思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

池上彰の「自民党こそ放送法違反だ」ーー 明瞭・的確・公平な批判は、見事。

2015-04-30 | 社会批評

『知らないと恥をかく世界の大問題5』(KADOKAWA/角川マガジンズ)

LITERA(太字は武田による)

 元経産官僚・古賀茂明の『報道ステーション』(テレビ朝日系)での発言以降、自民党の暴挙が続いている。自民党情報通信戦略調査会がテレビ朝日と『クローズアップ現代』のヤラセが指摘されたNHKを呼びつけ事情聴取を行ったが、それだけでは飽き足らず、BPOへの申し立ての検討、さらには政府自身がBPOに関与する仕組みを作るとぶち上げたのだ。

 表現の自由が剥奪され、政府からの言論統制が敷かれるという恐るべき事態が進行しているわけだが、しかし、マスコミの動きは鈍い。

 リテラは一貫して、安倍官邸の圧力とメディアの弱腰を批判してきたが、残念ながら弱小メディアがいくら叫んでも、相手にはしてもらえない。「報道の自由」をきちんと主張する影響力のあるメディア、言論人はいないのか。そう思っていたら、あの池上サンがこの問題について、かなり踏み込んだ発言をした。

 4月24日、朝日新聞の連載「新聞ななめ読み」で「自民党こそ放送法違反だ」と政権与党への批判を展開したのだ。

〈これが欧米の民主主義国で起きたら、どんな騒動になることやら。放送局の放送内容に関して、政権与党が事情聴取のために放送局の幹部を呼び出す。言論の自由・表現の自由に対する権力のあからさまな介入であるとして、政権基盤を揺るがしかねない事件になるはずです。〉

 池上はいきなり、こう断じたうえで、その理由を述べる。

〈では、なぜ自民党の行動は問題なのか。自民党が呼び出した理由は、放送法に違反した疑いがあるから。放送法の第4条第3項に「報道は事実をまげないですること」とあるからです。
  しかし、実は放送法は、権力の介入を防ぐための法律なのです。
  放送法の目的は第1条に書かれ、第2項は次のようになっています。「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」
  つまり、「表現の自由」を確保するためのもの。放送局が自らを律することで、権力の介入を防ぐ仕組みなのです。〉

 放送法の本来の理念は権力の介入を防ぎ、表現の自由を確保するもの。池上はそう明確に指摘する。そして同法は戦前の言論統制の反省から、権力から独立するためのもので、自民党の行為こそが、放送法違反だと批判するのだ。

 だが、注目すべきは、池上が言論に介入する自民党を批判する一方で、メディアの対応をも批判していることだ。池上は新聞各紙の論調を取り上げながらこう指摘する。

〈いつもは論調に大きな違いのある新聞各紙が、この問題に関しては、自民党に批判的な立場で歩調を揃えています。それだけ重大な問題であるとの認識では共通しているのでしょう。〉

その上で、毎日新聞の〈放送は自主・自立が原則であり、放送局を萎縮させるような政治介入は控えなければならない〉(4月17日付社説)という主張について、こう疑問を呈するのだ。

〈ただ、毎日の社説を読むと、「放送局を萎縮させるような政治介入は控えなければならない」と書いています。では、萎縮させないような政治介入ならいいのか、と突っ込みを入れたくなる文章です。〉

 池上は「政治介入は控えなければならない」ときっぱりと書くべきだったと指摘。そんな毎日新聞の態度が妙に微温的だとして、〈まさか萎縮なんか、していませんよね?〉と皮肉る。

 読売新聞に対しても同様だ。同紙はやはり社説で〈放送免許の許認可権は、総務省が持っている。意見聴取は、政権側による「圧力」や「介入」との疑念を持たれかねない〉(4月18日付社説)という主張を、〈「本当はそうではないけれど」という文意が垣間見えます。〉と批判する。

 確かに池上の指摘は本質をついたものだ。大手マスコミは表向き、批判のポーズをとっているが、実は完全に腰が引けている。

 そもそも、古賀問題の本質は官邸から『報ステ』への圧力だ。菅義偉官房長官は、古賀が1月23日の放送で安倍首相のイスラム国問題への対応を批判した後、「オフレコ懇談」で「俺なら放送法に違反してると言ってやるところだけど」と放送法を使って恫喝をかけている。

 また、放送中、菅官房長官の秘書官から『報ステ』の編集長あてに「古賀は万死に価する」という内容のショートメールが送りつけられてきたことも明らかになっている。

 ところが、新聞・テレビはこうした圧力の明確な証拠があるにもかかわらず、一切報じようとしないのだ。

「各社ともそのときのオフレコメモはもっているんですが、官邸と癒着する政治部が絶対に記事にさせないんです。だから、当たり障りのない批判を書いてお茶を濁している」(全国紙社会部記者)

 それでも、新聞は社説として主張を掲載するだけ、まだましかもしれない。最も直接的な当事者であるはずのテレビは、自ら論評することなく、事実と野党である民主党議員や学者のコメントをアリバイ的に垂れ流すのみだ。

 特に呼び出された当の『報道ステーション』の惨状は目を覆うばかりだ。各社が事情聴取について報じるなか、この問題にようやく触れたのは事情聴取の当日。しかも民主党の細野豪志政調会長のコメントを紹介しただけで、司会の古舘伊知郎にいたっては「視聴者にまっすぐ向いてニュースを伝える」と腰砕けぶりを見せつけるしまつだった。
  
  メディアだけではない。比較的、リベラルだと思われていたジャーナリストや評論家も同様だ。例えばジャーナリストの江川紹子は局側から制約を受けたことがないとして、古賀をこう批判している。

