以下は、11月6日のブログー「
演技をやめることと、サービス精神の発揮と」に対するミクシィ内からのコメントです。
2006年11月06日 11:48
F
いつもタケセンさんからは学ばせてもらっていますが、現在の複雑化した世界では、タケセンさんんが仰る「優れた生き方」がますます不可能になってるように感じます。それで「幸福」という観点を導入したら話がもっと判りやすくなると思うのですが、タケセンさんの言う「優れた生き方」と「幸福」はどのように関連するでしょうか?タケセンさんの「幸福」論を聞かせて下さい。
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2006年11月06日 23:02
タケセン
Fさん、
私は、幸福それ自体を追求することはできないと思っています。
外的な価値に従うのではなく、内的な心の思いに忠実に生きたとき、結果として幸福(感)がやってくるのではないでしょうか。
幸福とは、目がけて得られるものではなく、自分に正直に生きたとき、結果として得られるもの、そう思います。
Fさんの言うように、「内的な心につく恋知(哲学)する生き方」が困難になっていることは確かでしょうが、私は、それ以外に幸福を感じることができる生はないと考えています。
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以下は、11月2日のブログー
「市民=シチズンとは何か?」に対するミクシィ内のコメントです。
2006年11月06日 13:06
F
Fです。
タケセンさんの考えにほとんどすべて賛成ですが、「グローバル市民(地球市民)」という考え方についてはどう思われますか?それと、受動的に生活している人は市民と呼ぶことができないのでしょうか?ご教示下さい。
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2006年11月06日 23:31
タケセン
Fさん、
?直接経験が可能な地域レベルでの活動における市民=「地域市民」が一番おおもとにあり、その上に、国レベルでの社会性を担う「国民」があり、さらにその上位に「地球市民」があるわけですが、同一人物の中に多層に積み重なっているこの3つの世界・概念のうち、「地球市民」とはもっとも観念性が強いもので、したがってそれは、基盤としての地域市民というレベルでの営みがないと、単なる抽象性に終わってしまうのではないかと思います。
?受動的な市民とは、市民になる可能性をもってはいるが、まだ市民としてのレベルにない「市民」のことだと考えます。ただし、これは多く観念・意識の問題ですから、実践的な活動の大小には、直接は関係しないと思っています。
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2006年11月07日 00:54
F
タケセンさん
一番めの点は、私がしばしば「グローカル市民」と抽象的に表現しているものとほぼ同じと受け取りました。人の職種によって様々なコミットの仕方があると思います。
二番目の点は、国籍保有者は受動的であろうとなかろうと国民と呼ばれうると思いますが、市民と呼ぶ場合それに規範的意味合いを含めると微妙な問題が発生してくるように思います。これは、国籍保有者でない在日市民の方々と国籍保有者たる国民がどう協働し合うかという点を含めて真剣に考えなければならない公共哲学的問題だと感じる次第です。
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2006年11月07日 09:08
タケセン
Fさん、
国籍があれば、自動的に「国民」になるわけですが、「市民」になるとは、制度の問題ではなく、自らの意志・生き方の問題です。
その意味で、市民たる意志をもって生活している人には「市民権」があり、その人の住んでいる国・地域の政治に関与することが出来なくてはならないはずです。この権利は自然法上の権利で、国籍があるか否かという「国民」という規定・概念よりも価値的に上位にあるはずだと考えられます。
このように「市民」を規定すれが、裸の個人としての人間の思想・活動=人類とか地球市民という発想をもつ人々が国家をつくるという「実存に立脚した国の創造」が可能になります。近代市民社会の原理が深まり、主権者の意志とは無関係にはじめに国家を措定する国家主義(国体思想)をその根元から消去することができます。
国籍という受動性の縛りを超えるものは、「国民」を越えて「市民」になるという能動性の思想・言動だと考えています。
この市民という思想を支える哲学が現象学ー実存論である、というのが私の考えです。
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