人類思想の三分類 「儒教・儒学」 「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と、「恋知」
わたしは、神は唯一なり、神は実在する、神の声、神に従う、などという一神教は、嫌いというより、困った思想であると思っています。
その絶対神=超越神を真似て「疑似一神教」(天皇現人神)をつくった伊藤博文らの明治維新の過激な人たちの思想は、愚かで危険だと見ています。少なくとも近代社会の常識から見れば、異様な思想であることは明白です。
こういう異様な心=何かに憑りつかれた精神に陥ることのないように注意し、生き生きと自由で健康な精神=自己判断能力を育てようとするのが、現代の教育の基本的な使命であることは間違いありません。
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では、現代にまで影響を与えている人類の三つの思想について概観してみましょう。
歴史的に一番古いのは、紀元前6世紀に現れた孔子です、それは儒学となり、その流れは、朱子学や陽明学を生みました。陽明学の実践・行動重視の考え方は、+にも-にも働き、最近では盾の会をつくり市ヶ谷自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫を支えました。
元々、孔子は、当時すでに崩れていた「君主政治」を理想と考えていました。君主政治に戻すべきと考えていた孔子は、君子が踏まえるべき道徳を示しましたが、孔子の死後は民も踏まえるべき考え方・生き方とされ、『論語』として知られます。それは、含蓄に富む言葉や普遍的なよきものに通じる思想も持ちますが、全体としては、上位者に仕える人間の生き方を示しています。孔子の思想は、権力と財力をもつ君子の側の道徳でしたが、持たざる者の道徳ともされた為に、被支配者が耐え忍ぶという逆転が生じたわけです。日本の明治維新の尊王思想(天皇現人神)を支えた水戸学も儒学です。上下意識に基づく道徳であり《人間存在の対等性に基づき互いの自由を認め合う》という民主主義の社会には適合しません。
しかし、いまなお力をもつのは、会社や学校や運動部などで民主化が遅れていて、古い全体主義的な組織運営が根強く残っているからです。日本文化が、内容に乏しく「形と序列」の二文字で収まるのも、儒教・儒学の深い負の遺産と言えましょう。
次には、孔子に遅れること80年、世界の三か所で連続して誕生したのが「実存思想」です。紀元前5世紀にエーゲ海沿岸のアテネに生まれたソクラテス(BC469年)と、インド(ネパール)に生まれたブッダ=釈迦(BC463年中村元説)と、中国にうまれた老耼(老子・BC320年ころ?)。ここで詳しく説明はできませんが、異なる点はあっても、みな、人はどのように生きるか、を国家とか全体の都合(支配者の利害)で考えるのではなく、一人ひとりの心の真実から立ち上げた思想として重なります。
絶対とか厳禁という考え方とは無縁で、誰かに従うのではなく、各自の思考力と対話により優れた考えを導くというディアレクティケー(問答法)により普遍的(自他ともに深く納得できる)考え方を目がけたのがソクラテスです。
人はみな唯我独尊として生まれてきたというブッダ(釈迦)は、すべては縁により起こるという真実を明らかにし、究極の拠り所は自分であり法則である(自帰依ー法帰依)という根本思想につき、慈悲に満ちています。
ソクラテスの思想とブッダの思想は、親近性をもち、基本思想が重なります。それは、両者ともアーリア人と現地人との混合・混血の上に成立しているという事情によるのでしょう。生年も数年しか違いません。両者の死後、紀元前3世紀にはギリシャ王たちと仏教者とは盛んに交流をもち、多くのギリシャ王が仏教に帰依していますし、内容豊かな対話も残されています。超越的な「神」という概念を持たず、人間の思索の力を信頼して対話をする両者は、知恵の協奏といえます。
中国の老子は、無為自然をkeywordに、儒学を批判して差別や権力的な人間関係を大元から断ち、女性原理につくことで平和をつくるエコロジーとフェミニズムの深い思想を展開しました。これら三者は、みな、異なる一人ひとりの人間性を深く肯定し愛する思想で、もっとも根源的な【実存思想】と言えます。
