★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「事件は現場で起きている」言説

2025-01-19 23:39:42 | 大学


受験生の夜明け

野戦病院の寝台の上で蘇生をしたイワノウィッチは、激しい熱病から覚めた人間のように、清霊な、静かな心持を持っていた。
 彼には、なんらの悔恨もなかった。なんらの興奮もなかった。彼が歓楽の瞬間も、罪悪の瞬間も、戦線で奮闘した瞬間も、すべてがなんの感情も伴わずに、単なる事実として思い出された。もうすべてが、今からいかんともしがたい、前世の出来事のように思い出された。彼は、そのすべてが許され、そのすべてが是認されたようなのびのびした心持であった。煉獄を通ってきた後の朗かな心持であった。
 時々、人を殺したということが、彼の心を翳らそうとすることがあった。が、そんな時、彼は幾十万の人間が豚のごとく殺される時、そのうちの一人や二人が何かほかの動機から殺されても、何もそう大したことではないように思われた。恐らく、目の前であまり多くの人が殺し殺されるのを見たので、人殺しに対するイワノウィッチの感覚は、鈍ったのかも知れない。しかも彼自身、機関銃を操って、他の多くの人間を殺していたのである。


――菊池寛「勲章を貰う話」


「事件は現場で起きてんだ」という俗情に媚びたセリフがあった映画があった。なぜこれがだめかというと、たしかに机上の空論で遊ばざるを得ない上の方の方々の言うこともおかしいが、おかしい意味での純粋性はあるのに対して、「現場」の戦場性というのは、倫理のめちゃくちゃなひどいことが評価されたり、現場を支えた人間が生け贄にされたりといった、魯鈍な煩雑性が生起するものであるからだ。それを「事件が起きてんだ」と言い張る奴はたいがい、実際は真の事件をみていない。

読書コスパ論と骨

2025-01-17 23:20:46 | 思想


私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があると同様である。骨のないような思想家の書は読むに足らない。顔真卿の書を学ぶといっても、字を形を真似するのではない。極最近でも、私はライプニッツの中に含まれていた大切なものを理解していなかったように思う。何十年前に一度ライプニッツを受用し得たと思っていたにもかかわらず。

――西田幾多郎「読書」


上の阪本一郎の『読書指導』(昭25)なんかをみてみると、「読書興味の発達段階」とかいって、おとぎ話は六歳で卒業、少年文学や友情物語は十三歳で、冒険探偵ものは十五歳で卒業しあとは思想・純文学・通俗文学に、十九歳で宗教にめざめることになっている。現代人はこれを笑うだろうが、ある意味、コスパの強制であって、これが、自由にささっと読むのがコスパがよいことになっただけだ。

ひとは、西田幾多郎の言う「骨」をいつ看取して読みはじめるのか?西田はおそらく、その骨を使えるようになる感覚がはじめからなんとなくあるのではないかと考えたんじゃないだろうか。

例えば、先日亡くなったディヴィット・リンチなんか、骨のありそうな作家だとみんな気がつく。だから、ルッキズムや差別やアメリカニズムやベイガニズムに気に取られることがない。なにしろ、かれは死んでも関係がなく骨が残ると信じていた。リンチはたぶんコンセントからでてくる(死の部屋から帰ってきた「ツイン・ピークス」のFBI捜査官のように)から大丈夫だろう。死んだけど生きてるタイプである。――とみなに信じこませた。「ツイン・ピークス」でも、第一話でいきなり主役?の美女が死んでるにかかわらず、その女優使って従姉妹か何かをだしてきてもう一回殺している。でもまたなんとかロッジみたいなところで生きてるみたいなことにして、生と死をつなげて永久機関みたいにしているわけだ。すばらしいアイデアで、人は死んでも演じてた人を出せば生き返ることになり、つまり、自分を演じている人をつくっておけばよろしい。また逆に演じたら演じている人がいなくても生き返る可能性がある訳である。

ウィキペディアを信じると、彼が死んだ説明がもうフィクションじみている。八歳からたばこ吸ってたとか、例の火事の避難先の家でなくなったとか、死んだ日が2説あるとか。。

そこに我々は、フィクションの仕組みとか死生観をみるが、たぶん「骨」のせいである。しかし、あまりにそれを言いすぎると小林秀雄みたいになってしまいそうであるが。。。

足跡と手書き

2025-01-16 23:36:02 | 文学


家へ入ると、通し庭の壁側に据ゑた小形の竈の前に小さく蹲んで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、
『帰つたか。お腹が減つたつたべアな?』
と、強ひて作つた様な笑顔を見せた。今が今まで我家の将来でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。


