思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

長妻昭さんの質問で、厚労省のデタラメなデータが明らかに。今日の国会質問

2018-02-26 | 社会批評

 今日、国会質問で長妻昭(立憲民主党)さんは、厚労省の資料を基に、
月や週として残業時間があるのに一日の単位でみると「ゼロ」になっているという笑い話のようなデータ(厚労省2013年度労働時間等総合実態調査)が100件ほどあることを明かし、加藤勝信厚生労働相は、その誤りを認めました。

 厚労省の調査データは、これまでにも一週間の残業時間が一か月間より長い!?とか、裁量労働制で働く人の1日の実労働時間が1時間以下!?(笑)という記載などが100件以上もあることが判明しています。

 数日前に、安倍晋三首相はこれらのデタラメなデータを基に国会答弁し、その答弁を撤回しましたが、長妻さんは、答弁のもとになった虚偽のデータ自体も撤回すべきと迫りましたが、首相は「(データを精査している中でデータ自体を撤回することは適切ではない」という珍答弁(呆)をするのみでした。

 また、厚労省が情報公開で出したペーパーは、個人や企業の情報ではないのに、一個所を除きすべて黒塗りで、何も公開されていませんでしたが、加藤勝信厚生労働相は公開する気はないとのことでした。もはや日本は民主国家とは言えない異様な国であることが明白です。いまの官僚政府を「革命」しないとまともな政治は不可能でしょう。立憲民主党を中心にした新政府をつくる以外はないでしょう。

 わたしは、今日の長妻さんの質問を聞いていて、つくづく、政権を担い、運営したことの重みを感じました。ポイントが明確で、落ち着きと、余裕感があり、かつ見事なまでの迫力でした。

 それにしても、一般労働者には、「一か月で一番長く働いた日の労働時間」を調査し、裁量労働者には「一か月の平均労働時間」を調査して比べる、という信じがたい手法を考え出した厚生労働者の役人、そういう あまりにも姑息なインチキ調査を指示した人物は、誰なのでしょう。これも忖度?あるいは、政権の裏からの指示?


 武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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ソクラテス教室のML公開ー今年の受験結果のこと、学習への態度(考え方と方法)について。

2018-02-24 | メール・往復書簡

 

以下は、3日前の白樺教育館・ソクラテス教室のMLです。公開するにあたり、固有名詞は記号化しました。

 

 嬉しいお知らせです。

  今年、大学受験をしたのはA君一人でしたが、
 センター入試の「日本史」は100点で、驚きました。わたしと大学クラスのみながよろこびました。
 第一志望の大学の史学科に行きますが、彼は、受験塾や夏期講習などには一度も行かず、自分ひとりで学習し続けました(昨年機械設計者として就職したB君も、小学2年生から「ソクラテス教室」一筋で、一人でこつこつ積み上げました)。

  毎土曜日の「大学クラス(高校生・大学生・社会人)では、3年間に数冊の本を読み、武田の論文を読み、聴き、話し、書く学習を愉快に続けてきましたが、それは、頭の力そのものをアップさせます。そのため受験問題の国語などは易しく感じられます。

 「ソフィーの世界」から始まり、「ソクラテス以前以後」(岩波・ケンブリッジ大学のコンフォード著)、プラトン著の「饗宴」と「パイドロス」ー古典を読み、竹内芳郎の名著「サルトル哲学序説」の一部、「中江兆民と安藤昌益」そして、明治から戦後にかけて日本の良心を代表する経済学者・法学者の「高野岩三郎評伝」など。多くは高校教師でも読んでいないレベルの本ですが、それらを使っての授業は楽しく刺激的です。

 大学では、A君はおそらく研究者の道を目がけると思いますので、わたしもサポートを続けます。
 小学生の時、算数や国語を終えると、マンガ「日本の歴史」(小学館と講談社の両方のシリーズ)全巻を繰り返し読んでいた姿が目に焼き付いています。

