染谷裕太君は、中学1年生から大学卒業まで10年間、ソクラテス教室(白樺教育館)に通い続け、卒業後は自転車のプロとし充実した日々を送ってきましたが、ついに念願の世界一周旅行に出発しました。自転車で3年をかけ、心身全体で世界を味わい知りたいとの思いからですが、出発の直前に白樺教育館で「送る会」をしました。
染谷裕太君は、中学1年生から大学卒業まで10年間、ソクラテス教室(白樺教育館)に通い続け、卒業後は自転車のプロとし充実した日々を送ってきましたが、ついに念願の世界一周旅行に出発しました。自転車で3年をかけ、心身全体で世界を味わい知りたいとの思いからですが、出発の直前に白樺教育館で「送る会」をしました。
パターン知にすぎない紋切型の優等生集団=東大法学部の権威に依拠する官僚主義と一体化したわが国の自民党一党独裁政治は、永久に続くかとも思われましたが、小沢一郎氏を核とした民主党は「生活が第一」という思想に基づき、戦後はじめて選挙による政権交代の偉業をなしとげました。どなたも御存じの通りです。
ところが、官僚主義の元を断とうとする小沢氏を核とした政治活動が支持を集め政権交代が現実味を帯びてくると、検察庁は小沢氏の政治生命を断つための策謀を開始しました。これは、日本を官僚が支配する「官治主義」を守るための官僚の集合意識(無意識を含む)に基づく行為で、極めて根の深い「病気」が成せる業ですが、それを生むのは、彼ら自身も気付かぬ「客観知」(客観神話)という暗黙の想念なのです。これについては、3年前に参議院調査室から依頼された論文『キャリアシステムを支える歪んだ想念』に記しましたので、ここでは繰り返しません。
検察庁の行為がいかにデタラメで恐ろしいものであるかは、特捜部の前田元検事の証言にもありますが、23年間の勤務で検察内部の事情に精通している郷原信郎さん(東大の数学科を卒業した後に司法試験に合格し請われて検察庁に勤務)が『検察が危ない』に明瞭に記しています。郷原さんは、検察作成のストーリーに基づく小沢氏周辺への締め付けが開始された時点で、すでにテレビ出演して明瞭に検察批判を展開していました。彼は政治的には「反小沢」系の議員と親しい人でしたので、その発言は「色」が着いたものではなく、検察庁の策謀については、国会議員の多くは当然承知していました。
にも関わらず、民主党の国会議員は、思想でも選挙でも一番多くの恩がある小沢氏の周辺に検察の魔の手が伸びると、手のひらを返したように「反小沢」となり、見事なまでに彼を裏切りました。海外からの公平な目の代表であるウォルフレン氏もこの日本人の行為には呆れ果て警句を発しましたが、聞く耳持たずでした。
このような民主党議員の小心とエゴイズムによる裏切り行為がなければ、検察庁の策謀を契機にして(危機をチャンスにして)主権在民に基づく「民治主義」の新政権 VS 政治を官僚が主導する「官治主義」に基づく旧政権、言い換えれば、【主権在民 VS 主権在官】の闘いが分かりやすいカタチで始まり、日本の根本的な社会改革が始まったはずなのです。市民革命にも匹敵する大改革が。
きょう、財務省の思惑通りに消費税の増税が決まりましたが、日本の消費税という税金がインチキな間接税であることに対しては、いまだにあまり知られていません。今朝の東京新聞26面にはそのカラクリについて簡明に記されていましたが、この件についてはまた後で書きましょう。いまは、騙しのプロである財務省の罪は極めて重いとだけ言っておきます。
武田康弘
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コメントを受けての 発展的説明です。
指揮権発動 (平源太)
小川敏夫前法務大臣の指揮権発動に関する報道がありましたが、これも裏にはこういった問題があるのでしょうか。
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その通りです。根源的な変革が必要ですね。 (武田康弘)
その通りです。
法務省の全体、課長級以上は大多数が検察官です。法務行政は、大臣でもどうにもなりません。「刺し違える」他ないのですが、総理もその覚悟をしないとダメです。ただし、「官」の方は匿名ですから、なんとも不利な話で、わが国は完全に官僚が支配する国といえます。
誰であれ政治家は手出しができません。剛腕の小沢氏はそれを合法的に「変革」しようとしたのですが、合法的に葬られたのです。合法か違法かを決めるのは官僚の方(この場合は検察庁幹部)なのですからたまりません。
主権者としての市民が政治を行う【民治主義】への転換が必要ですが、そのためには教育(幼いころからのから「聞き・話し・考える」哲学教育)が必要ですし、「考え・対話し・決める」実践が必要です。現在までのところその方向とは逆の教育(東大病という病)が徹底していますので、変革はたいへんです。わが日本人は個別の事実学を行うだけで、本質学・意味論的探求がありません。それを変えるのがわたしの仕事と活動で、すでに36年が過ぎ37年目にはいりました。
魅力ある豊かな人間性を生むために、共に!
