思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『幕末維新の暗号』(日本史の闇)

2009-10-31 | 書評
『幕末維新の暗号』(日本史の闇)加治将一著(祥伝社、2007年刊)

(毎年、式根島キャンプで会う与太郎堂さん(会社員)にメールで薦められたのですが、これは、実に面白い本です。)


驚くべき内容ですが、その真偽のほどは別として(そもそも小説という体裁ですし)、

わたしは、明治政府による日本の歴史の改ざんが今日もまだ十分に正されていないこと、科学的な検証を拒み続ける「宮内庁」(主権者である国民の意思と税金で維持されているはずの役所の一つの機関)の態度は、極めて大きな問題だと思います。

自国の歴史を正しく知る、科学的な方法によりほんとうのことを知る、と言う当たり前のことがなされないと、ピントの合った明晰な考えをつくれず、未来に向けて歩むべき方向が定まりません。特定のイデオロギーや、過去の権力者に都合のよいウソの歴史では、わが国の健全な発展は望めません。

公(おややけ)=公共世界におけるウソ・隠蔽はいけません。よい世界・美しい世界は、真実なくしては開けないのですから。

なお、この書を批判したブログも出ています。
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白樺派、とはなんですか?→お応えします。

2009-10-30 | 白樺文学館

以下の質問がgooブログの「教えてgoo」のコーナーにありましたが、それへの回答がひどく浅薄でしたので、わたしがお応えします。

質問者:白樺派、とはなんですか?

久しぶりに小説でも読んでみようかな、と思いました。中学生の時読んだ、武者小路実篤の「友情」が、とても好きだったので、実篤について調べたところ、彼は、白樺派の作家であることが分かったのですが、その白樺派とはいったいなんですか?

調べてはみたのですが、難しい言葉ばかりで、ちょっと理解できませんでした。簡単な言葉で、説明してもらえると嬉しいです。

また、同じ白樺派の同人作家たちの作品は、実篤の作品に共通するところがあるので
しょうか?「友情」のような作品に再び出会いたいので、もし良ければ、本の紹介、してもらえると嬉しいです。

アドバイス、よろしくお願いします。
―――――――――――――――――――――――
(以下は、mさんの回答)

要するに「白樺派」というのは、上流階級の育ちのいいお坊ちゃん作家のグループであり、人間は自由であるべきだとか、人を信じることは素晴らしいとか、貧しい人たちにも愛情を注げば明るい社会ができるなどと考えるタイプで、よく言えば「モラリストで理想家肌」、悪く言えば「苦労知らずのおめでたい人」が集まった仲良しクラブのようなものです。

そういえば、武者小路実篤の小説に「お目出たき人」というものもあります。

ただ、所詮は上流階級の方々なので、武者小路実篤はユートピア社会の実現を目指して「新しき村」を建設したけれど、気紛れな言動も多く、有島武郎は人妻と心中するなど、人間としての限界、弱さも目立ちます。

まぁ、今も昔も、作家は作品をして語らしめるのであって、高邁な人間性を求めるものではないのでしょう。
――――――――――――――――――――――――

わたし(タケセン=武田康弘)の回答

お応えします。

学習院時代から文学や思想についての同人誌を出していた3つのグループが、雑誌「白樺」を創刊したのは1910年4月でした。この年の6月、無政府主義者の幸徳秋水が、天皇暗殺を企てたとして逮捕され、無実の罪で死刑が執行されました。この「大逆事件」について、政治には疎い志賀直哉も激しく憤り、政府批判の文章を残しています。また、8月には、「日韓併合条約」が調印され、事実上、日本は韓国を植民地としました。知識人たちは閉塞感に囚われ、政府に近い森鴎外でさえ、自由な文学の創作を諦めて「歴史小説」に限定せざるをえなくなりました。

こうした《天皇制国家主義》が大手を振るう時代に、自ら「異端者」を名乗る彼らが、その出自の特権性を活かして、自由と個性を賛美し、新たな時代を開こうとしたのが白樺派の文化運動だったのです。

