思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

人間を外的な価値だけで評価する国は、愛するに値しません。

2006-11-29 | 社会思想

人を外的な価値だけで評価する国、競争の勝者だけが称えられる国、心の内から湧き上がる悦びや充実を育てない国、集団同調が求められ、「君が代」を歌わない教師は処分される国、みなが税金で養っている皇族と呼ばれる人たちが特別に遇せられる国、ある人の生死で時代名まで変えられてしまう国、形式・儀式ばかりが重んじられ、内容の乏しい国、
そういう国を愛するのか?

それとも、生まれながらの差別のない国、個人の思想・信条を相互に最大限に尊重し、序列主義や権威主義を排する国、経済格差を減らす政策がとられ、人間愛に満ちた行政で、負け組をつくらない国、のびのびとしたエロース豊かな生の可能性をもつ国、市民精神(シチズンシップ)を養う教育が行われる国、天皇制をどうするか?が堂々と議論できる国、専守防衛に徹し、戦争放棄を高々と謳う国、
そういう国を愛するのか?

私は後者の国に変えていくことで、多くの人が自ずと国を愛する心をもつ社会にしたいと思います。何よりも愛する水の国=日本の子どもたちと海や川や野や山の自然が生き生きと輝くために。

自由でのびのびとした心身をもつ人、自分で考え、自己決定する人でいっぱいの国をつくりたいものです。まだ残る自然を守り、破壊してしまった自然を回復することー国を愛するというなら、まず、第一に、環境破壊の「公共!?事業」をやめることです。必要なのは、環境改善の公共事業のはず。

武田康弘

(写真は今年春、奥多摩で)




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NHKニュースの誤魔化し.間違っている新教育基本法の思想.・・徒然なるままに。

2006-11-28 | 社会思想

NHKは、自民党から除名処分された国会議員の復党問題を、
一貫して、「自民党を離れた議員」と報道しています。
単純なウソですが、NHKが意思統一をしてウソ報道をしているわけですから、確信犯ですね。
このような言葉の誤魔化しは日常的ですが、これが公共放送!?
(だいたい、契約も結ばないのに、テレビがあれば契約したことにする!?まったくひどい話です)

話を戻しましょう。
誰かがやったことなのに、まるで「自然現象」のような言い方をして誤魔化す、逃げる。とりわけ「エリート」集団に属する人たちは言い逃れに終始する、それがわが日本という国です。 戦争責任さえ肝心なところではぐらかそうとする、きちんと書くと自虐史観だ!(安倍総理の著書「美しい国へ」)と叫ぶ、「南京大虐殺などなかった」というのが右派の主張でしたが、なんとNHKが、詳細に調べた番組を先日報道しました。現場にいた元・日本兵の証言まで入れて。これでいかに右派・保守派の主張がデタラメであるかがハッキリしました。一つの部隊だけでも6千人以上を殺害したことが日本側の資料でも明らかになったのです。

これは公共性をもったよい放送です。
価値のある優れた放送かどうか?は、それを見る個人・市民が決めることです。お金を払って見る価値があると思う人は契約して見る、それが原理・原則です。支持しない内容であっても、無理に契約させられてお金を取られるなどは、論外です。

教育は、子どもにとって受ける「権利」があるのであり、受ける「義務」ではありません。日本国憲法の規定でもそうなっています(憲法26条)。どのような考えをもった人間にするか?を大人が決めることは間違いなのです。日本を愛するかどうかは、子どもの心の問題です。「国」や「伝統」をどのように解釈し、それにどう対処するかを大人が決めることはできません。大人がするのは、心身・頭をよくしていく環境を整備すること、につきます。異なる見方を提示し、子どもの考える力、自己判断力をつけるのです。公平で、ウソや誤魔化しが少ない教育をすれば、違った意見も尊重する自由でおおきな大人であれば、そういう人々の集合である社会・国に対して子どもたちは自然と誇りをもつでしょう。国を愛する、と教育目標に書き込まなければならないのは、いかにダメな国かを宣言するものでしかありません。

大人は、大人の意志で生んだ子どもを、自己決定のできる主体的な人間に育てる義務があるのです。子ども自身がどう判断するか?を大人が決めることはできません。これは人間の生の原理です。実存は本質に先立つ。

武田康弘




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『欲望存在の自覚と肯定ー公共哲学の原理』 対するコメントです。

2006-11-26 | メール・往復書簡

11月21日のブログ=欲望存在の自覚と肯定ー「公共哲学」の原理へのコメントです(シナモンさんのコメントはミクシィブログです)