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 実は、A君は、夏、勉強に疲れていました。
得意の「日本史」を完璧にしようとして、参考書と教科書をはじめから逐一全部やるという方法でしたので、精神的に参り、ヘキエキしていたのです。

 わたしは、一つひとつ全部を完璧に、という考えはダメ、と言いました。

逆のやりかた、先に問題をやり、理解不足の個所を見つけて、それを単におぼえるのはなく、そこに至る流れ=文脈を理解しつつ知る作業をするように言いました。

 このやり方に切り替えてから、A君は、「やりよい、楽だ」と言い、にこやかさが戻りました。

 これは、何事でもそうなのです。

一から全部やる、という厳しくキツイやり方(受験主義=完璧主義)は、損ですし、使えない頭をつくってしまいます。必要なこと、核心点をつかむ方法=全体をイメージして意味をつかまえるやり方は、はるかに楽で有効で、しかも内容の的確な把握できます。


 みなさんも、がり勉ではなく、有効に集中する学習仕方=丸暗記や公理公式を覚え込んでアテハメル損で辛く、価値のない勉強から解放されてください。お得です。パターン知と丸暗記を中心の学習は、フッサールの言う通りで「単なる事実学は事実人しかつくらない」のです。現代日本の知的退廃を変えるには、意味と本質をつかむ学習仕方へのコペルニクス的転回が必要なのです。


 武田康弘
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今日、千葉県立高校の前期の合格発表があり、

小学生のときから「ソクラテス教室」に通う長~いお付き合いの3人組(I君、H君、Y君)は、揃って合格しました。おめでとう~~~~

 夏休みや冬休みには、白樺教育館のカギを預けていたので、自由に学習していました。自学自習です。

 大学クラスに進めば、昨日のA君のように、「頭そのものを楽しく鍛えるどこにもないお得な学習を体験することになります。

 武田康弘

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皆さん、おめでとうございます。

 考える頭ができてると、ガツガツと長期間、受験勉強せずとも普通の学校には入れるんですね。

 私の息子と姪もソクラテス教室でお世話になりました。
 二人とも事実上半年くらいの受験勉強で大学入試をパス。
 (法政と成城)

 特に息子のほうは高校3年間勉強しない学校でしたので心配だったのですが、危惧でした。
小中学校時の心身を通した学び、意味をつかみ取る勉強、知的好奇心が招く自然な勉強(本人は勉強と思ってない)が地頭(じあたま)・心を育みます。

 そう言ってもなかなか信じてもらえないところが辛いところですが、教育館に来られる方々ならお分かりになると思います。

 ともあれ、合格の報告私もうれしく思いました。

 ちなみに、私もソクラテス教室大学生クラスの生徒です。
 A君の同級生。ただし、63歳ですが(=^・・^=)


 古林 治
 (白樺教育館副館長 ボランティアでホームページ作成しています。
  一応、会社役員でもあります。)

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古林さん、ありがとう~~~
 皆さま、
 以下に、重要な考え方についてお話しますので、ぜひ、ご熟読ください。

 実は、小学生の時から親しく交わっていた3人は、11月、一人が他者(友人)のことを話題にしたのをキッカケに、誰はどうした、誰が何点だった。誰は〇〇高校を受ける、となり浮足立ちました。
いまの大人(親)たちの意識を反映し、情報に振り回され、自分を見失う悪弊を見事なまでに(笑)現わし 「ソクラテス教室」らしからぬ精神状態になりました。

 わたしは、説得的にかつ断固として彼らに話しました。

 いいか!自分だけに集中しなければいけない。これから、決して他者のことを話題にするな、思うな!
受験のみならず、いまの情報社会に従えば、自己を見失う。絶対によい結果にはならない。つまらない人生に堕ちるぞ、生きるに値しない人生しか与えらないぞ、それでは人生の失敗だ。ブッダ(釈迦)の言う通り、従うべきもの、基準とすべきものは、自分自身の沈思以外にはない。自己に集中しろ!!!!

