思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

新しい公共(民主党政権の理念)とは何か?

2009-11-28 | 社会思想

民主党の鳩山政権が打ち出す【新しい公共】とはなんでしょうか?その本質について簡潔に書きます。

これは、ほんらいの主権在民による日本国憲法の理念に照らせば、極めて当然の考えなのです。

しかし、なぜいま、ことさらに「新しい」と強調しなければならないのか、と言えば、
わが国では、敗戦による終戦後、主権在民に基づく民主主義の「日本国憲法」が誕生し、シチズンシップ(市民精神)をもつ国民が主役=主体者になって国・社会をつくることを宣言したにも関わらず、実態は、「大日本帝国憲法」の天皇主権下における官僚主導の政治運営が続いてきたからです。

これは、主権在民ならぬ「主権在官」呼ばれていますが、わたしたちは戦前の旧い想念からなかなか抜け出すことができず、公の、公共の、というと、役所を連想してしまいます。役所の上に「お」を付けて、お役所と言うのは笑えますが、これは、「わたくし」は価値の低いもので、個々人の上にある偉い存在が「おほやけ」であるという江戸時代における想念が、天皇主権の明治から敗戦までを生き延び、民主主義社会になった今なお払拭できないでいることの一象徴です。

パブリック(公共)というのは、市民的な、市民による共同の、という意味で、役所=官を指す言葉ではないのですが、民主主義になった後も日本では、公共というと、役所=官のことだと思われてきたわけです。ここから脱却して、公共とは、主権者である「私」がつくるものという意識に基づいて国・社会を運営していくことが必要であり、そのようなシチズンシップ(市民精神)に基づく公共を【新しい公共】と呼ぶのです。

民主主義国家では、ほんらい、「私」はこの国・社会をつくっている一人の人間であるという自由と責任の下に「私」が公共を担う。市民がつくり・雇っている「役所・役人=官」は、専門家として、その市民の公共を支え、守るために仕事をする。それが原則なのです。「私」が目がけるのも、官が目がけるのも、ともに公共的利益であり、公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を目がけるのだ、と言ったのでは(※わたしと論争したシリーズ「公共哲学」の最高責任者・金泰昌さんの主張)、主権在民による民主主義国家の原理を逸脱してしまいます。

【新しい公共】とは、「シチズンシップ(市民精神)による民主主義の徹底化」と軸を一にする思想です。これをほんとうに現実のものとするには、小学生からの順を踏んだ「自由対話」に基づく「自治」の実践教育が不可欠でしょう。


(※官僚は公=国家のために働くもので、市民は市民的公共を担う、というのが、金泰昌さんの考えです。金さんは、公・公共・私の三者を三次元相関的に捉えることが必要で、公と公共を分けることが鍵であると言います)


武田康弘
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コメント

新しい公共 (荒井達夫)
2009-11-28 23:48:37


2009/11/27 17:56 【共同通信】

「政府、「新しい公共」具体化へ 1月に円卓会議

 政府は、鳩山由紀夫首相が先の所信表明演説で掲げた「新しい公共」の実現に向け具体案を策定する円卓会議を、来年1月にも設置する。古川元久内閣府副大臣が27日の記者会見で発表した。「新しい公共」について首相は演説で「人を支える役割を『官』だけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっている方々が参加し、社会全体として応援しようという価値観」と説明。地域の民間非営利団体(NPO)や市民の活動を支援するため、阻害となる規制の撤廃などを検討するとみられる。」


この「新しい公共」を具体化するに当たって、一番大事なことは、主権在民の原理に徹底して立脚しなければならない、ということです。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」(憲法前文)、「主権の存する日本国民」(憲法第1条)

当たり前のことですが、現実の政治行政においては、ここからすべてを発想していく必要があると、私は考えています。

そうでなければ、特に公務に従事する者は、違憲であることを自覚すべきです。

憲法第99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と規定しているのですから。

なお、公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を目がけるのだ、と言ったら、主権在民に反し違憲と言うほかありません。

