★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

秋の太陽

2024-10-31 08:17:21 | 文学


「だが私は、あなたにお別れするのが悲しくてなりません。」と、草はいいました。
「そんなに悲しまなくてもいい。俺は南に帰るときに、もう一度おまえを見るだろう。」と、太陽は答えました。
 その後、草ははたして、りっぱな花を咲きました。脊も、もっと高くのびて、青木よりも高くなりました。そして、葉もたくさんにしげりました。草は、内心大いに安堵していたのであります。もう、このくらい大きくなれば、太陽にすがらなくともいい、青木が冬の間我慢をしていたように、私も我慢のできないことはないと思いました。


――小川未明「小さな草と太陽」


現在の宇宙を舞台にしたSFは、マーラーよりもホルストのおかげが大きいと思うが、つまりゲーテ的誇大妄想よりも、占星術がSF的だったということになり、――いまだに宇宙は星占い的な存在であることは確かである。「世界」ではないのだ。というわけかわからないが、いまだにマーラーの音楽をもちいたSFは見る気がしない。

平凡なレベルの維持

2024-10-30 23:51:03 | 思想


だが私はアカデミー至上主義に対しては判然と反対せざるを得ない。今日の大学は文化的技能の技術的な素養的な訓練をしか与えない。ばかりでなくそれ以上に出ることをアカデミシャンは色々の言いがかりでみずから禁止しているのだ。思想の文化技術的獲得に就いては、今日の大学の機能はほとんど全く無力であることを私は忘れることができない。生きた史的認識の代りに思想的定位のないただのフィロロギー、時局認識の代りに思想目標のないただのカテゴリー分析、之が今日の大学アカデミー機能の精々の仕事である。今やジャーナリストや文士には多少の思想はあっても思想を整理し進展させる文化的技術がない。処が又大学アカデミーは、文化的技術は有っていても使い途が明らかになっていないから、盲目的なテクニシャンしか産まない。研究室の若い学生達がそのいい例だ。――だが之を裏から言えば、半分アカデミシャンで半分ジャーナリストである私の書く大学論は、実は痛し痒しの態なのである。


――戸坂潤「私の見た大学」


大学を貶すのはいつもの文士たちの仕草でありそれ自体に大して意味はない。こういう批判となると、とつぜん戸坂潤みたいなひとでもファクトを追究するつもりがない。盲目的なテクニシャンなんか100人のうち0.5人ぐらいではないか。わたくしは、平凡な大勢を教えてきた教師たちこそ戸坂よりも優れていると思う。

思うに、やる気のない人間に対して慣れすぎたせいだと思うんだが、明らかに不純な出世主義者や俺様タイプがやる気のある頑張っている人間に見えてしまう現象が学生の中に広範にある気がする。空気を読める点では天才的にみえるというのがありそうだ。それは、機を見るのに敏、とか右顧左眄とか場合によっては言うのだ。――例えば、こういうことを言って聞かす教育はマルクス主義者であろうと保守であろうとしなければならないのである。

ある意味、家をでて大学に集まってきているときが説得のチャンスである。ふつういろんないみで大学に行くのは出家であるが、今話題のzen禅大学は在家なのである。これでは、説諭ができんではないか。

大学四年間において、その緩い管理下のなかで長い時間をかけて平凡な、あるいはろくでもない人間性が露呈し、そんなんじゃだめだよと説教をくらい、信用されたりされなかったりする経験が社会を辛うじて保つための責任がある立場の職業人になるために必要なのである。ちょっと問題がおこりやすくなってきたとはいえ、学校の先生とか病院で一定の倫理がたもたれているのはそのおかげだ。卓越した人材もでてもいいけど、平凡なレベルを維持するためにどれだけ人が教育にあたってきたとおもってる。改革よりもレベルを保つことを優先すべきなのである。あたりまえではないか。改革は革命でない限り、一部の破壊であり、ある部分への利益誘導である。

倫理にかんする教育は長い時間がかかる。教師以上に倫理的な感覚が必要かもしれない職業でも、まったく大学の倫理的効果を必要としていないものがあるが非常にまずくて、犯罪まがいの金儲けが入り込む余地がある。市場にまかせよという考え方もあるだろうが、現状、それは無理だと思う。業界が滅茶苦茶になりかかっているのを一応消極的にも監視出来るのは官庁があるからで、業界自体は官庁にいろいろと責任を被せているが、実際は庇護下にあって大きな事件が起こらないようになっている側面が大きいのだ。

