思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「腑に落ちる知」が開く「響存」としての世界

2007-05-30 | 恋知(哲学)

「納得する」というのは、「腑に落ちる」と同義です。腑とは臓腑の腑(内臓)のことですから、知ろうとすることが心身の奥深くにまで届いたという意味です。

心身全体による会得ーそれは、何にもまして嬉しく、悦ばしく、愉しいこと。その深い自己納得の知は、不動の自信をもたらします。それが恋知(哲学)における知ですが、そのように「知る」習慣を身につけた人は、外なる価値には動じません。内的充実を広げ深める「私」の地点から他者・世界にも関わるのです。

この「私」とは、狭い自我=エゴではなく、普段は外なる規範・価値によって抑圧されている「黙せるコギトー(自己意識)」のことですが、それは、純粋意識の働きにより、心身全体に告げ知らされるようにやってくる「心の声」です。

仮面を脱ぎ、赤裸々な「私」を見つめること、社会的役割意識に囚われず、虚心になること、「裸」になることで開ける「私」の宇宙です。私が存在する世界が「私」にどのように受容されているのか?自己への抑圧が消えた時に見える世界です。

この広々とした深い実存の世界が、「私」に大きな悦び・エロースをもたらします。そういう「私」が他の「私」と共鳴しあう世界を生きるのが【響存】としての社会です。

そうであれば、公共世界は、交響世界となり、「私」にとって真に意味あるものとなりますが、それを可能にする原理は、最初に書いたとおり、腑に落ちる知―心身全体による会得にあるのです。

武田康弘




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理論への依存は、反・哲学でしかない。

2007-05-26 | 恋知(哲学)

哲学するとは、水面下を見る作業で、従って、沈思です。
理論をつくることではありません。

「私」の感情を強めることや「私」の利益を追うことではありません。
「私」の意識を透明にすることで、「自我」の働きを弱め、「純粋意識」の働きを強めることです。
「私」の純粋意識が「私」の自我を相対化する営みです。

理論に頼らず、理論に囚われずに本質に向かって考えを進めることです。
沈思することで聞こえてくる「心の声」に従って、真っ直ぐに考えることです。

他者の思惑に左右されず、自分の信念に固執せずに沈思する営み、それが哲学です
哲学書を読み、従うことではありません。哲学書はただ使うものです。

生活世界の具体的経験から考え、イマジネーションの世界を自由に羽ばたかせることで告げ知らされる広大な世界を味わうことです。

そういう純粋意識の働きによる「人間の生や社会のありようの問題」への見方は、よき「革命」をもたらします。エロース豊かな生を生むのです。

人間の平等に反する制度を強要するような社会(例えば天皇制)と哲学とは本質的に背反します。

ソクラテスによる哲学者の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(「パイドロス」)。人間の最も高い魂とされるものです。

武田康弘



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疲れたらすぐ休もう!ーネクロフィリアに陥らずにエロースの生を拓くために。

2007-05-24 | メール・往復書簡

以下は、Aさんに宛てた今日の「白樺ML」に加筆し、一般化したものです。

Aさん、

パターンを身に付け、上位者に従って「慣習的に生きる」ようにつくられた形式主義の日本の教育・文化は、人間的自由を引き受けることで生まれる「エロースの生」とは対極にあるものです。

どのような職業であれ、日本というシステムの中で、目覚めて、自立の生の悦びを拓こうとするのは、厳しいことです。ほとんどの人は、途中で逃げます(笑)。でも、分かっているのに逃げると自己欺瞞に陥り、心の奥に巨大な穴が出来てしまうでしょう。それを塞(ふさ)ごうとすると、自分又は他人を否定する「ネクロフィリア人間」(静止し固定されたもの・死んだもの・厳しい規則・形式・権威・伝統・過去・・・を愛し、生きているものを愛せない人間)になってしまいます。ですから、Aさんの「休む」というのは、大変賢明な選択だと思います。

