思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

官僚と政治家

2007-10-31 | 社会思想

政治家は、お人形!
官僚は、人形使い!
実務を仕事とする官僚が、なぜ、選挙で選ばれた政治家をコントロールできるのか?
民主主義=市民的公共が実現しないわが日本の悲しい現実は、霞ヶ関の官僚が、実質的に政治家を支配しているところに直接的な原因ありますが、
この事務・実務を担当する者の意思が、政治思想と政策を左右できてしまうというのは、日本では、大元に戻して考える哲学次元の営みが乏しいからだ、とわたしは見ています。生活世界の具体的経験を踏まえて、自分の頭で納得できるまで考えてみるという自問自答と、互いにその根のある考えを自由対話によって交換し合う世界がないために、「なぜ、なんのため」の原理的追求ではなく、「どうすればうまくできるか?」という実務的思考だけが大手を振るうのではないでしょうか?

その日本の精神風土は、なにがよりよい考えなのか?の追求を放棄し、ただ多様であればよいという「価値相対主義」及びそれとセットになっている自己感情絶対の「自分教」、それとは反対に見えるが実はひとつメダルの表裏にすぎない「集団同調」による「全体一致」-それは「協調性」という言い方で美化される-の【二つの間をいったりきたりする】現象を生んでしまいます。
絶対や超越という発想とは無縁の「普遍了解性」を求める知的努力は、ダサいもの時代遅れのものとして体(てい)よく排除されてしまうのですが、これは1980年代に隆盛を極めた「ポストモダン」という名の現代思想とうまく符号しています。ヨーロッパのあまりに普遍主義的な哲学への欧米人自身による「自己批判」の尻馬に乗っかって、普遍主義とは反対に「曖昧さと自己感情の絶対化」を得意とする?日本においてポストモダンが言われるのですから、これはもうマジメな突き詰めを一切せず各自が勝手な事を言うだけ、という思想状況―知的退廃しか生みません。日本の大学でも新しい学部ほどこの傾向は強いようです。意味への探求による意味充溢がない知であれば、人間の生とは無縁の「知の為の知」しか生まず、「学」はそれ自体が目的化されて現実に対する有用性を失う結果、面白くなく意味のない「形だけの知」が支配する愚かな世界が現出してしまうわけです。これでは知も学も「職業」か「趣味」以上にはなれません。人間の具体的な生を支えるほんとうの知=恋知(哲学)として考える悦びはないのです。学者がつくった新語や新説を一生懸命に暗記する「バカバカしい知のゲーム」をまともな人や生活者はやりません。
「知」が中心的な役割を担う現代社会では、知のありようが、しらずに人間の行動を決め、社会のありようを決定してしまいます。生活世界の具体的経験につき、深く強く考えること、土台・原理を探り、その上にしっかりとした考えをつくることが健康な社会を生むのですが、そういう地味で正当な根のある「知」から逃げ、ポストモダンの知の遊戯―底の浅い言葉や新説の羅列に幻惑されて右往左往する状況では先が見えません。

このように健康な思想がない状況では、ますます、事務・実務という「現実次元」が、政治思想という「理念次元」を配下に治めるという逆転現象に拍車がかかり、その時々の状況と都合でただ流れゆくだけという事態にしかなりません。「なぜ、なんのため」という原理的追求をパスし、「どうすればうまくできるか」という実務的思考ですべてが決まるのですから、問題の本質的解決は出来ません。原理・本質・理念などの目に見えないものには関わらず、ただ実務的能力をつけ事務仕事をこなせばいいのだ、というのであれば、人間の生はエロースを失い、灰色の時空間が支配するしかないでしょう。

理念・ロマンなき現実とは、みすぼらしき現実しかうみません。理念・ロマンなき現実には意味がないのですが、そのことを深く了解できている人は、あまり多くはないようです。「人間は物質的欠乏には耐えられても、意味の欠乏には耐えられない」(竹内芳郎)はずです。

官僚と政治家のことで書き出したら、こういう話になってしまいましたが、日本の「思想なき現実主義」が根源的な不幸を生むことだけは確かです。

武田康弘






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「公」と「公共」の問題

2007-10-30 | 恋知(哲学)

?役所が市民の利便性をはかる仕事を「公」(おおやけ)の仕事と呼び、
個人や民間団体(例えば白樺教育館の活動)が市民的な利益をはかる仕事を「公共」と呼ぶとすれば、もちろん「公」と「公共」は異なるものです。単純化して言えば、前者は一般的な利益をはかる仕事であり、後者は普遍的な利益をはかる仕事だ、と言えましょう。
?わたしが、官の仕事を公と呼んで市民的な利益と分けてしまうのはダメだ、というのは、「官」が市民的な利益とは異なる独自の「公」という領域をつくり、その場所に居直ることは許されない、という意味です。

わたしの教育の仕事は、経営形態は個人ですが、その内容においては極めて公共性の強いものです。しかし、「私」から始まる個人経営の形態であるために、公共的な仕事とは一般には認められてきませんでした。わたし自身は、31年間一貫として「公共的な仕事」であると考え、そう言ってきましたが。だから、わたしは、「私」からはじまる個人経営であっても、それは内容によって「私」に留まらず「公共」である、と考えるわけです。その場合は、「公」と「公共」とは明らかに区別されます。

そういうわけですから、?の視座から言えば、役所の仕事(「公」)と私から始まり皆の利益を生む仕事・活動(「公共」)は当然異なるもので区別されますが、?の視座から言えば、「官」はあくまでも市民の共通利益をはかるために存在するのですから、それ独自の公を持ってはならず、公共の利益のために、というところに常に照準を合わせて仕事をしなければいけない、ということになります。

なお、わたしは30年間以上、?の公共的な活動・仕事を続けてきたのですが、そこでの「私」は、私的利益を追求する私ではなく、「私の可能性を社会的現実において開き、社会の中で私を活かす私」(6月14日の書簡「自己という中心から公共は生まれる」)であったわけです。ほんとうの「公共」とは、己を犠牲にして得るものではなく、広く社会全体を私(たち)のものとする発想・知恵であり、広義の「得」を生むものです。「私」を堀り・開発することが「公共世界」をつくるわけです。その公共をこそ「官」(税金でつくられた公共実現の機関)はサポートするべきであり、利潤の追求を目的とした企業活動と結びつき便宜をはかるのは、言語道断と言わねばなりません。これからは、【「私」から始まる市民的公共】が称揚されねばならず、大企業の【企業的私益】と政・官が結びついた社会は、人間を営利存在としてしか見ない文化を生み、多くの人を堕落させ、全体を不幸にしていくだけです。

【私から始まる市民的公共】とは、これからの「自然環境 内 存在」としての人間の生―新たな豊かさ・内的な悦びの生をつくるために最も必要な概念・思想である、とわたしは思っています。30年間以上にわたる不変の確信として。

武田康弘




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金泰昌・武田康弘の往復書簡・第二次「恋知と楽学の哲学対話」ドキドキの展開!!