千葉県我孫子に移り住んだ柳宗悦、兼子、志賀直哉、康子、武者小路実篤、房子、バーナード・リーチは、毎日のように交流しました。柳宗悦は、1919年に起きた朝鮮の「三.一独立運動」への弾圧=無差別発砲に激しい怒りと深い悲しみを持ち、翌1920年(柳31歳)に、「朝鮮人を想う」を読売新聞に書きましたが、これにより柳は、危険人物のリストに載せられ、官憲に見張られることになったのです。この年から柳夫妻は、朝鮮人を励まそうと幾度も朝鮮に渡り、兼子(リート歌手)は多くの音楽会を開き、宗悦は講演会を催しましたが、この草の根の民間交流は、朝鮮の人々に歓呼をもって迎えられたのでした。「民芸」という新しい思想=運動も、朝鮮の「ふだん使い」の陶器への感動から始まったのです。

若き獅子たちの「白樺派」としての文化運動は14年間で終わりましたが(関東大震災時まで)、その影響は、信州では自由と個性の教育運動として教師たちの間に野火のように広がり、「信州白樺」が発刊されましたし(武者と柳は信州を数十回も訪れ交流した)、近代日本最高の版画家となった棟方志功は、若いとき「白樺」で紹介されたゴッホを見て、「日本のゴッホになる」と決意したのでしたし、そのデビューは、柳に見出されたことによるのです。

さまざまな分野への白樺派の影響は、「白樺山脈」と呼ばれるほど深く大きなもので、概略だけでも書くのは大変です。なお、彼らは、みな極めて個性的ですので、同じ類の作品を他の同人に見言い出すことは困難です。

同人誌「白樺」に集った学習院出身者は、確かに特権的階級でしたが、それゆえに「おぼっちゃん」でしかなかったとは、到底言えません。暗い世相に抗して生み出した文学は、はじめて全文を口語文で書いたものですが、それは、誰でもが親しく読める小説を書くことで「民・文学」の世界を切り開いたものですし、日常品の中に高級品にはない豊かな美を見出し、その思想を世界的なものにしたのが柳の「民芸」運動ですし、平等に基づく自由な表現生活を目がけたのが武者の新しき村=「民・生活」でした。日本最高のリート歌手であり、朝鮮の人々から「声楽の神様」とまで呼ばれた柳兼子は、その音楽も人生も情と愛に溢れたもので、戦時中は軍歌を歌うことを拒否したために活躍の場を奪われたのですが、まさに「民・声楽」「民・人生」の一生でした。

そこに、「甘さ」を指摘し、社会科学的分析の欠如(「おめでたき人」を地で生きた武者の理想主義は、大東亜戦争をすばらしきものと讃えてしまう愚をおかしました)を指摘するのは簡単ですが、暗く重い時代に人間性豊かな思想や数多くの先進的な世界の文化を紹介し(一例・ロダンとの交流で彼から彫刻が贈られたのですが、これが日本に入ったはじめてのロダン彫刻でした)、また、自ら個性豊かな人生を開き、新たな文化を創造した業績は、計り知れない大きさを持ちます。

その内容をどう評価するかは自由ですが、「白樺派」は、日本で起きた最大の文化運動だったのです。匹敵するのは「プロレタリア文化運動」だけですが、これは純然たる文化運動とは言えないでしょう。

以上、少し長くなりましたが、ご参考になれば幸いです。

(我孫子市白樺文学館初代館長・武田康弘)


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わたしの哲学と愚かな哲学

2009-10-27 | 恋知(哲学)

わたしの哲学は、深く強く「わたしの存在・人間の存在」を愛し、肯定するものです。しかし、自分の現状や他者の現状や社会の現状は、厳しく批判します。
「存在」への深い肯定=愛が支える「現状」への批判、それが私の哲学です。

その逆をしている人が多いですが、それは甘く弱い思想であり、生と社会の現実をよく変えていくことはできません。それでは、いくら言葉の上で「精緻」で「正しい」思想を語ろうとも、結局は、現状を是認し現状に留まる保守主義をしか招来しません。哲学が保守主義になれば、それは必ず腐ります。根源的に考える営みと保守主義とが相容れないのは当然の話ですが、こんなことも分からない「哲学者」が大勢いるのには呆れるほかありません。

現状追認の哲学!?なんという愚かさ。


武田康弘

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愚かな哲学とは? (ミクシー)
2009-10-27 10:06:07

