「日本会議」の中心者の一人、藤原正彦 お茶の水女子大学教授(数学者で『国家の品格』でベストセラー)は、以下のように書いています。
「伝統とは、時代と理屈を超越したものである。・・
天皇家の根幹は、万世一系である。万世一系とは、神武天皇以来、男系男子のみを擁立してきたということである。男系とは、父親→父親→父親とたどると必ず神武天皇にたどりつくということである。・・
十親等も離れた者を世継とするなどという綱渡りさえしながら、必死の思いで男系を守ってきたのである。
これを変える権利は、国会にも首相にもない。天皇ご自身にさえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。飛鳥奈良時代から明治大正昭和に至る全国民の想いを、現在の国民が蹂躙することは許されないからである。」(「皇位継承の伝統を守ろう!」日本会議編より抜粋)
神話上の神武天皇(126才の長寿で弥生時代前期の人)が実在!し、そこから男系遺伝子が連綿と125代にわたり続いているという話ですが、反論などする必要はないですね。もう完全にイカレテるとしか言えませんが、こういう大学教授の主張を「真理」だとして打ち出すのが「日本会議」というウヨク団体で、みながその思想を共有しています。
その団体に、国会議員281名が参加していて、閣僚は3名を除き全部がメンバーです。安倍君や麻生君は偉い役職です。
わが日本という国は、すでに終わっているような気がしますが、そうはさせじ、で、われわれ市民の理性と良識で治しましょう~~~~!!
武田康弘
以前のblogからですが、
「日本会議」の思想は、精神倒錯者に共通するものです。その本質を以下に記します。
【日本会議】などのニッポン主義者たちに共通する思想は、
天皇=皇室主義ですが、
それは、現実に存在する天皇や皇太子などの人間の意思とは関係を持ちません。
彼らの天皇-皇室主義とは、記号としての天皇であり、記号としての皇室です。...
人間としての天皇や皇族ではありません。
天皇制というシステムそれ自体を崇拝するfetishism(物神崇拝)なのです。天皇と呼ばれる人間の意思・思想・行為ではなく、システムを神とします。ちなみにfetishismとは、人間ではなく衣服などを性欲の対象とする〈異常性愛〉のことです。
現代の知的教育と呼ばれるものは、学習する「内容」への興味を消し、無目的に「勝つため」の人生を歩ませますが、そう扱われた人々は、精神の健全性を保てません。成績上位者でなくとも、「形式知」(パターン知)の中での順位が絶対という世界では、なぜ?なんのために?の追求に基づく心の内側からの〈理念〉の導出が不可能です。そういう精神構造の人に可能なのは、ただ一つ、システムそれ自体の維持です。
種々のシステムの中でも天皇制が最大だと思う人は、それを維持するために必死となります。彼ら(彼女ら)は、天皇制や国家システムそのものを欲望の対象とする精神疾患=fetishism(フェティシズム)なのです。その精神疾患者が、自民党を中心として国会議員中280名以上いるのは、まさに異常で、唖然としますね。
学習院での成績はビリに近かったですが、鋭利な剃刀のような感性をもった志賀直哉の若き日(24才)の天皇制批判の言葉は、さすがというほかありません。
「天皇とは一体なんだろう?どうして何のために出来たのだろう? 天皇とは恐らく人間ではあるまい、単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑しい」(抜粋・1906年=明治39年)。
形式知とは一番遠いところにいた志賀直哉の直観は、極めて短い言葉で事の本質をえぐっています。
この天皇システムの崇拝という【日本会議】などのニッポン主義者たちは、その必然として、市民主権を嫌い、人権思想を嫌うのですが、それはまた明日にでも書きましょう。彼らの思想は、民主制の原理と背反し、ほんらいは「ネオナチ」などと同じく禁止のはずです。
『日本会議』などに集まるフェティシストの思想、【2】です。
