見事な書、日本を元から救うための基本書と確信します。
共和主義研究なしには、現実的な政治問題あるいは教育問題の解決の方途は原理上ありえないはずと思います。
若い研究者が著者に続いてほしいと切に願います。
これを読まずして政治(家)はできません。日本の山積し過ぎている深く大きな問題解決には、正確に緻密に全体を俯瞰したこのような研究書は必読です。必読!
武田康弘
見事な書、日本を元から救うための基本書と確信します。
共和主義研究なしには、現実的な政治問題あるいは教育問題の解決の方途は原理上ありえないはずと思います。
若い研究者が著者に続いてほしいと切に願います。
これを読まずして政治(家)はできません。日本の山積し過ぎている深く大きな問題解決には、正確に緻密に全体を俯瞰したこのような研究書は必読です。必読!
武田康弘
14年前、2010年のblogです。10年前に再録しましたが、また、載せます。極めて大切だと思うからです。
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『靖国神社』とは、明治政府が、従来の日本の伝統を壊して新たに政府がつくった新宗教=天皇教の施設で、明治2年に「東京招魂社」として建てたものを、10年後になし崩しに「神社」と改名したのです。
東京招魂社(靖国神社)は、官軍=天皇側だけを祀る施設で、それまでの敵味方なく祀るという神道の思想を逆転させました。
なお、多くの戦争体験者が証言しているように、 「靖国で会おう!」などはヒドイ嘘であり、兵士はみな、故郷を夢み、先祖が眠る故郷の墓に入ったのです。当然ですが、靖国には誰の遺骨もありません。
靖国神社の思想と近代民主主義の思想とは二律背反です。
いうまでもなく、主権在民を原理とし自由と平等の理念を掲げた『日本国憲法』と、『靖国神社』の掲げる宗教イデオロギーは、まったく相いれません。靖国神社(明治政府がつくった国家神道)の思想を認めるならば、日本はもう一度、天皇主権の『大日本帝国憲法』時代に戻る他なくなります。
靖国神社は、
天皇大権を当然のこととし、明治以降の日本の戦争はすべて「聖」なるものと主張し、
韓国・中国への植民地支配はなかった!と主張し、
敵と味方を峻別し、天皇陛下のために斃れた者だけを祀ると主張し、
個人の信教の自由を否定して、兵士は日本の軍神=集合神だと主張します。
このような靖国神社の掲げるイデオロギーは、現代の日本国家をつくっている基本理念=近代民主主義の原理とは二律背反ですが、同時に、多神教の『神道』を天皇神格化により疑似的な一神教へと変えた明治政府の所業(神道の国家神道化)は「古き日本」の伝統とも大きく異なりますので、日本の悠久の歴史を主張する人々もまた「靖国思想」には反対しなければならないはずなのです。
明治政府は、富国強兵政策を進めるために、古来の「神道」を「国家神道」へと変えましたが、その思想の下では、一人ひとりのかけがえのなさは否定され、公(おおやけ)とは滅私奉公のことだとされたのです。このような国家主義=靖国思想に縛りつけられたままでは、兵士たちの霊は永久に浮かばれません。
彼らは、戦争のない平和な日本を夢見、差別のない、一人ひとりが大切にされる社会を夢見たはずです。天皇を神として崇め、それに従う人生をよしとしたのではありません。天皇の官吏(官僚)が治める自由のない日本をよしとしたのではありません。軍人が威張る日本をよしとしたのではありません。互いの自由を認め合い、皆でつくる平等なルール社会を夢見たはずです。
死してなお、靖国思想に縛りつけるのは、戦死者への冒涜でしかないのです。政府の絶対の責任として千鳥ヶ淵の拡張整備を行わなければなりません。
65年間、その義務を怠ってきた政府に対して、わたしは激しい公共的な怒りと憤りを感じています。
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以下は、『靖国神社』の遊就館で売られている宣伝パンフレットからの抜粋です。すさまじい内容です。
小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)の談・1999年8月
「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。
この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。
靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。
あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。
実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。
だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」(小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)
小学生の政治クラブ(文京区立誠之小学校5年6年)以来、60年間、憲法大改正=天皇制をやめて、日本共和国にすべし、と言い続けだが、いまだそういう政党さえない。恐ろしいほどイカレタ日本という幸福をつくらない国。超特権者を人権はく奪してつくり、その前に拝跪する。病気の国です。
武田康弘 哲学者(恋知する実存者)
天皇家の思想は、到底容認できるものではない。遺伝に女性は関係ない、男がすべてというイデオロギーを今日でも主張し実行するのは、ありえない話で、そういう存在が日本国と日本国民統合の象徴(憲法1条)とは、理性なしもいいところです。日本人は哀れ。(前のBLOGに書いた通り、女性を入れた家系図を書くことは、絶対に不可能です)
わたしのfbより。短文。
とっても汚くて悪臭のセーヌ川。4年前は、どぶ海の東京湾。人類の祭典にふさわしい汚染汚濁で、金銀銅(笑・怒)。
みなが金(かね)儲け、金が一番の欲望。金があればなんでも買える~~(笑)あなたはどうですか?
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本を覚えて得意で喋る人、学校科目の暗記で高得点をとり、頭がいいと思う人、特定パターンで固まる紋切人と情報人。
例外はあるが日本人はそういう人ばかりが目立つ。自分の頭で考えるとはどういうことかを知らない。そろそろ人間になりたいもの。
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僕は断じて屈服はできない、運命の喉元を握りつぶしてやる=ベートーヴェンの言葉は、深く真に見事だ。
死の覚悟?死への先駆?そんな程度ではほんとうのことは決してなしえない。運命までも絞め殺す、という気概と思想をもってこそ、内と外の変革は可能だ。
「ナーズムオラトリオ」 ファジル・サイ作曲 2001年初演(トルコ大統領も列席)クリックで飛びます。
「ナーズムオラトリオ」で、ナーズムヒクメットの詩を朗読したトルコを代表する演劇人=ジェンコ・エルカリさんがお亡くなりになりました。心より哀悼の意を捧げます。
ファジル・サイ作曲とピアノ 「ナーズムオラトリオ」は、世界を変える実存思想によるオラトリオです。広島の少女への深い思い。
ジェンコ・エルカリさんの棺をみなで盛大な拍手で送り出していました。
武田康弘