下のブログの続きです。
茶所博士2010年10月29日 20:25
お答えいただき、ありがとうございます。
現在の教育が行き詰まっているのは誠に同感です。望みもしないことを強制して、当局に都合のよい「人格」を作るための組織であり、それが崩壊しているということは、子供たちが悲鳴を上げていると言うことにほかなりません。
私も、子供の頃は悲鳴をあげたいのを我慢し続けていて、親も教師もぜんぜん理解してくれませんでした。義務教育で逃げ場が他になく、教師たちが権力者、さらに言えば独裁者となっているのですから地獄でした。
現在、このような教育現場が崩壊しているのなら、変に手助けせず、生暖かい目で見守るだけにするのが親切というものです。
大人の勝手な押し付けではなく、子供たちがおのずから求めるものを学べる仕組みが必要なのでしょう。吉田松陰の教育方針がまさにそれで、生徒の個性を見極めて当人に合った指導をしていました。
タケセンさんの塾が21世紀の松下村塾となることを期待します。義務教育が崩壊したら、役目が増えると思いますから。
石橋湛山の場合、日蓮宗ということが大きそうですね。鎌倉時代から当局に反抗し続けてきた宗派ですから。
現代日本人に足りないのはこの反逆の精神ですね。
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タケセン2010年10月30日 13:59
以下は、石橋湛山の言葉ー思想です。
「国民として生きる前」「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に、人は人として生きなければならないのである。なんとなれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も。その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものだからである。もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変革せねばならぬ。(「国家と宗教および文芸」明治45年)
「良妻賢母」という概念ー言葉を生んだ国粋保守主義への痛烈な批判、女性もまた「推しも推されぬ一個人」として遇せられねばならぬことの力説、「明治神宮建造」の愚、ミリタリズムへの徹底した批判、「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためではない。」と述べ、
「ルソーの人民主権論」に立って、明治のおわりから大正にかけて、生活・社会・政治・学問のあらゆる場における民主化を訴えました。役人の支配=官僚による政治からの脱却を「第二の維新」と名づけ、行政の一大改革なくしては、わが国の行き詰まりを打開できない、と強く主張しました。
昭和に入り、15年戦争の時代には、よく知られているように、厳しい政府批判を繰り返し、戦後は、すかぶらさんの言う通り、靖国神社の廃止を主張しました。このように徹底した民主主義を貫いた人が、第55代総理大臣となり、全方位の平和外交を大胆に進めた時、病に倒れたのは、なんとも残念です。その後継が戦犯でアメリカべったりの岸だったのですからーー。
『石橋湛山評論集』(岩波文庫)は660円です。とてもお勧めです。
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茶所博士さんのコメントと関係しますので、古林さんの「渋谷学園」へのコメントを以下に貼り付けます。民主主義を根本から破壊するのは、差別・選別主義=エリート教育にあるのですから。
中・高一貫高化は格差社会へのブースター (古林 治) 2010-10-30 12:56:44
先日、NHKの『百年インタビュー』という番組に出ていたロナルド・ドーア氏の話はとても興味深いものでしたので紹介します。
ロナルド・ドーア氏は25才で初来日(1950年)して以来、60年間、日本を観察してきた社会・政治経済学者です。
インタビューの一部を簡潔にまとめます。
『新自由主義はレーガン政権時代に始まったが、当時の日本も規制緩和という名目で共同歩調をとり始めた。それ以来、日本の社会は(一部問題はあったにせよ)共同体特有の良さを失い続けてきた。その良さとは同胞意識である。
経営者と従業員の格差は拡大し、株主への配当も上がり続けた。会社は従業員のもの、という観念は消えうせ、株主のものでひたすら利益を極大化するのが目的であるとされた。(ドイツは法律で役員の半分は従業員代表として、半分は株主代表として、という規制がある。)
この新自由主義への方向性をリードしてきたのが、米国へ留学し(MBA)、90年代に官庁や大企業でリーダーとなった人々である。彼らは米国留学を通じて新自由主義の洗礼を受け(洗脳され)、日本を変えてきた(破壊した)のである。経済学者の中谷巌(いわお)氏はその典型。今は転向したけど。
その流れはますます激しくなる。単に経済格差が広がるだけではない。文化的な断絶が起きつつある。
かつては工場長と一番下の労働者には同胞意識があり、互いに腹を割った話をすることがよくあった。だが、今は事情がまったく異なる。11歳から中・高一貫高に入るエリート子弟とそうでない人々の間に交流はもはやない。10代の前半期に隔絶されてしまうのだから。
優秀といわれる子弟たちは、そうでない人々を、「あの人たち」と呼び、蔑むような階級社会がすでに現れている。まるでかつてのイギリスの階級社会のようだ。
自己の利益と経済効率のみを追求する、この新自由主義を推し進めてよいのだろうか。自由、平等、博愛(同胞への意識)は人類永遠のテーマであるが、このままでは日本の社会は崩壊する。日本人はそのような社会を望むのか。』
私もまったく同感なのです。
いろいろな意見があるでしょう。
議論する価値は大いにあります。