2007-10-29 | 恋知(哲学)

5月から6月にかけて行われたキムさんとわたし(武田)の「恋知と楽学の哲学対話」(クリック)は、『公共的良識人』紙(京都フォーラム発行)の7月号・8月号に掲載され、嬉しいことに、多くの読者の方から絶賛を浴びました。

その続きの第二次「恋知と楽学の哲学対話」は、9月5日から始まり、昨日のわたしの分ですでにA4(1400字)で23枚を越えています。これは、金泰昌さんのお考えにより、前回のように途中でインターネット(白樺教育館・ホーム)に公開してご意見ご感想を受けることはしないで、いきなり『公共的良識人』紙の11月号か12月号に載せて、新聞の読者を驚かせようということになっています。

したがって、いま全文を公開することはできませんが、その内容は、極めて本質的な話になっていて、ドキドキ・ワクワク・ハラハラの緊張感に富んだものです。全文が載れば、また、同時にインターネットで公開されれば、話題騒然!!笑(自画自賛ですみません)だと思います。なお、『公共的良識人』の7月号、8月号は、京都フォーラムで入手できます。電話06-6344-2715 Eメール institute@felissimo.co.jp

上記のようなキムさんのお気持ちがありますので、まだ全文を公開できませんが、このブロに、以下にわたしの一日分だけを公開しますので、前後を予想?してみて下さい。


民主主義の原理からの出発は、「公」ではなく「公共」を生む。2007年10月22日 武田康弘

キムさん、論じなければならない点がいろいろありますね。
ゆっくり楽しみながら往復書簡による恋知(哲学)対話を続けたいと思います。

まず、「日本では政治権力の正当性の暗黙的根拠が天皇の文化的象徴的権威によって担保されている」というキムさんのご意見ですが、外国の方が見るとそのように見えてしまうのだな、と思いました。確かに「象徴天皇制」とは極めて曖昧で、明晰な分析を拒むために、さまざまな解釈を呼び寄せてしまうものでしょうね。
わたしは、日本の皇室はイギリスの王室とは違い「神話的世界」に留まる文化的象徴であるべきで、現実政治の領域には関与しないのがほんらいの姿であると思っています。明治政府がつくった「近代天皇制」は日本の伝統とはひどく異なるものですが、「天皇史観」の徹底で日本史は大きく改竄されてしまいました。歴史を正しく民衆史として見ると(NHK大河ドラマなどは「英雄史観」を刷り込む歪んだ放送です)日本には500年以上前からの民主政治・自治政治の伝統があることが分かりますが、これについては、池上裕子(成蹊大学教授)さんらの優れた日本史研究家にお聞きになられるのがよいと思います。

話を戻しますが、「国民の主権は、特にその行使は、何らかの装置もしくは誰かの人格に象徴的、もしくは法制的に仮託・代理・代表させるというかたちを取らざるを得ない」というキムさんのご見解は、原理次元の話と現実具体次元の話を混ぜて語られているように思えます。民主主義とは、理念としては直接民主制―自由対話による自治のことです。もちろん現実においては不可能(とくに国単位)なので代議制をとるわけですが、それがよいのではなく、そうするしかないからです。あくまで理念次元に直接民主制を置かなければ、代議制もその正当性の根拠を失ってしまいます。また、市民社会の成熟・テクノロジーの進歩に応じて直接民主的な手法を多く取り入れていくことも重要で、現に地方政治からその方向に向かっていますが、これも理念次元に直接民主制を置いているから可能なわけです。

また、前回の書簡内容を繰り返しますが、「天皇に仮託された主権」というキムさんのご意見は、そこから市民・住民自治を進める上でのよき結論が導き出せないと思いますので、わたしはその見方をとりません。

次に公と公共の区別ですが、わたしは原理次元でこれを区別する思想は、国民(市民)主権の民主主義社会においては成立しないと見ます。国民(市民)的な公共性とは異なる公を担う「官」(行政機関)を認めることは、原理に反すると思うからです。
 以下にわたしが考える「民主制の原理」について簡潔に記してみます。
 まず、言葉の定義ですが、行政機関の機能・役割・仕事をひと言で「官」と呼ぶことにし、市民の共通利益になる考えや行為を「公共」と呼ぶことにします。この場合、「官」は、それ独自の組織を持ちますが、その組織の存在理由は、市民の「公共」を支え、実現するところにあります。
 明治憲法(欽定憲法)下の日本の場合には、「官」が市民的な公共とは別に「公」という国家的な公共をもちましたが、それは、主権者が天皇であり、国民は臣民と位置づけられ、天皇の赤子とされたからです。しかし、現・日本国憲法下の日本では、主権者は国民(市民)であり、国民(市民)に税金で雇われている行政マンは、主権者の公共的利益を実現するために働く義務を負う訳です。
 したがって、市民的な「公共」とは別に「官」独自の公共=公を置くことは、原理上許されないはずです。「官」とは、「公共」の中にあるのであり、官と公共が並立しているのではなく、「公共」を支えるためにのみ「官」は存在するのですから、公共⊃官なのです。

