いま思うと、ほぼ全ての漢字が使えるワープロの出現は、活字の権威=印刷物の権威を相対化させた文化の変革でした。それが日本に新しい時代を到来させたのです。
1985年までは、活字は印刷物が独占し、そこに活字という文字言語の権威が巌としてありました。しかし、1986年に出現したJIS第2水準と呼ぶ漢字が使えるワープロの出現で、活字は、ふつうの市民が使えるアイテムになり、印刷物=活字の権威は相対化してしまい、新しい時代=市民文化の時代が生まれたのです。それを更に飛躍させたのは、もちろんインターネットの普及ですが、そこでは形式や権威ではなく、内容が問われることになりました。
以下は、岩波書店からの依頼で書いた「我孫子丸刈り狂想曲」(月刊「世界」1992年8月号)の前文になるようなエピソードで、わたしが運動を起こしたキッカケですが、それを可能にしたのはワープロの出現だったのです。33年前のことで現代史の1ページになっていますが、ここから次々と変革と創造が起きたのですから、いま、それを振り返ることには、現代的→未来的な意味があるはず、と思います。
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我孫子市の「丸刈り強制」に象徴される管理主義教育是正の運動
エピソード 1986年 NECのワープロ発売により運動が始まった!?
すべての漢字(JIS第2水準)が使えるワープロ=文豪ミニ7E (1FDD、9インチCRT搭載)新発売! という大きな広告が新聞に出ました。時は、1986年5月です。
わたしは、それまでワープロというものを直に見たことはなく、広告の写真で知っていただけでしたが、「漢字が全部使えるなら、哲学的な用語も含めた文章がつくれる、すごいな!」と思いました。活字で文章がつくれることに感動したのです。
次の日曜日、早速、秋葉原に行き、現物を見ました。何件か周り一番安い店で、ローンを組みました(12万円以上もしましたので現金ではとても買えない)、ついでに6歳になったばかりの息子のために、スーパーマリオというゲーム器も買い、両方を担いで電車に乗り持ち帰りました。
実は、使い方も分からずに買ったこのワープロのおかげで「丸刈り」に象徴される管理教育是正の運動が始まることになったのですが、もちろん、購入時にはそんなことは思いもしませんでした。
説明書を読みながら、使い方をマスターするために、私の教育思想を書いた文章をキーボードで打ち込む練習をしましたが、だんだん出来るようになった時、突然、ひらめきました。
実は、その1年ほど前(1985年)に、幼稚園児だった息子の弘人が、我孫子駅で丸刈りの中学生たちを見て、「なんで毛がないの?」と聞くので、「中学生になると丸刈りにしないといけないんだよ」と話すと、驚き、引きつったような表情で「ぼくは、イヤだ!」と強く言ったのです。
更にその2年前の1983年3月からは、教え子の綿貫君が管理教育是正を訴えた作文を書き、白山中学の先生と話し合いをしましたが(中学卒業時から計6回も)、全く聞く耳をもってもらえませんでした。
そこで1985年の秋に、白山中学校に行き、受付で、「わたしは、市内の寿で私塾を開いている者ですが、丸刈り強制などの校則について校長先生とお話しがしたいのです」と言いましたが、「校長は忙しいので無理です」と言われ、「いつでも構いません、お時間の取れる時にお願いしたのですが」と言いましたが、「いつになるか分かりません」と相手にしてもらえませんでした。そうか、名前(肩書)のある人でないと校長と会うことはできないのだな、とその時に悟り、なんとも嫌な気持ちで引き返したのでした。
そこで、ワープロです。そうだ!名簿をつくろう。『我孫子児童教育研究会』の名称で名簿をつくり、そこに名前(肩書)のある人を載せればいいのだ!と、ひらめいたのです。印刷物のように活字で立派な名簿ができる!
学校が「権威」と思う人(地元の元教師の長老や医師や弁護士ら)を並べた名簿をつくり、それをもって行けば、話し合いに応じるはず、と思ったのです。そこでわたしは、友人で肩書をもった6名をワープロで書きだし、それぞれの家に行って事情を説明したところ、みなの承諾が得られたので、『我孫子児童教育研究会・代表会員』という名簿をつくることができたのです。1986年6月、わたしが34才の時でした。
この名簿を持って再び白山中学校を訪ねると、前年とはうって変わり、すぐ校長と話すことができました。ここからは、後に岩波書店から依頼されて書いた「我孫子丸刈り狂想曲」(『世界』1992年8月号)にある通りです。ぜひ、お読みください。
以下の写真は、1986年7月4日、拙宅での最初の集まりです。
武田康弘