ヨッシー 2009年10月27日 05:35

タケセンさん

 愚かであることは判りますし、愚か者が多いと思います。が、「愚かな哲学」という言いは、奇妙ですね。そんなの哲学ではないですね。

 正当なものとその真逆のものとの間のグラデーションもありますよね。

 ではでは 
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タケセン 2009年10月27日 09:48

ヨッシーさん、コメントありがとう。

そうですよね。

技術主義のような哲学、
ハウツーのような哲学、
現状是認の保守主義の哲学、
正当化のための哲学、
権威の哲学(東大権威主義、左翼権威主義、官僚権威主義・・・)、
客観主義の哲学、
博識(=知識量)の哲学

確かに、そういうものは哲学ではない、でしょうね。
しかし、それが哲学と呼ばれたり、哲学を名乗っています。

わたしは、そのことを批判しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Unknown (青木里佳)
2009-10-31 01:18:19

わたしの哲学は、深く強く「わたしの存在・人間の存在」を愛し、肯定するもの
です。(武田さん)

今の社会はわたし(自分)の存在を深く強く肯定できてない人が多いと思います。
競争主義・勝ち負けの社会の中で、わたしの存在を周りと比較してしまうこと
や、あるいは親や周りに比較されて劣等感を抱いてしまう人も少なくないと思い
ます。
それと反対に「わたしが好き」と言う人もいますが、わたしの存在を本当に肯定
しているのではなく、自我や自己愛が強くて、中身よりも外見や物質的なもので
自分を飾ろうとしている、つまり中身に自信がないから物に頼るという価値観に
陥ってしまうのだと思います。
その例が社会的身分や学歴、収入などで偉そうにしている人達なのでしょう。
そういう人達がもてはやされる・有利な社会なので、肩書きがない人達は嫌な思
いをしたり、劣等感を深めたりするのでしょう。
その劣等感を埋めるために、あるいはその歪んだ価値観が当たり前だと思い込ん
で、我が子を必死でエリートコースへ歩ませようとしたり、自分が得られなかっ
たものを子供に託すように押し付ける大人が多いですね。
その問題の根底にあるのは、やはり外からの価値観が中心になっていること、人
々の意識の中に当たり前として刷り込まれている(洗脳?笑)からですね。
中身を深める、中からの価値観の社会になれば平和になるのになぁ。
まだまだ時間がかかりそうですね。



競争主義→恋知 (タケセン)
2009-10-31 12:23:14

青木りかさん、コメントありがとう。

そうですよね。

羅列的な事実の暗記&外なる価値を追いかける「競争主義」という思想を刷り込まれた人間は、内的世界が広がらず、脅迫神経症者として生きることになりますが、これほど不幸なことはありません。

世間の価値観に支配され、自分が自分として生きることができない悲惨から抜け出すには、恋知(ほんらいの哲学=具体的経験に基づき自分の頭で考える)の営みが不可欠だと思います。


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哲学とは何か?--意味と価値を問うこと

2009-10-26 | 恋知(哲学)

哲学とは、何か?

ひとことで結論だけを言えば、意味と価値を問うことです。

人間は、自分たちがつくった道具や機械に意識を向けるときも、社会問題を考えるときも、自然を想い、見、調べるときにも、みな、私=人間の営みとして行うわけですので、人間の生と切り離した只の「物」とか只の「事実」を措定することは不可能です。

コップの意味が了解されなければ、コップという言葉も使えません。人間にとって意味を外した「事実」はないのですが、この認識論の原理中の原理(=当り前のこと)をよく自覚することは、ものごとを考える上で極めて重要です。

誰であれ、人間はみな、日々の生活や仕事や勉強は、すべて意味の中にあり、その人の価値意識=価値観に従って行動しているのですが、そのこと(=意味と価値)の中身を自覚しようとする営みを哲学と呼びます。

どのような意味があるか?どれほどの価値があるか?
自分、あるいは多くの人が価値が高い、あるいは低いとみなしていることを、ほんとうにそうなのか?と問い直すこと=自分の価値意識を洗い、世間の価値意識洗うこと。
人間のあらゆる営みを、バラバラな事実の羅列でなく、意味のつながりとして見ること。