――石川啄木「足跡」


ワープロで文章を書いた初めてのものが卒業論文だった気がするが、そのときついた悪癖はなかなかぬけない。正直なところ最近、大学の教師として、卒業論文ぐらいまでは手書きで書いた方がよい気がしてきた。コピペ、散漫な思考、誤字脱字、締め切り直前まで何もせんなどの問題は、ワープロ執筆をやめてある程度は解決する。

もうさんざ言われているだろうけど、安部公房の手書き時代とワープロ時代というのは、気のせいか、文体もパッションも違う。衰えや体調のせいもあるだろうが、それだけとは思えない。「箱男」なんて、どこかしら手書き特有の紙片感がある。箱男は、箱の中でワープロを打たない。箱男は石川啄木とおなじく、人間の足跡をたどるように、言葉を書き付けるのである。

見れば分かる事態

2025-01-15 23:50:34 | 思想


学問への郷愁に似たものが、いつも私の心の片隅にくすぶっているのだ。「私の好きなもの」というある雑誌のアンケートに中野重治氏が「学問」と答えているのを見て、自分の気持を代って言われたような気がしたものだ。

――山本健吉「詩の自覚の歴史」


まだ読んでないし、読むかどうかも怪しいが『★めばわかるは当たり前?』という本がある。一瞬、著者名と似た名前の鷗外研究者がいるので、その人かと思ったが違った。さすが鷗外関係者がそれをいうと攻撃性がすごいかんじがするわけである。鷗外みたいなレベルにしてみりゃ、ほとんどの日本人が文章を読めないのはあたりまえである。そういえば、以前、落合監督が「見りゃわかんじゃん」みたいな言い方をして新聞記者を恐れさせていたが、専門家にしてみりゃ、みんなそんなもので、自明な事態というのは「読めば分かる」というより「見れば分かる」にちかいものである。

しかし、「見れば分かる」のは専門的な知見であるから、というよりも、それが存在の全体性というべきものだからである。

そのような、「見れば分かる」の範疇にはいろいろなものがあり、例えば、文学は社会の役に立つ、みたいな発言も、「見ればわかる」のたぐいであって、あえて口に出してはいけないものなのである。そうすると全体性を毀損する。すくなくともそれは営為の結果としての、問題の析出というかたちでしかも膨大な記述の形で提出され、それがまた更なる問題を生む。これはわれわれが社会とか国民を造ってしまうことよりも奧にあるプロセスで、単に不回避的で説明不能の「見りゃ分かる」ものなのである。

これ以前でとりあえず事態(国家や国民の何か)を便利にしようみたいな営為を『実学』といい、――ほんとのところ、税金投入への理由として自分のやってることの意義を説明する必要があるのはいってみりゃこれだけだ。確かに、不便はあまりよくないかもしれないからだ。かえって、上の見りゃ分かるみたいなものに説明をあえて求めてくる連中は、人間の生きる意味の不透明性を、生きる意味がない奴がいるという風に変換したい、優生思想の持ち主だ。こういうのは、全体性としての人間の発言ではない、何を言っても仕方がない。

尊敬・友情・心中

2025-01-14 23:13:44 | 文学


お道化なんてのは、卑屈な男子のする事だ。お道化を演じて、人に可愛がられる、あの淋しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目に生きなければならぬものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりしては、いけない。男子は、人に「尊敬」されるように、努力すべきものである。このごろ、僕の表情は、異様に深刻らしい。深刻すぎて、とうとう昨夜、兄さんから忠告を受けた。

――太宰治「正義と微笑」


高峰秀子様がむかし、夫婦から相手への尊敬の念が失われたら即別れた方がよろし、たいなこと言ってたけど、たしかにそうなんだが、これは友人に対しても言える。ほんとは小学生においてもそうである。友だち100匹デキルかな、みたいなのは蛙を百匹捕まえようみたいな発言で人間のものではない。大人は尊敬されないと友人は出来ないとはっきりこどもに言った方が良い。

それはそれとして、武者小路実篤の「友情」の友人はまた違うものである。彼の「なかよきことは美しきかな」みたいな箴言もまたちがう。しかしながら、これらが人気がある不思議をあまり無視すると人生は妙なことになりかねない。武者小路の場合、彼の友情は梅雨に雷雨が来たみたいなかんじである。

