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思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

見事なマイヨールの図録ー裕太君から産地直送!持つべきは優れた弟子だな~(笑)。

2015-12-31 | 芸術

いまは、エジプトに入った裕太君、

古代遺跡や廃墟があり、しかし、それと切れたような現代の混沌パワーがある、その生々しい写真がfbで送られていますが、

フランスに滞在していた時に、わたしが頼んだ「マイヨール美術館」からのみやげものー【Maillol】が届きました。

裕太君撮影のマイヨール彫刻群の写真も、USBフラッシュメモリーで。

ネットで検索しても買えない優れた本=図録で、感激です。

ソクラテスのいう通り、人間に可能な最高の幸福は、優れた魂をもつ若者と出会い、命をもった言葉でやりとりすることです。毎度毎度、改めてほんとうにその通りと深く思います。

どのような苦難があろうとも「ソクラテス教室」を39年間(2016年は40周年記念)続けてこれたのは、こどもたちと若者の力です。感謝!!



以下に写真でご紹介、縦はA4で横幅は長く、200ページです。 お近くの方は、白樺教育館までどうぞ。

マイヨールによる人間の内なる自然=女性の肉体表現は、始原的なエネルギ-と内部から湧き上がる美しさに満ちていて、ただ讃嘆するのみです。ソフィスティケートされた現代の嘘から最も離れているのがマイヨールで、古代アテネと直結する見事なパワーです。観念ではなく、心身全体で女性(人間)を愛したマイヨール美術の真髄を捉えた見事な本=写真。日本でも刊行すべし!です。

 

武田康弘

 

 

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「生かさぬよう、殺さぬよう」の自民党ー日本に民主主義がなくなるかどうかの分岐点。 石田康之

2015-12-26 | 社会批評

以下は、この下のblogへのfbコメントです。
大事な指摘だと思いますので、貼り付けます。

石田 康之

安倍自民党の考えは、「庶民には、生かさず殺さずの政策」をして、政府がやっていることを調べたり、考えている暇を作らせず、どうせ、国民は馬鹿だから直ぐに忘れて、また、ただただその日の生活に追われる。
そして、裕福な家庭は更に裕福になって自民党を支持し、貧乏な家庭は更に貧乏になって、自民党の選挙対策の政策に騙され自民党に投票する。
官僚も、自民党なら抜け穴のある法律を作って優遇ししてくれるし、司法も自民党なら出世を約束してくれる。報道機関も自民党と仲良くしないと仲間外れにされちゃう。

なーんだ、結局、「みんな、自民党が好き」なんだ。
みんな、自民党が好きなら、それでいいんじゃない。
でも、自分さえ、自分の家族さえよければ、自民党でいいの?

日本の未来の子供たちに、大人の責任はないの?
自民党に独裁政権を作られて、国民の主権を奪われてもいいの?
野党の活動も禁止して自民党だけにされるよ。
ヒトラーも民主的に独裁政権を誕生させたんだ。
立憲主義を無視している自民党には、たやすいことだよ。
今、日本の民主主義がなくなるかどうかの分岐点だからね。
真剣に考えて、行動しよう。(石田 康之)

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頭の悪い首相と、発狂した竹中平蔵さん  原 優治  思想・教育も戦前体制へ。

2015-12-24 | 社会批評


 アメリカの暴力的な思想=「新自由主義」をそのまま流布する現政権の言動は、民主政を元から破壊し、弱肉強食のすさんだ社会を生みます(すでにそうなっています)。
道徳や倫理は元から消え失せ、「非人間的日本人」(安倍首相の親友=八木秀次麗澤大学教授の主張する「反人権宣言」ちくま新書)によるフィロソフィ否定の日本主義が支配する国の到来です。そのギトギトしい金欲主義を隠すために「125代続く男系男子の皇室の伝統こそ日本である」という国体思想(「日本会議」が喧伝するイデオロギー)を教育で植え付けるというのが、非人間的日本人グループ=政府の行為なのです。

  個人の選択の自由であるはずの夫婦別姓という基本的人権さえ認めない国家は、【男権主義】のイデオロギーで成り立っています(人間の内なる自然である女性、その女性の権利を毛嫌いする国は、滅亡へと向かいます)。八木秀次という男は、「反人権宣言」で、女性とこどもの人権こそ、日本を日本でなくした元凶であると主張していますが、彼は、安倍首相がつくった政府の教育再生実行会議の中心メンバーです。戦前体制復活の恐ろしい国へ、着々と進んでいます。

