★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人類学者が蛇に会う

2025-01-31 23:58:46 | 文学


「いや。若い者なんぞに二度とは見せないという、お前さんの注意は至極好い。蛇位はわたしだって掴まえる。毒のある蛇だと棒が一本いる。それで頸を押えて、項まで棒を転がして行って、頭の直ぐ根の処を掴むのです。これは俗に云う青大将だ。棒なんぞはいらない。わたしの荷物の置いてある処に、きのう岩魚を入れて貰った畚があります。あれをご苦労ながら持て来て下さい。」
 爺いさんは直ぐに畚を持って来た。
 己は蛇の尾をしっかり攫んで、ずるずると引き出して、ちゅうに吊るした。蛇は頭を持ち上げて自分の体を縄を綯ったように巻いたが、手までは届かない。己は蛇を畚に入れて蓋をした。
 丁度時計が十二時を打った。


――森鷗外「蛇」


いまどことなく人類学が流行っており、重要なのはわかるけど、人類学者ってなんか調査に行くとアナコンダに襲われたりするんですよね(むかしそういう映画あった)。

子どもの頃は、箪笥に青大将なんかが居たりして、お婆さまがつかまえて八沢川に放り投げていた。昔のひとなんか、みんな人類学者並みだったのである。

That place is far.

2025-01-30 18:21:38 | 文学


現実の人間や事実や感情と、創作された作品と、どちらがより深く人の心を捉えるであろうか。この答えは、両者の性質によって、また答者によって、さまざまであろうが、結論に飛べば、現実同様の或はそれ以上の迫力を持てと作品に要求されている。同じように、作品からじかに来る想念と同様の或はそれ以上の迫力を持つように、文学論に要求されている。このことは、純理的にはおかしい。だが真理でもある。おかしい真理が成立するところに、文学の生き物たる所以があるのであろうか。

――豊島与志雄「作家的感想」


最近のニュース、火事とか殺人事件とかフジ・ナカイとか、まったく不思議でもなんでもない事件ばかりで、結論がでてるのをいちいち大げさになぞりやがって「猿かに合戦」の方がよほど意外性がある。

お爺さんとお婆さんがなぜか桃太郎を手に入れて侵略者を育ててしまう意外性に比べれば、お爺さんたちが記者会見で10時間さらし者になるぐらい現実的すぎて眠くなってくる(夜だから)。抑も、フジのおじいさんたちかわいそうみたいな意見があるらしいが、じぶんがとしをとってきたせいか、あの程度はおじいさんたち」ではないと思う。おじいさんはもっと上だろが人生100年だぞ(棒読み)

テレビがエンタメでも報道でもなく、なんか動く下品なショーウインドーになっていたのはみんな感じてたことであろう。既に、とっくに映ってるのは人間ではなかった。リアルでも人間扱いされているはずがない。わたしの周りだけかも知れないが、フジテレビの女性のアナウンサーが実際はアナウンサーじゃねえなみたいな蔑視にあっていたことは明らかだったが、――次第にそれはもはやフジだけじゃねえぞみたいな状況になったときに、逆に本丸においても、倫理が更に緩んでもっと劣化した、女子アナじゃなくて「ただの女子」だろうあいつらはみたいな扱いが加速した可能性はあるとおもう。

いっそのこと、全てが明らかになるまで三年ぐらい記者会でも何でもやってくれていい。それのほうが人間らしい。誰が明らかにするのか知らないが。こういう掟で動いてきたような業界をどう扱うのか、マスコミや芸能界はちゃんと学ぶべき、――というかまずは「勉強」すべきで、むやみに謝罪会見と鴻海リンチばかりしているのも、それ掟みたいなものである。人民裁判ですらない。記者会見中の質問で、渦中であるところのフジの社会部が、自分たちは厳しく社会不正を追及してきました、みたいなこといってたので笑ってしまったが、だからといって、マスコミ以上の取材力と頭脳がSNSにたくさんあるはずがなく、フジはつぶれてかまわんが、そのあとどうするのだ。