鳩山総理は、「新しい公共」について「人を支える役割を『官』だけが担うのではなく」と言っており、公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を担うのだ、と言っているわけではないので、問題はないと思いますが。


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小林正弥と武田康弘の議論(三元論をめぐって)

2009-11-25 | 社会思想

以下は、「公共哲学ml」における代表の小林正弥さんとわたしとのやりとりです。公共哲学は、皆の哲学ですので、皆さまの忌憚のないご意見をぜひお寄せください。簡単な感想だけでも結構ですので、よろしくお願いします。)


小林正弥です。
・・・・・・・・
武田さんたちと実践的には私の立場は近いと思いますが、学問的な概念構成においては差が存在します。この論点における私の立場はほとんど山脇先生と共通ですが、山脇先生の言われている趣旨を私なりに整理して補足的に説明してみます。

●私の考える公共哲学は、規範的側面と描写的・説明的側面を持っており、3元論は武田さんが認められたように説明的に有用であると同時に、規範的にも有用です。

●なぜなら、規範的には私は「公共」という概念に理想を込めていますが、これは「公的」という規範概念とは異なります。通常、「公的」という言葉を規範的に用いるときには、公式とか、正式とか、法的とかいう意味を伴っています。これは現実に実現されます。しかし、「公共的」という理想は完全には実現が困難です。だから、「公共」の理想と現実の「公」との乖離を表すためにも、「公共」と「公」という概念上の区別は有用です。

●なお、ここにいう「公」とは「公共とは異なる官の意思」(武田)ではなく、上記の意味ですから、国民国家レベルでは「公≒国家」となり、「公共」と「公」の差異が「公共とは異なる官の意思」に相当します。

●国民主権の原理において、「公」が「公共的」となるべきだという規範論はもちろん私も主張するところですが、だからといって、「公」が完全に「公共的」になることはほとんど不可能だと思います。すなわち、ルソー的な言語を用いるならば、神ならぬ人間の世界においては、一般意思は完全には実現できない理想なのです。さらに、「公共」が理想として一義的に想定できるとしても、現実の人間にとっては確定困難であり、その意味で多元的な解の候補(多元的な公共)が存在します。

●つまり、原理的な問題として、「公共に反する公があって良い」のではなく、「公は可能な限り、公共に即すべきだが、人間がいくら努力してもこれは完全には実現できず、公共の要請とは乖離した公が残る」という冷静な認識が必要だと思うのです。

●「公共」という理想が完全に「公」に実現したと考える瞬間に、権力の奢りや危険が始まります。「公共」とは、「公」との対比において、人間性の限界を自覚し謙虚になるために有用な概念です。法的には当然「公的」は実現しなければならないのですが、政治的には「公共的」は可能な限り実現を目指すべきものであって、完全には実現できないものなのです。山脇先生の表現は確かに時に激しいですが、法制面のみを見る思考の「傲慢」さの指摘は、人間としての謙虚な認識に相通じると思います。

●したがって、「公共性」という理想は「公」とは異なる理想を表しますから、3元論は規範論においても有効です。ある意味では、「公共性」が理想であり、「公」は、その理想を可能な限り実現すべき現実であるという点において、「公共」と「公」の双方が概念として存在することによって、私たちは現実の中に理想を実現するという「理想主義的現実主義」を概念的に表現することができるでしょう。私たちの公共哲学プロジェクトにおいては、理想主義的現実主義は基本的な発想であり、実践的にも重要な意味を持つのです。

              小林正弥
         公共哲学ネットワーク代表
        地球平和公共ネットワーク代表
――――――――――――――――――――――――――――――

小林正弥さん

議論の混乱を防ぐために、
現実の政治・社会問題と、民主主義の原理についての話を分けて、まず後者について書きましょう。

最初に、基本的な認識の違いですが、「公共」とは、小林さんが主張されるような理想的な概念ではありません。
市民の公共は、その都度合意される内容でしかなく、理想でも規範でもないのです。

