一人ひとりの人間の【対等性と自由】という原則が打ち立てられている現代においてなお、英国王(女王)や天皇などの特別者が存在することは、なんとも奇妙な話です。
どこも変らぬ同じ人間の男であり女でありながら、生まれながらにして特別の敬語で遇するような人をつくり、その家族の生活費全額をわたしやあなたのお金(税金)で養う。日本の天皇家の場合は、一年間の生活費6億円。宮内庁などの経費を合計すれば170億円以上。
なぜ、そういう存在に頭を下げる理由があるのか?わたしは、小学生以来50年間いくら考えても合点がいきません。ただし、わたしは天皇家やイギリス王室に生まれた人々になんの敵意も羨む心もありません。むしろ、とっくに存在理由を失った「王」という時代錯誤のシステム内で生きることを宿命づけられた彼ら彼女らに対しては、気の毒だなと思っています。
いつまでこのような愚かな制度を続けるのか?
二千数百年前に、インドの釈迦(ゴータマ・ブッダ)は、王と泥棒は同じようなものであるーどちらも人の物を盗む。泥棒は非合法的に、王は合法的にと言いました。また、ソクラテスは、誰にも何にも犯されることのない恋知=哲学の生を貫きました。逃げずに敢えて毒盃を飲み干すことで自己の思想を守ったのです。
ソクラテスや釈迦は、【すべての人間存在の対等性】を前提に思考しましたので、その思想は、時代と国と地域を超えて普遍的なものになったのです。釈迦の場合は、人間以外の生命も。
日本では、いまだに古代国家の制度である王の死で時代の名称まで変える「元号」制度を続けていますが、これは「異常」としか言えません。時間・時代の区切りまで天皇と呼ばれる人間の生死で決まるのですから、なんともおかしな話しです。
特別な存在を前提とする社会=人間の対等性が失われている社会では、未来は開けようがありません。「民主的倫理」の確立がなければ、自分からはじまる人生に誇りと悦びをもつ人間にはなれませんし、或る特定の一家に頭を下げるような非民主的な精神風土の中では、真の人間的豊かさ=個々人から立ち昇る魅力、輝き・ツヤは得られないのです。
ほんらい、わたしとあなたの存在の中に宿る「よきもの」の上には何もありません。一人ひとりが「天上天下唯我独尊」なのです。それが釈迦=仏教の教えです。英国王や天皇というものは、人類社会の前史(人民主権社会の成立以前)の象徴であり、その名残に過ぎないのです。
武田康弘