思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

哲学とは? その「本質」・「内容」・「方法」・「目的」

2005-05-31 | 恋知(哲学)

私が考え実践する哲学について以下に簡潔に記します。

哲学の目的はテクストを読むことではありません。
過去の哲学者の本を読むことは、練習問題を解くこと=思考の訓練としての意味を持ちますが、それはあくまでも手段です。
目的は、原理的に考える頭を鍛(きた)えることによって、具体的な諸問題を解析し、『 よい』の内実を吟味―変革―豊饒(ほうじょう)化することにあります。

ソクラテスが看破したように、本来、哲学とは生きた話し言葉=ディアレクティケー(問答法)の営みであり、書き言葉はその影にしか過ぎないのです。 文字とは想起のためのアイテムです。

権威に従うのではなく、多種多様な問題を自分の頭で考え対話することは、人生最大の愉悦です。哲学=考えるとは自由の実践であり、人間としての生のよろこびそのものなのです。


哲学の本質は、恋愛としての知です。資格としての知や優越としての知ではありません。

哲学の内容は、真・善・美の内実です。集積化―体系化された知識ではありません。

哲学の方法は、原理にまで下る思考です。権威に従うことや、丸覚えではありません。

哲学の目的は、エロース豊かな生=存在の魅力化です。知識・履歴・財産等の所有ではありません。
 

2005.5.31 「白樺教育館」哲学の会・案内に書いたものから抜粋してみました。 武田康弘


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靖国「神社」問題を考えるーシリーズ???

2005-05-29 | 社会思想

3つのブログを一つにまとめました。 ご意見。ご感想をお気軽にどうぞ。


?ご存知ですか? 靖国「神社」の主張を。

以下の靖国神社の主張をみなさんはどう思われますか?

靖国神社・遊就館売店の前列で平積みで売られているパンフレットー「靖国神社を考える」からの抜粋です。
(靖国神社の理論的重鎮、東京大学名誉教授・小堀桂一郎の談)

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」ー1999年8月・小堀桂一郎(東京大学名誉教授) 抜粋は、わたし武田です。


?靖国問題ーふつうに真っ直ぐに考えれば答えは実に簡明です。

なぜ、明治政府が人為的に作った「天皇教=国家神道」を否定した現在でも、新興の一宗教法人にしか過ぎない靖国「神社」に強制的に戦死者の慰霊を祭り続けるのか?
誰も「まとも」には答えられない問いです。

ふつうの多くの日本人は、「日本の戦争はすべて祖国防衛とアジア解放の正義の戦争、ゆえに戦犯などいない、戦勝国の勝手な裁判など認めない」という靖国神社の主張(この下のブログをご覧下さい)を認めていません。自民党の右派勢力に引きずられる小泉首相の「幼い信念」と心中したくはありません。

この問題の解決は、すべての宗教に等しく開かれた無=多宗教の「公共墓苑」を創設すること、それ以外にはありません。近代市民社会の原則を踏まえれば、これは議論の余地のないことなのです。

今年はもう戦後60年、政府は一刻も早く「公共墓苑」創設に着手しなければいけません。

『靖国はまず何より国内問題です』 および 『水の国=日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?』をぜひご覧下さい。

2005.5.27 武田


?政治は市民益のためー個人的信条は迷惑です。

もう誰の目にも明らかだと思いますが、構造としての日本政治最大の問題は、「靖国思想」とどう向き合うかです。本来はとっくに清算を済ませていなければならない問題ですが、明治政府のつくった「天皇教=国家神道」の亡霊が自民党内で息を吹き返し、日本の政治を薄気味の悪いものにしています。

「戦犯などいない、戦勝国が決めたことだ」(森岡政務官)と考える超保守主義者に親和的な政治家に対しては、「国家神道」の思想をはっきりと否定して「市民精神」に立脚することが現代政治の「はじめの一歩」だということを明白に示さなければなりません。

現代の民主政治にイデオロギーを持ち込まれては皆が迷惑します。
政治は個人的信念ではなく、ふつうの人々の利益の為に行われるのです。宗教は宗教、政治は政治です。政治家は政治という仕事をして生活費を得ているのであり、個人的信念、宗教、趣味等を仕事の場に持ち込まれては困ります。小泉さん、しっかりわきまえて下さい。

「天皇主義」・「国家主義」も「共産主義」も共に市民の迷惑です。「市民の市民による市民のための政府」でなければいけません。民主制の原理・原則に則ってまともな政治をする義務が政治家にはあるのです。公共善を目がけて納税者の意志を体現するのが仕事なのですから。

「皇族の人権と市民精神の涵養」もぜひ見て下さい。

2005.5.28 武田康弘


 



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ご存知ですか? 靖国「神社」の主張を。

2005-05-24 | 社会思想

以下の靖国神社の主張をみなさんはどう思われますか?