「白樺」のいう自由や自立の問題を、
社会的・公共的次元に焦点を合わせて語った〈四人による対談本〉(『自由は人間を幸福にするか』ポット出版刊)が数日前、竹田青嗣さんから著者謹呈本として送られてきましたが、「自由を前に進めることでしか現代社会の問題は解決しない」とする竹田さん(在日朝鮮人二世)の明晰な論理の前で、他の日本人学者は皆しり込みして、「全部賛成だが、やはり保守主義や伝統を見直し、それを若者に教えることも大事」!?(笑)という言い方になっていました。
わが日本国で、個人が個人としての悦びを深め広げ、自立した社会人として「相互承認のゲーム」を生きるのは、なかなかしんどいことのようですが、それは、環境が許さないという以上に、知らずに身に付けた・付けさせられた【自我】(集団の価値意識が深く内面化した様式としての自我)が、新たな広い世界(純粋意識の働きにより開ける広大な宇宙)を前にして、怯え、拒否反応を起こすからだと思います。
ここからどう羽ばたくか?それが可能なら、日本と日本人には大きな希望が開けるのですが、それが難しいのです。わたしが、哲学を「民知」としたのもそこに理由があるわけですが、ポイントは、力を抜くこと・心底は「フワー」としていること・他力を信じること・愉悦とエロースの生活を営むこと・ほどほどでいること・成果は期待せず、過程を面白がることです。「結果が全て」というマジメで固い人とは距離を置き、「アッケラカン」とわが道を楽しみつつ生きること。そうでなければ、よい生活も仕事もできないように思いますが・・・。

【学校も会社も疲れたらすぐ休もう!】ーこれは、だいぶ昔につくった標語です(笑)。
上手に怠けること、力を抜くことが、よい人生を拓く鍵だと思います。

「正解」ばかりでは人間はちっぽけな存在になり、悦びは開けません。何の面白みもない、したがって生きている意味のない「機械」にしかなれません。日本人が【即物的な価値】しか分からないのは、自分のロマンを育て、自分の生の悦びを広げられない形式が優先する【様式主義という思想】を植え付けられているからです。それを植えつける装置が、意味論・本質論のないただの「事実学」による試験知=受験知ですが、その上にさらに、安倍首相の進める保守主義・国家主義の「イデオロギー教育」が加わろうとしています。

武田康弘。






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【曖昧さ】の価値ー戦争から逃げるという知恵

2007-05-21 | 社会思想

万が一、自国が攻撃を受けた場合以外は、いかなる理由があろうと、決して戦争をしないようにするには、どうしたらいいか?
それを考えることに集中すべきであり、「世界の安全保障を」と考えることは、必ず悪い結果にしかなりません。これは近・現代の歴史がすでに証明済みの話です。

小泉政権後の日本政府の言動をみると、明らかに、アメリカとの軍事的一体化の道を突き進んでいますが、「世界の安全保障」という原理的に不可能な思想をもつアメリカ軍との一体化は、戦争やテロに巻き込まれる危険を増大させるだけの話であり、まったく日本の国益にはなりません。

不可能な理想を追うロマン主義に陥れば、政治はおしまいです。政治ではなく軍事が台頭するほかなくなります。現実を見据える厳しい目と思索の力が後退して、子どもじみた【戦争ごっこ思想】へと落ちていきます。ある理念やロマンを絶対化する悪しき純粋志向は、自他の【現実】を破壊してしまうのです。

これは個人間でも国家間でも同じです。違いや対立はあって当然ですが、それが破壊・戦争へと発展してしまうのは、【ロマン・理念主義】からです。理念やロマンは、「私」=個人のレベルで持ち、育てるものであり、他者に強要しようとすれば、おぞましい結果を招きます。とりわけ自我主義の極北である【集団的ロマン】の追求(例えば、戦前のわが国の八紘一宇・天皇現人神というロマン)は、そこに属する人々を、狂気の現実に投げ込んでしまいます。

