染谷裕太君の「カラヤンを聴いての感想」(fb)を、わたしがシェアしたところ、数十通ものコメントが寄せられました。
以下は、染谷君の記事とわたしのコメントのみを抜き出したものです。最後はわが小沢征爾の問題点の指摘になりました。
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染谷裕太
最近少しカラヤンを聴いていて思ったこと。
まず、カラヤンの演奏はどの曲も同じ曲に聴こえる。とても流麗で綺麗な演奏で、パッと聴いた限りで別に文句をつける所はない。演奏の最初から最後まで綺麗に、軽やかに、流れるように進んでいく。全ての曲がその調子なので、全て同じに聴こえる。
しかし、それほど華麗に流れるように進んでいく中で、たまに「え?」と驚くほど、突然喧(やかま)しくなることがある。それはハッキリ言って騒音と言ってもいいほどで、音楽でなく単純にウルサイだけ。
たぶんカラヤンの演奏は、その曲の意味(作曲者が言いたい事)を掴んで、それを表現しようとする演奏ではないんだろうと思う。だから、むやみに鳴らすだけの統一がなく意味の通らない箇所が出てくるし、白けるほどにあざとい響かせ方もするのだろうと思う。
聴き終わった後にその曲の印象が残らない。感動のカケラも残らない。その演奏なら、その曲である意味も必要もない。曲をのっぺらぼうにしてしまう。カラヤンの演奏はそういう演奏だと感じた。
昨日はブラームスの一番を聴いていて、あんまり軽薄なので段々腹が立ってきて「これはおかしい」と思って途中で止めて、クレンペラーを聴いて「うん。これ」と納得。
自身がやっていることに誠実でない感じや、作曲家や曲に対するリスペクトのなさ、上から目線な感じ。カラヤンのそういった所が僕は非常に気に入りません(笑)
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武田康弘
同感です。
音楽家を含めて、なぜカラヤンが支持されてきたのか?
わたしも裕太君の感想と近く、さっぱり意味が分からないのです。
確かにスマートでスタイリッシュですが、それぞれの音楽固有のよさを消してしまい、自分のための音楽にします。カラヤンの意識する聴衆は、大衆=テレビ好きの人々ですが、数が多いのが正しいというのであれば、正しいのでしょう(笑)。
他者への共感(演奏家の場合なら作曲者と楽曲への敬意や共感)は少なく、自己中心的で耽美的、流線形の流れ去る=消費される音楽で、確かに時代に合っていますが、こういう演奏を好む人は、大元を探るというフィロソフィーの精神とは無縁でしょう。
もっと手軽に!もっと楽しませて!もっと乗せて!素敵~カラヤン、ですが、わが小沢征爾も途中からはそちら側に行ってしまいました。そうならないと受けないのです。
ナチ党員でしたし、自己耽溺でしたし、政治力で音楽世界をわが者としたチャンピョンでした。自家用飛行機を持ち、スポーツカーを乗りこなすカッコいいカラヤン!!
各作曲家は、カラヤンのために(笑)
冗談じゃないぞ~~~。
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カラヤンには、愛、音楽と人間への愛情がない。
愛の代りに機能がある、自己陶酔がある、音への没入と聴衆支配がある。...
彼は自分自身の存在を愛することができない。代りに、彼の才能を愛し、彼の美学を愛し、彼の所有物を愛する。自己充足ができず、本質的に不幸だ。
だからスマートにやれてしまう。流れるようなレガートが多用され、他者を自己の美学に従わせる。作曲者のもつ人間精神の重層性はなく、屈折もなく、苦渋もない。彼は、奥深い精神世界とは無縁で、表層美に支配される。ヒトラーの純潔の美学やヒトラーが称賛した女優・映画監督・カメラマンのレニ・リーフェンシュタールと同じだ。
カラヤンは、音楽美を用いた独裁者だ。作曲者の精神世界は、自分の美学を音楽化する手段となり、聴衆は、自分の美学を称賛する群衆となる。カラヤンにとって作曲者も聴衆も自立した他者ではなく、彼の美学実現のためのアイテムだ。彼には他者はいない、いれば、無視するか、排除するだけのこと。彼の美学に従う者だけが他者ならぬ他者となる。
彼の美は、人間性の多様さや豊かさとは無縁で、生産性は持たず、支配をもたらす。彼の音楽も存在も、すべては「権力への意思」である。自分の美学への陶酔は、日本の三島由紀夫のものでもあるが、そういう思想の持ち主は、必ず、なにかしらの「絶対」を要求する。
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一松さん、
「フルトベングラーがカラヤンの対極」は、表層的にはそう見えるでしょうが、一つメダルの裏表と思えます。
どちらも音楽を「演出」します。カラヤンの(フルトベングラーとも)対極は、同時代ならクレンペラーでしょう。音だけで勝負するー演出はしない、という極みですので。
「演出」に乗る群集心理の怖さーー
心身全体での会得=納得ではなく、他者や情報や表層知で動いてしまう人間の宿命かもしれません。政治を見るといつまでも同じようなことの繰り返しですが、その中で目覚めていたいもの、わたしは楽しく面白く深く納得して生きる「恋知の生」です。
