思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

頭の音楽家から心身の音楽家へと進展=坂本龍一のヨーロッパライブに感動!

2011-12-30 | 趣味

いま、BSJAPANで、坂本龍一のヨーロッパ各地における演奏を聴きました。
(坂本の演奏旅行を丹念に追った見事な番組)

わたしは、音楽のジャンルに囚われず自由で多彩な活動をしてきた坂本龍一は、それにも関わらず「頭の音楽家」から抜けられないな、と感じてきましたが、このライブを聴き、心底感動しました。

頭の音楽家から【心身の音楽家】へと見事な進展・変貌を遂げた坂本に、喝采を浴びせたいと思います。

本人の言う通り、ロンドン公演の初日からはピアノの弾き方が変わり、音楽は自然性を獲得し自在な動きをもつようになりました。力が抜け、のびやかになり、彼の内から湧き上がる音が豊かに響きわたります。

透明になった音はダイレクトに聴く者の心身に届き、現代音楽的な臭みが消え、厚みを増したのです。ピアノの音はしなやかさと優しさを獲得し、音楽がベタっとすることなく浮かび上がります。ダイナミックで広々とした世界が開け、聴いていてほんとうに気持ちがよいのです。真に内側から、心身全体で音楽するようになった坂本龍一から目(耳)が離せなくなりそうです(嬉)。


武田康弘




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井上陽水のライブ、存在の魅力がそのまま歌に。

2011-12-28 | 趣味

23日(金)の夜中(24日の午前)にNHKのBSプレミアムで、井上陽水のライブを放映していました。偶然見たのですが、惹きつけられクギ付けとなり、録画もしました。

わたしが学生時代のころ、70年代前半、井上陽水は優れた自作の歌い手でしたが、どことなく突っ張った感じがあり、特別に好きというわけではありませんでした。

しかし、60歳を過ぎた陽水は、力が抜け、自然体で、彼のもつ存在の魅力がそのまま歌となっていました。艶やか、見事なステージ! 

わたしは、井上陽水が類まれな音楽家であることが証明されたようで、なにかとても悦ばしい気分です。

とくに、『少年時代』を歌う陽水の表情は、淡々として深く、魅力的でした。




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仲間を大切にすることは、よく生きるための条件です。

2011-12-26 | 恋知(哲学)


個人が個人の資格でつくる社会運動や文化運動などでは、仲間を大切にすることが何より大切です。

けれども実際には、仲間を大切なものと思わず、却って排撃するような言動も起こります。
原因は、自我主義・競争主義・序列意識・疎外感・不全感などが混合した心理ですが、一口で言えば「偉がりの心」だと言えます。ピラミッド型組織ではない社会・文化運動にまで浸透する心の病は、ほんとうにやっかいです。

外的な価値意識から解放され「内」からの生を歩む人は「偉がりの心」を持ちませんが(それがほんとうの哲学者)、序列意識が抜けない人・疎外感をもつ人は、知らずに酷い自我主義に陥り、自分のもつ価値意識を絶対化するために、楽しく実り豊かな人間関係を築けないのです。

そのように仲間の存在を尊重できない人は、自分自身をも肯定できませんので、不安定となり、より強い拠り所(権力や権威ある人や団体)を求めて徘徊するはめに陥ります。

仲間、近しい者を愛することなしには普遍的な「よい」に至りません。
もちろん、愛する=肯定するとは無批判的な態度とは全く違います。互いに向上するために、互いを励まし互いの力になることですから、忌憚のない批判をすることも必要です。ただしそれは、建設的な内容を持つ批判であり、民主的倫理に基づくものです。

仲間を大切にするという基本を踏まえない人はいつまでも不幸です。自分を愛し大切にする人は、同人・仲間を愛し大切にしますが、その心と行為がなければ世界がよきものになることもないはずです。


武田康弘
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【システムがあって個人がない】という根源的不幸―その象徴が天皇制です。

2011-12-23 | 恋知(哲学)

