★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自助・勉強・糞尿

2025-02-28 23:22:34 | 文学


リーン・フェミニズムで引き合いに出される、シェリル・サンドバーグの『リーン・イン』というのを少し読んでみたが、なるほどこういうかんじだったのか。。よく知られているように、この書物だけに反論するためにだけに書かれた本がある。わたくしはこの分野には遅れに遅れてしまったためにこれから勉強しようと思っているが、少なくとも言えることは、本人がどういう働き方をしているかみるまでは全て信用できないということだ。サンドバーグは言う「ブレーキにはじめから足を置いて仕事を始めてはいけない」「アクセルを踏み続けろ」と。これが現実の文脈によっていろいろな意味になってしまうことは自明である。しかし、セルフ・ヘルプ(『自助論』)の本というのは、少なからず文脈を踏み破る暴力的な性格に依存しているところがある。だからそれは、ある種現実に目を向ける起爆剤としての意味を持つことがある。明治に流行った自助論だってそういう面があったに違いない。

北村紗衣氏の「【お砂糖とスパイスと爆発的な何か】『LEAN IN』はどこにつながったのか? ギークガールのロールモデルとシリコンバレーの闇」でも触れられていたが、サンドバーグの本にたいする、白人女性の大企業の成功譚にすぎないみたいな批判が、逆に否定的媒介になって、IT業界の人種・性差別問題を摘発する本が陸続としてあらわれることにもなったようだ。

しかし、こういう否定が肯定に、肯定が否定に転化する如き現象そのものはまだ学問の出発点にすぎない。

以前、あるIT系の人間と会ったことがあるのだが、なぜか大学卒に激しく怨みをいだいており、大学に入る奴はすべて母親が「教育ママ」だったのだと断言していたが、なんかしらんが彼のパートナーがまさに至れり尽くせりの教育ママみたいになっており、まさに否定が肯定に転化する法則を証明しているようであった。戦後の所謂「教育ママ」の起源を見た気がするが、――こういう人間たちにあるのはルサンチマンではなく人間への蔑視なのである。しかし、まだ上のITの人はのし上がってきた誇り(――というよりこれもまた蔑視の対義に過ぎないが)があって、まだ感情そのものは認識できるような気がしないではないが、同等に最悪なのは、教★学部の学生とかが、学問にのめり込む同輩を「ガリ勉」とか言って仲間はずれにしている様である。こういうのが現場に出て行っているかと思うとぞっとする。「教師は勉強だけじゃない」とか条件反射してしまう、勉強不足の人に言っておきたいのは、そういう人間は上の「仲間はずれ」を教室でも確実にやっているということである。「勉強できないけど人間性はよい」子を擁護する、みたいな雑な理屈で。そういうのを差別というのだし、その実、子どもの群れに阿っているだけなのである。具体的によくみられるのは、勉強もそこそこできる良心的な生徒や児童に調整役をやらせておいて、自分はでかい声で陽キャ風な先生をやっているやつである。正義の鉄槌を下す教師が駆逐され、そのかわりに暴力はふるわないが差別的な猿が就任したようなものだ。「教師は勉強だけじゃない」というのは、本質的に知的な勉強好きの教師だけが言ってよいせりふで、それ以外は単に自己弁護や差別になってしまうぐらいのことが分からない人間が、自分に似たような人間を集め出してしまったのが教育界の地獄である。ブラックという形容はまだ制度設計に罪を負わせようとしている点で逃避にすぎない。蒙昧な群れにみえるところに良心的な人間が行くはずがないわけだ。

ちょっと極端なみかたであるが、――平等というのは、1点刻みの学科試験でジグザグな横並びにされる感覚で、面接試験で当落みたいなものが身分制の感覚に近い。実際に、スクールカーストなんか、その平等を人間性で破壊するために行われているようなものではないか。人間性への蔑視はみずからの人間性への過剰な信仰からも生じている。

今や今やと、夜更くるまで板の上に居て、冬の夜なれば、身もすくむ心ちす。そのころ、腹そこなひたる上に、衣いと薄し。板の冷え、のぼりて、腹ごほごほと鳴れば、翁、「あなさがな。冷えこそ過ぎにけれ」と言ふに、強ひてごほめきて、ひちひちと聞ゆるは、いかなるにかあらむと疑はし。かい探りて、出でやするとて、尻をかかへて、惑ひ出づる心ちに、鎖をついさして、鍵をば取りて往ぬ。あこき、鍵置かずなりぬるよと、あいなく憎く思へど、あかずなりぬるを、限りなくうれしく、遣戸のもとに寄りて、「ひりかけして往ぬれば、よもまうで来じ。大殿籠りね。曹司に帯刀まうで来たれるを、君の御返りごとも聞えはべらむ」と言ひかけて、下におりぬ。

そういえば、落窪物語は、糞尿を用いた笑いが多いからという理由で作者が男とみなされているとどこかに書いてあった。サンドバーグももう少し子どもの糞尿についての記述を多くすればよかったのであろうか?