 わたしは、以上の「主権在民という民主制社会の統治原理」の深い自覚が何より大切で、それが曖昧だと全ては砂上の楼閣になってしまう、と考えています。
 キムさんの言にもありますように、民主制の社会を前に進めるためには何をどう考え、どうしたらよいのか?それが社会問題を考え、解決するための最良の立場・視点のはずです。「自由の相互承認」に基づき、主権者の共通利益を探っていく営みが民主制社会における広い意味での政治であり、そのために何より必要なのが「自由対話」です。民主主義という思想を深めてゆくこと=民主主義を哲学することが「公共」を実現するための基盤であり、自由対話は民主主義による統治=自治の実践であって、それにより「公共」は現実のものとなるのでしょう。

 以上は原理上の話ですが、翻って現実を見ると、市民的公共は、官の独裁的とも思える強権によって押さえ込まれ、国民は、自分たちが税金で雇ったはずの官僚に逆に支配されているようです。官僚は威張り、実際上大臣さえ更迭できるほどの「公」をもち、その権力は天を突くほどです。外国の学者が日本を「官僚独裁国家」と規定するのも頷けます。
 ほんらいは、市民の公共を実現する機関・組織である「官」が、市民的な公共性とは異なる(上回る?)独自の公共性=「公」を持っているかのように振舞っています。厚生労働省が製薬会社の利益を「公」と考えて市民の命を犠牲にしたり、文部科学省が独自の「公」の思想によって教科書検定という思想統制を行ったり、警察や検察の「公」を建前とした人権軽視は後を絶たず、冤罪天国になるほどで、例を上げたらきりがないわけですが、このような彼ら「エリート官僚」の言動を支えているのが、市民的公共とは分立した国家的「公」という想念ではないでしょうか。
ひろく市民の英知につくこと以上の価値=国家の「公」があるという妄想を官僚が持つのは、彼らが歪んだ受験知の勝者で、国家公務員上級職という特別な地位にあるからでしょう。試験秀才は、思考力や想像力や創造力などの人間の最も人間的な能力においてはかえって劣っていることが多く、いわゆる正解が決まっている問題を早く解くだけの「パターン人間」です。わたしが「東大病」と呼ぶこのステレオタイプの頭脳の官僚は、前例に従って仕事をこなすに過ぎないのですが、「テスト秀才」であるが為に、自分を優秀だと思い込み、市民的公共以上の価値=「公」を持てるという反・民主主義的な倒錯した世界に生きるのです。
このイマジネーションに乏しい試験知=規格知=官知に基づく「お上意識」の横行が、日本社会からエロースを奪っているのですが、この有害な「公」という想念を生む「知」のありように現代の人間・社会問題の深因があることを指摘したのが、キムさんが「深い感動と熱い共感」をもたれた「白樺フィロソフィーと民知の理念」であったわけです。

わたしは、民主主義社会の原理につくならば、「公」とは幻想に過ぎず、原理上は、市民的公共以外に「公共」はなく、「官」の仕事は、国民からの委託で「公共」を支え、実現するものであり、官僚は国民のサービスマンである、と考えているのです。官僚は、「公」なる幻想上の花を愛でるのではなく、「公共」実現のための国民のサービスマンたれ!!
以上がわたしの見方ですが、それは、「公」と「私」を媒介する「公共」というキムさんのお考えとは、残念ながら整合しません。現実論、運動論としての理論を考えるキムさんと、原理を踏まえることに重きを置くわたしの立場が「違い」を生んでいるようです。わたしは、原理を繰り返し捉え返す営みによって現状に対する根底的な批判をしてくことが、遅いように見えても最も有効で早い現実変革への道だと考え、実践してきた者です。なぜなら、原理的思考の内実を豊饒化することが、不退転の意思を生むだけではなく、臨機応変・当意即妙の自由でしなやかな現実対応をも可能にすると思ってきたからです。

また、「私」の捉え方の違いも大きいのではないか?と思うのですが、長くなりましたので、今日のところはここまでにして、次回に書きたいと思います。キムさんとの認識及び基本視座の違いは違いとして尊重しつつ、お互いに更なる協力を進められたら幸いだと思う次第です。キムさんはいかがお考えでしょうか?

武田康弘









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ソクラテスのディアレクティケーだけが・・・

2007-10-27 | 恋知(哲学)

以下は、白樺ML内のメールです。

うんと原理的な話ですが、
なぜ、ソクラテスが実践した問答法(ディアレクティケーー)だけが,その後の世界で、圧倒的な普遍性を獲得したのか?インドや中国の思想ではなく。

わたしは、大きく3つの理由があると思います。
?ふつうの話ことばで考えた。
?町のなかで、ふつうの人々の中で行われた。
?権威に従わず、考えられた内容のよさにのみ従った。

これは、現代においても哲学する上での基本だと思います。ぜひ愚直に実践したいもの。

武田康弘




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ベルリオーズの世界ーコミュニティ創設

2007-10-26 | 趣味

ミクシィ内にコミュニティ【ベルリオーズの世界】をつくりました。
以下にその案内文と、「ベルリオーズの音楽の聴き方」と「ファウストの劫罰」についての記事をコピーします。

(参加される方は、ミクシィのメンバーになる必要がありますので、わたし宛にメール( shirakaba2002@k.email.ne.jp )を下されば、ご招待します)

【ベルリオーズの世界】

想像的創造力そのもののようなベルリオーズの音楽を愛でるためのコミュニティです。
形式による統一ではなく、情熱が自ずと形式を与えるようなベルリオーズの音楽のほんとうの素晴らしさは、専門の音楽学者や批評家にはよく分からないようですし、音楽学校で型どおりの音楽教育を受けた演奏者もまたその真価を知らない人が多いように思えます。
想像力がそのまま音になったようなベルリオーズの音楽は、機械化が進み、技術主義が支配し、叙情性が失われた現代では理解され難いのかもしれませんが、人間の自由と情熱と叙情性の回復のために今もっとも注目されて然るべき、と思っています。
わたしは、人間は「想像力動物」(ホモ・イマージネス)だと考えていますが、ベルリオーズほど想像力を刺激する音楽は他にないと感じて三十数年がたちます。同じ気持ちを持つ方はもちろん、これから聴いてみようかな?痺れてみたいな!(笑)という方、ぜひぜひご参加下さいね。

