続いての質問です。 内田
私 は、フィロソフィーとは、みなが深く納得できる【普遍的な考え方】を提示する普段の努力という基本思想に共感致します。先生のフィロソフィーとは、世俗の価値を否定するのでなく、世俗の世界の只中にありそれを包括して普遍性の価値に引き上げていく行為だと伺いました。まず、三点ほどご質問します。
①竹内先生が言う、「超越性原理を持て」という考え方は、宗教に限定してのご主張ではなかったのでしょうか?フィロソフィーにも竹内先生は、超越性原理を求めておいでなのでしょうか?
② 普遍宗教の超越性原理とは、武田先生の考えるフィロソフィーとどのように違うのでしょうか?私は仏教徒なのでゴーダマ・ブッタが説いた思想について考えま す。ブッタは、普遍的な原理ともいえる「自灯明・自帰依」及び「法灯明・法帰依」を主張したとされています。この思想は、普遍的であると共に、超越的であ るとも言えます。決して絶対的な真理を言っているわけではありません。生活世界で苦から脱し、よく生きるとは、何であろうかという、原理的な問いについ て、ブッダが考えた思想であり姿勢でありました。ブッダの悟った生き方の実践とその継続、心身を通して自覚的に内在化させていく行為や働きが仏教の説く、 超越性原理であると思っています。ブッダの言った超越とは、内在的な超越であり、「解脱」を求めるということでしょう。本来の自己に目覚めること、そこに 一つの神、神そのものをも必要としない仏教の超越性が、普遍性を求めるフィロソフィーと、共通の地平が開けるのではないでしょうか?私は、武田先生いう主 観性の知の問題と関係すると思い、仏教徒としての私の考えるブッタの思想に関する私見を申し上げました。この考えが妥当するかどうか及び、他の普遍宗教に ついては、わかりませんが。
③ 最後に先生のフィロソフィーでは、「対立」がキーワードと考えます。私も共鳴しておりますが、宗教では、「対立」は必ずしも必要ないと思うことがありま す。例えば、親鸞や良寛の思想、親鸞でいえば「自然法爾」という思想がありますね。親鸞思想の到達点と言われておりますが、対立を超えたところに宗教的な 救済があると思うのです。フィロソフィーと宗教の違いかもしれません。親鸞を敬愛する武田先生は、如何に考えられますか。
専門用語を多く使いましたが、武田先生フォローして頂ければ、幸いです。
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お応え 武田
内田さん、 共感、嬉しいですが、
「世俗の価値を否定しない武田哲学」という点が③の質問とも関係しますので最初にお応えします。
わたしは、世俗の価値を「否定」しませんが、世俗の価値と「対立」することは多々あります。「対立」することではじめて「一面的な世界」が変わります。対立がないと、のっぺらな平板で、同一の価値観で染め上げられたエロースのない世界に陥ります。それは、人間を幸福にせず、灰色で淀んだ空気を生むだけです。
善美への想いを座標軸として日常を生きると、世俗の価値と一致しないことがありますが、その時は、明確にその理由を述べ、「対立」することが必要です。その営みなしでは、世界は色づかず、活気づきません。これは人間的なよき生の原理なのです。
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では、①について。
竹内芳郎氏の超越性の概念は、「宗教に限定したもの」ではまったくありません。
わたしが27年前に企画し主宰した我孫子市民会館での講演会『盗まれた自由』(1988年10月9日)の模様は、『ポストモダンと天皇教の現在』(ちくま書房刊)の冒頭論文になっていますが、そこには以下のようにあります。
「日本人の集団同調主義に対するに『個人の自立』は大切だが、それだけでは不足で、『超越性の原理』をもつことが必要だ。それは世俗の価値を相対化する原理なのだ。」(要旨)と述べ、超越性原理をもって現実を生きることの必要が力説されています。
そこから強い超越性原理をもつキリスト教への高い評価が出てきます。
したがって親鸞思想を評価しつつも、超越性の程度において劣ると言います。阿弥陀仏という人格神を絶対神として立てているが、その思想は法然という人間への信頼→帰依であり、中途半端である。キリスト教は、「生き生きとした人格神を絶対他者=超越者として定立する」ことにおいて徹底しているゆえに世界的な普遍性をもった、というのが竹内芳郎氏の見方です(詳しくは『意味への渇き』5章D)。