市民から選挙で選ばれた市民の代行者(代理人)である政治家は、市民の公共(公論・民意・一般意思)につき、政治を担うわけですが、それを円滑・確実に進めるための実務を担当する官僚と官僚組織(=官)は、本来、その民意に従って仕事をするだけです。

(そのようになっていない現実とその原因については別に論じる必要があります)

小林さんが言うように「公共の理想が現実の人間にとって確定困難」なのは当然ですが(そもそも公共の内容に「理想」など存在しません。そうだからこそ、忌憚のない「自由対話」によって妥当を導く営みが必須なのです)、そのことと、公と公共という二つの概念を使い分ける(三元論)という話とはどう関係するのか、意味不明です。問題の核心は、公共的な意見の複数性を踏まえて、どのようなその都度の妥当を導くか?という手法であり、仕組みづくりであり、その実践であるはずです。

「公共の要請とは乖離した公が残る」(小林)という言い方は、問題の本質を把握しそこなっているために出てくる言い方ではないですか。「公共の複数性」という現実があるために、社会の全成員が納得する結論を導くことは困難なのですが、それが、公と公共という二つがあるという仮象を生んでしまうのでしょう。
以上、簡単ですが、後者についてのお応えです。


武田康弘

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以下は、コメント覧です。

公と公共 (荒井達夫)
2009-11-25 22:34:11

通常、「公的」という言葉を規範的に用いるときには、公式とか、正式とか、法的とかいう意味を伴っています。これは現実に実現されます。しかし、「公共的」という理想は完全には実現が困難です。だから、「公共」の理想と現実の「公」との乖離を表すためにも、「公共」と「公」という概念上の区別は有用です。(小林さん)

国民国家レベルでは「公≒国家」となり、「公共」と「公」 の差異が「公共とは異なる官の意思」に相当します。(小林さん)

「公共性」が理想であり、「公」は、その理想を可能な限り実現すべき現実である。(小林さん)


これらの説明は、全くおかしいと思います。
現実の政治行政における「公」と「公共」の取扱いを見れば、誤りと言ってもよいでしょう。

なぜなら、

・「官は、公共の利益の実現を目指さなければならない」
・「官は、公の利益の実現を目指さなければならない」

現実の政治行政では、このように「公」と「公共」の両方が同じように使われていますが、「公式、正式、法的」とは無関係だからです。

また、「公」は現実であり、「公共」は理想である、という説明も変です。到底、普通の日本語の使い方ではないでしょう。

「公の利益」は「官により公式、正式、法的に実現される現実の利益」で、「公共の利益」は「そうではない、完全には実現が困難な理想としての利益」である?????

これでは、まったく意味不明です。

主権在民の日本国憲法下、現実の政治行政においては、「公共の利益」も「公の利益」も「社会一般の利益」という意味です。「公」も「公共」も、「社会一般の利益」に関係するという点で区別はありません。

だからこそ、国家公務員法96条「職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」という理念規定があるのです。(この条文で、「公共の利益」を「公の利益」と書き換えても、意味はまったく変わりません。)


上記のことは、「公の秩序」と「公共の秩序」を例にしても、同じです。

(公序良俗)
第90条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。

これは、民のルールである有名な民法の基本規定ですが、ここで「公の秩序」とは、「社会一般の利益」の意味で使われています。

「公の秩序」とは「社会一般の利益」、だから、それに違反する行為は無効、となるわけです。

この「公」を、小林正弥さんのように、「官の」、「公式・正式・法的な」、「現実的な」との意味で理解するならば、普通の人にはわからない、まさに意味不明な造語になるでしょう。

「公の秩序」とは、「官により公式・正式・法的に実現される現実の秩序」である?????