8日のブログ、『愚かな日米開戦から70年ー個人の育成が必要です。』にわたしは、「システムがあり、個人がない」というのでは、まさしく昆虫社会です。」
と書きました。
これは、わが国の宿痾ですが、システムが個人を支配するという現実を変えないと、どんなに努力しても、豊かさや悦びの人生と社会はひらけないはずです。

8日のブログを再録しますが、

「個々人のそれぞれの考えを育てる教育がなければ、日本という国は、昆虫社会にしかなれません。人類社会に一番必要なのは、個人の責任意識の育成ですが、それは自由な言動なくしては生じないのです。自己決定しなければ、責任意識は生まれません。
だから、日米戦争にゴーサインをした天皇ヒロヒトも、責任意識がなかったのでしょう。自分が決めたのではなく、空気でそうなった、と思うヒロヒトは、敗戦の結果にも責任を取ろうとはしなかったのです。システムがあり、個人はいない、というのでは、まさしく昆虫社会です。」


システム内人間。
システムが先で個々の人間が後。
個々の人間のためにシステムがつくられるのではなく、システムの維持のために一人ひとりは存在する。

こういう本質的に非人間的な考え方に支配されている限り、生きる悦びは永遠にやってこないはずです。
保守派であれ、革新派であれ、日本主義者であれ、欧米主義者であれ、です。
「型」に価値があると思い、あるいは「理論」に価値があると思っているのでは、イキイキ生きる、自由に発想するというよき生の基本が得られません。

わたしが昔から繰り返し言う【様式による意識の支配】から脱却するための条件整備が必要です。

仏頂面で、
特定の価値に縛られ、
主義に固執した人生。

もんきり型で、
理屈優先で、
固い心身。

権威が価値で、
様式が支配し、
内側から生きるという生の基本がない。

われわれ人間の社会は、女王バチのいる昆虫社会ではありません。各自は自由と責任をもつ対等な存在です。
自由の別名である意識をもつ人間存在は、それにふさわしい生き方=思想と行為によって社会をつくる以外の選択肢はない、このことの明晰な自覚が何よりも大切です。


武田康弘


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東大法学部卒の頭の悪さー単なる事実学の累積は、不幸を生みます。

2011-12-18 | 教育

記憶マンや情報処理に長けた人を、人間としての「頭がよい」とは言えないでしょう。

自分の日々の生活から、多様な意味と価値を見出す能力がなければ、人間とは、何かを「処理する」だけの存在にすぎなくなります。

受験テストで高得点が取れる型を身に付けた人は、「自分の体験を基に自分の頭で考える」ことがひどく苦手です。

東大法学部卒の人は、わたしの知る限り、従順・真面目ですが、既成の枠組みの中でしか頭脳が働かず、本質を抉る力が驚くほど弱く、到底、人間としての頭がよいとは言えません。

しかし困ったことに、彼ら(彼女ら)は、自分は頭がよいと思っています。「自覚した罪は半ば許されている」という格言がありますが、無自覚ではどうしようもありません。

そのような人がさまざまな分野でトップを占めているわが国は、不幸です。
どうでもよい事実の積み上げばかりが行われ、根本・本質についての意味論的追求がないのでは、人間の生と人間の社会としては失敗・失格です。知的教育を根本的に見直さなければ、わが国の未来は開けないでしょう。日本人の多くが罹っている「東大病」からの快癒は、出直しのための基本条件です。

ああ、 紋切り型!!


武田康弘
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安全性は二の次のこと、原発導入を急げ!正力松太郎ら有力政治家らの意思。

2011-12-14 | 社会批評

一昨日のブログ『原発を進めた中心者―中曽根康弘元議員―反省なしは反道徳的態度です』の続きです。


『東京新聞』は、連続で、原発導入の経緯を一面トップ記事で伝えていますが、
今日の第3回では、【耐震に問題を承知で英国型を導入】という事実を明かしています。

1958年2月決定
「原子力開発の現状を探る英国訪問団は、耐震性の欠陥を認識していた。」
しかし、
「西側で当時、商業用発電に成功していたのは英国の黒鉛炉だけだった。後に世界の主流となる米国の軽水炉は、まだ実用化されていなかった。
『急ぎならこれが良いんだというのが一番大きな理由』英国から帰国後の57年1月8日、物理学者で原研理事の曽我根遼吉は、外務省で講演し、こう明かす。安全性でも将来性でもない。(政治家と財界のドンの)決め手は、『早さ』だった」