「公共の電波で自分の見解を伝えるという貴重な機会を、個人的な恨みの吐露に使っている」

衆院議員でジャーナリストでもある有田芳生もいち早く江川に賛同するかたちで違和感を表明。また経済評論家の森永卓郎も「古賀さんは番組を壊してしまった」と批判し、社会学者の古市憲寿は「僕の知ってる限りでは(圧力は)ない」として「古賀さん自体は勝手なこと言ってるだけだと思うんですね」と断じた。『モーニングバード』(テレビ朝日系)のコメンテーターなどをつとめながら、反権力的姿勢をつらぬいているジャーナリストの青木理も「基本的に楽屋の話でしょう」と古賀批判を口にしている。

 繰り返すが、古賀が告発したのは『報ステ』への圧力であり、「個人的恨み」などではない。また、政権からの圧力は出演者に対して直接加えられるようなわかりやすいものでもない。彼らはこの騒動を古賀個人の問題に矮小化することで、結果的に政権による報道への圧力を正当化してしまっている。

 そんななか、ジャーナリストとしてもっともメジャーな存在である池上彰が誰よりも踏み込んで、政権与党を批判したというのは、さすがという他はないだろう。実際、今回に限らず、池上はこれまでも一貫して報道の自由を守るための主張を展開してきた。

 たとえば朝日新聞慰安婦報道に関しては、「週刊文春」(文藝春秋)14年9月25日号の連載コラムで、朝日バッシングに走るメディアをこう牽制した。

〈朝日の検証報道をめぐり、朝日を批判し、自社の新聞を購買するように勧誘する他社のチラシが大量に配布されています。これを見て、批判は正しい報道を求めるためなのか、それとも商売のためなのか、と新聞業界全体に失望する読者を生み出すことを懸念します。〉
  
  さらに、メディアは「売国」などという言葉を使うべきではない、「国益」にとらわれるべきではないとも主張した。

〈メディアが「国益」と言い始めたらおしまいだと思います。(略)私は、国益がどうこうと考えずに事実を伝えるべきで、結果的に国益も損ねることになったとすれば、その政権がおかしなことをやっていたに過ぎないと思います。〉(「世界」岩波書店/14年12月号)

 ほとんどのメディアが政権からの圧力を恐れ、批判を封印するなか、池上だけが正論を吐き続けているのだ。

 しかし、その池上は、もともと左翼でもなんでもないニュートラルな解説者だったはずだ。そんな池上がいつのまにか一番リベラルなポジションにいるという事実が、日本の言論状況の危うさを証明しているというべきだろう。
 (伊勢崎馨

 

 

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武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問 内田卓志 ( 質疑応答3、5回)

2015-04-29 | 恋知(哲学)

 以下は、内田卓志さんからのメールです。
 内田さんは、早稲田大学で哲学を専攻し、プラグマティズムを中心に研究し、「京都フォーラム」での発題者の一人でした。石橋湛山の研究家でもあります。

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   武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問       内田卓志

 

  もう武田先生と知り合って10 年以上になります。先生と私の出会いは、わたしが2000年12月に沖縄旅行で偶然にも出来たばかりの『白樺文学館』の小冊子(先生制作の豪華パンフレット)を手にしたことによりますね。実は、 それ以前の1990年に岩波の月刊誌『世界』に載った武田論文を読んでいて存じ上げていたのですが、その辺は、別途話すことにしまして・・・。 

 いつだったか、私の敬愛する哲学者の山脇直司先生は、武田哲学を称して、「エロースの哲学」と言っていましたね。武田先生に10年師事してきて、「そうなんだろうな」と思います。これから武田先生の哲学の芯についてせまりたいです。私がインタビューしますので、ご教示下さるようお願いします。いろいろ質問します。

 私は、武田哲学の柱には、哲学(恋知・愛知)とは何か、哲学的思考は、どのように行わるべきか、との問題意識と共に、哲学を現実の生活(世界)に活かす方法、哲学を役立てることについての、具体的な思索が常にあると思っています。それは別に、プラトンでもなければ、カントやヘーゲルでもない、ましてはハイデガーの哲学でもないでしょう。

 武田先生、それでは伺います。先生は、30年以上に渡り個人の<主観性>を強調されてきたと思います。そして、もう一つ大切な哲学的知としての<全体論>がありましたね。先生は、全体論について、以前たしか大工さんが家(建物)を建てるときの例?を使って説明されていましたね。これらのことから話題にしたいと思います。

 まず、全体論について、全体論は、哲学的には存在論の考え方として、<原子論>(アトミズム)に対して<全体論>(ホーリズム)として提出されることがあります。<主観性>は、当然に<客観性>に対する言葉で、主観性を「個」と考えれば、客観性を「全体」と考えられるし、「個人」にたいしては、「社会」との対比で論じることもできると思います。(実存に対しては、構造とか・・・)

 そこで質問です。私が思うには、先生の言われる<全体論>と<主観性>の関係です。普通に考えれば、全体論を強調するには、客観性を強調し、原子論を強調するには、主観性を強調するのが、すっきりと対応関係として考えられるのではないでしょうか?よく学校の先生から言われました。「物事を全体的・客観的に考えろ・・・・」と。

 この関係性について、どう考えればよいのでしょうか?哲学の考え方は、一般的に考えられているもの、言葉として一般的に使われている使い方とは違うのでしょうか?よろしくお願いします。

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  内田さん、よいご質問、とても感謝です。          武田康弘

 

