思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

子育てー教育は、民主制の現場です。

2006-06-29 | 教育

一人ひとりの自由と平等を基盤とする民主制という社会システムは、人類が長い間かけて獲得した普遍的な社会原理です。
したがって、民主制がどの程度浸透しているか?が、社会の良し悪しの判定基準となります。

人間の最大の営みは、人間の再生産=子どもを生み育てることですので、その場面で、どれだけ民主制が貫かれているか?が、社会の成熟度(レベル)をはかる物差しになると言えます。

わが国のように、目先のテストの点数でしか子どもの良し悪しを見ることができない近視眼の人間ばかりでは、先は開けません。学校でも家庭でも、意見を言い合うー主張を育てるという最も大事な教育がないところには、よきものは何も育ちません。

明治時代に郷愁を感じるような復古的な思想によって、いままで以上に個人を消去し、全体に合わさせようとするのは、ほとんど狂人の蛮行という他ありません。

身の回りのことを自分でさせるという基本の教育と、お手伝い=家事の一部を担わせる教育をしっかりすることが核心です。それができれば、幼児的なわがままは消えるのですが、わが国は大人にも幼児が多いようです。威張りくさっているタカ派のおじさんは、とくにそうですね(笑)。

この基本がないところが現代教育の根源問題なのに、愛国心の養成で「行き過ぎた自由」!?を押さえるとは、バカもここに極まる、としかいいようがありません。

どこに個人の自由の行き過ぎがあるのか?具体的な例をあげてもらいたいものです。意見などまるでない、否、でないように教育しておいて、学校でも会社でもスポーツ団体でも上意下達でしかない日本社会で、個人の自由の行き過ぎとは、ただ笑えるだけーまことにお粗末。

自由な意見を表明する教育がまったくないからこそ、自由に伴う責任意識が育たないのだ、という簡明な事実をみなが深く認識しなければ、何事も始まらないのです。自由と平等を基盤とする民主制を広げ、深める営みは、われわれ皆の努力にかかっています。子育てー教育の現場こそは、民主制の学校なのです。

武田康弘



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主観性の消去は、型はまりの不幸人しか生まない。

2006-06-27 | 恋知(哲学)

私たち日本人が、勉強の仕方や仕事の仕方から、あそび方、ものの選び方まで、何でも「型はまり」なのはなぜでしょうか?
創意工夫がなく、自分なりのやりかたー生き方のない紋切り型の想念と行為では、生きるよろこびはやって来ないのに。

子どものころより、意味を問わない型はまりの勉強=「知」で躾けられては、私の私性は、育ちません。主観性を豊かに育てることなどまるで眼中にないのが、わが日本人の生き方のようです。
主観性の排除=消去をその本質とする明治政府作成の富国強兵政策―近代天皇制による国民教化は、今日再び息を吹き返し、ウヨク思想や保守主義が大手を振るっています。石原慎太郎のような国粋主義者がのし歩き、明治天皇賛歌の『君が代』を強要することが「正しい」教育だ!と宣言するのを見るのは、あまりに愚かしく、呆れ果てると同時に、激しい公憤に全身が震える思いです。
『プロ教師の会』なる国家主義丸出しの輩が、教育も単なる技術だ!と公言しているさまをみると、「思想の驚くべき貧困と結びついたシニカルな現実主義」と言った70年前のロシア(当時ソ連)の政治家の言葉が、今もそのまま生きているとの思いを強くします。

個人が個人性を開花させることで普遍性を獲得していくためには、広義の思想を育成する営みが不可欠ですが、その思想=主観性の深化・拡大を根こそぎ奪うような「技術主義」の想念に基づく教育がなされていては、まるで「思想を育む」ことが悪であるかのような風潮が生み出されてしまいます。上位者に従い、集団同調で生きるのが正しい!というのでは、あまりにもお粗末です。
人間がよく生きるためになくてはならない「思想」の営みを排除し、意味論抜きのただの技術だけが跋扈(ばっこ)すれば、人間は人間になれず、グルー(戦前の米・駐日大使)のいうように「昆虫」の属性を示す存在に陥るほかありません。

その結果、何でも既製品をチョイスするだけ、工夫や創意や創造とは縁のない、型はまりでよろこびの少ない「悲しき日本人」が出現してしまうのです。レジャーまでも外的価値に従い、システムが命じるままにやる!?なんとも凄い(笑)、極限です。

武田康弘


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よい思想を味わうー老子

2006-06-26 | 恋知(哲学)