靖国神社・遊就館売店の前列で平積みで売られているパンフレットー「靖国神社を考える」からの抜粋です。
(靖国神社の理論的重鎮、東京大学名誉教授・小堀桂一郎の談)

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」ー1999年8月・小堀桂一郎(東京大学名誉教授) 抜粋は、わたし武田です。





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ヨーロッパ思想のアキレス腱 - 超越性、一般性、普遍性

2005-05-23 | 恋知(哲学)

強い一神教=キリスト教の下にあるヨーロッパでは、しばしば普遍性と超越性が並列して語られます。これは哲学と宗教が同じカッコで括られてしまうことですが、私は普遍と超越(絶対)の根本的な相違に無自覚な「思考」がヨーロッパ思想界のアキレス腱になっていると見ています。ギリシャ哲学のキリスト教化は、アリストテレスの哲学をキリスト教が援用したことに始まりますが、真に世界的な普遍性をもつ思考はこれを乗り越えた地平からしか始まらないのです。キリスト教と哲学を截然と分離することは必須の課題です。


以下に以前わたしが小中学生向けに書いた「3つの正しさ」を載せます。

1. 絶対の正しさ
誰がなんと言おうとぼくの考えはゼッタイ正しいんだ。とか、偉い人(又は神様)が言ったことだからゼッタイなんだ。・・
2. 一般的な正しさ
だいたいこんなところが正解だよ。みんなもそう言ってるし。とか千人からアンケートをとった結果このようになリました。・・
3.普遍的な正しさ
なるほど、そうだなあ。と深く納得する。腑におちる。

 哲学で言う正しさとは、この3.です。哲学では「絶対の正しさ」というものは認めませんし、「一般的な正しさ」では満足しません。
「普遍的な正しさ」をつくるためには、疑い・試し・確かめること。自分の頭でよ一く考えたことを、他のひとに示すこと。これを何度もくリかえしてゆく必要があります。だんだんと多くの人が深くナットクする「考え」にきたえてゆく営みを、「哲学する」と言うのです。
また、科学的な正しさとは、この「普遍的な正しさ」の中の一部分です。(1998年4月8日)


絶対的=超越的な「正しさ」を求める心を生み出す生活の仕方を改めていくことが個人の大きく柔らかなエロースをひろげ、社会から抑圧や暴力をなくしていく鍵です。

何をどのように考えたらよいか?を探り、なるほど、そうだな、と深く納得が得られる考えを自他の中に育てつつ生きることが広い意味での哲学的な生ですが、これを阻害してしまうのが、超越的・絶対的「正しさ」です。

ほんとうによく考えている一部の宗教者は、自身が信じる宗教の深層次元での相対性を自覚していると思います。その自覚がない信仰や宗教生活は自他をけっして幸福にしないはずです。「絶対」とは「物語」に過ぎないことの深い自覚がないと宗教はとんでもない悪にしかなりません。

また「一般」性の世界だけでは、人間は生きる意味を見出せないためにひどい不全感を抱えてしまいます。「ヨーロッパ中心主義」への反動から、それを支える「絶対」を消去しようとして「一般」に逃げ、「普遍性」まで投げ捨てると、相対主義に転落してやはりエロースは消去されてしまいます。

21世紀からは哲学(恋知)の時代に! が私の願いです。


2005.5.23 武田康弘
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凄まじい明治政府の日本史(像)改ざんー推薦!「歴史・ネコ」ホーム

2005-05-20 | 社会思想

明治政府がつくった天皇制の神話ー驚くべき歴史の改ざんは、今日なお多くの日本人を縛っています。

今日でも私たちは、この「壮大な嘘」を前提にして、日本と日本人を理解していることが多々あります。

国家神道という明治政府作成の新宗教(その総本山が靖国「神社」)=天皇制国家の神話を作るために、どれほどのことが行われたのか?