   早速ですが、まずはじめに、
フィロソフィ(恋知)の土台とは、人生の意味や価値、生き方を考える営みですから、個別の学問(諸科学)とは異なり、部分を問題にするのではなく、全体を問題にします。生き方の部分とか専門というのは、ありえない話ですから。


個別学問(諸科学)は、対象を狭く限定することで、細かな観察や実験を可能とし、いわゆる「客観性」を獲得できるわけです。もちろん、何をどのよう認識するのかは、人間の欲望、関心や必要や目的という主観的な領域の問題です。

わたしは、木を詳しく観察するすることと、その木が生えている森全体を見ることはどちらも必要という考えですから、部分と全体の往復になります。

内田さんの言われるホーリズム(全体論と訳される)とは、現代哲学のクワインに端を発しますが、わたしは、それを主題化したのではなく、もっと広い意味(=日常言語の次元)で、部分と全体についてお話しています。

認識は、個別科学において客観性を目がけるという認識であれ、主観の欲望=関心・目的・必要により成立しますから、主観のありようを注視し自覚化することは、何より大切になるわけです。フィロソフィとは「主観性の知」です。

人間を惹きつける対象&惹きつける作用である「エロース」は、フィロソフィを成り立たせる動因であり、それなくしては、混沌と広がる世界を意味づける=秩序づけることはできませんので、エロースは、武田フィロソフィというより、古代アテネのソクラテス出自のフィロソフィそのものと言えます。

なお、「客観学」(知の手段)と「主観性の知」(知の目的)の日本における逆転については、参議院事務局から依頼された論文『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』に記しましたので、見てください。この知の逆立ちを自覚している人は、学者を含めてほとんどいませんが、ここに「日本人の根源的不幸」(外の価値に呪縛され内からの生がない)があります。
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm

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 全体論についての回答、ありがとうございました。続けて質問します。 内田卓志

 

 先生の考えている全体論は、哲学の使命に関わる根源的な点だと思います。私の質問の前提とした全体論は、哲学の領域に関しての問いでした。
 存在論・認識論・価値論のように・・・。先生の問題意識を承知したところで、さて個別科学は、論理的、実証的な系統立った説明が必要になります。
つまり科学性ということでしょう。その科学的な知のありようを客観性という人もいますね。

 それでは、主観性の知の哲学は、ある種の科学性(皆が了解できる地平)を担保しなくて良いかとの疑問が湧きます。主観と主観の衝突ばかりでは、
 何が真なのか、何が善なのか、何が美なのかが分からなくなります。つまり好き勝手に利己的に考えることも主観性の知になってしまうのか、との疑問です。

 そこを解決する考え方が、ギリシャ以来の、哲学の本質的な意味と考えてよいでしょうか。つまり哲学的な原理についての問題です。そのあたりについて、
お話し頂けないでしょうか?

 

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「ほんらいの哲学=恋知」の核心について                武田康弘

まず最初に、
諸科学の「客観的」認識と言わるれるものも、誰か個人の頭の中で得られるものですから、事実としては「主観」です。ただし、その認識内容が、その領域に携わる人々の共通了解になれば「客観的認識」と呼ばれることになるわけです。

というわけで、主観と客観とは並立して対立する概念ではないのですが、言葉がつくりだすイメージが、「二項対立」を生み出します。要注意です。

では本題です。
フィロソフィ(直訳は「恋知」)は、主観の感情や想念ではなく、「主観性の知」ー「知」なのです。主観=私の直観や想いを絶対化するのとは対極にある営みです。

誰でも想いや直観から認識は始まるので、それは全く正当なのですが、そのはじめの直観を固定して絶対化するならば、自分勝手な思い込みに留まり、なんの普遍性もない「私的認識」に陥ります。

フィロソフィは、心身(五感)と頭(思考力)をフルに用いて「吟味」すること=疑い、試し、確かめる作業です。その自問自答を他者に示し、問答し、だんだんと普遍性の豊かな考えに鍛えていく営みですので、その限りでは個別科学と変わりません。それは、(1)宗教的信念のような絶対的「真理」ではなく、また、(2)みなが言うからという一般的「真理」でもなく、(3)腑に落ちる・深い納得という 普遍的「真理」を目がけるものですので、諸科学をその一部(手段)として含むのです。

ただし、諸科学は、認識対象を狭く限定することで細かな観察や実験が可能となり、質的相違を量的(数字)相違として表すことで、客観的と呼ばれる認識を得る努力をしますが、第一回目のご質問でお応えした通り、フィロソフイ―は全体的な見方や総合判断をしますので、頭の用い方が異なります。フィロソフイ は、諸科学における客観知を手段とする主観性の知であり、これが知の目的です。

人間の生の意味や価値を直接に問題とするのではなくとも、例えば、どのような家を建てるか、どのような音楽ホールをつくる か、それを思案するのは主観性の知であり、安全性という基本的要件のみならず、用途を満たす程度や、美しさの程度や、使い勝手の程度などが問題になりますが、それは客観知として測れるものではなく、全体知としての主観性の知による総合評価となります。

また、優れたセンス、企画立案能力、創意工夫や臨機応変の才、自由対話の力、作文力、問題発見と解決の能力、想像 力・・・・・・・などは、みな主観性の知であり、それらは受験知ーテスト知・客観知ではありません。繰り返しますが、人間の生きる意味や価値の問題を土台として持ち、含むこれらの主観性の知こそが知の目的であるわけです。そのことをわが日本人がほとんど自覚できていないのは、とても困った問題と言えます(東大病)。
わたしは、これに取り組んではや40年。時の経つのは早いもの、まだまだ頑張りますよ~~~~。全身 がだいぶボロくなっていますが(笑)。

