思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

歴史の歯車が回ったー壁崩壊!

2009-08-31 | 社会思想

今朝の「東京新聞」社説・【歴史の歯車が回った】は、極めて適確な分析・解説ですので、ご覧ください。


「一票に込められた変革への欲求が、ひと塊になって野党に政権の座を用意したのは、憲政史上例がない。歴史の歯車が回り、新たな時代の門口に、私たちは立つ。

メディアの民主党圧勝の予測にも有権者は動じず、古くからの支持者ですら粛粛と自民政治に別れを告げた観がある。

選挙戦で民主党が繰り返し唱えたのが、「明治以来の官僚政治からの脱却」だった。鳩山代表ら党首脳は直ちに政権移行チームを編成し、九月半ばと想定する民主党内閣の発足へ脱・官僚の体制づくりを急ぐ。霞が関の役人が族議員や天下りの予定業界と一体でリードしてきた縦割り式の予算配分。その惰性を絶ち、政策の優先順位を政治が決める。国が主、地方は従の中央集権を地域主権へと転換する。いずれも時代の確かな要請だ。

外交・安全保障のありようも旧来の官僚任せを改めるとすれば、政治の風景は一変する。

自民党が官僚機構とつくりあげた、盤石にも見えた厚い壁はもろくも突き破られた。「日本を壊すな」と劣勢に焦りの声を上げた 麻生太郎首相らを顧みることなく、有権者は欲する政権をじかに選んだ。歴史に刻まれる2009年衆院選であったのだ。」



わたしは、支持政党はありませんが、日本と日本人のほんとうの民主化、そのために一番必要な≪知の自治能力≫(生活世界の具体的経験に立脚し自分自身の頭で考える)を生みだすには、明治以来の「旧・日本主義」(靖国思想=国体思想)を元から廃棄することが基本要件なのです。その意味で、敗戦による終戦から64年目の2009年8月30日は、1945年8月15日と共に、わが国の歴史に刻まれる日となるはずです。

公共的に何よりも大事なのは、民主主義=主権在民の深化・拡大であり、「自民党が官僚機構とつくりあげた、盤石にも見えた厚い壁」を崩したことは、ベルリンの壁崩壊にも等しい出来事でしょう。キャリアシステムに象徴される官僚主義、それを支える暗黙の想念である「東大病」(知の「客観主義」が生んだ歪み)を廃棄する営みに大きな弾みがつきます。みなが自分自身を中心に生きることのできる真の幸福社会を目がけて。

今日からが「新たな始まり」です。


武田康弘



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公共哲学論争ー3

2009-08-30 | 社会思想
また、字数オーバーのため、新たなブログとします。
ただし、話が分かりにくくなるので、一部重複させて出します。


「当然」の掘り下げが哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 15:41:43

「倫理」は、人間のあらゆる営みの基底にあるものです。民主制社会に生きる人間は、民主的倫理を身につけることが求められます。わたしは、ブログ『民主的倫理』に、「端緒を明らかにし、経緯を明らかにし、結果を明らかにし、それに関わる人を明らかにする、こういう民主的言動が民主的倫理を生むのです」と書きましたが、「公共哲学」を論じるにも、このことを踏まえなければ、その議論は不毛なものにしかなりません。
正直に事実を話し、端緒と経緯と結果について、正確な情報を開示する。これは、民主主義を立場とするわれわれ三人に共通する基本ルール=倫理だと思います。

それを確認した上で、[主権在民]の話に戻ります。

1947年に文部省が発行した『新しい憲法のはなし』で、

「・・・そうすると、国民ぜんたいがいちばんえらいといわなければなりません。国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権はとうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第1条にも、「主権が国民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は主権在民の考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。」

と説明されて以来、「主権在民」は、小学校で習い、誰でもが言葉としては知っているわけです。

ところが、それは、現実の政治においては形骸化してしまい、、官府が民の上に立ち、まるで政治家や官僚が主権者のように振る舞っています。

また、「公共哲学」の推進者のお一人、学習院大学法学部の桂木隆夫さん(法哲学と公共哲学を担当)の『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房・2005年9月刊)では、21世紀のあるべき民主主義の姿として、大衆の中の「エリート」とそれとは区別された「エリート」の育成が必要だ、と結論づけていますが、こういう公共哲学は、主権在民の徹底という私の基本思想とは違うと思いますが、山脇さん、いかかですか?
  
それどころか、「公共哲学」の最大の推進者=山脇さんの話では、東大出版会のシリーズ『公共哲学』の4つの編集基本方針を一人で決めた(その実力をもった)金泰昌さんの公式発言(参議院での討論)に見られるように、現在の日本国憲法下でも、「日本国の主権は、天皇に寄託されている」と言われます。また、「天皇の官吏から国民全体の奉仕者へというのは、今の日本国憲法から見ると同じことだ。余り変わっていない。」
とも主張されています。

民主主義の根幹=「主権在民」という言葉の表層の意味は、小学生でも知っているわけですが、その意味と価値を明晰に意識し、掘り下げ、そこからさまざまな現実問題を捉え、変えていく営みが何よりも大切だという私の思想・判断は、上記の現実があるからです。

一見「当たり前」と思われている言葉・概念・思想の大元=根拠を探ることで、新たな世界を切り開く営み=頭の使い方を「哲学する」と言う。新奇な造語をつくることや、多くの概念語を横並びに広げることは、理論趣味や衒学趣味という世界であり、ほんらいの哲学とは何の関係もない。わたしは、強くそう思っていますが、山脇さん、荒井さんはどう思われますか?
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ラウンドを改めて議論しましょう (山脇直司)
2009-08-28 18:32:58

武田さん
重要な問題提起を有り難うございます。「当然」の掘り下げが哲学だとのご意見は、私にとっては、当然のこと=自明の理です。
ご質問に、すべてお応えしたいのですが、当方、来週から約一週間行われる国連大学グローバルセミナーの委員を務めているため、準備を含めて、時間をそれに当てなければなりません。それが終わってから、別なラウンドを設けて、再開しましょう。基本的にヒューム主義者である桂木さんのことはよくわかりませんが、千葉大学の小林正弥さんにも、議論に加わって頂いたらどうでしょうか。
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了解。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 21:46:28

山脇さん
了解です。楽しみに。
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一言 (青木里佳)
2009-08-29 08:36:48

今までの山脇さんと荒井さんのやり取りを読ませて頂いてましたが、ちょっと一
言失礼します。

山脇さんの「実にちっぽけな世界」という表現は、感情的になって書いただけだ
と思いますが、上から見下す傲慢な響きがありますね。
意見として言う・討論として述べるという道から脱線して、ただ相手を攻撃して
負かせようとしている子供のような言動にしか見えません。
山脇さんの説明も読んでいると、何が言いたいのかわからなくなってきます。
専門的な言葉(しかも英語に訳したものまである)や論点とは違う話が
だーっと並べられていて混乱してきます。
例えて言うなら、刀や手裏剣をバンバン投げてきて、最後には煙を巻いてドロン
と消えようとしている忍者のような感じでしょうか。(笑)
残された方としては「なんだったんだ!?」と唖然とするのと、まともに相手して呆れたという気持ちでしょう。
もっとシンプルに、冷静になって書き込んで欲しいと思います。
あーだこーだと言葉ばかりを並べて、まとまりがないと言い訳にしか聞こえなく
なってくる気がします。
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哲学とは己を知ること (タケセン=武田康弘)
2009-08-29 12:11:44

「哲学とは自分自身を知ること」とは、よく知られた格言ですが、タレスも言うように、この世でこれほど難しいことはないようです。
もちろん、わたし自身を含めて、立場上、人の上にたつ仕事をしている人(とりわけ社会的地位の高い人)は、たえず己を顧みると同時に、厳しい批判を浴びる「場」に進んで身を置くことが求められると思います。
他者の批判を受け入れ、己を変える努力を怠れば、哲学=恋知とは無縁な存在となってしまいますから。わたしは、子供たちからメタメタに(笑)批判され続けて34年目ですが、まだまだ修行が足りない!と思っています。

それから、山脇さん、
「桂木さんのことはよくわかりませんが、」とありますが、山脇さんは桂木さんの『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房)への長文の書評を書かれていますね。
わたしも金泰昌さんからの依頼で同書に対する書評を書きましたが。http://www.shirakaba.gr.jp/minchi/library/library20.htm
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公共哲学とは何だろう (荒井達夫)
2009-08-29 13:37:22

桂木隆夫さんの、大衆の中の「エリート」とそれとは区別された「エリート」の育成、という考え方は、現在の国家公務員制度改革における「スーパーキャリア」の議論を思い出させます。法的根拠のない単なる人事慣行であるキャリアシステムが特権的意識を醸成し、非民主的と批判され、その廃止が求められている中で、法律で現行の「ノンキャリア・キャリア」の上に、さらに「スーパーキャリア」を創ったらどうか、という議論です。主権在民の思想では、理念上、特権者を認めないはずですが、ここでは完全に単なるお題目に過ぎなくなっています。

桂木さんの思想は、金泰昌さんの三元論の思想よりも、さらに非民主的度合いが強いと言えるかもしれません。金さんの思想の強烈な非民主性は、一見ではわからず、長い武田・金論争の中で暴露され、参議院でのディスカッションで確認されることになったのですが、桂木さんの方は、一見して強烈な非民主的思想と思えるからです。

主権在民の原理を現実問題の中で常に追求する姿勢がないと、単なる特権者である官僚と、職業公務員として高いプライドを持って職務を遂行する幹部職員の区別もできなくなってしまいます。桂木さんの思想では、その危険性を感じます。とにかく高度な専門知識を身に付ければ、社会の在り方について正しく判断できる優れた人間になる、というような思い込みがあるように思うのです。戦前の高等文官試験につながる思想であるようにも感じられます。

1947年文部省発行の「新しい憲法のはなし」にあるように、主権在民の国家では、「国民ぜんたいがいちばんえらい」のですから、社会の在り方は一部少数のエリートが決めるのではなく、国民の一人一人が「全国民に共通する社会一般の利益とは何か」を対話と討論する中で決定していく、ということを基本の思想にしなければならないと考えます。

桂木さんのような思想が公共哲学の基本書の中で、21世紀のあるべき民主主義の姿として語られること自体、私には不思議です。思想・良心・言論・表現の自由があり、公共哲学もいろいろあって結構と思います。ですが、公務に関する限り、桂木さんの思想は、金さんの思想と同様、到底使えないものと言わざるを得ません。主権は国民にあり、公務員は憲法を遵守する義務があるのですから、主権在民の原理の徹底は、公務員倫理の土台中の土台なのです。
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再来週以降に。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-29 15:42:34

わたしの問題提起(桂木さんの「公共哲学」も含む)に対する対話は、山脇さんが、「国連大学グローバルセミナー」を終えた後、再来週以降にしましょう。今後の公共哲学・公共思想のために有意義な議論ができるよう、皆で努力しましょう。
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主権在民に立脚した役に立つ公共哲学を目指して (荒井達夫)
2009-08-29 22:58:06

青木さん。

「専門的な言葉(しかも英語に訳したものまである)や論点とは違う話がだーっと並べられていて混乱してきます。」、「あーだこーだと言葉ばかりを並べて、まとまりがないと言い訳にしか聞こえなくなってくる気がします。」(青木さん)

このような議論の仕方では、特に肝心の点について、やり取りが本質に迫ることができず、ただの時間の無駄にしかなりません。

ですから、今後は、常に論点を確認しつつ、現実的具体的な問題を例に、普通の平易な言葉で説明してもらうようにしたいと考えています。もちろん、私自身も、そのように努力します。そうでなければ、実践的で真に有用な公共哲学は実現できませんので。

専門用語、カタカナ英語、勝手な造語などをやたらと並べるだけでは、現実問題にはまったく役に立ちません。そのことを特に強調して、議論を進めていきたいと考えています。

主権在民に立脚した役に立つ公共哲学を目指して。
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ごめんなさい (山脇直司)
2009-08-30 01:15:11

青木さん
私から見て、荒井さんの方が私より偉い立場(国家公務員)のように感じて、書いたのですが、第三者からみて、逆に私の発言が上からの目線で書いているように受け取られたことは、私の責任です。弁解は致しません。
私が言いたかったポイントは、複数の異なる意見があって初めて成り立つ(論争的な?)公共的議論が、一義的な答えや行動が常に求められる(窮屈な?)公務員の世界で可能なのかどうかということです。大学のゼミでは、教員といえども、間違ったことを話せば、学生から集中砲火を浴びます。そしてそれに反論できなければ、教員は自らの非を認めなければなりません。その意味で沈黙は美徳では全くありません。
ちなみに私は、日本人の教員から哲学を学んだことは一度もなく、反論を奨励する非日本人教師から哲学することを学びました。「論争なくして哲学なし!」。おそらくその点で、武田さんと気が合うのだろうと思います。では、100人の大学生(私立大学生が圧倒的に多いです)、大学院生、社会人が徹夜で討論する国連大学セミナーの「論争仕掛け人」のために、出かけきます。
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公務員の世界にこそ (タケセン=武田康弘)
2009-08-30 12:30:27

率直な山脇さんの言葉、とても爽やかで好感です。

≪哲学的思索≫と≪見世物≫とは違いますから(笑・失礼)。

わたしは、山脇さんの見方とは反対で、公務員の世界こそ≪公共哲学的複数的思考≫が必要だと思っています。

何をどうすることが全体の利益になるのか?多様な市民の生活から「妥当」を導くためには、大学内における議論以上に、広くかつ厳しい討論が必要なはずです。

しかし現実は、【官】を「公」という領域と見、市民的「公共」性を実現するためにのみ存在する機関だという認識が弱いため(公と公共を分ける「三元論」は、この歪んだ現実を追認する弱い思想でしかありません)、市民の利益・公共性を支え、担う役目を負った公務員の世界を、一元的な国家主義と看做すことになるわけです。