※ご参考までに。
イギリスのジョン・ロックによる民主思想は、キリスト教原理主義(清教徒)によるもので、カトリックと無神論は寛容から除外するとされていますが、フランスのルソー(社会契約論)は、宗教を私的世界に限定し、公共領域に宗教を持ち込むのを禁止しています。これは本質的に正しく、そうでなければ異なる思想や宗教をもつ世界に普遍的に妥当する思想にはなり得ません。なお、アメリカの民主政はイギリスのロックの思想に基づいています。
ルソーは、働きにより経済的な上下が出るのは当然だが、格差となれば民主政は不可能になる、と言います、これが現実になってきました。(武田康弘)



 以下は、原優治さんがfbのコミュ複数(生活の党を支持する市民団体など)に投稿した文章です。シェアします。

安倍晋三氏は、憲法というものがどういうものかがわかっていないように、元来、頭脳が明晰ではなく、あまり勉強もしないで不足しているから、邪教である新自由主義の影響をもろに受けてしまい、経団連やキャリア官僚や米国の代理店的存在に成り下がっています。 

こうして、今後、日本がまともな経済成長をすることはもはや難しくなっています。 

さらに安倍晋三氏のブレーンである人の「正社員願望はもはや時代遅れだ」などと一般の新書のなかで、堂々と書いている竹中平蔵氏みたいな方を政府委員の一人に採用している安倍内閣は、私には、狂気におちいっているとしか思えません。 

 これは、ごく一部の、自分の実力に自信があり、閉鎖的な労働市場のなかでも、自由に挑戦していける恵まれた、いわゆるエリート〈選良)の方々へは、竹中氏の主張はあてはまるかもしれません。 

しかし、大衆のどなたが派遣労働者などになりたくて働いているでしょうか。言論が自由であるからと言っていいことにはおのずから限度というものが あります。どうかいい加減にしてください。ボーナスや退職金や社会保険料の会社負担や会社のベネフィット利用などを考慮しますと、派遣労働者は正社員のも らう三分の一から二分の一の賃金で働いているのですから、これから早く脱却して正社員へなりたいと願うはずでないでしょうか。また新しく学校を卒業して就 職したい方が正社員を目指す、これがどうして時代遅れなのですか。 

竹中平蔵氏は、今や新自由主義経済学の毒素に自ら当たって、今や完全な自家中毒におちいって頭もすっかり発狂してしまったようです。 

こうして竹中平蔵氏は、あまりにも弁舌たくみな強みを過剰使用したがために、どうやら天の怒りをかって没落してしまい、最期は恵まれない「非正社 員」たち、なかんずく新しく形成された平成の被差別民にも相当するといわれる、苦しみのたうちまわって労働を続けている「登録型派遣労働者」の怨念を 一身に集めて哀れにも没落していくのでしょう。 

「派遣労働者の男へは、うちの大事な娘は嫁がせられない」と話していた一人の親父がいたが、そこは娘さんの気持ちを汲んで、一緒に幸せな家庭を築いていってほしいとなんとか赦してあげてほしいところだ。 

こんな悪い制度はなんとしても、私たちは新政権を樹立させて抜本的に廃棄したい。もちろん同一労働同一賃金制(20%を越えて違反があれば罰則適用)を同時に成立させたいところだ。(原優治)

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「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念 (武田康弘) 参議院『立法と調査』からの依頼論文。

2015-12-22 | 恋知(哲学)

以下は、参議院「立法と調査」(2008年11月の別冊号)からの依頼論文ですが、海外在住の日本人の方からの【知の手段と目的(事実学と主観性の知)】に対するご質問へのお応えとして貼り付けます。

「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念 (参議院発行「立法と調査」より、そのまま転写 青太字は、ここでの強調個所)


武田 康弘(哲学者、白樺教育館館長、我孫子市白樺文学館初代館長)


 キャリアシステムとは、明治憲法下において行われていた高等文官試験制度(1887年に制定された「文官試験試補及見習規則」がその原型)の残滓ですが、その実態は、悪しき官のエリート主義=東大法学部支配です。これを真に廃止するためには、何よりも先ずそれを支えている想念の明晰化が必要ですので、以下に記します。

 わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。
また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。

 人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

 現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです。

 読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。このことは、わたしの32年間の教育実践(小学1年生より大学生・成人者まで)と哲学的探求から確実に言えます。では、なぜ、この不幸な逆転に長いことわが日本人は気付かないできたのでしょうか。それについては、わたしが『主観を消去する日本というシステム』(ブログ「思索の日記」2006年1月10日))に簡明に記しましたので、以下に写しましょう。