自分の生き方の首尾一貫性は、充実した人生の条件ですが、他者との関係においては、よき【曖昧さ】が必要です。曖昧さを享受できなくては、豊かで実り多い関係にはなれません。話を戻しますが、戦後の歴代首相の多くは、このよき曖昧さを持っていました。それが日本の安全を支えていたのです。日米安全保障条約を維持しつつ、同時にアラブ諸国との関係も良好なものにし、また中国と国交を回復し(田中角栄)・・・という訳です。

少なくても外交においては、どちらかに振り過ぎないという知恵が必要であり、それが政治です。政治の力が弱まれば、軍事に頼る他なくなりますが、これほど【愚かで損】なことはありません。歴史をみれば分かりますが、軍事費の負担の重さで巨大国さえもみな沈んで行きました。集団的自衛権の行使を前提とした日米の軍事的な一体化は、底なしの負担を「嫌」とはいえない深い関係に堕ちていく道でしかありません。

バランスの知恵、戦争から上手に逃げるための知恵、戦わない知恵こそ「最高の英知」です。

武田康弘



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安倍晋三イデオロギーの致命的な欠陥

2007-05-19 | 教育

改定された「教育基本法」、及び、いま改定される予定の「学校教育法」の中心理念である「家族・郷土・国を愛する態度を養う」という思想は、哲学的には極めて稚拙(ちせつ)なものです。

「私」と「世界」が抜け落ちているからです。

「私」を愛する態度―「私」からの出発が抜け落ちた思想は、哲学的には、原理なき妄想という他ありません。「私」という土台・中心を持たなければ、家族も郷土も国もすべてその根付く場所を持たず、宙に浮きます。【「私」を大事にし、愛すること】、これは人間の生の原理であり、この原理を不明瞭にすれば、全ては「砂上の楼閣」に過ぎなくなります。「私」という中心をしっかり育てることがなければ、他者とのよき関係も築けない、人権という基本ルールさえわきまえられなくなる、これは言わずもがなの話です。

短編小説の最高峰―小説の神様と呼ばれた志賀直哉は、さすがに慧眼の持ち主でした。「私は、こどもたちに自分を大切にし、自分を愛することを教えよう。」と書いています。

また、「世界」への開かれた愛の態度がなければ、【自閉的精神=日本主義】に陥り、【家族主義・郷土主義・国家主義】へと転落するほかありません。この「主義」は、人間から幸福を奪い、個人から発するパワーを減衰させることで、社会全体をダメにしていきます。

「私」という哲学(人間の生)の原理がなく、開かれた「世界」への憧憬を持たない教育目標を掲げる国は、どう転んでも「よい国」「美しい国」にはなりません。タカ派・保守主義の安倍晋三という男を首相にしている国は、「愚かな国」「不幸な国」への道をひた走っています。彼は、16日の国会における「党首討論」の場でも、「家族・郷土・国を愛する態度を養う新・『教育基本法』によって、戦後レジームからの脱却を果たす」と声を張り上げていました。

「戦レジーム」の問題点が見えない「哲学なき愚かな想念」の持ち主・安部晋三は、国を再び未曾有の大災厄に投げこみかねません。私は、わが日本国民が、そうならない前に「目を覚ます」ことを願っています。

武田康弘



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マウンテンバイク開眼!!

2007-05-17 | 趣味

実は、一年前からほしいな、って思っていたのですが、ついに買いました。
というほど大げさなものではありませんが、ジャイアントの一番廉価なマウンテンバイクROCK4500を入手し、近くの自然林の中を走ってみました。
いや~、実に面白い!
倒れている木を乗り越え、落ち葉が堆積している柔らかい土の上を走り、凸凹道を上下し、丘を乗り越え、・・・・
かなりハードな運動ですが、陸上競技の運動とは違い体重を足にかけないので、無理な負担がなくていいです。
それに、これは上半身も大いに使うので、全身運動になり、気分爽快!!
筋力と運動神経の両方がうまくバランスした運動で、しかも瞬発力と持久力の双が鍛えられます。
面白くて、体力アップ!!
55才になった日に、マウンテンバイク開眼!です。

ジャイアントのバイクは、ここをクリック。
私は「ライフ」で買いました。







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今日5月14日は、【民知の会】の「設立記念会」から一年です。

2007-05-14 | 日記

昨年の【民知の会】(1987年に創設した「哲学研究会」の内容を改めることに伴う改称)の「設立記念会」からちょうど一年、ずいぶんいろいろなことをしてきましたが、今年は、豊かに果実が実りそうです。大事に収穫していきたいとおもいますので、「思索の日記」の読者のみなさんも、ぜひ、民知という恋知としての哲学(哲学の初心)を実践し、広めてください。共に!!