最後にはひとつの「結論」を出さざるを得ない厳しい現実の場である公務員の世界だからこそ、そこに至る過程では、複眼的で、多様な考え・見方を持ち、ふつうの多くの生活者が納得できる普遍性を生みださねばならないはずです。

山脇さん、≪複数的思考≫を、地方、国家を問わず、公務員の世界に広げようではありませんか。それが市民みなの利益になるはずですし、公務員の人たちの真の働きがいにもなるはずです。
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公務員の複数的思考は当然のこと (荒井達夫)
2009-08-30 18:55:13

「最後にはひとつの結論を出さざるを得ない厳しい現実の場である公務員の世界だからこそ、そこに至る過程では、複眼的で、多様な考え・見方を持ち、ふつうの多くの生活者が納得できる普遍性を生みださねばならないはずです。」(武田さん)

私もまったく同意見です。そうでなければ、国家公務員法の理念「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し」は、実現できません。

公共哲学の基本思想においては、公務員が複数的思考を持たないことを前提にしてはならない、と考えています。
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民主主義をめぐる諸問題 (山脇直司)
2009-08-31 01:27:47

武田さん、荒井さん

31日から始まる国連大学グローバルセミナーhttp://www.unu.edu/gs/ は、東アジアの地域間の未来をめぐり、中国や韓国からの留学生を交えて、白熱した討論になりそうです。私の考える(グローカル)公共哲学は、ドメスティックやナショナルなレベルに留まることでは満足できません。今回は、アジアにおける民主主義の可能性を含めて、学生同士の討論をコーディネートしたいと思います。なお、ユネスコ主催の地域間哲学対話では、民主主義は、それ自体が「目的」なのか、それとも何らかの公共善実現のための「手段」なのか、という根源的問題から討議が始まるということも、情報としてお伝えしておきたいと思います。
あと、複数の意見を尊重するとおっしゃるとき、荒井さんや武田さんの意味での民主主義を否定するエリート主義者の意見も、お二人は尊重されるのかという問題(イシュー)も、帰ってきてうかがいたいと思います。私は、エリート主義には反対ですけど、「一つの意見」として公共世界から排除はしません。
ではまた。
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お応え (タケセン=武田康弘)
2009-08-31 14:12:47

山脇さん

簡単にですが、お応えです。

いま、いやでも世界は連関し、「ドメスティックやナショナルなレベルに留まること」など、どのような分野であれ不可能です。
しかし、世界的なレベルで評価され、世界に優れた影響を与えることができるのは、「足場」
をしっかりもった人だけです。大地に根を張らなければ、飛翔する想像力は、現実を変える力とはならず、空想に留まるほかありません。

また、当然のことですが、民主制社会では、独裁する自由、政府が特定宗教を勧める自由、天皇崇拝を強制する自由など、他の個人の自由を侵す「自由」は認められません。

「エリート主義」の思想は、それを語るのは自由ですが、市民社会が成立している日本において、市民の公共を支える役割をもつ「官」が、エリート主義を取ることは、ほんらいしてはならぬことでしょう。

民主化の途上にある他のアジア諸国には、日本が徹底した民主主義=「主権在民」から立ち上がる政治を実践することで、よい影響を与えることができますし、それが世界への貢献となるはずです。「自治」を行うためには何が必要なのかの探究は、普遍性をもちます。

最後に、民主主義とは、社会主義や共産主義のように予めの内容を持ちません。それは教育と同じで、特定の理念をもってはならず、枠組みを決めるだけです。個々人が出来るだけ広く見、考えることができるような仕組みをつくる不断の努力であり、その意味で「手段」の整備と拡充が民主主義だと言えますが、その実現の度合いを強めていくという意味では、政治の「目的」ともなるわけです。

では、セミナーの終了後、時間をとって、じっくりと議論しましょう。
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素朴に思い、感じたことです。 (荒井達夫)
2009-08-31 19:49:49

山脇さん。

間違っているかもしれませんが、素朴に思ったこと、感じたことを書いてみます。

憲法で「主権在民」を掲げながら、「国民一般の利益(公共)に反する国家の利益(公)があって良い」と考えることを「基本思想」としている国は、あるのでしょうか?
そもそも「国家の利益」とは、外交防衛問題などの対外的な問題を議論する中で、「国民一般の利益」を考えた時に使われる表現ではないか、と私は思います。
そうであれば、グローカルに公共哲学を考えた場合でも、「公」=「公共」となりますから、「公共に反する公」を「基本思想」にはできないはずと思いますが、いかがでしょうか。

また、社会を運営していくうえで、民主主義以外に採り得るより良い思想はあるのでしょうか。私は、現実にいろいろ問題はあるにせよ、民主主義よりも良い思想はないと考えていますので、その原点である「主権在民」に徹することが、人々にとってより良い社会を作るための最善の方法ではないか、と考えます。ですから、民主主義は「目的」か「手段」かと問うこと自体、とても変に感じるのです。私なら、根源的な問題として「なぜ民主主義しかないのか」と考えます。

さらに、頭の中で「民主主義は嫌い。全体主義が良い」と考えるのは、思想・信条の自由ですが、その考えを実行に移すことはできません。そのような思想を持っている人を、公務に就けることも許されません。民主主義社会とは、そういうルール社会だからです。

エリート主義については、先に桂木さんの思想を例に述べたとおりです。

コメント (5)
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シリーズ「公共哲学」(東京大学出版会)の基本方針は?

2009-08-28 | 社会思想
荒井達夫、山脇直司、武田康弘による≪公共哲学≫に関するコメントのやりとりが、字数オーバーしましたので、新たなブログとして以下に続きを出します。

シリーズの基本方針は? (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 15:07:32

山脇さん

議論が錯綜するのを避けるために、ひとつ、基本的なことをお尋ねします。

東大出版会のシリーズ『公共哲学』には、四つの編集方針が、全巻の裏表紙に書かれていますが、あれは、編者のみなさん(山脇さんも編集委員ですね)の合意ではないのですか?

当然、読者が見れば、その方針の下につくられたシリーズだと思いますが。
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お応え (山脇直司)
2009-08-27 16:56:43

お応えします。私は編者ではなく、編集委員の一人にすぎませんが、1の活私開公の強調、3の公共性の担い手、4のグローカルに関しては、私が責任を持ちうる思想です。しかし2の公私媒介としての公共性という考えは、編者の金氏の考えであり、責任を持てません。

荒井氏へ (山脇直司)
2009-08-27 17:00:42

私の三元論は急に出したわけではありません。他の私の論文を読みもせず、金氏だけの話を聞いて、三元論は駄目だ駄目だと権威主義的に言い続けるなら、私は「一人の市民として」「官僚である貴方」に論争を挑むでしょう。
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更に確認です。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 18:24:42

山脇さん

了解です。編集方針と記載されていても、それは、編集委員みなさんの合意ではないと言うことですね。やはり、金泰昌さんの意見なのでしょうか?

また、ご存知のように、わたしが問題にし、月刊『公共的良識人』紙において論争(哲学往復書簡)となったのは、金泰昌さんの【公と公共の区分けを要諦とする三元論(私・公共・公を三次元的に捉える)】です。

三元論的なものの見方一般を否定したのはありません。念のため。
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パネルディスカッションの経緯 (荒井達夫)
2009-08-27 21:18:44

今回の話題では、参議院のパネルディスカッションの経緯を知っておく必要があります。これについては以前、私が「立法と調査279号」に詳しく書きましたので、お読みください。その一部分を下に掲載します。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/20080401.html

何より重要な点は、「公共哲学と公務員倫理」をテーマに、国会の調査機関が主催し、人事院の関係幹部職員のほとんが列席した公開討論の中で、金泰昌さんの三元論の思想が明らかにされた、ということです。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/20080220.html

なお、ディスカッションのパネリストは、金泰昌さん、武田康弘さん、山脇直司さん、荒井達夫の4名です。


「公共哲学と公務員倫理」~パネルディスカッションを振り返って~

2.「学問としての公共哲学」に対する疑問

 近年、全国のいくつかの大学で公共哲学の科目が新設されており、広がりは速度を増していくと予想される。また、公共哲学を公務員試験の科目に加えるべきと主張する大学人も出ており、公共哲学の公務への影響は無視できないものになりつつある。しかし、私は、公共哲学が公務の世界で注目されていく中で漠然とした不安を感じていた。それは、「学問としての公共哲学」において通説的見解とされている、いわゆる「公・私・公共三元論」が憲法の民主制原理・国民主権原理に反するのではないか、と感じられたからである。
 公共哲学を公務部門に導入するに当たっては、民主制原理・国民主権原理との整合性は絶対条件であり、この点に関しては、わずかな疑念も許されないところである。ところが、「公・私・公共三元論」に対する疑念は膨らむばかりだったのである。特に『公共的良識人』(京都フォーラム)における金泰昌氏と武田康弘氏との連続対談において、これは明白なものとなった。『公共的良識人』は、佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)刊行の元にもなった権威ある学術誌である。また、金泰昌氏は「学問としての公共哲学の最高権威」、武田康弘氏は「民間人の民主主義哲学者」であり、この二人の議論は学術的にも社会的にも極めて重要な意味を持っている。連続対談において両者は、「公・私・公共」と国民主権の理解をめぐって鋭く対立したのである。
 問題は、「全体の奉仕者」である公務員にとって生命線とも言うべき民主制原理・国民主権原理の関係で生じているのであり、現段階における議論を整理しておくことは、公務員の在り方や倫理を考える上で必要不可欠と思われた。そこで、金泰昌氏と武田康弘氏を含め、公共哲学の第一人者が参加するパネルディスカッションを行うことを提案することにした。公共哲学が公務員の在り方や倫理にどのように関係し貢献できるのか、を議論すれば、同時に「公・私・公共三元論」と民主制原理・国民主権原理の関係も整理できるのではないか、と考えたのである。このようなテーマのパネルディスカッションは、良識の府である参議院の調査機関が担当するにふさわしい事務であると思われた。

「公・私・公共三元論」について (荒井達夫)
2009-08-27 21:37:39

山脇さん

何度も繰り返しになりますが、私が問題にしているのは、シリーズ公共哲学の編集方針となっている、金泰昌さんの三元論の思想です。それは、「公」と「私」を媒介する論理であり、金さんがパネルディスカッションで示された、「公」(=国家の利益)と「公共」(=国民一般の利益)を明確に区別し、「公共に反する公があって良い」とする考え方です。これが主権在民の原理に反すると述べているのです。

従来の「公・私二元論」に対し、「公・私・公共三元論」は、今日、何人かの公共哲学関係者が、特にNPO等の公共的活動を哲学的に根拠付ける思想として主張していますが、オリジナルの議論は金泰昌さんによるものである、と私は理解しています。
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確認 (山脇直司)
2009-08-27 23:09:34

ちなみに、私の三部作『公共哲学とは何か』『グローカル公共哲学』『社会とどうかかわるか』を読んでいただければおわかりのように、活私開公、公共性の担い手、グローカルは重要な骨組みになっていますが、「公私を媒介とする公共」という考えは、一度も用いていません。ただし、「民の公共」に基礎をおく(主権とする)「政府の公」「私的領域」という三元論思想は、放棄できないものとして、用いていますし、さらにこれを「民主主義的・共和主義的」三元論として、発展・展開していく所存に変わりはありません。総選挙が終わり、私に時間ができた段階で、いつでも詳細にご説明しましょう。
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念のためです (荒井達夫)
2009-08-27 23:18:34

山脇さん

念のためですが、私は、三元論については、金泰昌さんの思想しか問題にしていません。また、「荒井さんの言っていることは、あまりにも当然のこと」という山脇さんの発言があったわけですから、尚更論争する意味はないと考えています。
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主権在民 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 00:11:40

わたしは、政府と官の位置づけ・役割・制度を、「主権在民」の民主主義原理から徹底して見直すことが必要だと考えています。
「公共哲学」は、まず何よりも「主権在民」の思想と実践を深化・拡大するために役立たなければならないーそれがわたしの基本思想ですが、山脇さん、荒井さんは、賛同されますか?
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まったく異論ありません (荒井達夫)
2009-08-28 00:26:51

まったく異論ありません。

我が国のような民主主義国家において、行政運営は「主権在民」の原理に基づく以外にあり得ない。また、「主権在民」の原理に基づかなければ、キャリアシステムの問題は決して解決できない。「主権の存する日本国民」、「国民全体の奉仕者」、「公共の利益」が、キーワードであり、行政運営の思想的土台となる公共哲学は、これらの理念の根拠を導き出すものでなければならない。公共哲学は、真に実践的でなければ意味がない。

そう考えています。
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当り前のこと!それを超えてさらに先へ! (山脇直司)
2009-08-28 01:35:31

少なくとも、私にとって、根本規範としての「主権在民」は、公共哲学の当たり前の出発点です。また、その先の理念として人権(自由権・平等件・社会権)と平和という二大柱も国是として忘れてはなりません。私の「民主主義的・共和主義的」三元論は、まさにそのための実践的な公共思想です。
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「公共に反する公があって良い」とは考えない (荒井達夫)
2009-08-28 05:50:32

「主権在民」の原理を徹底し、「公共に反する公があって良い」とは考えない、という点が確認できました。ようやく、まともな公共哲学の議論になりそうですね。結構なことと思います。
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「当然」の掘り下げが哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 15:41:43

「倫理」は、人間のあらゆる営みの基底にあるものです。民主制社会に生きる人間は、民主的倫理を身につけることが求められます。わたしは、ブログ『民主的倫理』に、「端緒を明らかにし、経緯を明らかにし、結果を明らかにし、それに関わる人を明らかにする、こういう民主的言動が民主的倫理を生むのです」と書きましたが、「公共哲学」を論じるにも、このことを踏まえなければ、その議論は不毛なものにしかなりません。
正直に事実を話し、端緒と経緯と結果について、正確な情報を開示する。これは、民主主義を立場とするわれわれ三人に共通する基本ルール=倫理だと思います。

それを確認した上で、[主権在民]の話に戻ります。

1947年に文部省が発行した『新しい憲法のはなし』で、

「・・・そうすると、国民ぜんたいがいちばんえらいといわなければなりません。国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権はとうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第1条にも、「主権が国民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は主権在民の考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。」

と説明されて以来、「主権在民」は、小学校で習い、誰でもが言葉としては知っているわけです。

ところが、それは、現実の政治においては形骸化してしまい、、官府が民の上に立ち、まるで政治家や官僚が主権者のように振る舞っています。

また、「公共哲学」の推進者のお一人、学習院大学法学部の桂木隆夫さん(法哲学と公共哲学を担当)の『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房・2005年9月刊)では、21世紀のあるべき民主主義の姿として、大衆の中の「エリート」とそれとは区別された「エリート」の育成が必要だ、と結論づけていますが、こういう公共哲学は、主権在民の徹底という私の基本思想とは違うと思いますが、山脇さん、いかかですか?
  