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大澤さん、丁寧なコメント、ありがとうございます。
今なぜカラヤン談義なのか?のご質問ですが、
これを書いた染谷さんは、青年で、カラヤン初体験です。今更ではなく、今、なのです。そこにわたしやみなさんが思いや見方や考えを書き込んだのです。
みなが熱くなるのは、いまなおカラヤンの美学ー思想が力をもっているからでしょう。
ヒトラーとリューヘンシュタールとカラヤンの美学は同じで(みな天才です、20世紀の最大の哲学者といわれたハイデガーもヒトラーに共鳴)、純潔主義、夾雑物の排除、自己絶対化・・・・ですが、その思想は、現代でも大きな力をもっています。
徹底的な衛生主義、虫のいない(笑)人工化された自然、人間の管理を含むあらゆる面の管理主義・・・
豊かで楽しいアンパンマンの世界にはバイ菌マンがいます。バイ菌マンを消去したアンパンマンの世界は、どうなるでしょうか?(笑)
なお、N響に期待するのは官僚に期待するようなもの(笑)。ぜひ、ジョナサン・ノット東響に足を運んでください。
小澤征爾についてはまた。
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こんなに悲しいんだ、
こんなに嬉しいんだ。
こんなに怒っているんだ。
と直接言う、直接音で表現しようとする、ということでは、芸術になりません。
文学でも音楽でも美術でも、それを日常言語で表現する、また、その延長の表現し方では「芸術表現」ではなく、ただ「表現」」です。
二次化(=高次化)しないといけませんが、それを「理念化」とも呼びます。この理念化は、フィロソフィーに弱い日本人の最も苦手とするところです(フィロソフィーとは個人意識そのものですから、滅私奉公の道徳を仕込まれ、集団主義をよしとする国では不可能です)。
高次化のためには、豊かな感情と、その感情が湧き出る源を冷静に分析する知の両方が必要ですが、譜面を読むのは、その譜面が表している「理念」を読み取る=解釈することが基底にないと、ただの音符読みに終わります。この理念を掴み(解釈し)、理念世界を空間に構築する作業をするには、強い思考力=フィロソフィーが必要です。
音による精神世界の構築(高次化)がないと、音楽は、ただ上手い(下手な)ものにしかなりません。上手に流れゆくだけの音楽は、浅くて精神の底に届きません。感情をクスグルだけ、あるいは「部活」の乗り。いくら精緻に譜面を読み、暗記しても、それは、理念をつかむ頭の作業とは別次元の作業なのです。
若き小澤は、斉藤秀雄から教わった楽曲の理念に従っていましたが、次第に(教わらなかった曲の演奏が増えるに従い)「理念」ではなく「直接的感情」につくようになり、それを音楽化するための緻密な楽譜読みに入り込んだようです。基準となる「理念」の替わりに、「他者承認」が中心となりました。無自覚であれ、理念化の放棄です。聴衆に受ける(承認される)ことが基準になり、豊かな理念の構築ができません。評判のよい比較的新しい録音ほど音響の追求にしかなっていません。
昔は、若さゆえの「自分の音楽」への意地が新鮮でしたが、若さが成熟に向かうにつれ、理念の不足を緻密で美しい音や優れた合奏力で置き換えることになったのです。『ぼくの音楽武者修業』(音楽の友社刊)を1980年に新潮文庫にするとき、ある部分だけをこっそり抜いたのは、その象徴でしょう。「こんなことをしているとカラヤンの亜流になってしまう。カラヤンなにくそと思って、ぼく流の音楽を作らなければならないと固く心に誓った」というフレーズが消され、全体は、巧妙にカラヤン讃美へと変えられました。
武田康弘
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以下は、2013年4月7日のブログより。
小沢征爾さんの『ぼくの音楽武者修行』は、30数年前から長いこと中学一年生の授業で使い、彼の演奏する音楽を聞いてもらいつつ音読しました。 ず~と応援してきてLP→CDもたくさん購入してきました。
ただ、ウィーンフィルの音楽監督になったころ(超有名になったころ)からの演奏は、
最高の評価を得たショスタコービッチの交響曲5番にしろ、
奇跡のニューヨークライブと謳われた最近のベルリオーズの幻想、ブラームスの1番にしろ、各々の音楽の真髄に「届かない」と感じてしまいます。
たとえば、ブラームスの1番でいえば、サイモン・ラトルがつくる明晰で豊かな理念を感じるエロース=立体的な面白味とは異なり、平板的・直線的でひろがりを持ちません。聴衆は熱狂していますが。
マーラーの9番(2001年東京文化会館でのライブCD)など、西洋人がつくる世界とは別の意味で優れた演奏(美しく情緒的で涙を誘うような)もあり、好感を持ちづづけてはいますが、若いエネルギーの奔騰を示した以前の演奏のようには絶賛できない演奏が多いのです。
おそらくは、オーケストラプレーヤーをまとめる力はあっても、強靭な理念世界を生み出す力が彼の中にはなく(師の斎藤秀雄にはありましたが)、そのことが、若さの輝きを失った後の彼の演奏を平板化させているのではないかと思えます。