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【ファウストの劫罰】

ベルリオーズは、「幻想交響曲」だけが有名ですが、その真価は劇音楽にあります。
まず一曲という方、「ファウストの劫罰」をぜひお聴き下さい。
演奏は、シャルル・ミンシュの全曲盤、アンドレ・クリュイタンスの抜粋盤などの名演がありますが、わたしは、ジョルジュ・プレートル指揮の全曲盤をお勧めします(クリック)。
エレガントで強く分かりよい演奏です。録音は古いのですが、最新録音のように切れがよく美しい音ですし、二枚組みで1000円は、超お買い得です。余白には、若きベルリオーズの恐るべき天才性が刻印された「クレオパトラの死」が収められています。

35年前に買ったLPは、イギリスからの輸入盤でした。音質が国内盤よりよいと言われていたので購入した記憶がありますが、今も現役(笑)です。
これは、1970年にパリで録音されたもので、ファウスト役のテノールのニコライ・ゲッタ、マルガリート役のメゾソプラノのジャネット・ベーカーが指揮者のジョルジュ・プレートル(46才)と共に笑顔で写っています。フランスの威信をかけてつくられて3年目のパリ管弦楽団、その熱気が伝わってくるようなリハーサル風景の写真もあります。
このフランスの自由主義者・プレートルは、今年で83才ですが、来年1月のウイーンフィルのニューイヤーコンサートを指揮するそうです。

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ベルリオーズを愛して三十数年、突然思い立って今日、【ベルリオーズの世界】というコミュニティを立ち上げました。
劇音楽で長い曲が多いので、あまり一般的ではないようですが、天才という言葉はベルリオーズのためにある、わたしはずっとそう思ってきました。イマジネーションの化身のような音楽は、生涯の宝になります。

聴き方には、ちょっとしたコツがいります。大きな壁画を見るように聴くのです。細部を見るとか、一つひとつの音符を追いかけるのではなく、全体をそのまま感じ取るようにします。理屈や言葉で説明しようという構えを持つと、全くお手上げになります。
イマジネーションを喚起し、解放する音楽なので、全曲をまとめて聴く必要はありません。
大きく構えてアバウトに接すると、そのよさを堪能できます。

みなさん、ぜひ【ベルリオーズの世界】を知ってください。


武田康弘




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【感動】 再び小沢征爾の音楽について

2007-10-21 | 趣味

ほんとうの【感動】とは、
言葉を失わせるもの、どのような言葉も無力であることを悟らせるもの、ただその前に沈黙するしかないもの。
それは自我からの解放であり、解脱であり、大いなる覚醒である。
心はうち震えながらも、静かで透明になり、無言のまま悦びそのものとなる。

そういう心の事態が感動であるとするならば、

小沢征爾の指揮する音楽は、そこからは遠い。
音響としての快や美に留まり、
【感動】=自我からの解脱、精神の覚醒とは無縁だ。
もしこれでよいのなら、音楽の真髄はこの世からなくなる。

武田康弘






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「よくない私」を肯定するー民主制とはご同胞ご同行

2007-10-18 | 私の信条

間違いを犯す私、欲に突き動かされる私、・・・・「よくない私」がそれでも夢や希望を失わずに、よきもの美しきものに憧れて生きるーそのような人間が互いを認め合い、「ご同胞ご同行」で生きるのが民主制社会ではないでしょうか。

「理想的な政治」というのは概念矛盾でしょう。失敗を繰り返し試行錯誤でその都度修正しながら歩むしかないのが人間社会であって、「正しい」理論で政治を行えば、恐ろしい事態を招くのは、すでに歴史が証明済みです。

個々のよくないことや失敗が許容されるから人間は生きられるのであり、個々の悪をすべて無くせば、生の全体が崩壊するしかありません。
個々への潔癖性は、著しい全体不合理を招きます。部分の悪や不合理を許容するゆとりを持ち、個々の「悪」の前に萎縮せずに、「よい・美しい」を目がけるたくましく健康な生を築きあうのが、「ご同胞ご同行」の民主制社会でしょう。

民主主義とは、人間をその存在において深く肯定する思想です。それと対極にあるのがエリート主義で、その思想は人間のありのままの姿を認めず、特定の理想で人を縛りますが、それは必ず生の否定というニヒリズムを招来します。
間違いを犯し、欲に突き動かされながら、それでもよきもの・美しきものへの憧れを持ち続ける「現実の人間」を愛せない思想は、必ず滅びると思います。愛がないからです。

武田康弘




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民主主義の原理について(公共⊃官)

2007-10-16 | 社会思想

何をいまさらとも思いますが、どうも、「学」に従事する人々が流行を追いかけて「原則」を踏まえない人が多いようなので、簡単に民主主義の原理について書いてみました。どうでしょう。

まず、言葉の定義ですが、行政機関の機能・役割・仕事をひと言で「官」と呼ぶことにし、市民の共通利益になる考えや行為を「公共」と呼ぶことにします。

この場合、「官」は、それ独自の組織を持ちますが、その組織の存在理由は、市民の「公共」を実現し,支えるところにあります。
明治憲法下の日本の場合には、「官」が市民的な公共とは別に「公」という国家的な公共をもちましたが、それは、主権者が天皇であり、国民は臣民と位置づけられ、天皇の赤子とされたからです。
現・日本国憲法下の日本では、主権者は国民(市民)であり、国民(市民)に税金で雇われている行政マンは、主権者の公共的利益を実現するために働くわけです。

したがって、市民的な「公共」とは別に「官」独自の公共=公を置くことは、原理上許されません。「官」とは、「公共」の中にあるのであり、官と公共が並立しているのではなく、「公共」を支えるためにのみ「官」は存在するのですから、公共⊃官なのです。
以上の「主権在民という民主制社会の統治原理」をしっかり自覚することがはじめの一歩であり、それなくしてはすべてが砂上の楼閣で、どんな理論も意味を持ちません。

民主制の社会を前に進めるためには何をどう考え、どうしたらよいのか?それが社会問題を考え、解決するための唯一の立場・視点のはずです。
自由の相互承認に基づき、主権者の共通利益を探っていく営みが民主制社会における広い意味での政治であり、そのために何より必要なのが自由対話です。
民主主義という思想を深めてゆくこと=民主主義を哲学することが「公共」を実現するための基盤であり、自由対話は民主主義による統治=自治の実践であって、それにより「公共」は現実のものとなるわけです。