組織をぶっこわすのは簡単だが、造って動かすのは大変だ。コンプラ道徳はおしえても、そういうことを教えられなくなった社会は悲惨である。

たとえば、キュビスム運動を代表する最大の詩人アポリネールは、その詩のなかで繰り返し未来に言及している。
  私の若さが倒れたところに
  あなたは未来の炎を見る
  あなたは知っているはずだ
  私が今日、全世界に
  予言術がついに生まれたと伝えることを
二〇世紀初めのヨーロッパに収束したこれらの発展は、時間の意味も空間の意味も変えた。それらすべての発展が、さまざまな形で(冷酷な場合もあれば希望に満ちた場合もあった)、直接性からの解放、不在と存在との厳密な区別からの解放をもたらした。(伝統的な表現を借りれば)「遠隔作用」の問題に取り組んでいたファラデーが最初に提示した場の概念が、一般に認知されることもないまま、あらゆる計画や計算のなかに、あるいはさまざまな感覚のなかに入り込んだ。こうして人間の力や知識が、時空間を超えて驚異的に拡張された。その結果、全体としての世界が初めて抽象概念ではなくなり、現実のものになった。


――ジョン・バージャー「キュビズムの瞬間」(山田美明訳)


キュビズムの時代から一般化したその遠隔作用が予言や魔法でないような空間は、現実の謝罪会見の空間を侵すことはできない。おそらくは、マスコミや芸能に関わる人間たちは、蜻蛉のような作用の飛翔に飽き、直接性に惹かれている。彼らが娑婆の人間でなくなるのは、彼らが単に共同性のあり方として掟に縛られたヤクザだからというわけではない。キュビズムは20年も経たずに恐怖の空間に取って代わられた、それとおなじことが人の内面でも起こるのである。

「逆に」の無効性

2025-01-29 23:19:14 | 文学


 吉田と会見した後の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧いて来る事があった。凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕の事実を手繰り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自のうちには必ず帽子を披らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えているくせに、何故自分の有っていたその頃の心が思い出せないのだろう」


――「道草」


悪いところじゃなくて良いところをみようというのが、多様性容認のロジックとして広範につかわれているわけだが、はっきりと排除の思想である。「悪いところ」はみずに自分の良いと思うところだけを見ましょう、なのだから。排除だけじゃなくナルシシズムも入っている。道徳と認識論は異なる。前者は、悪いと思ったことを否認して良いことに視野を絞れ、みたいな問題ではない。むしろ、われわれがみずからの認識をコントロールできない差別馬鹿であることを前提に、手前如きに言う資格はない、とか、悪口ばかりいいおって手前は性格最悪だ、とかいうゾルレンを存在させられるかという問題である。前者と後者は屡々混同されるが、最悪である。おそらく、我が国で司法がまともにはたらかないわけだ。

初等教育ではわりと常識だったはずだが、――教員が何を価値づけたかではなく、何を言ったかが重要である。自己肯定感とやらを守りつつ教育しようとして、失態に対して逆に褒めるところからはじめても、その「逆に」は効力がなく、なにを抽出されたが価値づけられてしまうからである。所詮、何かを無視して銭をためたプチブルジョアの特徴ではあるのだが。

むかしのプロレタリア文学が、労働者のレッテルを必死に労働者たちに貼り付けていたのは、いまもうそうだけど、労働者の意識が気味悪いほどクソプチブル的だったりするからである。そこはわかるわ、最近研究者たちもそうなってきてるから。

カフカの現実

2025-01-28 23:52:01 | 文学


石神豊氏の論文を三本一気に読みくだす。わからないことがどんどんふえてゆく。逆に学生のレジメがあまりに明晰なので躊躇うこともあるが、今日は、モーリス・ブランショの「カフカ論」がとつぜん引用されていたし、よいことにするか。。。

わたくしもポストモダン系の文化のなかでそだったせいなのか、複雑な明晰さを目指す癖があるが、それにしても40年ぐらいたってコロニアルだか何やらの知恵をつけて更なる天井に飛び上がった――蓮★系というか、そういうひとたちが何がイヤて、人をほめるときのセンスがいやである。大げさで自分を同時に揚げるしぐさが詐欺師らしくおもわれる。まあなんだろう、結局、これは学閥というものであろうか。