最後は、唯一神への帰依を説くキリスト(神の子)であり、その弟分として生まれたムハンマド(神の教えを伝える者)です。この二つの世界的な兄弟宗教は、ユダヤ民族の国家宗教である「ユダヤ教」から生まれたものです。ユダヤ教の宗教改革として生まれたのがキリスト教であり、その弟分がイスラム教です。この二者の近親憎悪の激しさは、戦い(殺戮・略奪)の歴史=十字軍の長く凄まじい宗教戦争として有名です。
言うまでもなく、絶対神(創造神)に従い信仰するという思想と、上記の実存思想とは、根本的に異なる考え方です。
キリスト教会は、ギリシャ哲学を換骨奪胎することで膨大な神学体系をつくりました。スコラ哲学と呼ばれますが、その改革として出てきたのが17世紀のデカルトに始まる近代西ヨーロッパ哲学です。西欧の学問を明治に直輸入した日本では、哲学といえば、この思想を指しますが、それでは一面的な思想の見方になります。神学の改革としての哲学と言えども、デカルトは代表作の「方法序説」の二部で、神の実在証明を書いているのです。
近代西欧哲学は、本質的にキリスト教の世俗化としての理論体系ですので、スコラ哲学がめがけたもの=人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述しようとする意思を受け継いでいます。そのために、理論は複雑で難解となる宿命をもち、言葉の構築物としての論理の体系となり、カントからへーゲルに至るドイツ観念論でピークに達しました。人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述するというのは、宗教の宣託のようなものでない限り出来えない不可能事ですが、その出来えないことの努力を続けたのが西欧の「近代哲学」だとも言えます。その歴史は、20世紀最大の哲学者といわれたハイデガーが、1966年に行ったシュピーゲル対話で幕を閉じたと言えるでしょう。
シュピーゲル対話では、ハイデガーは、哲学にはもはや何も期待できないと言い、従来の哲学の地位はサイバネティクスが占め、諸科学が哲学の替わりをする、と主張しました。哲学は無力だと繰り返し述べ、われわれ人類にできることは、何百年後かに現れる「神」のようなものを待つだけだ、と言いましたが、これは、ハイデガーの存在論(人間と世界のトータルな解明)の挫折であり、「哲学の敗北宣言」と言えます。晩年、西欧哲学から離れた彼は、日本の親鸞思想に心酔しました。
17世紀に始まり20世紀に終わったのが西欧近代哲学と言えますが、この西欧哲学(キリスト教という一神教がバックボーンにある)は、ルネサンスの運動で明らかなように、古代エーゲ海文明への憧れに端を発していて、ギリシャのフィロソフィー(恋知)を換骨奪胎してキリスト教神学をつくり、その上に乗ったものでしたから、相当な無理の上に建てられた思想(形而上学)の建造物であったわけです。
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わたしの提唱する《恋知》とは、一人ひとりの感じ・想い・考える営みを活発にすることで、意味充実の生を目がけるものです。誰の心にも先天的に備わっている善美へ憧れ心と真実を知りたいという心を不動の座標軸とする生き方ですので、二番目の実存思想と重なります。ソクラテスやブッダや老子に学ぶ温故知新の営みで、日々を支え、未来へ向けて開かれた考え方ー生き方の原理です。
わが国の宗教である仏教と「恋知」は思想の土台は同じなのですが、ただし、色合いはかなり異なります。
「恋知」という発想は、現実的で能動性が強く、開放的で明るいのです。子どものよさに学ぼうとする発想がいつも元にあります。いわゆるネオテニーという人間の特性の顕在化です。