武田康弘。


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小沢・サイトウキネンのショスタコーヴィチ交響曲5番

2007-10-14 | 趣味

小沢征爾指揮、サイトウキネンによるショスタコーヴィチの交響曲5番を聴いて、なんとも複雑な心持ちです。

これは、今月の「レコード芸術」の特選盤。小沢の金字塔であり、かつ同曲の最高の演奏と評されたCDで、2006年の松本におけるライブを収録したものです。
熱演ですし、美しく、終楽章は極めて遅いテンポをとりながら圧倒的な迫力をもちます。

しかし、音が上滑って、深く落ちないのです。上半身だけに力が入ってしまうのを、低音楽器を強奏させることでバランスをとり、迫力を出すような演奏になっているために、音楽自体が自ずと語りだすというのではなく、つくりごとの世界になっています。

現実的な美があり、現実的な迫力・快感はあるのですが、そこまでなのです。
現実の楽器は現実の音として美しく響きますが、精神・理念世界を切り開く力を持ちません。音の刃物が鋭く空間を切り裂き、音によるイデアの世界を開示するという場面は皆無です。

わたしは欧米信仰は持ちませんが、ここに聴くわが小沢の演奏は、ヨーロッパの真髄との深い溝を感じさせます。なんとも残念ですが、もちろん、小沢の演奏に届かない欧米の演奏も多いですので、それもって慰めとしましょう。ショスタコーヴィチのこの曲の真髄を現した演奏は、息子のマキシム・ショスタコーヴィチのものですが、現在は廃盤です。

武田康弘


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理念主義と哲学精神とは対極にあるもの

2007-10-12 | 恋知(哲学)

ある理念、例えば民主主義を、理論として・第二次言語としての世界で語るのではなく、日々の生活の中で具体的に生きて働くものとして活かには、「理念」(民主主義)が生まれる背景や理由を知ることが必須の営みで、それを哲学すると呼ぶわけです。
「理念」から出発したのでは、理念主義にしかならず、哲学することとは背反してしまいます。生活世界における生の現実から出発し、具体的現実に即して思索を深めることは、理念や学の前提から出発する不毛性を超えて、深い納得(腑に落ちる)を生み出すはずです。以下の記事は半年ほど前のものですが、荒井達夫さんのコメントと一緒にして再録します。

2007/03/31のBlog
ある理念が生まれた理由と、ある理念を生む理由の探求ー哲学の仕事

生活世界における個々人の生々しい声(黙せるコギトー)・心の本音、
学として理念化される前の多様な想い、
社会生活の中で失っている赤裸々な自己意識、
これらを一言で「実存としての意識」ないしは、「生の現場」と呼びましょう。

哲学の中心的な仕事は、
さまざまな「理念」が生まれた理由を「実存としての意識」(生の現場)に戻して、そこから分析するものであり、また、ある理念をつくる時には、それがどのような「実存としての意識」(生の現場)に応えるためなのか?を明らかにすることだとわたしは確信しています。

「学」や「理論」以前のありのままの「心」を知ろうとする営み抜きには、「理念」は理念としての意味と価値を持ちません。理念を生きた有用なものするには、生の現場=実存としての意識の場に戻しての考察が必要で、それが哲学するということなのです。ある前提=知識から哲学することはできません。生の現場を体験抜きに知識で見ることはできないからです。

哲学(恋知としての哲学)する営みが弱ければ、人間の生・この世のすべての営みは砂上の楼閣で、後には何のためかは分からない「理念」、意味のない「技術」、知の廃墟、さらに厳しく言えば、人を生きながらにして死者とするシステムが作られるのみです。

【コメント】
[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 07:38]
ある法制度(例えば、人材バンク)について議論する場合、その役割や機能を現実具体的に考えるとともに、その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。
人材バンクは、法の手段。各省による再就職あっせんの禁止が、法の直接目的。官民の垣根をなくして人材移動を活発にすることが、法の間接目的。では、法の究極の目的は何か。それは、どのような理念に基づいているのか。
このような思考、議論がきちんとされていないところに、問題が発生していると考えています。
―――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/04/01 13:48]
荒井さん、コメントありがとうございます。
「その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。」(荒井)
その通りだと思います。こういう一番大切な営為がないのが日本の現状ですね。
ただ、さらにその先を考えるのが、哲学の重要な仕事です。
それは、【ある法の理念が生まれたのは何故か?】を生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業なのですが、これがないと生活世界の「具体的経験」ではなく、ある「理念」から出発することになって、根っ子が切れた理念=理念主義へ陥り、皆の生の実感とはかけ離れてしまいます。哲学するとは、理念がつくられるおおもとを探る営みです。
―――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 17:46]
法制度がどのような理念に基づいているのか、しっかり吟味するためには、「理念がつくられるおおもとを探る営み」がなければダメですね。つまり、哲学なくして法の理念は語れないと思います。そして、それは「生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業」であるということ。実は、私、つい最近になって、このことを意識し始めました。大学クラスで皆さんと、ああでもない、こうでもない、といろいろ話をしているうちに、血の通った思考になってきたように思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田康弘





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「開かれた私=対話精神に富む私」の素晴らしさー綿貫さん古林さん荒井さんのコメント

2007-10-08 | 恋知(哲学)

昨日のブログに対するコメントは、それぞれの視点から内容に踏み込んで新たな展望を与えてくれたもので、まさに「開かれた私」-「対話精神に富む私」の素晴らしさを実感しました。ほんとうに感謝!です。以下にまとめて記事にしますので、ぜひご精読をお願いします。
武田康弘


[ 綿貫信一 ] [2007/10/07 16:15]
単なる「個」とするのではなく、公共世界を拓く哲学的基盤として「【実存】の思想」を置くところがとても分かりやすく、納得!です。
実存という言葉の前では、「個-公」だと単なる対義語のようで、一般化されてしまいピンと来にくく思えます。

理念先行、「自分教」への固執は、常に意識していないとついつい流されてしまいがちです。その方が楽な生き方だからなのでしょう。
そうならないために私は、よく考え、哲学するように心がけています。