茶所博士2010年10月29日 20:25
お答えいただき、ありがとうございます。
現在の教育が行き詰まっているのは誠に同感です。望みもしないことを強制して、当局に都合のよい「人格」を作るための組織であり、それが崩壊しているということは、子供たちが悲鳴を上げていると言うことにほかなりません。
私も、子供の頃は悲鳴をあげたいのを我慢し続けていて、親も教師もぜんぜん理解してくれませんでした。義務教育で逃げ場が他になく、教師たちが権力者、さらに言えば独裁者となっているのですから地獄でした。
現在、このような教育現場が崩壊しているのなら、変に手助けせず、生暖かい目で見守るだけにするのが親切というものです。
大人の勝手な押し付けではなく、子供たちがおのずから求めるものを学べる仕組みが必要なのでしょう。吉田松陰の教育方針がまさにそれで、生徒の個性を見極めて当人に合った指導をしていました。
タケセンさんの塾が21世紀の松下村塾となることを期待します。義務教育が崩壊したら、役目が増えると思いますから。
石橋湛山の場合、日蓮宗ということが大きそうですね。鎌倉時代から当局に反抗し続けてきた宗派ですから。
現代日本人に足りないのはこの反逆の精神ですね。
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タケセン2010年10月30日 13:59
以下は、石橋湛山の言葉ー思想です。
「国民として生きる前」「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に、人は人として生きなければならないのである。なんとなれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も。その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものだからである。もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変革せねばならぬ。(「国家と宗教および文芸」明治45年)
「良妻賢母」という概念ー言葉を生んだ国粋保守主義への痛烈な批判、女性もまた「推しも推されぬ一個人」として遇せられねばならぬことの力説、「明治神宮建造」の愚、ミリタリズムへの徹底した批判、「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためではない。」と述べ、
「ルソーの人民主権論」に立って、明治のおわりから大正にかけて、生活・社会・政治・学問のあらゆる場における民主化を訴えました。役人の支配=官僚による政治からの脱却を「第二の維新」と名づけ、行政の一大改革なくしては、わが国の行き詰まりを打開できない、と強く主張しました。
昭和に入り、15年戦争の時代には、よく知られているように、厳しい政府批判を繰り返し、戦後は、すかぶらさんの言う通り、靖国神社の廃止を主張しました。このように徹底した民主主義を貫いた人が、第55代総理大臣となり、全方位の平和外交を大胆に進めた時、病に倒れたのは、なんとも残念です。その後継が戦犯でアメリカべったりの岸だったのですからーー。
『石橋湛山評論集』(岩波文庫)は660円です。とてもお勧めです。
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茶所博士さんのコメントと関係しますので、古林さんの「渋谷学園」へのコメントを以下に貼り付けます。民主主義を根本から破壊するのは、差別・選別主義=エリート教育にあるのですから。
中・高一貫高化は格差社会へのブースター (古林 治) 2010-10-30 12:56:44
先日、NHKの『百年インタビュー』という番組に出ていたロナルド・ドーア氏の話はとても興味深いものでしたので紹介します。
ロナルド・ドーア氏は25才で初来日(1950年)して以来、60年間、日本を観察してきた社会・政治経済学者です。
インタビューの一部を簡潔にまとめます。
『新自由主義はレーガン政権時代に始まったが、当時の日本も規制緩和という名目で共同歩調をとり始めた。それ以来、日本の社会は(一部問題はあったにせよ)共同体特有の良さを失い続けてきた。その良さとは同胞意識である。
経営者と従業員の格差は拡大し、株主への配当も上がり続けた。会社は従業員のもの、という観念は消えうせ、株主のものでひたすら利益を極大化するのが目的であるとされた。(ドイツは法律で役員の半分は従業員代表として、半分は株主代表として、という規制がある。)
この新自由主義への方向性をリードしてきたのが、米国へ留学し(MBA)、90年代に官庁や大企業でリーダーとなった人々である。彼らは米国留学を通じて新自由主義の洗礼を受け(洗脳され)、日本を変えてきた(破壊した)のである。経済学者の中谷巌(いわお)氏はその典型。今は転向したけど。
その流れはますます激しくなる。単に経済格差が広がるだけではない。文化的な断絶が起きつつある。
かつては工場長と一番下の労働者には同胞意識があり、互いに腹を割った話をすることがよくあった。だが、今は事情がまったく異なる。11歳から中・高一貫高に入るエリート子弟とそうでない人々の間に交流はもはやない。10代の前半期に隔絶されてしまうのだから。
優秀といわれる子弟たちは、そうでない人々を、「あの人たち」と呼び、蔑むような階級社会がすでに現れている。まるでかつてのイギリスの階級社会のようだ。
自己の利益と経済効率のみを追求する、この新自由主義を推し進めてよいのだろうか。自由、平等、博愛(同胞への意識)は人類永遠のテーマであるが、このままでは日本の社会は崩壊する。日本人はそのような社会を望むのか。』
私もまったく同感なのです。
いろいろな意見があるでしょう。
議論する価値は大いにあります。