それどころか、「公共哲学」の最大の推進者=山脇さんの話では、東大出版会のシリーズ『公共哲学』の4つの編集基本方針を一人で決めた(その実力をもった)金泰昌さんの公式発言(参議院での討論)に見られるように、現在の日本国憲法下でも、「日本国の主権は、天皇に寄託されている」と言われます。また、「天皇の官吏から国民全体の奉仕者へというのは、今の日本国憲法から見ると同じことだ。余り変わっていない。」
とも主張されています。

民主主義の根幹=「主権在民」という言葉の表層の意味は、小学生でも知っているわけですが、その意味と価値を明晰に意識し、掘り下げ、そこからさまざまな現実問題を捉え、変えていく営みが何よりも大切だという私の思想・判断は、上記の現実があるからです。

一見「当たり前」と思われている言葉・概念・思想の大元=根拠を探ることで、新たな世界を切り開く営み=頭の使い方を「哲学する」と言う。新奇な造語をつくることや、多くの概念語を横並びに広げることは、理論趣味や衒学趣味という世界であり、ほんらいの哲学とは何の関係もない。わたしは、強くそう思っていますが、山脇さん、荒井さんはどう思われますか?
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ラウンドを改めて議論しましょう (山脇直司)
2009-08-28 18:32:58

武田さん
重要な問題提起を有り難うございます。「当然」の掘り下げが哲学だとのご意見は、私にとっては、当然のこと=自明の理です。
ご質問に、すべてお応えしたいのですが、当方、来週から約一週間行われる国連大学グローバルセミナーの委員を務めているため、準備を含めて、時間をそれに当てなければなりません。それが終わってから、別なラウンドを設けて、再開しましょう。基本的にヒューム主義者である桂木さんのことはよくわかりませんが、千葉大学の小林正弥さんにも、議論に加わって頂いたらどうでしょうか。
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了解。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-28 21:46:28

山脇さん
了解です。楽しみに。
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一言 (青木里佳)
2009-08-29 08:36:48

今までの山脇さんと荒井さんのやり取りを読ませて頂いてましたが、ちょっと一
言失礼します。

山脇さんの「実にちっぽけな世界」という表現は、感情的になって書いただけだ
と思いますが、上から見下す傲慢な響きがありますね。
意見として言う・討論として述べるという道から脱線して、ただ相手を攻撃して
負かせようとしている子供のような言動にしか見えません。
山脇さんの説明も読んでいると、何が言いたいのかわからなくなってきます。
専門的な言葉(しかも英語に訳したものまである)や論点とは違う話が
だーっと並べられていて混乱してきます。
例えて言うなら、刀や手裏剣をバンバン投げてきて、最後には煙を巻いてドロン
と消えようとしている忍者のような感じでしょうか。(笑)
残された方としては「なんだったんだ!?」と唖然とするのと、まともに相手して呆れたという気持ちでしょう。
もっとシンプルに、冷静になって書き込んで欲しいと思います。
あーだこーだと言葉ばかりを並べて、まとまりがないと言い訳にしか聞こえなく
なってくる気がします。
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哲学とは己を知ること (タケセン=武田康弘)
2009-08-29 12:11:44

「哲学とは自分自身を知ること」とは、よく知られた格言ですが、タレスも言うように、この世でこれほど難しいことはないようです。
もちろん、わたし自身を含めて、立場上、人の上にたつ仕事をしている人(とりわけ社会的地位の高い人)は、たえず己を顧みると同時に、厳しい批判を浴びる「場」に進んで身を置くことが求められると思います。
他者の批判を受け入れ、己を変える努力を怠れば、哲学=恋知とは無縁な存在となってしまいますから。わたしは、子供たちからメタメタに(笑)批判され続けて34年目ですが、まだまだ修行が足りない!と思っています。

それから、山脇さん、
「桂木さんのことはよくわかりませんが、」とありますが、山脇さんは桂木さんの『公共哲学とはなんだろう』(けいそう書房)への長文の書評を書かれていますね。
わたしも金泰昌さんからの依頼で同書に対する書評を書きましたが。http://www.shirakaba.gr.jp/minchi/library/library20.htm





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松崎公昭さんのポスター&パンフ写真の裏話!?

2009-08-27 | 日記

重たい話がつづきましたので、
今日は、少し、軽い話題です。

いま、衆議院議員選挙の真っ最中。すでに終盤ですが、
千葉8区から立候補している私の友人―松崎公昭のポスターとパンフレット写真についての裏話(笑)です。

実は、彼の写真は、全部わたしが撮ったのです。

1年前の9月7日、もうすぐ選挙だ!間にあわせねば~~、と慌てて撮影。でも現実はみなさんご存知の通り、1年近くも延びて、いまになりましたが。
とても暑い日で、汗だくになりながら、家族と秘書さん総出の大賑わい(笑)の撮影でした。場所は、手賀沼に臨む我孫子市のアビスタ(生涯学習センター)前の公園。

「このご時世、ただ笑顔のポスター写真ではダメ」という私の判断で、「明治以来の官僚主義を打破しなければ!」という演説を松崎さんにしてもらい、それがポスター写真になりました。

カメラは、ソニーα350。レンズは、泣く子も黙る(わけないか・笑)カール・ツアイスのゾナー135ミリF1.8.(35mm版換算で200ミリ)。デシタル時代にツアイスが本気で取り組むとどうなるか、という見本のようなレンズです。おそろしいほどの解像力と、自然なボケ、質感描写の美しさには息を飲みます。ただし、印刷用原版ということで、RAW画像ではなく、Jペグの圧縮です。

パンフレット用には、お孫さんや秘書さんのこどもたちとの写真も撮りましたが、なかなかいい感じに撮れたと思います。笑過ぎ!で、パンフには載せなかった写真を一枚、貼り付けましょう~~~。
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間違いの訂正が何より大切ー山脇直司さん、荒井達夫さんへのコメント

2009-08-26 | 社会思想

以下は、「荒井達夫・山脇直司・武田康弘の対話」へのコメントにお応えしたものです。単独で記事にします。


山脇さん、荒井さん

まず、東京大学出版会から出された20巻に及ぶシリーズ「公共哲学」には、編集方針として、「従来の公と私という二元論ではなく、公と私を媒介する論理として公共を考える」と明記されていますが、このような「公共」の捉え方は、金泰昌さんとわたし・武田康弘との長く厳しい論争により、破綻しました。したがって、未だにこの三元論を固持する方以外は、「それは公共哲学の基本思想ではない」ということを明言=文書化する必要があると思います。間違いや不備を認めることは少しも恥ずかしいことではなく、曖昧化し・なし崩しに変えてしまうのが罪なのです。正直で、率直な態度は気持ちのよいものです。

また、「官」の世界の現実は、まさしく公と公共を分離し、市民的・国民的「公共」とは異なる国家の「公」がある、という不孫な思い込みの上に成立しているわけですが、こういう三元論的な発想は、主権在民の民主主義の原理に反します。官僚は、徹底した自己批判・自己反省の上に、「日本国憲法」の理念に則って、「官は、市民・国民の公共実現のためにのみ存在する」という原理をしっかり身につけなくてはなりません。ここでも、率直な謝罪が必要であることは、当然です。

武田康弘
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以下は、コメント欄です。


破綻はしていないと思いますよ! (山脇直司)
2009-08-26 01:31:31

残念ながら、今日のタケセンさんの自負には同意できかねます。「公と私を媒介する論理としての公共」という表現は、金泰昌さんのもので山脇のものではないのですが、「意見の複数性」が常に担保されなければならない「公共(空間)の担い手」を「私から成る公衆(the public)」としてとらえ、「政府(官)の公的活動(守秘義務をも含む一義的活動)の正当性の根拠」をそうした公共空間での世論(パブリック・オピニオン)と考えれば、金泰昌さんの考えは、それなりに成り立つと私は思います。謝罪を求めるなどは、見解の複数性を認めない権威主義者の言うことではないでしょうか!
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議論をごまかしてはダメです (荒井達夫)
2009-08-26 06:22:36

山脇さん。

「公共(国民一般の利益)に反する公(国家の利益)があって良い」と考え、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」と憲法を解釈する。

この妥当性が、「公・私・公共三元論」に関する武田・金論争の核心であり、私が問題にしているところです。

議論をごまかしてはダメです。
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「民主主義的、非ルソー的、共和主義的な三元論」宣言 (山脇直司)
2009-08-26 06:38:52

上の続きです。この一連の討論に私なりに参加して到達した結論をはっきり申し上げましょう。それはタケセンさんや荒井さんが強調する三元論の破たんでは全くありません。また、金泰昌さんの考えとも違います。逆に、民の公共(The public-common of people、何度も言いますがそれは複数性が担保される世界です)と政府の公(The official、そこは一義的な活動が要求される世界で、複数性は担保さません)を区別しつつ、前者が後者をコントロールし方向づけるという「民主主義的な三元論=公共思想、」であり、また、私有財産や個人情報などの私的領域が公共的に保障される「非ルソー的な三元論」です。そしてそれはまた、「民の公共活動」と「税金によって賄われ、一義的で公式的な態度が常に要求される(地方、中央)政府の公活動」、および「私的領域」とが協働のガバナンス(共治)を行うことによって、レス・プブリカ(公共社会)を創っていく「共和主義的な三元論」でもあります。ですから、どのような三元論かをあらかじめ規定しないでおいて、三元論を否定するのは、まことにナンセンスで、非哲学的な思考と言わなければばらないと思います。
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議論を突き詰めないのは荒井さんの方ですよ (山脇直司)
2009-08-26 06:49:14
荒井さんの言っていることは、あまりにも当然のことなので、コメントはしません。議論をゴマ化しているのは、原理的なことを突き詰めずに、「参議院の公務員」という「実にちっぽけな世界」だけで、公共哲学を論じようとする荒井さんの方です。
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公共的観点に立てば、 (タケセン=武田康弘)
2009-08-26 10:56:55

山脇さん

私的ではなく、公共的な観点に立てば、
大きなシリーズの書物に明記されている編集の基本方針は、その内容と密接に関係するものと見られて当然です。
そのシリーズの書物を編んだ最高責任者として名前が記載され(全20巻すべてに共通する編集責任者は、金泰昌さんだけです)、実際上も中心的役割を担った人の言説を、「公共哲学」の三元論的な観点の中心とみるのは、極めて当然の話ではないでしょうか?ふつうの読者なら、誰でもそう思うはずです。

それに対する議論で、「一つの決着をみた」(もちろん「絶対的な真理」などではありません)のは、その議論に参加した人の共通認識だと思います。それは、特定の考えを強要するというのではなく、【現実に民主主義の政治を進めるための基本】を確認したというレベルの話に過ぎません(少なくとも日本においては、「主権在民」の原理を徹底することが必要だということ。そのためには、官僚は、市民的・国民的公共を実現させるためにのみ働き、公共の利益とは異なる国家の公という領域をもってはならぬこと。)

わたしは、公共哲学の複数性の否定など全く考えていません。山脇さんは、何か次元の違う話を一緒にして語られているようです。ゆっくり語り合えば、齟齬は消えると思います。ただ間違いなく言えるのは、「公と公共の区分けが必要だ」という金泰昌さんの強い言動によって、シリーズ全体のイメージが形成されたことです。少なくとも、それを訂正する作業にはしっかりと取り組まなければならないはずです。それは人間の良心の問題ではないでしょうか。
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全巻の内容を検証する必要 (山脇直司)
2009-08-26 12:29:19

武田さん、金泰昌さんが全巻の編者となっていることは事実ですが、私を含めた参加者は、金さんの見解に同意して参加したわけでもないし、第3巻の井上達夫東大教授や第12巻の長谷部教授のように、真っ向から金さんの見解に反対し激論を交わしているので、それらを読んでから、批判しないと、公正さを欠くと私は思います。いずれにせよ、金さんの見解を基に編集されたというのなら、それに反対する人は参加していないはずです。その点、タケセンさんは、事実誤認していませんか?