私は、今日、私史上初、上野千鶴子について講義した。そろそろこの分野についてもモノを書くべきかと思っているからである。

『聲℃said』 8号 を読んでいると、さすがにアカデミズムのなかの動向について反省復習ばかりするのがばからしくなってくるが、わたくしが目指しているモンテーニュだって、あまり自分の属している世界から逃避しているとはおもわないのであろう。むしろ城を守るタイプがはじめて自分を描くことができる。カフカの問題にしていたのは、我々が現実への解釈を自由な連想へ繋げがちである事への批判であったようにおもう。現実には解釈(内省)をいれる余地がない。疑問を解こうとすることしか出来ないが、それを現実だと納得できることはない。

あなた(大江健三郞)の「性的人間」でいちばん感動したのは最後のところで、[…]もっとも危険な破滅的な痴漢的行為をする。あれがとてもいいし、そこらのどんなサラリーマンの心の底にもひそんでいる人間の真実だと思う。

――三島由紀夫「現代作家はかく考える」


三島はこういうことを「人間の真実」と言ってしまう。カフカは毒虫を人間の真実だとは言わなかった。三島の書くこととやることはいつも解釈の自由へスライドしようとしていた。

パンドラの収容所にて

2025-01-26 23:59:37 | 文学


献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々と説いている。聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」


――「パンドラの匣」


新婚当初住んでいた古い一軒家の狭い裏庭が、「伸びてゆく方向に陽が当たる」状態だったのか知らないけれども、とにかく雑草だらけになって、洗濯物をそのうえに干すのが気分悪くなってきたので、除草剤をまいてよし枯れたぜと喜び合っていたところ、次の春になんか兇悪なとげとげの草が大繁殖して、その上に洗濯物をほすなど、まるでカンダタの気分であるという事態に至ったことがあるが、――思うに、社会というのもそういうところがあるのではないだろうか。気分が悪いからといってそれを排除するともっと強いヤバイ奴がくるという。

横光利一のなにかの小説では、なんか嫌な予感がするだけでなく病気が治らないので、引っ越したいみたいな話があったようなきがする。これなんかまだ「ぼんやりとした不安」みたいなものであった。しかし、このあと、国家自体が新しい家としての病棟と化したのはみなの言うとおりで、上の小説なんかはそれを描いたものである。いまどきの医者なんかは、戦時下の健康政策が優生思想そのものであって、ファシズムの歯車だったことぐらい習っているのであろうか。ファシズムは排除の思想をとるより前に、お前の代わりはいないから死ぬまで働け、という思想である。それは、医学の発達や生物学の進展の必然性でもあったわけだから、悪意の帰結というより学的良心の帰結であったと自覚すべきである。

よく越境的な知とか言うアカデミシャンがいるが、普通のお仕事の世界では、他人の仕事の領域にむやみに上がり込んだら殴られる。炊飯ジャーの進歩は凄いが、これに小説家が文句を言えた義理ではないのは当たり前だ。しかしこれが許される気がするのが「学問」で、医学なんかはセフティーネットを超えて生活倫理となりたがる。これを真似たのが人文科学と称する文学で、教科書に採択され精神の薬となって我々を縛っている。最近は、知のプライドと忙しさによる品性の劣化によって、復讐にも似た感情で生活の支配を狙っている二者であるが、コロナ騒動で完全に前者に軍配があがった。が、あいかわらず世間の奴隷に転落した点は両者引き分けといったところだ。

健康が善とかいう考え方と、個人に最適な生き方を探すみたいな考え方が両立するわけがない。

体の状態をはかる様々な数値を、勉強の成績に喩える医者とかいまは実際におり、こういうのは、体力測定で勝ったとか言って虚弱児をいじめている幼児と同レベルであるが、屡々、我々はそういうことをやってしまう。国家レベルでそれが政策になると、この前の戦争の時みたいになる。

小さい頃、病院ばっかり行ってたし、小児科の看護婦さんたちから年賀状をもらってうれしかったからよくかわらんかったが、――あるいはいまは違ってしまったのかもしれないが、病院が妙に工場みたいになっていると聞いている。ほんと陳腐な意見だけど、学校だけじゃなかったというわけだ。