わが国の支配的階級に属する人々の実態は、こういうものでした。ふつの人=民の良識につく民主主義政治への転回が必要です。


※正力松太郎は、戦前は警察幹部、A級戦犯。読売新聞社長、日本テレビ創設者。衆議院議員、原理力委員会初代委員長


武田康弘



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原発を進めた中心者―中曽根康弘元議員―反省なしは反道徳的態度です。

2011-12-12 | 社会批評

日曜日の『東京新聞』の一面トップには、
学会尻目に電撃予算――1954年3月の提案
政界主導「札束でほっぺたを」

という見出しが躍っています。


「藤岡由夫(東京教育大教授)は、国会に出向いて反対を唱えるが、原理力予算案は3月4日に衆院を通過。本人は後に否定したが、小田原評定を続ける科学者らに、中曽根はこう言ったとされた。
『あんたたち学者が昼寝しているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ』」(一面の記事のコピー)


中曽根康弘元議員は、正力松太郎と共に強力に原発を進めた中心者であり、その手法の徹底ぶりは驚くべきものでした。NHKでも放映されましたが、正力は、新聞、テレビを用いて情報操作をしてまで原発を導入したのですが、彼以上の政治的中心者であった中曽根元議員は、福島原発事故の後、沈黙したままです。

ふつうでは通らなかった原発予算案を通させたのは、中曽根一流の作戦があってのことでしたが、反対者が圧倒的に多かった原発をあらゆる手を使って実現させた彼は、同時に執拗に【道徳教育】(国家主義の観点から上位者に従わせる教育)を推進した人物でもありました。

では、自分自身の「責任」はどう取るのか。ダンマリを決め込んでいるのは、反道徳的行為としか言えません。


武田康弘


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ざらすとろ2011年12月13日 08:45

道徳を振りかざす奴ほど倫理的じゃないんですよ。あの中身の無いお調子者の中曽根の辞書に責任という語彙は存在しない。
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すかぶら2011年12月13日 09:37

ビキニ事件の頃でしたかね?
へびのあし(蛇足)
中曽根は海軍主計の将校でしたから、
兵は数字と思ってたのでしょう。
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タケセン2011年12月13日 12:56

ざらすとろさん

まったくです。道徳教育をいう大人は、他者のことではなく、自分自身を問題にすべきです。どだい、君たちは道徳的たれ!と言うこと自体が、道徳的ではありません。道徳とは自己についてであり、他者への命令ではないのですから。

すかぶらさん

「中曽根は海軍主計の将校でしたから、 兵は数字と思ってたのでしょう。」

そうですね。
彼のような国家主義者は、国家があって国民がいる、という逆立ちした想念に囚われていますので、根源ルール=社会契約論の意味を知りません。
特権者を認めず、対等な存在である市民の自由を互いに認め合う上につくるルール社会、という近代社会の原理を踏まえない政治家は、ほんらい民主主義の国では活動を認められないのですが、危険で本質的に愚かな輩がまだまだ大手を振るっていますね。
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ざらすとろ2011年12月13日 20:12

人口に膾炙されている道徳とはその価値基準は他律的なものとして機能しているので、私は道徳を否定します。私には私を律する自律的な規範こそがあって、それこそのみが私の従うべき掟であり、倫理です。
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タケセン2011年12月13日 21:55

まったく同感です。

ほんらいの道徳、言葉の優れた意味での道徳とは、自分のありよう(存在仕方)への意識の明晰さの程度をいうので、倫理と呼ぶほうが適切です。
中曽根ら国家主義者のいう道徳とは、外的規範(何かしら越的視点からの規範)にすぎず、わたしもそれを認めません。
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ざらすとろ2011年12月14日 08:12

実は人間はそういう外的な規範(ドクサ)から自由ではないのですが、そういう外的な規範そのものを批評し、外的な規範を乗り越えていく自律的な規範獲得によって、初めて、人間は道徳を問う事が出来るのだし、人は人として生きていると言えるのではないでしょうか?