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[ 古林 治 ] [2007/10/07 20:55]
社会理論を語る学者さんの多くが、個(実存)の問題に触れたがりません。個の問題は人それぞれだということらしいですが、実際には、個の問題から社会理論へ到る思考の深い掘り下げができていないということなのでしょう。このことがその社会理論の実効性欠如の原因となっているように思います。公共とか民主制を語る場合もおそらく同様でしょうね。単なる理論として語ったところで、現実には何の力も持ちません。
一方、武田さんの言うところ、実に説得力があります。それは武田さんが自らの生(実存)において実践し続けている裏づけ(実体験)と深い思考の掘り下げるがあるからなのでしょう。
社会理論を語る人たちにも自身の実存を鍛えることを望みます。自戒も込めて。

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[ 荒井達夫 ] [2007/10/07 23:32]
「こうしたい、これがいい、という私の心の内側=欲望から出発し、お互いの欲望を認め合い、その上で、集団生活―社会生活の約束事を決めていく。そういう順番で考え、関係性をつくり広げていくのが、公共性を実現するということです。互いの欲望がぶつかり合えば、妥当を導くための話合いをする。どう考え、どう行為したらよいか?【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】が公共世界を拓く鍵です。」
ここには、「公共する」ことの本質的意味が簡明に示されていますね。それは、民主制原理の基盤であり、また、そもそも「哲学すること」とは、そういうことなのではないかと思います。さらに、この説明で、憲法がなぜ思想信条の自由、言論表現の自由や、法の下の平等などを定めているのか、深く納得することができると思います。民主制国家の憲法は、人々に「公共する」ことを可能にするための法制度的保障であると考えるのです。

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[ タケセン ] [2007/10/08 14:06]
綿貫さん、古林さん、荒井さん、
それぞれの視点からの見事な内容のコメント、感謝です。
まさに、一方では、決まりきった上・外からの一般的な道徳=「仮面の生」に誘導する人間性否定の愚か極まる言説があり、また、他方では、「自分教」の中で孤塁を守り、ただ仲間内でしか通用しない幼児的な愚か極まる言説がある。この両者を行ったり来たり、これがわが日本の現状だと思います。「近代的自我の確立」も「他者の優先」も共に貧しい思想・エロースを生まない愚かな想念でしかありません。「個我」を基点にするのではなく、「他者」を基点にする(不可能)のでもなく、「開かれた私」ー「裸の私」-「解放された私」ー「個我ではなく純粋意識としての私」ー「対話精神に富む私」を基点にする、これがよき生の原理ではないでしょうか?そこからしか普遍性のある「公共」は生まれないと思っています。



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「公共世界」は「実存」から生まれるー「自由対話」によって。

2007-10-07 | 日記

一見そうとは思えないでしょうが、現代において公共世界を拓く哲学的基盤は【実存】の思想です。
まず、一人ひとりが自他を「欲望存在」(実存)であることを自覚しなければ、強制は生まれても公共性は生まれません。自他が共に欲望存在であることを知り、それを肯定することがはじめの一歩です。

あらかじめ「よい」の雛形(ひながた)をつくる・道徳や理念を先に置くと、公共性とは、外的なもの=要請や命令に過ぎなくなり、人間の生の現実とはズレていきます。こうしたい、これがいい、という私の心の内側=欲望から出発し、お互いの欲望を認め合い、その上で、集団生活―社会生活の約束事を決めていく。そういう順番で考え、関係性をつくり広げていくのが、公共性を実現するということです。互いの欲望がぶつかり合えば、妥当を導くための話合いをする。どう考え、どう行為したらよいか?【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】が公共世界を拓く鍵です。

奇麗事―いかにも立派な理念・道徳律を掲げると、それはタテマエを生きる自己欺瞞しか生みません。己の「こうしたい」をよく見つめ、その場所からほんとうに自他の納得をつくるにはどのように考え・行為したらよいか、それを実情に即して探っていく現実的な思索でなければ哲学にはなりません。ただ理念を掲げ、そこに向かって歩め、という考え方・言い方は、特定の主義や宗派的思考でしかないのです。

ところが、わたしが見るところ特定の主義や宗教を嫌う人もまた実は自分自身が頑なで、自分の枠内から出ようとせず、【自分教】とでも呼ぶべき精神状態に陥り、他者との精神の交歓ができないことが多いようです。自己感情が癒される範囲でしか生きようとしないために、精神の飛翔がないのです。こういう甘えの精神では、【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】は到底不可能で、その時々の自己の感情世界に自閉する頑なな「自分教」を防衛する生にしかなりません。

これでは公共世界を拓くことなど出来るはずがありません。最もひどい主義や宗派的な生に転落する他ないのです。「自己相対化」ができなければ、自分の生は広がらず、宗派的・党派的・団体的な言動に終始する人生しか得られませんが、そうなれば、生き生きとした実存の輝きは失われて、欲望は自覚されずに背後に隠れて濁り、腐っていきます。欲望は自覚→肯定されないと、ニヒリズム→ルサンチマン→根源的不幸を生みます。

自己相対化―自己解放の試みは、自己を活かす基本条件ですが、それを可能にするのは、自他がリアルタイムで頭を回転させる【自由対話】―精神の交歓です。自分の観念を架空の世界ではなく現実において活かすのは、自分の想念を互いに他者の中で開き合う営み以外にはありません。精神は閉ざせば濁り、腐るのです。

欲望の自覚→実存を開き・広げる営みが基底になければ、「公共」は、要請や命令でしかなくなります。古い「公」の考え方では、権威と序列による上からの秩序化しかなしえないわけですが、これでは納得を生まず、民主制と背反してしまいます。「公共」とは、実存・心の納得に基づく秩序化を目がけるものであり、それを現実に可能にするのが自由対話です。固めた自我同士の駆け引きや取引ではなく、自他の想念の交歓としての自由対話―対話的精神の羽ばたきが公共世界を生むのです。

2007年10月7日 武田康弘


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「公共」とは「私」に依拠している

2007-10-06 | 社会思想

「私」と言っても趣味やプライベートな生活上の私と、社会的な問題に対する言動を行う私、とは次元を異にしています。社会について考え・行動する私は、その言動を他者=ふつうの多くの人の目に晒(さら)すことになるために、必然的に「公共的な私」になります。