太宰は、すべてが演技なので、彼には友人は出来ない。友人でなく、心中相手ならできる。心中した女の人だけでなく、男の文士まで後追い自殺している。

あまりにライトな

2025-01-13 22:38:41 | 文学


純粋なライト・ヴァースは、日本やイギリスのように、比較的最近まで文化が固定した国においてのみ成立する。洗練され、成熟し、固定した文化を持つのは、それ自体確かに素晴らしいことだ。だが本当の意味で、果してその国にとって、それは名誉なことだろうか。私にはそれが疑わしい。少なくとも当分の間、アメリカの詩に関しては、いわゆる serious light verse だけで、私には十分である。なぜなら純粋なライト・ヴァースのもつ「軽み」は、多くの場合、単なるおもしろおかしさで終ってしまう。 だが serious なライト・ヴァースは、それがもつまさにその「軽み」でもって、しばしばその内容を、かえって重く感じさせるからである。

――金関寿夫「アメリカのライト・ヴァース」(『現代詩手帖』1979・5)


抵抗と協力の二分法を脱構築するという研究て、だいたいそういうのを美的に(違うか)協力というのではないだろうかという結論に達してる気がする。こういう事態をたとえば、Verweile doch! Du bist so schön.(時間よとまれ、汝は美しい)みたいに言うことも可能であろうが、これは読解が重くなりすぎる。だから、「罪が罪であるのは時間を止めているからだ」みたいな下手すると安倍晋三になりかねない口調で言うことも可能である。しかしこれだと正論馬鹿(前日参照)みたいなので、いっそのことエンツェンスベルガーのように言うことも可能であろうか。

ぼくらはもういない

使い捨て壜
おったまげる言葉

埃にまみれて
当時のアイロンが転がり
永遠の平和を
告げている
ブルドーザーがやってくるまで


――「空き家」(飯吉光夫訳)

この詩も上の『現代詩手帖』に載っていた。この号には、ライト・ヴァースの座談会があって、たしか谷川俊太郎が宮沢賢治や藤村のパロディをするきになれないのはなぜか、みたいなことを言っていた。そして、結局ライトになるための条件としての文体に対する関心があまりないことと関係があるみたいなこと言ってた気がする。しかし、学校教育で「名作」のパロディ創作が解禁されているところをみると、まだ当時は文学的文体に対する畏怖は少なくともあったきもする。それにしても、ライト・ヴァースの雰囲気は飜訳ででるもんなんだろうか。なんかこう、ライト・ヴァースというものの日本版は、大江健三郎の「セブンティーン」みたいなものであるような気もする。あのなかにはT・S・エリオットが引かれていたけれども、エリオットも猫に関していかにもライトな作品があったようである。

ライト・ヴァースを吉本隆明に対する反抗みたいなかんじで定義すればよいのではなかろうか。花田清輝なんかにも増して大江のやってることは実際はそういう意味合いがある。しかし、通常の感覚だと、谷川俊太郎の『落首九十九』みたいなものがライトなかんじがするであるが、谷川が自覚しているようにこれは、違うのである。むしろ、枕草子に近い。そしてライトノベルもそれに近い。ライトなのではない、フットワークはむしろ重いからだ。軽さは、批評が見えない程度に振られているところにある。

切除と圧縮

2025-01-12 23:48:12 | 文学


戦後アメリカから輸入した個人主義は、都合の良い個人主義であった。 個人主義とは個人的主体各員が共同体の政治的決定に参加することで初めて成り立つ。個人として意思を表明した結果、それが全体になるという構図が本来の姿だ。しかし日本はアメリカから個人主義を誤読してしまった。個人主義とは個人が個人として生きるのであるから社会に対して興味を持たなくて良いという意味で個人主義を捉えてしまったのである。現実社会という偽善(上部構造)に対して、個人的な共同体という露悪(下部構造)が存在しているのが正しい個人主義なのだが 「社会は、存在しない」という屁理屈によって現実社会を否定する建前の使えない露悪的病理と、個人的共同体を全く定義できない正論馬鹿とが二極化してしまった。

――ぱくもと『超陽キャ哲学』


最近よんでみた。だいたい切り取られている部分と暴言的に圧縮している部分とがリズムをつくっているのが若い人々の論文であるが、こういう本でもそうであった。二極化の部分は、どちらであるか迷うが、論理の節回しとして必要だったのである。