2006年11月22日
03:04

シナモン

すごく勉強になります!でもこれ、もう少しやさしい文章じゃないと私のまわりの友人には難しいかな~。私も難しい~。
でもね、思ったんですけど、
人間の生きてるエネルギーのもとのものを魂とすると、現段階で私が納得してる魂の定義が、宇宙のエントロピーに逆らう唯一のもの、だと思うんです。つまり欲望もそうかな。これが基本だとつくずく感じた文章でした。
私は理屈つけるほど能はありませんが、
人と向き合うときに、相手の「欲望存在」を知り、理解し、認めるということが大事だな~と思いました。
またずれてたらすみません。
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2006年11月22日
11:00

タケセン

「欲望」を憧憬化させて語れば「理念・ロマン」になり、形而上化させて語れば「魂」になる。そんな感じがします。
もっと易しくする努力をします。
よいコメント、ありがとう。
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2006年11月23日
00:12

シナモン

ごめんなさい、ブログ上の友人はみんな頭いいから上記の文章でも大丈夫だとおもいます。ただ、日常の友人に特に読ませたいな~と思ったときに無理だと感じました…。私は勉強になるので丁度いいです。
どうぞそのままで気になさらないでくださいね。すごく気ずかされて
感謝しています。
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2006年11月23日
10:30

タケセン

分かりよく、は大事なので、いつも心しているのですが、「常識」をめくろうとすると、どうしても難しくなってしまいます。さらにこなれれば、やさしく且つ明瞭になるはずだ思い、チャレンジし続けています。
ついでに、
親子の会話を聴いていると、親は、子どもの「欲望」を否定することが、子どもの存在を傷つけていることだとは気づいていないようで、それが恐ろしいことだと思います。欲望とは人が生きる原理で、それを否定することは、その人の生を否定することなのに、です。
それから、話し合いが成立する前提は、どんな人や組織でも、客観的真理などもってはいない、なぜなら「客観」とは背理だからだ、という認識論の原理を踏まえることの相互承認です。みなが主観を深め豊かにする、それを交換することが、社会性・公共性を生む。そうでなければ、公共性とは、集団に合わせることとか、学者が決めることとか、政府の決定に従うこと、でしかなくなってしまうからです。そうなれば、公共性や公共哲学は成立しません。へ理屈で「民」を抑圧するおぞましいエセ哲学にしかなりませんから。
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2006年11月27日
01:34
シナモン

ほんとうにそうですね。「欲望」を否定された子供は生きるためにものすごいエネルギーを消耗するか、発散するかしないと存在できないから、いろんな悲しい事件や、人生を耳にするような気がします。
人間関係においても、社会においてもこれは基本でなければ、誰も納得出来ないのではないかと思います。問題解決の鍵ですね! 
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2006年11月27日
09:43
タケセン

その通~りなのです(笑)。芯をよく読み取ってくれて感謝!です。

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[ 古林治 ] [2006/11/24 10:06]

『実存的生(欲望論)から公共へ』
公共哲学を哲学とするための基礎づけということになりましょうか。(よくもまあこれだけ短い文章に本質を書き込んだもんだ!)
これまで公共哲学にかかわる方たちの説明では、この最も重要な点に触れることを避けているように感じていました。合意が得られないと思っているのか、わからないから避けているのか。いずれにしても、そのことが深さと広がりに制約をかけてしまう原因でしょう。
これを機により突っ込んだ議論を進めて欲しいものです。
 ところで、この文章、一般市民にとってはまだまだ難しい表現であるように思われます。最初に引っかかるのは『欲望存在』でしょう。日常世界では、『欲望』とはネガティブなイメージでしかありません。多少長くなっても、もう少し砕いた表現があっても良いように思います。無理な注文ですかねぇ?
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[ タケセン ] [2006/11/25 09:29]

古林さん、コメントありがとう。
本質を凝縮して書いたらこうなってしまった!(笑)。
「欲望存在」==ビシッと、そして、ショック的でいいな(笑)、そう思ったのです。
もう少し砕いた表現ができるように努力したいのですが、それがどうも私には難しいーのです。古林さん、そこのところよろしくお願いします。
ミクシイブログにシナモン(19歳の学生)さんからのコメントがあり、それに対するコメントをしましたが、そういうやりとりを載せると、「砕いた」感じになり、伝わりやすいでしょうか?どうでしょう。

武田康弘。



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公平・公正が何より大事ー身びいきは醜いー世界バレーへのコメント

2006-11-25 | メール・往復書簡

以下は、「私は日本を応援しません=バレーボール世界大会」に対してミクシィブログに寄せられたコメントです。

コメント

2006年11月23日
13:15
Masayuki

あのバレーを見ていて「うわー」と思ってしまうのは、
失点した後にDJが「GO!GO! NIPPON!!!」ってマイク使って言い出して、
それに観客も反応することですね。
「これじゃあまるで戦前の国家みたいだ」とまでは思わずとも、なんで対戦チームを公平に扱うべきDJがコールの煽りまでしてしまうのかが理解できません。