日本人は、今なおこのすさまじい歴史の改ざんの大伽藍に閉じ込められたままでいる!そのことがとてもよく分かる実証的なホームページが「歴史・ネコのページ」です。

作者は私のまったく知らない方ですが、地道な努力に感謝します。
皆さんも、ぜひじっくりとご覧になって下さい。

「縄文時代につながる諏訪の神様」クリック
「平将門」神田明神・国王神社 
朝鮮侵略ー六遊郭
などいろいろです。

歴史・ネコのページ(クリック)http://www.geocities.jp/rekisi_neko/



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「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉? 生きる意味の消去?創造?

2005-05-19 | 教育

シリーズ?
???と合わせて見て下さい。

生きる意味・よろこびを生み出すのが「なぜ?」の意味論

自分の頭を悩ませて、分かった!という歓び。こうでもない、ああでもない、と試行錯誤して「答」を見つけ出した時の喜び。わたしの言う意味の探求=意味として知るとはそういう事態を指しています。人間が生きることー自分の生を内的に価値あるものとすることの条件が、「なぜ?」という意味論=哲学の探求です。

即席メンをつくるように問題と解答を直結させて「パターン」を叩き込む手法―底板(意味思考)のない日本の受験主義は、人間として生きるよろこびを元から消去してしまいます。意味の追求をやめて効率を優先すると、人生は「終わって」しまうのです。内的に人間として生きることができず、外的な価値をカンフル注射されながら生きるほかはない不幸な存在に陥ります。

ハウツー、ノウハウ、その場の現実対応だけがあるという人間、 理念を育てることができず、内的には生きる意味を持てない人間、 形式的に存在するだけの「人間の抜け殻」では悲しいです。これは子どもたちの話ではなく、とりわけ「エリート」職業につく日本の大人に多く見られる問題です。底なしの生の地獄―年間3万数千人の自殺者がでる「人間を幸福にしない思考とシステム」をつくっているのは、意味論=哲学軽視の即物主義、人間の内的価値が分からない外面人間の集合意識ではないでしょうか。

「なぜ?」「何のため?」「何をめがけて?」がなく「やり方」だけがある人は、既成システムの奴隷であり主体性を持ちません。その時々の刺激で左右に揺れ動くだけの存在です。意味論をパスした事実学的な頭が、人生から生きる喜び・悦び・歓びを奪っています。システム化されたカタチだけの勉学・意味論抜きの事実学の緻密化―これが現代日本の「知」の実態です。本来、頭と心は一つです。「なぜ?」の意味論が人間を人間にしていくのです。わたしは時代に抗して、意味論としての勉学を身につけた者同士の「相互主体性」の形成、心身の全体で生きる「実存愛」豊かな子どもと大人を育てる努力を続けていこうと思います。
(つづく)

2005.5.18(19日改定) 武田康弘





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目次3=社会思想-1

2005-05-18 | 目次(番号をクリック)
目次3 社会思想-1

 1.エリート主義VS市民精神(柏市民新聞―依頼原稿)
 2.靖国「神社」とはなんでしょう?
 3.国のため?「国」とはなんでしょう? 〔3と4は一緒に出ます。〕
 4.皇族の人権と市民精神の涵養
 5.市民=シチズンとは?(社会思想の最重要概念)
 6.市民から市民へ リングandウエーヴ
 7.堕ちたNHK 「地上の星」はどこに行った
 8.正鵠を得るー東京新聞―自民党の恐怖!?
10.白昼夢―無条件降伏
11.議員の仕事・前文(理念)
12.自民党の体質(トラックバック)
13.同じ穴の狢―ホリエモンと旧・経営者―べジータが偉い!?
14.ブログの危機!!ホリエモンどころではありません。団結しましょう!
16.続・ブログの危機!!結語ー「人権擁護法」と」「人権委員会」のゆゆしき問題

