実に恐ろしいことで、20才未満の新型コロナによる重篤者も死者も誰もいない、0名なのに、
ワクチン接種による重篤者は、34名で、ワクチン接種後の死者は1名です。
ワクチンを打たなければ、重篤の副作用に悩まされることはなく、死ぬ必要もありませんでした。
これは、国家的、世界的狂気で、特にこどもや若者へのワクチン反対の声を上げなければ、人間の良心にもとります。
武田康弘 (元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)
実に恐ろしいことで、20才未満の新型コロナによる重篤者も死者も誰もいない、0名なのに、
ワクチン接種による重篤者は、34名で、ワクチン接種後の死者は1名です。
ワクチンを打たなければ、重篤の副作用に悩まされることはなく、死ぬ必要もありませんでした。
これは、国家的、世界的狂気で、特にこどもや若者へのワクチン反対の声を上げなければ、人間の良心にもとります。
武田康弘 (元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)
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赤血球の異常が起きることが、顕微鏡写真で明瞭となり、ワクチンは極めて危険であるとの医師の証言。
また、人間には使用できない酸化グラフェンが含まれていることも明らかになりました。
ビデオをご覧ください。
明治前半期までは国民の過半数の支持を得ていた自由民権運動は、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎らにより明治天皇を中核とする保守政治の敵とされ、「民権運動の息の根を止める」という根絶やし戦略により潰されました。個々人の自立、一人ひとりのかけがえのない人生という考え方は後景に追いやられ、「公=天皇=国家」のためを当然とする国体思想で全国民は一つにされたのです。その意味では天皇教とは竹内芳郎(よしろう)さんの言う通り、日本的集団同調主義の別名だと考えられます。
このような考え方は、今日の保守政治家にも引き継がれています。もし太平洋戦争による敗北がなければ、天皇教者たちによる保守政治は今日までそのまま続いていたわけですが、現代の保守主義をかかげる政治家も思想の本質は同じで【国体思想】(多様な人々の自由対話によりつくられる政治=社会契約に基づく近代民主主義を嫌い、天皇制を中心とする日本というあるべき姿の枠内に個々人を位置付かせるという国家主義。従ってその枠外の人間は非国民となる)なのです。戦前との違いはハードかソフトかだけです。
では、明治政府作成の新興宗教と言うべき『天皇教』とはいかなるものなのか、それを「靖国神社」の理論的重鎮である小堀桂一郎さん(東京大学名誉教授)に聞いてみましょう。
「靖國神社の誕生は、官軍(天皇側の軍)の東征軍(江戸を征伐する軍)の陣中慰霊祭からはじまったのです。
慶応四年(1868年)5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府からの布告で、嘉永六年(1853年)のペリー来航以来の「殉教者」の霊を祀ることが書かれています。「殉教者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士たちのことで、その霊魂を「合祀」するという考えです。またこの布告には、合祀されるのは、今度の兵乱のために斃れた者たちだけではなく、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、と明示されています。
靖國神社は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、王政復古、【神武創業の昔に還る】という明治維新の精神に基づいてお社(やしろ)を建立した点に特徴があります。・・靖國神社の本殿は、あくまでも当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、という考えで出発したのであり、それは非常に意味のあることだと思うのです。日本の国家経営の大本は、「忠義」という徳ですが、この「忠」というのは、「私」というものを「公」(天皇)のために捧げて、ついに命までも捧げて「公」を守るという精神です。この「忠」という精神こそが日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力にあたるだろうと思います。・・その意味で靖國神社の御祭神は、国家的な立場で考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」(小堀佳一郎東大教授)