そういえば、トランプは最高齢の大統領で、前任者と同様歳とっているにもかかわらず、死ぬまで働くみたいな頑強さを備えているように見える。これは以上のような意味で、非常に象徴的である。

階級闘争の時代――貞子3Dと袴を着けたシェーンベルク

2025-01-26 01:16:03 | 思想


 在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。
 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方と徒弟職人、一言にすれば壓伏者と被壓伏者とが、古來常に相對立して、或ひは公然の、或ひは隱然の鬪爭を繼續してゐた。そしてその鬪爭はいつでも、社會全體の革命的改造に終るか、或ひは交戰せる兩階級の共仆れに終るのであつた。
 上古の諸時代にあつては、殆んど到る處に、社會を種々な等級に分けた複雜な排列法、社會的地位の種々雜多な區分が行はれてゐるのを見る。すなはちローマの古代には、貴族、騎士、平民、奴隷があり、中世には、領主、家來、親方、徒弟、農奴がある。そしてなほその諸階級の殆んどすべてに、またそれぞれの小區分がある。
 封建社會の滅亡から發生した近世のブルジョア社會も、階級對立を除去してはゐない。ただ新しい階級をつくり、新しい壓伏條件をつくり、新しい鬪爭形式をつくつて、昔のに代へただけである。
 けれども、我々の時代、すなはちブルジョアの時代は、この階級對立を單純化したといふ特徴をもつてゐる。全社會は次第々々に、相敵視する二大陣營、直接相互に對立する二大階級に分裂しつつある。すなはちブルジョアとプロレタリヤである。


――「共産党宣言」(堺・幸徳訳)


いまの事態を、米帝がРоссійская Имперія化して、ついに全世界的に「帝国主義戦争をせんでも社会主義革命」の段階に到達したとレーニンなら喜ぶであろうか?ともかく、日本での安倍や麻生に対する相反する運動をみてみても、そこにネットや学歴やらが絡んだ階級闘争だったのはあきらかであって、トランプ現象の場合もそうであるにちがいない。叛乱を起こすのは、感情的な意味での奴隷たちであって、正義を持つものとは限らない。マルクスがいうように、ブルジョアジー的な、ようするに、文化的空間に閉じ込められた人間が多い空間では、対立は、言葉の性質に随って、二大対立物の激突となる。

いま、医学界とか教育界は、ブルジョア的心情の元に奴隷と化しているから、従業員たちは基本的に叛乱モードである。そういえば、安部公房や手塚治虫が医学出身ということで、医学業界が正気を保っていた側面は、ユープケッチャの一歩ぐらいは存在しているに違いないし、漱石が学校の先生であったことが、先生たちを支えていたところがあるのだ。それがなくなったら、ただの闘争集団である。

マルクスの共産主義者宣言というの、われわれはずっと階級闘争ばっかしてきているんだとは言っていても、正義は勝つとは言ってねえと思うんだが、学生に読ませると、いまは情報通信がすごいから正義の階級闘争は起きないとか、情報通信の発達に拒否反応のある旧世代に階級闘争を仕掛けてくる。そういえば、「リング」の続編は様々につくられていて、このまえ、石原さとみさんがでている「貞子3D」をみたけど、貞子はざらざらのビデオテープじゃなくて、パソコンやスマホから3Dででる、むしろ鮮明にでてくると主張していて、まさに、スマホ世代の階級闘争をみたね。

そういえば、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』がでたときに、なるほど、ポストモダンな知識人に対する動物みたいなオタクさんたちの階級闘争が始まったと言っているんだな、と思ったが、怒られそうなのでだまっていた。東氏自身が、その闘争をみずからに感じており、案の定、どちら側からも批判されることになってしまった。わたくしはずるかったから問題を超克するんだという態度だったが、それこそ、「近代の超克」みたいな逃避に他ならなかった。

さきほど、石桁真礼生の「卒塔婆小町」(三島由紀夫)が「クラシックの迷宮」でやってたが、はたして、三島がこういうものを望んでいたのかはわからない。たぶん違ったような気がする。石桁真礼生の交響曲って、中学生だかのむかし聞いたんだが、袴をつけたシェーンベルクみたいだなとおもった。

主体性の時代

2025-01-23 23:43:33 | 文学


キチガイもはいれる
アンポンタンもはいれる
オンナもはいれる
シスター・ボーイもはいれる
ケイカンもはいれる
ゴロツキもはいれる
ヨクバリの穴
政治の穴
革マルの穴
民青の穴
無関心の穴
教授の穴
伝統ある早稲田大学総長は
諸君の不満と断固たたかう
バリケードをつくれ!