また、とても重要な違いは、性に対する考え方です。「恋知」は、ソクラテスの思想(「饗宴」「パイドロス」)と同じで、恋愛を人間の人間的な生の象徴として捉え、よきものとして肯定します。ソクラテスは、エロ―スという性愛を含む恋愛への情熱を、善美や真実を求める動力源と考えますが、「恋知」も同じく、人間の自然性を尊び、真剣や真面目も、堅苦しいものとしてではなく、それらを、恋愛における態度と同じものとします。更には、老子の思想は女性原理につき、性愛による女男の結びつきを人間の誠(まこと)とします。そのエネルギーが郷里、邦(国)へと広がり、「慈」(博愛・徳)になるとするのです。
次に「恋知」と公共性について簡潔に記します。
恋知という実存思想は、公共哲学を支える「主観性の知」として提示されている通り(金泰昌と武田康弘の哲学往復書簡)、公共性をもち社会に向けて開かれていて、特定の階層による政治や国家主義に対して、明確に否と言い、市民の市民のための市民による自治政治=民主性・民主政・民主制につきます。平和への希求を強くもち、直接攻撃を受けたのではない限りは、あらゆる武器使用と戦争に反対します。
人間の生まれによる上下意識も元から排し、分かち合いという倫理につきますが、これらは、ブッダの思想と重なります。知識や履歴や財産の【所有】の多さに価値を置かず、【存在】そのもののよさ=魅力に価値を見ます。他との比較・競争主義を排し、納得を原理として、誰もがそれぞれの輝き=魅力を発揮できるような思想の態度です。その実現のために、格差を生まない法と制度に基づく自由主義経済を求めます。
わたしは、もちろん、宗教者の考え方ー生き方を否定はしませんが、こどもたちに示すことができるのは、「実存思想」しかないと思っています。一神教を信じることを教えたり、上位者に仕える道徳を守れ、と教えることが「禁じ手」であるのは自明でしょう。わたしの40年以上にわたる教育実践は、上記の実存思想に基づいたもので、それは、心身全体による豊かな愛情と一体です。
1979年~天体観望会 2015年第40回式根島キャンプダイビング(63歳)
2008年1月参議院での討論(55歳) 2014年 白樺教育館・新館落成10周年
恋知 第2章では、一神教ではなく、世俗主義でもない「健康な生き方」を提示しました。
わたしは、恋知2章で、人間の人間としての生き方・考え方の基本を書きました。その土台の提示と共にキリスト教の影響下にある従来の西ヨーロッパ哲学や社会思想への見方、学習の仕方や生活仕方などについての反省と新たな考え方を記しました。
それは、宗教とは異なる「恋知」という広義のフィロソフィーですが、それなくしては、囚われなく自信をもって思想に関連する領域(宗教であれ主義であれ)を検討することはできません。
とりわけキリスト教の強い影響下にある欧米の学問を直輸入した明治以降の日本では、学問に携わる人は、知らぬ間にキリスト教シンパに陥りがちですので、人間や社会の見方には大きな偏りが生じます。その歪みを正すには、一神教(唯一神)によらずに人間の人間的な生の土台が説得力をもって明瞭・分明にされる必要があります。
恋知という広義のフィロソフィーは、そのための基盤です。外部に超越的な「真理」を置かず、自分の心身と頭で感じ・想い・考える営みを座標軸とする生き方以外はないことの明晰な自覚は、何よりも大切です。その考え方に基づき日々を生きる「内発的な生」なしには、何事でも本質レベルにおける前進は不可能です。従来の思想の批判・検討もできません。
恋知という発想=思想は、理論体系ではないですし、宗教性もありません。よき生の原理を踏まえて日々を生きること(実践)で、さまざまな領域でよきものを花咲かせる、という効果をもたらす態度です。知らぬ間に深く効きます。強い宗教(キリスト教や日本の天皇教など)や強固なイデオロギー(マルクス主義など)を必要としない自由でしなやかな生を可能とする原理、それが『恋知』です。
それは、紀元前5世紀に誕生したソクラテス(アテネ)とブッダ(ネパール・インド)、それに続く老子(中国)、また、中世の親鸞(日本)や20世紀のサルトル(フランス)らの実存思想とも重なる人間性を豊かに開花させる思想です。
武田康弘 2018年10月(66歳)
孫のなな&れんの運動会で。
おんぶしているのは、
わたしの知らない女の子(笑)。