 封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。

 山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。
豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観である」(笑止です-主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。

 これで主観性-主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。

 このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。

 おぞましい主観主義やヒステリックな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、それとは逆に、あらかじめの正解を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見を求めるという矛盾した要求-虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人の私が入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。

 客観神話が支配する精神風土の中では、わがまま(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部のエリートを除いては。私(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す正解・権威的な人や組織が与える正解を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=主観主義(自己絶対化)と客観主義(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。

 客観神話に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と主観を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないこと-それが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない正解(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。

 以上ですが、
このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ 別冊・特集号―国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査』―2008年11月28日発行 武田康弘の部分(50~52ページ)のみ

 なお、40名の論文は下記の参議院ホームページよりダウンロードできます。
『立法と調査 別冊 2008.11/特集 「国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査」』

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ポール・ルイスの演奏会評、私の他、3名が書かれていました。「高み」「神々しい」「変幻自在」「美しい」

2015-12-21 | 芸術



検索してみたら、ルイスのベートーヴェン後期のソナタ3曲の日本公演を聴き感想―批評を書いている方は、3名いらっしゃいました。

抜き出してご紹介します。最後の一音が鳴り終わってから20秒間、静まり返り、拍手もできない演奏会でしたが、その訳が分かると思います。

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男性の方(王子ホール)

 「まるでミケランジェロのダヴィデ像のように、引き締まった肉体と、射抜くような鋭い視線と、石を握りしめて投げつけようとする強い意志をもった「人間の美しさ」を音にしてしまったような音楽は、心身共に充実し活力に満ちた彼だからこそ、そして、「さらなる高みを目指す」ことのできる人間だからこそ成し得た、気高ささえ感じさせるものだと感じました。」

 と書いているこの方は、高みをめざすことのできない自分の生に「寂しさ」を感じた、とルイスの演奏を聴いて強くショックを受けた様を日記に記しています。

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女性の方(名古屋公演)

ポール・ルイスの演奏は、ベートーヴェンの精神の力強さ、崇高な祈り、音楽が人々に与える勇気、全てを表現し、全身全霊を込めて、凄まじくも美しい人生の物語りを、高らかに奏でているような演奏でした。
昨年、母や友人と一緒に聴きに行って、すっかりポールの人柄にも魅せられたので、聴きに行くことになったのですが、やはり年配の女性ばかりなので、ルイスの体調は大丈夫だろうかという心配も、大いにしていたのです(※注・ルイスは腸の手術で来日できず、公演が2か月遅れた)。
なのでその迫力の音の表現を聴いて、心臓がドキドキしてしまったようです。
「マタイ受難曲」の合唱を練習している母は、イエスの Passion・情熱と重なってしまったようで、ポールが大変神々しく見えたそうです。

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男性の方(王子ホール)

演奏はというと、CDの端正な演奏とは異なり、まるでシューベルトの目(耳)を通したかのような、晩年の彼のソナタに非常に近い世界、幻想的で即興的な趣を持った演奏。
例えば、31番第3楽章の出始め、同じ拍で記述されている同音の連打でも、不ぞろいな付点リズムで演奏され、ためらいというかおずおずとした感じを受けたり、突然瞬間的に高速で演奏したり、あるいはノンペダルでポツリポツリと演奏すると思えばペダル踏みっぱなしで豊穣な音塊で押し捲ったりと変幻自在で、最後の3曲では聞いたことがない演奏(ある意味アファナシエフより自由かも)。もちろん、31番の最後の高揚感、第32番第1楽章の鬼気迫る演奏や密集するトリルが永遠に続いて欲しい、時よ止まれと願うほど美しかった第2楽章など、ダイナミックレンジ、音色、音の芯の硬さもCDとは比べ物にならないほどぜんぜん幅が広くて、ちょっと淡白過ぎる(詰まんない)演奏だなあと思う時もあるCDは、「基本設計図なんで、ライブに来てください」という感じ。でも王子ホールの来年の予定にはないんだよねえ、凸版でも紀尾井でも行くよー。

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ベートーヴェンピアノソナタ30~32 ポール・ルイスin王子ホール、健康な人間精神に勝るものなしの証明

2015-12-18 | 芸術

ときにクラシックにありがちな、
教養主義的で権威主義的な臭い、
独我論的閉じこもり、
エリート臭、
固く重いムード、神は偉大なり(笑)みたいなお説教。
もうとっくに時代錯誤な「孤塁を守る」かのような保守性。