これでは、民法の正しい実施は不可能です。「官」が決める「秩序」に違反する行為は無効、ということになるのですから、まるで戦前の日本のようです。もちろん、そのように理解する社会的な必要性もないし、実益もありません。ひどく有害なだけです。

現実の政治行政では、普通の人が理解できる普通の意味で言葉を使わなければ、意味不明な有用でない議論にしかなりません。また、ひどく有害な結果を導くことさえあるのです。
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原理につくことが最も現実的 (タケセン=武田康弘)
2009-11-26 22:11:34

社会に関する思想、特に討論的対話については、さまざまな場で、できるだけ広く公開する。これは、公共の哲学を考え・語る上での原則です。閉じた仲間内で公共や哲学を語る、ではブラック・ジョークにしかなりませんから。
その意味で、荒井さんが実名で積極的に発言されているのは、とてもよいことだと思います。公共を語り、哲学を語る人は、また公共性の高い仕事につく人は、まず第一に自分自身が自由対話・討論をしっかり実践しなければならないはずです。

前置きはこのくらいにしてわたしの考えを述べると、
わたしの社会思想は、民主主義の原理である主権在民の思想を踏まえ、その地点から現実問題を分析し、その解決の方途を考えるというものですが、
小林さんや山脇さんは、現実・現状から出発し、どうすれば民主主義をよりよく実現できるか、と考えているようです。
わたしは、近代民主主義が憲法によって保障されている国家の場合は、まず、その原理・原則を確認し、そこから現状のありようを見るという方法を取らないと、有用な分析や優れた問題解決の指針をつくれないと考えています。
なぜならば、民主主義以前の社会の場合は、社会の成員は、みなが主体者とは位置づけられておらず、支配者が存在し、彼らの都合により社会全体が動かされましたが、
民主主義国家の場合は、主権者を人民(国民・市民)とした民主主義思想の下に法体系がつくられ、全成員が等しい権利をもっているからです。
原理としての権利から出発することが最も現実的な力をもつ、それが民主主義社会の特質であり、利点なのです。
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希望します (荒井達夫)
2009-11-27 00:20:48

今回のやり取りは、公共哲学の最重要の論点に関する非常に公共性の高い、社会的に有意義な内容のものですから、オープンにすべきです。

また、このような公共哲学の核心に関わる議論は、本来は、公共哲学ネットワーク自らが、誰でも参加できる公開のブログを開設して行うのが良いと思います。

是非、そうしていただけるよう、希望します。
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『公共』とは生々しい現実 (古林 治)
2009-11-27 22:06:21

事業仕訳で今、世の中はケンケンガクガクです。公開の場で官僚、政治家、民間人、学者入り乱れての議論。その結果に対してまたさまざまな集団、グループからの異論・反論。こんな風景は今までこの国では見たことがありません。この風景こそ『公共』が形成される生々しい現場なのでしょう。
さまざまな異論・反論が出てくるおかげで、ものごとは立体的に見え、徐々にその本質を現してきます(くるはず)。言い換えれば、妥当な『公共』が導き出される可能性が高いということです。もし、そのケンケンガクガクが中途で制止されなければ、ですが。

ほとんどの人にとって、このような経験は学校でも実社会でも体験したことのないものです。
それゆえに『公共』を中に浮いた感じのようにとらえてしまっても致し方ないかもしれません。
その実体験希薄のまま(言語上のみの)思考を重ねていくと言葉(概念)は暴走します。言葉によって思考する私たちは、このことに自覚的でなければいけません。特に言葉によって生計を立てる人はなおさらです。

私もまた、『公共』とは小林さんが言うような理想とは違って、生々しい現実そのものだと思います。私たちの生きる『意味と価値の世界(生活世界)』で、議論の上に醸成される公論・民意そのものです。(その妥当性は公開性にかかっていると思いますが。)
民主制の世界では、その『公共』に従ってサービスを行うのが官です。これが基本的な原則でしょう。それを徹底していくほかはないはずです。
そう考えると、『公』と『公共』を分ける考え方はやはり不自然です。
民意(公共)とは異なる、江戸時代の公=お上・御公儀や天皇主権の時代の公=天皇制国家は今や認められませんし、まして『公共』とは別の『公(官?)』を認めるわけにはいきません。『民主制に反するそのような考えはおかしい!』と言い続けるほかないでしょう。
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新しい公共 (荒井達夫)
2009-11-27 23:11:16

