献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々と説いている。聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」
――「パンドラの匣」
新婚当初住んでいた古い一軒家の狭い裏庭が、「伸びてゆく方向に陽が当たる」状態だったのか知らないけれども、とにかく雑草だらけになって、洗濯物をそのうえに干すのが気分悪くなってきたので、除草剤をまいてよし枯れたぜと喜び合っていたところ、次の春になんか兇悪なとげとげの草が大繁殖して、その上に洗濯物をほすなど、まるでカンダタの気分であるという事態に至ったことがあるが、――思うに、社会というのもそういうところがあるのではないだろうか。気分が悪いからといってそれを排除するともっと強いヤバイ奴がくるという。
横光利一のなにかの小説では、なんか嫌な予感がするだけでなく病気が治らないので、引っ越したいみたいな話があったようなきがする。これなんかまだ「ぼんやりとした不安」みたいなものであった。しかし、このあと、国家自体が新しい家としての病棟と化したのはみなの言うとおりで、上の小説なんかはそれを描いたものである。いまどきの医者なんかは、戦時下の健康政策が優生思想そのものであって、ファシズムの歯車だったことぐらい習っているのであろうか。ファシズムは排除の思想をとるより前に、お前の代わりはいないから死ぬまで働け、という思想である。それは、医学の発達や生物学の進展の必然性でもあったわけだから、悪意の帰結というより学的良心の帰結であったと自覚すべきである。
よく越境的な知とか言うアカデミシャンがいるが、普通のお仕事の世界では、他人の仕事の領域にむやみに上がり込んだら殴られる。炊飯ジャーの進歩は凄いが、これに小説家が文句を言えた義理ではないのは当たり前だ。しかしこれが許される気がするのが「学問」で、医学なんかはセフティーネットを超えて生活倫理となりたがる。これを真似たのが人文科学と称する文学で、教科書に採択され精神の薬となって我々を縛っている。最近は、知のプライドと忙しさによる品性の劣化によって、復讐にも似た感情で生活の支配を狙っている二者であるが、コロナ騒動で完全に前者に軍配があがった。が、あいかわらず世間の奴隷に転落した点は両者引き分けといったところだ。
健康が善とかいう考え方と、個人に最適な生き方を探すみたいな考え方が両立するわけがない。
体の状態をはかる様々な数値を、勉強の成績に喩える医者とかいまは実際におり、こういうのは、体力測定で勝ったとか言って虚弱児をいじめている幼児と同レベルであるが、屡々、我々はそういうことをやってしまう。国家レベルでそれが政策になると、この前の戦争の時みたいになる。
小さい頃、病院ばっかり行ってたし、小児科の看護婦さんたちから年賀状をもらってうれしかったからよくかわらんかったが、――あるいはいまは違ってしまったのかもしれないが、病院が妙に工場みたいになっていると聞いている。ほんと陳腐な意見だけど、学校だけじゃなかったというわけだ。
そういえば、トランプは最高齢の大統領で、前任者と同様歳とっているにもかかわらず、死ぬまで働くみたいな頑強さを備えているように見える。これは以上のような意味で、非常に象徴的である。