チェンソーマンはアニメよりマンガと学生が言っていたが、よんでみるとほんとにそうであった。動的な部分を想像させる部分とさせない部分とがほどよく計算された紙芝居的なものであった。

そういえば、この前、ショスタコービチの第九番のスコアをみていたら、わたくしが把握してなかった音符を発見したが、この作曲家の曲にもたびたび節回しが曲から飛び出ている。

都で神社の木を切るな、いやもう切ってしまった、みたいなのが話題になっている。そういえば、うちの近くの(南の方の)神社にはつぎのような挿話がある。第二次大戦末期、陛下の命令で飛行場を造るんで、そこのご神木邪魔だからちょん切るとか政府(軍)が言ってきた。で、そもそもその飛行場予定地にあったいくつかの神社を移動したあげく、そのご神木も頭の部分切っちゃった。で、当時、住民がどう反応したのかはわからないが、その移動させられた神社が、飛行場の移転で、戦後かなりたって復活したとき境内の碑には、あのときの怨みは忘れない的なことが怒髪天をつく勢いで書いてある。――というわけで、最後怨みを書いたもんが勝ちなのである、というのはある。ほどよく、記憶が圧縮され、切り取られた結果である。

そういえば、神社の森に埋もれかけていた忠魂碑を、神木などを切り倒して存在を明るみに出したみたいな、どっちの「柱」をとるんだみたいな話も聞いたことがある。

サービスエリア

2025-01-11 23:56:56 | 文学


その程なく九月八日になりて、「この売掛とれ」などいひて、十四五人の手代、この物縫屋へ行く事をあらそひける。その中に年がまへなる男、恋も情もわきまへず、夢にも十露盤、現にも掛硯をわすれず、京の旦那のために白鼠といはれて、大黒柱に寄添ひて、人の善悪を見て、そのかしこさ又もなき人なるが、おのおのが沙汰するを聞きてもどかしく、「その女の掛銀は我にまかせよ。済まさずば首ひきぬいても取って帰らん」と、こらへずたづね行きて、あらけなく言葉をあらせば、かの女さわぐけしきもなく、「すこしの事に遠く歩ませまして、近頃々々迷惑なり」といひもあへず、梅がへしの着物をぬぎて、「物好きに染めまして、 きのふけふ二日ならでは肌につけず。帯もこれなり」となげ出し、「さし当りて銀子もなければ、御ふしやうながらこれを」と、泪ぐみて、丸裸になって、くれなゐの二布ばかりになりし。その身のうるはしく、しろじろと肥えもせず、 やせもせず、灸の跡さへなくて、脂ぎったる有様を見て、随分物がたき男、じたじたとふるひ出し、「そもやそも、これがとつてかへらるる物か。風がなひかうとおもうて」と、かの着物をとりて着するを、はや女、手に入れて、「神ぞ、情しりさま」と、もたれかかれば、この親仁、颯り出して、久六呼びて、挟箱を明けさせ、こまがね五匁四五分抓み出し、「これを汝にとらするなり。 下谷通に行きて、吉原を見てまみれ。しばらくの隙を出す」といへば、久六胸轟かし、、


これに比べれば、「伊豆の踊子」の裸のシーンなどかわいいものである。もう既に研究されているところであろうが、川端の主人公が学生であることは大きい。前提として、学生ごときは、旅芸人の一座の少女に比べても潜在的に下位なのである。上の場面だと、人物たちは着物や金銭のやりとりで相手の行動を決定してしまう、経済的人間である。「金色夜叉」のあやつを出すまでもなく、学生が前で経済人は後である。逆はない。――ということは、経済人の方が成長した後の状態であって、学校が尊敬されるのは国家や学問の権威によってであるにすぎず、それがなくなれば、前段階のサービスエリアと化してしまうわけである。学校の先生は、サービスエリアの売り子になってしまう。

教員志望者が減っているのはいろんな理由がありそうだが、あらゆる教育の理念(崇高さ)を骨抜きにして教員をただのサービスエリアの対応マシーンに育てようとした一部の動きが最悪であった。もっとも、社会そのものが、どういう人間を育てたいのか分からなくなってしまったのも大きい。どのように生きたらいいのかは「お前が考えろ」、あとは支援しますみたいなのは、一部には幸福だが、多くの人間を砂漠に放り出したようなもんだ。