言葉が真理をあらわしていると、その言葉は美しくなく、
言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。
ほんとうに立派は人は言葉で議論をせず、
言葉で議論する人は立派ではない。
ほんとうの知者は博識ではなく、
博識の人はほんとうに知っていない。
賢者はため込むことをしない。
・ ・・・・・
この老子の思想は、ソクラテスの思想とピタリと重なります。
平明にして実に深い思想です。

もうひとつ、私の大好きな老子の思想を記します。

人が生きているときは、
身体は柔らかくて、かよわい。
死ぬ時には、
堅くて強張(こわば)っている。
草木が生きている時には、
柔らかく、よわい。
死ぬ時には、しなびて枯れている。
それゆえに、堅いものは死に近く、
柔らかいものは生に近い。
・・・・・・・・・


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「技術」主義と「感情」の絶対化ー生きるに値しない生?

2006-06-24 | 恋知(哲学)

なぜ?どうして?なのため?という意味の探求をしなければ、どうなるか?

答えは簡単です。現代の日本になるのです。

小泉首相の言動に象徴されるように、?己が抱え持つ感情を絶対化する「ヒステリー」と、?意味の探求抜きの「技術」の習得、この二つで生きる薄っぺらな人間で満ちた社会ができるのです。「日本という人間を幸福にしないシステム」(ウォルフレン)の誕生です。

人間として生きるための核心=土台は、ひろい意味での思想を育むところにあります。その営みがないと、個人は精神的自立が得られず、閉じた非・人間的なシステムをつくってしまうのです。

第二次世界大戦の始まる8年前―1933年にあるロシア(当時はソビエト連邦)の政治家は次のように書きました。「日本の政治家の強みは、一般的思想の驚くべき貧困と結びついたシニカル(冷嘲的)な現実主義にある。しかし、これは同時に彼らの弱みでもある。このような知的構造を持った人々は、国を未曾有の大厄災に投げ込みかない。大規模な戦争が起きれば、日本の「天下無敵」の神話は緒戦で雲散霧消するであろう。日本の政治家や軍閥が運命に挑むようなことのないように祈る」と。

われわれは、第二次大戦前のアメリカの駐日大使、親日派で知られたグルーのいう「日本は昆虫の社会のようだ」から、今なお脱却できていないようです。個人の精神的自立をつくる条件=広義の思想のない人々がつくる社会では、人間の内的なよろこびは得られません。不幸の連鎖をとめるためには、人間味あふれる「普遍的」な思想を一人ひとりが育みつつ生きることが条件です。

思想なき人間は、昆虫や爬虫類の属性を示す存在に陥ります。われわれ日本人も人間として生きたいものですね。(つづく)


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福井総裁問題ー「究極のインサイダー」-支配階級の「秘密クラブ」(東京新聞)

2006-06-22 | その他

アメリカ政府公認の証券ディーラーで、国内外の投資ファンドとファンドの組成、運用を行うファンドマネージャーの今田栄司さんの話が、今朝の東京新聞「こちら特報部」に載っています。

「デスクメモ」には、
『かつて金融機関の日銀幹部への接待疑惑が起きたとき、お座敷の格によって「ざぶん」「どぼん」の隠語があった。一連の不祥事を受けて、当時の福井副総裁は松下総裁とともに引責辞任したのではなかったか。一千万円投資の見返りに倍以上の利益があるとは「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待よりたちが悪い。 』(蒲)
と記されています。

以下に全文〔クリック〕を貼り付けます。

福井投資問題 

プロが見たうまみとは
 ゼロ金利時代に、一千万円もの大金を村上ファンドに投資し、約六年で一・五倍の運用益を上げていたことが判明した福井俊彦日本銀行総裁。投資理由は「村上氏の志を応援したかった」そうだが、だったら誰もが「応援」したいのでは? 業界のファンド・マネジャーがみる“市場の番人”による投資のウマミとは。 (大村歩、坂本充孝)

 ご登場願ったのは、米国政府公認証券ディーラーで、国内外の投資ファンドとファンドの組成、運用を行うファンド・マネジャー今田栄司氏(43)。邦銀、外資系の投資銀行を渡り歩き、現在は三世商事不動産ソリューション事業部長として村上ファンドの動きをつぶさにウオッチしてきた。「図解でわかる投資ファンド」の著者でもある。