※古林さんの言うように、「『公』と『公共』を分ける考え方はやはり不自然」ですし、「『公共』とは小林さんが言うような理想とは違って、生々しい現実そのものだ」と私も考えています。

これに関係する話として、鳩山総理の「新しい公共」についての説明があります。


第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

「「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です。」


つまり、「「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、」ということです。

そうであれば、「古い公共」では、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担っていた、と鳩山総理は理解していることになります。

したがって、「公共」については、古い新しいを問わず、「官」が担うことは当然の前提として理解していることになるでしょう。

また、「官」が担うのが「公」であって、「市民」が担うのが「公共」と理解していないことも明らかです。
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原理からが現実的 (綿貫信一)
2009-11-29 00:41:08

「わたしの社会思想は、民主主義の原理である主権在民の思想を踏まえ、その地点から現実問題を分析し、その解決の方途を考える」(タケセン)

この意見に全く賛成です。「現実・現状から出発し、どうすれば民主主義をよりよく実現できるか」という道順では、まず何もなし得ないものだと思います。

民主主義にそぐわない制度を変えていくことは必要なことではありますが、そのこと自体が何らかの理念や原理を生み出すことはありません。
そして現実・現状から出発すると、複雑に多重化された現実問題の山に絡め取られて身動きが取れなくなり、それこそ方向性を失いそうです。「あれもしなくちゃいけない、これもしなくちゃいけない」で目が回りそう。

「民主主義の原理である主権在民の思想を踏まえ、その地点から現実問題を分析し、その解決の方途を考える」(タケセン)ことをしないと、複雑化した現代社会では動きようがないと思うのです。




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今朝の日経新聞ー「街の哲学 人を動かす」ー武田康弘

2009-11-22 | 書評

今朝の日本経済新聞(第31面)に、
社会人第58話
街の哲学 人を動かす
という記事が載りました。
わたし・武田康弘の33年間にわたる私塾「白樺教育館」を基盤とした教育と哲学のありようが紹介されています。

日経記者の和歌山章彦さんが、大変に熱のこもった取材(3回の来訪・計12時間以上)により書いたものですので、通常の記事とは異なり、きわめて密度の高い内容です。

受験塾との違いー「意味の了解」
自由対話
サルトル、ポンティの邦訳&解説者で哲学者の竹内芳郎さんとの交流・対話。
「生活世界からの哲学」こそほんものの哲学。
ルソー「社会契約論」初稿ージュネーブ草稿の解説、高校生の質問
多様な人々が集う
丸刈り強制の廃止
情報公開条例の制定
33年間地域に根ざし市民との対話(問答的哲学)に徹してきたが、請われて10月より、非常勤の国家公務員に。
「日本国憲法の哲学的土台を明らかにする」ことを求められる。
「公務員倫理やキャリアシステムの問題点の本質を『武田哲学』の視点で明らかにしてほしい」と期待される(参議院行政監視委員会調査室主席調査員・荒井達夫)。

カメラマンによる写真もさすがです。よい瞬間をアップで捉え、全体の雰囲気を暗示する写真になっています。


わたしのブログの読者の皆さまには、ぜひお読みいただきたいと思います。お近くの新聞販売店でお求めください。

ーーーーーーーー

追記・白樺教育館のホームページに載り、見ることができます。クリック


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21世紀の民主制=ベーシックインカムのビデオーぜひご覧下さい。

2009-11-19 | 社会思想
(以下は、公共哲学ml内で、美術家の久松さんとわたしとのやりとりです。)

