思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

妹島和世さんと西沢立衛さんの二人のコンビによる感動の建築

2011-01-31 | 社会批評
以下は、1月26日(水)の白樺MLです。

武田です。
いま、NHK・クローズアップ現代で、妹島和世さんと西沢立衛さんの二人のコンビによる建築を見て、大変共感し、感動しましたので、メールします。
【人をつなぐ公園のような建築】と言われていて、『みなの新しい公共空間』=いろいろに異なる人が多様な仕方で柔らかくつながれる建築を、という言葉がそのままに感じられる見事な建築が紹介されていました。
自由でのびやか、権威的な感じがまったくなく、開放的で楽しい美術館やコミュニティーホールや大学(アメリカ)。内と外が一体で、行きたくなる・使いたくなる建築ばかりでした。
「ああ、日本の学校もこういうものであればな~~~」と思ったら、最後に二人は言いました。「これからやりたいのは、小中学校だ」と。
おーーいいです。うん、いいです。ヒントは、キューバの学校だとのこと。大人の集うカフェと子どもたちの教室が同じ建物で、市民社会・地域社会と学校が融合。
いや~~~これは素晴らしい!! 

――――――――――――――――――――

イヤー、まったく同感です。わたしも見てました。

今までどうしてこんな建物が生まれてこなかったのか不思議なくらいです。
私も仕事柄、かつては建築家たちとのお付き合いがありましたが、観念や概念が先走るタイプの人が多くて『のびやか』とか『自然な開放感』と いったものとは無縁でしたね。
むしろ、肥大化した自我の反映のような『作品』に見えて、あまり近寄りたくない建物が多かったように思います(笑)。
妹島和世さんと西沢立衛さんによる建物は真逆で、すがしがしく楽しい建物ですね。
喝采!
これからも楽しみです。

古林
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素晴らしいチームワーク、サッカー日本に感動!

2011-01-30 | その他

素晴らしいチームワークによる勝利!興奮と感動で寝不足です(笑)。

イタリア人のザッケローニ監督もいい感じ。

わたしは、国別の対抗戦に特別の興味はないのですが、日本選手の優れた動きとチームワークのよさには、理屈抜きに引きつけられました。

選手の顔がいい。動きがいい。さわやか!感動!
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子どもも大人も人間存在として対等ー心身全体による豊かな対話を。

2011-01-29 | 教育

子どもも大人も人間存在としては対等であること、
このことを明瞭に自覚しないと、よき社会はつくれません。
上から目線・上意下達ほど悪いものはないのです。
「私」は上でも下でもない、互いの自由と責任によって公共を生もう、
そういう基本思想を強めないと、人間的な活力と面白さのある社会にはなりません。
社会(家庭、学校、会社、役所、国家、世界)がよきものか否かは、個々人の輝き・元気の程度にあるのですから。
どうしたら活き活きと生きられるか、それこそが最大の課題です。

先のブログに書いたように、日本の学校、とりわけ中学校の現状は、型ハメによる上からの管理を行い、子どもの自由を認めないことで、人間から元気・活力の源を奪っています。とりわけ長時間の「部活動」は、自分で考える力を萎えさせ、上の意向に従うだけの魅力のない「一般人」をつくります。これは、人間と社会に対するひどい「悪」というほかないのです。

親も子も、生徒も先生も、共によきパートナーとして、自由な雰囲気の下で心身全体による対話をすること、親や先生は、上から目線ではなく、優しさと愛情をもって対話すること。人間性豊かな対話の実践こそ、よき社会・文化を生むための条件=土台だ、とわたしは確信しています。


武田康弘
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1月30日(日)白樺教育館・落成7周年の祝

2011-01-27 | その他
今度の日曜日(30日)に『白樺教育館』の落成7周年の祝いを行います。
「思索の日記」の愛読者のみなさま、よろしければ、ぜひご参加ください。楽しい祝いの会にしたいと思います。参加費は無料です。

午後2時から4時まで。白樺教育館で。
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騙しのアンテナ工事 総務省は至急に対策を。

