もし、哲学する(白紙の目で、日々の経験を踏まえ、自分の頭で考える)ことが、
西洋哲学の書物の読解か、あるいは中国やインドの古典を読むことであるならば、ほとんど全ての人にとって「哲学する」というのは、縁のない話です。
しかし、ほんらいの哲学するという営みは、幼い子ほどよくしていることで、「なぜ?」「どうして?」と問い、考えることです。生き生きとした知的興味の世界です。初源に戻り自分の頭で考える営みは、ただ覚える勉強とは次元を異にし、とても楽しいものです。本当は、どのような勉強や研究でも、一番大事なのは「考えること」にあるはずで、そうでなければ「覚える」ことは宙に浮いてしまい、「知」は根付く場所を失ってしまうのです。
したがって、哲学を「哲学史 内 哲学」というマニアックな世界から解き放ち、皆にとって有益で面白いものにすることは、21世紀の世界にとって極めて重要な課題であるはずです。
わたしは、シリーズ『公共哲学』全20巻(東大出版会)の最高責任者であり、日本・韓国・中国における公共哲学運動の牽引者である金泰昌(キム・テチャン)氏と、【哲学の民主化】のために、2007年に『哲学往復書簡』を36回交わしましたが、そのうちの30回分が、このたび東京大学出版会から刊行されました。
その本の題名は、『ともに公共哲学する』です。一般への販売は、8月1日からとなるようです。全体で400ページの大著ですが、そのうちの四分の一を金・武田の『哲学往復書簡』が占め、この本のメインとなっています。
他には、新聞ジャーナリスト、NPO主宰者らとの対話、人事院公務員研修所での金氏の講演と対話、国会所属の官僚・荒井達夫さんの問題提起と金氏の応答など、多彩な内容です。
大著で、装丁・紙質ともに上等なため、定価は3800円(税込で3990円)と高いのが困りものですが、8月以降に図書館でぜひお読みください。後からの加筆・訂正のない『オリジナルの金・武田の往復書書簡』については、すでに白樺教育館のホームページで公開されています。
その1(はじめに、1~23) その2(24-34)なお、最後の33と34の2回分は、未発表のものです。
蛇足ですが、わたしは、【哲学の民主化】のためには、『金・武田の往復書簡』の部分をブックレットにし、千円未満で出すべきだと考えています。なお、わたしは、「出来るだけ安く」に協力し、原稿料も印税も頂いていません。
『ともに公共哲学する』 金 泰昌(キム・テチャン)編著 東京大学出版会刊 定価3800円+税 2010年8月1日初版
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コメント
公共のために俗物的な学の権威を放棄した (荒井達夫)
2010-07-10 00:54:59
この本は本当に素晴らしいと思います。学の世界を越えて対話・討論し、異論・反論をそのまま掲載する。しかも、それを権威ある学術書として公刊するというのは、見たことがありません。日本の歴史上はじめてではないでしょうか。言論表現の自由も理解できない日本人公共哲学者には、到底できないことです。偉業というべきでしょう。公共のために俗物的な学の権威を放棄して実現した学術書であると言えるかもしれません。公共とは学者の頭の中にあるのではなく、普通の市民の頭の中にあるのです。金泰昌さんの常識外のご努力とご功績に深く敬意を表します。
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わたしも読みました (森田明彦)
2010-08-14 15:24:48
武田さま&荒井さま
森田明彦@子どもの権利活動家です。
ご無沙汰しておりますが、引き続き元気にご活躍のようでなによりです。
私は日本社会に「権利主体としての自己」という人間観を如何に定着させるか、ということをずっと考え実践してきた人間なのですが、その観点から武田さんがどのような「私」観を持っているのか、ぜひ、お聞きしたいと思いました。
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「私」の本質論 (タケセン=武田康弘)
2010-08-15 10:17:47
森田さん、コメント感謝。
わたしは、日々の具体的経験(純粋意識)を根付かせる場所が「私」(自我)だと捉えています。
「権利主体としての自己」の確立には、「責任を持つ私」を絶対要件とします。
では、【責任】はいかに自覚されるのかと言えば、幼いころからの【自由】の行使です。「私」が自由に考え自由に行為することがないと(親や教師の言うなりではなく)、責任といういう意識は生じません。「自由と責任」とはセットですが、それは並列にあるのではなく、まずはじめに「自由な言動」の行使がないと「責任をもつ」という意識・態度は生まれようがありません。
こども(人間)を「責任をもつ私」へと成長させるためには、受験知は何の役にも立ちません。こども(人間)が「権利を行使する」という経験を積むことが、社会人・公共人 イコール 「責任をもつ私」をつくる唯一の方法です。
以上、わたしの簡潔なお応えですが、
森田さんはどのようにお考えでしょうか?