武田さん  みなさま

武田さんが、『ともあれ、博愛・友愛の精神と自由を支える基盤である人間の平等をどう担保するのかが公共=人類社会の最大の課題だとわたしは考えています。ベーシックインカムの思想は極めて重要でしょう』と言われていましたので、
僕も書き込みたくなりました。
日本語字幕つきのベーシック・インカムの概要を伝えるビデオを紹介します。1時間38分もありますが、反対の人にも賛成の人にも、ぜひお勧めします。

久松拝

日本の皆様
今年始めの映画ベーシック・インカム/Grundeinkommenの紹介フィルムに引き続き、この度、約100分に及ぶ全フィルムの翻訳を完了させましたので、このメールをもちまして皆様にお知らせ致します。
http://dotsub.com/view/26520150-1acc-4fd0-9acd-169d95c9abe1
を開いて画面下方のGerman[100%]のところをJapanese[100%]にセットし直してスタートさせて下さい。紹介フィルムと同様、皆様の思いつくかぎりの友人、知人の方
にこの完全版フィルムを紹介していただくと共に、御自身のブログなどに組み入れ、宣伝して頂ければ幸いです。
製作者のダニエル・ヘーニー/エンノ・シュミットと共々、日本での映画に対する反響を楽しみにしております。
――――――――――――――――――――――――――

久松 重光さん、みなさん

経済的な格差をなくし、平等を現実のものにしなければ、自由の権利(思想、良心、表現、集会、結社・・・)は絵空事にすぎなくなる、
この人間・社会問題を考える上で当然の前提となる思想を踏まえない人が、哲学者を名乗る人の中にもいて、わたしはウンザリしていますが、

このビデオは、実にすばらしい!!平明にして深く、強い説得力を持ちます。
うーん、彼我の差に今更ながら愕然としますね~~。

まさしく「自由の獲得こそ困難な修行である」、です。自由に飛翔する想像力が、日本の学校教育ではヨーロッパに比べひどく奪われ、一般には受験成績優秀者ほどその度合いが大きいので、新たな発想ー柔らかくかつ確実な思考が現実のものとならないようです。イマジネーションー主観性の知の貧困。

これは、みんなの哲学=公共の哲学を支え、その土台となる「経済哲学」だと思います。30分くらいに短縮したバージョンもつくられるといいですね。素晴らしいビデオを紹介していただき、感謝です。ありがとう!!

武田康弘

最初の20分間ほどでも概略は掴めますので、おいそがしい方もぜひ、ごらんください


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チャイコフスキー交響曲4番+ヴァイオリ協奏曲(ミンシュ&シェリング)

2009-11-16 | 趣味

1955年と1959年の超古い演奏を紹介するのは、少し気がひけますが、この剛毅な力に溢れ、しかも人間味豊かな音楽は、現代では得難いものですので、お薦めします。

50年以上前の最初期のステレオ録音ですが、CD化に際して新しい手法が取り入れられているようで、かなりよい音です。

交響曲4番は、ミンシュ特有の艶やかで大きな音楽です。腰の据わった一筆書きの演奏は、現代の演奏家には求めようのない剛毅なもの。

わたしの最も敬愛するヴァイオリニストであるシェリングが弾ヴァイオリン協奏曲は、男性的でありながらチャーミング。繊細かつ強靭、「粋」な演奏に魅了されます。

いまさらチャイコフスキーなんて、という方にもお薦めです。


武田康弘


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わたしは、期待人は、嫌いです。

2009-11-15 | 私の信条

わたしは、何かを期待する人は嫌いです。誰かに期待する人も嫌いです。

そういう「期待人」からは、マイナスのエネルギーが出ていると感じます。近寄ると、生のエネルギーが吸い取られ、心身の調子が悪くなりますし、頭が痛くなります。

「期待人」は、いつも不足を訴えます。いつも不満や不平を言います。いつも自分の得ばかり考えます。いつも人に何かをしてもらおうとします。してもらえないと、相手に能力がないように言ったり、非難したりします。それを「自己主張」と勘違いします。例えば、アメリカ人のなんでも訴訟に持ち込み、自分の得を取ろうとする生き方。アメリカ人がみなそうだというのではありませんが、自己主張とエゴイズムとを混同するようでは悲しいですね。