2011-01-21 | 社会批評

7月のアナログ放送廃止に伴う「アンテナ工事」詐欺が横行しているようです。わたしの実家にも電気屋から騙しの電話がありました。
総務省は、正しい情報を、分かりやすく知らせる必要があります。

従来のアナログ放送に使われているVHFアンテナでは、デシタル放送は受信できませんが、大多数の家では、地元のUHF放送(例えば千葉放送)を受けるアンテナが設置されているはずです。このUHFアンテナは、地上デシタル用のアンテナとまったく同じですので、関東地方ならば、これを東京タワーの方向にふり向ければよいだけです。もちろん、地元のUHF放送も受信したければ、アンテナを買い足さなければなりませんが、不要なら、向きの変更だけで済みます。ただし、東京タワーからの距離により、感度が足りなければ、素子数の多いものに変える必要はありますが。

わたしの実家は都内なのですが、電気屋からの電話で、地デジのアンテナ工事費用が6万5千円!とのことでした。酷い詐欺ですが、年寄り相手なので騙せると思ったようです。
UHFアンテナは数千円で買えますし、方向もシビアではありませんから、誰でも簡単に工事できます。(衛星放送は、パラボラアンテナで方角の設定がとてもシビアですので、面倒ですが。)
実は、わたしの実家はだいぶ以前に両方ともわたしが工事してずっとデジタル放送を受信しているのです。しかし、それなのに近所の電気屋(数年前にデジタルテレビを購入した店)から上記の電話があったのですから、驚き!憤り!を通り越して「お笑い」です。

今後は、さらに、アンテナ工事にまつわる詐欺や詐欺まがいの行為が横行するのではないかと思います。総務省は、至急に対策を取る必要があるでしょう。


武田康弘
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「哲学する」のは、研究者ではなく、生活者です。

2011-01-20 | 恋知(哲学)

たとえば、経済学者は、家計の達人や会社経営に秀でた人ではありません。
それと同じで、
哲学研究者は、哲学する達人ではないのです。
哲学することと、哲学の研究(哲学書の読解や哲学史の知識の獲得)とは異なるのです。

この違いが分からないと、よく哲学することができません。哲学史の知識の有無に囚われていると、哲学研究者(主に大学教師)は、自らを思考の特権者と思い込み、また、知識に欠ける者は怖気(おじけ)づきます。

経済学者は、自分が現実の経済行為の達人だとは勘違いしませんし、経済学を専門に学ばなかった人も、家計や会社経営で怖気づくことはありませんが、こと哲学になると、おかしな思い込みや勘違いが横行するので困ります。

哲学するのは、ふつうの生活者が日々の体験に基づいて行うことであり、専門家=研究者がすることではないのです。

(※下のブログと合わせてお読み下さい。)

武田康弘
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哲学の本質とは、意味と価値を探り創ること。

2011-01-20 | 恋知(哲学)

哲学するとは、過去の哲学書を読むことではありません。

哲学するとは、日常のさまざまな体験を流れゆくままにしないで、「私」にしっかり根付かせること=意味づけ・価値づけを行う意識の働きを活発にすることです。

事実について知ることではなく、物事・事象についてその意味と価値を考えること=「私」が生きる上でそれらはどのような意味と価値があるのかを探り創る知的作業を哲学するといいます。「探る」という分析と「創る」という価値を見出す作業が融合した能動知なのですが、それは、意識せずとも誰でもが日々、していることです。

しかし、事実学と技術知ばかりの現在の日本の知的環境の中で、大学で哲学を講じる教師を含めて、この哲学の本質についての明晰な認識がありません。哲学は、特別な知識や技術とされてしまい、一つの科目としての扱いしか受けていなの現実です。

カオスー混沌の時代こそ、自覚的に哲学することが必要です。それは、何よりも深く「私」を活かし、豊かな悦びをもたらす能動知の営みなのです。


武田康弘

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人を自立させ、救うのは、意味論=納得の知

2011-01-17 | 恋知(哲学)

(a)人間がよく(=生き生きと楽しく)生きることの必要と結びついた知は、「意味論=納得の知」と言えます。そのような知を自らのものにしようとする学習は、よろこびを伴い、力をもたらし、生を豊かにします。内面性の豊かな魅力ある人間を生みます。