地獄的なあまりにも地獄的な

2025-02-27 23:52:36 | 文学


僕たちはサルトルと同じように神を信ずることはできない。 すでに僕たちの前には神は消え去ってしまっている。仏陀を信じてその教えの下に生きるということはできない。とすれば僕たちもサルトルと同じように、孤独と孤独が打ち合うものという風に人間を考えるところでとどまるのか。実際、コンミュニストのなかにも、まだこの人間の孤独から脱けでることが出来ていないひとがたくさんいる。僕自身もこの人間の孤独感にはげしくおそわれて、もはや処理することのできないような苦しい感じを抱かされることがあるが、この間も、二十代のコンミュニストの一人とこの問題について話し合ったとき、彼は、「如何にしようと、人間のエゴイズムはぬぐい去れない、いくらかなりとも残る。」という主張を苦しげにした。 そしてこのエゴイズムは福田恆存氏が肉体的事実と一しゅうするそこのところに根ざしているのである。僕のコミュニスムはこれをこえることのできるものでなければならない。

――野間宏「日本の最も深い場所」


野間は竹内勝太郎の「宗教論」の――、草で手足を縛られ、その草さえ傷つけること能わず死んでしまった僧のエピソードを紹介しつつ、しかし、仏教抜きにこの境地に達するにはコミュニズムしかないと言わんばかりである。この境地は、しかし、日本の「深い場所」、下部で蠢くもののイメージに支えられているようで、まあなんというか、つまりは地獄のイメージであろうか。野間はそれを戦場にで見たのである。だからそれはさしあたり「肉体」の苦痛の問題である。もうすでに精神は死んだ後だ。

藤本たつきの「チェンソーマン」は8・9巻当たりから、地獄の釜が開いたがごとき展開となる。いまの創作者にとっては、まだ地獄と現世は境界線がある。浅野いにおの「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」でも、地獄はまだ戦後の特撮よろしく外部からやってきた何かである。彼らは、外部と内部のレトリックを使って、最終的にはそれを混ぜてしまおうとする。そのときに、抵抗するものがあって、精神的なものであるが、しかしそれは幼児的な精神として純粋である。まだ、作者たちも含めて我々は地獄に墜ちたくはないわけだ。

労働は屡々地獄のイメージを伴う。だから「ワークライフバランス」とかがでてくるわけだが、――そんなに大事なら落合イチロー大谷あたりに言ってきてから主張しろよ、と一瞬思わないではない。が、二四時間野球のことを考えている彼らだって本当は、だからこそバランスもとれてそうである。結局、凡夫の何が足りないといえば、ワークの方である。ただし奴隷労働は除く。結局、アレントはそれを「仕事」と呼んだわけである。それは労働の阿鼻叫喚に比べて静に進行するはずだ。

阿鼻叫喚といえば、我が国においてはなぜか大人ではなく子どもが叫ぶ。ギャン泣きとか言われているほぼ病気にしか見えないものから始まって、学校でのキャキャー声に至るあれである。そういえば、それがあまりに日本語から逸脱しているように見えるからなのか、良心的な先生方は、そのエネルギーを声色を使った朗読で昇華させようというのであろうか?詩は声に出してこそだ、――みたいな主張の人は、いちど教育実習を見学して、どれだけ実際行われている朗読が地獄的に気持ち悪くなっているか確かめてきて欲しい。ちっとは公共性というものを考えてくれとしかいいようがない。下手な声優風の朗読って、作品の意味からも会話文の感情からも逸脱してるのである。つまり人間が地獄に墜ちたときの逸脱なのである。若い頃、多くの人が反発もしたかも知れない、国語教師の厳かすぎる範読って意味があったんだと思わざるをえない。