第一回目でも書きましたが、天皇制や国家という概念から出発し、それ自体を愛するという倒錯をフェティシズムと呼びます。
では、なぜ、『日本会議』などに集まるフェティシストは、天皇主権で、基本的人権に大きな制限を設けた戦前の日本思想(国体主義=皇室崇拝)をよいとして宣伝するのでしょうか。
フェティシストとは、物を神とする、システムや名前やその序列を神(=絶対)とする、また、人間ではなく下着などに欲望する性癖で、〈精神倒錯者〉のことを言いますが、それは、幼少期から「おどけ・ふざけ・イタズラ・悪さ」などを十分に肯定され、順を踏ん で発育した健全な人とは異なり、大人の理想像にハメられて幼少期~青年期の生命の輝きを抑圧された人に多い倒錯で、偏執や異様な拘りをもちます。
自分の周りの自然・事物・世界を五感=全身で感じ知り、想いを広げ、自分の頭で元から考えるというよき人間性の基本に欠ける人です。
情報知と実体験を似たようなものと思い込みます。 生きた人間や動物と交わることが苦手で、いつも形式(特定の規則や解釈の枠内)でしか他者に接することができない人です。組織や権威に守られないと生きられません。
だから、安倍首相が自著『美しい国へ』で書くように、個人とか市民という概念を嫌い、「日本人ないし国民という概念を第一にすべきだ。」 と言う主張が出てきます。 いま、ここで、イキイキと生きている一人の人間、一人の女・一人の男から始まる世界という現実が受け入れられないのです。
これを象徴するのが、第一次安倍内閣時の国会での発言(党首討論)です。
「金や物だけの価値だけになった現状を変えて いくために、家族・地域・国を愛する態度を養うという目標をもった教育を行う必要がある。そのために、『教育基本法』を制定したが、これは戦後レジームからの脱却を意味する」(2007年5月16日)
と述べました。
ここには、「家族・地域・国」があるだけで、肝心かなめの「私」・「個人」が抜け落ち、「世界」も抜けています。わたしはこのことを、日本人が「私」から始まる人生を可能とするために必要な批判として『ともに公共哲学する』(東大出版会)の91ページに書いたのですが、 それから8年が経とうとしています。はじめはかなりの孤軍奮闘でしたが、今は、多くの方々が立ちあがって嬉しい限りです。
話を戻します。
ともあれ、いまここで生きている「私」からの出発という実存の原理から目を背け、特定 のイデオロギーを優先させるニッポン主義者=ウヨク思想の根は、フェティシズムという倒錯にあるのです。
だから、『日本会議』などに集まるフェティシストは、人権思想を嫌います。とりわけ子どもの人権(国連で採択)という思想には、ひどく難色を示します。
イキイキとした一人ひとりの個人、民族や国籍の違いを先立てずに〈裸の個人〉から立ち上げる「人権」という思想は、できるだけお題目に留め、実質的には旧来の上下倫理で人々を縛りたいと考えます。
端的な例は、安倍首相の旧友で政府の「教育再生実行会議」の委員を務める八木秀次 麗澤大学教授です。彼は、自著『反・人権宣言』(ちくま新書2001年刊)で、
「ヨーロッパの生んだ『人権』というイデオロギーは裸の個人を前提とする戦闘的で抽象的な思想に過ぎない、われわれは、『人権』に惑わされずに歴史と伝統に根差した知恵=『国民の常識』に戻るべきである。個人としての人間の権利は、家族共同体を破壊し、秩序を混乱させた。『ジェンダー・フリー』とは雄雌の区別がつかないカタツムリのような生き物に人間をしてしまおうという発想である。子供の人権は少年犯罪を増やし、女性の人権を振りかざすフェミニストは、母性を否定し家族を解体させる。」と主張しています。
人民主権ー市民主権ー国民主権に対しても同様の論理で、「国体」という日本独自の戦前体制を復活させるために、言葉上だけのものに留めるのが彼らフェシティスト(倒錯者)の基本思想です。詳しくは次回にまた。
武田康弘
「日本会議」の精神構造 第三回 ネクロフィリア (英仏誌も安倍首相らのウヨク団体「日本会議」に注目)
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