17. 「日本人は、カエルのように死んでいく」? 隠れた時代の異変―大日向雅美
18.ルサンチマンの政治家―山県有朋の呪縛力!!
19.怒・「石原慎太郎くん、いい加減にしなさい。」横暴な独善者には退場してもらいましょう!
20.ノーと言えるあなたと私に。危ない思想の中曽根康弘、石原慎太郎に「ノー」を!
21.水の国=日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?
22.「靖国」「歴史認識」は先ず、そして何より「国内問題」です
23.天皇家内の対立ー原因は「宗教儀式」にあるとのことです。
24.志賀直哉の2月11日「紀元節」反対ー-明晰で強く、真に説得的な75歳の文章=思想
25.憲法問題のキーは第1条ー封印された『魔法の小箱』を開けましょう!!
26.凄まじい明治政府の日本史(像)改ざんー推薦!「歴史・ネコ」ホーム
27.ご存知ですか?靖国「神社」の主張を。
28.靖国「神社」問題を考えるーシリーズ???
29.9条改憲は目くらましー保守主義者の真の狙いは何か?
30.A級戦犯が合祀されているから「靖国」が問題なのではありません
31.天皇の軍隊の犯罪―「集団で女性を犯し、銃剣で妊婦の腹を切り裂いた、、、」

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「改革」派敗北の原因ー雪崩うつ右傾化=「靖国」思想を復活させれば日本は終わりなのすが・・・

2005-05-17 | 私の信条

わたしは保守派オンパレードの世の流れに「公共的怒り」をもつ者です。明治政府が人為的につくった新宗教=「国家神道」の靖国神社が市民権を持つようなら民主制は終焉するでしょう。もう一度山県有朋が中心となって作り上げた「近代天皇制」を肯定するなら日本は完全にアウトだと思いますが、自民党の戦略は着々と成果をあげています。
国家主義的な強制がまかり通る薄気味悪い世の中を、「実存」を原理とするエロース豊かな社会に変えていかなければならないと考えます。

こういう愚かな世の中=低次元のエロースしかない社会にしてしまった原因のひとつは、改革派と言われる左翼の思想=生き方にあると思います。

その時々の社会の「状況」をどう見るか・考えるか?は、
「学問や勉強」ではないのですが、「理論」が偉いと思ってきた従来の日本の左翼は、それを「学問」にしてしまったためにひどい権威主義に陥りました。権威にすがれば、個々人から立ち昇るエネルギーが消去されるのは当然の話です。象徴的に言えば、体制派以上に「東大病」に侵され、体制派以上に「事実学」の権威に縛られてしまいました。(左翼系といわれる「朝日」の序列―権威主義!)

《存在》そのもののよさを知り、そこにつくのではなく、知識・履歴・財産・の《所有》、左翼の場合はとりわけ知識の所有につく傾向があったために、人間の存在としての力=「人間力」を豊穣化させることに失敗したのです。それが、のびのび自由に「状況」に関わり、発言する力を弱めたのです。イデオロギー=理論に縛られたギクシャクした心身―紋切り型の頭にはまったく魅力がありません。

「理論」を優先し、権威ある「人物」に頼ろうとする思考・心理を元から断つ新たな考え方=生き方が必要だと考えて、わたしは1976年から私塾を開いて自他の改革に取り組んできました。「実存愛」の哲学を創り実践してきましたが、「病気」の根はおそろしく深いです。

「状況」への発言は精密さには欠けても、《自分のことば》ではっきりと言うことが何よりも大切で、そういう行為が「エネルギー」を生むのだと思っています。「理論」ではなく、生きたいまの考えが尊重されないと思考は死んだ無価値なものになってしまいます。主義や団体の発言ではなく、「わたし」の発言を主軸に据えないと改革派は完全に敗北してしまうでしょう。

自分自身の心身や思考や行動を、柔らかくしなやかで自由な愛=「実存愛」によるものに変えていきたいな、というのが私の思いです。

新しい生にむけて、“ここがロドスだ。ここで跳べ。”といきたいものです。

2005.5.17 武田康弘




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憲法のキーは第1条ー封印された『魔法の小箱』を開けましょう!!