何周まわってかわからないが、関根弘の上の「新入生歓迎偽総長告示」なんかがおもしろくなってきた。関根のいいところは、新入生みたいなものでも職業みたいにとらえているところかもしれない。真の差別的労働者インテリだ。

蔑視がなぜ怖ろしいかというと、蔑視された方が自分の経験を汚点として経験し直すからである。たしか、横山百合子さんの『江戸東京の明治維新』にそんなことが書いてあった。その点、藤村の「破戒」の丑松なんかまだそのスティグマとしての経験からの脱却を志向してるとは言える。急に物事は進まない。藤村を超克しようとした中上健次なんか、高度成長に煽られたのか、急ぎすぎた。火曜日に、江藤淳の『作家は行動する』を授業中に音読してて、やっと彼の言っていることがわかる気がした。これは案外、声に出して読みたい的な、行動する文体なのである。行動とはやってくる特急列車に呆然とする横光利一とは違い、自らのスピードである。中上は、この延長線上にあった。

ストコフスキーの指揮するショスターコビチの「レニングラード交響曲」を聴いているとまるで映画音楽のような抑揚の付け方だが、彼は映画音楽の作曲家だから、案外こういう感じの曲なのかもしれない。それは音楽の主体的スピードではなく、人びとが観る映像主体のスピードに似た音楽なのである。ショスタコーヴィチは明らかに、労働者=職業人としての音楽家だったとおもわれる。

これにくらべると、トランプなんかは、ビジネスマンというより、ある種の通俗哲学の実現――主体的な学び・思考、みたいなものの権化である。思考から彼の言葉は放射されている。「考えること」が、きちんと丁寧に書いたり、物事を現実的に計画したりすることよりも、なにか高度なことだと思っている、これ頭がわるいというより、タチが悪い考えと言ってよい。これはコモンセンスに属するものだったはずだが、それをはずれると「主体的な学び」みたいな感じになる。

こういう主体性が跋扈しはじめると、我々はつい、自暴自棄になり、我々は生きてると悪いことするから、もう死んでいる人がおれたちよりもどんどんよい人になっていくよどこまでも――などおもいはじめて、過去に遡り始める。もっとも過去にはこれまた悪い事例が英雄面して存在している。我々は、ポストモダンの相対主義を否定して、言葉の奥深く歴史の潜るのだが、勢い、現実の「主体」的軽薄さの馬鹿よりも真面目になる。そして、この真面目さも案外、精神の自由を失わせる。このことは、八十年前ぐらいに経験済みである。

真面目にならざるえないのは疲れてもいるからだ。今更気付いたのだが「お前の代わりはいくらでもいる」の時代はおわっていて「お前の代わりがいない(死んでも、いや死なずに)働け」の時代になっている。しかも、これを言っているのが、教師や医者たちである。こういう表現ですら、今の時代の、なにかの代替物なのだ。言語は代替物だから、それへの我々の執着を利用して、三木清や花田などがよい理念への修辞への解放を唱えたりするわけだが、彼らは自らの良心を前提にしすぎた。レトリックの邪悪な社交性は軽視しない方が良い、当事者主義の時代には、修辞はたいがいマウンティングの道具として使用されている。確かにそういう例も少なくないようだ。

Kitschの周辺

2025-01-22 23:15:20 | 文学


然しながら、無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することが出来ない。存在しない芸術などが有る筈はないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽した豪奢、俗悪なるものの極点に於て開花を見ようとすることも亦自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとして尚俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取柄だ。