「 戦後間もなくのころ、1947年に民芸館への皇族の訪問が二度あった。10月3日には昭和天皇と皇后が、12月10日には皇太后である。
柳宗悦は、皇族の訪問に先立ち、宮内庁から宮中で説明するように求められたが、民芸館の説明ならこちらに来られた時にやればよいと断り、近所の人達が並んで出迎えようとするのも嫌がった。
自分は学習院出だから、皇室の人に対するエチケットとか言葉は知っているからそれを遣うけれど、特別扱いはしない(『工芸』119号)と。
宗悦の権力に媚びない態度は、そっくり兼子にも当てはまる。天皇・皇后来館の時、兼子はもてなしの料理に精を込めた。しかし、二人は一口も食べることなく、結局は無駄骨折りとなった。皇太后来館の時はトイレ持参だった。兼子はそのことを後々まで揶揄(やゆ)まじりの語り草にしていた。
兼子も宗悦も招く招かれたの関係では、たとえそれが皇族であろうと、対等な個人である客として遇するのが当然だとする考えの持ち主である。だから皇族だからといって、特別な態度が許されるとは思っていないのだった。 」
以上は、楷書の絶唱『柳兼子伝』松橋桂子著 256ページ。(アマゾンでの購読はクリック)
皇族は、わたしやあなたの税金で養っています。プライベートな生活費は年間6億円。宮内庁の維持費などを合わせると年間170億円以上。
いうまでもなく、主権(国の最高の力)は、わたしたち一人ひとりにあります。したがって、『日本国憲法』の第1条では、象徴という天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く、とされ、「主権者の総意」を条件としているのです。
これは、わたしが言うまでもないことで、日本人であれば、この簡明な事実を踏まえて行動するのが当然です。わたしは、「対等な個人として遇する」という柳宗悦と兼子の正しい態度を見習いたいと思います。
武田康弘
「自我」が強いと、必ず自他を不幸にします。
求められるのは、「意識」の強さです。
人間の精神は二重化されていて、当の対象そのものに向かう「意識」(純粋意識)と、それを意識する「自我」の二つの領域が同時に存在します。
おれは太郎だ、という自我は、必要最低限あれば十分ですが、この自我に囚われ、拘る人は、自他を共に不幸にする人といえます。上下意識と勝ち負け主義に支配される意識は、濁り、汚れ、歪んでいます。
他者から搾取したお金で贅沢を極める人生、配分せずに独り占めにして悦に入る人、そういう累積・過剰から生まれる世界や芸術は、わたしには唾棄すべきものと映ります。どこの国でも「王」だの「女王」だの「天皇」だのという極端な不平等が生む文化や、また、かつての貴族や特権者らがつくる腐敗・爛熟は、人間性の豊かさとは無縁の虚妄でしかありません。
人間の生に健康なエロース、艶、魅力をうむのは、「意識」の力です。
意識の働きそれ自体、真っ直ぐに対象に向かう意識、純粋な思考の世界・・・・
意識の働きの強さと明晰さです。その内実が、豊かで深く大きいことです。
自我の濁りではなく、透明な意識です。
「自我を弱め、意識の強靭を目がける」それがわたしの信条です。
武田康弘
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以下は、facebookのコメントです。
奥の深い話 (川瀬優子)
2012-06-20 16:49:19
読めば読むほど奥の深い話です!!自分の考えを押し付けるのは自我?自分の考えをはっきりと持つのは意識の強さ?って解釈でいいですか!?う~ん、確かに相手の我欲に振り回されるって不幸です(泣)シェアしま~す♪