保守ではない。革命でも保守でも、社会を保つ地味な大勢が教育に当たらなければならない。そのこととマイノリティ主義が両輪でまわる必要がある。マイノリティ主義は一部の破壊、平凡な大勢がむかしからいつも苦しんできたことをつい無視してしまう。

自公過半数割れでも批評家を評価する

2024-10-29 23:38:28 | 文学


 そこで、コンマやピリオドの切り方などを研究すると、早速目に着いたのは、句を重ねて同じことを云うことである。一例を挙ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云えば、二つとか、三つとか、もしくば四つとかで充分であるものを、音調の関係からもう一つ云い添えるということがある。併し意味は既に云い尽してあるし、もとより意味の違ったことを書く訳には行かぬから仕方なしに重複した余計のことを云う。

――二葉亭四迷「余が飜訳の標準」


今回の選挙で、自公が過半数を割り込み、すっかり野党の何処が裏切るのかみたいな雰囲気になっている。公明が国民民主よりも当選しなかったのが時代の流れを感じたが、――聖教新聞も赤旗も、ちなみに産経新聞もある学生には存在すら知られていなかったりするのであってみれば、そりゃよのなか大変である。選挙に行くとか行かんとか以前にわれわれはおそろしい空洞を抱えているのだ。

もはや生者には期待出来ない。そもそも生者だけで選挙やってるから埒がアカンのだ。高峰秀子様を総理にせよ。

あまりに秀子様だと気が強すぎるのではないかとおもった方には、もはや例のイクイナ様ではどうであろう。統一教界の問題であれになったイクイナ氏であるが、普通にイクイナ=1917年ロシア革命なので、まさに存在自体が現在の革命的状況を予感させていた。歴史ってすごいね。

それにしても、今回の自民党の退潮にはいかなる原因があるのであろうか。もともとそれほど支持者がマジョリティではないのは20年前から言われているから、それはそうかもしれないが、今回は「裏金+非公認の人に小遣い」の件で、少なくない自民党支持者が愛想を尽かしたのではないかという見方もある。そうかもしれない。日本人にはもはや、「死ぬまで憑いていきます」という根性がないのだ。ちなみに、リベラルが信用されないのもそのせいなのであるが。

単純なようだが、今の若いもんは、感想はひとそれぞれみたいな主張にもならないうんこじみた主張をすり込まれすぎている。これでは話し合いや政治どころじゃない。意見や感想そのものを生成させる気がないのだ。感想や意見は長い時間をかけて矛盾をはらんだ練り上げられ方をしなければ意見とか感想とはいえない。坂口安吾は、無責任にも「感想家よ出でよ」みたいな批判を平野謙みたいな教条主義者に対してして、そぼくな読者がいいみたいなことを言っていたが、教条こそが意見や感想をいずれ生み出すことを軽視している。授業だって、まずは紋切り型の教条からはじまるのである。

そういう思考の生産性の問題と、つねに混同されるのが、そのひとの結果として現れている教師の頭の良さの問題である。学校の先生が頭悪くなるとなにがだめかって、バカが移るのではなく、頭の悪い奴にこそ服従しとかないといかんという兇悪な習慣がついてしまうことによるのである。親の場合も一緒である。――のみならず、頭の悪い奴に服従しとかねばという意識は、大概自分の方が頭がよいという対をもってあらわれてしまうところが益々まずい。「人間失格」の対義語探しみたいなことが始まるのである。そうすると、頭の悪い教条を主義者は、頭のよい自由な俺様によって駆逐されねばならぬみたいな戦いばかりがなされるようになる。結句、頭が悪いだけの自由な頭脳に、不自由な頭の悪い俺様が説教してまわるみたいなディストピアの到来である。

而して、私は、批評家たちの紋切り型=啓蒙的な言説にはいまだに意味があると思っている。教師たちが自由な頭の悪さを装備してしまった以上、もはや彼らに頼るしかない。例えば、浅田彰はアルチュセール研究とジョン・ケージの「小鳥たちのために」を紹介してくれたので許せるといへよう。