ところでサドの小説に出てくる悪漢たちについて如何思われるでしょうか?
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タケセン2011年12月14日 09:18

ざらすとろさん
深いコメント、感謝です。

「外的規範」(その時々の社会常識)と「内からの命の働きに基づく倫理性」との緊張が強く豊かな倫理を生む、とわたしは思い、それを日々実践しています。
倫理の絶えざる吟味・創造こそが人間の生の意味深さの源泉だと考えています。

わたしは、サドの暗黒を引き受けない倫理とは、陳腐な底の浅い道徳=人間でしかないと思っています。



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「愚かな日本人」から脱却しよう。

2011-12-09 | 教育

昨日の続きのようなブログですが、
わが日本人は、なぜ教育熱心でも「愚か」なのか。

ほとんど意味のない細かな事実を問題とし、
なぜ?どうして?を問わず、
暗唱して終わらせる。
固有名詞までルビなしで読めるかどうかをテストし、
ふつうに言えることも、専門用語をつくり、分かりにくくさせる。
算数・数学も、思考力とは無関係の難問・奇問を出し、それらに正解する技術を受験塾で教える。
バカバカしい緻密主義、意味論なき事実学が横行し、それに応える頭脳を優秀だとする。
自分の体験に基づき、自分の頭で考え、異論・反論をするような人間は、「危険人物」として指導の対象とする。

こんな日本の教育では、いくらやっても、自己判断能力のある優れた人間は育ちません。
紋切りマン・暗記マン・イエスマンが威張るようでは、笑えない笑話にしかなりません。

事象から意味を汲み出す体験能力、
物事の本質を問う思考力、
全体として見る力、


こうした最も重要な知の育成がないのは、ほんとうに嘆かわしい限りです。
子どもたちに形式主義の知を強要している現実に、わたしは腹の底から怒りを覚えます。私塾を立ち上げて三十数年間、ずっと公共的な怒りを持ち続けてきました。

内から湧き上がる力を育み、しっかりした「私」という座標軸をつくる】――そのためにこそ、知的教育はあるのです。これは原理です。

今のままでは、莫大な教育費を使い、いくら勉強時間を増やしても、虚しさが増すばかり。いつまでも「愚か」です。求められるのは、昆虫のような「優秀さ」ではなく、人類としての優秀さなのですから。「東大病」からの快癒が必要です。


武田康弘


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愚かな日米開戦から70年ー個人の育成が必要です。

2011-12-08 | 社会思想
15年戦争―中国侵略から始まり、
日米戦争という愚行に走った過去の日本への深い反省なくしては、何事も始まらない、これは立場を超えた不動の真理です。

戦争への道を歩んだ日本という国家。
それを支えた国体思想による教育。

天皇という名の絶対者をつくり、
上意下達の道徳を強要し、
全体一致へと誘導。

こういう国家主義思想を明確に否定し、一人ひとりの実存から出発する人間性豊かな考え方・生き方をつくらなければなりませんが、残念ながら未だにそうなってはいません。

いまでも、個人の自由と自己決定を認めない形式教育が、とりわけ公立中学校の多くで行われ(長時間の部活動の強要による心身の拘束)、上意下達の想念を植え付けています。

自由と自己決定、そこからしか責任意識は生まれませんので、上位者に従わせる教育は、本質的に非倫理的・反倫理的なものでしかないのです。

個々人のそれぞれの考えを育てる教育がなければ、日本という国は、昆虫社会にしかなれません。人類社会に一番必要なのは、個人の責任意識の育成ですが、それは自由な言動なくしては生じないのです。自己決定しなければ、責任意識は生まれません。