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武田 康弘
優子さん、コメントありがとう。
相手を、自分の思い考える通りにしようとするのは、自我(エゴ)。
分かりやすいのは、宗教の勧誘者や情報や思想をコントロールするスパイですが、ふつうの人も無自覚で同じことをしています。多くの親は子に自分の思いや考えを日常的に押しつけています。「あなたの為」、と言いながら。
また、哲学や思想も、定式化=固定化して他者批判するのは、典型的な自我(エゴ)のなせる技で、「自我拡張ゲーム」でしかありません。
ひとりの裸の個人・みなと対等な資格で、堂々と主張する、自分の考えを明瞭に述べるのは、自我(エゴ)ではなく、意識(純粋意識)です。それは、明瞭・分明に主張すればするほど、自他の役に立ち、状況をよくします。
人がよく生きるためには、純粋意識を深く強く豊かにしていく営為が何よりも大切です。それなくしては、意識存在である人間の人間としての幸福はないでしょう。
集団主義や国家主義は、意識を様式に従わせる暴挙ですが、それは、自我主義が集団化したもので、集団的自我主義、国家的自我主義と呼びます。
小沢氏間連の一連「事件」が、検察庁―検察特捜部のでっち上げ(賄賂の授受)であることが、一連の裁判や良心的なジャーナリストの努力とインターネットの力ではっきりし、次第に「権力」(官僚支配の永続化をもくろむ集合意識)による策謀であること、それに追随したマスコミがつくる虚像に過ぎないことか明白になってきた今、
今度は、週刊誌が、小沢氏の政治生命を断つべき、新たな人身攻撃を開始しました。どのような手段を使っても小沢氏の政治的力を奪うこと、その暗く醜い情熱(男のジェラシーは怖い!)には呆れてしまいます。政治とは何の関係もない夫婦問題を書きたてて、有力な政治家を消そうとするのは、わが国がいかに後進国であるかの証明です。
フランスなら、大統領候補がいなくなります(笑)国会議員も。
個人領域と公共領域の区別もできないのでしょうか。ほんとうにナサケナイ。
武田康弘
昨日の「愉しい哲学の会」の写真です。
昨日は、
1925年に軍人の田中義一(ロシア革命への干渉=シベリア出兵を敢行し陸軍大将となる)が首相となり、わが国が軍国路線を走りだした後の複雑な政治状況を後追いしました。
田中は、過激な関東軍による張作霖爆殺事件(1928年)への不快感をもった天皇裕仁の意思により辞任させられますが(これは、わが国が立憲君主国ではなく、君主たる天皇の意思が現実政治を動かす天皇主権国であった証)、
その天皇裕仁の言動の大きなブレ
1931年の関東軍による満鉄爆破(柳条湖事件)に始まる満州事変に対して最初は懸念を示していた天皇の裕仁は、
翌32年には「関東軍に賜りたる勅語」を出し、「皇軍の威武を中外に宣揚」したとして統率に服さなかった関東軍を褒めたのです。
この詔書は、ラジオや新聞を通じて国民に広く伝えられた為に、全国民の意識は、一挙に戦争肯定へとなびいていきました。
☆資料は、『昭和天皇』(原題=『HIROHITO』)ハーバート・ビックス著・講談社刊・2001年ピュリッツァー賞受賞本の上巻202~203ページ。
この後の内容を書くと大変ですので、カットしますが、
全体の資料は、集英社版『日本の歴史』19です。また、同時代の海外からの目としてトロツキー著『破局に向かって突進する日本・1933年』(新潮社)を紹介しましたが、その慧眼には、誰しもが唸らされました。わたしが19歳の時に購読した書ですが、今読み返しても唖然とするほどの鋭さと深さです。