わたしは、「期待人」には近づかないようにしています。向うから接近してきたら、それではダメだと諭しますが、いつまでも変わらなければ、縁を切ります。寿命が縮まりますから(笑・ホントウ)。

わたしはいつも憧れの心や希望の目をもって、自分のできることにしっかり取り組みます。何かに、誰かに、期待はしないのです。これは、高校生の頃から40年間のわたしの生き方であり、信条です。


武田康弘


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主義にとらわれずに、時流にながされずに。

2009-11-13 | 私の信条

サヨクの固い理論・客観主義的な思考法。
ウヨクの偏狭な天皇教的心性。
わたしは、ともにうんざりします。
やわらかい、自由、のびのび、楽しい、という生き方・考え方がなぜできないのか?
とても不幸です。

ふつうの生活者の良識につく。
上下意識に縛られない人間関係をつくる。
権威をつくらない平等な人権尊重の社会をめがける。
民主的な考え・生き方を広げていく人生を歩む。
自分の存在を何よりも愛し、大切にする心をもつ。
互いの違いを面白がり、楽しみを広げようとするプラス思考で生きる。
美しいもの・よいものに憧れを抱き求める恋知の生をよしとする。
自問自答と自由対話を方法にして、普遍的なよさを探り、しかし、絶対を求めないしなやかな精神を鍛える。 そういう考え方・生き方がいいな、とわたしは思っています。
幼いこどものような自然さを失わず、愛がいっぱいで、明るく、楽しく、「年を取るにつれて若くなる」ような。


武田康弘


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スポーツは適度に楽しく。競争主義は身体を壊す。

2009-11-09 | 教育

遊び=楽しみとしてのスポーツや運動ではなく、競技としてスポーツや運動は、身体を壊します。

競争主義になり、どうしても過度になるからです。

スポーツや運動は適度なこと、時間が長すぎないことが大事です。

自分自身の身体のよろこび、健康増進、体調維持のための運動は、無理をしないことが何より大切。

スポーツ競技で、競争主義に陥るのは、愚かであり、損です。

ふつうの身体をもつ大多数の人にとって、運動は「遊び=楽しみ」としてするのがよいのです。

いまの多くの中学校における運動部の活動は、集団主義による馴致であり、人生を潤わせ、豊かにするのとは違います。

わたしは、もう何十年もいい続けていることですが、スポーツ科学に基づく、楽しみの部活動への転換が必要です。身体に無理なく、遊び感覚に溢れた運動は長続きし、心身を健やかにします。

競争主義は、自他を共に幸福にしません。身体を壊すだけです。

わたしは57歳です。忙しいので生活の中にスポーツの要素を入れて過ごしています。階段はいつも二段で駆け上がり、人の荷物も全部持ち、子どもたちを頭上まで持ち上げて筋力トレーニング!(笑)。


武田康弘

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NHKスペシャル「権力の興亡」

2009-11-02 | 日記

昨晩に続き、夜10時からのNHKスペシャル「権力の興亡」②を見ました。

実に面白い!!

当時の映像と共に、いまの小沢一郎さんをはじめとする有力政治家の証言をふんだんに盛り込み、事の真相を明らかにする番組で、明日が最終回です。

長年にわたって、NHKに大きな影響力をもってきた自民党が下野した為か、のびのびと番組づくりができるようになったようです。

はじめて「公共放送」の役割を果たすようになってきたな、というのが私の感想です。

それにしても、映像は怖いものです。誰がいちばん説得力=実力があるのか、一目瞭然です。

明日の最終回が楽しみです。


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