エゴイスティックな人、
自分のプライべートな世界が全ての人。
日本では、それは家族主義、家族エゴイズムとして現れることも多いです。
自分が考え行為することの中には、「プライべート」と「仕事」のほかに、「公共的・社会的」な行為もありますが、後者には関心がなく、心も頭も時間もお金も狭い自己にしか使わない人がいます。そういう人がエゴイストです。
閉じた世界で生きていて自他を幸福にしない行為ですが、それがどれほど愚かでいやらしいことかの自覚がないので、いつまでも自我は開放・解放されず、エゴの中でうごめきます。狭い損得の観念に呪縛されているので、悦びや明るさのない自分の人生が、自分自身のエゴの精神によって作り出されてることが分かりません。そういう人は、必ずというほど、他者批判・社会批判をしますが、それは、いつもピント外れです。自覚されないエゴイズムは、「他者を悪者にし批判することで自分のアイデンティティを確立する」という精神構造をもつために、救いがないのです。悪者がいないと自分を保てないわけです。なんとも不幸ですが、自分で気づかない限り一生そのままです。
公共性のあること、公共性を豊かにすること、公共性を生み出すこと(公共性とは役所関連のことではなく、市民の自発的な行為や普遍性のある理念を実現しようとする営み)を考え、行為し、お金や労力を用いているか否か、それが社会人・公共人としての基本条件です。
残念なことに、高学歴者で、いまの政治や文化を批判する人の中には、公共人としての行為をしていない人が多くいます。損得勘定が先立つ「せこい」人で、かえって、保守派で「ふつう」の人(「エリート」ではない人)に、公共性をもつ人が多いように思えます。いわゆる「賢い人」は、自分の労力もお金も出さず、本を読んで理屈ばかりという傾向があります。ヘーゲルの「他者承認」の哲学などを援用し、自らの社会的地位の正当性の根拠にして公共的な責務から逃れ、自分の仕事や趣味にしか取り組まないというのでは、エゴイストというほかありません。
こうしたエゴイズムからの脱出は、他者承認を得ることー社会的な地位を上げることでは果たせません。周囲の価値意識に同調し、他者承認を求める生き方では、エゴイズムから離れるどころか、逆にエゴイズムの固定化=強弁にしかなりません。醜さ、濁り、汚れのエゴイスイズムから解き放たれて自由で豊かな公共的人間として生きるには、自己の考えを主張する営為が必要です。自分の意見をきちんと言わないと、いつまでもそのままです。
自分が感じ思うことをよく見つめ、自覚して、自己を偽らないことから始め、その自己が感じ、想い、考えることを言葉にする努力が必要です。黙っている人は、いつまでも閉じたエゴの世界から抜け出すことができません。言葉=態度の表明があるとはじめてエゴは、それを批判検討できる可能性をもつからです。何も言わないおとなしい人はエゴイズムとは無縁なのではなく、閉じた人です。それでは、一生涯、エゴイズム(プライベートと「仕事」だけ)にとどまり、開かれた公共世界とは無縁に生きることになります。多くの日本人に見られる主張しない人生は、閉じた生であり、自己の想念を固定化してしまい、エゴイズムの陥穽に堕ちています。エゴイズムからの脱出は、「私」からはじまる人生を生きること、自己を主張するところから開始されるのです。
繰り返しますが、私が感じ、想い、考えることにつき、それを表現すること・主張することがないと、いつまでもエゴイズムの世界から抜けられず、自分も周囲の人も社会も幸福にしません。開かれた「私」がつくる悦びの多い人生が始まりません。自由闊達な精神が育たず、形式や儀式ばかりのツマラナイ生しかつくれないのです。内容ではなく形式が先立つために、勝ち負けにこだわり、上とか下とか=外的価値を基準に生きるほかなくなるのです。競争主義者で、楽しく豊かな人間性をもちません。何より大切なのは、内なる心、内的価値、内的意味充実であるのに、それが分からないのです。
エゴイズムの反対は、集団同調主義や空気を読むことではではありません。それらは、エゴイズムを固定化するアイテムに過ぎません。表面は反対に見えるエゴイズムと集団同調主義は、実はセットであり、同じことの表裏です。
「私」からはじまる人生を歩み、私という個人の意見を育て、私が責任をもつこと。周りの思惑で動かず、がエゴイズムからの脱出の条件です。「私」からはじまる人生を歩むことがエゴイズムの対極にあるのです。個人の自由と責任の意識が弱いとエゴイストに陥ります。しばしば組織人・団体人が見せる悪は、彼らが個人として生きないために、組織エゴイズムに堕ちている証左であり、さらに愛国という名の国家主義は、国家エゴイズムとなるために、言語に絶する悪=人間抑圧や殺害を平気で行うのです。個人のエゴイズムも組織のエゴイズムも国家のエゴイズムもみな人間を不幸にする思想です。「市民みなのために」という公共性をもたないのです。
エゴイズムは、他者を否定し、戦争に至る愚かで想念で、とても危険です。
結語として、以前書いた「『私』の意味本質」(「恋知」第2章)を載せます。
いま、わたしは「自分自身から発し」と書きましたが、この「自分」=「私」から発するという言い方は、多くの哲学・思想関係の研究者が誤解・混同しているように、エゴイズムにつながるものではまったくありません。こういう混乱が生じる原因は、「私」という言葉を、存在と所有の二面を区別なく使う習慣にあります。存在とは≪豊かさ、優しさ、愛らしさ、強さ、大きさ・・・≫のことですが、所有とは≪知識、履歴、財産の量≫のことですので、次元を異にする概念です。
「私」から発する・「私」を中心に考える・「私」の関心と欲望から始まるという思想を、【所有】という意味で見れば、確かにエゴイズムに陥るほかありません。俺は専門知識の所有者だからふつうの人間より優れているとか、金品・財産を多く持っているから人の上に立つ人間だとか、高い学歴・職歴を所有しているから、あるいは政治権力を持つ人間だから偉いというような想念は、おぞましいエゴイズムそのものです。
しかし、「私」の健康な心身をつくる実践・「私」の主観性の知を鍛える営み・「私」が憧れ想う世界への探求・・・・「私」の【存在】を優れた魅力あるものとする努力という意味で「私」につく・「私」から始まる・「私」の関心と欲望と言えば、それは、人間の生の基盤=原理であることが了解されるでしょう。善美を憧れ求める心は、「私」からしか始まりようがなく、「私」に位置づくほかにありません。この簡明な原理中の原理を明晰に自覚することで「自他の存在」は始めて意味づき・価値づきます。美辞麗句や衒学哲学や上下倫理という人心支配のインチキ思想ではなく、自他の存在を深く肯定できるほんものの思想は、「私」からしか始まりようがないのです。
最後に重要な事実を。
存在のよさを目がけるという意味での「私」につくことは、その子(人)の【存在】が肯定されていれば、誰でもが始める自然な行為です。その子(人)の関心と欲望が否定されたり、操作誘導されたり、閉じ込められたりせず、自由意志が尊重され、心身全体で愛されれば、人は、誰でも「私」の存在を優れた魅力あるものにしようとする営みを始めます。怠惰で醜い存在にはなりませんし、知識、履歴、財産の【所有】の量によって威張る愚か者にもなりません。
武田康弘