 それ以降、みなは驚くほど自分に集中したのでした。


 武田康弘

 

 

 

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クルレンツィス+ムジカエテルナの映画を見て感動。すみだトリフォニー小ホール 世界を変える!

2018-02-23 | 芸術

 昨日、すみだトリフォニー小ホールで、クルレンツィスと彼がつくった世界最高峰のオーケストラ=ムジカエテルナの映画を見て、感動。わたしの直観が正しかったこともよく分かり、とても嬉しい!!

 まったく予備知識なしに(彼の名も存在も知らずに)チャイコフスキーの「悲愴」を聴いて全身に震えがきたとき、クルレンツィスを《古代ギリシャからの使者だ!》と書きましたが、まさしく彼は、指揮者という職業につく人ではなく、そういう枠組みを超えて、「一人立つ考える人間」で、深く繰り返し考える人生を歩み、古代アテネを想い、古代から続くアテネのフィロソフィーの歴史を意識し、その空気を何よりも尊いとものとしている。それが、彼の口から語られたのには、言葉を失うほどに感動しました。

 それは映画冒頭の「私ではなく、私の原型(イデア)がわたしを動かしている」という言葉からも明確でしたが、わたしは、私の思想=恋知を彼が語るのを聞き、よろこびでいっぱいになりました。

 その方法論=オケのメンバーや歌手に自身のイデーを伝える仕方も、わたしのフィロソフィー(恋知)+教育の方法と全く同じでした。感覚・思索・直観と結びついたイメージの世界から立ち昇るイデアを他者に伝えるのに、実際に歌い、踊り、身体と顔(表情)をフルに用いつつ言葉を使います。猛烈な早口で一つひとつのフレーズを極めて快活に明瞭に歌いながら伝えるのです。笑い、大声を出し、足踏みし、喜怒哀楽を全身で表しながらです。

 わたしの授業を受けている人はご存知のように、それは、わたしの方法論そのものです。以前に書いた通り「全身の細胞で考え、伝える」のです。抽象を「超」がつくほど具体化することで抽象を目に見えるようにするのです。幼児にさえ分かるように(笑)です。それは根源的という意味でラディカルですので、ニッポンの「常識人」には嫌われ、こどもや男性化していない女性たちには好かれます。

 クルレンツィスの恋知、発言や行動とつくりだす音楽を聞いて、わたしは、50数分間、ただ悦びが全身に広がるのに身を任せていました。彼を、指揮者を職業とする人と見るのは完全に間違っています。彼の音楽は、コパチンスカヤと同じく、人生そのもの、生活であり、思索であり、一人の人間として生きることのすべてなのです。彼は、「システム人」「事実人」(事実として人であるだけ))とは対極にある、最も人間味にあふれた人間です。豊かな価値を創造し、さまざまな意味が横溢する人間なのです。

 音楽は人間の生であり、音楽は恋知であり、音楽は生活です。音楽は音楽なのではありません。日本人のもつ専門家主義、餅は餅屋というセクショナリズム、型ハマリ、紋切型、形式主義、儀式優先の非人間性とは対極にある「豊かな人間精神」です。しなやかに全身で生きること、柔らかく自由な発想ー生き方、厳禁の精神とは対極のエロース溢れる人生、恋愛と直観の力による神秘性と肉体性の結合です。

 まさに、21世紀が何よりも必要としている レボリューション スピリット。

武田康弘

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YouTubeの映像からつくりました。


書斎 兼 音楽室 兼 客間  友人のピアニストの吉田まどかさんは、「プロメテウスの部屋」と命名(笑)

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リピート安倍首相は、日本をもとからダメにする。戦前思想の肯定者の底なしの愚行・悪行。

2018-02-22 | 社会批評

頑固に、
断固とした言い方で、くり返し何度でも同じことを言うこと。
ウソも百回言えば本当になるとした「ヒトラーに倣え」とは、正直な麻生副総理の言だが、
安倍首相の「夜郎自大」と「厚顔無恥」には、批判者もウンザリしてしまい、正しいことを言う方がバカバカしいと思わせるほど(笑・呆)。