2005-05-14 | 社会思想

(以下は、「公共哲学ML」における私の3回のメールをまとめて編集ー改定したものです。)

 
私は、日本国憲法第一条は、落ち着いてふつうに考えてみれば、ずいぶん無理な規定だと思います。生きている人間を、「日本国民全員を統合するシンボルである」と規定するとは、なんとも釈然としない話しです。天皇条項は現代市民社会の常識とは大きくかけ離れているために、子どもに聞かれても説明のしようがありません。誤魔化すしかないのです。一条は日本国憲法のアキレス腱ですが、憲法を論じる人は皆おかしな「魔法」にかけられているようで「素通り」してしまいます。

私は、一条は『主権は日本国の市民に存する』と簡明な記述に改定するのがよいと考えています。
続けて、『首相は日本国の市民による直接選挙で選ぶ』と規定。
『天皇及びその家族は、歴史―文化的存在であり、国政に関する権能は持たず、国事行為も行わない』ことも明記すべきです。
そうすることで、天皇家の人々に現代社会に見合った新しい活躍の道を開くと共に、その人権を全面的に保証することにもなります。

名字も持たず、日本国籍もなく、憲法の保障する基本的人権も適用されない存在とはいったい何なのでしょうか?やはり現人神!? ある特定個人をこのような「不明な」存在にしてしまう権利は誰にもないはずです。今は21世紀です。天皇家に生まれた人間もふつうの市民としての人権がきちんと保障されなくてはいけません。

現在の象徴天皇規定は、意味不明・非論理的で、皇室の人にとっても皇室外の人にとってもうっとうしく不幸です。

私は小学5年生の時に「政治クラブ」創設を要求し入部し、憲法の意味を探り、40条までは暗記もしましたが、1条の天皇条項と、9条の陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない、という戦力の不保持については、論理を超越した「宗教」的規定でしかないな、と見ていました。宗教の経典ではなく、現実の法がこのような論理矛盾を抱えているのは大変危険です。法の意味・価値が消去されかねません。

もうそろそろ、わが日本人も創造性を取り戻し、自由民権運動時の「五日市憲法草案」(全国各地でさまざまな民衆憲法草案がつくられた)のようなものを市民の手で創ろうではありませんか!

市民精神(「エリート主義vs市民精神」を参照)に基づく社会に変えていこうとする私たちに必要なのは、自民党の憲法改正の真の狙いや、その思想的背景を事実に基づいて明晰に解明すること(靖国神社「遊就館」の驚愕の実態は彼らの歴史・世界観の象徴)と、「民・憲法」のダイナミックな創出を同時進行させることだと思います。大きな特権を持たせると同時に基本的人権を剥奪してしまっている一人の個人を「天皇」と呼び、それを「日本国民統合の象徴」としているようでは、よき健全な市民社会を築けるはずがありません。

意味不明、ごまかしの上に立つ社会では、「なぜ?」という意味論―本質学の追及がない国、小学校から大学院まで深く意味を問うことをせず「事実学」を積み上げるだけ(愚劣な受験勉強はそのシンボル)、したがって「情報」と「ノウハウ」だけの底板のない国、全体非合理-「部分合理性」の国にしかなれません。

「人間を幸福にしないシステム」―エロースの乏しい日本社会は、憲法1条に象徴されるような、本質次元でのごまかしをつづける限り「永遠に不滅」でしょう。構造としての日本国憲法の最大の問題とは、天皇条項なのです。

以上は、特定のイデオロギーにとらわれないで、ふつうに静かに考えればあまりに当然の結論です。よほど何かに偏執している人以外は、だれにでも受け入れられる自然な考えだと思います。明治政府が拵(こしら)えた反・地方、反・伝統の「日本像」(「日本のよき伝統を破壊したのは誰ですか?」を参照)にいつまでも縛られていては損です。現実問題を真に現実的に考えるためには、原理的な視点の確保が必要。一見遅いように思えても、「原理」からの見直しが、現実のよき変革には一番有効です。


また、9条の問題については、自衛隊にしても今消去するわけにはいかないのですから、どのように規定したらよいか?を、戦争放棄の立場から明確にする努力が必要です。政治的信念をもった一部の人ではなく、ふつうの多くの人を納得させる普遍性の強い思想を積極的に提示していきたいものです。
9条を守るという「宗教」になってしまえば、必ず敗北します。現実社会にはよき社会思想(論理)が必要です。政治は「宗教」や「個人的信念」ではありません。肝心なのは、戦争放棄の社会思想をより強く現実化させるための創造的思考です。複雑な国際情勢の中で、戦争放棄の思想が実は最も「現実的」であることを能動的に示していこうではありませんか!