編者とは何か? (山脇直司)
2009-08-26 13:13:33

もう一言付け加えます。編者とは何かという問題も、私が今まで経験する限り、自明の理ではありません。現代の編者はどこまでもコーディネーターとしての役割を演じるのであって、いわんやボス的存在ではなく、反対する見解の持ち主も進んで参加させる度量をもっていなければ成り立ちません。どうやら、編者観に関しても私たちに認識の違いがあるようですね。ともかく、日本ではほとんど影響力を持たない金さんではなく、上記の影響力ある二人の東大の学者の見解と対峙してみてください。
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一般読者の自然な見方は、 (タケセン=武田康弘)
2009-08-26 19:47:31

どのような思想や哲学や宗教、あるいは個別または学際的学問であっても、それが「どのようなものであるか」?についての概念やイメージが存在します。ふつうの多くの人々による自然な合意として。

例えば、「キリスト教」についての概念は、相当に異なる内容をもつ種々の福音書のすべてを読むことによって得られるのではなく(もしそうならば、キリスト教について語り得るのは、数えられるほどの少数者だけになります)、特に熱心なキリスト者たちが示す言動を見聞きしてのことです。

「マルクス主義」などの社会思想についても同じです。異なる主張をもつマルクス主義者たちの言説をすべて追うことによって(職業にしない限り不可能です)ではなく、中心的な思想家や活動家の言動を見聞きすることで、それらについての概念を持つわけです。

「公共哲学」についても同じです。一番熱心にその運動を担い、一番積極的に発言し、行動していた人、それが金泰昌さんであることに異論を挟む人はいないでしょう。その人の唱える思想が社会的影響を持つのは、当然です。したがって、彼の言う「公と公共の区分け」という主張が、東大出版会の進めた「公共哲学」の中心にあると見るのは極めて自然なことです。そうでない主張も「公共哲学」の中にあるのは、わたしも十分に知っていますが、全体を通して、金さんの言う三元的な見方が支配的であることは否定し難いのです。

最後に質問ですが、コメント欄にある山脇さんの【金さんとは異なる三元論】は、いつ、どこで発表されたのですか?わたしは、それが書かれた本を知りませんし、お話として聞いてもいませんので。
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シリーズ公共哲学の根本的見直しが必要 (荒井達夫)
2009-08-26 21:38:23

山脇さん。

「荒井さんの言っていることは、あまりにも当然のこと」という山脇さんの発言ですが、

私は、キャリアシステムなど現実具体の「官」の問題に取り組む中で、主権在民の原理を徹底して考えた結果、この「あまりにも当然のこと」に行き着いたのです。

それはともかく、「金泰昌さんの三元論の思想は、主権在民の原理に反する。だから、行政運営には使えない」ということを、東大教授である山脇さんが、今回、「はじめて、公に」認めたわけですから、この点については大きな進歩であると思っています。

ただし、そうなると、当然、シリーズ公共哲学(東大出版会)の根本的見直しが必要であることを認めざるを得ないでしょう。

金さんの三元論は、シリーズ公共哲学の「編集方針の重要な柱」であり、それに関する武田・金論争が公務運営上も重大な問題があるとして、参議院でのパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」が行われたわけですから、これは全然気楽な話ではないのです。(人事院の関係部局の幹部のほとんどが聴きに来たのは、そのためです。山脇さんも十分にご承知のことと思いますが。)

なお、山脇さんの「到達した結論」(=金さんと異なる三元論)については、私も、今回、はじめて聞きました。これは、これで検討が必要ですが、とにかく、急にこのような話を持ち出して人を批判するのは、いかがなものかと思います。
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シリーズの基本方針は? (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 15:07:32

山脇さん

議論が錯綜するのを避けるために、ひとつ、基本的なことをお尋ねします。

東大出版会のシリーズ『公共哲学』には、四つの編集方針が、全巻の裏表紙に書かれていますが、あれは、編者のみなさん(山脇さんも編集委員ですね)の合意ではないのですか?

当然、読者が見れば、その方針の下につくられたシリーズだと思いますが。
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お応え (山脇直司)
2009-08-27 16:56:43

お応えします。私は編者ではなく、編集委員の一人にすぎませんが、1の活私開公の強調、3の公共性の担い手、4のグローカルに関しては、私が責任を持ちうる思想です。しかし2の公私媒介としての公共性という考えは、編者の金氏の考えであり、責任を持てません。

荒井氏へ (山脇直司)
2009-08-27 17:00:42

私の三元論は急に出したわけではありません。他の私の論文を読みもせず、金氏だけの話を聞いて、三元論は駄目だ駄目だと権威主義的に言い続けるなら、私は「一人の市民として」「官僚である貴方」に論争を挑むでしょう。
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更に確認です。 (タケセン=武田康弘)
2009-08-27 18:24:42

山脇さん

了解です。編集方針と記載されていても、それは、編集委員みなさんの合意ではないと言うことですね。やはり、金泰昌さんの意見なのでしょうか?

また、ご存知のように、わたしが問題にし、月刊『公共的良識人』紙において論争(哲学往復書簡)となったのは、金泰昌さんの【公と公共の区分けを要諦とする三元論(私・公共・公を三次元的に捉える)】です。

三元論的なものの見方一般を否定したのはありません。念のため。

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民主的倫理

2009-08-21 | 恋知(哲学)
何かをした時、
どういう訳で、
どういう経緯で、
それをしたのか?
また、
どのような情報により、
誰に言われて(誰の影響で、誰のアイデアで)
それをしたのか?
を、はっきりさせること。
それが、物事を「よく」進める上での絶対条件です。

そうすれば、間違いの所在や原因がはっきりし、直すことが可能になりますし、また、他人の言説を自分の言説のごとくにする「よこしまな自我」=「反倫理的言動」に陥らずにすみます。

ほんとうに「よい」ことを進める力のある人は、上記のことをきちんとしますが、純粋意識ではなく、自我意識が強い人は、それを曖昧にします。既存の権威や権力や財力に頭を下げる「公正さ」に欠けた人は、他者評価ができませんが、それでは人間失格です。

公正さを示し、そう生きることのできる人=民主的倫理の体現者には、みなが心を開きます。それが、物事を成就させるのです。裸の個人としての品位の高さは、「民主的倫理」の実践の程度に比例します。

端緒を明らかにし、経緯を明らかにし、結果を明らかにし、それに関わる人を明らかにする、こういう民主的言動が民主的倫理を生むのです。意識的にこの課題に取り組み、従来の日本の常識(=上位者や責任者の手柄にし、戦略的に情報を操作する)を破る実践、生き方をしなければ、「人間を不幸にするシステム」を変えることは永遠にできません。

わたしは、かつて、【選挙】に関わってくる左翼的な人々の思想・言動、生き方を見、ほんとうに嫌な気分になりました。社会をよくする運動は、自分自身の中にもある非民主的な想念や行為を変えていく営みと一つにならなければウソです。そうでなければ、深く強い説得力は決して生じないでしょう。

差別や排除をせず、愛の心を持ち、民主的であること、それが物事を正しく進め、人間の品位を高める、そうわたしは思います。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

本来の公共哲学のためには (荒井達夫) 2009-08-23 07:42:15

「端緒を明らかにし、経緯を明らかにし、結果を明らかにし、それに関わる人を明らかにする、こういう民主的言動が民主的倫理を生むのです。」

「関係性のよさという浅い次元を哲学の原理とするのでは、哲学にはなりません。他者の評価に怯えるのではなく、もっと、自分自身の主観性のよさ・面白さに目覚め、自分として生きることが大事です。」

これら「民主的倫理」、「生と哲学の原理」で武田さんが書かれたことは、公務員倫理の基礎になる思想(本来の公共哲学)だと思います。

今日の続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、原点に立ち返って「法律を誠実に執行すること」(憲法第73条第1号)です。そのためには、公務員が常に市民の目線に立って、全国民や、地域住民や、一般市民に共通する社会一般の利益を実現するには具体的にどうすべきか、をきちんと議論し考えていくことが必要です。その土台となる哲学思想が不可欠であり、「主権在民」の意識を公務員に徹底させる強い思想でなければならない。それが「本来の公共哲学」である、と私は考えていますが、このような「民主的倫理」、「生と哲学の原理」を欠けば、成立しないと思います。

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何が言え、何ができるのか? (タケセン)
2009-08-23 10:00:12

荒井達夫さん

とてもよいコメント、感謝です。

話はズレますが、倫理のみならず、物事を前に進めるための基本を確認しておきます。


何が言えるのか?何ができるのか?その内容こそが、自他評価の基準であること。

これは、あまりに当然の話ですが、どうもわが日本人(とりわけ公務員など固い組織にいる人)は、この「当然」がなく、形式・肩書きに囚われ、内容の優劣・意味の濃淡を見る目がありません。だから、物事が進まず、新しい世界を拓くことができず、堂々めぐりをするだけです。

それでは、自分にとっても、社会にとっても「よい」ことは何もできず、屁理屈の中で干からびていくだけです。

形ではなく、内容のよさ・面白さ・有用性につかなければ、普遍的な妥当性を生むことはできません。「自分の頭で考える」という基本がなく、パターンの刷り込みと丸暗記の勉学を繰り返してしていると、地頭が悪く、頭の幹が弱い試験秀才に陥ります。

すっかり死語になった感のある(笑)【具体的経験に照らし、自分の頭で考える】ことの練習から始めなければ、何であれ、すべては砂上の楼閣です。それは原理中の原理なのです。





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生と哲学の原理

2009-08-20 | 恋知(哲学)
哲学次元において問題性をはらんでいると、いかに表層のイデオロギーとして「よい」ことを主張しても、必ず困った結果=現実を導きます。

いま流行りの「人間の関係性をよくし、仲よくするためには」の追求を哲学の中心にしてしまうと、結局は、仲間主義へと陥っていくものです。「そうなればよい」という結果=イデオロギーを先に置き、それを哲学の出発点にするのは、哲学(原理的思考)としては、失格なのです。

関係性をよくしよう、という目的を先立てると、何がほんとうか?の追求が二の次になります。その結果、周りに気を遣い、他者の評価ばかりを気にする脆弱な精神を生みます。それでは、生き生きと生きることができず、人間の生は輝きません。現代はそんな哲学しかなく、みんな平均人・一般人に陥っています。哲学が、現状を超えるイマジネーションや意味の濃い実存と符合するのではなく、既成社会・既成言語の枠内で上手に生きるだけのアイテムになれば、存在理由・価値は元から消えてしまいます。

人間が互いに違うのは「事実」であり、ほんらい誰しもが「わたしはわたしの声を出す」(武者小路実篤)以外にないはずです。異なるさまざまな主観につき、それを是認し、それを面白がり、それを貴重なものと見る、それが「よく生きる」ための原理です。

だから、仲よくする、ではなく、仲よくなる、でなくては困ります。仲よく、は、目的ではなく、結果にすぎません。仲よくしなくてもいいのです。無理に仲よくする必要などありません。

「人間関係をよくしよう」と考えると、無理をすることになり、却って、大きな齟齬を生み、仲間主義(=いろいろ理窟をつけて他者を排除する)へと堕ちて行きます。思考も生も、内輪を巡るだけになり、「空気を読む」だけの貧相な人生しか与えられません。自他に細かくチェックを入れる小人になれば、生の豊かなエロースは消えます。

「関係性のよさ」という浅い次元を哲学の原理とするのでは、哲学にはなりません。わたしは、哲学とは【人間性への信頼】を原理とするものと考えています。軋轢、闘争、相剋・・・は大事なのです。余裕をもってケンカできる豊かな精神、強靭な精神が必要ですが、それは、「人間を肯定し信頼する気持ち」が支えます。他者の評価に怯えるのではなく、もっと、自分自身の主観性のよさ・面白さに目覚め、自分として生きることが大事ですが、それを可能にする条件は、「自他の存在の肯定=人間への信頼」です。時には、裏切られることもありますが、自他を信用・信頼し、前向きに現状打開的に強く生きる方が、結局は得なのです。発想を根本的に変え、「関係性の哲学」(仲よく)から、「信頼の哲学」(前向き)へ次元を上げることが必要です。もう少し正確に言えば、「人間性への信頼」という深い次元を踏まえ、そこを足場にしなければ、「関係性の哲学」は成立しないということです。

この課題を果たすには、子育て・教育が鍵となります。大人の言うことを聞くから愛するのではなく、子どもの存在自体を無条件で愛する=肯定するという生物としての自然性を取り戻すことが必要です。人間は(他の生物もですが)、何かのために生きるのではなく、よく生きること自体が価値なのですから。こどもが、自分を肯定し、愛することができるような子育て・教育は、究極かつ絶対の原理です。【人間性への信頼】や【素直な自己肯定】は、よく愛されることで生じるのです。何よりも大切なのは、心身全体による愛です。


「よく生きる」の「よい」とは?

ブログを開始した2004年11月19日に『よい』(最大のイデア)について、書きましたので、以下にコピーします。


『よい』(最大のイデア)とは?