卒業論文中間発表会

2024-10-28 23:45:50 | 大学


アーアーいやになってしまう。もうだめかな。もういかんや。ほんとうに人を馬鹿にしとる。いやになっちまうな。いやになりんすだ。いやだいやだも………だっていやがらア。衣、骭に――到り――か、天下の英雄は眼中にあり――か。人を馬鹿にしてるな。そりゃ、聞えません伝兵エサンと来るじゃないか。三吉一つ歌って見や。

――正岡子規「煩悶」


本を読むのは好きだが論文書くの辛いと思っている若人に言いたいのは、自分で書くと劇的に読めるようになる場合があるということである。全部が読めるようになるわけじゃないが。小学生の国語とおなじなんだよ。

落窪選挙

2024-10-27 22:35:34 | 文学


さすがに、おとどの思す心あるべしと、つつみたまひて、「落窪の君と言へ」と宣へば、人々も、さ言ふ。おとども、ちごよりらうたくや思しつかずなりにけむ、まして北の方の御ままにて、はかなきこと多かりけり。はかばかしき人もなく、乳母もなかりけり。ただ、親のおはしける時より使ひつけたる童のされたる女ぞ、後見とつけて使ひたまひける。あはれに思ひかはして、片時離れず。さるは、この君のかたちは、かくかしづきたまふ御むすめなどにも劣るまじけれど、出で交らふことなくて、あるものとも知る人なし。やうやう物思ひ知るままに、世の中あはれに心憂きことをのみ思されければ、かくのぞみうち嘆く。
  日にそへて憂さのみまさる世の中に心づくしの身をいかにせむ
と言ひて、いたう物思ひ知りたるさまにて


あはれお前はさっさと落選せよとは言いがたいので、落窪物語でもよむべし。継子いじめに怒り心頭、それが権力に対するなにかになるかもしれない。

わたくしぐらいになると、「今日投票行った?」と家のメダカからも言われる。勝手な想像だが、やはり家族を抱えていると投票ぐらいいかねばと思う人は多いんじゃねえかなと思う。わたしも家族がいなかったらメダカも喋るきがせんし。

それはともかく、むかし爆笑問題が「暴走族をおならプープー族と言うべき」と言ってたけど、闇バイトも、なにか別の言い方をかんがえるべし。しかしやってることがかわいげも何もないからひどいネーミングしか思いつかない。自民党でも民主党でも何でもいいが、空気を読むことで疲弊して必死に仕事をやれなくなると、人間かわいげがなくなるという事態だ。暴走族はただ走るのが好きだった面がかわいげをかもしだしていたのである。

かわいげがなくなると、人間エンターテインメントに走る。劇場型選挙とはそういうものである。

思うに、我々がかくもかわいげをなくしたのには、近代文学にあったようなヒステリックな叙情に対する評価をあやまってきたというのがあるとおもう。例えば、伊藤左千夫みたいなものの評価に失敗しているところがあると思うのである。短歌に対する評価はいろんな理由でどこかヒステリックになりがちなんだが、それも原因のひとつだろう。短歌だってほんとは被り芸みたいなところがある。これを「叫び」とか言っているうちになにか自らの感情を見失った。

例えば、英霊というものは何か被りたがるものであってその代表的なあれがゴジラである。最近はかぶることもやめてただの絵になった。ほんとの「英霊」があるかのような馬鹿馬鹿しい評論が増えているが、「叫び」の存在論化みたいなことが起こっているのであろう。たぶん、根岸短歌会が子規亡き後どことなく厳格なボスの不在に悩んでいたことと関係がある気がする。

例えば、組織のなかの手続きを厳格にしただけで、その組織はかなりまともになる。意見徴収の場が知らないうちに合意形成のエビデンスに使われるみたいなことを許していると、FDなんかも合意形成の場になってしまうのである。そんな緩さが許されている場合には、合意形成は、何か英霊や叫びに左右されるわけであるから、――同時に、空気読まずに意見を言うたった、あるいは放言したおれがエライみたいな人の存在をそのご本人を筆頭に過剰に評価してしまうことになりかねない。