「守る」のではなく、新たに「建築」するのです。ベクトルの向きを逆転させましょう。

2005.5.14 武田康弘





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櫻井よしこさんの変心?『社会問題への取り組み』(メール)

2005-05-12 | メール・往復書簡

以下は、白樺同人の高城久さんと私の「白樺ML」でのやりとりです。


武田先生
高城です。

櫻井よしこさんのこのところの発言は
Bさんとは違った意味で危惧しています。

テレビ朝日のサンデープロジェクトに出演した際の発言を聞いていると
対中国、対北朝鮮などへの発言は以前とは違って非常にラジカルになってきています。

1例をあげれば、
小泉内閣4年間の評価は出演者の中で一人だけ落第点だったのですが
唯一評価できることは外圧があっても靖国神社に参拝してることと言っていました。
他にも中国の反日教育への論拠を示さない批判、北朝鮮への制裁強化
などなど以前のリベラルな櫻井さんからは考えられない発言が多すぎます。

しばらく前に武田先生に
北朝鮮への制裁強化の発言は櫻井さんらしくないと言ったら
拉致被害者の方々へ取材を通して、憤りに共感したための過激さだろう、と言っていましたが
何かが櫻井さんの思想を変えたと解釈した方がよいような気がします。

私などは気持ちが熱くなると語り口まで熱くなってしまって失敗することが多いので
櫻井さんを見習いたいと思っていただけに最近の発言の内容を吟味すると
残念でなりません。




高城様。
武田です。

私は、基本的にテレビに出る「人」の発言はあまり「マジメ」には見ていません。(昔、日本テレビのアナウンサー?をしていた頃の桜井さんは、なかなか魅力的!な女性だな、と思いましたが、)

テレビ人の発言は、その時々の「流行」を正逆双方で支えるものです。その役回りに自分を合わせる(られる)人がテレビをつくっているわけですから、そういう世界のショーとして「楽しめ?ば」いいのではないでしょうか?

別に桜井さんという個人の思想がどう変わろうと、どうでもいいことだとしか思えません。
変心!する人も多いですが、本人の人生の選びの問題ですしね。
ただ、私個人としては、強靭で美しい人生=自分の心に忠実な人を愛しますし、社会思想の一貫性は大変重要なことだと考えていますが。

なお、わたしが「転送」したメールの主題はそこにはなく、憲法問題です。Bさんのように個人のキャラクターの問題に眼を向けての批判は、虚しいということです。すでに「負けている」証拠です。社会問題は、社会思想の次元で深く説得的な言説を編み出さなければいけません。個人レベルの「うわさ会議」をしているような「弱い」精神では、戦う前に敗北者です。そのことを強く言いたかったための「転送」メールでした。他山の石とするために。

では、また。




武田先生。
高城です。

武田先生のように階層の違いを見事に見抜ける人は稀なのではないでしょうか?
レヴェルの違うことをいっしょくたに見てしまう人の方が多いのではないでしょうか?

いわゆる論客と言われている人の発言と自分の意見が似ていた場合
それによって自分の意見の正当性の証明をしている「弱い」人が沢山いるのではないでしょうか?
そういう人にとってのポピュリズム真っ盛りの今の世の中、影響は多大だと考えるのですが・・・。

また、
「 テレビ人の発言は、その時々の「流行」を正逆双方で支えるものです。その役回りに自分を合わせる(られる)人がテレビをつくっているわけですから、そういう世界のショーとして「楽しめ?ば」いいのではないでしょうか?」

ここのテレビ人を日本の政治家に置き換えても充分意味が通じてしまいます。
テレビなら楽しめますが、政治となると??

櫻井さん個人のことよりこのことを言いたかったのです。




高城様。
武田です。

もちろん影響はあるでしょうが、左右両方の論客に影響される訳ですから、こういう話は主題にはなりません。

政治家のポピュリズムの問題は、大衆社会では致し方ないことです。
「大衆」から「市民」に成長するための最も大事な課題は、しっかり冷静に物事を見ること、真に説得的な考えと魅力的な生をつくることでしょう。
私=自分自身の「変身」!(変心ではなく)ですね。
自分の「永久革命」?が、社会を変える!というわけですが、新しい自分の開発は人生何よりのエロースです。

繰り返しますが、社会問題を考えるためには「社会思想」の探求が不可欠です。皆がやることはないですが、しっかり考えたい人はそれに取り組むことが必要です。変革のために大事な事は、皆がどうであるかではなく、私がどうするかです。変革のエロースとは縁のない人も大勢いますが、それはそれです。縁のある人がしっかりと取り組めばいいのです。