(b)丸暗記やパターン思考や点数のための勉強は、既成社会に適合するだけの人間をつくり、心身と頭脳の内側から湧くエネルギーを生みません。競争主義の外的人間を製造します。

(a)の「意味論」としての知を得るために学習している人は、学ぶことが即こころを強くし、知的な力と心的な力が一つになります。特定の主義や宗教的な絶対を求める心とは無縁な精神、健全で強く柔らかい心を生みます。現実生活と精神世界が有機的に結びつき、分裂しないからです。

直接経験を踏まえた心身全体による会得=「意味をつかむ納得の知」を得ようとする努力、それが困難な状況の中でも充実した生を送ることのできる条件です。したがって、すべては日々の生活仕方、学習仕方にかかっているわけです。

特別な思想・一神教的な絶対は無用、否、有害なのです。それらは、豊かな直接経験=思考錯誤によってつくられる「意味充実の知と生」から見放された人の麻薬でしかありません。


武田康弘
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日本の中学校は、単一の価値観・集団主義をつくる施設

2011-01-15 | 教育
服装も持ち物もみな規制、
軍隊みたいな日本の中学校は、単一の価値観、上位下達、権威的な思想や態度を仕込む場所なんだな~とわたしは思い、とても気持ちが悪いのですが、みなさんはどうお思いでしょうか?

管理された教師が、生徒を管理する。管理と教育とは二律背反のはずなのに。
どうも「人間とは何か」という基本(人間存在の意味)が分かっていないようですが、ほんとうに困ったことです。「私」の生きる意味が内的にはつくられません。これは、人間性に対する深い罪です。

武田康弘


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ホントウに酷い (ラルゴ) 2011-01-15 16:09:34

中学校は、ひどかったです、本当に…。

入学前の説明会に参加した時から、呆れました。

しかし問題なのは、くだらなくて子供に負担を与える規則などに関しても保護者が異を唱えないこと。

理不尽で前向きな動機のかけらもない規則を押し付けてくるから、見直しをお願いしても、話し合いにもなりません。

寒い時期に長男たちはマフラーの着用すら、校長先生が変わるまで認めてもらえなかったんです。

中学校から帰ってきた息子の顔の表情は冴えなくて、制服を脱ぎ、おやつの時間に会話して初めて表情が穏やかに緩み始めていました。

大切な伸び盛りの3年間をいい環境で過ごさせてあげたいですね。
コメント (1)
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おどけ・ふざけ・悪さが大切。 子育て・教育の原理

2011-01-11 | 教育
 お母様、お父様、 教育とか躾(しつけ)と思って子どもの心を抑圧し、歪めてはいませんか。

 発育、発達には順番があります。子どもは、十分にふざけ、おどけ、ばかを言い、けんかをし、悪さをしなければ、まともな大人にはなりません。早く大人にしようとすれば、小利口のつまらない人間か、外見だけを整えた偽善者か、心の深部に不満を抱えた犯罪予備者にしかならないのです。

 高校生になり、二十歳になって「狂って」いる青年は、幼少期―小学生までの時期に、十分にばかを言い、やれなかった(親や教師によって抑圧された)子どもたちの姿です。

 順を踏むこと、「飛ばし」の英才教育をしないこと。これは教育の原理です。子どもは自分でいろいろと試してみる時間的ー精神的余裕を持てないと、主体性を持ち、自分で考える人間にはなれないのです。子どもを「病気」か「ロボット」にするために必死で努力する!?愚かです。

 生活=体験=直観に根差した「意味」の分かる心と頭を育てる条件は、子どものありのままの心を受け入れ愛すること、急がずに順を踏むことです。必要なのは、「おどけ・ふざけ・悪さ」を許容し、楽しむ心です。一段ずつ階段を上ること。「飛ばし」をすれば、内的には悦びをもてない人となり、不健康な人生を招来します。


武田康弘

(※2004年出したものを簡潔に書き直しました。)
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混沌は面白いー「民主政治」は今ようやくはじまったところ。