――坂口安吾「日本文化私観」


私はむしろ「魯鈍」とかつい言ってしまうから太宰治に近いのだ。安吾の選んだ「俗悪」は独特だ。むろん、彼らには別の俗悪(Kitsch)の問題が目の前にあった。フリードレンダーが言うように、この俗悪さに立ち向かおうとする芸術は、ついその俗悪さに感染して、自分の刀が紋切り型に変わっていることに気付く。花田★輝は、その紋切り型がつい変形してゆく可能性を探っていたわけだが、そんな変形が都合良く起こるのか?と誰でも思っていた。戦争の時間だけはその変形を実現するかにみえる。それは錯覚である。

今日、野間宏をゼミで読んでいて、こいつ、「暗黒」のなんとやらの加速主義者みたいだという結論に達した。野間宏を笑えるほど評価してみたいものだ。

「飼育」とか「芽」とか目にしただけで大江健三郎をおもいうかべる私は、大江に恋をしているのではないだろうか。これにくらべると、野間宏とか三島に関係する文字を見ても何も浮かばない。彼らは、俗悪さをすぐさま普遍的ななにかに結びつけすぎているのではないだろうか。

世の中、悲しいことばかりである。

つい、ラーメンライスとか食べながら悪友と現代小説を片っ端から貶す青春時代に戻りたい、とおもったら、そんな過去はなかった。リベラルな学者達が一生懸命「想起」しようとした戦争の時代とはいったい何であろうか。勝手に戻ってきてしまうものであるから、想起するまでもなかったのかもしれない。一方で、勝手に想起されるものもある。野間宏の小説なんか、安部公房以上に、白昼夢で想起したことばかり書いている。わたくしが庭の蛙を好きなのは、きわめて個人的な事件に関係していると十一時頃気付いた。

101人貞子大行進を希望

2025-01-21 23:05:28 | 文学


それは厚い唇をもった口であった。そしてその口が皿の上で濡れて赤く輝いている。とその男の口が、彼が戦場でなぐり殺した豚のあのつき出た口に変った。そして彼の体のどこか片隅から、いやな堪えがたい感情があつい熱を伴って上ってきた。『ああ、いやだ。』と彼は自分で自分のその心を打消しながら、足を進めた。『豚だ豚だ。』と彼の身体の深いところから湧き上ってくる熱の塊りのようなものが、彼の内で叫びつづけた。彼の頭の中で、豚の唇が、ねちゃねちゃと動きつづけた。リンガエン湾で、俺の水筒の水を奪い取りやがったあの五年兵の松沢上等兵の野郎。


――野間宏「顔の中の赤い月」


試験業務のあと、あまりに疲れすぎていたためか、『リング』と『らせん』を続けて観てしまったことをここに告白します。それにしても、「ホラー」とは何なのであろう。最近のこの分野の研究をちゃんとおってないのでなんともいえないが、わたくしの内省に因れば、弱さを強さに変換することと関係がある。『リング』の最後なんかの、松嶋菜々子が自分の息子を守るために、父親を殺しに行く場面がそれである。

野間宏の主人公が、女性の顔の中に、自分のトラウマを見出し、戦場に帰っていくのは、戦後が、弱さを強さに強いる情況がないからだ。戦場では、弱さを打ち消すために強さが必要だった。そこに回帰することで彼は自分の虚無から遁れようとするのだが、無理である。辛うじて、女性との透明な壁を幻視することで、緊張感を保とうとする。

我々は、むしろ、疲れているときに、――例えば、芦川和樹『犬、犬状のヨーグルトか机』を共通テスト明けに弱った脳に流し込む必要がある。

貞子は、テレビの画面から何回も出てきて、松島菜々子ががんばって殺人を決意するまでもなく、「強者」となった。この調子でいけば、世界の悪人だけを呪いころすことも可能であるような気がする。我々の社会は結局、野間宏や芦川のような闘いしか出来ない。最後は、貞子が跳梁するように、――毒をもって毒を制すほかはないのだ。むかしの人はいいこと言った。

面接・分析

2025-01-20 23:14:11 | 文学


一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
 家庭である。
 家庭のエゴイズムである。
 それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。