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 なぜ主観性の知に無関心なのか          内田卓志

 

 続けて伺います。なぜそのような、想像力(構想力)の源泉ともいえる主観性の知について無関心なのでしょうか。それとも誤解しているのでしょうか。

 また、主観性を消去したほうが、誰かに都合がよいのでしょうか。かつては、お上、大日本帝国、今なら会社とか・・・・。

 私は武田先生とある高名な哲学者※との対話を隣で聴いたことが数回ありますが、このことを説得し理解してもらうのに、かなりの時間が掛かりましたね(その先生は、対話をはじめて二時間ほど経って、「武田哲学は、哲学の王道だ。」と言われていました)。

 デカルト以来の機械論的自然観批判、近代批判が哲学会でも流行ですので、主観性についての誤解は学者の間にも蔓延しているのかもしれません。

 私はデカルトやベーコンの機械論的自然観には与しませんが、近代の超克などは、たやすくできるものではないと思っています。後期ハイデガーは、ちょっと危険です。この話をすると長くなりそうなので、このあたりで武田先生にバトンタッチします。

(※ 山脇直司先生:ミュンヘン大学で哲学博士号、東京大学教授ー今は名誉教授。数年前に、武田先生と山脇先生との対話ー論争が幾度も行われた。)

 

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   「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ   武田康弘

 

 単に「学」の問題というのではなく、現代の人間の生き方・考え方の根源的大問題、それが、主観性の知こそが「知」の目的であり、読み書き計算にはじまる客観知(答えが決まっている知)は手段にすぎないことを知らないーその逆転に気付いていないことなのです。
  
  この逆立ち、価値転倒は、世界的な問題ですが、とりわけ日本は酷いと言えます。その原因は、幼いころから「想う→考える」という【対話による子育て】(表情やボディーランゲージの交感を含む)がなく、芸を仕込むようにして「読み書き」という技術を教え込むもうとする教育ならぬ強育が支配しているからでしょう。

    答えは決まっている=正解があるという思い込みは、日本の型の文化に、正解として輸入された近代欧米学問が接ぎ木されたことで、酷い歪みとなって、手段も目的も分からないままに「知」に接するという事態を招いている、というわけです。これは、小学校から大学院まで変わらずです。教える側も教わる側もこの逆転の事態を自覚していません。この問題を明瞭に述べたのは、おそらく公式には、参議院のわたしの論文がはじめてでしょう。

 キリスト教という唯一神への信仰がつくった「近代西ヨーロッパの学」は、ニュートンの力学・数学や宇宙論に至るまで神の偉大さを証明するためという宗教思想を背後に持ちますので、人間の主観を離れた「純粋な客観」(神がつくった完全な世界)があるという根深い(深層心理にまで入り込んでいる)思い込みから自由な人は、稀にしかいません。ここからの解放は、21世紀のいちばん重要な課題だとわたしは思っています。

 キリスト教文化圏※は、さすがに本家本元だけにこの弊害に気づくのも早いようで、オランダや北欧にフランス、それにイギリスのエリート族などの間では少し前から「正解」のない問い、フィロソフィの教育をはじめています(幼少期より)。絶対的な真理を求めるのではなく、普遍的な思考を鍛える教育です。いまだにテスト知のチャンピョン崇拝=東大信仰が揺るがない日本は、どんどん置いてけぼりですが、教育改革をするにも、政府関係者には、東大病の官僚と、アナクロニズムの国体思想のイカレタ学者しかいないのですからお手上げです。

(注)※なお、フィロソフィは、西洋ではなく、小アジア(いまのトルコ)で起こったもので、かつ一神教の思想ではない(紀元 後4世紀にキリスト教によりプラトンがつくったアカデメイアは廃校にされた)のですから、「西洋哲学」という言い方は、欧州 人の我田引水でしかありません。インドの釈迦(仏教)の思想と近親性をもちます。要注意です。

 なお、後期ハイデガーは、論外です。彼のように、詩的言語で語っても、それはフィロソフィにはなりません。詩作品として発表するなら分かりますが、それを哲学だと言うのでは、知的退廃というほかないでしょう。きちんと吟味、検討、批判のできない言葉の用い方は、論理ではありませんから。超論理(笑)。

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     主観性の知への無知   日本の教育の病=「東大病」      内田卓志

 

  実例を多く示していただきありがとうございます。本来眼目であるはずの、主観性の知を育て、鍛えるべきことは二の次、三の次にしておいて、客観知を中心とする技術知、パターン知のみに優れた人間を創ろうとする逆立ちした教育が、いまだに日本では主流と言うわけですね。その象徴こそが、東京大学を頂点とするヒエラルキーにあり、この国の病(東大病)だというのが先生の長年のご主張でした。

 

 私がスエーデンの教育について、聴き読んだところによると先生の言われる通りで、全く日本の学校の勉強の仕方と違います。まだ江戸時代の寺子屋のほうがスエーデンに近いです。(笑)私も大学で学んだ教育原理とやらを思い出し、敬愛するジョン・デューイの教育哲学を考えながら先生のお話伺いました。私は、25年以上ビジネスパースンをしていますので、学校教育の現場はほとんど存じ上げません。そこでもう少し先生に現場を踏まえた教育のことを話して頂き、そこから哲学の使命について話をつないでいきたいところです。

 

 

 

続く

 

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ディアべリ変奏曲 ポリーニの名盤を上回る名演奏。2才の孫が、ルイス盤に軍配!