砂漠と言えば満州である。小泉譲についてはこの前学会発表もあったけど、『列車の中で 金正日物語』しか読んだことがない。満鉄の調査部で働いていた小泉は、中国的な壮大さと結びつけられることも多いと思うんだが、こういう作家は不思議である。安部公房の裏側の顔は、案外小泉みたいなところがあるような気がする。安部公房の特徴でもあろうが、ヴィルドゥングスロマン的な人生が崩壊し、子どもに戻ったり大人になったり、虫になったりと、めちゃくちゃなのである。太宰の子どもらしさも、三島の思春期も異化的な演技だが、安部は違う。たぶん花田★輝の動物とも違う。ここらあたりをいま論文で構想中であるが、なんともいやな気分になりそうだ。

学校好きすぎ問題

2025-01-10 23:04:13 | 文学


魚の国ではどこの部落も、よく神様にお祈りをあげました。神様が、みんなを可愛がって下さるからです。
 竜宮の鯛の王様も、お祈りが好きです。ひらめの学校からは、毎年、竜宮へ留学生を出しますけれど、しばらくして戻って来るひらめの学校の生徒は、みんな立派になって戻って来ました。
 そして、いつでも村の為になることばかりしようと競走します。魚の国にはお金はないけれど、みんなよく働き、みんな仲よしでした。校長先生はいつも、眼鏡をかけたまま学校のなかをゆらゆら泳いでいらっしゃいます。本当に、その眼鏡はひらめ学校の校長先生にふさわしのものでした。


――林芙美子「ひらめの学校」


なにゆえ日本の大衆文化において、いや純文学においても案外そうなんだが、――学園ものが多いのかはいろいろ研究されている。わたくし、ちゃんとフォローはしていないけれども、雑に言うと、ある種の自由さと拘束的な側面が組織の問題として処理されるしかない「人間関係」、もっといえば「社会」が、小から高までの学校でしか成立していないことと関係がある気がする。かえって、われわれは所謂「社会」にでると、もっと狭いところ、例えば会社と自宅に拘禁される。が、この拘禁には奴隷の自由がある。この自由から遁れることは、学校社会のしんどさに帰ることだ。だから、学校を嫌っていたはずの創作者たちでさえ、ユートピアを学校の中でしか想定出来ない。

ウィキペディアにも載ってるけど、バルザックは「結婚の研究が一番遅れてる」とか言っていた。学校の研究なんかをみんながやたらやりたがるのと対照的だと思う。みんながやりたがるということは、そこにしか修正の可能性はないと思い込んでいることと、どう修正されてもどうでもいいと思っていることと、裏腹だと思う。

偽の問題

2025-01-09 23:48:20 | 文学


    幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙のやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰のやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹であるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……


――中原中也「生い立ちの歌」


中原中也が苦手なのは、嘘つきだからである。

わたくしの卒業論文のゼミ生は、伝統的に体育会系も案外多い。人にもよるが、彼らが、――成功するかどうか分からないが食事とかも含めて一貫したことをどれだけやり続けられるかが勝負の分かれ目みたいなことを自覚している場合が多く、そこは安心である。問題は、それが学問も一緒だということにいつ気がつくかどうかだ。そして、おそらく競技と違って、そこに勝ち負けはなく、ほんとうはやる気に問題ですらないことに気付くかどうかがポイントなのである。

我々は行為の前に主体性があるような気がする訳だが、ほんとは逆である。我々は自分のコントールに関したものほど一貫性をもとめる傾向があって、文学や哲学もそういうものの表れであろうと思う。しかし、そういうとき、自分のことがよく分からなくなることを同時に拒絶してしまうこともあって、なぜかといえば、やる気になった局面を問いや疑問だと思っているからである。それも逆で、文学や哲学は、問いを見出す行為であり、むしろ偽の問いから本当の問いに遡行することなのである。

思春期で学ぶべきなのは、大人の作法とか諦念ではなく、人間は脳が発達しすぎたせいか、すごく偽の問題を問題だと思い込むという事態である。しかし、もはや指導者にその認識がないので、偽の問題に寄り添ってAIの回答みたいなのを押しつけている。そもそも、ネットやAIを開発している人たちがたぶん勘違いしているのは、我々の生が、疑問を解くことだと思っていることである。