この世で現実に生きる私とは、単に私であるのではなく、いつも「公共的な私」と共にあるのです。肝心なのは、そのことをよく自覚することです。それが、現実の社会生活において私が私の可能性を開くための条件であり、社会的な責任を果たすことにも繋(つな)がるわけです。

私―公共的な私が発言し行動するのは、まさに「公共する」ことであり、公共とは、私に依拠しています。政府でも官でも民でもなく、公共の出どころは私であり、私と私の「自由対話」が公共を生むのです。公・公共は、政府や官や民間団体などという【組織・機構】にあるのではなく、その言動の【中身・質】にあるわけで、その良否や程度がどうであるかの判定は、ふつうの市民の自由対話によって導かれるものだと言えます。「民主制の本質とは「対話」・「議論」(ほんとうの自由対話)にある」とは、そういう意味なのです。最大の公共とは、ふつうの市民による自由対話が生み出すもの、これは民主制の原理です。だから議員は市民の「公共的な私」の意思の「代行者」なのであり、代表者ではないのです。ついでに言えば、多数決とは民主制の原理や本質ではなく、手段に過ぎません。

武田康弘




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ベルリオーズの「トロイ人」(ロンドン交響楽団の自主制作版・デイビス指揮の12枚組ボックスより)

2007-10-05 | 趣味

2000年から03年にかけて収録されたベルリオーズ生誕200年記念演奏会のライブ盤(12枚組)の中から、ベルリオーズ畢生(ひっせい)の大作「トロイアの人々」全曲(演奏時間4時間・CD4枚)について。

この想像力そのもののような音楽は、舞台上演上の難しさから全曲が演奏されたのはベルリオーズ死後100年もたってからであり、録音されたのは、ようやく1969年のことでした(発売は1971年)。上記のCDと同じコリン・デイビス指揮で、フィリップスからLP5枚組・一万円で出ましたが、当時19歳のわたしには、ほんとうに高い買い物だったことを覚えています。この世界初の全曲盤は、その後CD化されて今でも入手可能です。ただし、現在国内盤はなく輸入盤だけです。

その後だいぶ時がたってからジェームス・レヴァインの指揮のLD(現在はDVD)が出ましたが、これを見て、なぜこの作品がほとんど舞台上演されないかが分かりました。ベルリオーズのあまりにも高度な音楽、イマジネーションの桁違いの広がりを視覚的に現すことは到底不可能で、そのために舞台を見ても面白くないのです。この想像力をそのまま音楽化したような作品は、音だけで聴く方がよいのです。

CD時代に入ってからの新録音は、シャルル・デュトワ指揮モントリオール響が最初(国内盤は最初にして最後)のものですが、これは蒸留水のような味の薄い演奏で、ベルリオーズの情熱が全く伝わらず、ガッカリしました。この盤が現在国内盤で購入できる唯一のものです(歌詞の日本語訳が付いています)。

さて2003年に発売されたデイビスにとって二度目となる全曲録音(演奏されたのは2000年)ですが、これは、さすがに素晴らしい演奏で、世界初の全曲録音となった30年前の多少の生硬さを残していた熱気が、洗練された情熱となって燃え上がっています。感覚神経と想像力の刺激において最右翼の音楽・ベルリオーズのロマンがいかに高度に洗練されたものであるかがよく分かります。頭を中心に全身に鳥肌がたつような高密度の時間が続きます。(ただし、最初のデイビスの録音の方が鋭さ・迫真性においては上)。

このCDは、イギリスのロンドン交響楽団による自主制作盤ですが、HMVで廉価で入手できます。12枚組みのボックスでなくても、単独で買えますが、輸入盤のCDは二組買うと25パーセントオフなので、例えば、プレートル指揮の名盤―同じくベルリオーズの「ファウストの劫罰(ごうばつ)・クレオパトラの死」クリックを一緒に購入する方がお得です。

情熱と叙情性と想像力の音楽、ベルリオーズをぜひお聴き下さい。


武田康弘




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日本は管理されたリンチ・シゴキ列島!? Zさんとのコメント対話

2007-10-02 | メール・往復書簡

【日本の伝統?ー集団暴行の大相撲】に対するZさんのコメント(ミクシー内)とわたしの応答を載せます。

2007年09月29日 11:56

このようなリンチは何も角界に限った事ではないです。
日本のあちこちにあります。
それは仏教界もそうです。
永平寺に限らず、日本のお寺の修行とやらも
殴る蹴るが当たり前にあります。
ついでに言えば体育会系の部活などそうですね・・・・。
こういう事が特殊な世界という理由だけで容認されている。

角界には角界の掟やしきたりがある。
おそらくは竜虎の指摘はそういう事が言いたかったのでしょう。

しかしシゴキを新入りに課すからには、彼らはそれに相応しい振る舞いや責任を果たしているのか?シゴク側にもシゴクからには振る舞いや責任は問われる筈です。
それが無ければただ単に弱いものイジメのための陰湿なリンチにしか過ぎません。
で、龍虎さん、新入りをシゴクだけの資格がある振る舞いや責任を今の角界が果たしていると断言できるでしょうか?

しかも力士という身体を酷使する武道が出来ないほどのリンチが横行していることをどう考えるのか?

更に言わせてもらえば、もともと相撲とは神事において奉納される儀式をあり、
横綱とは大関のなかでも人間性も含めて優れた存在に対して与えられるものであり、神に近い存在であるがゆえにしめ縄で聖別されるものです。
だから朝青龍は(超人なのだから)ずる休みは許されないし、そういう横綱の器でない朝青龍を選ぶというヘタレばかりやらかしている相撲協会に偉そうにリンチを正当化する資格などあるものか。

相撲という格闘技は古い歴史と我々の誇りを背負っているがゆえに、
このような血で穢されてはならないのではないだろうか?