 ――福井総裁のようにもうかる投資は誰でも参加できるのか。

■投資歴や地位審査も厳正に

 一般の銀行や証券会社に行っても、こうした私募型ファンドに入れるわけではない。対象は企業のオーナーとか一部上場企業の社長。法人であれば例えば米雑誌「フォーブス」が発表する世界の企業上位五百位に入っている会社などだ。もちろん公職と企業役員の間を行き来する福井氏のような人も対象となりうるし、今回のファンドの中に福井氏クラスの重要人物が出資者になっている可能性は非常に高い。

ある種の『秘密クラブ』

 こうしたお金持ち同士の紹介者がファンド運営者に出資者を紹介し、ファンドはその出資者を審査し、出資を受け入れる。一種の「秘密クラブ」だ。審査は厳正で、これまでのファンド投資歴や社会的地位などを考慮する。もし金融当局の検査で怪しい投資者がいることが分かれば、その投資ファンドが市場から退場させられるためだ。現在では、日本国内のファンドであれば最低一億円から。海外であれば十億円ぐらいからしか、受け付けない。

 ――出資者にとってのメリットは。

 出資者は投資組合の組合員となるが、組合は代表者以外は匿名。出資者は自分以外だれが組合員となっているのかも分からない。「自分がどこにどれだけ出資しているかの情報自体が公表されてはまずい。こっそり利益を上げたい」という需要がある。また、投資に対する収益は課税されずに出資者のもとに直接渡る。どう税を支払うのかが出資者に任されているのもメリットだろう。あくまで一般論としてだが、「裏保証」もありうる。証券取引法違反になるがね。

 ――「裏保証」とは?

 書類には一切残さないが「10%の利回りは保証します」などとファンド運営者側が出資者に口頭で約束することだ。はっきり言ってもうけを期待しないでファンドに出資する人などいない。だからそうやって利回り保証を言わなければ出資してもらえない。通常あり得ることだ。

 ――福井総裁は「村上氏の志を激励する趣旨で出した」と出資目的を説明しているが。

 村上ファンド設立当時の資金繰りは非常に厳しかったと聞いている。百万円でも村上氏は頭を下げて借りたはずだ。当時のこのファンドの規模からすれば、一千万円は非常に大きかっただろう。だが、聖人君子ではないのだから、純粋に志だけで一千万円のカネを出すなどということはないと思う。

 二〇〇一年以降、福井氏の出資した一千万円はオリックス証券が募集し村上ファンドが運営する「アクティビスト投資事業組合」に移行している。福井氏としては公募型ファンドに移行したという感覚を持っていたかもしれない。だが、これは以前と同じの私募型ファンドにすぎない。

 ――福井総裁のような特別な出資者の場合、仮に運用益が出なかったとしてもファンド側が利益を付けることがありうるのか。

 ありうる。というのは投資組合の組合員同士はお互いを知らないから、ある組合からある組合への利益の付け替えを行っても、ほかの組合員には分からないからだ。村上ファンドの場合、組合員には半年に一回、運用実績の報告書が届くが、仮に、これを改ざんしてしまえばほかの組合員に知られずに特定の組合員をお手盛りで優遇することは可能だ。

 ――福井総裁は内規違反ではないとしている。

 内規の問題を言い出すと、福井総裁と同様の問題は、政策委員会のメンバーの中にもある可能性があるからだろうか。

 福井総裁がなぜ今年二月になって出資を解約したのか、あるいは解約できたのかもナゾだ。当時すでにライブドア事件が発覚し、次の検察の標的は村上ファンドではないか、といううわさが業界ではかなり広まっていた。金融の最高の番人である日銀総裁に、村上ファンドのうわさが入っていない方が不自然だ。

『究極インサイダーでは』

 二月で解約せずに今まで出資を続けていたら、運用益は減っていた可能性もある。もし、それを知って解約したのだとしたら、最高にいい時期に、自分だけ、「いち抜けた」をやったことになる。こうしたことが事実なら、これこそ究極のインサイダーだ。

 福井総裁の釈明会見の翌二十一日、総裁の責任問題を記者団に問われた小泉純一郎首相は開口一番「ま、いいんじゃないですか」。辞任については「そう思ってません。何か問題があればすぐに辞めればいいという問題じゃない」と一蹴(いっしゅう)した。

信用失墜どう回復■FRBなら即罷免

 「村上ファンドの研究」の著書がある経済ジャーナリストの水島愛一朗氏は「日銀の金融政策に影響を与える地位にいながらファンドに投資すれば、インサイダー取引にかかわる可能性は十分に予測できた。その意味で〇三年に日銀総裁に返り咲いた時点で、一千万円は引き揚げるべきだった。日銀総裁の立場を最優先にしなかったのは間違いだ。日本銀行法は設置目的に『信用秩序の維持』を掲げている。自分のために失墜した日銀の信用を回復するため、唯一の方法が辞任でしょう」と指摘する。