2011-01-08 | 社会思想
今年は、また政治が迷走しますが、これは面白いことです。古い固定された秩序が変わるのは、未来を拓く条件ですから。
永田町の論理―臭いおじさんの常識が崩れ、彼らが右往左往するのを目にするのは、失礼ながら笑えます。評論家の言ではなく、日々を心豊かに生きる生活者が、主権者の言として政治をコントロールする、という民主主義の時代の始まりです。でも、始まったばかりですから、混沌はつきもの。

今までの枠組みを前提にした思考法には、なんの価値もありません。
古い日本主義=明治政府がつくった近代天皇制(靖国思想)などは論外ですが、NHKと千葉大の小林正弥さんらが喧伝するハーバードのサンデル教授の主張・「新共同体主義」(アリストテレスの目的論の復活)なども、イマジネーションの不足で未来を構想できない頭脳の断末魔でしかありません。ハーバード大や東大などに集まる古いタイプの頭脳では何もなしえないことの象徴です。

混沌から未来を拓くためには、「直観=体験」能力を鍛え、心身全体での会得を方法とする生活を送ること。「言語中心主義」から脱却し、全身で感じ知ることを基に豊かなイマジネーションを広げることです。「知」のパラダイム転換、客観主義から[主観性の知]の豊饒化へ、が必要なのです。客観知は手段に過ぎないことの明晰な自覚が、その「はじめの一歩」です。

混沌は、活力を生みだす元です。現代の混沌を大いに楽しみたいと思います。スケールの大きな新たな秩序・優れて人間的=民主的な世界の建設には、強靭な意志と持続する意志の双方が必要です。政治レベルの思考(頭脳の使い方)では何も見えません。恋知(≒哲学)レベルの思考こそが求められているのです。



武田康弘

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mixiコメント


2011-01-09 11:50:58
すかぶら
2011年01月08日 14:33

ポジティブですね(*^_^*)
そうか、前向きに行きまっしょい!

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人生(たび)の途中♪
2011年01月08日 15:13

>>混沌から未来を拓くためには、「直観=体験」能力を鍛え、心身全体での会得を方法とする生活を送ること。「言語中心主義」から脱却し、全身で感じ知ることを基に豊かなイマジネーションを広げることです。「知」のパラダイム転換、客観主義から「主観性の知」の豊饒化へ、が必要なのです。客観知は手段に過ぎないことの明晰な自覚が、その「はじめの一歩」です。

↑、山村社会に暮らしていて・・・、この発信を山村が自らし始めることが、混沌と閉塞する現代社会に風穴をあける 最大のボトムアップになると信じて、今年も歩んでまいりたいと思っています。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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タケセン
2011年01月08日 15:31

すかぶらさん、人生(たび)の途中♪さん

コメント、ありがとう。

わたしは、「前向き」の方が面白いので、楽天的思索者ー楽天的改革者なのです。
生まれてやがて死を迎えるまでの時をこころ豊かに楽しく暮らしたい、知的好奇心と心身のエロースを拓きながら。この今を永遠にするような現在を生きたい、というのがわたしの日々の想いです。

「閉塞社会に風穴を開ける」、というのは、とってもエロース溢れる楽しい営みですね。共に!

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よしくんぱっと
2011年01月09日 06:58

>今年は、また政治が迷走しますが、これは面白いことです。古い固定された秩序が変わるのは、未来を拓く条件ですから。

まったく同意します。

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タケセン
2011年01月09日 11:47

よしくんぱっとさん

カオスは、エネルギーの源です。わたしは、心身に元気が漲(みなぎ)ります。こどものように(笑)。

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カオスとコスモス (Cmoon&thisboy&タケセン) 2011-01-10 13:07:35

C-moon
2011年01月09日 17:14

迷走の果てに走る政治が怖ろしくて文句ばかり言い続け、永田町の論理で政治を見つめることしかできないまま新年を迎えてしまいました(苦笑)