昨年の設立記念会の模様は、白樺教育館ホーム(クリック)にありますので、ぜひ、ご覧下さい。


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広く生活者として哲学することと、哲学の専門家になることの違い

2007-05-12 | 恋知(哲学)

哲学史内哲学を専門家として行うことと、生活世界で哲学することの違いはどこにあるのでしょうか?

たとえ話をしてみます。
私は運動が好きで、よくしています。健康であることは、日々を気持ちよく過ごす条件でしょうが、そのためには、筋力や柔軟性や運動神経を鍛えることが必要です。また、球技や水泳などを遊びとしてするのは、とても面白いですね。
でも、
何かのスポーツ競技の選手を目指したことはなかったですし、なりたいと思ったこともありません。体を動かすことが楽しく、遊びとしてする競技は面白いのですが、陸上や水泳の競技者や格闘家や野球選手・・・になりたくはありませんでした。運動が好きだとはいっても、職業として毎日そればかりやるのはウンザリです。

哲学するのも同じです。
もとに戻して「考える」ことにはとても大きなエロースがありますし、よく生きるー生活や社会の問題を解決し、充実した日々を生むためには欠かせない営みですが、
それを狭く専門家としてやるー哲学史内で哲学することには、少しも悦びを感じませんし、それを職業にしたくもありません。
ふつうの多くの人にとっても同じだと思います。自分の頭で考えることは楽しくとも、哲学史を詳細に勉強し、哲学書ばかり読んでいるような生活をしたくはないでしょう。

運動をすることの意味と価値は、スポーツ選手になることにあるのではなく、筋力や柔軟性や運動神経を養うことが、たのしく充実した生活を営む上で必要だからです。考えることー哲学することの意味と価値も同じです。それが生活にエロースをもたらすからです。哲学史に詳しくなるためではありません。

民知として哲学するとは、そういうことです。誰かに従ったり、崇めたりするという不健康は生き方ではなく、自分自身で考え、自分自身として行動するための必須アイテムが、専門知ではない「民知」としての哲学だ、言えるでしょう。
好きでスポーツ選手を目指す人がいるのはいいですが、スポーツ競技者が生活者として健康である訳ではありません。それと同じで、好きで哲学の専門家になる人がいるのはいいですが、それと「生活世界でよく考える」という営みとは直接は関係しません。

市民として哲学するとは、二流の哲学という意味ではなく、ほんらいの健全な考える営みをするということです。自他の生によろこびを広げ、心の自立をつくる哲学を、市民が拓く哲学=民知と呼んだらいいと思っています。

武田康弘


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安倍政府は、戦没者への責任放棄ー追悼施設はつくらない

2007-05-09 | 社会思想

満州事変に始まる15年戦争は、日本国政府が戦争を行ったにも関わらず、公立の戦没者追悼施設をつくらない、建設に向けた予算計上もしない、とい安倍首相は、首相として、戦没者に対して責任を果たす考えがない、ということです。

一宗教法人に過ぎない『靖国神社』(いまだに天皇主権国家であった日本を肯定し賛美する思想を盛んに宣伝しているーその主張の凄まじさは以前ブログで紹介しました)に兵隊の戦死者の追悼を任せているのは、政府の最高責任者としてあまりに不見識です。

極めて特異な日本主義の主張を続ける「靖国神社」は、明治政府によって1869年(明治2年)に「東京招魂社」としてつくられたもので、日本の伝統の神社とはその内容を大きく異にします。それは、明治政府が神道を「国家化」するためにつくった神社ならざる「神社」であり、敗戦と共に、その思想は否定されたわけです。もちろん、一宗教法人としての活動は今も自由ですが、民主制・市民社会の原理に反する政治思想を堂々と掲げる宗教を、政府要人が擁護するというのは、到底許されるものではないでしょう。