『よい』とは、「かたまじめな善」のことではありません。

生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、みずみずしいこと、溌剌(はつらつ)としていること、高揚感(こうようかん)のあること、自由なこと、愉快なこと、・・・

を指します。


こうした『よい』は、「エロース」にもと基(もと)づくものであり、「アガペー」からは出てきません。

神への愛という飛躍(ひやく)=「反自然」ではなく、具体的経験=生活世界の只中(ただなか)に「真善美」を見ようとする繊細にして強靭(きょうじん)な心=健康で人間性豊かな心がつくりだすものです。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

もっと対話が進めば・・・ (古林 治) 2009-08-24 22:34:45

『哲学とは【人間性への信頼】を原理とするもの』
『余裕をもってケンカできる豊かな精神、強靭な精神が必要ですが、それは、「人間を肯定し信頼する気持ち」が支えます。』

う~む、身近に日常の武田さんの言動 ‐小さな子供からエライ学者さんまで誰が相手でも変わらず、決して自ら関係を絶つことなく対話し続けようとする姿勢、行為‐ を見聞きしているから私にはスッと入り込んできます。

が、それを知らない人には一度この文章を読んだだけでは中々入ってこないかもしれません。

ひとつには、【人間性への信頼】も【素直な自己肯定】も過去のビッグネームの哲学者の本には出てこないからでしょう(笑)。思想、哲学の輸入だけではこうした発想は出ませんよね。自分の頭と体で考えなくっちゃ。

それはともかく、いろんな人との議論、対話があるともっとわかりやすくなるでしょう。
山脇さんあたりから突込みがあったりすると、グッと議論が深まって面白くなるにちがいありません。
そこに関係性のエロスを基盤とする竹田青嗣さんが議論に加わったりすると、【人間性への信頼】も【素直な自己肯定】も立体的に浮き上がってきて面白くなると思うんですけどねえ。参加してくれないかなあ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(以下は、mixiブログ内のコメントです。)


フリーデン 2009年08月25日 15:13

フリーデンです。
今、私用に追われる毎日です。
とりあえず、お応えしておきます。
思想史研究の場合に、過去のビッグネームを使うときは、どこまでも「人類の知的遺産」を正確に伝えるというモチーフで持ち出すことが多いです。それに対して、市民が「哲学する」という場合に、もしビッグネームを持ち出すとしたら、どこまでも「補助的な刺激剤」として、その人の見解に(何%?)同意するのか、反対するのか、それとも不可解として退けるのか、などを問う形で持ち出すのが適切と考えています。ビッグネームとして現在残っている以上、それが我々の生活に何らかの関係(もちろん反面教師も含めて)があるでしょうからーー。
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タケセン 2009年08月27日 10:05

フリーデンさん

古林さんのコメントは、
武田の積極的主張である『哲学とは【人間性への信頼】を原理とするもの』 (ブログ記事『生と哲学の原理』)への突っ込みがあるといいですね、というものですが、
フリーデンさんの「お応え」は、それとは無関係なものになっているために、議論ができません。
お時間のあるときに、再コメントをお願いします。
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フリーデン 2009年08月27日 11:30

どうも失礼しました。
古林さんの後半にあるビッグネームをどう理解・利用したらよいかに話がずれてしまいました。
哲学が「人間性への信頼」を原理とすること自体に、反対はしません。これは「他者」をどう理解するかということと、「存在の絶対的肯定の根拠」をどこに置くかという根源的問題と密接に関連すると私は思っています。
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タケセン 2009年08月27日 21:09

フリーデンさん

存在の絶対的肯定の根拠」は、すでに『生と哲学の原理』の最後に書きましたように、
「無条件に愛されている」という実感です。心身全体で子ども愛する子育てが、人間存在にゆるぎない肯定感と安定を与えます。
日々、充分に触れ合いながら、身振り言語を交えた対話を交わすことが核心です。

それが、

観念的・言語的に留まらない、全身的な他者理解=了解を生みます。他者を知的に理解しようとするのは愚かな行為であり、さまざまなレベルの交流で「他者存在を会得」するのがホントウです。それを可能にするのが前記の「愛」です。

この続きは、「コメントへのお応え」を見てください(クリック)


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なぜ、戦争責任の問題が終わらないのでしょうか?

2009-08-15 | 社会思想
今日は、2009年8月15日ーヒロヒトによる玉音放送から64年


最後まで≪国体(=明治政府がつくった近代天皇制)護持≫にこだわったゆえの言語に絶する悲惨。沖縄戦や東京大空襲や原爆投下という恐ろしい事態を招来するまで、ズルズルと敗戦の決断ができなかったのは、長年にわたる「イデオロギー教育」があったためです。

この【天皇教】と呼ぶべきイデオロギー教育を支えにして、無謀=狂気の戦争へと突入した日本は、その悪しき「国体思想」をいまだに引きずり、自民党政府は、明治政府がつくった新宗教である国家神道(=近代天皇制を支える天皇教)の総本山である【靖国神社】を特別扱いし、公立の慰霊施設を建造せず、64年が経ってしまいました。これでは、平和に生きられる社会の到来を想って死んでいった(死なされた)兵士たちの霊は、いつまでもうかばれません。

市民社会を支える思想である民主制は、自由と平等を基本理念としますが、それと、国体護持という思想は、二律背反であり、根本的に相容れないものです。戦争責任の問題、その核心部分を曖昧にし、戦争や国体思想への批判を「自虐史観」とか「反日」というレッテルを貼って葬ろうとするウヨクの言説は、近代市民社会(民主制)に対する反旗であり、極めて危険な思想ですが、それと通底する歴史観による教科書を採択する東京都教育委員会(石原都知事の意向)の所業には、呆れる同時に強い公共的怒りを持ちます。

日本政府の戦争への謝罪がいつも後ろ向きなのは、戦前のイデオロギーを廃棄する努力に乏しく、自民党の政治家の本音が、最上位に天皇=皇室を頂く国体思想・靖国思想から脱却していないからです。戦争を推し進めた旧支配階級の親族がいまだに「エリート政治家」である日本社会を根本的にチェンジしなければ日本の民主化は果たせません。「戦前レジーム」からの脱却こそが、何よりも先に求められるのです。

政権交代は、そのための必要条件です。

民主的な人間を育てる民主教育―それを支える「自問自答と自由対話」の実践―それによる民主的倫理の育成が急務です。それなくしては、戦争責任と反省の課題は終わらないのです。

武田康弘
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以下は、コメント欄です。

まったくです! (古林 治)
2009-08-15 17:14:44

横浜市内8区でも『新しい歴史教科書』が採択されたとか。
国体思想=反民主思想は死なず。
ええ加減にしろ!ですよ。


先日、NHKの特集で3夜連続で『日本海軍 400時間の証言』なるものを見ました。海軍軍令部(天皇直属組織で大本営を構成する機関)のメンバーによる戦後の未公開反省会の記録です。
その第3回目では、戦争責任を曖昧にする過程がとてもよくわかります。
戦後、軍令部は上層部の責任を回避するよう、命じます。なぜなら、天皇に累が及ぶ可能性があるので(という名目で)、というわけです。東京裁判のために、証人となるであろう人々を呼んで想定問答集を作成し嘘の証言をさせ、場合によっては、下士官に責任を負わせて当人は責任を回避する、というわけです。
その結果、
海軍からは死刑囚はゼロ、悪いのは陸軍、B,C級戦犯に責を負わせる、というわけのわからない歴史が残りました。天皇制を守る、そのためにそれを支えるエリートを守る、そのために人々を犠牲にする。
このおぞましい連鎖は、今の官僚制や大企業を頂点とするピラミッド社会の序列を守ろうとする思想とも通底するように思えます。
国粋主義でなくとも現行の集団体制を維持しようとする保守思想はそのまま国体思想につながってしまうのでしょう。
問題は根深いですが、ええ加減にして欲しいもんです。

ちなみに、『日本海軍 400時間の証言』の再放送は未定です。
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儒教道徳・やましき沈黙 (タケセン)
2009-08-16 00:58:53

最上位者に天皇を置き、上位者に従うという昆虫のような生き方を強要する孔子の儒教道徳の下では、「エリート」とは、自分の地位を守るだけの小賢しい人間にすぎない、ということですね。いまでも上位下達の思想から離れられないわが国は、『やましき沈黙』が支配します。エロース溢れる豊かな人間=主体性をもった手強い個人になりたいものですね。
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昨日の対話の続き(荒井達夫・山脇直司・武田康弘)

2009-08-14 | 社会思想
以下は、昨日のつづきです。コメント対話



再度確認です (荒井達夫)
2009-08-13 22:46:06

山脇さん。

直接の体験から得ることのできない知識は、読書や講義から得るしかありませんが、そのような知識についても、「単なる情報の蓄積や交換」にならないようにするためには、その情報に対して自分なりの意味付けが必要でしょう。そうするためには、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」(タケセン)しかないのではないか、と思います。

単に知識を広げているだけでは、相手が日本人であろうと、外国人であろうと、「ところで、あなた自身は問題に対して具体的にどう考えているのですか」と必ず聞かれるはずです。

なお、私は、山脇さんのような生徒に教える立場にありませんので、それこそ、他人に自分の考えを押し付けることなど不可能です。
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井上ひさしの戯曲 (山脇直司)
2009-08-14 00:05:06

荒井さん
早々の誠実なお返事感謝しています。
お盆休みは取られていますか?
9月からの予想される政権交代で、霞が関がどう変わるか、注目しなければなりませんね。私の方、秋には二つドイツでの授業(市民社会の比較研究)や学会(持続可能な社会のための統合学)があるので、11月過ぎにでも、おちついて一度ゆっくり話し合う機会をもちましょう。

武田さん
公共哲学ではなくて、「哲学」とは何かという重要な問題をともに考える端緒ができたことを嬉しく思います。でも今晩は、公共哲学的な話を一つさせてください。
私は今日の夕方、新宿で井上ひさしの戯曲「兄おとうと」を見てきました。吉野作造と、その10歳下の弟で、岸信介や木戸幸一を部下に持つ高級官僚、吉野信次の反目をコミカルに描いたものでしたが、国家とは国民あってのものと唱える兄(これは私たち三人が共有する見解だと思います)と、国家あっての国民だと信じる弟(これは中曽根康弘などの立場?)がぶつかるセリフが大変面白かったです。井上ひさしは、かつて、公共哲学シリーズを(奇妙なことに?読売新聞書評欄で)絶賛したこともあり、公共哲学にとってますます重要な作家だと改めて認識した次第です。武田さんは、井上ひさしをどう思いますか?
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主権在民 (タケセン=武田康弘)
2009-08-14 13:10:04

山脇さん

吉野作造らの「国家は国民のためにある」は、
主権は、そこに住む人々にあるという「主権在民」を憲法に明記した後の今日では、
歩を進めて、
「国家は市民がつくるもの」とすべきでしょう。
右翼の「国家・命」ではなく、
左翼の「国家・悪」でもなく、
民主制における国家という機構は、市民の自由と人権を守り、共通利益を生むためにのみある。もし、そうでなければ、その国家は「悪」であり、存在理由はない、とすべきです。
「民主制の国家とは、われわれがつくるもの」それがわたしの基本思想ですし、それが日本における『公共哲学』の原点でもあるはずです。

戦後、新憲法をつくるにあたり、主権は国民にあるという主張をしたのは、政党ではただ一つ、共産党だけでした。政府や学者グループもみな、明治憲法の焼き直し程度の考えしかなく、現在の日本国憲法の骨子となったのは、戦前は弾圧され、冷や飯を食わされていた鈴木安蔵ら民間人7人による憲法草案です。天皇は儀礼的存在に過ぎず、主権は国民にある、という理念を明記し、自由と人権を高らかに謳ったのです。われわれの「日本国憲法」の基本思想が、政治家や官僚の権力ではなく、東京帝国大学の権威でもなく、民間人(高野岩三郎は東大教授でしたが、活躍の場は民間でした)の創造であったことは、ほんとうに嬉しいことです。「民」の偉大な力をまざまざと感じます。日本における『公共哲学』は、この事実を、明晰に自覚するところにしか始まらないはずです。また、未だ市民社会が成熟しないアジアの国々に対しても、主権者はあなたであることの自覚を促し、向かうべき先は、市民的な共同体(自由を相互に承認し合うことから生まれるルール社会)であることを明晰にすべきでしょう。

民主制社会の中心者は、権力や権威を持たないふつうの人です。一番偉いのは、天皇でも総理大臣でもキャリア官僚でも東京大学教授でもなく、主権者であるわたしであり、あなたです。われわれの自由と責任でつくる社会、それが民主制の国家なのです。
戦後、「主権在民」の理念が憲法に明記されるまでの凄まじいドラマ、その意味と意義を明晰にする営みが『公共哲学』の不動の原点にならねばならない、そうわたしは確信しています。

恐らく井上ひさしさんも、思いは重なるのではないでしょうか。
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山脇さんの公共哲学って? (荒井達夫)
2009-08-14 22:18:57

山脇さん。

私は、以下の論を公私の区別なく(仕事でも、私生活でも)、強力に展開しています。ですから、当然、機会があれば、井上ひさしさんにも伝えるつもりです。また、「国家あっての国民」という考えは、「公共(国民一般の利益)に反する公(国家の利益)」があって良いと考える金泰昌さんの思想と同じと思いますが、いかがですか? 山脇さんの公共哲学は徹底した民主主義哲学だったはずですが、どうなのでしょうか?