いまでもよくある「お悩み相談」みたいなコーナーに有名人や学者が答えるみたいなのにもその傾向がある。そこにある悩みはかなりの割合で偽の悩みである可能性がある。人間、プライドに関わることは絶対に回避してしまう。そこででてくるのが「悩み」である。そしてそのその「悩み」へのアドバイスをもらうことで、本来は非難されたり指導されたりすべき事態を回避し、逆に慰められたりもするわけである。こういうからくりがいつも起こっているにもかかわらず、自分の弱点を肯定しろとか自分を好きになれとか言われて、ますます「悩」んでいる本人の思うつぼである。もちろん、人間そんな風にして安寧得るしかないときも多いけれども安寧による自己欺瞞の消去がおこなわれるひとは当然多く、はじめから処世術の奴もいるわけであって、――ほんとはどうなのかは、実際に、面と向かって付き合ってみないと分からない。教育が組織の中での集団行動で行われた方がよいのはそのためで、ネット上じゃ意見の戦争はありえても教育はありえない。

過程の時間の消失

2025-01-08 23:41:08 | 思想


 ストア派の人々も、賢者ならば、幻覚や妄想がやにわに立ち現れても、はね返せなくてはいけないと述べているわけではない。むしろ彼らは、人間はそうしたものから逃れられないのだとして、たとえば天にとどろく轟音とか、建物の崩壊には抗しきれずに、青ざめたり、わなわな震えたりすることを、受けいれている。それ以外の情念に関しても同じであって、賢者の知性がそっくり無事で、判断力の状態が、いかなる損傷も変質もこうむることがなく、自分の激しい恐怖や苦痛に対していっさい同意を与えることがなければいいのである。賢者でない場合も、第一段階は同じだけれど、第二段階がまったく異なってくる。というのも、情念の刻印が表面にとどまることなしに、理性の居場所にまでずんずん浸透していき、これを感染させて、腐らせてしまうのだ。そして情念によって判断をおこない、それに自分を合わせてしまうではないか。
 ストア派の賢者の状態を、この目でしっかりと確かめるがよろしい。

その精神は揺るがぬままで、涙がむなしく流れている。(ウェルギリウス『アエネイス』四の四四九)

 アリストテレス学派の賢者も、心の乱れをまぬがれることはできない。しかし、それを緩和しているのである。


――「エセー」(宮下志朗訳)


何かの衝撃が情念へ感染し、情念が理性に感染し、――しかし、ストア派の賢者において、その感染を涙に封じ込めるというのだ。

映画「エイリアン」なんか、そういう経路を大げさにオブジェの暴走として描いているようなものである。第一作や、今回の「エイリアンロムルス」なんかも、襲いかかるエイリアンの暴力による恐怖を、エイリアンという物体に封じ込めて、船外に吹き飛ばすところで終わる。泣く代わりに、吹き飛ばすわけだが、感情を物質に封じ込めるやりかたはおなじである。

しかしながら、エイリアンの男性器としての比喩にしても、現実に於いてそれほど極端なものであろうか。エイリアンという生物は生まれるとすぐでかくなる(数分としか思えない)。これは性的意味があるのでしょうがないとは言え、こんなに早く成長してくれたら世の中楽だ。この映画の物語は、企業が人間を完全生物にしようとする陰謀を遂行する話なわけだが、――子どもや思春期はいらない、生まれて二分ぐらいで即戦力とかでよい、という怖ろしい思想である。マルクスがいた頃の資本家の考えだ。これにくらべると、「ドラゴンボール」は、子どもから急に大人になるサイヤ人=エイリアンの話だが、やつらは子ども時代も結構ながいし、大人の体格になっても、永遠に小6から中1ぐらいの精神が続く。しかしこれはこれで成長は永遠にいたしませんという怖ろしい思想である。

当たり前であるが、フィクションが我々を二十四時間縛るようになると、過程の時間というものが消えるのである。上の「エイリアンロムルス」でも、あまりにエイリアンが人間の体内から誕生するまでが短いために、女性の妊娠期間の時間が消えている。

竹内好は五十代になってからスキーを始めて「老人スキー」とか称してたらしい。たぶん、中国文学者として、魯迅とロシア風をかけた洒落なのであろう。50で老人かよという反論は可能であるが、まだ竹内の場合は、五十年を長いと感じていたのだ。いまは、20代でも50代でも時間が消えているので、いつ何を始めても関係がない。これは幸福な場合もあるが、人生というものの消失でもある。

有馬神社を訪ねていた(高知の神社1)