2015-04-27 | 学芸

『ディアべリの主題による変奏曲』 名盤のポリーニを上回る名演奏が登場? 2才の孫が、ルイス盤に軍配!です。

晩年のベートーヴェンのイデーに感じ入り、それを体現していますが、同時にストレートな力に満ちた気持ちのよい名演奏、それがポール・ルイスのディアベリです。
50分を超す長大な曲ですが、もっと続いてほしいと思わせるすばらしい演奏。よい意味で男性的で変化に富み、ダイナミックで、かつ流麗です。

昨日、孫をクルマで遊びに連れていく途次、二つのディアベリを持っていきました。最初は名盤ポリーニをかけていましたが、反応なし。
帰り道はルイスの演奏に。なんと、バンバンと拍子をとり、大喜び、ルイスに軍配です(笑)


 

へんな話ですが、生きながら神話になったロックの神様のジェリー・リー・ルイス(必見、必ず痺れます)、同じルイス、なんだか共通性を感じます。ためらいのなさ、断固として揺るがないさま、ストレートな力。でも背後に優しさ・繊細さ、人間味。




武田康弘

 

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勉強してしよろこんでるなんて、あんたの塾おかしいんじゃない? ああ、日本人!

2015-04-26 | 教育

勉強してしよろこんでるなんて、あんたの塾おかしいんじゃない?

帰ると、元気になってる! 塾で遊んでるんじゃないの?

そんなに行くのが楽しいなんて、どうせ遊び塾なんでしょ!!

塾の帰りも疲れてない、笑ってる、そんな勉強しかしてないのに、今度の試験で学年9番、おかしい!うちの子はカンニングしていると思う、と言いに来たお父さん(日航のパイロット)もいました。

勉強は辛くて苦しいもの、いやなことに耐えるのが勉強、よろこぶなんて不真面目の証拠!!

まだまだ、日本という国と、日本人は、超がつくほど遅れてますですね~~~~~。いつまで続くのでしょうか、「幸福をつくらない日本というシステム」。

電車の中もどこも「生きるよろこび」なんて顔はなし、ふ~~~~~~。あるのは紋切型の外面笑顔だけ~~~~~。

フィロソフィ=恋知の営みが大切です。のびのび楽しく、イキイキ自由に、堂々と囚われなく、「私」として生きるには。   

なんのために生きてるの? 

 

 武田康弘 白樺教育館・ソクラテス教室

 

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ウィーンフィルチケット 2015年10月4日、6日、8日 今日の先行発売は完売ですので、5月17日に。

2015-04-25 | 芸術

ウィーンフィルチケット、今日から、サントリーホール会員の先行発売。
でも、3日間の最後、10月8日のモーツァルト39、40、41は買えず~~~、朝いちばんで申し込めばよかった!(悔)。
初日の10月4日のチケット、A席のみわずかに残ありで、いま購入。ハイドンの92番『オックスフォード』 モーツァルトの協奏交響曲 ベートーヴェンの1番の3曲です。これも素晴らしいプログラム!
ウィーンフィルの人気は今も昔も。唯一無二の弦の音、痺れます。


一般発売は、5月17日(日)午前10時からですので、10時にチケットぴあ または、ローソンチケットに行けば、その分の座席があり、買えるかと思います。

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アテフ・ハリムの「ブラームス・ヴァイオリンソナタ」ー聴いたことのない豊かな愛に感動!

2015-04-19 | 芸術

アテフ・ハリム(ヴァイオリン)& パスカル・ジロー(ピアノ)
ブラームス・ヴァイオリンソナタ全集」(2004年8月フランス、スタジオ録音)

 
(クリックで拡大)

事前勉強や知識は必要なし、

楽譜も何もいらない、翻訳なしに、ダイレクトに心に響き溢れます。

愛に満ちた豊かな音が部屋を満たします。

従来のクラシックとは違うのです。でも、ポピュラー音楽ではないし、もちろん、ジャズでもロックでもないのですが、ジャンルを超えた音楽!ジャンルを超えたブラームス?なんと言うのか、情熱や愛が、そのまま音・音楽になっているという感じで驚きです。

 
「こんなヴァイオリンの音、聴いたことない!どうしてこういう音がするの?素晴らしいわ。」「早く、コンサートに行きたい!」
とは、かみさんの弁。

 
わたしが聴いてきた名演奏、クレーメルとアファナシエフ(87年)や、デュメイとピリス(92年)のブラームスもそれぞれに素晴らしいのですが、ブラームスのソナタを繰り返し聴きたくなり、二日で三度も聴いたという経験は始めてのこと。ほんとうに温かい、熱いというほどに温かい。上質さと親しみが同居している。

音楽への愛、
ヴァイオリンへの愛、
ブラームスへの愛、
なによりも人間への愛・命への愛に満ちている。
なんという幸せな音楽なのだろうか!