本年6月17日の東京新聞に、「『市民活動が国家変える』 NPO公共哲学研究会 政治学者・金氏が講演」という記事があり、次のように紹介されていました(一部引用)。

韓国延世大学で政治学を学んだ金氏は一九九〇年来日。東大客員研究員などを歴任し、佐々木毅元東大学長(現学習院大教授)とともにシリーズ「公共哲学」(全二十巻、東大出版会)を編集。金氏は「公」と私」を媒介する存在として「公共」をとらえる「公・私・公共」三元論を提唱している。講演で金氏は「徳川幕府は兵営国家、明治政府は官営国家として、民意より官意を優先した。長い間、日本人は国家と個人の間に何事も認めない体制の中で官に従って生きてきた。民主主義の前提である市民の自主性・自発性・当事者性が身についていない」とした上で、「国家と個人の中間にある市民による主体的な活動は、個人を国民として一元化しようとする国家の在り方をより多元的に開かれたものに変えていくものだ」と語った。


金泰昌氏の「公・私・公共」三元論は、東大出版会の「シリーズ公共哲学」の編集方針とされたことから、学問としての公共哲学の通説のように見られていましたが、平成20年1月22日に参議院調査室の主催で行われたパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」で、哲学思想として重大な問題があることが明らかになりました(『立法と調査』別冊2008.2参照)。重大な問題とは、金氏の三元論が憲法の「主権在民」の原理に反するということです。金氏の思想の特徴は、「公」(=国家の利益)と「公共」(=国民一般の利益)を明確に区別するとともに、「公共に反する公」があって良いと考えるところにあります。また、その主張は、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」との憲法解釈を伴っています。このような論がディスカッションで繰り返されたことから、私は、「金氏の思想を行政運営の基礎とすることはできない」と断言しています(「公共哲学と公務員倫理」『立法と調査』279号」参照)。
日本国憲法下の公務員は、「天皇の官吏」ではなく、「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」からです(憲法第15条第2項、国家公務員法第96条第1項)。公務員が職務を遂行する上で最も重要であるのは、「主権が国民に存する」(憲法前文・第1条)との意識を明晰に持ち、その原理の実現に努力することであり、その意味で、金氏と正反対の思想で仕事をしなければならないはずなのです。
シリーズ「公共哲学」も、このような観点から議論されなければならないと思います。

補足です (荒井達夫)
2009-08-16 08:17:27

山脇さん。

「公共に反する公」があって良いと考え、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」と憲法を解釈する。

このような思想を「シリーズ公共哲学」の中心軸に置いたことの意味を、参加した学者達自ら問い、公に議論する必要があります。そうでなければ、これらの学者達は「やましき沈黙」に陥り、学問としての公共哲学の明日はないと私は考えています。

思想信条の自由・学問の自由と、政治行政への影響・発言の社会的責任について、真剣に考えれば、黙っているという選択肢はないと思いますが、いかがですか。
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公共精神は複数性の世界です! (山脇直司)
2009-08-25 12:14:06

東大出版会のシリーズは、様々な立場の人が論争し合うことを趣旨とするもので、それ以上のものではありません。もちろん、私は「徹底した民主主義かつ共和主義」の立場をとりますが、それ以外の見解の人を締め出すことはできないのです。それが「複数性を前提とする公共=パブリック」の精神です。それに対して、荒井さんのメンタリティーがよく示しているように「公=オフィシャル」は単数形の世界です。単数の答えを求める精神構造ほど、複数的な公共の精神に反しているものはなく、これを今度、公にしていきたいと思います。
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わかりやすく説明します (荒井達夫)
2009-08-25 21:19:25

山脇さん。

私の話が理解されていないようですので、以下、再度、わかりやすく説明し、お聞きします。

金泰昌さんは、「公共(国民一般の利益)に反する公(国家の利益)があって良い」と考え、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、天皇が行使する」と憲法を解釈しています。

私は、主権在民の今の日本で、これほど反公共的な(国民の利益に反する)思想はないと考えています。

だから、そのような思想では「行政の運営はできない」と言っているのです。行政とは法律の執行のことであり、憲法の基本原理に反する法執行はあり得ないからです。

さらに、このような思想を東大出版会という最高学府による書籍のシリーズ「公共哲学全20巻」の中心軸に置いたことの意味を問うているのです。

(金さんの思想・信条・言論表現の自由を否定しているのではありません。)

そこで、再度、お聞きします。

山脇さんは、金さんのような思想で「行政運営をして良い」とお考えですか。(これが、議論のポイントです。)

もし、「良い」というお答えであれば、山脇さんの公共哲学も行政運営には使えない、ということになろうかと思います。

いかがでしょうか。

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間違いの訂正が何より大切 (タケセン=武田康弘)
2009-08-26 00:57:26

山脇さん、荒井さん

まず、東京大学出版局から出された20巻に及ぶシリーズ「公共哲学」には、編集方針として、「従来の公と私という二元論ではなく、公と私を媒介する論理として公共を考える」と明記されていますが、このような「公共」の捉え方は、金泰昌さんとわたし・武田康弘との長く厳しい論争により、破綻しました。したがって、未だにこの三元論を固持する方以外は、「それは公共哲学の基本思想ではない」ということを明言=文書化する必要があると思います。間違いや不備を認めることは少しも恥ずかしいことではなく、曖昧化し・なし崩しに変えてしまうのが罪なのです。正直で、率直な態度は気持ちのよいものです。

また、「官」の世界の現実は、まさしく公と公共を分離し、市民的・国民的「公共」とは異なる国家の「公」がある、という不孫な思い込みの上に成立しているわけですが、こういう三元論的な発想は、主権在民の民主主義の原理に反します。官僚は、徹底した自己批判・自己反省の上に、「日本国憲法」の理念に則って、「官は、市民・国民の公共実現のためにのみ存在する」という原理をしっかり身につけなくてはなりません。ここでも、率直な謝罪が必要であることは、当然です。

武田康弘

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山脇直司と武田康弘の哲学対話

2009-08-13 | メール・往復書簡

以下は、今日、山脇直司さんの異議に応える形で行われたメールによる哲学対話です。


いろいろな異議—山脇直司

武田さん
・・・・・・・・・・・・・・・
さて私の方、神奈川県庁で60名くらいの自治体職員を前に講演しました。なかなか鋭い質問が出て面白かったです。地方公務員の方が国家公務員よりもずっと自由な雰囲気を感じます。

それで時間的余裕が少しできたので、この際、「あえて」私たちの哲学観の違いを際立たせるのも面白いと思って、武田さんと荒井さんに根源的な質問を「思策の日記のコメント」に書き込みました。

私の考えでは、公共哲学は「哲学の一部」にすぎません。日常経験の延長にない宇宙論や科学哲学も哲学に入ります。その点で(実存主義者の?)武田さんは、あまりにも狭い哲学観に立っていらっしゃるのではないでしょうか。

また荒井さんに私が言いたいのは、中国やシンガポールからの留学生にお二人の民主主義観を押しつけることはできないということです。いったい彼らが生きる文化や歴史の違いをどう考えているのでしょうか。その点で、自分の日常経験を持ちだしたり、ふりまわしたりするのは、ナイーブ過ぎて危険です。それこそ「日本国民」の独断でしょう。

ですから、率直に言って、「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐをお二人に対して抱く次第です。その点で、竹田青嗣さんの最近の「ヘーゲルの読解に立脚した」議論(ちくま新書)は、精緻な読解と学習に裏打ちされて立派だと思いますが、今まで竹田さんを絶賛していた武田さんが、この本に全く言及しないのはどうしてでしょうか。

以上のこととは別に、私たちはいま『民のための公共哲学』を、約20名の実践現場で活躍中の方々との対談を通して、刊行する企画が進行中です。その対談候補に、武田さんも入れておきますので、その時はこれまでの様々な実践を遠慮なくお話し下さい。まさに公共哲学の主役は「現場で活動する民」ですからーー。

山脇直司
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山脇さん

お応えです。

「公共哲学は「哲学の一部」にすぎません。」(山脇)
は、もちろん、まったくその通りです。

「日常経験の延長にない宇宙論や科学哲学も哲学に入ります。」(山脇)
は、「科学哲学」はそうですが、山脇さんは「宇宙論」も哲学に入れるのですか?
わたしは、小学生の終わりごろから天文学と天体観測に憑かれ、中学・高校時代は、天文学・宇宙論関係の本を読みあさり、友人と宇宙についての会話を毎日のようにしていました。しかし、それは、哲学する上で重要な思考・想像力の訓練ではあっても、哲学だとは考えていません。現代の宇宙論は、カントの太陽系の起源論(星雲説)のようなレベルではないのですし。

「(実存主義者の?)武田さんは、あまりにも狭い哲学観に立っていらっしゃるのではないでしょうか。」(山脇)
哲学は、人間の生の意味と価値を「想う」ことを基盤としてさまざまな問題を「考える」知である限り、ひろい意味では、すべて実存を踏まえた思想だと言えます。それは、狭く自分の感覚、感情、思考に拘り、絶対化することとは全く違います。
実存論(主義ではない)とは、自己のかけがえのない生を踏まえ、主体的に考えるという意味です。

直接経験できない世界の探究は、推論によりますが、それもまた「経験できない経験」として意識=経験されるわけです。

「中国やシンガポールからの留学生にお二人の民主主義観を押しつけることはできないということです」(山脇)
わたしは、現在、中国の清華大学教授になっている方に、10年近く前、哲学と民主主義についてお話しましたが、大変喜んでいました。「武田先生から説明を受け、もやもやしていたものがハッキリしました。原理的なことが分かると、よく現実問題を考えることができます」と。

竹田青嗣さんの本については、相変わらず大変緻密な読み込みで、優れたものだと思います。触れないのは、もうしつこいくらい評価し続けていますし(20年間ずっと)、また、その結論は、言い古されてきたもので(私自身が何十年も前から主張してきたことでもある)、今更?という気がしたからです。

なお、わたしは、竹田さんが、認識論の原理を明晰にしたこと・実存論に立脚して人間と社会についての原理的な論を展開したことを極めて高く評価してきましたが、彼の現実問題への発言や態度に対しては、はじめから評価していません。そこには、深いところでの違いがあるのですが、彼と私との哲学の相違については、また後日。

「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐを持つ(山脇)
というのは、何を仰りたいのか、意味がわかりませんが。

なお、近代の自然科学誕生後の哲学とは、人間・社会・自然の事象そのものの研究ではなく、個別学問の意味と価値を問うものであり、いわゆる博識とは何の関係もないことを、念のため確認しておきます。

武田康弘
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田さん

今日はこれから、出かけなければならないので、簡単にお応えします。

宇宙論が哲学にはうるかどうかは、その内容によると思います。カントの純粋理性批判の弁証論にあるような、「宇宙は無限か有限か」という問いは、明らかに現代でも自然哲学的な問いとして有効だと思います。また、物質の根源は何かという問題や、エントロピー、ビックバンの問題も自然哲学の部類に入るでしょう。私はその点で、ホワイトヘッドやハイゼンベルグに大きな興味を抱いています。もっとも、それは科学哲学の一部だと規定してしまえば、それでいいですけどーー。

私がコミットしている社会哲学や公共哲学は、自己の実存的生き方に基づかなければ宙に浮いたものになるという見解は、武田さんと共有します。しかし、自然哲学(科学哲学)が実存に基づかなければならないとまで言うことはできないと思います。

清華大学には私の友人もいますので、今度、タケセン哲学が一党独裁体制の中国社会でどの程度まで実践可能なのか、聞いてみることにします。

竹田さんの最近の主張は、ヘーゲルに拠っていますが、彼の国家論を武田さんは受け容れますか?

「近代の自然科学誕生後の哲学とは、人間・社会・自然の事象そのものの研究ではなく、個別学問の意味と価値を問うものであり、いわゆる博識とは何の関係もないことを、念のため確認しておきます。」(武田)
というお考えの後半部分は賛成しますが、前半部分は何を仰りたいのか判りません。人間とは何か、人間の根源悪とは何か、よき社会をどのようにして作っていくかは、極めて現代的な哲学的問題だと私は思います。

「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐを持つ(山脇)の件は、ご放念下さい。失礼しました。

ではまた。

山脇直司
―――――――――――――――――――――――――――――――――

山脇さん

もちろん、自然科学の研究(=その内実)が実存に基づかねばならないのではなく、自然科学のもつ意味や価値を問うことは、実存に基づかざるを得ない、ということです。

各科学の研究は、その意味や価値を問う場面では「哲学」ですが、具体的な研究を行う場面では「科学」(個別学問としての一科学)です。なお、実証性が得難く、推論が多くを占めざるを得ない宇宙論=エントロピー増大や特異点ービッグバンによる宇宙(=物質と空間と時間)の誕生や、量子力学などの分野は、思考力が大いに求められるわけですが、その研究・探求は、人間の生の意味と価値の探求を通奏低音のように持つ哲学とイコールにすることはできません。ギリシャ時代に、自然哲学から離れ、いかに生きるか?また、いかなる考え方が人間の生に豊かな価値をもたらすか?の追求へと舵を切った(発想の大転換)ところに哲学は生まれたのであり、その初心は、現代において「哲学すること」を復権させるためにも必須の条件だ、というのが私の立場です。

ある分野の科学者が同時に哲学者であることは可能ですし、また、哲学者が同時にある分野の科学者であることも可能ですが、これだけ専門分化が高度化すると現実にはなかなか難しいことです。ただ、個別科学の追求者も、それが人間の生や生活についてどのような意味を持つのか?を「想う」ことは必要だ、とは言えます。

山脇さんは、竹田さんのヘーゲルに基づく国家論の何を評価し、また何に疑問をお持ちですか?まず、それをお聞かせ下さい。

武田康弘

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政権交代は、人間性豊かな文化を生む「必要条件」です。

2009-08-09 | 社会思想

主観性の豊かな「人間」ではなく、「日本人」という型にしっかり国民を誘導する。

こどもは、受験勉強と部活に集中させる。受験競争を勝ち抜くことで、既成秩序に従い、自分を抑え、耐える人間を育成する。

東京大学を中心とする権威を尊び、日本人にふさわし道徳(=上意下達)を身につけさせる。

難しい丸暗記試験を通った官僚と政治家は国家のために、庶民は地域のために頑張り、その「分」をわきまえさせ、余分なことは考えず、行わない人間をつくる。

天皇・皇室を中心する秩序を身につけさせ、天皇陛下が病気になれば、全国民が「自粛」した生活をする。「日本は天皇を中心とする神の国」なのだから。

国体護持(=近代天皇制の堅持)のために命を捧げた(捧げさせた)兵士を哀悼するために、靖国神社(=国家神道)への参拝と奉仕を欠かさない日本人を育てる。


以上のような自民党政府の本音は、戦前の国体思想そのままであり(実際、戦前の支配階級の子孫が戦後も要職を占めています)、個人としての人間の輝きの前に、権威の輝きを置き、それに従う生き方をつくり出してきました。

皇居のある千代田区に生まれ育ったわたしは、小学生のころから、上記のような歪んだ日本主義の想念に言い知れない不快感を持ち続けてきましたが、今度の選挙が、長いこと続いてきた悪しき日本主義(=様式による意識の支配)を変えていくキッカケになれば、と思っています。政権交代だけではダメですが、しかし、政権交代なくしては何も始まらないことも事実です。

「近代天皇制―靖国思想、官僚主義(キャリアシステム)―東大病」―これが日本主義の正体ですが、わたしは、わたし自身が人間性豊かなエロース溢れる生を歩むと同時に、多くの日本人(とりわけ子どもたち)が、自由で広い考え方と伸びやかな心をもてるような「新たな文化」(=「主観性の知」の豊饒化に拠る)を創造したいと思っています。政権交代は、そのための必要条件なのです。


武田康弘


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民主的人間になり、民主主義社会をつくるには、

2009-08-08 | 恋知(哲学)

民主的人間になり、民主主義社会をつくるためには、
小学生からの順を踏んだ【自問自答と自由対話】の授業=練習が不可欠です。
それがないと、「私」にとっても「公共」にとっても一番大切な、なにがほんとうなのか?どう考えるのが妥当なのか?を思案し、対話する能力が鍛えらないからです。
家庭と学校で、大元に戻して考え・話す「哲学」の実践をしないと、議論を避けるか、または「ディベート」という勝ち負けのゲームに陥るほかありません。
ちなみに、ソフィストたちのディベート(言語勝負・言語技術)を徹底的に批判したところに生まれたのがソクラテスの問答法=哲学なのです。

「自問自答と自由対話」により、幼いころから「自己決定」(=自由と責任)する鍛練をしなければ、民主主義社会をつくることはできませんし、その鍛練が人間を民主的な存在にしていくわけです。厳しく批判し合いながらも、相手の存在価値を認め合うという≪民主主義の倫理≫は、その鍛練から生まれるのです。


武田康弘
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!?「皇室を守る政治が必要」―自民党総裁・麻生太郎さんの弁

2009-08-07 | 日記

わたしたち日本の主権者は、皇室の維持費・生活費を全額(総額170億円)を出していますが、さらに「皇室を守る政治」をしなければならないのでしょうか?