ふつうの多くの人が静かに戦争犠牲者を追悼することのできる施設を、一刻も早くつくらなければいけません。政府が起こした戦争の犠牲者を追悼する公立の施設がない、というようなことがあっていいはずがありません。すでに戦後60年がたっています。戦争を真に反省しているのならば、ひとりひとりのかけがいのない命を「お国のため」「天皇陛下のため」といって戦地に駆りだした(日本が攻められたのではなく、日本から外地に攻め込んだ戦争であったわけですから)政府の思想と行動の深い反省として、【全戦没者を追悼する施設をつくること】は、日本国政府の責任であり義務なのです。戦争という凄まじい国家行為に対する最低限の責務も果たさない政府とは、いったい何なのでしょうか?

私は、公共的怒りを覚えます。

武田康弘



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哲学の難しさとは、自我の殻を破ることの難しさ

2007-05-06 | 恋知(哲学)

心に感じられ、思われるところにつくこと、ありのままの素直な心を知るのは、ほんとうに難しいことです。
多くの場合、今の自分=自我を守ろうとする底意が働いて、どうしても言語・理論を先立ててしまうために、赤裸々な自身の心を知ることができません。

人間や社会の本質論次元において、何かいかにももっともらしい正論、一見明瞭で分かりやすい言説は、必ずひどく一面的です。事務的な話ではなく、人間のありようや生き方の問題について箇条書き的な明確さで表現することは、「言語」というものの特性上、ありえない話です。

哲学が難しいというのは、人間存在が多層的であることからくる宿命です。分かりやすくする努力は必要ですが、他の学問=「客観学」のように叙述することは、原理上不可能だといえます。

哲学は、主観性の知なのですが、主観を掘り進めるための最大の障害は、「自我」です。私がいう自我とは、【言語・理論によって武装された自分という意識】のことですが、この自我の鎧(よろい)を脱がないと、主観を掘る=純粋意識=考える作用が働きません。

「事象そのものへ」というのは、客観的な事実を、という意味ではなく、主観に感受される意識現象をそのまま知ろうということです。自覚せぬままに自我防衛の鎧を着ている己の意識を裸にする営みです。ありのままの心につく、というのは一見簡単そうですが、実はこの「幼子の心」を成人者が失わずに生きるというのは、ほんとうに難題です。哲学の難しさとは、「自我」の殻を破ることの難しさだといえるでしょう。

哲学は言葉ですが、言語に囚われている自我をその頚木(くびき)から解き放つように言葉を使うのです。「言語的思考」を越えるために言語を使うという逆説を生きる宿命を負っているのが哲学だと言えましょう。

こうあるべき、こうすべき、これでなくてはいけない、という「観念」や「型」を先立てるのではなく、心に感じられるままを掬い取るように知ろうという自然な態度が何よりも必要です。いかにも自然に見えるように演出する自然主義的は態度ではなく、柔らかくしなやかで自由な心が求められるのです。

意図的な自然性とは、最悪の自我主義ですが、これはわが日本人の多くが陥るひどい不幸だといえましょう。ほんとうに感じられるところにつくという練習は、相当な覚悟がないと出来ません。成人者が、自己欺瞞せずにありのままの心を知るのにはリスクが伴いますが、その営為は、何よりも豊かなエロースをもたらすもの。

言葉によって武装された自分からの脱却が「哲学する」ことのはじまりです。言い訳・観念・型ではなく、エロース豊かな世界を生み出す純粋意識の働きが紡(つむ)ぐ自在で自然な言葉と態度を目がけたい、私はそう思っています。

哲学することと理論で武装すること、率直な心と意識的な自然性とは、まったく別物です。

武田康弘



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自分を知るには?