なお、1930年代以降の日本の雰囲気=【皇族】の意向がいかに大きなものであったか、は、当時を知る参加者の清水光子さんが少し語られました。清水光子さんは、お父さまの仕事の関係で当時のありようをリアルに記憶していますので、毎回、貴重な「思い出」が聞けます。
その他には、
長坂寿久(ながさか・としひさ)さんの『市民社会力』(2007年明石書店刊)を使い、ト―ビン税(通貨取引税)のメカニズムについて学びました。
また「この書の出版は「事件」でした。 アマゾン・レビュー『ともに公共哲学する』(東大出版会)」にも触れました。
さらに、日本の裁判は、なぜ「公正」ではないのでしょうか。司法官僚のための裁判。を読んで頂き、裁判とは何か?の本質論についてもお話しました。
また、インチキなマスコミ(笑・困)の一例として、この日と前日にNHKをはじめ、大新聞で大きく報道されたIMF(国際通貨基金)理事の発言「日本は至急に消費税を上げるべき」を取り上げました。IMFの構成員は、日本は財務省の官僚であり、副専務理事は、財務省官僚の退職者から選ばれているので、IMFの発言とは財務省の意見なのですが、それを、あたかも国際的な第三者機関の発言のように報道するマスコミは、官僚の集合意思と一体化した国民洗脳機関にすぎませんが、これは、上記の戦前の歴史とダブります。
また、現在の政治の混乱の最大の原因についてもお話しました。
キーワードは、「裏切り」です。政権交代の最大の功労者で民主党の代表を、検察庁の策謀におびえて「裏切った」ために、【新政権vs官僚主義】という闘いは雲散霧消してしまい、選挙を通しての無血革命は成就しませんでしたが、自立する市民が主役になるほんものの変革は、これからですよ=====。
武田康弘
☆写真は、会の終了後、愉悦感あふれる(笑)白樺同人の顔=表情です。
わたしは、子育て真っ最中の小学生のお母さんがつくっているブログ=『ゆっくりどんぐり』で、糸山泰造さんの知的教育の実践を知ったのですが、
その『ゆっくりどんぐり』で、【白樺教育館とどんぐり倶楽部】という連載をしてくれているのを知り、とても嬉しく思いました。
わたしが今までに発表した教育思想を紹介してくれています。
白樺教育館のホームページやこの「思索の日記」で発表した文書をていねいに読まれての紹介は、なんとも有難く、とても感射です。
武田康弘
検察庁(特捜部)は、小沢一郎さんを陥れた【デッチ上げ事件】(森ゆうこさんの『検察の罠』を参照。元検事の前田さんが、検察幹部がいかにデタラメであるかを裁判で証言)により、恐ろしい「悪」を平然と行う組織(人間性に欠けた官僚の集まり)であることが明白になりましたが、
今回、釈放されたネパール人を犯人に仕立て上げたのも検察官。それに裁判官も追随していた(同じ穴のムジナ)のですから、わが国に「正義」はなく、あるのは【官僚の都合】だけということです。「そこのけ、そこのけ、官僚さんが通る」、受験知=パターン知人間の愚かさと恐ろしさ(ほんとうはバカなのに、頭がいいことにされている)ここに極まるです。
以下は、今朝の東京新聞・筆洗(一面、下段)です。
「無期懲役刑が確定していたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリさんの再審開始がきのう決定した。一審無罪判決後の不当な勾留、「神様やってない」と日本語で叫んだ二審の逆転有罪判決、最高裁での上告棄却。日本の司法によって犯人に仕立て上げられた絶望の深さを思う。
『新証拠なんかじゃない。検察が隠し持っていたんですよ』。決定後の記者会見で昨年、再審無罪になった布川事件の桜井昌司さんが憤っていた。血痕が付着したコートなどの不利な証拠を出し渋り、DNA鑑定にも二の足を踏んだ検察の姿勢が冤罪(えんざい)を生んだのは明白だ。」