そういう世界とはまったく無縁、わたしの心身で感じ、わたしの心身の声を聴き、わたしの内からの善美に従う。深く豊かなよろこびの音楽の湧出。それが、いかに輝かしく、いかに心身を動かし、頭脳を活性化させることか!昨晩のポール・ルイスは、それを見事なまでに証明してくれました。

ベートヴェンの最後のピアノソナタでも、そのようなアプローチが可能であり、否、そう演奏した時にはじめて、表層の複雑さに隠れていたベートーヴェンの真髄が露わになる、なにかしらの権威に従うのとは逆に「自由な人間の人間的な生」をつくり出そうとしたベートーヴェンの意思が明瞭になる、それが現実の演奏で示されたのです。踊り出しそうでした(笑)。

32番の2楽章、ベートーヴェンのピアノソナタの最後ですが、ここにみる革命性は、恐ろしいほどの次元です。それは現代音楽であり、モダンジャズであり、さらにそれらも超えた現代性→未来性をもちます。生涯、既成の世界と闘い続けた革命家(モーツァルトもそうでしたが)である彼の真骨頂です。伝統に囚われている人や特定の思考枠をもつ人では、その凄味を表現するのは不可能です。しがらみのない、因習を持たない真の自由人でなければ、この根源的で独創的な音楽の再創造はできないはず。

ポール・ルイスの演奏は、すこぶるモダン、まるでジャズの即興演奏のようであり、いま創られた現代音楽のようであり、全身で感じ切っての演奏でした。観念の鈍感さとは無縁、

神秘主義や思想や宗教臭さとも無縁、健全で健康な精神をもつすばらしく人間的な情緒と意志と感情に基づく音楽で、生きています。あふれんばかりの生命力で、あらゆる停滞を乗り越えます。ベートーヴェンがここでピアノソナタを閉め、第九をミサソレムニスをディアベリ変奏曲を生みだした訳が分かる演奏です。彼は、「諦念」や「黄昏」をつくったのではないのです。

そして、最後の一音の強い余韻消え、20秒ほど、静まり返り、誰も拍手できません。ルイスが身体を戻すまで、張りつめた静寂が支配しました。
輝く力に満ちた現代の新しいベートーヴェンが誕生した瞬間です。音ではなく、真っ向音楽です。

実に人間的、実に自由、実に生命力のある音楽で、心身も頭も愉悦に満ち、内部から湧き上がるよろこびとパワーを抑えることができません。ルイスに感謝!う~~~~ん、実に見事!

以前に、後期のこの3曲のCDがEUで発売されたとき(日本盤はない)、英国で年間最優秀アルバムに選ばれたことを昨晩知りましたが、CDに聴く解釈は、基本は変わりませんが、その確信の強さと表現意欲は大きく異なり、昨晩の演奏は、迷いのないルイスの絶対の自信に裏打ちされた演奏でした。

昔のビートルズも、サイモン・ラトル(現在、ベルリンフィルの常任)も、新しい世界を拓く人間をいち早く見抜き、称賛する英国の憎たらしさ(笑)。日本の囚われ。

 

演奏会が終わり、サイン会のためにわたしがつくったA3のポスター=ルイスのジャケット写真を真ん中に置き、ベートーヴェンの10枚(32曲全曲CD)のジャケット写真を周りに配置したもの=を持って歩いていると、品の良い明るく聡明そうな初老のご婦人が話しかけてきました。
「わたし、前は、ベートーヴェンはちょっと苦手だったのよ。CDでルイスのベートーヴェンを聴くまではね。でも、今は、ベートーヴェンが一番!いろいろ好きですけど、なんと言ってもベートーヴェンね。今日の演奏、もう、最高~~~」と。階段を下りながら、意気投合してお話しました。「ベートーヴェンってね、固くて、権威的で、とっつきにくかったのに、ルイスさんの演奏だと、まったく違うの。もう素敵なのよ。」

そうです、そ~~なんです(笑)。

人間がつくった「神」とか「悪魔」という観念がありますが、そういう言葉を用いて表現すれば、
【神を上回り、悪魔をもんだいにもしないのは、健全な人間だ】、と言えます。

昨晩12月17日の「王子ホール」には、エロースがムーサ(ミューズ)と共に降り立ちました。ポール・ルイスが、ちょうど生誕245年のベートーヴェン(誕生日)と共にね。ホールにいた300名は何と幸せなことでしょう。

32曲全曲CDについては、クリックしてください。



これ以外の8枚の写真は、FBに載せました。クリックで出ます。
https://www.facebook.com/yasuhiro.takeda.359/media_set?set=a.931044890323214.1073741851.100002531353665&type=3