個人的には「不愉快」という次元よりも、「おいおい、これでいいのかよ。選手も監督も観客も」と疑問を呈さずにはいられない。
サッカーや野球を例として引くと、アナウンスがコール煽ることなんてないですからね。
ホームのチームを豪華に演出するような喋りはしますが、ゲーム中にアナウンスが何か言うってことはない。

決勝が日本戦の前座ってのも中々アコギな真似するなぁとも思いましたし、WaTやモー娘。も来ちゃうし、
バレー、凄いですね。
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2006年11月23日
21:04
タケセン

Masayuki さん、
内容豊かなコメントありがとう。
これでいい、いや これがいい、と思っているからやっているのでしょう。
不快だ→これでは困る→よくないのでは、と、感じるところ→思うところ→考えるところをはっきり言うことが必要でしょうね。
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2006年11月23日
21:09
智子

私も日本だから応援するということはありません。例えばノーベル賞を取った日本人なども、たまたま同じ日本人だったというだけで、自分がすごいことをしたわけじゃないですし^^;単にその人がすごかっただけの話で、同じ日本人として誇らしいという感情は何か違う感じがします。
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2006年11月23日
21:56
ゆな

以前、何かの番組でイギリスの伝統的な紳士についての特集をしていたのですが、有名校のラグビー選手達は応援でも指導を受けていました。
「相手が不快になるような応援をするんじゃない」と。
タケセンさんの日記を読んでいて、ふと思い出しました。
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2006年11月23日
22:50
タケセン

智子さん、ゆなさん、
コメント、ありがとう。
ほんとうにこういうまっとうな意見がどんどん広がれば日本も変わるのに、と思います。
ネットでも、社会派発言、どしどしやりましょう!!権力志向のネットウヨクなど蹴散らしましょう!!(笑)よい社会は、個人がのびのびし、輝くところにあります。ニッポン、ニッポンのヒステリーでは話になりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月24日
01:06
Masayuki

ゆな様のおっしゃっている、「番組」は自分が見たものと同じだと思います。
11月4日ぐらいにNHK教育で22時に放送していた教育をテーマにした番組だったと思います。

イギリスのパブリックスクールでの映像で、確かに、
パブリックスクールの生徒が「行き過ぎた応援」をしていたら、教員が注意していました。
「スポーツを通して相手を尊重する心を持って欲しいから」といったようなことをその教員は言っていましたね。
(アマチュアですが競技生活が長かった自分としては、「プレーしている身なんだから、最低限のルールはあれども、勝利の為に必要なことならば、お上品なことばかりやってられないだろ…。」とも思いましたケド…)


フジテレビ「ニュースJAPAN」のスポーツコーナー、「すぽると」で、
「Born in Japan」なるコーナーを最近放送していますね。
日本人選手が世界で勝つためにはどうしたらよいのか、を基本方針に製作されているコーナーです。
あらゆる競技のアスリート達が出てくるんですが、
これも個人的にはかなり引いてしまいますね…。
そんなに必死になることなのか?と。
スポーツの素晴らしさって国籍なんですかね?と疑問を呈さずにはいられないんですよ。
スポーツの本質はもっと別なところにあるんじゃないかな、と自分の経験からも言いたいわけです。

そして一方で、こんなコーナーを立ち上げておきながら、今日の「すぽると」の番組構成は、
フジテレビが放映権を持っているUEFA Champions Leagueが最初のほうのニュースで放送され、
その後にサッカーJリーグの結果を放送するという矛盾具合ですから、
僕の「引き」具合もヒトシオ、というところです。
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2006年11月25日
00:02
まきと

非常に同感でございます!

これがもしサッカーだったら、まったく公平性に欠けるという声はスグに出てきそうなのに。よくも平気であんなことができるなぁと思うところです。

日本人がなんにも考えてない馬鹿であると宣伝してるようなもので。
国際バレー協会的な団体は、なんでストップをかけないんでしょう・・・

とにかく見てると気分が悪い。スポーツの爽やかさ、真剣さ、面白さが全く感じられない!!



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私は日本を応援しません=バレーボール世界大会

2006-11-23 | その他

バレーボールの世界大会をテレビで見ていると、大変不愉快な気持ちになります。
室内会場に轟(とどろ)くばかりの鳴り物をつかってのニッポン・ニッポンの大合唱、相手チームのことなど全く考慮せず。これがスポーツ!?

