物が実在すると信じることと同義で、長年の間、ほんとうにそんなことを信じている人がいるとは思っていませんでした。大学になり、キリスト教の信者は現代でもなお神が実在すると信じていることを知り、驚くと同時に呆れました。
哲学徒であるわたしは、人間の生き方や生きる意味を、自分の頭でよく考えてだんだんと確かで豊かなものにしてきましたので、教典・経典を読んで覚えたり、信じたりすることとは無縁でした。どのような書物も自分の経験を踏まえて自分の頭で考えるための手段であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。だから、後年、プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』を読み、文字は死んだ言葉であり、いま話される問答こそ生きた言葉であって、それがフィロソフィー(哲学・正しい訳語は「恋知」)だという主張にとても感心したのでした。
宇宙の仕組みが次第に明らかになり、生命の誕生や進化が化学的にも解明されてきた後でなお、どこかに人格をもった神がいて、すべてを見ている、とか人間や宇宙のありようは神の計画だとかいう話は、あまりにも愚かしく子ども騙しでしかありませんから、そういう類の話はなしにして次に進もうと思いますが、いかがでしょうか?
起源後400年にキリスト教徒たちによって惨殺された女性教師(フィロソファー・天文学者・数学者)のヒュパティアの言葉はじつに見事です。
「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」
「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は信じ込まされたもののために戦うのです。」(英文からの翻訳は武田)
最後に、竹内芳郎氏の「超越性の原理」についてお応えします。
世俗の損得や利害という価値、また、有名人であることや収入が多いことなど、いわゆる「世俗の価値」に縛られずに真実を探求すること・善美への憧れをもつことは、子どもも、というより子どもや青年ほどよくしています。
それを竹内芳郎氏のように、世俗の価値を超越した価値=「超越性の原理」をもっているからだ、というのは、結果からみればその通りなのですが、それを氏が主張するように「超越性の原理をもたねばならない」とすると、特定の思想的装置になるでしょう。ロマンや理念の世界は、世俗の価値とは切れた別世界と表象されるわけです。
わたしは、よき世界への憧憬はこの世俗の世界の只中にあり、真実の探求や善美への憧れ(竹内氏のいう超越性)は、日常生活の中に根を張るものと思います。生活世界の中に世俗の価値に縛られない価値は存在する、と見るのです。生活世界の外に「よき見方」があるのではなく、生活世界の中の「或る領域」にそれらはあると考えるのです。
善美への憧れや真実の探求は、世俗の価値を否定するのではなく、それらを包んでより普遍性の大きな価値に引き上げていく営みだ、とするのが武田思想の中核です。世俗の価値を「否定」するのではなく「対立」することで、世俗の世界に意味と価値=光を与えるのです。その光がなければ、世俗とは暗闇にすぎません。そうなれば、善美と世俗の価値の領域は両方とも成立せず、ただ無自覚に流れゆく惰性世界があるだけとなります。
竹内氏の「超越性の原理を持て、」という考え方・言葉は、フィロソフィーを「一神教化」してしまうので、とても不味いと思います。以前に書きましたように、フィロソフィーとは【超越的真理】を求めるものではなく、また【世俗の価値】に従うことでもなく、みなが深く納得できる【普遍的な考え方】を提示する普段の努力です。自問自答と問答的対話によりだんだんと優れた見方をつくる作業だ、というのがわたしの基本思想です。
武田康弘
大国同士の直接戦争などありえない=できないのが現代世界なのに、国連の五大常任理事国の中国が、経済大国である日本に戦争を仕掛けるー中国が攻めてくるというマンガのような妄想をもつ人が結構いるのには呆れ返ります。
こういう妄想を利用して商売するのが安倍政権と経団連など死の商人たちでしょう。
「戦前思想ー国体思想」の反省と廃棄をせずにいるために、かつて中国大陸を侵略し、数え切れぬほどの中国人を殺した過去の恐ろしい犯罪によるトラウマ(精神的外傷)が癒えず、その「自分の成した悪」の影に怯えるのでしょう。中国が攻めてくるという妄想は、自国の思想的反省をせずにいる日本人の「精神の不幸の再生産」の投影です。自分の悪を正さずに他に投影するわけです。