単なる「事実学」は単なる「事実人」(ただの人)しかつくらない、とはフッサールの言葉ですが、意味のない事実の羅列というエロースに乏しい営みから、意味と価値を問うエロース豊かな「意味論」(ないし本質学)としての知の営みを始めよう!それが哲学の放つ最大のメーセージなのです。

プラトン学園=「アカデメイア」の主祭神が「エロース」(英語読みでは「キューピット」=恋愛の神)であることには、極めて大きな意味があるのです。ついでに言えば、哲学における真面目とは、恋愛における真面目と同じもの、儒教的ないし日本的な真面目とは対極にある真面目です。


武田康弘
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天皇の国会開会の辞について

2009-10-24 | 社会批評

以下は、ネットニュースです。

 岡田外相は23日朝の閣議後の閣僚懇談会で、国会の開会式で行われる天皇陛下のお言葉について、「陛下の思いが入ったお言葉をいただけるような工夫ができないか」と注文をつけた。
 岡田外相は「政治的な意味合いが入ってはいけないなど、難しい問題はあると思う」とした上で、「陛下の思いが少しは入ったお言葉をいただけるような工夫ができないものか」と述べ、毎回同じお言葉にならないような仕組みづくりを求めた。
 国会開会式での天皇陛下のお言葉は慣例で毎回1分程度で、「国会が使命を十分に果たし、国民の信託に応えられることを切に希望します」などと述べられる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

天皇および皇室というのは、新憲法の下では実際社会への影響を持たず、日本の歴史の「名残」のようなものですから、「国事行為」は最低限にするのがよいでしょう。しかも、できるだけ儀式的ではなく、柔らかく自然な感じの行為が望ましいと思います。

天皇という地位は、主権の存する日本国民の意思に依っている(憲法第1条)のですから、権威的・特権的な扱いをするのは好ましことではありません。1947年には、「国で一番えらいのは、国民ひとりひとりです。」、と文部省も宣言しました。

天皇現人神(あらひとがみ)という「国家神道」の時代が終わり、新憲法が発布されて60年以上が経つのですから、天皇(家)も、ひとりの人間として自由に生きられるようにすべきでしょう。

なお、国会の開会の辞は、「主権在民」の民主主義国家にふさわしく、市民から「時の人」を選んで行うようにするとよいのです。
市民・国民の主体性――、国をつくっているのは、わたしとあなたである、との自覚を高めるような「開会の辞」にすべきです。
明治政府がつくった天皇制を引きずるのは、市民精神の涵養にとってマイナスですし、天皇の人権問題でもあります。


武田康弘
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民主的倫理

2009-10-22 | 恋知(哲学)

年の下の者が年の上の者を敬うべき、というのではなく、互いのよさ、利点を認め合い、互いを尊重し合う、というのが民主的倫理です。

存在することに上下はないのですから、生きて在ることの驚き・よろこびを交感し合うこと、それが民主的倫理です。

社会的身分・収入・財産・履歴ではなく、裸の人間としてのよさを磨き合うのが、民主的倫理です。

なぜ?どうして?なんのため?と問うことで内容・意味を深める自由対話の実践が民主的倫理を生み育てるのです。

何事であれ、民主的倫理に基づかない人間の営みには価値がありません。


武田康弘


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実存の深みへの旅を可能とするのが民主主義というルール

2009-10-18 | 恋知(哲学)

自分の五感をフルに用いて知る。心身全体で会得する。繰り返し確かめる。よく吟味する。

そのようにして深い納得を得たとき、人は情報に踊らされることがなくなります。周りに左右され、右往左往しなくなります。

「千万人といえども吾ゆかん」という孟子の言は、心身全体で会得したことを元にして「考える」人にとっては、自然なことです。

ブレずに、足が地に付き、自信をもって生きることができるのは、幸福です。

自分自身として生きること。それは、全身で感じ知り、イマジネーションを広げ、それと共に思考することによって得られるのです。マニュアルや型どおりでは、どれほど上手に生きようと、不毛な生でしかなく、内的充実(=よろこび)とは無縁です。

皆がそのような充実した生を生きるには、民主主義の政治、民主的な倫理が必要です。交通ルールをつくり守ることが互いの交通を快適にするのと同じで、自由と平等を保障するルール社会は、実存レベルで個人が深く納得する生を営む(孟子の言は、それを象徴的に表現したものでしょう)ための条件となるのです。