武田康弘

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ううう~~、今日、ついにポール・ルイスのベートーヴェンピアノソナタ30番31番32番(王子ホール)

2015-12-17 | 芸術

わたしは、ベートーヴェンの32曲の「ピアノソナタ全集」は、ポール・ルイスを一押にしています。とくに中期の有名曲は、心底最高と思います。
ルイス?まったく名前すら知らなかったのですが、ものは試しとイギリスからの輸入盤を入手し、唖然!ハマったのでした。

ううう~~、今日ついに「王子ホール」でベートーヴェンです。それも最後の3曲ですよ。
10月に公演のはずでしたが、腸の手術で入院したために、延期となったのです。

いま、最後の3曲をルドルフ・ゼルキンの84歳のウィーンでのライブで聴いています。こればかりは、ゼルキン(笑)。

でも、ルイスはまた違った世界を見せる(聴かせる)はずです。きっとね。新しくてかつ普遍性のある現代のベートーヴェンを!
今日のルイスは、彼のCDに聴く演奏を超えた演奏になると思う。32番のラスト(2楽章)、現代音楽も超えてモダンジャズも超えたウキウキする音楽をどう聴かせてくれるか?

過去ではなく、未来に開かれているのは、ベートーヴェン!!


武田康弘



これは、わたしがジャケットを複写してつくりました。

http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/aec8df63f9e1e682c5d0f683ee3a8426

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優れた言動をもたらす条件。経緯や背景の明瞭な意識化の営みがフィロソフィと倫理を可能にする。

2015-12-16 | 恋知(哲学)


或る事実にはどのような意味があるのか?

誰れでもそれが知りたいのです。

それを知ることは、大きな価値があると思うからです。

わたしが、「白樺文学館」を文字通りゼロからつくり上げた時の基本理念『白樺フィロソフィと民知の理念』(今は、文学館は我孫子市に寄贈されて、この理念は、「白樺教育館」の活動を支えるものとなっています)において、単なる事実の開示ではなく、事実がもつ意味の探求=意味論としての知こそが新しい知・ほんらいの知である、と宣言しました。

わたしは、お話する場合でも書く場合でも、文脈・経緯・過程・背景をできるだけクリアーにしようと努力しますが、それは、、結論や結果以上にプロセスを重視し、バックを明らかにすることで、意味を浮き上がらせる=ある出来事や事実の意味を立体的に明らかにするためです。

そのような普段の姿勢=態度=方法を日々実践することが、まさにフィロソフィ(意味論としての知)を成立させるための条件であり、それがなければ、ほんとうに自他の心と頭を透明にし、前進させる言葉を紡ぐことはできないと思います。

あいさつの延長のような内容の薄い言葉や、アリバイづくりのような言葉や、言いわけのような言葉や、建前でしかないような言葉や、理屈にすぎないような言葉ではなく、
人の心にとどく言葉=考えを紡ぐための基本条件は、そこに至るプロセスやバックを明瞭に提示する努力です。

それを実現するには、公平さや公正さという精神がなければならず、自分を中心にしてはいけません(自我主義はダメ)。【自分の言動を大きな背景の中に位置付ける】という普段の営み=努力が求められます。

自分がそのように考えるようになったのはなぜか?何が、誰が、それに寄与したのか?

また、ある物(機器であれ書物であれ)との出会い、ある人との出会いには、どのような背景(バック)があったのか?どのような経緯があったのか?
それを意識し、明瞭に示す努力がないと、人間の信用は生まれず、よき人間関係が広がらず、すべては嘘の世界になります。例え一つひとつの「事実」に嘘がなくとも【背景】を明らかにしないと、全体が嘘の世界に陥るのです。

フィロソフィの営みにとって一番大事な条件は、格好をつけたりよい理屈をいうこととは逆に、自己存在をよく知り見るという実践ですが、そのためには、自分の言動を自分を超えた大きな背景の中に位置付けようとする意識的な営みが必須です。

私の判断や思想や行為をもたらしているもの、可能にしているものの文脈、経緯、背景、プロセス、バックグラウンドを明瞭に意識し、それを示そうとする営みを習慣づけないと、意味論としての知=フィロソフィは「はじめの一歩」を踏み出せません。たとえ、世界の名著を読破し、種々の知識を積み上げても、それだけでは、人が「よく」(善美に憧れ広げつつ)生きるには、何の価値もないのです。