ほしや男、をとこほしゃ

2024-10-26 18:54:07 | 文学


さる山伏を頼みて、てうぶくすれども、その甲斐なく、我と身を燃やせしが、なほこの事つのりて、歯黒付けたる口に、から竹のやうじ遣ひて祈れども、さらにしるしもなかりき。かへつて、その身に当り、いつとなく口ばしりて、そもそもよりの偽り残らず恥をふるひて申せば、亭主浮名たちて、年月のいたづら一度にあらはれける。人たる人嗜むべきはこれぞかし。
 それより狂ひ出て、けふは五条の橋におもてをさらし、きのふは紫野に身をやつし、夢のごとくうかれて、「ほしや男、をとこほしゃ」と、小町のむかしを今にうたひける。一ふしにも、れんぼより外はなく、「情しりの腰元が、なれの果て」と、舞扇の風しんしんと、杉村のこなたは、稲荷の鳥居のほとりにて、裸身を覚えて、まことなる心ざしに替り、悪心さつて、「さてもさても我あさましく、人をのろひしむくい、立ち所をさらず」 と、 さんげして帰りぬ。 女程はかなきものはなし。これおそろしの世や。


歓喜天を訪ねる旅がしたいものだ。色道は実際に道であって、上の西鶴なんかでも、俄然もりあがるのは、「ほしや男」といいながら小町踊りをやりながら女が移動してゆく場面からであって、閨の場面ではない。

ゴジラも台風も移動する物体であるが、やはり日本に上陸するまでが盛りあがっており、日本に上陸したとたん、その移動のドラマがなくなり、ただの桎梏と化す。好色女や男が閨房から外へ繰り出してゆくのに対して、ゴジラや台風は日本にぶつかって砕け散るためにやってくる。じつに竜頭蛇尾がひどい。我々が外に出たがらないのも、海の壁の存在もあるが、動きを止めるものばっかり目撃しているせいもあるのではなかろうか。動きが鈍いのは、イメージとしての大和撫子もそうである。特撮だと、モスラがそれにあたっており、日本のモスラはじつにかわいくふくよかである。特にすこしむかしのモスラ映画では、ほそい小美人とか満島ひかるとかがモスラと対照的にでてくるのだが、これは錯覚を利用して、女性性とモスラをダブらせるためであろう。

で、――故に、この前、ゴジラとキングコングが、別の蜥蜴と猿と戦う映画をみたが、とりあえず、モスラが実にかわいくない。たんにリアルな怖ろしい顔つきの蛾ではないか。こんな怖ろしい女房の言うことを聞いているとは、アメリカの男性は実にルサンチマンの塊と化しているのであろう。そういえば「羊たちの沈黙」でも蛾は嫌われていた。我が国なら普通にモスラに似た蛾をクラリスが飼っている設定にするはずだ。そういえば「ナウシカ」がそれであるな。。。

そのくせ、日本では、実際の女性には眉毛以外に蛾を求めないのが奇妙である。

そういえば、面接試験とかで採用されている、愛嬌があるみたいな基準て、まあルッキズムといえばそうなのである。

愛嬌と言えば、「朝ドラ」の主人公なんかであろうが、なぜか食べ物に関係ある役柄が多い。もっとも、あれを見るのが食前か食後かによって印象がかなり変わるにちがいない。ケーキ職人のやつは食後のデザートでよかったかもしれないが、カップラーメンとかおにぎりはどうなんだろうな。――それはともかく、どうもモスラを食べるところまで行かないから、半端にルッキズムと食欲が結びついてしまうみたいなことが起きるのではなかろうか。

日本で何かを仕組む人というのは、どこかしら、人相が欲望と切り離された顔をしている。安倍とか石破とは逆に岸田元首相なんかがそうであろう。彼はおそらく、安倍も石破もつぶすつもりでいろいろ計画してたに違いない。いっそのこと、義経もつぶして木曽義仲の天下にしていただきたい。

欠如と進化

2024-10-26 00:59:49 | 文学


男  話がそこまで来たなら、僕も云つてしまひませう。僕は、今迄、恋愛の過程でしかないやうな、さういふ友達づきあひほど、異性間の間柄を月並にするものはないと思つてゐました。それで、どうかして、自分も男であることを忘れ、対手も女であることを忘れて、しかも、お互に、異性からでなければ受けられないやうな……親しみ、と云つては悪いかな、まあ、一種の親しみですね、さういふものを感じ合ひ、それによつて、お互の生活を新鮮にして行きたいと思つてゐたのです。
女  あたしは、異性の友達といふものに、それほど期待をかけてはゐないの。生活を新鮮にするのは、新しい恋愛だと思つてゐるんですからね。しかし、恋愛のできない男――かりにさういふ男があるとすれば――そして、さういふ男性を友達にしてゐるとすれば、それはそれでまた面白いと云ふ程度なの。しかし、あたしは、あなたを恋愛のできない男の一人だとは思つてゐませんわ。


