民主党の鳩山政権が打ち出す【新しい公共】とはなんでしょうか?その本質について簡潔に書きます。
これは、ほんらいの主権在民による日本国憲法の理念に照らせば、極めて当然の考えなのです。
しかし、なぜいま、ことさらに「新しい」と強調しなければならないのか、と言えば、
わが国では、敗戦による終戦後、主権在民に基づく民主主義の「日本国憲法」が誕生し、シチズンシップ(市民精神)をもつ国民が主役=主体者になって国・社会をつくることを宣言したにも関わらず、実態は、「大日本帝国憲法」の天皇主権下における官僚主導の政治運営が続いてきたからです。
これは、主権在民ならぬ「主権在官」呼ばれていますが、わたしたちは戦前の旧い想念からなかなか抜け出すことができず、公の、公共の、というと、役所を連想してしまいます。役所の上に「お」を付けて、お役所と言うのは笑えますが、これは、「わたくし」は価値の低いもので、個々人の上にある偉い存在が「おほやけ」であるという江戸時代における想念が、天皇主権の明治から敗戦までを生き延び、民主主義社会になった今なお払拭できないでいることの一象徴です。
パブリック(公共)というのは、市民的な、市民による共同の、という意味で、役所=官を指す言葉ではないのですが、民主主義になった後も日本では、公共というと、役所=官のことだと思われてきたわけです。ここから脱却して、公共とは、主権者である「私」がつくるものという意識に基づいて国・社会を運営していくことが必要であり、そのようなシチズンシップ(市民精神)に基づく公共を【新しい公共】と呼ぶのです。
民主主義国家では、ほんらい、「私」はこの国・社会をつくっている一人の人間であるという自由と責任の下に「私」が公共を担う。市民がつくり・雇っている「役所・役人=官」は、専門家として、その市民の公共を支え、守るために仕事をする。それが原則なのです。「私」が目がけるのも、官が目がけるのも、ともに公共的利益であり、公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を目がけるのだ、と言ったのでは(※わたしと論争したシリーズ「公共哲学」の最高責任者・金泰昌さんの主張)、主権在民による民主主義国家の原理を逸脱してしまいます。
【新しい公共】とは、「シチズンシップ(市民精神)による民主主義の徹底化」と軸を一にする思想です。これをほんとうに現実のものとするには、小学生からの順を踏んだ「自由対話」に基づく「自治」の実践教育が不可欠でしょう。
(※官僚は公=国家のために働くもので、市民は市民的公共を担う、というのが、金泰昌さんの考えです。金さんは、公・公共・私の三者を三次元相関的に捉えることが必要で、公と公共を分けることが鍵であると言います)
武田康弘
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コメント
新しい公共 (荒井達夫)
2009-11-28 23:48:37
2009/11/27 17:56 【共同通信】
「政府、「新しい公共」具体化へ 1月に円卓会議
政府は、鳩山由紀夫首相が先の所信表明演説で掲げた「新しい公共」の実現に向け具体案を策定する円卓会議を、来年1月にも設置する。古川元久内閣府副大臣が27日の記者会見で発表した。「新しい公共」について首相は演説で「人を支える役割を『官』だけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっている方々が参加し、社会全体として応援しようという価値観」と説明。地域の民間非営利団体(NPO)や市民の活動を支援するため、阻害となる規制の撤廃などを検討するとみられる。」
この「新しい公共」を具体化するに当たって、一番大事なことは、主権在民の原理に徹底して立脚しなければならない、ということです。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」(憲法前文)、「主権の存する日本国民」(憲法第1条)
当たり前のことですが、現実の政治行政においては、ここからすべてを発想していく必要があると、私は考えています。
そうでなければ、特に公務に従事する者は、違憲であることを自覚すべきです。
憲法第99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と規定しているのですから。
なお、公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を目がけるのだ、と言ったら、主権在民に反し違憲と言うほかありません。
鳩山総理は、「新しい公共」について「人を支える役割を『官』だけが担うのではなく」と言っており、公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を担うのだ、と言っているわけではないので、問題はないと思いますが。