勇気と霊

2025-02-26 23:14:24 | 文学


あこき、翁の文を見れば、「いともいとも、いとほしく夜一夜なやみたまひけるをなむ、翁の物の悪しき心ちしはべる。あが君あが君、
老木ぞと人は見るともいかでなほ花咲き出でて君にみなれむ
なほなほ、な憎ませたまひそ」と言へり。あこき、いとあいなしと思ふ思ふ書く。「いと悩ましくせさせたまひて、御みづからは、え聞えたまはず、
枯れ果てて今は限りの老木にはいつかうれしき花は咲くべき」
と書きて、腹立ちやせむと恐ろしけれど、おぼゆるままに、取らせたれば、翁うち笑みて取りつ。


北の方のようなヤクザな奴、典薬助のような枯れて暇なやつに対して、どう立ち向かうのか。法律なんてものはこういうものには役に立たない。いまのコンプライアンスみたいなものは、逆に、人々に「法律」と「思い」だけを残して、倫理を破壊した。倫理とは、あこぎがお姫様の代わりに和歌で反抗する勇気みたいなものをいうのである。

我々は、コミュニケーション能力とかが宛も実在するかのように言っているが、その実、それは勇気の代わりに空気に漂っている霊みたいなものである。初期キリスト教徒もまた、弾圧のはげしい時代に空をみてそういう霊を観たのかも知れない。学生はソ連の歴史の話には興味なさそうなのに、映画「霊的ボルシェビキ」の話は前のめりできく。彼らもそんな世界で生きているに違いない。もう全てに「霊的」をつければよいのではないだろうか。霊的浮雲、霊的舞姫、霊的共産党宣言、霊的こころ、霊的死霊、霊的日本近代文学の起源。。。

前期入試

2025-02-25 23:55:46 | 大学


 故意になまけるというと、なんだかおかしく聞こえるが自分はいやになった時、無理につとめて勉強をつづけようとはせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出かければ、好きなものを見にもゆく、はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよくのみ込める。
 また、自分は読書するにしても、机の前に正しくすわって几帳面にやる時もないではないが、いかにも性質上そう堅苦しくする事を好まない。だから時々どこへなりとすわったなりそのまま本を手にして、読みつづける時もあれば、横になって見ることもあり、寝て読む時もある。ほとんど読書する時の態度は一定しなかった。要するに不規律のやり方ではあるが、どうも自分の性質として、窮屈に勉強するより、楽に自分の気に入ったようにするほうが、心がゆったりして記憶する上にもよかった。だがこんな事は決して、自分ながらも結構な事とは思っていぬのだから、読者諸君においてもこのへんのところはよく参酌して、そのうちのよい点だけを取るようにしてもらいたい。


――寺田寅彦「わが中学時代の勉強法」


久米正雄の小説はまった受験に役に立たん。いまどきの受験の「綜合」的なもの以前の物語だみたいなことも書いていたと思うが、その現状認識もおかしい。

現代の悲劇と喜劇、及び全体性について

2025-02-24 23:38:10 | 文学


あこき、わびしきこと限りなし。北の方、殿の御台参るほどに、はひ寄りて打ちたたく。「誰そ」と言へば、「かうかうのこと侍るなり。さる用意せさせて。御忌日となむ申しつる。いみじくこそあれ。いかがせさせたまはむ」とも、え言ひやらで立ちぬ。女君、聞くに胸つぶれて、さらにせむ方なし。さきざき思ひつること、物にもあらずおぼえて、わびしきに、避け隠るべき方はなし、いかでただ今死なむ、と思ひ入るに、胸痛ければ、おさへて、うつぶし臥して、泣くこといみじ。

典薬助と結婚させられそうになって再び死にたいと泣く姫君である。物語を読む人は、いずれこの状態が解消されるであろう事を知っているからともに絶望することはあまりないのかも知れないが、特に現代の我々は「共感力」とかいう阿呆みたいなものから、「感情移入」みたいなもっともらしいものまでを強制されている。確かに、絶望はいつもあり、適当に思い出す必要はあるであろう。例えばハリウッド映画で夢を見ている人々は、定期的に「マルホランド・ドライブ」のような作品を見て現実を想起すべきである。ディビット・リンチはいつも、夢と現実の両方を区別なく抱え込まざるを得ない、現代の良心的で痴呆的な人間を表現しようとしていた。こういうのをヒューマニズムと呼ぶべきであって、逆に、SFみたいなものに振れてしまっているものはアンチ・ニューマニズムである。