 
6月28日(日)、東京文化会館小ホールでの演奏会、わたしも待ち遠しい~~~~
まだチケットはあるようですので、皆さまもぜひどうぞ。全席4500円です。



武田康弘

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白樺教育館 の大学クラス で 『ソクラテス以前以後』(コーンフォード著 岩波文庫)を始めました。

2015-04-19 | 教育

白樺教育館のソクラテス教室「大学クラス」(高校1年生~社会人)では、

サルトル哲学序説=実存的精神分析・実存的倫理(共に浄化的反省を方法とする)を終え、

今日から、古典的名著=戦前のイギリス、ケンブリッジ大学での講義をまとめた『ソクラテス以前以後』(岩波文庫・コーンフォード著1995年刊)をはじめました。

わたしが音読しながら、解説し、不足を補い、欧州人ゆえの歪みを直しながらの学習です。参加されたい方は、ご遠慮なくお申し出ください。

ただし、授業の内容は、多岐にわたり、雑談や音楽鑑賞も。本をやるのは90分ほど、残りの120分ほどはいろいろ。


ーーー集合写真(古林さんと中野夫妻はおやすみでした)ーーー

 

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アイ アム ノット アベ は、一人の人間として生きる日本市民の合言葉です。

2015-04-18 | 学芸

昨日のニュース(この下)にも端的に表れているように、
安倍自民党の横暴ぶりは目に余りますが、それに対して何も言わない人がいますが、それで市民=社会人と言えるのでしょうか?

それともドレイ根性が身に付いて、どうしようもないのでしょうか。

そんな人生で、恥かしくないのでしょうか?

わが日本人にはそういうテイタラクな人が多いので、戦前の大政翼賛会になったのでしょうが、いまは、学校で天皇現人神という教育も、警察官による暴行や憲兵による殺しもないのですから、余計に不健全な人間性が露呈します。

自立心と健全なプライドのある【人間】として生きましょうよ!!!ぜひ。

アイ アム ノット アベ は、一人の人間として生きる日本市民の合言葉です。

 

  武田康弘



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市民vs自民党 テレビ局に圧力とは異例・異常、本性を露わにした安倍政権の狂気性。

2015-04-17 | 社会批評

以下のニュースは、

自民党という政党が「戦前の思想と体制」=戦前レジームをひきずる非民主的な存在であることを端的にあらわしています。

ここまでくると、シチズンシップをもつ自立する個人のというほかないでしょう。

異論をもつ者と「対立」するのではなく、国家権力をちらつかせて「否定」しにかかるというのは、公共悪と断ずるほかありません。

安倍政権を批判しな人は、健全な市民とは言えないでしょう。民主政の原理に反する政治に従うのは、市民として失格です。

   武田康弘 元 参議院行政監視委員会調査室客員調査員(哲学講師)

 

 

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150417-00000539-fnn-pol

自民党、テレ朝「報道ステ」をBPOに申し立て審理求める考え

フジテレビ系(FNN) 4月17日(金)18時59分配信

17日午前、厳しい表情で自民党本部を訪れたのは、NHKの堂元 光副会長と、テレビ朝日の福田俊男専務。
自民党は、報道番組の内容に問題があったとして、党の情報通信戦略調査会に、NHKとテレビ朝日の幹部を呼び、事情を聴いた。
情報通信戦略調査会で川崎二郎会長は「2つの案件とも、真実が曲げられた放送がされた疑いがある」と述べた。
聴取の対象は、NHK「クローズアップ現代」でやらせがあったと指摘されている問題と、テレビ朝日「報道ステーション」で3月末、コメンテーターの古賀茂明氏が、番組降板をめぐり、「官邸からバッシングを受けてきた」」などと発言した件。
終了後、テレビ朝日の福田専務は「(どのような話を?)当時のいきさつ、コメンテーターの位置づけなどについて、お話させていただいた」と語った。
政権与党が、個別のテレビ番組の放送内容について説明を求めるのは異例のこと。
「報道ステーション」で官邸からの圧力を訴えた古賀氏は16日、日本外国特派員協会で会見し、聴取は放送法違反だと批判した。
この会見で司会をしたアメリカの経済誌「フォーブス」のジェームズ・シムズ記者は「異例という感じがしますね。アメリカではあまり聞いたことがない。政権与党が、いちいち細かいところに、『ああだ、こうだ』っていうのは不思議です」と指摘した。
テレビの政治報道をめぐっては、2014年11月、TBSの「NEWS23」に生出演した安倍首相が、VTRで流れたアベノミクスに関する街の声について、「選んでいると思う」と指摘し、意図的に編集されているとの認識をほのめかした。
その直後、自民党は、衆議院解散の前日に、民放テレビ各局に、選挙報道の公平中立・公正の確保を求める文書を送り、さらに「報道ステーション」に対しては、個別に番組内容を批判したうえで、公平な報道を求める文書を送付した。
メディア論を専門とする上智大学の音 好宏教授は「特定の番組について、事情を聴くこと自体が、1つのプレッシャーになるのは間違いない。(メディアが)萎縮してしまう。批判、または検証を緩めてしまうことになる危険性がある」と語った。
自民党は今後も調査を継続する意向で、党幹部は、テレビ朝日の「報道ステーション」を、BPO(放送倫理・番組向上機構)に申し立てて、審理を求める考えを明らかにした。
BPOは、問題があると指摘された番組・放送を検証する、NHKと民放連によって設置された第3者機関。
しかし一方で、そのBPOについて、今回、調査に携わっている自民党の議員は、「BPOは全然透明性がない」と指摘していて、BPOのあり方を問うことが狙いだというふうにほのめかしている。

最終更新:4月17日(金)18時59分

 

 

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6月28日、平和を祈る愛と情熱の天才ヴァイオリニスト アテフ・ハリムさんのコンサートへ。

2015-04-15 | 芸術

6月28日(日)、わたしは、平和を祈る愛と情熱のハリムさんのコンサートhttps://www.facebook.com/events/508832095922771/へ行きます。みなさまもぜひ。
天才ヴィオリニストの感動的な人生と行為は、ホームページをご覧ください。
【HP】http://atefhalim.com/