昔のふつうの自民党を代表していた福田元首相や先ごろ亡くなった野中元幹事長やなど多くが安倍首相を厳しく批判してきたが、まったく聞く耳を持たず、明治政府がつくった「戦前思想」を是として、西側マスコミからは極右政権という烙印を押されている安倍政権を支持するという国民では、情けないを通り超して、言葉もない。

カミソリの後藤田と呼ばれた元官房長官が、「安倍君だけは総理にしてはいけない」と言った通り、ウソで固めた独裁政権は、NHKをはじめ主要マスコミも抑え、ヒドイ情報の偏りは、ニューヨークタイムス元東京支局長が「これほど異常な民主主義国は見たことがない」というありさま。

日本は、主権在民の民主政治より官僚政府が上に立ち仕切る官府政治がよく似合うのか?
こんな政治のありさまを批判しない人は、「非国民」」ではないのかな(笑)

 

武田康弘

 

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日本人が金メダル!?羽生結弦の存在の魅力の普遍性はナショナリズムとは無縁。

2018-02-17 | その他

 
 2015年12月12日バルセロナで。
   撮影は、高須 力さん


 見事な個人です。国とか国家ではなく、羽生結弦の存在の魅力です。

その精神、スピリットとマインドの善美を演技に視て感動しましたが、
それは、ニッポンちゃちゃちゃというような低次元の世界とは全く無縁の普遍的な感動でした。
【個人を称える】とした≪古代ギリシャのオリンピック精神≫そのものを感得しました。

 昨日と、今日の羽生の演技が終わった直後に出したfbです


 武田康弘

羽生結弦君と宇野昌磨君、「個人」としての優しさと強さの魅力ーー新しい世代の自由な飛翔に乾杯!----昨年のblog

 

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2月14日は、「恋知の会」 明治政府が作った「国家エゴイズム」という思想を穿つ講義です。

2018-02-12 | その他
明後日の水曜日=2月14日は、≪恋知の会≫です。
1時開場、1時30分開始~4時30分まで。
テキストは「恋知」第3章(武田康弘著)です。
私とエゴと公共の本質を穿つ講義をします。
明治政府がつくった「国家エゴイズム」という思想についても詳しくお話します。
その後は自由対話をたっぷりと。
会員でなくても参加できますので、ご遠慮なくどうぞ。参加費は2000円。
我孫子市白樺教育館にて。



武田康弘
 
 
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明治維新がつくった精神は、エゴイズムです。今年で150年。

2018-02-11 | 恋知(哲学)

「私」と「エゴ」の違いーーの続きです。


対米戦争を決定した二人
=岸信介(安倍晋三の祖父)と東条英機
「戦前思想」(天皇現人神という国家エゴイズム)の政治家の代表者。



何がよいのか、ほんとうなのか、と問うことなしに、
自己の利害損得、
家族の利害損得、
所属する組織や団体(学校・会社・役所・組合・サークルなど)の利害損得、
自国の利害損得、
に固執して、「閉じた」世界に生きれば、それはエゴイズムです。
個人エゴイズム、家族エゴイズム、組織エゴイズム、国家エゴイズム。

明治政府の富国強兵政策は、一人ひとりの私の欲望を愛国主義のもとに国家への欲望として統一し、滅私奉公を合言葉にしましたが、これは、広く世界に開かれた関心・興味・欲望ではなく、日本に閉じた関心・興味・欲望でした。
日本国家という概念は、あくまで言葉=概念ですから、それを目に見えるものとする必要が、天皇とその家族=皇室でした。日本を象徴する特別な人間・家族を置くことで、国体という概念を子どもにも分からせようとする政策で、小学1年生から天皇像を毎日拝ませ、日本国への忠義の心=愛国心を養ったわけです。

