鬼婆々の話の元は、安達ヶ原の黒塚のあるじが鬼であつて、旅人を取つて喰つたといふのであるが、更に其話の火元は、かの平兼盛の歌の、「みちのくの、安達ヶ原の黒塚に、鬼こもれりといふは誠か」といふ歌だ。而も其の歌は、其の詞書きによると、みちの國名取の郡黒塚といふ所に、源重之の妾が大勢居るといふ噂を聞いて、其の妾を鬼に見立てゝ、からかつたに過ぎないので、安達ヶ原ではなかつたのだ。安達ヶ原は、鬼と言はんが爲の言葉の遊戯に外ならぬ。本當の黒塚は、今の仙臺在秋保温泉のあたりにあつた。大和物語に、「名取の御湯といふことを、常忠の君の女の讀みたると云ふなむ、これ黒塚のあるじなりける」とある。
それが本當の安達ヶ原の鬼の話になり、武藏までも、大和までも、更に豊前までも飛んで行く。恐ろしこ事だ。(喜)
――喜田貞吉「安達ヶ原の鬼婆々(餘白録)」
創造性とか独創性みたいなことを言おうとしたら、差別化ということですねと、人間の腹を切ったりする学部の人に言われたことがある。ここでいう「差別」というのに餘白はない。差別がだめなのは、この餘白のなさによる。ユダヤ人とアーリア人の餘白がないのだ。
考えてみると、ネット世界は常時アンケートみたいなものであるが、ここでも餘白が無限化しているので事実上0になってしまっている。アンケートという意見聴取のやりかたも最近は組織の中で行われても、かなりうまくいかない。あたりまえだが中にはいい意見もある。しかし便所の落書きも多い。おなじような意味で、アンケートに過剰によりかかった研究の意味を再考することは必要だと思うが、――それはともかく、落書き自体が餘白に見えてくる効果があるので、意見聴取自体がそういう餘白を感じるだけのものになってしまうのである。
もう2年前の文章だが、『季報唯物論研究』に載ってた吉永剛志氏の、柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』の書評を読んだ。そこに書いてあったのは、人しれずデモに皆勤する柄谷の姿で、まさに餘白を埋めるものであった。氏は、運動とは余白を繋ぐのだみたい言い方をしていたが、それはよかった。少数派の連帯というよりよいと思う。「透明になっている人たちを可視化する」というのもあまり好きじゃない。実際は透明でないのだから。マジョリティとやらをあまりに盲目扱いにするのは思い上がりであって、見えているものをちゃんと見ることが大事なのである。
田中東子氏の『オタク文化とフェミニズム』買ってたので、少しこの前読んだが、これはなにか、見えているものをちゃんと見すぎた結果、それが自動化しかかっているような気がした。
なぜそういうことが起こるかというと、オタクやフェミニズムが相手にしているが、群衆で、そのラディカルさを見つめようとしているからだと思う。この前、つい文藝春秋の十月号を買ってしまったのだが、精神的に不安定のときに、こういう雑誌をただめくっていると落ち着いてくることはたしかだ。スマホだと記事の向こう側に記事がある無限性が怖ろしい。雑誌はそれがなくて安心だ。菊池寛はそういう心理も分かっていたような気がする。文藝春秋なんか幕の内弁当だと揶揄されながら保守の本質をわかっていた気がする訳だ。おなじ雑誌でも純文学だけに特化されているそれには別の意味で無限がある。愚にもつかないことが書いていないからだ。
後期の授業で「天声人語」を注釈して徹底批判する体の演習があるんだが、小峰ひずみ氏の『悪口論』が参考になるかも知れない。悪口とは庶民の営みであり、ブーメランが飛びかうそれだけの世界だ。大事なのは悪口ではなく罵倒だ。授業は、天声人語の悪口を言っていいんだという前提から入り、自らの「庶民」の自覚というブーメランで自決しようというわけだ。罵倒はロケットだから大学では扱わない。
『老人ホームで死ぬほどモテたい』論の半期の授業もなんかうまく行く気がしねえな、緊張してきたわ。わたくしは、そもそも餘白が多い定型の世界が苦手なのだ。
通訳にお金を盗まれたので、大谷君は盗塁に執念を燃やしていると同僚に言ったら無視されましたが、――わたくしは、かかる定型に慣れない冗語がすきなのである。これはわたくしがいまだに独身者の性格を引き摺っているからではないかと思うのだ。
二十代の頃、なんとか研究会とか読書会で出会ったひとと付き合ったことがあるが、――未熟な文学青年と文学少女のあれで、頭の悪い紀貫之が頭が悪い紫式部とつきあったらどうなるかというディストピアを生成させることがあるので気を付けた方が良いと思う。ここでわたくしは、バイナリー的世界というか、そういうもんへの恐怖を植え付けられた。
大谷選手の映像見ていると、大リーグの選手ってけっこうみんなちっちゃいし玉もあまりとばせなくてたいしたことないなとガリバー的勘違いを起こしかねない。これも餘白なしの反転であって面白いが明らかに間違っている。いまだに、大谷が憧れを勝手に超えてしまった世界は、向こう側にあるのだ。これは餘白ではなく、まっさらな目標的な世界である。アメリカなんかは表象に過ぎない。
ある数学の研究者の計画書みたら、なんとか予想のある条件下の解決をこの際このメンバーでめざします、みたいなことが書いてあって、たぶんもう少しで解決しそうなのでこういう書き方になってるんだとおもうが、わしもいつも目指してんだけどなと思った。