では、また。失礼。

2005.5.12 



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志賀直哉の2月11日「紀元節」反対ー-明晰で強く、真に説得的な75歳の文章=思想

2005-05-10 | 社会思想

以下は、1958年、志賀直哉が、紀元節による2月11日の「建国記念の日」制定に反対した文書です(このときは多くの反対で制定されませんでしたが、度重なる廃案を経て、1966年、自民党の執念により「制定」されました。翌1967年2月11日より実施)。

この文書は、1958年2月11日の朝日新聞に掲載されたものですが、「白樺文学館」の創設時に「生原稿」を入手しました。岩波の1999年版「志賀直哉全集」第十巻にも納められています(以下は、私、武田の抜粋により半分程度に縮めたものです。旧仮名遣いは改めておきました)。

石原東京都知事の独善的なイデオロギーに基づく言動を批判した3月30日のブログで、「紹介します」とお約束した文書です。


紀元節 志賀直哉

今、紀元節が議会の問題になっているが、どうしてそれ程にこんな事が問題にされるのか私には不思議に思われる。・・・・・

若い人々にとって、信じもしない紀元節を遺されるのはまことに迷惑な話である。紀元節は作られた伝説で、この虚構を迷信にまで発展さして何かに利用しようという悪い考えを持っている者が居ないとはいえないのだ。既に歴史としてはっきり否定されているものを無理に押しつけられることは如何に若い人達に苦痛であるか、もしここで譲歩するといつどういう事が起きるか知れないと思うのは無理のない不安である。また教育者が子供にきかれても返事の仕様もないという、これも立派な反対の理由である。・・

古い国程、こういう記念日はないという。ない事が寧ろ自慢の種になるなら、一度やめた紀元節を多数の反対を押切ってまでつくろうという連中の気がしれない。・・
間違っていた事は段々と正して行くというのが学問だ。その間違っている事を承知で、政府が復活し、国の祝日にしようというのはまことにおかしな話である。

 
志賀直哉75歳、明晰でまことに見事な文章です。イデオロギー臭のない強くさわやかな思想は、読むもの皆が納得します。言うも愚かですが、どこかの「作家」とは次元が違い、比べものになりません。


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うーん、凄い! ♪ラトル・ウィーンフィルの「第9」

2005-05-09 | 趣味

実に素晴らしい!発売時にうかつにも聴き逃してしまい、今、感動し、感激しているところです。2002年の春に録音されたサイモン・ラトルとウィーンフィルのベートーベン「第9」です。

艶やかで華のあるウィーンフィルのよき伝統=「自然」の上に立って、ラトルは大胆で革新的な精神による新しいスタイルの「第9」を生みました。鮮烈な感動を呼びます。過去の名演の多くを「過去の」にしてしまうような21世紀の見事なベートーベンです。(クレンペラー盤の存在の強さ・大きさには届きませんが,終楽章のエロースには痺れます)

神秘性や超越性に逃げることなく、コンセプトの豊かさと明晰さによって健康な音楽をつくり、それが深い感動をもたらすのです。
輝かしく、
明るく、
強く、
自信に満ち、
断固としています。
その姿勢がとても自然で気持ちがよい。
歌うところは十分に歌い、突出させるところは強く突出させます。

ラトルは私と同世代です。ブレルことのない自分を持ち、エネルギッシュで積極的、開かれた信念の持ち主。おおいに共鳴します。音楽と人生に対して「不屈」の闘志をもつ21世紀の洗練されたカリスマに拍手!!

時間のない方は、第四楽章だけでもぜひお聴き下さい。できるだけ大きな音で。全身が痺れること請け合いです。 (東芝EMI-初出盤は2000円)


2005.5.9 武田康弘



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「空気」は論理に先立つ

2005-05-08 | その他

以下は、昨日の『21世紀の白樺派・定例会』で、使った文書のコピーです。


何より大切なのは、「空気」(雰囲気)だと思います。
「論理」はその後の話です。

開けている、
明るい、
のびやか、
生き生き、
艶やか、
愉しい、
自由、
寛容、
美しい、
気持ちがよい、

そういうよい空気です。
いつまでもそこに居たくなるような喜び・悦び・歓びの時間と空間の創造です。
それがなければ、学問や芸術を含む人間生活のすべては、意味・価値を失ってしまいます。どんな論理も空虚です。