 「目で見てわかる日銀の大常識」の著書がある経済ジャーナリストの持田直人氏は「従来、日銀総裁といえば清廉、高潔のイメージがあったが、とうとう俗人が登場してしまったか、とがっかりする」と手厳しい。

<デスクメモ>

 かつて金融機関の日銀幹部への接待疑惑が起きたとき、お座敷の格によって「ざぶん」「どぼん」の隠語があった。一連の不祥事を受けて、当時の福井副総裁は松下総裁とともに引責辞任したのではなかったか。一千万円投資の見返りに倍以上の利益があるとは「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待よりたちが悪い (蒲)












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「よい・美しい」の基準変更

2006-06-20 | 恋知(哲学)

従来の日本的な「よい・美しい」は、静的(スタティク)であり、様式(パターン)が支配し、儀式的である。
例えば、日本の高級と言われる「もの」や「店」を見ると、平面的・鋭角的で、形式美が優先している。
豊かな美しさ=豊穣の美ではない。
内容が形式を打ち破り、溢れだし、あらたなカタチを自ずとつくるというダイナミズムとは無縁だ。

従来の支配的な日本文化は、広がりをもち、馥郁とエロースが立ち昇る世界とは逆で、内容が閉じた二次元的な形式の中に押し込められ、従属させられている。そこでは、人間の原初的エネルギーは、儀式を執り行う所作にまで変質させられてしまう。自由闊達で柔らかな拡がりをもつ豊かな世界は、固い形式によって消去される。画一化な管理主義、非・人間的な悦びのない灰色の世界が「正しい」とされてしまう。それが日常の所作の強要によってつくられる型の文化であり、人間性=主観性の排除を招来する深い洗脳に過ぎないことに気づいている人は少ない。

この不幸な国では、子どもたちまでも、幼い一時期をのぞいては、みな灰色である。

古い日本、儀式や形式が「神」となる非人間的な文化は、すでに完全に行き詰まっている。新たな日本は、様式的な知ではなく、深い納得の知=腑に落ちる知=「民知」の支えによってのみ可能だ。これは原理である。

2006.6.20 武田康弘



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エロースの奥儀は、足るを知ることー恋知(哲学)79

2006-06-15 | 恋知(哲学)

技術革新(イノベーション)という名の強迫神経症に陥っている企業活動と、その成果と情報に振り回されている私たちの生活―新奇さを求めることでしか生の実感をもてないまでに深く神経を病んでしまっている現代人。
次を、次を!と叫び、もっと、もっと!と欲望を膨らませることがよき人生だと思い込まされている現代人。
無目的・無思考、自分・人間が生きる意味の探求抜きに、ただ早く多くの練習問題を解くことに駆り立て、駆り立てられる「受験」が命の現代人。

絶対や完全を求め、やみくもに多くの資格、多くの知識、多くの金品、多くの注目、多くの○○、を求める精神疾患を治さないと、現代人は「根源的不幸」の海に沈んだまま浮かび上がれません。

人間に生にとって価値のある世界=エロース・悦びは、「足るを知る」という自足の心がなければ広がらないのです。
自足とは、あるもの=自然=自分を生かす心です。目の前に、足元に、よきもの・美しきものは、無際限に広がっています。知識・履歴・財産などの「所有」に囚われる心が消えれば、エロースはどこまでも広がります。存在するもののよさを見出す力は、沈思する心にのみ宿ります。

にこやかな愉悦の人生・深い思索がもたらす至福の人生は、次々と何かを追い回すのではなく、眼の前にあるよきもの・美しきものを発見する悦びの心が生み出します。「自足」の深い意味は、存在を開示し、存在を生かすということです。

「より少なく働き、より少なく消費する」ことは、多くを味わい、充実した人生をうみ出す条件です。吟味する心・じっくり味わう心・沈思する心がなければ、真によいことは何事もなし得ません。ほんとうによいもの・よいことを、深く知り、味わう人生=エロースの生こそが人間の生きる意味です。「足るを知る」(自足)という心がないと、エロースは暴走し、自滅してしまうのです。

真に価値あるものを多くを生み出すためには、より少なく・・・が条件です。限定することではじめて豊穣がもたらされる、という逆説を知らないのは不幸です。

武田康弘



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仲良くする?仲良くなんかできません(笑)ー「対立」していいのです。