わたしは、どうにも合点がいきません。私たち一人ひとりが主権者である民主主義の政治において、「皇室を守る」ことを目的にするというのは。
これは、すでに60年以上前に歴史的に審判が下ったはずの「国体思想」そのままですが、こんな亡霊言説が総理大臣の口から出るのですから、近代民主制国家(=個人の思想及び良心の自由に基づく「主権在民」のルール社会)をつくり出すのは、なかなか大変です。いつまで、儀礼的存在に過ぎない天皇や皇室を特別視し、特別扱いし、国民がそれを守らなければいけないのでしょうか?

同じ人間であるにも関わらず、生まれながらにして特別な存在であることを保証する。そして、天皇家に伝わる宗教儀式を年間に200以上こなすことを生活の柱とする皇室生活に掛る費用は、国民が負担する。浄土真宗の信徒もクリスチャンも。おまけに、その一人の人間の生死で、時代の名前まで変えてしまう。天皇現人神の1945年までと、その後の新憲法制定=主権在民の民主主義時代も、同じく「昭和時代」と呼ばれる。ええっー、!?意味不明ですね。


以前にみなさんと対話した記事がありますので、ご覧ください。ふつうの市民のふつうの常識に基づく政治が必要だと思います。天皇制の問題については、わたしの以前の記事=「皇室の人権と市民精神の涵養」を読まれれば、みなさんの納得・合意が得られるのではないかと思います。ぜひ見てください。
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死刑廃止へのコメントー2

2009-08-07 | メール・往復書簡
mixiコメントの2です。下からの続きですので、1から見て下さい。



バミューダ 2009年07月29日 10:03

はじめに断っておきますが、反論ではありません。死刑制度の存廃についてより理解を得るために、もう一度質問することをお許しくださいm(__)m 

主権が国民に存すること、これは異論がありませんが、ならば我が国において国民が意志を持って死刑制度の存置を容認している事実についてどうお考えでしょうか? 

今年の5月3日に読売新聞社が発表した世論調査では、もし自分が裁判員制度で裁判員になったら、現行法上は死刑を求刑する可能性があると答えた人は63%を占めました。これは、恣意的なデータかもしれませんが、現状無期懲役と死刑に大きな隔たりがあることは明白であり、終身刑が無ければ死刑を選択しても構わないとする国民の意志が読み取れます。

さて、このような国民の意志があるにもかかわらず、民意の反映の名の下に現行法を改正することは、国民の意志を尊重していると言えるのでしょうか。

このことを踏まえて、もし現行法を改正するならばどのように行われるべきかを合わせてお答え願います。
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タケセン 2009年07月29日 10:34

反論でももちろん結構ですが(笑)。

わたしは、いまの日本人の意識は、死刑存続であることを承知しています。
しかし、人間の考えは、議論により変わるものです。広く世界の人々の意見が聞けるようになり、また、なるほどと納得できる意見があれば、動いていきます。
この問題に限らず、歴史の進展とともに、人々の考えは、次第に深い人間性を帯びてきました。
民意による合意が得られるように、粘り強く訴え続けていくことが大事だと思います。
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バミューダ 2009年07月29日 13:10

回答ありがとうございます。

そうですよね。死刑そのものについて国民ひとりひとりが考えることがまず必要ですよね。 

最後になりましたが、僕の意見を述べさせて頂きたいと思います。
人間が持つ獣性と理性は否定できず、アリストテレスが理性を高めることこそが人間の形相とする考え方を肯定的に捉えるものの、そのまま近代社会に取り入れることはできないと考えます。

つまり、人間の理性を信じることについては平和の理想型として認めるものの、懐疑的な視点からこれを見ます。よって、日本で言えば終身刑を導入することで本人の更正を期待し、死刑により事件を終わらせないことで罪を誰にでも起こりうるものと捉える。そして平和の実現を図る。

同時に、死刑を存置するこ。根拠としては「殺人を犯してもその刑罰として死刑にはならない。だから殺す」と考えるような者については、そもそも更正の余地はない。また、獣性は理性的な終身刑だけで対応しきれないとし、必要悪として獣性の肯定とも繋がりかねない死刑を存置する。ただし、死刑を執行することに厳しい制約を課す。第一に、更正の余地を否定してよいか。第二に、平和の実現のために、罪が起こった原因を考察する意義が事件にはないか。第三に、主権である国民の意志(遺族の感情も含む)にそぐわないか。これら厳しい制約を課すことで、一般的には終身刑により解決を図り、特殊な場合において死刑を肯定する。そして段階的には終身刑のみの解決を目指す。

以上です。まぁ結論として、死刑存廃論は一元的な視点で考えるべきではないということです。
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あ01-23 2009年07月29日 21:54

>それから、「市民を主権者とする革命」(ルソー)は、60年以上前、敗戦という形で日本でも成
>就しています。日本国憲法は、明治憲法の天皇主権を否定し、主権在民の原理を明白にしま
>したが、これは小中学校の教科書で誰でもが学ぶ事実です。

日本は敗戦しておりません。終戦したのです。本土決戦する戦力を残しながら、昭和天皇が終戦を決断され、軍部を抑えて終戦の詔勅を発せられたのです。「敗戦」という用語はサヨクの造語です。

あと、日本国憲法はGHQが作ったものであって日本国民の手によって作られたものではありません。帝国憲法は天皇主権を定めていません。国家主権を規定し、天皇を元首としています。
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○ンシロウ 2009年07月29日 23:32 > タケセンさん
確かに言葉が感情的になりました。悪いと思ってます。
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タケセン 2009年07月30日 00:01

ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのは、事実であり、サヨクではなく、世界が日本の敗戦を規定したのですから、これを受け入れるほかありません。独立を回復できたのは、1952年のサンフランシスコ平和条約の締結によってです。これは、私の意見などではなく、世界史・日本史の事実ですが、あ01-23さんは、どこで上記のような「話」を教え込まれたのでしょうか?

また、現在の日本国憲法の元になったのは、日本人の民間人7人による「憲法研究会」の草案です。さらに言えば、欽定憲法である大日本帝国憲法が発布される前に、自由民権運動の植木枝盛らによる草案もあり(明治のはじめに作られた民間人の憲法草案はたくさん見つかっています)、その内容=基本思想は、現在の日本国憲法と大変近いのです。

個人のロマン的心情は自由ですが、それは個人的領域に留めないと危険です。世界に通用する普遍的な見方をしなければ、日本の国益ともなりません。
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あ01-23 2009年07月30日 00:18

>ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのは、事実であり、

ポツダム宣言にはトルーマンしか署名していません。連合国の宣言というよりトルーマンの個人的書簡と考えるべきです。

>無条件降伏

帝国は無条件降伏していません。国体護持を条件に700万の戦力を温存しながらも天皇の御聖断であえて武装解除したのです。

>どこで上記のような「話」を教え込まれたのでしょうか?

ネット上にいくらでもソースはあります。逆に言えば、タケセンさんのご主張は日教組の先生方が無垢な生徒に無理やり教え込んでいる内容と酷似していると思います。

>日本人の民間人7人による「憲法研究会」の草案です。

影響はあったとしても起草したのはGHQです。この事実は否定できません。
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タケセン 2009年07月30日 00:43

現実において世界が認めたことを、覆すことはできないのです。それをやれば、無法者という烙印を押されるほかありません。
また、憲法という理念法は、民主主義思想の表現ですが、それは人類が互いに影響しあい、ふつうの多くの人により深い納得を生むものとして鍛えられてきたのです。なぜ、あなたは国籍や民族に異様なまで拘るのでしょう。「純粋な日本人」というものが存在し、それがすべてを決定しなければならない、とでも考えているのですか?
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あ01-23 2009年07月30日 00:53

>現実において世界が認めたことを、覆すことはできないのです。

日本は終戦を選択した、日本は条件付き降伏を選択した、日本国憲法はGHQが起草した、といったことは史実なのですから誰が何と言おうと覆すことはできないと思います。

ちなみにサヨクは「敗戦」という言葉をよく使いますが、早期戦争終結を望んでいたのは米国側も同じでしたよ。米国側もものすごい戦死者を出してかなり苦しかったのです。

>なぜ、あなたは国籍や民族に異様なまで拘るのでしょう。

いささか唐突に感じます。小生はタケセンさんの日記で国籍や民族について論じたことはないと思います。
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タケセン 2009年07月30日 01:05

現在の同盟国のアメリカも、欧州も(敗戦国のドイツやイタリアを含む)、アジアの多数派も認めない主張を繰り返して、あなたは何を得ようとしているのでしょう。

戦前の国体イデオロギーによる用語を使い、ご自分の日記で論じ、その想念は私へのコメントにも色濃く反映されていますね。
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あ01-23 2009年07月30日 01:13

>あなたは何を得ようとしているのでしょう。

何も得ようとしてません。史実を申し上げているだけです。
私の主張が間違っているのなら反論していただければよいのだと思います。

factは時により多数派よりも少数派によって主張されることもあります。
誰が認めるか認めないかによりません。
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タケセン 2009年07月30日 09:25

あなたは、歴史を語る基本すらわきまえていないのです。

ある[事実]をどのように解釈するのが妥当なのか、というのは、その人がもつ価値意識=思想(それがたとえ無自覚のものであれ)によって変わります。解釈のしようはいくらでもありますが、事象を如何に見るか?は、何に価値を感じ、どう生きるのがよいと考えるのかと結びついているのです。人間の価値意識=思想と切り離した只の「事実」など存在しないのです。
この点については、認識論の基礎を学ばれる必要がありますが、まずは、竹田青嗣さんの「現象学入門」(NHKブックス)にじっくり取り組まれるとよいでしょう。

また、日本の近・現代史のきちんとした歴史的考証と証言を知ることは、問題を考え・語る上で避けて通ることができませんから、「あばれはっちゃく」等の児童読み物で有名な山中恒さんの「反日という呪縛」(けいそう書房)に取り組まれるのがよいでしょう。

ともあれ、「基本的な勉強」をきちんとした上で、考え・語らないと、戦前の天皇教の下で市民的自由を抑圧した(特高による恐怖政治―拷問はその象徴)思想教育による国家をよしする時代錯誤の危ない人で終わってしまいますよ。

あなたの主張する「事実」なるものは、例えば読者をひきつけるために週刊誌の書く「事実」と同じで、一面の強調により、大きくバランスを崩しているのです。全体的・多面的にさまざまな「事実」を考察し、よきバランス感覚を持って総合的な判断をするという精神のゆとり=普遍性に乏しいのです。老婆心ながら、ご忠告する次第です。良識あるバランスのとれた大人になることが、自他にとってよいことではないですか。
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あ01-23 2009年07月30日 21:48

>歴史を語る基本すらわきまえていないのです。

GHQが起草した日本国憲法でもって市民革命が成就したというイデオロギーこそバランス感覚を大きく崩していると考えるべきではないでしょうか。

日本で市民革命が起きたと考える人は日本の左翼以外世界中にどこにもいないと思いますよ。バランスがとれていないからこういう妄想に取りつかれるのではないでしょうか。

>戦前の天皇教の下で市民的自由を抑圧した(特高による恐怖政治―拷問はその象徴)思想
>教育による国家をよし

戦時中の極端な統制は行き過ぎた面があったのは確かです。しかし、スターリン主義者を厳しく取り締まったのは正しいと思います。ちなみに「天皇教」という宗教は存在しませんでしたし、今もありません。
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タケセン 2009年07月30日 23:20

「天皇教」とは、原始宗教の内容を色濃く残す国家宗教のことです。明治政府が創作した新宗教ですが、哲学者で著名な宗教論を成した竹内芳郎氏の言葉です。何も知らないでこういう書き込みを繰り返す愚かさを、あなたは少しは自覚しないといけませんね。宗教論ー人類の宗教表象の概略も勉強せずに、一知半解な御託を並べるのは見よいものではありませんよ。神道の系譜や古神道、教派神道、明治の国家神道の次元の相違も知らないとは呆れますね。