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日本の「私」 (森田明彦)
2010-08-24 08:28:47 ]
お返事が遅くなり失礼しました。
明快な回答をいただき、ありがとうございます。
子ども達を育てる方針としては、まったく異存はありあせん。
しかし、問題は階層的意識を個人の心の深層まで貫徹しようとする、この社会の伝統的な社会意識・社会構造にあるように思います。
しかも、私の見るところ、この社会意識は社会を安全で機能的に運営する上では意外に有効です。
だからこそ、多くの日本人は「言挙げ」することを嫌い、自己主張の強い人間を排除しようとするのだと思います。
そこを超える、日本的自己の構想が必要ではないか、と私には思えます。
ちなみに、社会意識・社会構造とは、私の場合は、その社会の構成員の多くが無意識ないし意識的に持っている「社会とはこういうものだ」という共通理解のようなもので、その社会を成り立たせている「この社会のあり方は正しいのだ」という正統性の感覚を伴ったものです。
社会像と言ってもよいと思います。
社会像はそれぞれの特有の人間観を伴っていると思います。
日本の社会像とか人間観は本来の国民主権、民主主義が想定する社会像、人間観ではないと私は思っています。
しかし、日本人はたいへん器用に、この社会像、人間観を根本的に変えることなく、近代化に成功し、戦後の経済復興に成功し、そして1990年代に入って、とうとう原理的に行き詰ってしまったということなのではないか、と思っています。
要するに、共産主義体制が最終的に崩壊したように、日本の社会を支えてきた原理もとうとう機能不全を起こしたのではないか、ということです。
そして、私の問題意識は、そういう日本社会が武田さんの目指される「ほんとうの民主主義社会」に脱皮するために必要とされている社会像、人間観の変容はどうしたら可能で、そもそも、そのような社会像、人間観はどのようなものなのだろうか?ということなのです。
武田さんはどうお考えになりますか?
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全身で対話する習慣を。 (タケセン=武田康弘)
2010-08-26 00:12:48
森田さん
わたしは、身振り言語を大いに含めての対話を意識的に行う努力が何よりも大切だと思い、長年実践してきました。その行為がいろいろな分野に波及して、成果をあげてきたわけです。
裸で本音で語り合う習慣、その面白さを体験できる場を身近なところにつくることが必要で、それが広がると、日本人の旧い人間観や社会観は自ずと変わっていくはずです。
その営みを、日本の風土・文化の中で行うことで「日本的自己」は、結果として生まれるのでしょう。日本的、は、目がけるものではない、というより目がけてはいけないと思っています。予めそれを意識すると矮小な世界に陥るからです。
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心とアタマで対話する習慣 (森田明彦)
2010-08-27 15:06:37
武田さま
森田明彦です。
実践論とはしては、私もまったく同感です。
ただ、日本人がどのような社会を目指し、どのような人間を育てたいと考えているのかは、やはり世界に通用する言葉で伝える必要があると思います。
そして、その際には当然、自分達がどのような歴史認識を持っているかもはっきりさせる必要があると思うのです。
もちろん、その歴史観は日本社会だけで通用する一国史観であってはならないと思います。
要するに、もし日本人が人間の基本的平等を信じ、主権者としての自覚を持つ権利の主体としての自己(市民)となっていくのであれば、それは過去の反省と新しい社会原理の(公共的な)承認を伴う歴史観を必要とすると思うわけです。
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セットの廃棄が基本条件 (タケセン)
2010-08-27 22:17:54
わたしは、先に記した「実践論」こそが基底的であり、かつ価値として上位にあるという明晰な認識をもたないと、理論は古い型から出られず、結局は「理論信仰」に陥る悲喜劇しか招かないと確信しています。おそらく森田さんと考えは近いとだろうと思います。
また、日本人は、キリスト教という強い一神教を持たないために、かえって社会契約論に基づく民主主義をより徹底して行える可能性をもつと見ています。ただし、その可能性を現実にもたらすには、明治政府がつくった国体思想(近代天皇制)を根元から断ち切る知的作業が必要ですし、同時に、民主的倫理の実践が不可欠のはずです。わたしが「靖国思想―近代天皇制・官僚主義―東大病」はセットであることを強調するのは、民主主義の現実化のためには、そのセットを廃棄することが絶対条だと考えるからです。アジアの国や世界の国と共有できる歴史認識をつくるためにもそれは不可避の作業のはず。