――岸田國士「恋愛恐怖病」


恋愛したくねえ若者が多いという都市傳説があるが、本当だとしたらまあ損だという感じがしないではない。なぜなら、「恋する乙女」とか「恋する青年」はそれだけでいいことしているみたいに見てくれる人はいるからだ。近代の「恋愛幻想」がほんとに事切れる前に褒められておかんと本格的に「恋愛→心中」みたいな時代が来るとコマるのではないだろうか。

とはいえ、人間は「結婚しないマイノリティ」に向かって進化しているのかもしれない。大学を含めた学校が困惑しているのは、毎年新手の問題児?がでてくるからで、――どうみてもこれは本人の意思を越えた種の生き残り戦略か進化としか思えない。マジョリティの対策を遁れ我々は問題児へと進化しているわけだ。

学者の世界もマイノリティに向かって進化する。例えば、和辻哲郎とくるとすぐナショナリズムが~、という反応を起こす人はマジョリティだったのかも知れないが、いまは激しく馬鹿にされている(私だけかも知れないが。。)。思うに、そのマジョリティとやらは、一種の欠如を埋めようとした過剰反応によってでてきた(これも進化なのかも知れない)からである。

ヒュウマニズムの流行もパーマネント・ウェーヴの流行と同じ性質のものだぐらゐの常識を備へてゐないと、現代に処する事は難かしいのである。


小林秀雄は、「鏡花の死其他」でこのように言っている。小林自身は、花田★輝みたいに、隙間産業に注目して自らの死後、次世代のヒーローになる戦略をとらず、いまのマジョリティはマジョリティじゃないんだと言い張ることにしたのだ。これは、ある種の現実否認である。どこかで小林はなにかの法則のようなものに押されながら世の中に押し出されてしまった自覚があった。確か呂政慧氏の研究で言われていたのだが、――近代においては複雑な合唱曲よりも単旋律の曲の方が国を超える可能性があるように思えるが、逆で、合唱曲を作れない国では歌詞の翻案のニーズの方が大きく作用してしまうことがありうるそうだ。一歩先に音楽の近代を一部成し遂げた日本の合唱曲が音楽的に複雑であったにもかかわらず、歌詞を翻案することによってその作曲能力を持たなかった時代の中国に越境してしまった、というような研究であった。思うに、日本におけるクラシック音楽もその作成能力のない日本に越境するさいに、――小林秀雄とか吉田秀和とかが、音楽を凌駕したその翻訳のニーズの権化みたいに出てきたかも知れないのだ。

しかし、我々の社会は、欠如を欠如としておもわず、おなじ平面に「合格」させるみたいな平等戦略をとるようになった。本来的にロストしているものなどない、というわけだ。そういえば、ずっと議員をやっているような人に対する落選運動を嫌う人(――かなりの受験エリートであった)にむかし聞いたことあるんだが、受験に失敗しろみたいにきこえていやだから、逆に応援してしまうと。政権交代のために、受験生を全員落とせば良いのではないだろうか。

吉祥寺の歓喜天を訪ねる(香川の神社?-1)