以上の事を踏まえて思う事があります。

少なくとも多くの若者はこんなアホな事ばかりやっている角界を軽蔑こそすれ、
入りたいとは思わないということ。

他の人間はどう考えているかなんか私の知った事ではありませんが、
別に大相撲が無くなったって全く困らないし、
それこそ陰惨なリンチで新入りをよってたかって殺すようなものなど、
私は御免こうむりたものです。
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タケセン 2007年09月30日 09:20

Zさん、
踏み込んだよいコメント、感謝です。
わたしのブログよりも内容があります。

わたしは幼い頃からテレビで相撲はよく見てきましたし、毎日「砂場」で友達と相撲遊びをしていました。
いまだに(55歳)腰が強く、生徒(大学生まで)や友人で私に勝てる者は一人もいませんーホントウです(笑)。
わたしは、高校や大学で柔道部の連中よりも相撲は強かったですが、一度も運動部に所属したことはありませんし、したがって一度もシゴキを受けたことはないのですが、シゴキを受けた連中よりも強いのは、どういうわけか!?ですね(笑)。実は、自分でスポーツ科学を勉強して、自分に合ったトレーニングを面白く工夫しながらやっていたのです。
集団主義などというものは、人間を弱く愚かにしかしないとわたしは身をもって証明してきたわけです(笑・笑)。
日本の【部活文化】は、上位者に面従腹背するレベルの低いー愚かな人間を生むだけです。

それから、わたしは、神事としての相撲についてはよく分からないのです。単純に面白がっていただけなので、格闘技の一種としか見てきませんでした。したがって、朝昇竜の元気いっぱい・闘志むき出しのやんちゃ相撲はとても面白かったです。
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2007年10月01日 01:21

日本の社会の場合、面従腹背よりももっと屈辱的です。

上位者に面従腹背する事そのものが愚かであるというよりも、
むしろ日本の社会はその上位者がちゃんと責任を取らないで、
下の人間にすべて押し付けてしまう所にこそ問題があります。

上位者にとって何か都合が悪い事があると決まって
意味不明な精神論を振りかざし、問題解決から逃避しようとする。
戦前も戦後も何も変っちゃいない。

面従腹背するというのには、面従腹背する側の利害や思惑があるという
意味で主体的な行動であります。

しかし我が国の場合は「奴隷の軍隊」ですので、
そのような面従腹背すら入り込む余地が無く、
そこには判断停止しかない。

ついでにこのような思考停止の弊害は様々な所で起きています。

例えば、それこそ戦前は鬼畜英米と国民を散々煽ってきた連中が、
敗戦後に舌の根も乾かぬうちにアメリカにゴマをする・・・・。

何でひとりの人間がどうしてこうも豹変出来るのか?
それは主義主張や思想を持っていては、絶対に出来ない事です。
そして誰もが責任を取ろうとしない、取らせない。

このような貧困な精神風土においては、
リンチは日常茶飯事に起きるのではないでしょうか?
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タケセン 2007年10月01日 14:11 さん、なるほどです。

「思考・思想の貧困」のために「面従腹背」も成り立たない!?そういう事態にまでなっているということですね。

考えない、思考力を鍛えないという精神風土の下では、なにもかもが幼児化して、即自的欲望と反射があるだけ。仕事は実務とハウツーで、というわけですね。

思考・全体的判断・個人の自立=輝きのない世界では、人の世界は閉じて集団主義になり、その結果、イジメとリンチの蔓延するおぞましい世界が出現するのでしょう。
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 2007年10月02日 00:50

でも、それは本当の意味での集団主義ですらありません。

集団という概念を表象するには、集団を構成する個という概念が
無ければ成立ちません。

それこそサルトルの謂う所のアンガージュマンという積極性を持たない社会に
集団という概念は存在しないのではないでしょうか?

烏合の衆という言葉によってしか表現出来ない
畜群があるにすぎません。

日本の大衆の圧倒的大多数には集団はありません。

爺さん婆さんどもには「世間」という不可視の陰湿な暴力はあるでしょう。
センター街をたむろしているガキどもには、「マス・メディア」とか「ケータイ」があるでしょう。それはひょっとしたら「ゴーマニズム宣言」なのかも知れません。

しかしこの国には消費者という群れはいても、集団が無い。

もし日本に本当の意味で集団があるのであれば、
そこいらでデモどころか反政府テロが起きています。
社会保険庁の職員は今ごろ虐殺され血祭りにされているはずです。

社会契約を反古にするような政府は、
どのような手段に訴えてでも倒さなければなりません。

でも、そんなことは起きません。
共通した利害を持つものが共闘して、
問題に立ち向かうということはまず起きようがない。
それは本当の意味での集団が存在せず、個人個人が
みんなバラバラにされているからです。

バラバラになった個人はマスメディアに翻弄される。
そこには欲望に群がる群衆はあっても、集団は存在しない。

せめて面従腹背するぐらいに民度が成熟すればマシなんですがね・・・
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タケセン 2007年10月02日 11:55

「烏合の衆」というのは、確かに自覚的な「集団」ではないですね。
「私」がないところでは、無自覚的な集団が結果としてできるだけであり、それは「集団主義」にさえならない、というのは、論理的にその通りだと思います。
バラバラな人がいて、それは「状況」も「私」も自覚的に捉えることがないために、その時々の気分・ムードに流されゆくだけー現代のオートマチックな世界の中では、人間自体もオートマチックになり、流される以外の生き方ができない、というわけでしょう。
この巨大化した管理社会の中では、直接的な「抑圧」の代わりに「システム化」が個々人の自由を奪ってますが、奪われていることが自覚できない不可視の管理になっているために、人は、バラバラなままで、集団にすらなれない不幸に沈む、というわけですね。
朝昇竜の相撲の面白さは、管理をぶち破る幼児的なエネルギーにあった!ということでしょうか?
脱線しましたが、
思想は、イデオロギーにしかならず、哲学は、哲学説のチョイスでしかないー自分の日々の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えることがなくなれば、人間は自動人形のような生を送るしかないわけですが、ここからの脱出は容易ではないです。「優秀者」ほどこのワナに深くはまっています。
?五感・心身全体による具体的経験、?想像力世界への着目と開発、?自問自答による「私」の深化、?自由対話による自他の意識の覚醒と解放この4つをよく行うことをわたしは実践していますが、それはエロースそのものです。

Zさん、よいコメント感謝です。





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