多くの人が、深く納得できる生を歩める条件は、民主的倫理とルールの下で、互いを尊重しあうこと以外にはありえません。大事なのは、よく尊重すれば、深い議論が可能となり、そこから有用な思想が生まれる可能性が広がることです。討論なくしては、思想(=主観性の知)は鍛えられず、ただのドグマや仲間内の戯言にしかなりません。

わたしの人生の営みは、
知・歴・財の競争(=勝ち負け)ではなく「充実の生」を切り開くためには、どのように考え、どのように行為すればよいかを考え、提示し、それを生きることです。
思考と実践を織り合わせ、日々、哲学を身をもって生きることです。


武田康弘



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「主観性の知」ー例をあげて説明します(「東大病」の続き)

2009-10-15 | 恋知(哲学)

「主観性の知」について、例をあげて説明しましょう。

どういう家を建てようか?

空間のイメージを広げる。
どんな感じの部屋がいいか。
広さは、高さは、どのくらいにしようか。
壁や床や天井の質感はどうするか。
形や色は。

住まい方を考える。
部屋の大きさや数を決める。
家全体の動線を考える。各部屋の連絡をどうするか。
個別性はどの程度必要か。

冷房や暖房は、何をどのように用いるか。
電気機器や通信(電話やパソコン)機器の配置や用い方を考える。
収納の箇所や広さ、場所を決める。
家具の配置等はどのようにするか。

その他様々な設備・機器をどのように配置し、用いようか。

どのような家を建てるかは、どのような生活仕方がよいかを考えることと一つですが、
これは、まさに【主観性の知】です。ドリルに答えが書いてあるのとは違い、客観的な正解をつくることができません。どのような住まい方がいいかを考える専門家はいないのです。それは、どのように生きるのがよいかを決める専門家がいないのと同じです。本人・当事者が決める他ありませんが、それには、極めて高度な知的能力を必要とします。
残念ながら、その力(=主観性の知)をもった日本人はあまりいません。学校にも家庭にも知の目的である「主観性の知」を鍛える場がないからです。

どのような・・・という《主観性の優秀さ》がなく、目的が不分明な《ただの技術知》だけがある、それが今の日本の現状です。

わたしたちは、受験競争だけをさせられてきたために、一番大切な主観性の知に乏しく、ただの物知り、丸暗記人、技術知だけを緻密化した人間が増えたのです。

感性の豊かさ、多面性、多色性がなく、単純。
論理の全体性、多次元性がなく、平面的な言葉の羅列。
イマジネーションの広がりがない言語中心主義。
エロースに乏しく、型はまりの無味乾燥。
表情、動作、話し方に自由さがない紋切り型の一般人。
価値観が外なるものに支配され、内的世界が希薄な事実人。
知識・履歴・財産の競争主義に支配される不幸な人間。

これらは、知の構造が【客観主義】でしかなく、客観知(=知の手段)を目的化してしまうために起きる不毛性=不幸なのです。知の目的は【主観性の知】であることを自覚しなければ何事もほんとうには解決しないし、よき世界は決して開けない、そうわたしは見ているのです。


武田康弘
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ある少女の≪哲学宣言≫「わたしは自分で考えてみる」

2009-10-12 | 恋知(哲学)

人間のほんとの生き方ってどんなもの?

ほんとの生き方ってあるの?

これがほんとの生き方!て、そういうものが決まってはいないはず。

でも、ただなんとなく生きているのは厭。

言われるまま、周りの人の顔色を見て、引きずられて、っていうの、面白くないというか辛い。

でも、どうしたらちゃんと納得できる生き方ができるの?

なにをしたらいい?どう考えたらいい?

宗教は答えを言うけれど、でも、自由な考えが抑えられてしまうから厭。

何かに・誰かに従え、とか、これが一番正しいとか、はじめに答えがあるのって、すご~く変。

だから、自分でよく納得できるように考えてみたいって思って、哲学というものが生まれたのかな。

でも、生き方まで本を読んでそのとおりにする、それっておかしい。哲学の先生って、本に縛られていて、堅苦しい、自由な感じがしない。ただ難しいことを言って人を煙にまく。本が哲学???