2006-06-10 | 恋知(哲学)

対立を解消する?
一人ひとりが個性的たらざるを得ないわれわれ人間が「対立」するのは避けがたいことです。皆が仲良くなる?そんなこと、あり得るわけありませんよね。
「対立」があっても別段何も問題はないのです。ただ「対立」が他の存在を認めない=「敵対」という言動に至らないためにはどうするか?を考えればいいだけです。

例えば、私は、戦前の日本の「天皇を中心とした神の国」いう考えには、心底怒りを覚えます。したがって、そのような思想と融和することなど、決してありえないことです。ただし、いまなお、そういう想念にとりつかれている人間の存在を否定はしません。そういう人も一人の人間として等しく生きる権利があるという思想を持っているからです。

私は自分の内奥に「至高のよきもの」があると深く実感しているために、外に超越を見るようないかなる思想とも融和しません。私が愛するのは、子どもたちであり、男性原理に侵されていない女性と男性(滅多にいませんが)たちです。自然―美しい海の入り江であり、新緑の深い渓谷です。豊かで「自由な秩序」を持つ音楽であり、「パワフルな安らぎ」をもつさまざまな「もの」たちです。・・・・それらは、至高の幸せをもたらしますが、政治権力が「集団同調の圧力」を利用してつくった想念=思想(保守主義のイデオロギー)は、いやらしく、おぞましく、愚劣であり、忌避すべきものと感じ、心底ケイベツします。

私は、自分の内奥から聴こえてくる声に素直に従いつつ生きること以上に優れた人生はないと確信していますので、特定の宗教を信じる人生は私とは無縁ですし、ある家族(皇族)を尊敬するという想念とも無縁です。

「和合」・「融和」・「融合」を求めるところに敵対(暴力・戦争)も起きるのです。まったく逆で、「対立」は決してなくならないー「対立」していいのだ、という明晰な自覚こそが「敵対」(暴力・戦争)を防ぐのです。

たとえどんなに愛し合っていても「対立」はあるーその認識が「敵対」を防止するのです。
「違っている」のは当たり前ですし、「対立」していいのです。対立を認めることが何よりも大切。「みんな仲良く」という考えこそが「敵対」を招来するという逆説の真実を深く認識したいものですね。

みんな仲良く??―出来るはずのない「理想」を要請するところから悲劇は生まれるのでしょう。私は、「『理想』を語る者こそもっとも警戒しなくてはならない」という言葉を噛みしめたいと思います。

武田康弘




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「哲学知」の獲得ではなく、「哲学する」ための原則について

2006-06-06 | 恋知(哲学)

メール・哲学教師の方たちへ。

哲学するには、その社会で多くの人が使っているふつうの言葉を使わないとダメです。
一般に知られていることばを組み合わせて考え・語るのが原則です。特別な術語を使うと、その言葉の解説になり、哲学するのではなく、知識を教える=披露することになってしまいます。大学の哲学の授業が何の役にも立たず、少しも面白くないのは、講義という名の教師の独白にすぎないからです。
とっくの昔に啓蒙主義の時代は終わっているにも関わらず、いつまでも知識の伝達に過ぎない授業ではお話になりません。
伝達する知識の出所を変えても、目先を変えるだけで何も変わりません。
自分の頭で考えるとはどういうことかを示すには、準備した言説を話すという従来のやり方を根本的に改めないといけません。
いま、リアルタイムで頭を使う=考える頭が実際に使われている現場を学生に見せることが基本条件です。どれだけ思考する頭が使われているか?を授業の現場でそのつど披露するのがほんらいの哲学です。
生徒が「教師の言説の枠組み」に従うしかない話、その枠内での質問しかでないような授業は、どんなに工夫を凝らしても所詮(しょせん)は、ただの「哲学知」の伝達に過ぎず、哲学(恋知)することには全くなりません。このような授業ならば、ない方がマシ。哲学(恋知)することのよさー面白さー有用さを伝えるためには、害あって益なしです。
そもそも、哲学とは、何も知らない=白紙の状態から考える営みなのです。知識を詰め込んだ頭では、思考は止まってしまいます。たえず、「何も知らない」(ソクラテス)という状態に戻して、そこから「考え」を立ち上げる営みを教師が実践するのです。裸になり、裸を皆の前にさらさなければ、哲学することにはなりません。
いまの大学の常識に留まる限り、どう転んでも哲学は成立しないのです。