欲求不満のはけ口でしかないような、下品で公平さを欠いた観客の応援とテレビ局の放映仕方には、呆れ果てます。選手までそのムードに煽られているかのようで、応援する気になれません。

そもそも、スポーツにしても、素晴らしい、美しい、いいな、と思うから応援するのであり、愛するのです。日本選手なら誰でも(何でも)いいわけではありません。「よい」と感じるのに、日本も外国もありません。内容のよいものを応援し、また愛するのです。

問題は内容・中身です。普遍性のある美しさやよさのあるものに魅かれる、これが健康な精神をもつ人間の姿です。狭い了見やヒステリーではダメです。人間としての豊かさ、大きさ、深さ、公平・公正さ、が必要です。スポーツを手始めにしてナショナリズムを高揚させるかのごとく風潮は、気持ちの悪いもの。まちがいなく『醜い国』しか生みません。見ていてほんとうに不快です。

武田康弘




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欲望存在の自覚と肯定―「公共哲学」の原理

2006-11-21 | 恋知(哲学)

人間は「欲望存在」です。
欲望の出し方を示し、その質を高めていくのを教えるのがほんらいの人間教育です。既存の考えやシステムへ馴致させるために、子どもの欲望を否定するのは、イジメ・陰湿な意地悪でしかありません。自他が「欲望存在」であることを否定し、欲望とはマイナス価値であるかのように言う人間は、そうとは意識せずに、自己の疎外感・不全感を弱い立場のものに移譲しているのです。移譲された弱者もまた、優位に立てる別の視点を探し、その点から他者いじめをします。人間が欲望存在であるという原理を否定すれば、閉じた不幸の連鎖=円環としての社会しか生みません。

互いの「欲望」を認め合うという基本がないと、すべては砂上の楼閣で、よい人間関係をつくり・広げ・深めていくことができないのです。人々が、公共性や社会性をもち発展させていくための出発点は、互いが「欲望存在」であることを肯定し、認め合うところにあります。理念や要請を先立てると、あるがままの人間の現実を否定してしまい、建前・偽善の社会を生み、公共性を育てません。「実存が先立つ」、とはそういう意味です。この順序を間違えると、何をしても、どう頑張ってもすべて失敗です。大きなストレスを抱え、永遠の不幸の中に沈む他ありません。

ほんとうの社会性・公共性を生むためには、心の本音につくことが条件です。理屈をつけて「欲望」を否定し合い、本心を背後に隠すしかない生は、人間精神の深部を腐らせてしまいます。悦びは、自己存在を肯定する世界からしか得られないのですから、これが否定されれば、人生は生きるに値しないものとなり、公共性は人の心の内側には成立しません。外的価値のみを追う現代の愚劣な教育・思想は、人間性の大元を破壊してしまうために、社会性・公共性を生みません。

人間教育、公共性を身につける社会教育は、ともに実存から始めるしかないのです。予めの理念・あるべき姿・道徳を押し付けることは、ウソと建前だけの人間と社会しかつくりません。よき理念も有用な道徳も生むことがないのです。人間の生の現実をみつめ、これを肯定し、認め合うこと、これは原理です。理念を先立てれば、理念は死ぬのです。「欲望存在」であるという原事実から出発し、それを肯定し、その出し方を学び、その質を高めること、これが教育と人生の原理です。現代社会の公共性は、この原理からしかつくれません。


最後に、
自他が「欲望存在」であることの肯定と相互承認にもとづいて「公共性」を実現するために最も必要とされる能力は、「妥当を生む対話の技術」を身につけることがですが、妥当を導く話し合いを可能にするには、ものごとを、自身の具体的経験を踏まえ、心身全体で知る力が求められます。単なる書物の知や情報知ではダメで、生きられた主観性の知を基盤としなければ、話し合いは空中戦となり、無意味な言葉のボクシングに終わります。エリートの知がパッチワークと辻褄あわせで、現実的なパワーをもたないのは、その知が客観学に呪縛され、生きられた主観性のレベル(民知)にまで高まっていないからです。底の浅い客観学・知(エリート知)をもとにしていたのでは、妥当を導く話し合い・討論は成立しません。狭いエリート知ではなく、「民知」という優れた主観性の知によらなければ、公共性を開くことはできないのです。これは市民社会における公共性実現のための原理です。

武田康弘


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「エリート」知 と 民知

2006-11-19 | 恋知(哲学)

わが国におけるエリートとは、
ニッポン受験システムによって意味づけ、価値づけられた「優秀な」部分品にすぎません。人間存在のおおきさ、深さ、全体性とは無縁の「システム内・部分存在」でしかないのです。部分存在になるための努力、それが「エリート」にとっての人生です。ザ・システムから離れれば、価値のない部分品にしかならないわけですが、このシステム内エリートとは、既存の型・価値意識を仕込む「躾と受験知」というパターン教育によってつくられるものです。

予め「正解」の決まっている受験知の体系を順序良く身につけていくこと、主観性を深め豊かにすることとは無縁の客観学の目的化が、生身の人間を見事にパターン化していきます。このシステムは、システム内上位者が命じる紋切り型の想念・価値観を自己の判断だと思い込む「エリート」という名の部分品をつくり、その部分品の集合が社会の頂点に立ち、非・エリートを従える。非・エリートの方もまた、この序列主義に呪縛されているために、自身を劣等存在だと思い込んでしまう。どちらも部分品としての存在で、その優劣だけを競う悲しい人間にしかなれない。