ハリムさんの略歴です。

エジプト人の父とフランス人の母の間にカイロで生まれ、5才でヴァイオリンを始める。9才で旧カイロオペラハウス(1869年に建てられ、翌々年ヴェルディのアイーダが初演された劇場)の舞台に出演し、以後プロとしてのキャリアを始める。13才で単身パリに渡りルネ・ベネデティに師事。その後、レオニード・コーガン、ヤシャ・ハイフェッツ、ユーディ・メニューイン等に師事する。

パリ音楽院卒業後、フランス国立管弦楽団入団。若くしてコンサートマスターを務めるが、シェリングと劇的な出会いから職を辞し、彼の元で4年間内弟子として研鑽を積みソロデビュー。バロックからコンテンポラリーまで幅広いレパートリーを持ち、マズア、マゼール、ベーム、バーンスタイン等有名指揮者の元での演奏、優れた演奏家達と共演を重ねている。

仏ル・モンド誌等で最優秀賞『四つ星』を受賞、<最も知的で輝かしい音楽家>と賞賛される。
1993年日本での演奏活動開始。全国でのリサイタルの他、“エンジョイ!ベートーヴェン”シリーズ、“ブラームスはお好き?”全国ツアー、“ゴールデンバロック”、“フランスの香り”をはじめ、タンゴとの競演、ミャンマーやカンボジア支援・がんの子供の為のチャリティコンサート、赤ちゃんと寄り添って聴くコンサート、銭湯コンサート、廃校になった小学校体育館でのコンサートなど意欲的な活動を展開。国内外のオーケストラとの共演も多数。

日本でも7枚のCDをリリースしその張りのある表情豊かな歌いぶりは「徹底的に独自のスタイルを磨き上げ、誰も真似のできない世界を作り上げた」と高く評価される。フランス・イギリス・エジプト・台湾等、日本を拠点に各国で活躍している。

「音楽こそ、すべての人が分かりあえる唯一の言葉、そして平和につながる確かな希望」という信念のもと情熱的な心で、音楽の「希望」を伝え続けている。【HP】http://atefhalim.com/

 

武田康弘

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大野和士指揮 東京都交響楽団 ベルリオーズ 「レクイエム」 演奏評

2015-04-13 | 芸術

(クリックで拡大)

演奏評

絶え入るような美しさ、は、なし。
ベルリオーズの精妙で霊感に満ちた世界は、なし、でした。

迫力を望むのは、基礎体力のなさを悲しくなるほどに露わにする都響ではとても無理。弱々しい。

海外から来日するオケと比べてはいけないと思いつつ、つい愚痴ってしまいます。

一人ひとりが、心肺機能の強化や筋トレをして身体から鍛え直さないと、欧米の音楽の魅力はとても開示できない、という大昔からのわたしの思いをまた繰り返す感想になってしまいます。真によい=魅力ある音楽をしたいという「欲望」があるなら、チャレンジですよ。音楽は、心身全体でつくり奏でるもの。アクションも小さすぎで、心の弱さがあらわれていました。
合唱も人数ばかり多くて迫力がないー表出力が弱いので、小さな声としか聞こえないのです。合唱者がラテン語の発音に自信がないためか細かな点が気にかかり、腹から→額の中央から声のエネルギーを放出できません。オケと共に「個人」としての強さがないのは、日本人に共通する問題です。

Sanctusでテノールのスミスの独唱が入ると俄然「色」が出ました。やはり、優れた外国人の助っ人が必要です。鈴木雅明・バッハコレギウムジャパンも同じで、昨年12月の「メサイア」全曲でも、優秀なテノール(ダニエルズ)とバス(ウィリアムズ)、彼ら外国人のクリアーで強い表出力があって演奏が成立していました。今回も同じ。

今日は、難曲・大曲に挑んだ点のみ評価します。
でも、もう、40年も昔、ここ文化会館で日本フィル解散時、小澤征爾が挑んだベルリオーズ「テ・デウム」は、感動的なものでした。日本人でも出来るはずです。


武田康弘
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ビックリ! 明日の都響、大野和士指揮のベルリオーズ「レクイエム」、いま、完売! (追記ー演奏評)

2015-04-11 | 芸術
 

ウソ~~、ビックリ!!
わたしは、高校生のころよりのベルリオーズファンですので、あと2、3年で半世紀!

明日、都響(東京都交響楽団)が大野和士の指揮で、『レクイエム』をやるので聴きに行こうと思っていました。昔(大昔)学生の時に、都響の定期会員で毎月聴きにいっていましたので(安くていつも空いているので、一番よい席で聴ける)、チケットは当日買えばいい、と思っていました。

でも、念のためと思い、いま、東京文化会館に電話したのですが、驚くことに、席は最後の1枚!!わたしがそのS席を買ったので、完売!!!うそ~~~でしょ。
ほんとにビックリ、いつもガラガラだったのに~~
 
レクイエムは、「敬虔なクリスチャン」とは程遠いベルリオーズが、自身の想像力のために書いた曲ですが、自伝で、最高の作品と言っています。わたしは、長いこと、ミンシュ(二種類)やデイヴィス(二種類)や小澤などのLPやCDを聴き、この曲がベルリオーズの一番だとは承認していませんでしたが(笑)、1994年2月14日のドレスデンでのライブ(デイヴィス指揮ドレスデンシュターツカペレ、ドレスデン国立歌劇場合唱団など)をCDで聴き、はじめてこの曲の真価を認識したのでした。

明日が楽しみと同時に、演奏が難しい曲だからな、という不安もあります。ドキドキです。




最高の「レクイエム」(クリックで拡大)

