以下は、Aさんに宛てた今日の「白樺ML」に加筆し、一般化したものです。
Aさん、
パターンを身に付け、上位者に従って「慣習的に生きる」ようにつくられた形式主義の日本の教育・文化は、人間的自由を引き受けることで生まれる「エロースの生」とは対極にあるものです。
どのような職業であれ、日本というシステムの中で、目覚めて、自立の生の悦びを拓こうとするのは、厳しいことです。ほとんどの人は、途中で逃げます(笑)。でも、分かっているのに逃げると自己欺瞞に陥り、心の奥に巨大な穴が出来てしまうでしょう。それを塞(ふさ)ごうとすると、自分又は他人を否定する「ネクロフィリア人間」(静止し固定されたもの・死んだもの・厳しい規則・形式・権威・伝統・過去・・・を愛し、生きているものを愛せない人間)になってしまいます。ですから、Aさんの「休む」というのは、大変賢明な選択だと思います。
「白樺」のいう自由や自立の問題を、
社会的・公共的次元に焦点を合わせて語った〈四人による対談本〉(『自由は人間を幸福にするか』ポット出版刊)が数日前、竹田青嗣さんから著者謹呈本として送られてきましたが、「自由を前に進めることでしか現代社会の問題は解決しない」とする竹田さん(在日朝鮮人二世)の明晰な論理の前で、他の日本人学者は皆しり込みして、「全部賛成だが、やはり保守主義や伝統を見直し、それを若者に教えることも大事」!?(笑)という言い方になっていました。
わが日本国で、個人が個人としての悦びを深め広げ、自立した社会人として「相互承認のゲーム」を生きるのは、なかなかしんどいことのようですが、それは、環境が許さないという以上に、知らずに身に付けた・付けさせられた【自我】(集団の価値意識が深く内面化した様式としての自我)が、新たな広い世界(純粋意識の働きにより開ける広大な宇宙)を前にして、怯え、拒否反応を起こすからだと思います。
ここからどう羽ばたくか?それが可能なら、日本と日本人には大きな希望が開けるのですが、それが難しいのです。わたしが、哲学を「民知」としたのもそこに理由があるわけですが、ポイントは、力を抜くこと・心底は「フワー」としていること・他力を信じること・愉悦とエロースの生活を営むこと・ほどほどでいること・成果は期待せず、過程を面白がることです。「結果が全て」というマジメで固い人とは距離を置き、「アッケラカン」とわが道を楽しみつつ生きること。そうでなければ、よい生活も仕事もできないように思いますが・・・。
【学校も会社も疲れたらすぐ休もう!】ーこれは、だいぶ昔につくった標語です(笑)。
上手に怠けること、力を抜くことが、よい人生を拓く鍵だと思います。
「正解」ばかりでは人間はちっぽけな存在になり、悦びは開けません。何の面白みもない、したがって生きている意味のない「機械」にしかなれません。日本人が【即物的な価値】しか分からないのは、自分のロマンを育て、自分の生の悦びを広げられない形式が優先する【様式主義という思想】を植え付けられているからです。それを植えつける装置が、意味論・本質論のないただの「事実学」による試験知=受験知ですが、その上にさらに、安倍首相の進める保守主義・国家主義の「イデオロギー教育」が加わろうとしています。
武田康弘。