見かけ倒し、うわべだけがきれいな「人間を幸福にしない」このような日本社会は、その構造自体が「いじめ」そのものです。エロース・悦びの生を消去する「部分品」としてのパターン人間製造工場は、自動的にいじめを生みます。
(愚かの極み、何ひとつ分かっていないニッポンエリートがつくったのが、新・教育基本法です。本質を抉る思考力のない上っ面の知識が生んだ理念です)

部分品しか生まない劣った知の体系が、正しい型・客観としての正解があるという想念=客観神話から生まれた受験知ですが、その知は、勝者も敗者も共に不幸にします。心が豊かであることの嬉しさ・意味充実の頭が生む悦びを持ちません。
この劣った知の体系とは全く異なる生きた知のありようが「民知」という知です。そこでは、全体として考え、全体意味を問うことが可能です。そういう頭の使い方を鍛えるのが民知の実践です。これはとても面白く、頭を使うことが悦びとなる主観性の知ですが、『白樺教育館』では、この知の革命を30年前から続けてきました。有用な知、人間の生を輝かし豊かにする新たな知、この優れた知によって、部分品としての不幸な生しか生まない「エリート」の知を変えていく壮大な実験には、計り知れない価値があると思います。

「思索の日記」の読者のみなさんも、ぜひ、民知という優れた全体知を生きる実験にご参加ください。共に!

武田康弘




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カーオーディオ=思いがけない改善!!マイナスイオン発生器・1880円なり

2006-11-16 | 趣味

健康グッズ=「マイナスイオンで空気をリフレッシュ」を、何気なく購入。クルマのライター部(12V)に差し込んでみました。すると、あれっ!思わぬ朗報、カーオーディオの音が変わったのです。
再度、外して、付けて、やっぱり大きく改善されています。
音場がフワッ、と豊かになり、音の棘が消え、細かい音がよく聞こえるようになります。すっきり、気持ちのよい音に変身!です。
これは凄い、もう手放せません。みなさんもぜひお試しあれ~~。

私の購入したのは、カーメイト(株)のイオフィールミニ(品番・KS91)というものです。ケイヨーホームセンターで、1880円でした。半額以下の製品もありましたが、形と質感が悪いのでこれにしました。効果は半永久的と記載されています。

武田康弘




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国を愛するってどういうことですか?具体的に教えて下さい。

2006-11-15 | 教育

自民党の権力者のみなさま。民主党の愛国者のみなさま。
国を愛する態度や心って、どういうものなのですか?伝統を大事にするって、何をどうするのですか?
私は、教育者として30年間生きてきましたが、さっぱり分かりませんので、お偉い先生方に教えてもらいたいと思います。

バレーをではなく日本舞踊をならう方が国や郷土や伝統を愛するっていうことですか?
音楽も、雅楽や演歌を愛好することが大事なのですか?
できるだけ和服を着ることが必要なのですか?
漢語・外来語ではなく和語を使うこと、西暦(世界暦)ではなく元号を使うことが求められるのですか?
皇室を敬愛し、天皇を尊敬しなくてはいけないのですか?
「日本は天皇陛下を中心とした神の国だ」ということを信じる人が愛国心の項目で高評価されるのですか?

いったい、教育の理念を歌う最高の法律=教育基本法で、国を愛する態度を養う(民主党案は、国を愛する心)というならば、そこのところをはっきりさせてもらわないと困ります。なんだか分からないことを基本理念にされて、それを評価の対象とされたのでは、日本国民全員の迷惑だと思いますので、お偉い先生方、よろしくお教え下さい。国民の税金で仕事をし、生活している人には、Accountability(説明責任)がおありのはずですのでね。違いますか?

武田康弘




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?「幸福」について ?「グローカル市民」について

2006-11-11 | メール・往復書簡

以下は、11月6日のブログー「演技をやめることと、サービス精神の発揮と」に対するミクシィ内からのコメントです。

2006年11月06日 11:48


いつもタケセンさんからは学ばせてもらっていますが、現在の複雑化した世界では、タケセンさんんが仰る「優れた生き方」がますます不可能になってるように感じます。それで「幸福」という観点を導入したら話がもっと判りやすくなると思うのですが、タケセンさんの言う「優れた生き方」と「幸福」はどのように関連するでしょうか?タケセンさんの「幸福」論を聞かせて下さい。
―――――――――――――――――――――――
2006年11月06日 23:02
タケセン

Fさん、
私は、幸福それ自体を追求することはできないと思っています。
外的な価値に従うのではなく、内的な心の思いに忠実に生きたとき、結果として幸福(感)がやってくるのではないでしょうか。
幸福とは、目がけて得られるものではなく、自分に正直に生きたとき、結果として得られるもの、そう思います。
Fさんの言うように、「内的な心につく恋知(哲学)する生き方」が困難になっていることは確かでしょうが、私は、それ以外に幸福を感じることができる生はないと考えています。
=========================