「閉じている」というのがエゴですが、個人のエゴを開かせるのではなく、閉じたまま国家レベルに拡大するのが「国家エゴイズム」です。明治以降、よく「日本に哲学なし」といわれるのは、私を開いて、普遍性のある「よい」を探求する営みがなく、私を国へと拡大して利害損得を求める日本のありようが必然的に生みだす精神です。

だから、公(おおやけ)と呼ばれる国家(天皇や皇族はそれを象徴する役割を担わされている)と、閉じた私(エゴ)はセットですし、
開かれた私(普遍性を目がけるわたし)と公共性(市民みなのという意識がつくる社会性)はセットです。

私を活かさないと(開かれた私でないと)公共性はつくれませんし、逆に、公共性を生むためには、開かれた私である必要があります。

後者を現実のもとのするには、幼いころより自分で考え・意見をもてるようにする子育てが必要です。自分が何かをした、どこかに行ったという「事実」ではなく、自分はどう思い、いかに考えるか、それをどのように語るか、という「意味」充実の世界がつくれないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。

戦前の国家エゴイズムは、戦後は個人エゴイズムになりましたが、このエゴイズムの不毛性からの脱却は、これからの最重要な課題と思います。
明治維新の深く大きな負の遺産を清算しないと、日本の未来が開けませんし、一人ひとりの幸福はつくれないでしょう。

武田康弘

 

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ムストネン ピアノリサイタル(2018.2.10))独創的だが、頭脳プレーで肉体性に乏しいために感動がない。

2018-02-11 | 芸術

オリ・ムストネン ピアノリサイタル(2018.2.10)すみだトリフォニーホール



フィンランドを代表するピアニストで作曲家、指揮者でもあるムストネンのリサイタルには深く考えさせられました。

はじめのシューマン「子供の情景」から、独創的な演奏で、スタッカートを多用し、表情付けは創意工夫の塊でしたが、まったくというほどに音楽に入れないのです。情緒と情感に乏しく、自然さがないのです。
すべて頭で考えられ、つくられた音楽からは、少しもよろこびがやってきません。1年3カ月前に王子ホールで聴いたイエルク・デームスの情感と色香の「子ども情景」、89歳のピアニストが醸す魅惑の音楽とは正反対です。デームスには、肉体の奥から発する豊かな身体性がありましたが、ムストネンは頭だけです。

優しくていかにも人のよい笑顔、誠実で一生懸命なムストネンは、誰とでも仲良くできそうな人ですが(よい会社員にもなれるでしょう)、その音楽は肉体の力ー身体性に乏しく、底から湧き上がるエネルギーがありません。だから、理屈抜きの楽しさや悦びがないのです。その不足感を頭で補おうとするので、独創的になるのですが、それはプラスの価値をもたず、ただ他と違うだけです。

結果は、感動がなく、聴衆もごく一部のファン以外は、通り一遍の拍手でした。NHKが入っていたので、テレビ放映されるでしょう。

メインのベートーヴェンの熱情ソナタも一生懸命に頭で考えた演奏なので、音も音楽も統一感がなく、いくら強奏しても軽くて、面白み・感動がありません。幼いころから英才教育を受けたまじめな努力家の彼がとても気の毒に思えました。

音楽に限らずですが、生々しい肉体=身体性を土台にもたないと、やることなすことすべて宙に浮き、豊かな世界・魅力ある世界・意味充実の世界・野性味のある強靭な精神世界がつくれず、空回りになり、生命感あふれる生きたものにならないことが改めて分かった演奏会でした。


武田康弘

 

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篠田桃紅さん(美術家105才)の真実から学びたい。

2018-02-03 | 学芸

以下は、今日、2月3日の「東京新聞」夕刊です。ぜひ、お読みください。
わたしは、『103歳になって分かったこと』(篠田桃紅著)を以前読んで、深く感動しましたが、今日のインタビュー記事はそのエッセンスです。

 

こどものころ、習字の練習で、手本をまねることに強い違和感をもった。

「だって、ニセモノをつくるってことでしょう。それがうまいとお点がよくなるって、変じゃない」

 