主権在民というのは、国民の「公共」を実現するためにのみ国家は存在するという思想で、それとは別の場所に国家の公という領域をつくることを認めないということです。これは近代民主制の原理です。主権は国民に存するという新憲法の制定は、革命にも等しい歴史的転換なのです。あなたは、哲学も思想も勉強せずに、自分の心情を満たすだけの「理屈」を並べるだけですが、いい年をしてこういう無教養をブログでひけらかす!?のはもうそろそろ終わりにしたらよいでしょう。
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あ01-23 2009年07月30日 23:45

>哲学者で著名な宗教論を成した竹内芳郎氏の言葉です。

著名ですか?昔は反日思想家として名をなしたのでしょうが、今となっては無名ではないでしょうか。知っている人の方が珍しいですよ、客観的に考えて。

その反日マルキストが天皇教なる造語を発表したら、天皇教が存在してしまうことになるのでしょうか?それはおかしな話ですね。

>主権は国民に存するという新憲法の制定は、革命にも等しい歴史的転換なのです。

GHQが英文で起草した日本国憲法で、市民革命が成就したっておかしなロジックじゃないですか?外国の占領軍が日本の市民革命を成就させたという意味なんでしょうか。論理的に破たんした主張じゃないでしょうか。
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タケセン 2009年07月31日 14:03

反日!?の思想家というあなたの他者への烙印は、本質的には、何も見えていない証拠です。

また、「反日」というとんでもない言葉を他者に浴びせるのは、最も恥ずべき日本人であり、人間であるとわたしは思います。このような差別的で、戦前の国体イデオロギー(=本質的に民主主義に反する)に基づく言葉を臆面もなく使う輩を、わたしは心底軽蔑します。日本人で日本に住んで日本をよくしようと努力している人間を侮蔑する「恥知らず」で「礼」をわきまえない人間のコメントは、

あなたから「誠意ある謝罪」がなければ以後削除します。

また、竹内芳郎さんは、いわゆる「マルクス主義者」ではありませんが、あなたは哲学の素養がまったくないために、デマゴーグにすぎない言説を振り回すのです。嘆かわしい。怪しげなネット情報に頼らずにご自分で読んでから発言してください。これは基本原則ですよ。なお、彼の主著は「文化の理論のために」(岩波書店)です。

敗戦(あなた好みの言葉では「終戦」)が、市民革命に似た効果を現実にもたらしたことは、ふつうの理性ある人なら誰でもが知っていることです。議論以前の話です。「主権が国民にある」という大転換をなす新憲法が発布され、現在その基本思想を否定する人は、自民党にもほとんどいないのです。
---------------------------------------------------

ここで終わりましたが、「まとめ」として言えることは、

民主的人間になり、民主主義社会をつくるためには、
小学生からの順を踏んだ【自問自答と自由対話】の授業=練習が不可避であるということです。それがないと、「私」にとっても「公共」にとっても一番大切な、なにがほんとうなのか? どう考えるのが妥当なのか? という能力が鍛えらないからです。
家庭と学校で、大元に戻して考え・話す「哲学」の実践をしないと、議論を避けるか、または「ディベート」という勝ち負けのゲームに陥るほかないのです。
ちなみに、ソフィストたちのディベート(言語勝負・言語技術)を徹底的に批判したところに生まれたのがソクラテスの問答法=哲学です。

「自問自答と自由対話」により、幼いころからの「自己決定」(=自由と責任)の鍛練をしなければ、民主主義社会をつくることはできませんし、その鍛練が人間を民主的な存在にしていきます。厳しく批判し合いながらも、相手の存在価値を認めるという≪民主主義の倫理≫は、その鍛練から生まれるのです。


コメント (2)
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死刑廃止へのコメント-1

2009-08-07 | メール・往復書簡
わたしの「死刑廃止」の意見に対するmixiブログへのコメントです。


あ01-23 2009年07月28日 23:27

お邪魔します。

>これ以上はなく「冷静」に人を殺す。そういうシステムを内にもつ国家に豊かな人間性が育ま
>れることはないのです。

武田さんは昔の文学とか哲学に造詣の深い方だとお見受けしますが、そういったものが作られた時代には国家に制度として死刑があったはずですよ。死刑と人間性は関係ないのでは?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月28日 23:49

早速のコメント、ありがとうございます。
あ01-23さん、
人間性は、だんだんと濃やかになり、あえて言えば「進歩」してきました。いまは、女性も同権となり、さらに子供の権利条約も生まれ、世界各国で批准されました。
昔の常識は、そのままでは通用しないのです。現代では、人間と自然への暴力は、より強く否定されています。「冷静に人を殺す」ことを「悪」と考える国が増えてきたのは、そのことと軸を一にしているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月28日 23:58

>武田さん

たびたび失礼いたします。

ルソーは社会契約論で死刑を支持していますが、武田さんの主張するルソー・ルネサンスを起こすなら、死刑はむしろ擁護すべきではないでしょうか?

一方で、お隣の北朝鮮やChinaにおける人間と自然への暴力は酷いものがありますね。朝鮮労働党や中国共産党は「冷静に人を殺す」ことを「善」と考える集団です。朝鮮労働党員や共産党員は人間の文明のベクトルから考えると退行した集団と考えるべきですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ディジー 2009年07月28日 23:58

ニュースから失礼します。
死刑が良い悪いかは分かりませんが、どんな極悪犯でも無期懲役判決では出所してしまいます。

遺族の本当の気持ちなんて、遺族でなければ分かりません。
代弁するようなコメントはいかがなものかと思います。
しいて言わせてもらえば、私が遺族なら…事故なら別ですが、快楽の為に殺されたなら確実に死刑を望むでしょう。

人間の感情は綺麗事だけでは済みません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月29日 00:00

>遺族の本当の気持ちなんて、遺族でなければ分かりません。

その通りだと思います!
国家の死刑を廃止するなら、その代わりに遺族の報復権や復讐の権利を認めるべきです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月29日 00:17

あ01-23さん

わたしが書いた山中元さんの「社会契約論」の紹介への、あ01-23さんのコメントに対して、以下のように記しましたが、ルソーは、理念次元の想定をし、またレトリックを駆使した文章を書いていますので、随分誤解されています。

「これは、ルソーが、「市民主権の国家」を生むための徹底した姿勢=覚悟を現わしたものですが、それは主権者を市民とする革命を成すための理念です。ルソーは、イギリス経験論とは異なり、理念次元の想定の必要を強く意識した哲学者です。ふつうの犯罪=経験論次元の話と混同して読んでしまうと、その本質的意味を取り損なってしまいます。山中さんは、優れた解説も書かれていますので、ぜひご一読下さい。 」

それから、ディジー さんのいう「遺族の気持ち」ということだけでこの問題は語れません。もっと落ち着いて、ゆっくり思索されてから発言されないと、感情論となり、議論が深まらないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月29日 00:39

>それは主権者を市民とする革命を成すための理念です。

日本には皇族がいらっしゃるので市民革命の理論など必要ありませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

hiro 2009年07月29日 00:43

初めまして、ニュースからやって来ました。

>死刑という刑はあってはならないのです。

まったく同感です。国家の国民の名の下に行われるもう一つの殺人以外の何物でもありません。
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あ01-23 2009年07月29日 00:46

>国家の国民の名の下に行われるもう一つの殺人

罰金刑を「国家の国民の名の下に行われるもう一つの窃盗」と呼ぶほど陳腐な屁理屈だと思います。
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クリーミー 2009年07月29日 00:51

僕も死刑制度には反対です。
子供に人を殺してはいけないと教えても、では何故国が人を殺せるのかと反論されたら答えに窮します。
国家はいつの時代も適当な理由をつけて人を殺してきました。
個人が自然な感情に基づいて殺し合うのと国家が「合法的」に人を抹殺するのは次元が違います。
本来であれば国が人を殺せないように国民が働きかけるのが筋だと思いますがミクシーの日記などを見ると死刑肯定派が圧倒的多数であることに驚き呆れています。
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バミューダ 2009年07月29日 00:59

明日死刑制度についてテストを控えている者です。勉強させてください。

人権侵害という考え方をとると、殺人という罪は肉体的人権侵害の最たる例となりますよね。そして、人権は公共の福祉、言い換えれば国家の秩序を乱さない限り保障されると憲法は規定しています。

となると、殺人を犯した者は国家の秩序を乱し、社会に対する契約を裏切っています。それに対して、終身刑という刑が死刑よりも妥当である根拠は何でしょうか。
「私はあなたを一応殺さないと約束する、しかしあなたは私を殺さないと約束しろ」という考え方に繋がるのでは?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
Kaitaiya 2009年07月29日 01:04

ニュースから失礼します。
僕も死刑は廃止すべきやと思います。
でも死刑は必要だと思います。
この矛盾がなかなか解決しないんですよね。
なかなか決定的な決め手って無いです。 kengo 2009年07月29日 01:07 その豊かな人間性が成熟した社会が、如何に不可能極まりないかを直視されたし。国家が手をさしのべなければならないのは他にもいる。年間自殺者三万人。このことに本腰入れない国家が、何を殺人犯した人に配慮せんきゃならないかわからない。犯罪者救って、ワーキングプア放置の社会に人間性は育まれますか?議論があっちゃこっちゃいってごめん。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月29日 01:09

>子供に人を殺してはいけないと教えても、では何故国が人を殺せるのかと反論されたら答えに窮します。

罪のない人を殺してはいけないと教えるべきではないでしょうか?
凶悪殺人犯は死刑で殺してもよいと教えれば矛盾は起きませんよ。
絶対無条件に人を殺すなという命題を立てるから混乱するのだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

クリーミー 2009年07月29日 01:31

>罪のない人を殺してはいけないと教えるべきではないでしょうか?

国家は罪のない人間を散々殺してきました。
国家に人を殺せる権利を与え続ける限りこれは続くでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ディジー 2009年07月29日 01:35

私は落ち着いていますよ。
貴方はとても知識豊富で高尚で賢い方なのでしょう。しかし、
>冷静に、理性的に殺してはいけない
>家族でも自分の手で殺せば心は晴れるでしょう

これは裏を返せば同じ事でしょう。
矛盾していませんか?
これでは犯人も家族も冷静でなければ何をしてもいいということになります。
それこそ現在の国家の冷静な判断がそこに存在するからこそ守られている秩序もあるはずです。
確かに殺人がなくなる社会になるよう国民が意識を持つことは大切でしょうが、残念ながら、犯罪者はいなくなりません。
あなたの述べるものこそ理想論と感じてしまいます。
人や自然を殺してはいけないという貴方様の意見にそわない事をした犯罪者に対しては、具体的にどういった制裁が必要だとお考えですか?

無期懲役?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○ンシロウ 2009年07月29日 01:59

> あ01-23さん
それ(復讐権)はいいことだ。

○ンシロウ 2009年07月29日 06:03

>クリーミー
お前変わってる。
普通じゃない。
肯定派が正しいから多いのでは…
日本人も馬鹿ばかりではない。
少ない派っていうと…例えば社民党みたいな奴ってむちゃくちゃ言うし変わってるだろ?それと一緒さ。
だからあんなんに票入れる奴少ないんや。
こっちはお前の考えに呆れるわ(笑)

○ンシロウ 2009年07月29日 06:05 >
hiro
お前が死刑囚の身代わりになって氏ねば?WW
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月29日 09:33

もっともオゾマシイ犯罪である「殺人」、
しかもそれが憎しみ合う関係の中で追い詰めれれた末の犯行、あるいは、生活の困窮の中での強盗の末の殺人でもない場合、
なぜ人間は、殺人を犯すのか?
それを追求するのは、よりよい社会を建造する上で、極めて重要な仕事です。殺人者を死刑に処するのではなく、彼らの病理の源を検証し、その精神の回復はいかに可能か(あるいは不可能か)を探ることが求められます。それは、「正常者」の中にもある殺意や不条理な心理をより深く見つめることにもなるでしょう。
あまりに酷い犯罪を犯した人は、隔離し、別次元の世界(刑務所という秩序)で生きてもらうしかないので、終身刑にするほかありませんが、殺してしまえば、そこですべて「お終い」です。粘り強く人間性の暗く恐ろしい一面を探り・見つめる作業をしっかり続ける国であれば、ふつうの生活者の考え方・生き方も多面的に深く豊かになるはずです。

それから、「市民を主権者とする革命」(ルソー)は、60年以上前、敗戦という形で日本でも成就しています。日本国憲法は、明治憲法の天皇主権を否定し、主権在民の原理を明白にしましたが、これは小中学校の教科書で誰でもが学ぶ事実です。だから、現在の日本という国家は、そこに生きる一人一人の個人の意志によりつくられています。わたしが、あなたが、皆でお金を出し合い(税金)、政治家を選び、役人を雇って国家をつくっているのです。民主主義社会における国家とは、われわれのものであり、ウヨクの「国家・命」という国家宗教ではなく、サヨクの「国家・悪」というイデオロギーでもないのです。われわれふつうの市民がよりよい信頼社会を建設していこうというのが、主権在民の国家なのです。

また少数派、多数派、ということであれば、死刑廃止は、世界の(先進国)の常識であり、廃止派が多数なのです。hiroさんに向けて、「お前が死刑囚の身代わりになって氏ねば?WW 」というOンシロウさんの発言は、撤回し、謝罪しなければいけません。mixiの基本方針に明らかに反します。異論・反論と暴言は全くちがうのです。

以上、まとめてのお応えでした。
なお、同じことの繰り返しのコメントや、暴言、糾弾でしかないコメント、人権侵害や反社会的なコメントについては、今後は削除します。

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