白樺教育館の「大学クラス」では、プラトンの学園=アカデメイアの精神に基づくほんらいの哲学する営みを毎週土曜日(4時間!)に実践しています。

また、上記の考え=方法は、あらゆる学習=一般教科の勉学にとっても基本となるものです。そのように学習を遇することができれば、人間の生には深くおおきな「悦び」がやってくるでしょう。

民知と共にあらんことを。 
 
武田康弘


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ありのまま、そのままを受容し、愛することーそれ以上はない。

2006-06-03 | 教育

大人の神経質な「知」によって、あれこれ決め付けず、子どものカオス(混沌)を笑いと共に受け入れ、楽しんでいると、次第に大人であるあなたが身につけている常識が狭くつまらぬものに思えてきます。もちろん、それは、何よりも子どもの可能性を広げます。情緒が安定し、健やかな無理のないその子の「よさ」が自ずと出てきます。子どもと共に大人であるあなたも、情報知に惑わされず、既成秩序から解放され、ひろく自由で愉快な人間になれます。

身の回りのことを自分でできるようにさせることと、お手伝いを習慣づける生活をさせること以外は、親が子どもをいじらないことが大切です。何もしないで見ている、ただ黙って静かに口を出さずに見守っていることが子育ての基本です。ああだ、こうだ、と言わずに、ウンそうかと肯定し、ニコニコと話を聞き、子どもと他愛もない会話を楽しむことーそれ以上の教育はありません。それが何より大きな「得」と「徳」をつくります。子どもの自我という芽を(私はこれを「自芽」と呼びます)は、弄(いじ)くれば傷つき歪んでしまいます。大人にできることは、土壌作りだけです。これは人間の生の原理なのです。

洗脳=型はめによる「いい子」を拵(こしら)えることは、人間が人間としてのエロースをひろげる可能性を狭めるだけではなく、心の底に「生への敵意」をもったおぞましい人間を生み出してしまいます。

そういえば、「愛国心」を持った「生への敵対者」を育てることが、かつてのわが国の教育でしたね。天皇陛下万歳!と死ぬ人間が最高の男とされたのでした。人間・社会は、簡単に「狂える」もののようです。特定の思想を、何食わぬ顔で「道徳」と称して子どもに押し付けることがどれほどの罪なのか?まだまだ何も分かっていない人が多いのには、ほんとうにうんざりですね。いまなお、「靖国思想」に郷愁を感じる日本人がいるのには呆れ返ってしまいます。

人間は、意味付与と価値意識なく生きることは不可能です。広義の「思想」を持たずに生きることはできないのです。思想を否定すれば、その社会の支配的な思想=想念を無批判に受け入れるだけの人生=完全に受動的な生を営むだけの存在に陥ってしまいます。そういう受動的な「もの」にされた人間は、こころの奥深い地点で「生への敵意」を持ちます。美しいもの・よきもの=エロース・悦びへの敵意が生じるのです。しっかりとした豊かな思想=考えを、日々の具体的な経験から育むことは、よく生きる上での絶対条件です。個人の自由と責任を基調とした社会では、自分の「考え」を深く大きく育てることが何よりも大切です。自分の経験を元に、自分の頭で「元から考え直してみる」作業=批判精神は、健全な人間と社会をつくる基本条件なのです。

(ひどい話ですが、中学校では、髪をとめるゴムの色まで指定です。いわく「赤のゴムなどしてきたら大変なことになるー中学校の秩序は保てない!」―エロース・よろこびは禁止です。笑止ですが、しかしこれが現実です。)

お父さん、お母さん、
現代の神経質な子育て・教育ほど愚かな所業はないのです。おおきく引いて見ること。時間をたっぷりととることが必要です。眼の前の出来事にピクピク反応する神経症は、「根源的な不幸」しかうまないことを肝に銘じないと、取り返しのつかないことになります。とにかく笑う習慣・親子でふざけ合う習慣をつけましょう!親子とも、にこやかに、ダイナミック、わが道を堂々と歩きましょう。「汝の道を歩め、そして人にはその言うにまかせよ」(ダンテ)です。
私は、現代の「リコウ」な父母たちが、イキイキとしたよき人間の生の「すべて」を終わらせてしまわないように、いつも念じています。

わが日本人よ、おおらかになろう!生きるよろこびをつくりだそう!


今日は、お昼から、白樺教育館で「民知と公共哲学との出会い」の討論会・座談会です。大阪から金泰昌(キム・テチャン)さん来訪です。また大きな飛躍がありそうです(嬉)。

武田康弘


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