女学校では、制服に抵抗した。スカートのひだを細くし、先生から注意を受けた。

「あたくしは、あたくしに似合うものをと思っただけ」「自分を表現するところからアートが生まれる」

 

私は、みなが『珍獣』であればいいと思う。人のことなんか気にしないで、自分なりのやり方を通せばいい。周りと同じほうが楽って人も、多いでしょうけど。

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エゴイズムから脱出する条件は、自分の意見を述べること。エゴイズムと集団同調主義はセットです。

2018-02-01 | 恋知(哲学)

 エゴイスティックな人、
分のプライべートな世界が全ての人。
日本では、それは家族主義、家族エゴイズムとして現れることも多いです。

 自分が考え行為することの中には、「プライべート」と「仕事」のほかに、「公共的・社会的」な行為もありますが、後者には関心がなく、心も頭も時間もお金も狭い自己にしか使わない人がいます。そういう人がエゴイストです。

 閉じた世界で生きていて自他を幸福にしない行為ですが、それがどれほど愚かでいやらしいことかの自覚がないので、いつまでも自我は開放・解放されず、エゴの中でうごめきます。狭い損得の観念に呪縛されているので、悦びや明るさのない自分の人生が、自分自身のエゴの精神によって作り出されてることが分かりません。そういう人は、必ずというほど、他者批判・社会批判をしますが、それは、いつもピント外れです。自覚されないエゴイズムは、「他者を悪者にし批判することで自分のアイデンティティを確立する」という精神構造をもつために、救いがないのです。悪者がいないと自分を保てないわけです。なんとも不幸ですが、自分で気づかない限り一生そのままです。

 公共性のあること、公共性を豊かにすること、公共性を生み出すこと(公共性とは役所関連のことではなく、市民の自発的な行為や普遍性のある理念を実現しようとする営み)を考え、行為し、お金や労力を用いているか否か、それが社会人・公共人としての基本条件です。

 残念なことに、高学歴者で、いまの政治や文化を批判する人の中には、公共人としての行為をしていない人が多くいます。損得勘定が先立つ「せこい」人で、かえって、保守派で「ふつう」の人(「エリート」ではない人)に、公共性をもつ人が多いように思えます。いわゆる「賢い人」は、自分の労力もお金も出さず、本を読んで理屈ばかりという傾向があります。ヘーゲルの「他者承認」の哲学などを援用し、自らの社会的地位の正当性の根拠にして公共的な責務から逃れ、自分の仕事や趣味にしか取り組まないというのでは、エゴイストというほかありません。

 こうしたエゴイズムからの脱出は、他者承認を得ることー社会的な地位を上げることでは果たせません。周囲の価値意識に同調し、他者承認を求める生き方では、エゴイズムから離れるどころか、逆にエゴイズムの固定化=強弁にしかなりません。醜さ、濁り、汚れのエゴイスイズムから解き放たれて自由で豊かな公共的人間として生きるには、自己の考えを主張する営為が必要です。自分の意見をきちんと言わないと、いつまでもそのままです。

 自分が感じ思うことをよく見つめ、自覚して、自己を偽らないことから始め、その自己が感じ、想い、考えることを言葉にする努力が必要です。黙っている人は、いつまでも閉じたエゴの世界から抜け出すことができません。言葉=態度の表明があるとはじめてエゴは、それを批判検討できる可能性をもつからです。何も言わないおとなしい人はエゴイズムとは無縁なのではなく、閉じた人です。それでは、一生涯、エゴイズム(プライベートと「仕事」だけ)にとどまり、開かれた公共世界とは無縁に生きることになります。多くの日本人に見られる主張しない人生は、閉じた生であり、自己の想念を固定化してしまい、エゴイズムの陥穽に堕ちています。エゴイズムからの脱出は、「私」からはじまる人生を生きること、自己を主張するところから開始されるのです。