経緯や背景を意識・自覚・想起する営みは、今という現在を厚みのある豊かな世界にし、優れた倫理(民主的倫理)をもたらします。忘恩とは無縁になりますし、無礼や失礼とも無縁になりますし、感謝の心が自然と湧き出ます。自分が生きているとは、皆に生かされていることである、と分かります。
また、新たな未来をひらくためにも、どうしても欠かせない営みです。バックグラウンドが明瞭に意識されてはじめて未来への優れた想念も誕生するからです。

私の自我拡張の主張ではなく、私の内部から湧き上がる善美に基づく考えとその主張は、こうしたな豊かな想念と倫理に支えられたとき、はじめてほんものになる、これは原理だと思います。


武田康弘

 

 

 

 

 

 

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フィロソフィとは、知的営み(主観性の知)であり、学問(客観学)ではない。「学」はその下で可能となる。

2015-12-14 | 恋知(哲学)

内田卓志さんによる「武田哲学へのインタビュー」が続いていますが、
以下は、学者・大学教師もおおきく誤解している「学問」の位置づけの問題ですので、それだけを抜き出して示します。

まず、はじめに、とても大切な知の核心について書きます。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをしましたが、大事なことなので、確認します。

 ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。
 またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰 依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

 近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。
 また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

 それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか?思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

 わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

 ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。

 思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段とてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

 以上は、核心中の核心(原理中の原理)なので、その点に絞り、まずはお返事し、他は後ほど。


武田康弘

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東京交響楽団636回定期、ゴレンシュテイン指揮のチャイコフスキー交響曲5番に痺れた。

2015-12-13 | 芸術

いま、サントリーホールから帰宅。

指揮・マルク・ゴレンシュテイン
ピアノ・セルゲイ・カスプロフで、
東京交響楽団636回定期演奏会

曲目
ムソルグスキー(R=コルサコフ編):交響詩「禿山の一夜」作品43
チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64


クリック


きょうのメインは、チャイコフスキーの交響曲5番。
この曲は、1973年5月、当時、ベルリンフィルを超える鉄壁のアンサンブルを持ち、精緻なままに圧倒的な音圧を誇ったムラヴィンスキー・レニングラードフィルの初来日の演奏を東京文化会館で聴いているわたしは、まったく期待していませんでした。どんなかな?という興味で聴いたのです(不謹慎で申し訳けありません)。

しかし、それは見事に裏切られました(嬉)。濃やかで情感あふれる演奏に感動しました。アンサンブルは見事なまでに揃っていましたが、冷たさは皆無で人間的な優しさ満ち、終曲の高揚はもちろん、2楽章の情熱的なうねりには痺れました。機械的な個所はまったくなく、全楽章とも音楽的な美しさに溢れた名演で、指揮者の情熱を受け、オケも全力で応え、すばらしい合奏を披露しました。

ムラヴィンスキー・レニングラードフィルの超絶的な名演というのではなく、ふつうの人間による等身大の名演と言えると思います。世界最強を誇るソビエト軍(当時)ではなく、人間的な情感あふれる名演奏です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

ピアニストのカスプロフは、もの凄い才能の持ち主で、スーパーテクニックですが、残念なことに、明確な焦点を結ばず、何を言いたいのか掴めません。なんと評したらよいのか。

 

追記・このゴレンシュタイン・東響のチャイコフスキーの5番の演奏は、カラヤン・ベルンフィルよりよいことだけは間違いない。いまCDを聴いてみたが、内から湧く音ではなく、外面的で、4楽章の後半以外は弛緩した緩い演奏にしか感じらない。以前に聴いた印象通りで変わらない。昨日の演奏との差は歴然で、改めて素晴らしさ感じた。内面から湧き上がる真実の音と音楽にブラボー!!



武田康弘


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北海道ー職員室に「アベ政治を許さない」(読売)ーーまったく正しい行為です、皆がやるべきこと。

2015-12-12 | 社会批評

読売新聞 / 2015年12月12日 19時36分

 安倍政権を批判する文言が書かれたクリアファイルが北海道立高校で見つかったことを受け、道教育委員会が公立校の実態を調べた結果が9日、道議会文教委員会で報告された。

 「ファイルが置かれているのを見た」とする回答が15校20件確認されたものの、「職員が配布したのを見た」という回答はなかったとして、道教委は「ただちに法令に違反するものではない」として、教職員を処分しない方針を示した。

  今年9月の道議会予算特別委員会で、議員が「アベ政治を許さない」と書かれたファイルが職員室の机の上に置かれていたと指摘、「教員の政治的中立が保たれるのか」と質問していた。ファイルは道高等学校教職員組合が作製した。

 ーーーーーーーー

政府自民党の御用新聞のような「読売新聞」は、これを批判したいような楽天ニュースの見出しでしたが、教職員組合による安倍政治批判はあまりに当然のこと。それさえ批判するなら、共産圏と同じですよ。

違憲政府(ほとんどの憲法学者の共通見解)を批判しないのは、偏向であり、批判するのが公共的良識です。

こんな初歩的なことも分からないのなら、マスコミ失格ですので、新聞社の資格がありませんね。読売の新聞記者さん、大丈夫ですか?