少し離れてみると、世の中も人の意識も、カオスとコスモスの間に拡がっているグラデーションの海を移動し続けているのかな……
なかなかコスモスの陸に上がることができす、混迷の風に吹かれながらの航海を続けているのが、社会であり人なのかな……
こんな風に感じています。
また、世界各国の国生みの神話が、カオスに求められ、示唆しているように膨大なエネルギーが渦巻いているのもカオス。生成の源であり、大いなる持続を発生させるカオスに抗い難い求心力も感じます。
そして大いなる持続がやがて生みだす生の直観によって革新される持続……
政治的に見れば、政権交代は、直観だったのかもしれません。確かにある程度革新されたと思うのですが、それを持続させようとするとさまざまな力が混濁し再びカオスとなる……
きっとこのような繰り返しの現象が、進化を促しているのだと思います。
そう思うと仰るようにカオスもまた楽しい♪

今年も宜しくお願い致します。

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this boy
2011年01月09日 19:33

「混沌は、活力を生みだす元です。」
「現代の混沌を大いに楽しみたいと思います」

うーん・・・・含蓄ありますね。

政治は本当に混沌として来ました。
日本の政治の貧困は国民の貧困だからしょうがないと
思いつつイライラしますが、その混沌を楽しみたいです。

今年は私にとってもちょっとした転換期かも知れません。
でもいつでも前向きに楽しく生きたいですね。
今年もよろしくお願い致します。

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タケセン
2011年01月10日 12:58

C-moonさん 

いつも丁寧に、格調高いコメント、とても感謝です。

わたしは、社会は、あまりコスモス化され過ぎない方がよいと思っています。社会は、最小の家庭から、学校、会社、国家とありますが、一番コスモス化されている学校、とくに中学校は、人間の生きる場ではなく、缶詰工場のようです。

国家も同じで、「一般意思」は、原理的次元ではほぼ一致する可能性があり、それは必要なことですが、現実次元(政策レベル)では、なかなか一致するものではありません。いまの日本の状況は、「近代民主主義の原理」さえあやふやな所があり、その点では、断固として闘うことが必要ですが(具体的には官治主義というおぞましいイデオロギーと制度)。

山県有朋らの明治の超保守主義の政治家たちによる洗脳教育=政治により「天皇主義」が徹底してしまった為の弊害は色濃く残りますが、これを廃棄して新たな民主的倫理にもとずく社会を建造するのは、政治レベルで取り組んでも不可能です。もっと深い地点=生活世界の価値観(思想)を変革する「私」レベルでの永久革命の営みが必要です。

わたしが政府の方針を批判するのは、原理次元での逸脱とそこから派生する現実についてですが、政治家たちが、まだまだ民主制の原理についての認識が弱いために、混沌としています。この原理次元の混沌は許されるべき混沌ではなく、根源悪なのですが、具体的な政治レベルでの混沌は、あたらな世界を生むための必然ですし、それは、いつの世でもそうです(一元的支配でない限り)。その意味での混沌は必要で、面白いです。

「私」という次元のコスモス化(秩序化)がなければ、人はよく生きられませんが、「私」が楽しく生きるためには、社会全体のコスモス化を原理次元だけにとどめないとダメで、具体レベルでの社会のコスモス化は、冗談じゃない!(笑)です。「私」の人間的に豊かな生のためには、混沌でないと困るのです。その次元においては、秩序など糞喰らえ!です(笑)。

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タケセン
2011年01月10日 13:02

this boy

Cmoonさんへのお応えとダブりますので、見てください。

1月30日(日)の午後2時から、「白樺教育館」落成7周年の祝いをします。お近くですし、ぜひ、顔出しをお願いします。

Cmoonさんも、折角の機会ですから、遠いので大変でしょうが、ぜひお越しください。お待ちしています。みなで歓迎します。
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情報化された知 と 心身全体による会得

2011-01-05 | 恋知(哲学)
 活字・音声・映像の溢れるような情報の中で、私たち現代人は、〈情報化された知〉と〈心身全体での会得〉との相違をあまり自覚しなくなっているようです。

 このことが、子どもたちの教育の場において深刻な問題を生みだしています。
いわゆる東大を頂点とする「エリート校」に入るには、小学校高学年から週4~6回は進学教室に通わなければならず、なまの直接経験をもつ余裕は極端に少なくなります。記号や観念の操作が優先され、〈五感〉を使っての思考錯誤は、時間と労力のムダとされます。

