そこで、コンマやピリオドの切り方などを研究すると、早速目に着いたのは、句を重ねて同じことを云うことである。一例を挙ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云えば、二つとか、三つとか、もしくば四つとかで充分であるものを、音調の関係からもう一つ云い添えるということがある。併し意味は既に云い尽してあるし、もとより意味の違ったことを書く訳には行かぬから仕方なしに重複した余計のことを云う。
――二葉亭四迷「余が飜訳の標準」
今回の選挙で、自公が過半数を割り込み、すっかり野党の何処が裏切るのかみたいな雰囲気になっている。公明が国民民主よりも当選しなかったのが時代の流れを感じたが、――聖教新聞も赤旗も、ちなみに産経新聞もある学生には存在すら知られていなかったりするのであってみれば、そりゃよのなか大変である。選挙に行くとか行かんとか以前にわれわれはおそろしい空洞を抱えているのだ。
もはや生者には期待出来ない。そもそも生者だけで選挙やってるから埒がアカンのだ。高峰秀子様を総理にせよ。
あまりに秀子様だと気が強すぎるのではないかとおもった方には、もはや例のイクイナ様ではどうであろう。統一教界の問題であれになったイクイナ氏であるが、普通にイクイナ=1917年ロシア革命なので、まさに存在自体が現在の革命的状況を予感させていた。歴史ってすごいね。
それにしても、今回の自民党の退潮にはいかなる原因があるのであろうか。もともとそれほど支持者がマジョリティではないのは20年前から言われているから、それはそうかもしれないが、今回は「裏金+非公認の人に小遣い」の件で、少なくない自民党支持者が愛想を尽かしたのではないかという見方もある。そうかもしれない。日本人にはもはや、「死ぬまで憑いていきます」という根性がないのだ。ちなみに、リベラルが信用されないのもそのせいなのであるが。
単純なようだが、
今の若いもんは、感想はひとそれぞれみたいな主張にもならないうんこじみた主張をすり込まれすぎている。これでは話し合いや政治どころじゃない。意見や感想そのものを生成させる気がないのだ。感想や意見は長い時間をかけて矛盾をはらんだ練り上げられ方をしなければ意見とか感想とはいえない。坂口安吾は、無責任にも「感想家よ出でよ」みたいな批判を平野謙みたいな教条主義者に対してして、そぼくな読者がいいみたいなことを言っていたが、教条こそが意見や感想をいずれ生み出すことを軽視している。授業だって、まずは紋切り型の教条からはじまるのである。
そういう思考の生産性の問題と、つねに混同されるのが、そのひとの結果として現れている教師の頭の良さの問題である。学校の先生が頭悪くなるとなにがだめかって、バカが移るのではなく、頭の悪い奴にこそ服従しとかないといかんという兇悪な習慣がついてしまうことによるのである。親の場合も一緒である。――のみならず、頭の悪い奴に服従しとかねばという意識は、大概自分の方が頭がよいという対をもってあらわれてしまうところが益々まずい。「人間失格」の対義語探しみたいなことが始まるのである。そうすると、頭の悪い教条を主義者は、頭のよい自由な俺様によって駆逐されねばならぬみたいな戦いばかりがなされるようになる。結句、頭が悪いだけの自由な頭脳に、不自由な頭の悪い俺様が説教してまわるみたいなディストピアの到来である。
而して、私は、批評家たちの紋切り型=啓蒙的な言説にはいまだに意味があると思っている。教師たちが自由な頭の悪さを装備してしまった以上、もはや彼らに頼るしかない。例えば、浅田彰はアルチュセール研究とジョン・ケージの「小鳥たちのために」を紹介してくれたので許せるといへよう。