――太宰治「如是我聞」


別に太宰は文壇の大家とやらの面接試験を受けたわけではないし、ここでの面接はそういう試験のものではないが、面接というものの不愉快さを摘出している。そこでは、面接官は「自信の強さ」にあふれ、そこには「家庭」という神がいる。むろん「家庭」はいろんなものに置き換わるが、血のつながりはもちろん、そうれがなくても同質性をどことなくやりとりする(食事するなど)ことになる。ニーチェはどこかで、青少年を堕落させるためには、同質性のなかに放り込むだけで良い、と言っていた。――つまり、基本、面接というのは、あからさまな思考の強制でありパワハラ的なんであって、むかし、入学試験の面接が思想調査に使われて禁止されたこともあったけどいまは大丈夫、と言ってしまうひとはあまりに自分を善人だと思い込んでいるであろう。

コミュニケーション能力を判定するつもりで、結局はニコニコ能力判定みたいになってしまうような社会で、受験勉強をやめて本質的ななにものかをやろうとするのは無理だ。練られたペーパーテストをやったほうがまだましという事態が理解できた社会は、結局我々が本質的にバカだという現実を理解できたのである。結局、そういう総合判断ではなく、AだけどBはすごいみたいな一見分析的な思考は思い上がりしか生まない。それが、偏った判定を良きことと思い込む錯覚を壮大に生んでいる。

そういえば、我々の業界もどこかしら分析的に錯覚することばかり覚えている。私自身は、共通テストの「情報」はいらんという人にしか会ったことがないが、――それにしても、われわれの業界でも「情報」という概念を使ってものを書いてきた人びとはちょいと反省したほうがよい。

分析的な視点は、大概視野の狭さから来ていることが多い。少なくとも私の場合はそうだった。ディビット・リンチはほんとはちゃんといろいろ観たことないんだが、それが幸いすることもある。あまり一所懸命にみていると、「ツインピークス」とか普通に「神秘的半獣主義」みたいなものとしかおもえないことをつい忘れてしまうのである。

もっとも、わたくしもどこかしら自分を善人だと思い込んでいる。そういうものの目には、いろいろなものが歴史的必然に見えてくるものだ。演習の冒頭で、批評史の講義をやってると、小説史を語るときよりも、作品の内容と歴史的役割が解離しているような気になってくるが、それ自体がなにか認識のゆがみなのかもしれない。我々が持つ「理屈」って何だろうと思わざるを得ない。

「事件は現場で起きている」言説

2025-01-19 23:39:42 | 大学


受験生の夜明け

野戦病院の寝台の上で蘇生をしたイワノウィッチは、激しい熱病から覚めた人間のように、清霊な、静かな心持を持っていた。
 彼には、なんらの悔恨もなかった。なんらの興奮もなかった。彼が歓楽の瞬間も、罪悪の瞬間も、戦線で奮闘した瞬間も、すべてがなんの感情も伴わずに、単なる事実として思い出された。もうすべてが、今からいかんともしがたい、前世の出来事のように思い出された。彼は、そのすべてが許され、そのすべてが是認されたようなのびのびした心持であった。煉獄を通ってきた後の朗かな心持であった。
 時々、人を殺したということが、彼の心を翳らそうとすることがあった。が、そんな時、彼は幾十万の人間が豚のごとく殺される時、そのうちの一人や二人が何かほかの動機から殺されても、何もそう大したことではないように思われた。恐らく、目の前であまり多くの人が殺し殺されるのを見たので、人殺しに対するイワノウィッチの感覚は、鈍ったのかも知れない。しかも彼自身、機関銃を操って、他の多くの人間を殺していたのである。


――菊池寛「勲章を貰う話」


「事件は現場で起きてんだ」という俗情に媚びたセリフがあった映画があった。なぜこれがだめかというと、たしかに机上の空論で遊ばざるを得ない上の方の方々の言うこともおかしいが、おかしい意味での純粋性はあるのに対して、「現場」の戦場性というのは、倫理のめちゃくちゃなひどいことが評価されたり、現場を支えた人間が生け贄にされたりといった、魯鈍な煩雑性が生起するものであるからだ。それを「事件が起きてんだ」と言い張る奴はたいがい、実際は真の事件をみていない。