以下は、11月2日のブログー市民=シチズンとは何か?に対するミクシィ内のコメントです。

2006年11月06日 13:06


Fです。
タケセンさんの考えにほとんどすべて賛成ですが、「グローバル市民(地球市民)」という考え方についてはどう思われますか?それと、受動的に生活している人は市民と呼ぶことができないのでしょうか?ご教示下さい。
――――――――――――――――――――――
2006年11月06日 23:31
タケセン

Fさん、
?直接経験が可能な地域レベルでの活動における市民=「地域市民」が一番おおもとにあり、その上に、国レベルでの社会性を担う「国民」があり、さらにその上位に「地球市民」があるわけですが、同一人物の中に多層に積み重なっているこの3つの世界・概念のうち、「地球市民」とはもっとも観念性が強いもので、したがってそれは、基盤としての地域市民というレベルでの営みがないと、単なる抽象性に終わってしまうのではないかと思います。
?受動的な市民とは、市民になる可能性をもってはいるが、まだ市民としてのレベルにない「市民」のことだと考えます。ただし、これは多く観念・意識の問題ですから、実践的な活動の大小には、直接は関係しないと思っています。
――――――――――――――――――――――

2006年11月07日 00:54


タケセンさん
一番めの点は、私がしばしば「グローカル市民」と抽象的に表現しているものとほぼ同じと受け取りました。人の職種によって様々なコミットの仕方があると思います。
二番目の点は、国籍保有者は受動的であろうとなかろうと国民と呼ばれうると思いますが、市民と呼ぶ場合それに規範的意味合いを含めると微妙な問題が発生してくるように思います。これは、国籍保有者でない在日市民の方々と国籍保有者たる国民がどう協働し合うかという点を含めて真剣に考えなければならない公共哲学的問題だと感じる次第です。
――――――――――――――――――――――

2006年11月07日 09:08
タケセン

Fさん、
国籍があれば、自動的に「国民」になるわけですが、「市民」になるとは、制度の問題ではなく、自らの意志・生き方の問題です。
その意味で、市民たる意志をもって生活している人には「市民権」があり、その人の住んでいる国・地域の政治に関与することが出来なくてはならないはずです。この権利は自然法上の権利で、国籍があるか否かという「国民」という規定・概念よりも価値的に上位にあるはずだと考えられます。
このように「市民」を規定すれが、裸の個人としての人間の思想・活動=人類とか地球市民という発想をもつ人々が国家をつくるという「実存に立脚した国の創造」が可能になります。近代市民社会の原理が深まり、主権者の意志とは無関係にはじめに国家を措定する国家主義(国体思想)をその根元から消去することができます。
国籍という受動性の縛りを超えるものは、「国民」を越えて「市民」になるという能動性の思想・言動だと考えています。
この市民という思想を支える哲学が現象学ー実存論である、というのが私の考えです。
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教育と知の核心は、体の触れ合いであり、体で知ることです。

2006-11-09 | 教育

子育て・教育で何よりも求められるのは、
激しく、ダイナミックに遊ぶことです(笑)。ほんとうです。
全身で互いに感じ合うこと、心身全体で交わることが一番大切。
五感の全部を使うこと。体で遊ぶこと、体あそびの工夫することです。

お父さん、
家のなかでレスリングごっこをして下さい。肩車をしたり、ぐるぐる回したり、とにかく全身での触れ合いを日常的にしてください。それが、言葉でごまかし・逃げる「口先人間」になるのを防ぎ、豊かな人間性を育むのです。

同時にそれはまた、
身になるほんとうの知を生み出す条件でもあるのです。
認識の最終根拠は、五感による確かめですが、強い体感を積み重ねないと、「なるほどそうだ」という深い確信がやってきません。しっかりと深く分かる「内的了解」という世界が得られず、権威者が与える「正解」がなくては生きられない受動人間に陥るのです。受験秀才の知が無用の知・役立たずの平面知・活字上の「バーチャル」でしかないのは、彼らが表層知の次元で生きているからです。直接経験とは、体を使った世界です。自立する心と頭を生むには、深く強い体感に基づく意味充実の知が必要です。

現代の言葉と数字が優先する教育は、人間性と知の根幹を腐らせてしまうのです。
体全体で感じ、思い、考えるダイナミックな生を!!