互いによろこびを享受できるような言動を心がけること以上に大切なことはありません。
「理屈」主義派が伸びないのは、空気を悪くするからだと思います。論理以上に大切なのは、よい空気を生むための心遣いです。お互いに自他をよろこばせることを心がけようではありませんか!! 固い理屈ではなく、ほんものの論理を生み出すためには、よい空気(雰囲気)の創造が何より大事です。

「空気は論理に先立つ」!というわけです。

白樺教育館ー武田康弘 2005.5.7





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「教育基本法」第10条=政府や官僚や政治家などが教育を支配してはいけません。

2005-05-06 | 教育

以下は、和文和訳 ?「教育意基本法」の10条です。
「11の約束」えほん教育基本法(クリック)より。

政府や官僚や政治家などが教育を支配してはいけません。
教育とは、国ではなく、
私たちすべてにたいする直接の責任でなされるもの、
教える人と学ぶ人とのかかわりあいのうちに
あるものだからです。

国や自治体は、そのことをわきまえ、
施設や設備を整えたり、予算をつけたりして、
人々のもとめる学びをささえます。


自民党の国会議員、文部官僚、石原東京都知事いい加減に法律違反はよしましょう。あなたたちは、モラルに反するどころか、法を犯す「犯罪者」でしかありませんよ。民主主義世界の常識に挑戦し、独裁国のような教育の国家統制をする権利があると思うなら「病気」ですね。いつまで教科書検定を続け、教育内容に介入したら気が済むのでしょうか? 「教育基本法」にあるように、民主制社会の教育は現場=保護者・教師・子供に決定権があるのです。勝手な介入は、先進世界の常識にも日本国の法にも反します。私は教育者として、間違った考えを容認することはできません。まともな多くの日本人皆の迷惑ですからね。


2005.5.6 武田康弘





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日本の伝統とは子どもを可愛がることー「11の約束」

2005-05-05 | 書評

「11の約束」えほん教育基本法(ほるぷ出版・税込み840円)の対談は、とてもいいです。
いろいろご紹介したいのですが、まずは、伝統について。対談は、この本の著者―伊藤美好さんと池田香代子さんです。

近代化とつくられた『伝統』

江戸時代後期から明治初期に日本を訪れた外国人は、日本人がいかに子どもをかわいがるか、その中で子どもたちがいかによく育っているか、驚きをこめて書いています。大人が子どもと一緒に凧揚げしたり、おもちゃを作ってやったり、子どもの遊びを楽しげに見ているって。(伊藤)。

そういえば、江戸期の名所図会などの群集を見ると、男が子どもの手をひいたり、肩車したりして歩いている。乳離れした子どもの世話は男の役目だった。男は仕事が終わると
子守りをしたのね(池田)。

子育て日記をつけていた武士も(伊藤)。

今、女は家庭で子育てに専念するという伝統にもどれ、勤勉や規律性といったこの国の伝統的美点をとりもどせ、という人がいるけど、そこでいわれている伝統って、明治以降にそれまでの伝統をご破算にしてつくられた、あたらし伝統だと思うの。江戸時代は、男も育児の主体だったし、人々は遊んでいなければ生きた心地がしなかったのだから(池田)。

各地に残っている土地の歌舞伎やお祭り、庶民が見世物で楽しんだかル来方やらくり人形などを見ても、江戸時代の人たちがどんなに遊ぶことを大切にしたか、伝わってきますね。規律性に関しては、日露戦争前後で変わったという人もいます。軍隊にたくさんの人が入るようになって、歩き方や時間の観念などを西洋式に改造されたって(伊藤)。

その人がその人であることをそっくり受け入れ、しあわせを感じるには、生活に根ざし、からだにしみこんだ伝統を誇りに思えることが欠かせない。その意味では、伝統は大事だと思う。でも、そういう伝統はちいさな生活圏に由来するもので、当然、地域によって千差万別なはず。全国一律に伝統ということがいわれたら、それは「近代国家の新しい伝統」だと思って間違いない。


「水の国=日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?」もぜひご覧下さい。


2005.5.5(子どもの日) 武田康弘





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