ほんとの哲学があったらいい、わたしはそう思う。そしたら、生き生き自由に生きれる気がする。デタラメじゃなくて、その場の気分じゃなくて、偉い人の言いなりじゃなくて、ほんとうに自由に。納得して。

もしかしてほんとの哲学って、こんなふうに自分で考えることなのかな~。誰かに、本に答えを聞くんじゃなくて、みんなが自分で考えて、それでいろいろ言いあってみる、それがほんとの哲学!!きっとそう。

でも、学校にはほんとの哲学なんて、全然ない。すごく変。

いろいろ詰め込んだ人が頭がいい、優秀っていわれる。東大生が凄いっていわれる、本や先生に従う人が偉い?

やっぱり日本には(世界も?)ほんとの哲学ってないみたい。一番大事なものなのに。

わたしは、自分で考えたい。納得できるように、全身で考えてみる。ずーと。



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よーく見る、よーく聴く、よーく触れる、よーく味わう。

2009-10-07 | 恋知(哲学)

自分が「体験」したことを思い出し、どう感じたかを意識してみる。
その時に思ったことや、ふり返ってみたときに改めて思ったことを話してみる、書いてみる。
そうすると、そこからある見方・ある考え方が出てくる。

そのように、日々の具体的な経験を踏まえ、それをふり返り、そこから自分の考えをつくり他者と交流するという生の基本を失えば、人は根なし草になってしまう。どうも、現代社会では、受験エリートほど根なし草であり、有用な知を持たず、情報とその暗記による機械的な生に陥っている。

哲学もまた、書物情報に過ぎず、生活世界の具体的経験とは切れてしまい、本が先に(上に)くるという逆転の中にある。自分の心身から湧き上がるものではなく、活字によって整理された内容が先立ってしまう。しかし、その逆立ちに本人は気付かない。言葉のもつ概念が先行し、心身全体で感じ知る現実・生活・具体的経験が背景におしやられる。これでは人間の生の土台がつくれない。はじめの一歩が踏み出せない。

「記号化された知」が独り歩きをするため、「意味」は浮遊し、ただ言語・数字の羅列とパターン化した知に支配される。客観知しかないために、知の初源であり目的であるはずの「主観性の知」が育たない。

「自分が『体験』したことを思い出し、どう感じたかを意識してみる。」
という「はじめの一歩」が弱いと、知は根づく場所を持たず、死んでしまう。日本では、受験知に象徴される「死んだ知」が支配しているために、生きた人間は輝けない。

「意味論」の探究がなく「事実学」に覆われているこの闇の世界の窓を開け放つには、自分の足元をよく見、心身全体で感じ知る力を育てなくてはならない。
黙ってよーく見る、よーく聴く、よーく触れる、よーく味わう、言葉で誤魔化さず、言葉に逃げず、黙って、繰り返し、時間をかけて、よーく、よーく。


武田康弘


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官と公ーー言葉の意味について

2009-10-05 | 日記

「官」と「公」のことばの意味について、簡潔にまとめてみました。


公は、歴史的には大きなイエとしての「おおやけ」から来ていて、領主権を指す。
官は、古代中国(隋・唐)をモデルにした集権型の権力機構を指し、明治時代からは国家に限定されて使われた。
「官」が国であり、市町村は「公」であり、「官公庁」という時は、国家と地方の両方を指し、公が下位、官が上位になる。
明治以降敗戦までの天皇は、【絶対公】であり、これに直属しているものが官と称されたので、世俗の官=国家を超越した【絶対公】としての天皇は、雲の上の存在であると同時に名もなき貧民の側に立つ者でもあるという両義性をもった(これが曲者で、天皇はひとりの男性であるにも関わらず、国家宗教の絶対者となり、それゆえにいつも「聖」としてあらゆる責任を免れた。よいことは全て天皇の功績、悪いことは全て天皇以外の者の責任!?!?こういう曖昧で都合のよい無責任性をその本質とするシステムが近代天皇制である)。

第二次大戦の敗戦による終戦後は、「日本国憲法」の誕生により※、わが国は、主権在民の近代市民国家へと大きく舵を切ることになったが、ここでは、「公共性」とは、個々人の共同性・相互性へと変わり、国家=官も、それ以外の公も、市民の公共性を下支えする道具となった。官も公も、市民・国民への奉仕者なのある。