敗戦がなければ、主権者は天皇で、軍隊の統帥権も天皇で、かつ、現人神(あらひとがみ・生きている神)という『大日本帝国憲法』による政治が続いていたわけです。言葉も失うほどの異常な国家です。
76年前の昨日、明治政府が作成した天皇制に基づく軍国主義=全体主義は、ようやく終わりましたが、裕仁の自害どころか退位さえしないという驚くべき行為により、戦前と戦後が共に昭和時代となり、憲法がコペルニクス的転回をして国民主権となった意味を曖昧化させてしまいましました。「米国マッカーサーと天皇により日本国民を支配する」という天皇家安泰と米国の利益がもたらされたのです。
では、どうすればよいのか? 誰もが納得するであろう考えを、わたしは「明治政府がつくった天皇という記号」に書きました。ネットでも読めますので、ぜひご覧下さい。
武田康弘
「うん、なるほど、と心の底から、頭の中心から納得する」普遍的な考えや行為は、役所が生みだせるものではありません。役所やその出先機関は、一般性を目がける市民・国民サービス機関です。もっとも、それすらなく、役人の惰性で動いているだけの場合も多いですが。
普遍性をめがける真の公共性は、個人=実存者から始まり、個人=実存者の集合としてつくられる自前の団体から生まれます。考え、方法、実践、お金、を持ちより、個々人の協力でつくりあげるのです。
それは、密度が濃く、深く考え、行為の早い同人社的な団体です。かつての20世紀の白樺派のような同人たちの集まりを広く社会に向けて開かれたものにする21世紀の同人社の創設が求められます。
誰かに何かに寄りかからず、精神的にも思想的にも金銭的にも自立する団体を、自覚する個人=実存者が共同でつくりあげる同人社こそが、普遍的なよきもの=真の公共を生みだすのです。
それに関わることは、個人としての人生を豊穣化させると共に公共に開かれた明るさと強さをもちます。21世紀の新しい実存の生を創造するのが、「うん、なるほど、と心の底から、頭の中心から納得する」普遍的な考えや行為です。
一般性を超えた世界へ。一般性の海に沈んでしまえば、個人性も普遍性も得られません。
武田康弘
日本、韓国、中国における公共哲学の中心者Taechang Kimさん(日本では、東大出版の全20巻『公共哲学』その他の編集最高責任者)
のFBコメントです。
金泰昌(Taechang Kim)さんの最大級の評価に感謝します。
最初の写真は、染谷裕太君が、2018年7月に撮影したデルフォイの俯瞰とソクラテス教室のマスコット人形のソクラテス。
これは、裕太君が4か月以上をかけた「エーゲ海、古代哲学の旅」での貴重な一枚です。クルレンツィス+ムジカエテルナ(クルレンツィスが30代の時に組織したスーパーオーケストラ)と彼の同伴者たちが、このデルフォイでベートーヴェン交響曲7番を演奏したちょうど3年前の写真です。
その後の写真は、プロモーションビデオ(クリックしてください。9分間です)からです。
なぜ、クルレンツィスらは、ソクラテスが神託を受けたデルフォイ(デルポイとも表記されるが、現代ではDelphiは、デルフィー・アクセントは最後のphi)で、ベートーヴェンを演奏したのでしょうか?
そもそも、ソクラテスがデルフォイで受けた神託とは何か? ご存知でない方も多いと思いますので、以下に記します。
ソクラテスがデルフォイの神殿で神託を受けてから、有名な【ソクラテスの対話】が始まるのですが、それは弟子のプラトンにより「対話編」として残されています。もっとも多く読まれてきたのが「ソクラテスの弁明」で、そこには以下のように記されています。
「私は、デルポイに出かけていって神託を受けることをあえてしたのです。
それはつまり、私よりだれか知恵のある者がいるどうかということを、たずねたのです。すると巫女は、より知恵のある者は誰もいないよ答えたのです。・・・いったい神は何を言おうとしているのだろうか。いったい何の謎かけをしているのだろうか。なぜなら私は、自分が大にも小にも、知恵のある者なんかではないのだと自覚しているからだ。・・・
私は長いあいだ思い迷って、やっとのことでその意味を、次のような仕方でたずねてみることにしたのです。それはだれか知恵のあるとおもわれている者を訪ねることだったのです。
ところがその人物を相手にしながら子細に観察しているうちに、私は、次のような経験をしたのです。この人は、皆に知恵のある人物だとみなされていて、自分でもそう思い込んでるらしいけれども、実はそうではないのだと思われるようになったのです。