2024-10-25 21:20:32 | 神社仏閣


錦町の吉祥寺内にあります。歓喜天は秘仏なのであるが、いわばマル秘マークのようなもので、かなり目立っている。



神社になりすましているのであろうか。だいたい犬というのは、主人が誰かもちゃんと確かめずにガードマン役を買って出たりするものである。



これは有名なあれで、一人後ろを向いている。授業態度悪しということで成績不可になるわな。


数化

2024-10-24 23:55:22 | 文学


とにかく、あめりかの空気は明るい魔術だ。一種の同化力をもっている。子供にすぐ反応する。行って一月も経たない子供が、喧嘩する時にもう日本人のように手を挙げずに、すぐ拳闘の構えで向って来る。それはいいが、一ばん始末のわるいのが、ちょいと形だけアメリカ化しかかった欧州移民の若い連中だ。きざな服装にてにをはを忘れた英語を操って得とくとしている。あるとき僕が、日本人のH君と公園のベンチに腰をかけて、何か日本語で話し込んでいたら、こんなのが十四、五人集って来て、
「おい、支那人、アメリカにいる間は英語で話せよ。」
 ここにおいてかM大学弁論科首席のH君、歯切れのいい英語で一場の訓戒を試みて、やつらをあっと言わしたのだが、そのときは僕も愉快だった。この民族的な痛快感というものは一種壮烈な気分である。が、それはそうと、外来移民の子弟と黒人とユダヤ人の問題をどう処置するか――これが今後のアメリカにおける見物だ。


――谷讓次「字で書いた漫画」


『課長島耕作』が差別的策動をしたとかで騒ぎになっている。

わたくしは、子供の頃高校までほぼ漫画を読んでいないせいか、漫画に対する記憶力が悪い。子供の頃読んだ文章はわりと覚えているのに。『課長島耕作』もどこかで読んだはずだと思っていたが、実際はサラリー万金太郎だった。――というか、彼の妻の柴門ふみの方がはるかに優秀なのではないか。読んだことないけど。とにかく、有名人の夫婦でよくみてみたら、妻の方がはるかに優秀だったみたいなことが多すぎる。

多すぎる。これが問題だ。幇間が改革者の顔をしているのは例外ではなく、極めてよくあることであるが、そういう常識を忘れさせるのは数字である。空気ではない。たいがい、見える化は見えない化に過ぎなかった。

きのう、希望的観測として、批評家というのは教育者にかなり近い、と授業中言ったが、そういう意識を持った批評家はかなりまた別者である。見えないものを見るのが言語だ。言語が新たな感覚器官だからであるが、我々は、その多さ――数化に錯乱する。その錯乱をしらないものが批評家の場合、結局は数しか見えなくなってゆくのであった。

上の「字で書いた漫画」というのは、すごく危機的な意識をあらわしたものである。字は漫画になるのか?まだ、なっているうちはいいのだが、谷の言う『処置』はすぐカウントされ始める。

体調悪化と成長消滅

2024-10-23 17:57:58 | 思想


ルカーチはまだマルクスの自己疎外という主張を知らなかったんです。もちろん、ヘーゲルのことは熟知してましたが、マルクスの『経済学・哲学手稿』を見ていない。だから、もっぱら対象化という概念で物象化を捉えていた。つまり例えば、労働を通じて自然を対象化するということ。自然を人間化し、技術の対象にして利用し繁栄していくわけでしょう。人間が使えるモノに万物を取り立てていくという近代の基本的な営みとして、労働の対象化を捉える。下手するとマルクス主義から離れてしまうようなコンセプトから、ルカーチは近代を定義していく。マルクス主義から見ると非常に危ない。そういうものとして私は読みました。

――「「叛乱を革命から解放する」: 長崎浩氏とのインタビュー 前半」https://platypus1917.org/project/


最近、長崎浩とか津村喬の著作が航思社のキレイな本になり、川原にシワシワになって落ちてる感じがなくなることでありがたみが減じた。まさに、「人間が使えるモノに万物を取り立てていく」みたいな感じに思えておかしいが、この運動家たちの思考というのは今考えてみると独特で、頭でも身体でもなく、体調によって考えるみたいな感じがする。

ツイッターなどにおける病――宮台真司などはそれにナルシシズムをみて批判していたと思うが、イイネ欲しい病とイイネを押したがる病とはなにか違う病のような気がしてならない。円環して一つの社会的病だというのはわかるが、どうも体調が少し良くなったからやたらイイネを押すというのはあり得る。体調が悪くなったら革命はむりだが、体調をよくしとけば自然生長も可能だというかんじである。柄谷行人も志賀直哉を「気分」の作家だと言っていたが、これだって、おなじような世界観のような気がする。