※現「日本国憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正という形を取ったが、明治憲法は、天皇が臣民に与えるという欽定憲法であり、主権在民の立憲主義に立つ「日本国憲法」とは根本的に異なる。主権者が天皇から国民に変わり「主権在民」となったのは、革命に等しい。

以上は、原理次元の話だが、それを明晰に自覚し、そこから逸脱するような官府の言動に対しては、明確に「ノー」を突き付けるのが、わたしたち市民の権利であり義務であるはず。
国家とは、右翼の想うような「命」ではなく、左翼の言うような「悪」でもない。市民の公共性を支え・つくるのが国家の存在意味であり、国家はふつうの市民の意思によってつくられるもの=市民国家。
近代民主主義社会における国家とは、市民の公共性を実現するためにのみ存在するのであり、もしそこから逸脱すれば、国家権力はその正当性を失う。


武田康弘


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これはほんもの!!三菱電線のオーディオ用電源コードPC-1

2009-10-04 | 趣味

素晴らしいオーディオ用の電源コードを発見!?(笑)しましたので、ご紹介します。

このコード(PC-1・1.5m)の音は、解像力、SN比がよく、癖がなく、フラットでニュートラル。
破綻がなく、雑味がなく、澄み切ってクリアー、抜群の安定感を持ちますが、
しかし、冷たさ、硬さとはまったく無縁であり、
豊かで、コクがあり、まろやかでさえあります。音を絞ってもボケず、実に気持ちがよいものです。

音を意図的に作ったのではなく、正攻法で愚直なまでの熱意を持って取り組んだ結果が、極めてバランスがよく、聴きこむほどに魅了される美しさを生んだ、そう思います。
これは、ほんもの。本物中の本物と言いたくなります。3日間のエージングでどんどん音がよくなり、怖いほどです。価格を超越した見事な製品に乾杯!です。
世界最大の無酸素銅線のメーカーである三菱電線が、線材から開発したオーディオ用電源コードは、やはり半端ではないですね~~~。
設計者の情熱=冷静な科学を支えるパトスに感動しました。


(用いたSACDプレーヤーは、マランツのSAー12S2)

☆技術的な詳細は、三菱電線のホームページをご覧ください。販売店では買えず、直販のみです。

------------------

追記、10月15日

SACDプレーヤー=Shanling(シャンリン)SCD-T200Cの修理が上がり、このプレーヤーで電源コードを試して見ましたが、結果は同じ。
この真空管出力のSACDプレーヤーは、マランツの高級型より更に音がよく、実在感に優れ、生の音のイメージに近づきます。そのよさを三菱の電源コードが十全にひき出し、実に聞きやすく、安定感抜群の音、低音が余裕をもって伸びていきます。
よい意味で、電源コードの標準となる製品、それがわたしの結論です。26000円は極めて良心的な価格です。


武田康弘


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自由を生きることの練習

2009-10-04 | 恋知(哲学)

「民主主義国家は、生きる意味を教えない」、というおかしな題名の本がありますが、
それは、逆転した言い方であり、ほんとうは、「一人ひとりが自分の生きる意味を考え・生み出すためには、民主主義が必要なのだ」、と言わなければなりません。民主主義とは、自分の人生を自分で決める=自由な思想をうむために必要な枠組み・土台であり、それ自身が「生きる意味を教える」ものではありません。もし、それを教えるならば、今の北朝鮮や戦前の日本などの「イデオロギー国家」に陥ってしまいます。

生きる意味は、誰かに「教えられるもの」ではないでしょう。ほんらい、それは、自分で考え・生み出す以外にありません。
大人は、あるいは、哲学者は、生きる意味を教えるのではなく、ひとりひとりが生きる意味をつくり出す作業を手伝うことしかできません。なぜなら、生きる意味には答えがなく、皆が自己決定・自己創造しなければならないからです。その自己決定(=哲学すること)を支えるのが、大人の、あるいは、哲学者の役割りだと言えます。

日々、自己決定する練習をする、自由に考え、自由に意見を言う練習をする、自由を使いこなし、自由を広げていく。それが民主主義社会における教育の使命であり、その教育を支えるのが、優れた哲学なのです。現代は、現状を肯定するだけの弱々しい哲学には存在理由がありません。人間の存在論的自由(実存)を少しずつ現実化・顕在化する営みを「励まし」「根拠付ける」のがほんらいの哲学の仕事であるはずです。