2025-01-07 23:32:25 | 神社仏閣


以前、高知市を訪ねたときに撮った写真の中にあった。はりまや橋の東にある土佐橋の南側にあるのがこの有馬神社である。

有馬神社の由緒としては、県神社台帳に依ると、御祭神は安徳天皇二位禅尼であり、昔より浦戸町土佐橋南詰に鎮座ましまし、付近の崇敬神として当町が片町なりし頃、北側堤の上に祭祀せられしも神殿を設けお祭したものであり、明治三年十月神社改正調書に、浦戸町有馬神社、但し旧名水天宮とあります。当宮は前々より水と火の守り神様として付近住民の信仰厚く、祭日は七月二十日にて、毎年縁日には境内に提灯を着け、お祭をし町内は賑わっておりましたが、大東亜戦争にて昭和二十年七月四日晩の空襲を受け、社殿は焼失しました。昭和五十七年有志相図り、地域並びに消防団の守り神様として復興した次第であります。(http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-2765.html を参照)


碑には確かにこういう文句が書いてあったと記憶する。この神社も空襲で焼けていたらしい。水天宮でもなんでも焼き尽くす近代文明めといきり立つ必要はない。そもむかし、長宗我部とやらは、四国のあちこちの神社を焼き払っている。神を殺すのはいつも人間である。しかもいつも人間によって復活する。

God を逆さにすれば Dog だ。(寺田寅彦「神」、『ホトトギス』明33・3)


寺田寅彦みたいな人は常に、もう一回ひっくり返ることを想定していない。

2025-01-06 23:25:29 | 文学


赤い着物の女の子は俥の幌の中へ消えてしまった。山は雲の中に煙っていた。雨垂れはいつまでも落ちていた。郵便脚夫は灸の姉の所へ重い良人の手紙を投げ込んだ。
 夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油が注ぎ込まれた。梨の花は濡れ光った葉の中で白々と咲いていた。そして、点燈夫は黙って次の家の方へ去っていった。


――横光利一「赤い着物」


岩波文庫と労働者

2025-01-05 23:09:01 | 文学


自ら、幾所か介添して見およびしに、恋の外、さまざま心のはづかしき世間気、いづれの人も替る事なし。ある時、中の島何屋とかやへ介添せしが、この子息ばかり、我に近寄りたまはず、見掛けより諸事をうちばにして、初枕の夜も何のつくろひなしに、首尾調ひけるを、さもしくおもひしが、この家、今にかはらず、その外は皆、その時よりはあさましく、奥さまも駕籠なしに見えける。

介添え女の感想をのべただけのように見える一代女の一節であるが、恋心以外の恥ずかしい世間体――「さまざま心のはづかしき世間気」をどれだけ彼女は見ていたのであろう。読んだ感じだとそれほど多くの事例を見ていない気もする。しかしこれは数の問題じゃねえのだ。「さまざま心のはづかしき世間気」の観点で見りゃ三例もあればわかるからである。

我々がとりつかれている数的な量とはいったいなんであろう。業績馬鹿につける薬なし、みたいに、あたかもそんな羞恥心が常識としてあるようなふりして相対化してしまうのはよくない。ますます量にとり憑かれている人を意固地にさせるだけである。言われた方は、そんなにルサンチマンはないんだよと悲しくなるであろう。問題は量と質の問題ではない。

我々の世間は、「世間気」ほど狭くはなくなっている。コモンセンスが夢みられて、大新聞なんかはそれを担おうとしたのであるが、たぶん最近は失敗している。演習で、朝日と讀賣のコラムをまじめに比べてみて、今日的常識とは何かを考えてみているのだが、――やっぱりいっぱしの書き手の文章の注釈のとはちがった難しさがある。私は、作品としてあまり価値がないものを扱うときの知恵をつけたほうがよい、特に教育学部とか医学部とかでやったほうがよい、と思っているからやってるわけだが。少なくともわかるのは、彼らのコラムが基本的に固定観念に対する差異化、もっといえば「革新」的態度をとっているぐらいのことだ。

数的な量への偏執は、このような差異化の運動である。これはどうみてもネオリベ的商人のそれである。

さっき大河ドラマをすこしみたけど、吉原の本屋の話であった。しかしまあ、吉原のために警動してくれとお上に頼んだら、売れるための自助努力しとんのかわれと言われて「ユリイカ!」となる、どこぞの大学じゃねえか。やはり必殺仕事人とか必要だな、その場で田沼を切り捨てるところの。――それはともかく、主人公の蔦屋がつくったのは、「吉原細見」、風俗案内というより、遊女たちの名鑑、差異化の見える化である。網羅的だから数的にすごいようにみえるそれは、隣と隣が違っていれば成立する。女子学生をたくさん載せている大学パンフレットとおなじである。

