わたしは、毎日、いつも、世界を感じます。
感じ知ります。知るには留まるところがありません。同じ人と、同じ場所にいても、世界はいつも変化し、万華鏡のようです。
その都度、新たなに感じ、新たに想い、新たに考えます。
そこには、固定や絶対はありません。動かないものなど何一つなく、世界はいつも新鮮です。わたしは、いつも新しい自己と世界を楽しみ、よろこびます。
こどもと同じ。
こどもは、お化けを怖がったり、わけのわからぬことを信じたりしますが、また、すぐ、信じなくもなります。いつも変わります。絶対正しい!を言いつつ、絶対はなくて、どんどん動きます。
だから、こどもは自発的には信仰などしません。宗教を信じません。自分の頭で考えます。ある特定の考えを絶対とするのは、気持ち悪いことです。〇〇教の信者、神の御心???変なの~~~~。
私が生きていることで感じる「エロース」(魅力を感じ惹きつけられるもの)を味わうのです。それらは、私のもの、私が感じ知るものです。誰かに、何かに「従う」ことでは決して得られない「私」という宇宙のよろこびです。
何かを崇めれば、私は私でなくなり、あなたと自由で楽しい関係はもてなくなります。私は私、私以上ではなく私以下でもない。私が私以上の何か(=外なる価値、最大のものは神という概念)に合わせたり、従ったりしようとすると、それは深い嘘になります。嘘は嘘を共有する人としか交わりあえず、本質的に不毛です。
絶対とか唯一とかを主張する宗教がなくならない限り、深い嘘から抜け出せず、いつも虚構の世界同士の争いです。いつ果てるともない争いが続きます。敵と味方に分かれてしまいます。自分の内に排他的ではない「信仰」があるのはよいのですが、それによる精神共同体=宗教団体をつくれば、個人の自由=実存は消えます。
わたしは、唯物論者ではありません。
人間とは価値意識の束ですので、観念存在です。特定の観念を持つ存在ですが、そこに宗教が入りこむ原因があります。人間が観念存在であることは原事実であり、その意味で死への特定のイメージや考えをもつのは当然ですが、生きることを宗教の教え=思想から導くとしたら、それは、生の意味をいまと未来へのイメージからではなく、過去・既存から決めることになり、生き生きとした輝きや悦びから遠ざかります。人間のネオテニー的な特性は奪われます。未来への想いから現在を生きる、という人間存在の意味が逆転してしまうのです。
私の生き方、意味、価値は、私の心身全体の感覚と思考の冒険により決まるのであり、何か特定の思想や宗教が先立つのでは本質的に嘘になります。私は、なにかに所属する存在ではなく、私という存在ですーこれは人間の存在論的事実です。経験的現実の底にあるのが人間存在の赤裸々なありようですが、それはこどもを見ればよく分かります。
宗教的な絶対感情は、人間の意識から自由・しなやかさ・柔らかさを奪い、固定された感情を導きます。宗教の熱心な信者は、その表情(身体性)に固着性(不自然な安定)があるので、すぐ分かります。
死者への遇し方や死への応接は必要不可欠ですので、宗教はいつまでも続きますし、それは当然ですが、そういう意味での宗教ではなく、今を生きる私の生を規定する宗教は、よくないのです。人間存在のありようや生の意味や価値の問題は、フィロソフィとして考えることであり、固定した考えを受け入れることではありません。
私は、私の内なる普遍(よさ)を追求して、エロース豊かに生きるのです。それは、なんでもよい、なんでもあり、という相対主義ではまったくありませんが、絶対主義=原理主義ともまったく無縁です。
人間は自由から離れたら必ず腐ります。なぜなら意識とは自由を本質とするからです。自由は宿命です。
ちょうど1600年前(紀元415年)にキリスト教徒たちにより惨殺された女性教師ヒュパティア(フィロソファー・数学者・天文学者)の言葉は、みなが心に留めるべきものと思います。
「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」
「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、
そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は 信じ込まされたもののために戦うのです。」 (英文からの翻訳は武田)
武田康弘