そしてそうなったとき、私は、彼に、君は知恵があると思っているけれども、そうではないのだと、はっきり分からせてやろうと努めたのです。するとその結果、わたしは、その男にも、その場にいた多くの者にも憎まれることになったのです。・・・・・
アテナイ人諸君、誓っていいますが、私としてはこういう経験をしたのです。つまり、名前のいちばんよく聞こえている人の方が、神命によって調べてみると、思慮の点では9分9厘まで、かえって最も多く欠けていると私には思えたのです。これに反して、つまらない身分の人の方が、その点、むしろ立派に思えたのです。」 (中央公論「世界の名著」・田中美知太郎訳。抜粋は武田)
クルレンツィスは、繰り返し、以下のように発言しています。以下は、2019年2月の初来日時のパンフレットより。
2016年3月号の「レコード芸術」のインタビューでは以下のように述べています。
「私は理想の世界を追い求めています。そこでは人種や国の差はなく、武器もない。肉体的なものと精神的なものが結びつき、芸術によって『永遠』に触れることができる道を求めているのです」
「私の旅は、真実を求める旅です。普通の音楽大学に入って、制度化された道をたどるのは退屈だと思いました、そこでムーシン(ソ連・ロシア)に会い、【俗世にまみれてはいけない】という考えをもつようになったのです」
「私には、華麗なオペラのディーヴァが人を泣かせることはできるとは思いません。農村の老人が一本弦の楽器を弾いた方が、ずっと心を打つのです。この純粋なつつましやかなサウンドこそが、われわれの本来の血です。音楽大学でピカピカに磨き上げられたアカデミックなサウンドは、ジュースにすぎません」
「音楽ビジネスの制度に従った、もの分かりのいい指揮者の普通の受け答えはしない」というクルレンツィスは、世界的な巨大資本のソニーレコードとの専属契約では、かつてない非常識なものとなりました。ソニーは、クルレンツィスの要望をすべて受け入れるという途方もない契約なのです。それが、今回の文明転回の烽火をあげるデルフィーでのベートーヴェン交響曲7番の舞踏付き演奏を可能にしたのでしょう。舞踏付きの7番はかつて存在しませんでした。
また、クルレンツィスは、他の惑星の住人から地球の文明について聞かれたら、パルテノン神殿(自由・平等の民主主義を現わす水平な建造物の傑作)と、ベートーヴェン交響曲9番をよりよく演奏することだ。と述べています。わたしも全く同意見でなんとも嬉しくなります。第九をパルテノンでやるのかな?
※7番のCDは、4月に発売されていますので、わたしの4月9日のBlogをぜひご覧下さい。(クリックで飛びます)
参考・古代エーゲ海哲学の旅(トルコ~ギリシャ)は、わたしの長年の教え子(中1から大学卒業まで)の染谷裕太君が、徒歩と自転車で4か月以上かけて行い、美しい写真を撮り、優れた日記を書いています。それらは、白樺教育館のホームページで見ることができます(アップの労は古林治さん)。
fbコメント
染谷 裕太(8月4日)
世界の中心デルフォイ!(古代ギリシャではそう思われていた) でベートーヴェンを演奏。しかも踊り付き。
武田康弘
(モデルが悪くてすみません)
日本のみならず世界中で間違ったマスクのかけかたをしているようです。
通常のマスクの穴は、ウイルスの50倍程度ですから、ウイルスの侵入も流出もともに防ぐことはできません。
医療用マスクやそれに準じるマスクをし、顔に密着させればよいですが、その状態で歩きまわることは危険でできませんし、長時間つけ続けることは不可能です。
ですから、マスクをかける理由は、唾・飛まつが飛ばないようにするため、と説明されていますが、そうである限り、当然、マスクは口にするものです。
鼻を覆うのは意味がありません。というよりも正しい呼吸は「鼻呼吸」ですから、鼻を出していれば、酸素流入量を減らさず(小学高学年での測定では2割近く減る)、二酸化炭素を吸い込む量も増えずに(やはり小学高学年では80倍以上になる=共に小学校での実験結果)すみます。
酸欠が脳活動に悪影響があるのは常識ですし、二酸化炭素が大幅に増えることも同じく有害です。
きちんと呼吸(鼻呼吸)ができるようにすれば、問題ありません。マスクをするにしても、口だけにしないといけないはずです。
ついでに言うと、感染はコロナに限らずですが、大多数は手(指)からであり、空気感染などはなく、飛沫感染も数は少ないことが世界の医学論文で報告されています。
なお、手の常在菌まですべて殺してしまうアルコール消毒ではなく、食事の前とトイレの後は、石鹸で手を洗うことがベストとのことです。手を洗った後でマスクを外す(触れる)のもダメです。
武田康弘