武田康弘





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演技をやめることと、サービス精神の発揮と。

2006-11-06 | 恋知(哲学)

恋知(哲学)するとは、
演技をやめ、仮面をはずして生きることです。赤裸々に己の存在を見据え、その場所から始める生の営みです。
同時にまた、
存在(いまここに生きて在る)の次元で他者と関わり合う=「呼びかけ」という倫理に基づくサービス精神ゆたかな生を生きることです。お愛想ではなく、内面から出てくる他者への訴えかけとしてのサービス精神の発揮です。

つづめて言えば、演技をやめて実存につく生き方とサービス精神の発揮。この二つを同時に可能にするような心と頭の使い方を身につけることが恋知(哲学)です。

したがって、恋知(哲学)者の生とは、深いと軽い、真剣と冗談、真面目と大らかの同居です。だから「子どもはみな哲学者」といわれるのです。大人になるにつれ哲学から遠くなり、人生は暗く固くなり、型はまりの紋切り人になる。イヤですね。いつまでもみな恋知(哲学)者でいたいもの。

恋知(哲学)をする生は、もっとも優れた人間の生き方です。
恋知(哲学)しつつ生きる人は、みな恋知(哲学)者です。何がよりよい考えか?生き方か?を追求する営みは、エロースあふれるもの。


武田康弘




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二元論?三元論?

2006-11-04 | 社会思想

「公、私、公共」の三元論(東大出版会のシリーズ「公共哲学」の基本理念)
に対して、荒井さんから繰り返し批判が出されていますが、
私は、この問題は、ことば=概念の捉え方の問題だと思っています。

プライベートな私生活の世界でのわたしと、社会人=公民=公共人=市民としてのわたしは、切断はできませんが、区別することが必要です。この二つの次元のうち、社会人としてのわたしを「公ないし公共を生きる私」と呼び、
その「公ないし公共を生きる私」の活動をサポートするのが「官」(広義の役所、役人)だと位置付ければよいでしょう。

私的なわたし と 公的なわたし と 官、という二元論でも三元論でもあるよう?ないような?見方が一番現実的でみなの納得がえられると思いますが、いかがでしょうか?
その三つは次元が違っているので、立体化して見る=捉える他はないというわけです。

武田康弘




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市民=シチズンとは何か?(白樺ML公開)

2006-11-02 | 社会思想


From: "白樺教育館 武田康弘"
To: <shira_philosophy@freeml.com>
Sent: Tuesday, October 17, 2006 10:21 PM
Subject: [shira_philosophy:1020] Re: 立体的思考

武田です。
荒井さん、メールありがとうございます。

以下は、3年前に書いたものです。
市民精神による市民国家をつくろうという提案です。


  市民=シチズンとは? 
 
 市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。

 ここで注意しなくてはいけないのは、〈公民=社会人〉と、〈国民〉とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
 市民=公民=社会人とは、自分は社会の中の受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一員なのだ、という自覚をもっている人のことです。繰り返します。市民とは、国民 (the- nation)ではな く公民(a-citizen)のことです。

 公(おおやけ)とは、自分が生きている〈場〉の事は自分たちで考え、決定していくという自由と責任によってつくられるものです。その地域で、その国で生活している様々に異なる人々がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を問うことが公であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。念のために付け加えれば、官・役所が公なのではありません。官とは市民生活を下支えするサービス機関です。

 国民ではなく市民=シチズンという概念は、自治政治=民主制を支えるものであり、21世紀にふさわしい言葉=考え方です。(もっともわが国では、すでに500年前から惣村、自治都市、一向宗自治区など多くの地域で自治政治が行われていましたが)

 市民=公民になるためには、教育が必要です。個人が個人であると同時に公的意識をもった共同体の成員となるための基本は、家族という社会の最小単位のなかで自分の役割を考え、果たすところから始まります。

 21世紀における教育の柱は、国の人―国民の育成ではなく、精神的に自立した〈市民=公民=本物の社会人〉を育てることです。
もちろん、日本の教育では、「古事記」を中心とした日本の神話や様々な伝統の文化を子どもたちに学ばせることは大切なことです。しかし、それを山県有朋など明治の保守政治家が拵(こしら)えた「国家神道」(天皇を現人神(あらひとがみ)とする擬似的な一神教)の世界に呪縛されたまま教える、というのではあまりにお粗末です。 

 また、歴史や伝統を学ぶことは、それに縛られるためではありません。伝統から新たな世界を発見し、伝統を現代に生かすという視点がなければ学ぶ意味がなくなります。そもそも歴史というものは、私たちがどのように生きたいか?という〈夢―未来への思い〉から絶えず再解釈されていくものなのですから。

 あまりに当然のことですが、ふつうの多くの人々は、日本という国家のために生きているわけではありませんし、よき日本人になることが人生の目的でもありません。一人一人が自分の中の「ほんとう」や「よい」や「美しい」を追求し、魅力ある人間になったとき、結果として日本人や日本社会を輝かせることにもなるのです。私たちの大多数は、日本語を使い、日本語で考え、日本の風土と文化の中で生きています。どう転んでも日本人である人間に、ことさら「日本」や「愛国」を強調する教育をしようとするのは、ひどく不自然で、気持ちの悪い話です。背後には、国家主義や天皇―皇室崇拝のアナクロニズムのイデオロギーがあるのでしょう。イマジネーションに乏しい心の貧しい人、一人の人間としての精神的自立に失敗した人は、必ず外部に超越的な価値をつくるものです。