追記
演奏評

絶え入るような美しさ、は、なし。
ベルリオーズの精妙で霊感に満ちた世界は、なし、でした。

迫力を望むのは、基礎体力のなさを悲しくなるほどに露わにする都響ではとても無理。弱弱しい。

海外から来日するオケと比べてはいけないと思いつつ、つい愚痴ってしまいます。

一人ひとりが、心肺機能の強化や筋トレをして身体から鍛え直さないと、欧米の音楽の魅力はとても開示できない、という大昔からのわたしの思いをまた繰り返す感想になってしまいます。真によい=魅力ある音楽をしたいという「欲望」があるなら、チャレンジですよ。音楽は、心身全体でつくり奏でるもの。アクションも小さすぎで、心の弱さがあらわれていました。合唱も人数ばかり多くて迫力がないー表出力が弱いので、小さな声としか聞こえないのです。

Sanctusでテノールのスミスの独唱が入ると俄然「色」が出ました。やはり、優れた外国人の助っ人が必要です。鈴木雅明・バッハコレギウムも同じで、昨年12月の「メサイア」全曲でも、優秀なテノール(ダニエルズ)とバス(ウィリアムズ)、彼ら外国人のクリアーで強い表出力があって演奏が成立していました。今回も同じ。

今日は、難曲・大曲に挑んだ点のみ評価します。
でも、もう、40年も昔、ここ文化会館で日本フィル解散時、小澤征爾が挑んだベルリオーズ「テ・デウム」は、感動的なものでした。日本人でも出来るはずです。


武田康弘

追記
音楽には関係ないのですが、小泉元首相が来ていたのには驚きました。よりにより、ベルリオーズのレクイエムとは。



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昨日の「恋知の会」ーー実存であることの意識化こそがフィロソフィ(恋知)。

2015-04-09 | 恋知(哲学)

昨日の「恋知の会」

「実存」という考え方こそがほんらいのフィロソフィであること、

私の生き方=価値意識のありようを繰り返しとらえ返す営みがフィロソフィであり、

「私」は、社会や政治に還元されないから「人間」であり、
逆に、社会的フィロソフィとは、「私」が「私的生活」に閉じ込められてしまう不幸から脱出し、広く社会・国・政治全体を「私」の ものにする面白い(自由と責任をもつ)営みであること。

そういう意味で、どこまでもフィロソフィは、実存(=誰もが平等で自由なただ一人のかけがえのない「私」であること)の 意識化のこと。

民主制と実存の原理のもと、みなが柔らかくつながれる市民社会をつく る実践を広げたいな~~~~~~というのが結論でした。



武田康弘

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直接民主政=住民参加の実践の我孫子市 元市長の福嶋裕彦が語る (東京新聞・一面)

2015-04-08 | 社会批評

昨日の「東京新聞」夕刊一面に、福嶋浩彦元我孫子市長。
直接民主的政治(住民参加)を進めたわが街・我孫子市の実践を紹介しています。ぜひ、ご覧ください。

我孫子市は、柳宗悦の叔父の嘉納治五郎(講道館創設者で学習院など各地の学校の校長)の影響で集まった、個人=個性尊重の「白樺派」(柳宗悦、兼子。志賀直哉。武者小路実篤。バーナードリーチ)のコロニーでしたが、同じ嘉納治五郎を慕う古代ギリシャ史を中心とする西洋史家の村川堅固もまた我孫子に別荘を構え(今は市が保存し、市民が管理)、直接民主政の古代アテネに着目したのでした。息子の堅太郎(共に東大教授)は、著書の岩波文庫冒頭で、古代ギリシャの試行錯誤を、現代の市民自治=直接民主政の課題に生かす必要を強調しています。

武田康弘

 

 

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閉じた生き方をする日本人がもつ異常性ーー凄まじい個人攻撃(例・小保方晴子・小沢一郎)

2015-04-06 | 社会批評

自己を解放せず、閉じた生き方をするわが日本人は、
特定の個人に対する異様・異常な攻撃性をもち、激しいバッシングをします。
ふだんの抑圧された心身が、溜まったストレスを発散するかのように、特定の個人への執拗なイジメをする。ほんとに質が悪い。

いままで数知れずですが、最近の一例では、冷静な口調で「悪」を叩くという風にして小保方晴子研究員への個人攻撃はすごいものですし、しばらく前まで、小沢一郎さんへの攻撃は、全マスコミが一致団結して徹底的でした。裁判で小沢氏の無罪が確定しても名誉回復も行わずに知らん顔ですが、海外の識者(オランダのウォルフレン氏など)は、これほどまでに執拗な個人攻撃(人物破壊)の例は世界のどこにもない、と言います。

個人に対しては、執拗なまでのイジメを「冷静」に行うわが日本人は、
右派の思想(戦前思想=国体思想)に基づき国家権力を行使する首相や官僚たち公人対しては、呆れるほどにあまく、というか、追及しなければならぬのになにもしない、というテイタラクです。

狂気の対米戦争の開戦決定者もいつのまにか許して戦後は再び総理大臣とし、天皇・裕仁の戦争責任さえもうやむやにして平然。日本主義者(国体主義者)の公人たちへの責任追及はほどほどでお茶を濁し、その分、一個人には、異様なまでの責任追及をする。シニカルな「日本教」の恐ろしさ。

どこからどう見ても、おかしいですね。みんな冷たいヒステリー?、真面目な顔して固い表情の人ほど底意地が悪く、自分の人間としての異常性に、しれ~、と知らん顔。いつまでもこれじゃ、どうしようもありませんね。気付いて、治せ~~~~~~~~~~!!

武田康弘

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