武田康弘
(クリックで拡大します)
実に見事な知的教育の考え方と実践を綴った本をご紹介します。
この私のブログにコメントされた子育て中のお母さまがつくっている『ゆっくりどんぐり』というブログで知ったのですが、糸山泰造さんという方が著した『子育てと教育の大原則』及び『絶対学力を育てる学習法』を読み、感動しました。
実に的確に現代の知的教育の問題点を突いていると同時に、ほんものの知的教育のためにはどう考え何をすべきかを、具体的に算数の問題を提示しつつ、全教科の学習のポイントを説明しています。
それは、一口で言えば、どのようにすれば「考える習慣」をつけることができるか?ですが、まことに正鵠を射る指摘と実践で、脳の思考回路形成のプロセスという科学的な視点からも、哲学的な認識論の原理(「直観=体験」言い換えれば「内在―超越」)からも「正しい」思想と実践だと言えます。
まず、優れたほんものの知的教育を望むお母さん、お父さん方へ、
また、学校、塾を問わず現場の先生方、
それに、文部科学省の官僚や、教育委員会のみなさん、
ぜひ、読まれることをお勧めします。
著者は、大手の進学塾教師の経験から、現在の知的教育の間違い・歪み・勘違いを、身を持って知り、新たな教育にチャレンジしています。
考えない習慣をつける教育
完璧主義の悪循環
反復学習させることの危険性
12歳までは早くてはいけない
「脳内言語」は視覚イメージ
絵図を描くとオリジナリティーも育つ
・・・・・
武田康弘
罪のない人を罪人にする「冤罪」だらけのわが国は、警察官や検察官の人間性が大きな問題となっていますが、それを判決で「正さない」裁判官の行為・人間性は、それに輪をかけた大問題といえます。
なぜ、人間性の欠如した、人権感覚の鈍麻した裁判官が多いのか?
深因は、彼らが愚劣な「パターン知テスト」=司法試験のために青春時代を犠牲にした人たちだからでしょう。
そのテストを通り、法曹界に入れば、生活者の世界とは異なる「異様」な環境の中で生きるために、法律文の独占者となるのです。ほんらいは、ふつうの市民のためにある法律が、わが国の場合は逆立ちしていて、法律家のために法律がある!?という笑えない笑い話になっています。
何のための裁判なのか?誰のための裁判なのか?ちゃんと答えられる裁判官が何人いるでしょうか?
民主制社会の原理を踏まえれば、答えは簡単です。検察官が有罪とした根拠を検証することです。1.不正な取り調べがなかったか、2.物的証拠があるか、その証拠が正しいかどうかを検証し、少しでも検察官に問題があれば、それを正すのが、裁判官に課せられた役割なのです。犯人とされた人を裁くのではなく、検察官の有罪判断を判断するのが裁判官の仕事です。これは、近代民主主義における司法の原理なのです。
わが国の裁判官たちは、この原理を守らず(知らず)、司法界を人事と組織で支配している検察庁の顔色伺いですので、結果として公正な裁判が行われないのです。これは、民主主義の屋台骨を揺るがす事態というほかありません。
まずは、検察庁による実効支配を終わらせること、次に根本的には、パターン知に基づく司法試験のありようを根本的に変えることです。司法試験に限らずですが、テストは、電子辞書の使用を前提にすべきです。現代において求められる知的能力は、思考力・判断力・想像力・創造力なのですから。必要なのは、現実的で柔軟な知力、臨機応変・当意即妙の才です。
話を戻します。
裁判官たちが上記の原理に則って仕事をしなければ、裁判員制度も茶番に過ぎなくなります。何のために、誰のために、どのような原則に基づいて裁判を行うのか。それが明確でないのは、恐ろしいことです。わたしは、関係者に猛省を促します。
武田康弘