 明治政府の作った天皇制国家主義を容認するような思想は、日本人の個人としての力を弱めることで、日本社会の活力を奪ってしまうのです。ほんとうの愛国者とは、自国の問題点をよく知り、それを解決・克服していく人のことです。単純な日本万歳!の思想では、国が滅んでしまいます。国家主義者や保守主義者は、成熟した市民社会(そこでは国籍や民族ではなく、一人ひとりの人間性―個人の能力・魅力が問われるのです)を築き上げていくための最大の障害です。 
 
 ちゃんと考えることで、まともな思想を育てましょう。馬鹿げた日本主義では、日本人が世界の人々に敬愛される日は永遠にやってきません。自分たちだけにしか通用しない変な「常識」ではなく、なるほど、と納得できる普遍性のある常識=良識を育てることがこれからの課題です。

 必要なのは、よき日本人を育てる〈国民教育〉ではなく、よき市民=公民を育てる〈市民教育〉です。それが最良の意味での「国益」となるのです。自国の近代史も批判的に見ることのできる余裕のある人間=市民を育てることは、世界からの深い信頼を得ることで、日本社会の発展を約束します。市民=シチズンとしての私たち日本人がつくるのは、従来の「国民国家」の枠組みを超えた「市民国家」なのです。21世紀の世界に必要な品位の高い理念=『市民精神』を育成する相互教育の努力を皆で始めようではありませんか。

「市民が主役」とは、そういう意味です。

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From: 荒井達夫
To: "白樺メール" <shira_philosophy@freeml.com>
Sent: Wednesday, October 18, 2006 9:00 PM
Subject: [shira_philosophy:1021] タケセン「公共哲学の原理」

武田さま。

荒井です。

まさに「公共哲学の原理」。
「活私開公」も「グローカル」も入っている。いや「グローナカル」まで入っちゃっているかも。
これ、HPにありますね。
実は、2年前に読んだとき、「一見やさしいような、でも何か難しいような。どれ程の意味があるのかな。考えたこともないな・・・・・?。」という感じでした。
また当時は、ひたすら立法技術屋の平面的思考でしたから、「国民と市民、こういうふうな意味で使うの、変じゃない?」なんて、全然方向違いのことも考えました。(スゴイ専門知の使い方! 困ったもんだ。)
でも良いこと言っているな、と特に印象に残った部分がありました。それが、これ。↓

「一人一人が自分の中の「ほんとう」や「よい」や「美しい」を追求し、魅力ある人間になったとき、結果として日本人や日本社会を輝かせることにもなるのです。」

これって、ブログにある
「生身の一人の人間=裸の個人の次元にまで自己存在を還元・反省することで得られる場所に立って、そこから人生と社会について主体的に考える生、それを実存として生きると呼びます。」
と言わんとするところは同じですよね。
だから、このあたりをふくらませて書いたら、さらにすばらしい「公共哲学の原理」の解説になるのではないか、と思っております。

=========================
From: 杉山 
To: 民知の会
Sent: Saturday, October 21, 2006 2:07 PM
Subject: [shira_philosophy:1023]

杉山です。
この間、皆さんのやり取りを聞き、タケセンの文をあらためて拝見し、
しっかりと響いてきました。3年前に書いたものが、すでに今を見据えていたわけで
すごい!
私は哲学の系譜も、そのイデオロギーもよくわかりませんが、タケセンの言葉は
ほんとに平易で、自分の今の生活や仕事に直接響いてきます。
あえていうなら、この間の「公共」論議を聞いていて、今ひとつピンとこなかった
のが、以下の文ですっきり!そんな感じです。
これが哲学か、なんて今更ながらに思います。(遅れています)

原理とは、誰にでもわかり、誰にでも実践できる(だれの生活場面でも生きる言葉)
ものですね。
皆さんには、当たり前の事が、いかに世の中的には「非当たり前」なのか!
公務員として、ずっとモヤモヤしながら仕事をしてきましたが、ようやく光明が
見えてきたような気分です。(今更遅いような気もしますが)
直で、子どもたちや親と接する仕事をしていて、その中で何を伝えて行っていいのか
どんなスタンスで仕事をしていけばいいのか、それなりに確信は持っていたけど、
今ひとつすっきりしなかったものが、こうして言葉に表していただくと、もう一度
(否、何度でも)確かめられます。

こういうのが、まさに公共哲学(の原理)ですね。
それにしても、学者の皆さんの公共哲学っていったいなんなんだ?と、対比的に思ってしまいます。
この短い言葉の中に凝縮されたものさえ、理解できず、いったい何をしようとしているんでしょう?学問の最高学府にいる研究者(?)の情けない面がますます露呈しているかのようです。

国家や行政という、権力機構の末端で仕事をするものにとっては、まさにタケセンの文は、
バイブルみたいなものです。これを日々出発点にしていきたいと思います。



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