2007-05-05 | 恋知(哲学)

自分ができないことを他人には要求する、
多くの人が無自覚にやっていることですが、
それでは物事が前に進みません。とても非生産的です。

他人を批判するのではなく、自分を反省することが哲学することの核心だと言われます。
【この世で一番やさしいことは何か?―他人を批判することだ。この世で一番難しいことは何か?-自分を知ることだ。】
とは、哲学の祖と言われるタレスの言葉ですが、自分の存在のありようを見つめることはほんとうに難しいものです。私も50を過ぎてようやく少しだけ可能になってきました。

自分を知るための条件は、自分がよいと思うことを、主体者になって、実際・現実にやってみることだと思います。制度内・システム内での言動を超えて、裸の一個人としてやってみることです。批評家ではなく、主体者として生きることには、素晴らしいエロースがあるのでとても「お得」です(笑)。

人の批評をする前に、自分なら何が?どのように?どれだけ出来るか?を考えて、実際にやってみる。そうすると、いかに一つのことを成すのが大変であるかが了解できて他者への優しさが生まれ、心の芯が強くなれるのではないでしょうか。

武田康弘





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他者地獄

2007-05-03 | 恋知(哲学)

他者が自分をどう見ているか?を気にしたとたん、「他者地獄」に落ちます。
自分の価値意識を明晰に自覚する作業を日々の生活の中に組み込むことで、他者の意識を通奏低音のように聴きつつ、自分から発するメロディーを奏でることができるのですが、それができて初めて他者とのハーモニーも可能になります。この順番は絶対的なもので、他者のメロディーを先立ててしまうと、精神的な病気に陥ります。ハーモニーを可能にするには、自分のメロディーをしっかり奏でることが条件です。
したがって、自分がどう見られているか?を、通奏低音のように聴くのは必要ですが、それをメロディーとして聴いてしまうと、自分で自分の首を絞めることになります。
なお、直接互いのメロディーを聴き合うことでハモれるのが友人、同志であるわけです。

自分の「欲望」を自覚し、それをしっかり語るという基本がないと、集団同調するだけで、けっして和する(ハモる)ことができません。わが日本人の多くが、残念ながら【閉じた固い自我と他者への同調】という不毛で不幸な生から抜けられないのは、自分のメロディーを豊かに奏でるというエロースの営みがないからです。

武田康弘

(以上は、昨晩のSさんの質問に応えた「白樺ML」に加筆したものです。)




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私の生の充実と社会問題ー批判的精神をもつことの素晴らしさ

2007-05-01 | 私の信条

これは、おかしい、
間違っているな~。
では、
どこがどのように問題で、
どうすればいいのか?
困った事態の原因をつきとめ、その解決のために努力する。
勉強し、話し合い、実践する。繰り返し、繰り返し。
しだいに意識は透明になっていく。自我の疼(うず)きは減り、純粋意識の働きが活発になる。
問題の所在が明瞭になり、有効な実践が可能になる。
そうすることで、自分自身の人生がひろがり、豊かになる。いままで見えなかったものが見えてくる。言えなかったことが言えるようになる。序列意識から解放され、精神は自由で悦びの多いものになる。いつのまにか大きく強くへこたれない「私」が出現する。

社会悪の根がどこにあるのか?が明晰に自覚でき、それと闘い、自他の幸福を広げる思想を鍛えることのできる人生は、実に素晴らしいものです。個人的な趣味の世界を追求するのと同時に、ひろく社会的な問題の改善に挑戦できるというのは、人間として最高の幸せでしょう。

歪んだ考え、狭い思想、つまらない想念への囚われ、人間性抑圧の愚劣な道徳に従う昆虫のような生き方、支配階級の策謀に騙される哀れな生・・・・・
他人の命令に従い、外的価値に縛られ、いつも心の真実を押し殺して生きる根源的な不幸から解き放たれ、自分自身としての人生を歩むこと。

それ以上のよい人生はないでしょう。囚われの少ない心で、自分の悦びを深めて生きること、そうして、そのように生きる人たちが「つながる」のは、何ものにもかえ難い素敵な出来事です。
そういえば、わが日本国憲法前文にも「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている・・」とありました。

武田康弘


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