武田康弘 
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オーディオ談義③ー「コードによる変化」

2009-10-03 | 趣味

古林治さんと染谷裕太さんの「オーデイオ体験談」 ① & ②の続きです。


コードで音が変わることについて。

誤解を避けるために、少し書きます。

オーディオ装置は、スピーカー、アンプ、CDプレーヤーで構成されますが、これらのもつ個性、とくにスケールの大小で、基本の骨格が決まります。
もちろん大型装置では、スケールが大きく、エネルギー量も豊かです(スピーカーに一番左右されますが、アンプやプレーヤーにも関係します)。
ただし、聴く環境や音量や聴き方により、大型装置ではマイナスとなることがあります。
現実には、小型装置の方が適することも多いのです。それぞれ違う「よさ」があるのです。

コードを変えることで、この基本の骨格・性格(特にそのスケール)が変わることはありません。基本の骨格は変わりませんが、音質の変化は、かなり大きなもので、おそらく、オーディオにあまり関心のない方が想像するよりもはるかに大きく、その変化に驚かれると思います。

コードで変わる、というのは、音の濃やかさ、質感、色模様、締まり、濃淡、余韻、硬柔、ある程度のエネルギー感などですが、何十万円もするハイエンド用のコードにしたら、元の音の骨格まで変わってしまうという意味ではありません。当たり前の話ですが。

なお、教育館本部(武田宅)のオーディオシステムは、
【CDによるコンサート】(新旧の演奏を味わうことや演奏の聴き比べ)のためにつくったものですので、一般家庭における再生音とは異なり、スケールが大きく、情報量が多く、ダイナミックレンジと周波数帯域が広いですが、そのためには、装置が大型化してしまい、建物の堅牢さも必要ですので、これを基準にして一般家庭用のオーディオシステムを組むことはできません。

総重量は200キログラムほどで、ピアノと同程度ですが、音楽の支えである低音を余裕をもって再現するためにはどうしても大がかりになってしまいます。
電源も家庭内配線とは別に200ボルトで引き、それをオーディオ用の大型トランスで100ボルト下げて使っています。

もう少し一般向きのオーディオの場合、大エネルギーは必要としませんので、量よりも質を確保すれば、気持ちよく聞くことができ、満足感が得られます。体全体で音圧を受けるような聴き方をするのでなければ、大きなシステムはいらないのです。


武田康弘


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「さん」と「先生」-- 呼称について。

2009-10-02 | 私の信条

同じ発話場で、「さん」付けと「先生」付けを使い分けるMさんに対して、わたしは「不快感」を表明しましたが、以下に結論を記します。


わたしは、
教場で何かを教えている(教えられている)という人間関係の場合は、「○○先生」と呼ぶのが妥当だと思っています。教える人を先生と呼ぶのは、自然なことで、そういう場で「○○さん」というのは、日本社会の場合、好ましくありません。わたしも、生徒、特に未成年の子どもから「○○さん」と呼ばれたら、かなり違和感を覚えます。

ただし、教場での人間関係にない人を「○○先生」と呼ぶのは、大いに疑問です。はっきりと教える・教えられる関係にはないのに「先生」という呼称を用いるのは、不適切だと思います。

対等であるべき公共圏で、ある人を「先生」と呼び、他の人を「さん」で呼び分けるのは、とてもおかしな話です。《公共》や《哲学》を意識する人は、率先してこのような【悪習】をやめるべきでしょう。

「さん」付けによる民主主義を広めていきたいと思います。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

常識レベルの話です (荒井達夫)
2009-10-02 22:40:38

「対等であるべき公共圏で、ある人を「先生」と呼び、他の人を「さん」で呼び分けるのは、とてもおかしな話です。《公共》や《哲学》を意識する人は、率先してこのような【悪習】をやめるべきでしょう。「さん」付けによる民主主義を広めていきたいと思います。」(武田さん)

これは、常識レベルの話です。常識をわきまえないで、「公共」も「哲学」もあり得ません。「民主主義」とは、常識ある普通の人達によってはじめて成り立つということが、よくわかりますね。


コメント (4)
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