しかし、彼らはとりあえず成長を急ぐ甲斐性があった。非常にあったといってよいとおもう。

対して、最近はプロレタリアート化なのかプレカリアート化なのか知れないが、自分の実力を一顧だにせず、自己肯定という肯定、あるいは自己否定という肯定を意地でも行為として行うやつが多すぎる。うまくいったりいかなかったりするかのは、単に実力がないからである。成長する過程ではそんな両極の現象は起こりえない。そのためには他人を観察しなきゃだめだし、人のために働かなきゃいけない。宴会なんかをやれば信じがたいほどナルシスティックなやつがいる。宴会は人を楽しませるために行っているのであって、卒業論文なんかもそうである。――自分のことだけを考えると、それは自分の実力や他人との関係でできあがる何かではなく、すべてが体調や気分の問題に切り替わってゆくのである。

乗り越えと解体

2024-10-22 23:32:55 | 思想


「好きにしたらいいよ」と言うと多くの子どもは「ロックスターになりたい」とか「マンガ家になりたい」とか「モデルになりたい」とか、それはちょっと無理じゃないか的な願望を語るので、親御さんとしても簡単には首を縦に触れない事情があるんです。でも、これは心を鬼にして(というか仏にして)、そういう夢想を語る子どもに対しても「まあ、好きにしたらいいさ」と言ってあげるのが親心というものだと僕は思います(頷いてくださる親御さんは少ないとは思いますが)。
 でも、自分の経験を踏まえて申し上げますけれど、子どもの進路について「まあ、好きにしたらいいよ」という宥和的対応をしておくと、それからあとの数十年にわたる親子関係はわりと穏やかで、友好的なものになります。


――内田樹「今中高生に伝えたいこと。進路について」(http://blog.tatsuru.com/2024/10/20_0940.html)


ここ10年ぐらい、ある批評家に高校生が質問したのを、学生が答えて、その批評家が答えたものと比べてみる、というのを授業でやってみてるんだが、10年前と比べてわりと学生の答えが徐々にその批評家の見解を乗り越えつつある気がする。これが時代というやつかのう、と思う。しかし、決してレベルが上がったわけではない、ただ乗り越えたということだけだ。

うえの内田樹氏なんかは、どことなく昔の高校の先生を思わせる人で、世の中こんなもん、みたいな常識を言う人である。こういうタイプが最後の抑圧者としてあった意味を考えなければならない。内田氏も東大出で、以前、まるで芸風が違う田島正樹氏が「クレバーなかんじ頑張って」みたいな応援をブログのコメント欄でしていたのをみた気がする。こういう現象はわたくしには出現しようがない気がする。東大出身、なんとか大出身というのは、大がかりに造成された「氏」という気がする。むかし、芳賀紀雄先生の論文で学んだが、律令制度で「氏」が個々の家へ解体し、それが「萬葉集」の作風の変化に繋がったという。そういうことは、現代においてもあるかもしれないわけである。いまだったら、この「氏」への意識は学閥みたいなものである可能性はあるかなと思った。「氏」は解体しながら、のちに大々的に平氏とか源氏となって幽霊のように復活した。いずれそういうことも起きるのかも知れない。

国語研究室合宿で海の近くに泊まりました

2024-10-20 23:50:07 | 大学


全体からいうと、主従の関係、人と人との間の道徳であり、集団生活、社会生活の道徳でない点において、武士道は現代生活の根本精神とは一致せざるものである。あるいはまた、家族生活の特殊形態の如きものもこの例であろう。家族生活は如何なる時代にもあるが、その生活の形態なり様式なりは時代によって変化するので、徳川時代のそれは平安朝のそれとは遥かに違ったものであり、そうしてそれは徳川時代の民族生活、徳川時代の社会組織や経済機構の下において、始めて成り立ちもし維持せられもするものである。それとても、遠い昔の家族形態から民族生活の変化に応じて歴史的に発展して来たものであるには違いなく、それと共にまた、徳川時代の家族形態によって馴致せられた家族感情というようなものが、徐々に変化しながら今日までも或る程度に遺存してはいる。

――津田左右吉「日本精神について」


自由の追究を断念させられた主体こそが、集団形成をなしえない。反抗とか依存体質とか道徳心とかの説明を加えると分からなくなるが、つまりは精神の動きが体の運動としてつながっていないのだから、組織も個人の自由も不能である。全体主義的な状態は苛烈なぶんだけ十分自由な主体に移行できる。実際、現象を見た限りは、名だたる統制的国家がそういう運命をたどっている。

結局、どちらかというとそういう運命を持たない場合、我々はこんな感じの生物である↓



わがままで可愛らしく、一人で生きてゆける。すべての条件を整えられて。