とにかく星ひとつ二十銭の岩波文庫を、安いというだけの理由で片っ端から買いこんで読んだ。[…]「あしながおじさん」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」、シュトルムの「みずうみ」、ハイネや石川啄木の詩、そして、北上民雄の「いのちの初夜」には子供ながらにも強いショックを受けた。

60銭で買える岩波文庫を、撮影の合間に読むのが楽しみでねぇ。それと、何より自分の周りを見ることが一番の勉強でしたね。何でも、気持ちの持ち方ひとつです。バスに乗っている人や、隣でご飯を食べている人を見るのも大変に勉強になります。


高峰秀子は映画労働者であって、世間からも親からも会社からも搾取された。彼女がとった抵抗は、岩波文庫を読んで知的になることであった。これは何冊読んだからよいというものではない。読まなければ虫けら同然に扱われてしまうからだ。小学校もろくに行ってない秀子様が仕事の合間に岩波文庫を読んで頑張ったというのに、おれたちときたらほんとぐずぐずさぼりやがって、ほんとしょうがねえやつらである。――はっ、もしかした俺たちはすかした研究とかじゃなくて、小学校に行かずに俳優をやれば岩波文庫をよめるのではっ。あながち間違いではないと思うのである。

最近、ネット上で、岩波文庫全部読めよ、みたいなことを言った哲学者が、実態と合ってないとか、指導とはいえん、とか岩波権威主義とかいろいろ言われていたが、文庫本をたくさん読むぜみたいなのは、隣と違ったものを書けばよいみたいな「吉原細見」的存在に対する抵抗だったのである。

だいたい岩波文庫全部嫁みたいな言い方は「ロケットパーンチ」や「199X年、世界は核の炎に包まれた!」みたいな、追いつめられた男性労働者のマッチョな幻想としての叫びであって、それに対してリアルにツッコんでもしかたがない。しかしフィクションに釣られないとリアルな行動はありえない。現実に最適化しようとすると我々はどうせなにもしないではないか。実際、ガンダムをぜんぶ制覇する勢いで資本論やゲーテを読んでしまうやつはいるわけで、そういうブルドーザみたいなひとたちに勝つために、凡人はえっさかほいさと読むしかないのだ。

わたくしもほぼ家具と化したハードカバーが並んだ家には生まれたが、精神はプロレタリアートであって、文庫から知的風景を飲み込んだ。岩波文庫の思い出は、吉野源三郎とかロマン・ロランとかウェルズで、いまでもそれを文章を風景みたいに記憶している。こういう経験をもっとたくさんしていたら、というプロ出身のインテリゲンチャの思いがとりあえず全部読んどけみたいな言い方になるのである。風景は果てしなく広がるはずだというかんじね。。

戦前も、大学生のプチブル化が進んでいて、戦時中なんかやたら読書入門みたいな本が出ている。中には、竹下直之の「師魂と士魂」などがあって、読書論が大きなテーマである。西田幾多郎に習ったことがある彼は、西田に「絶えず問題を逐へ」と言われたんだと書いていた。とにかく永遠に問題が逐えるんだという確信があれば、自分の一生なんかはその逐う行動の一部にすぎなくなる。岩波文庫全部読むのはむろん無理だけど、読めと言ったほうがそのほうが「逐う」かんじがしてよい。それにしても「問題を逐う」とは、問題を追いかけることなのか、既成の問題を排除することだったのか、竹下もそこはぼかしていたような気がするのであるが。

そういえば、ショーペンハウアーが、読書は自分の頭じゃなくて他人の頭で考えることなんで、多読するとむしろ頭の悪い学者みたいになるぜ、――みたいなことを言ってるのは有名である。確かに、読書好きは他人の頭に自分の頭を預けるみたいなことに快を見出す性質の人だというのはあると思う。それを頭の悪さと言うのはありだが、たいがいそういう頭の悪さがないと、人は勉強も読書もしないことはたしかだ。「書を信じきれば書を読まないのと同じ境地だ」みたいな格言があるけど、書を読み続ける人がいつも信じ切るほど頭が良くならないことと裏腹である。西田は今は蛙、明日はイモリ、みたいなのが人間だといっているところがある。しかし西田派の一部が狂ったのは、蛙を信じ切ればそれは人間だと思ったことによる。