 このように育てられた人間は、心身全体による豊かな直接体験という拠り所がないために、心の内側からは〈確信=自信〉がやってきません。物事を疑い、確かめる最終の根拠である『内在』としての知覚を希薄化させる結果、生き生きとした現実感を消失させてしまうのです。

 これは、現代の「エリート」と呼ばれる人間にも共通する問題です。〈意味〉の探求をパスして、単なる事実学を積み上げてきた彼らは、内的には確信が得られないために、権威ある他者に同調してもらうしかありません。日本の「エリート」とは、立体から見れば影にすぎない二次元世界のチャンピオンでしかないのです。

 この「死んだ知」の収集家を褒め称える集団ヒステリーが、私たちの社会全体を蝕んできました。



以上は、13年前(1998年3月22日)のミニコミ紙(「手賀沼市民新聞」-我孫子市全世帯に新聞折込で配布)に載せたものです(元の文書は更にその7年前の1991年に竹内芳郎さん主宰の「討論塾」に出したもの)。我孫子市民会館でのわたしと佐野力(当時・日本オラクル社長)さんとの教育シンポジウムー『生きた心と頭のために!受験秀才の時代は、もう終わっている。』の案内として書いた文章ですが、今日ますます声を大にして言わねばならないことと思います。みなさまのご意見をぜひお聞かせ下さい。


武田康弘


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哲学の最大の役割とは?

2011-01-02 | 恋知(哲学)
2011年最初のブログですので、哲学(恋知)の本質について書きます。


哲学の最大の役割は、なにものにも犯されない「個人性のレベル・領域」を深く、確かに、豊かに育てることにあります。

社会は、どのようなものであれ必ず「個人性」を抑圧する側面をもちます。
もちろん、「私」は社会化されなくては現実に生きられませんし、「私」の可能性は社会の中で花咲くのですが、逆に、もし「私」が完全に社会化・公共化されてしまえば、人間は昆虫と同じ存在に陥ります。

「私」の個人性の領域が豊かでないと、「私」の「社会化」は、人間の生にとって価値あるものを生みません。ほんらいの社会化は、各々の「私」が現実にその可能性を広げる為でなければなりませんが、原理上「理想の社会」は存在しませんから、必ず、社会は個人性を抑圧する側面をもちます。これは人間が集団で生活するために起きる必然です。

社会は最小の「家族」にはじまり、「学校」「会社」「役所」「国家」等々とありますが、只その一員だ、というだけなら人間は人間にはなれません。「私」から個人としての固有のよさ・面白さ・独自性が無くなれば、「実存」(世界でただひとつの価値をもつ「私」)は消滅してしまい、内的な「生きる意味」は失われるからです。

ほんらいの哲学(哲学史の知識とは全く無関係)とは、社会化・公共化の世界とは次元を異にする「私」の生の意味と価値を豊かに拓くもので、そこに哲学の最大の役割があります。だから、ソクラテス・プラトンの哲学(正しい訳語は「恋知」)は、エロースを基盤とします。アカデメイアの主祭神が「エロース」(英語ではキューピット)なのは、「実存からの出発」を象徴しているのです。

したがって、社会性・公共性から哲学を知ることは不可能であり、哲学(実存)から公共性を考えることができるだけです。昨年10月に書いたわたしの5年間のまとめの文章は、『公共をめぐる哲学の活躍』ですが、これを逆にして「哲学をめぐる公共の活躍」とは言えないように、哲学と公共とは異なる概念なのですから、「公共哲学」の推進者である金泰昌さん(東大出版会・シリーズ「公共哲学」の最高責任者)の基本的な立場である「公共哲学する」という発想・言い方は、なんとも不具合です。

繰り返しますが、哲学(恋知)はいろいろな側面がありますが、その最大の価値は、「私」の個人性のレベル・領域を豊かに拓くところにあるのです。人間は社会的動物ですが、昆虫ではありませんから、実存=個人性の次元が豊かでなければ、すべては無意味・無価値となります。これは人間の生の原理です。


武田康弘


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