だから、日米戦争にゴーサインをした天皇ヒロヒトも、責任意識がなかったのでしょう。自分が決めたのではなく、空気でそうなった、と思うヒロヒトは、敗戦の結果にも責任を取ろうとはしなかったのです。システムがあり、個人はいない、というのでは、まさしく昆虫社会です。

個人の誇り、輝き、悦びを生む思想を育み、それに基づく教育をしなければ、わが国の未来は開けないのです。


武田康弘
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多様な価値観の共存が優れた国をつくるー『NHKクローズアップ現代』トルコを取材

2011-12-07 | 社会批評

トルコの宗教はイスラム教ですが、政教分離政策をとり、徹底した世俗化(=市民社会化)を進める中東の要の国として知られます。
いま、市民革命により急速な民主化が進むアラブ諸国、その先進モデルともいえるトルコを取材したNHKの『クローズアップ現代』を見ました。

国谷キャスターの質問に対して、トルコの首相首席補佐官は、多様な価値観の共存こそが市民社会と国家を優れたものにすると主張し、東西文明が融合する地点にある(アラブとヨーロッパとアジアとアフリカの合流点でもある)トルコが進める多文化主義の意味と意義を説明していました。知的にして情熱的、柔軟にして自信に満ちた首相補佐官の言葉を聴きながら、ふと、思いました。

2600年前、地中海に面した港町のミレトス、この世界に開かれた交易の中心地から「普遍的な考え方」を求める営みが始まりました。哲学の祖と言われるタレスら自然哲学者たちは、宗教的な考え方・生き方を超えて、人間と自然について考える「原理」を見出そうと努力したのですが、それが哲学の始まりです。

いま、文明の転換期に際して、同じ地から(当時のミレトスはギリシャ領)宗教的思考とは異なる豊かな普遍性=人間性をもつ考え方が生まれているーー
トルコの首相首席補佐官の言葉を聴き、その表情と態度を見て、
うーーん、と唸り(笑)、感心しながら、そう思ったのでした。


武田康弘
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警察と検察は、一般市民の敵なのか。堕落は底なし。

2011-12-03 | 社会批評


少し精神の活動の弱い人を捕まえて、誘導や脅しでウソの自白をさせ、犯人に仕立て上げる警察お得意の手法は今日まで後を絶ちません。

今回の冤罪事件(福井市の前川彰司さんの事件ー再審決定)にしても、唯一の証拠となった目撃証言は、前川さんの友人を警察に呼び出し、「もし、あなたが罪を犯すようなことがあっても見逃してあげるから」と言って、刑事が作文した全くの作り話をさせたとのことです(TVで友人が告白し、謝罪していました)。

刑事は、自分の手柄にするためには何でもする、これでは北朝鮮等の独裁国家の警察と同じです。警察を監視する市民オンブズマンがある北欧の進んだ民主主義国に倣い、警察を主権者である市民が見張り、人権と民主主義思想に反する悪徳警察官や刑事を告発し罰することができる制度の新設が必要です。

検察も警察に追随し、いい加減な仕事しかしていませんが、彼らの人権感覚のなさも唖然とするほかありません。元検事の郷原信郎さんも証言していますが、検察官は自分と組織のため(私益)しか考えず、【公共】という意識はまるでないとのことです。ストーリーをつくり、それに沿って証拠までつくってしまう検察官、シロと知りつつ、決定した方針のままに起訴する検察という組織。倫理などどこ吹く風です。

われわれの税金を使って集めた証拠も、検察庁は隠匿して公開しない。公開しないことを検察庁出身の最高裁判所の判事が許可する!検察庁に支配された裁判所、否法務省全体が検察の支配下にあるおぞましい事態については、一昨日の『NHK・クローズアップ現代』でも取り上げ、批判していました。

主権者が主権者のお金で雇っている警察官や検察官が、人権と民主主義思想を踏まえず、自分たちの利益のために働き、次々と冤罪を拵える。この危険な【暴力装置】の人事と組織を根本的に変えるのは、主権者の代行者である国会議員の役割です。彼等がその役を果たせなければ、議会制民主主義は死んでしまいます。


武田康弘
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