  7月15日国会前で。撮影・武田

武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員)

コメント (8)
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「自由」は人間の生の原事実。或る「一つ」を絶対と固定するのは、とてもよくないこと。

2015-12-12 | 恋知(哲学)




わたしは、毎日、いつも、世界を感じます。

感じ知ります。知るには留まるところがありません。同じ人と、同じ場所にいても、世界はいつも変化し、万華鏡のようです。

その都度、新たなに感じ、新たに想い、新たに考えます。
そこには、固定や絶対はありません。動かないものなど何一つなく、世界はいつも新鮮です。わたしは、いつも新しい自己と世界を楽しみ、よろこびます。

こどもと同じ。

こどもは、お化けを怖がったり、わけのわからぬことを信じたりしますが、また、すぐ、信じなくもなります。いつも変わります。絶対正しい!を言いつつ、絶対はなくて、どんどん動きます。
だから、こどもは自発的には信仰などしません。宗教を信じません。自分の頭で考えます。ある特定の考えを絶対とするのは、気持ち悪いことです。〇〇教の信者、神の御心???変なの~~~~。

私が生きていることで感じる「エロース」(魅力を感じ惹きつけられるもの)を味わうのです。それらは、私のもの、私が感じ知るものです。誰かに、何かに「従う」ことでは決して得られない「私」という宇宙のよろこびです。

何かを崇めれば、私は私でなくなり、あなたと自由で楽しい関係はもてなくなります。私は私、私以上ではなく私以下でもない。私が私以上の何か(=外なる価値、最大のものは神という概念)に合わせたり、従ったりしようとすると、それは深い嘘になります。嘘は嘘を共有する人としか交わりあえず、本質的に不毛です。

絶対とか唯一とかを主張する宗教がなくならない限り、深い嘘から抜け出せず、いつも虚構の世界同士の争いです。いつ果てるともない争いが続きます。敵と味方に分かれてしまいます。自分の内に排他的ではない「信仰」があるのはよいのですが、それによる精神共同体=宗教団体をつくれば、個人の自由=実存は消えます。

わたしは、唯物論者ではありません。

人間とは価値意識の束ですので、観念存在です。特定の観念を持つ存在ですが、そこに宗教が入りこむ原因があります。人間が観念存在であることは原事実であり、その意味で死への特定のイメージや考えをもつのは当然ですが、生きることを宗教の教え=思想から導くとしたら、それは、生の意味をいまと未来へのイメージからではなく、過去・既存から決めることになり、生き生きとした輝きや悦びから遠ざかります。人間のネオテニー的な特性は奪われます。未来への想いから現在を生きる、という人間存在の意味が逆転してしまうのです。

私の生き方、意味、価値は私の心身全体の感覚と思考の冒険により決まるのであり、何か特定の思想や宗教が先立つのでは本質的に嘘になります。私は、なにかに所属する存在ではなく、私という存在ですーこれは人間の存在論的事実です。経験的現実の底にあるのが人間存在の赤裸々なありようですが、それはこどもを見ればよく分かります。

宗教的な絶対感情は、人間の意識から自由・しなやかさ・柔らかさを奪い、固定された感情を導きます。宗教の熱心な信者は、その表情(身体性)に固着性(不自然な安定)があるので、すぐ分かります。

死者への遇し方や死への応接は必要不可欠ですので、宗教はいつまでも続きますし、それは当然ですが、そういう意味での宗教ではなく、今を生きる私の生を規定する宗教は、よくないのです。人間存在のありようや生の意味や価値の問題は、フィロソフィとして考えることであり、固定した考えを受け入れることではありません。

私は、私の内なる普遍(よさ)を追求して、エロース豊かに生きるのです。それは、なんでもよい、なんでもあり、という相対主義ではまったくありませんが、絶対主義=原理主義ともまったく無縁です。