以上のような宗教の見方と価値評価は、いまでは有用性があまりないと思います。人間の生のありようを宗教表象を基にして考えるということ自体にわたしは賛成しません。そういう役割を宗教がもった時代はすでに終わっています。
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次に②ですが、
わたしの「私の善美への憧れを座標軸」に生きるというのは、生活世界の中に「善美」を見たり感じたりすることですが、それは、子育てをする中で、あるいは、他者との会話の中で、あるいは、音楽を聴き、絵画や彫刻を見る中で、あるいは、本を読む中で、あるいは写真を撮る中で、あるいは散歩する中で、感じ知ることを基に思考して得られる視座です。
その中に、仏典や聖書を読むという営みが入ってもよいわけですが、それらが特別な地位を占めることはありません。宗教書もさまざまな体験・経験の中の一つに過ぎません。
わたしの場合は、とりわけ幼子→こどもたちとの交流の中で見聞きすることが深い思考を誘発し、善美への新たな視座が開けることが多いです。なまの経験が頭を刺激するのです。また、音楽を聴きながら思考することもありますし、いつもの手賀沼遊歩道での散歩中に新たな見方・考え方・生き方の発見もします。
ブッダの内在的普遍性の追求→到達点と、わたしの恋知との異同についてのご質問ですが、それはどうでしょうか。何が同じで何が違うかは、判然としません。わたしは釈迦の思想や親鸞の思想にも感じ入ってきましたが、直接わたしのフィロソフィと関連させようという考えはありません。
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では最後の③です。
「対立を超えたところに宗教的な 救済があると思うのです。」(内田)
と言われるときの心=意識=精神は、宗教的な境地でしょう。
わたしは、人間の現実(もちろん理念やロマンの世界などの非現実を含みますが)について話しています。人間は言葉により世界を分節化し、意味づけ、思考していますから、「対立」は意識するとしないとに関わらず必然です。明暗、軽重、動静・・・・という事象をから、善悪、美醜・・・という価値を表す言葉、男と女、こどもと大人、生徒と教師、すべて「対立」する言葉です。
対立がなければ世界はのっぺらぼうです。現実の人間関係でも、こどもの言い分と大人の言い分は食い違いますし、社長と社員の言い分も異なることが多いでしょうし、男と女の意見の相違は永遠(笑)でしょう。そういう対立があるから世界は動き、色づき、活気にあふれ、立体化するのです。対立を恐れたら、生気のない死んだ世界になってしまいます。否定は元も子もなくしますから困りますが、対立は何より大切です。
武田康弘
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武田先生
お答えありがとうございます。少し考えてまたメールします。武田哲学と宗教の差異性が分かりました。
以下の点を確認できました。
①竹内先生の超越性原理について承知しました。(解放の神学を高く評価していました)
→宗教の原理を人間の生の原理に適用するのは反対、有効ではない。
②先生の「私の善美への憧れを座標軸」に生きるというのは、生活世界の中に「善美」を見たり感じたりすること、子育てをする中で、あるいは、他者との会話の中で、あるいは、音楽を聴き、絵画や彫刻を見る中で、あるいは、本を読む中で、あるい は写真を撮る中で、あるいは散歩する中で、感じ知ることを基に思考して得られる視座でということである。哲学書を読んだり、宗教書を読んだりするのもその経験の一部分であり、特別な位置をしめるものでない。
③人間の生の現実において、「対立」は必然であり、必要なものである。対立があるから生活世界のダイナミズムがある。対立がなければ、生気のない死んだ世界となる。
以上の①②③により、武田フィロソフィーと、宗教や宗教の論理との相違を確認できました。それは、人間の生の現実において、よく生きるための知について、またよく生きるための方法についてのことでした。もはや、生身の現実社会の中では、宗教的な超越性原理の有効性はなく、それとは異なる普遍性の探求こそ必要ということだと思います。私は、この提案は非常に重要なことと思います。現実の世界は、宗教紛争や民族紛争が基に、目を覆うばかりの悲惨や悲劇が繰り広げられています。そこから脱出するヒントがあるかもしれません。
※私はブッダの「自帰依」の思想は、主観性・個人の尊重を基にしており、私見として、武田先生の主観性の知の思想に近いものを感じています。→私が引き取って考えていきます。
内田卓志