 繰り返しますが、私が感じ、想い、考えることにつき、それを表現すること・主張することがないと、いつまでもエゴイズムの世界から抜けられず、自分も周囲の人も社会も幸福にしません。開かれた「私」がつくる悦びの多い人生が始まりません。自由闊達な精神が育たず、形式や儀式ばかりのツマラナイ生しかつくれないのです。内容ではなく形式が先立つために、勝ち負けにこだわり、上とか下とか=外的価値を基準に生きるほかなくなるのです。競争主義者で、楽しく豊かな人間性をもちません。何より大切なのは、内なる心、内的価値、内的意味充実であるのに、それが分からないのです。

 エゴイズムの反対は、集団同調主義や空気を読むことではではありません。それらは、エゴイズムを固定化するアイテムに過ぎません。表面は反対に見えるエゴイズムと集団同調主義は、実はセットであり、同じことの表裏です。

 「私」からはじまる人生を歩み、私という個人の意見を育て、私が責任をもつこと。周りの思惑で動かず、がエゴイズムからの脱出の条件です。「私」からはじまる人生を歩むことがエゴイズムの対極にあるのです。個人の自由と責任の意識が弱いとエゴイストに陥ります。しばしば組織人・団体人が見せる悪は、彼らが個人として生きないために、組織エゴイズムに堕ちている証左であり、さらに愛国という名の国家主義は、国家エゴイズムとなるために、言語に絶する悪=人間抑圧や殺害を平気で行うのです。個人のエゴイズム組織のエゴイズム国家のエゴイズムもみな人間を不幸にする思想です。「市民みなのために」という公共性をもたないのです。

 エゴイズムは、他者を否定し、戦争に至る愚かで想念で、とても危険です。

 

 結語として、以前書いた「『私』の意味本質」(「恋知」第2章)を載せます。

 いま、わたしは「自分自身から発し」と書きましたが、この「自分」=「私」から発するという言い方は、多くの哲学・思想関係の研究者が誤解・混同しているように、エゴイズムにつながるものではまったくありません。こういう混乱が生じる原因は、「私」という言葉を、存在と所有の二面を区別なく使う習慣にあります。存在とは≪豊かさ、優しさ、愛らしさ、強さ、大きさ・・・≫のことですが、所有とは≪知識、履歴、財産の量≫のことですので、次元を異にする概念です。

  「私」から発する・「私」を中心に考える・「私」の関心と欲望から始まるという思想を、【所有】という意味で見れば、確かにエゴイズムに陥るほかありません。俺は専門知識の所有者だからふつうの人間より優れているとか、金品・財産を多く持っているから人の上に立つ人間だとか、高い学歴・職歴を所有しているから、あるいは政治権力を持つ人間だから偉いというような想念は、おぞましいエゴイズムそのものです。

  しかし、「私」の健康な心身をつくる実践・「私」の主観性の知を鍛える営み・「私」が憧れ想う世界への探求・・・・「私」の【存在】を優れた魅力あるものとする努力という意味で「私」につく・「私」から始まる・「私」の関心と欲望と言えば、それは、人間の生の基盤=原理であることが了解されるでしょう。善美を憧れ求める心は、「私」からしか始まりようがなく、「私」に位置づくほかにありません。この簡明な原理中の原理を明晰に自覚することで「自他の存在」は始めて意味づき・価値づきます。美辞麗句や衒学哲学や上下倫理という人心支配のインチキ思想ではなく、自他の存在を深く肯定できるほんものの思想は、「私」からしか始まりようがないのです。

  最後に重要な事実を。

 存在のよさを目がけるという意味での「私」につくことは、その子(人)の【存在】が肯定されていれば、誰でもが始める自然な行為です。その子(人)の関心と欲望が否定されたり、操作誘導されたり、閉じ込められたりせず、自由意志が尊重され、心身全体で愛されれば、人は、誰でも「私」の存在を優れた魅力あるものにしようとする営みを始めます。怠惰で醜い存在にはなりませんし、知識、履歴、財産の【所有】の量によって威張る愚か者にもなりません。

 

武田康弘

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