人間は自由から離れたら必ず腐ります。なぜなら意識とは自由を本質とするからです。自由は宿命です。
ちょうど1600年前(紀元415年)にキリスト教徒たちにより惨殺された女性教師ヒュパティア(フィロソファー・数学者・天文学者)の言葉は、みなが心に留めるべきものと思います。

 「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」

    「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、
    
そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は   信じ込まされたもののために戦うのです。」 (英文からの翻訳は武田)


武田康弘

 

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3日で「いいね!」が1万件!!(驚)感謝です。「ランリュック」(「ランリック」)訪問者は4万5千人超。

2015-12-12 | 教育

「ランリュック」(「ランリック」)を広めたいのblogへの「いいね!」が、3日で一万件になりました。とても嬉しい驚きです。

いかに多くの方が重くて固くて(値段も高い)ランドセルに疑問をもっているかの証です。

みなさま感謝です。引き続き拡散で、変えましょう~~~こどもの心身を軽やかに!!








 

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重くて固い「ランドセル」を超える発想「ランリュック」に共感、ありがとうございます。広めましょう~

2015-12-11 | 教育

わたしは、小学生の重たくて固いランドセルはかわいそうだと長年思っていましたが、ランリュックの紹介記事をみて、これを広めたいな~~と思い、一昨日、blogに出しましたが、fbからシェアが広がり、昨日は、多数のアクセスをいただきました。とても感謝です。「いいね!」も六千件以上で、多くの方が同じ思いのことが分かりました。
京都では何十年も前から使われているそうです。

12月10日のアクセス数
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順位:
6位 / 2,335,606ブログ中 (前日比)

ソクラテス教室(白樺教育館)の父母の方にプリントアウトしてお配りしようと思い、少しはじめたところです。

学校や教育委員会、市議会議員にも話して、父母の入学説明会で「こういう選択もありますので、・・・・」と言ってもらうようにしたいと思います。

近くのスーパー(ヨーカドーやイオン)にも、ランリュック(この商品の正式名は「ランリック」だそうですが、同じコンセプトでいろいろ出ています)を置いてもらうように話そうと思います。

皆様もぜひ、ご一緒に。広めましょう~~~~~~。

武田康弘

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ランドセル、こどもが可哀想ーさすが京都の小学校!「ランリュック」を全国へ広めたい!!

2015-12-09 | 教育

わたしは、職業柄毎日、ランドセルの小学生が可哀想だな、と思ってきました。何十年も。

重いのと、固くて物が入らないー融通がきかないからです。

すごくうれしくなるニュースを楽天で見ましたので、下に転写します。写真も見つけましたので、貼り付けます。

 

ランドセルよりいい!? 京都の小学生が背負う「ランリュック」って何?

オールアバウト / 2015年12月8日 22時45分

 

「ランリュック」に対する子どもの反応は?

京都府南部および滋賀県・大阪府・奈良県の一部で、公立小学校約120校以上の小学生が、ランドセルを背負っていないことをご存知だろうか。1つ数万円もするお洒落な革製高級ランドセルではなく、布製のリュックサック状の鞄を通学に利用している。

その名も「ランリュック」(正式名称はランリック)。ランドセルの丈夫さとリュックサックの軽さを合わせ持つ、機能性重視の鞄である。交通安全のために、道路の危険標識を意識したデザインで、黄色いランドセルとして、昭和43年、京都で誕生している。その後、「青」と「赤」が追加され、現在は3色である。

ランドセルに比べ、かなり多くのものが入り、なにより安いのが親には嬉しい。1つ1万円以下である。

子どもたちにも評判は良い。「いっぱい入るから、手に何も持たなくていい」「軽いから楽」「ランドセルよりかっこいい」「遠足もこれで行ける」。一部の女子児童には、「ランドセルの方がお洒落」という意見もあるが、これは、海外で大人の女性が愛用していることに影響されているのだろう。

子どもたちも納得していて、親も助かるのなら、全国で「ランリュック」を採用しても良いのではないか。

数万円の高級ランドセルには、賛否両論ある。お洒落で高額なランドセルを買ってもらえない、貧困家庭の子どもがいることを論ずると、「格差社会を教えるのも教育だ」と、大人の論理をぶつけてくる人がいる。では、当の子どもはどう感じているのかを考えたことがあるのだろうか。

ここで、議論をする気はない。単純に、“高過ぎる”ランドセルなど、廃止しても良いのではないかと提案したい。

「ランリュック」で良い。「ランリュック」が良い。

採用している小学校は、賢い選択をしている。機能性重視で、価格も手頃。元気いっぱいの小学生に、“高級感”は必要ないのではないか。

(佐藤きよあき)

武田康弘

 

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