哀れで、愚かで、罪深いことです。
アメリカの原子力空母に乗り喜色満面の安倍晋三という名の「違憲総理」をいまだに支持する国民では、永遠に不幸です。幸福になれない日本人。つまらない顔して歩いている人々の群れではイヤですね。情緒音痴の尖り顔や、固くこわばった動作、作り笑い・営業笑いーしかできない日本人をチェンジしたいもの。精神の内からの湧出がない形式人間=外面人間では生きている意味も価値もありませんから。
あなたの顔と動作は大丈夫ですか?(笑・失礼)
武田康弘
※「戦前回帰」はわたしたち日本人の必読本だと思います。まだの方はぜひ。
(1942年の天皇裕仁)
来年の3月30日(水)とだいぶ先のことですが、
深いよろこびをもたらす若き天才ヴァイオリニスト=アリーナ・イブラギモヴァの無伴奏の演奏会があります。
場所は、所沢市民文化センター ミューズ マーキュリーホール(中ホール)ですが、すでに中央ブロックは後方しか残っていせん。
バッハのパルティータ2番https://www.youtube.com/watch?v=paBW46iYqOg (わずか20歳の時に武蔵野文化会館での演奏ー21世紀のルネサンス・新たな時代を予言するような内面から湧き上がる音楽に聞き惚れるのみ。31歳になる来年の演奏が楽しみ)。
イザイのソナタ
バルトークのソナタ
など、
見事なプログラムです。
とてもおすすめです。
04-2998-7777 予約センタ- 全席2800円
写真は、今月1日、王子ホール・演奏会後のサイン会で。
撮影・武田康弘 (強トリミング)
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7月15日桜田門近く
武田撮影
日本が攻撃もされていないのに、防衛などできません。
国のために戦った!!!???ウソもいい加減にしたらどうでしょうか。
皇軍(戦前の日本は軍隊を「皇軍」と呼んでいました)が中国を攻めて満州国をつくったのであり、対米戦争をしたのであり、日本が攻撃されたのではないことは誰でもが知っていること。
国のために戦ったのではなく、いまの安倍首相の祖父の岸らが戦争を決定し、戦わせた!死なせた!というのが歴然たる事実です。
法務大臣はじめ右派の国会議員は、みな単なる妄想家でしかありません。どこまで愚かなのか。ウヨク団体「日本会議」の皇族の伝統という名の宗教=明治政府が作成した靖国・国家神道が頭を狂わせしまうのです。天皇一家もいい迷惑で困っています。
フランス誌「LA FACE CACHÉE DE SHINZO ABE」=アベシンゾーの隠された顔
武田康弘
安倍首相の戦後70年談話ほど愚かで、道徳に反する言辞はなく、日本の品格は元から消えました。
被害者の側が、「過去の問題にこだわらずに未来志向で生きましょう」というのではなく、加害者の日本政府が、それをいうのですから、日本の文化水準のあまりの低さに唖然とするほかありません。
加害者が、「過去にこだわらずに」というのがどれほどヒドイ話なのかは、ふつうの常識をもつ人なら、誰でも知ることです。
知的退廃も極限で、日本人の悪と恥を全世界に発信した罪は計り知れないもの。
それと同じ、さらに輪をかけた自民党政調会長の発言は、もう日本という国はおわっていることの証でしょう。こんなバカげた話が通ると思うなら、戦前と同じでまた国連脱退=世界の孤児になるほかありません。
これほど愚かで倫理に反する人間が最大政党の政調会長!!!!美しい国へではなく、すさまじい国へ。愚かな国へ、反道徳の国へ。
http://shinjiro7.hatenablog.com/entry/2015/08/01/111452
武田康弘 (元参議院行政監視委員会調査室 客員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)
よく愛されて育ち、健康な心をもった人は、けっしてナショナリスト(愛国主義者)などにはなりません。
組織や制度(国家が最大)を愛する、というのは、ネクロフィリアの傾向にある人の物神崇拝(フェティシズム=生きている人ではなく下着などに執着する異常)でしかないのです。
以下は、fbでのやり取りです。
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