少し似ているがリンチ的なものと違うのが、夢を現実に持ち込む方向性を持つもので、特撮などがそうである。特撮ドラマは基本「ごっこ」の世界でこどもが遊び場で再現(したふりが)できることが重要である。というわけで、いま気付いたのだが、金八先生なんかも一種の特撮ではなかろうか。このドラマが撒き散らした再現幻想は、ウルトラマンのスペシウム光線やロケットパンチよりも強かった。

だから、我が国では、再現の欲望を絶ちきるほど現実とフィクションが似ていない、現実が秩序志向過ぎてひどすぎる事態――が傑作の条件であるとまずは考えられる。花田清輝ではないが、戦後よりも戦時中の文学にみるべきものがあるみたいな見方は、そういう意味でありうるのである。そして次に、平安朝とか大正時代に文学の質がある種急上昇したような現象のように、秩序からの逃避も秩序志向も同時に実現しようとしている場合である。現実に対する攻撃性がつよい場合と言ってもいいかもしれない。

もうみんながやってることだが、――精神医学の進捗と全体主義の相互依存的関係は、100年前の昔についてもいまについても考えておくべき問題である。たぶん、こういう時代は、極端なヒューマニズムの時代なのである。

例えば、学生指導で先生方を鬱にするのは、――どうみても卑怯な行為にしかみえないので指導したり不可にしようとしたら、配慮申請が届いたりして如何したらいいのか分からなくなるという体験である。しかしこれを理不尽だととらえるのは浅薄だと誰でも思うわけであり、そうするとこういう何が現実なのか分からないことが起こる「世界」が全体性として立ち上がってくるわけだ。しかし我々はこういう理不尽と思いたい「世界」に堪えられない。而してそれを「主義」として処理したがる。

これを芸術として全体性に近づけようという欲望は、ナチスがそれを「感情移入」の「いまここ」を全体性に錯覚させることで美的政治として考えたのとは別に、芸術家は恐らく人生によって成し遂げようとする。それが主義への激しい抵抗である。それはいつ頃から存在していたのかはわからんが、ベートーベンのコンサートなんか既にそうであった。

交響曲第5番ヘ長調『田園』(注:現在の第6番)
アリア "Ah, perfido"(作品65)
ミサ曲ハ長調(作品86)より、グロリア
ピアノ協奏曲第4番
(休憩)
交響曲第6番ハ短調(注:現在の第5番)
ミサ曲ハ長調より、サンクトゥスとベネディクトゥス
合唱幻想曲


――(Wikipedia)


これは、ベートーベンの交響曲第5番の初演プログラムである。四時間ぐらいかかったらしいが、全体としてソロと合唱付き交響曲みたいになっており、ワーグナーのオペラやマーラーの交響曲なんかはこのプラグラムを一曲で短くしたかんじなのであろう。マーラーの交響曲て、曲の最後が次の交響曲の冒頭の気分にどことなく繋がっている気がする。躁鬱の浪が曲をまたいで存在している。すなわち、これはワーグナーの楽劇よろしく、ずっとつづけて聴くべきものなのであろう。この体験においては、つまらない感情移入に没入している暇はない。これに比べると、ブルックナーの交響曲は、バッハの宗教曲みたいなもので、まったくの別物である。

そういえば、この前観た「ザ・リング リバース」の音楽が、「ただちにいま鼓動をはやくいたしましょう」みたいなこれ見よがしの音楽だったので、――音を消して、代わりに小室さんのズンドコズンドコズンドコズンドコの音楽を流したら、テンポ快調なコメディーにはやがわり。日本の貞子がコメディだとか言われるけど、――そもそも、よく研究者が指摘するように、こういうのはコメディと似ている分野なのだ。マルクスの科白を少しかえて、一度目はホラー、二度目はコメディというべきだ。そういえば、リアルでも、あなたは第二次大戦を楽しそうにはなすよね、とか言われたことあるのだが、つまりそういう事な訳だ。逆に、この話題を楽しそうに話さない奴の話って悲惨さがだいぶ軽いのだ。現実はもっととんでもないわけである。

その意味で言うと、落窪のお姫様の悲劇と復讐のドタバタはちょっとコントラストがそれほどでもない気がする。やはりこれは現実ではなく、神話とも言うべきものに近いのではなかろうか。

鏖の論理

2025-02-23 23:31:54 | 文学


早速私は、家の人形芝居でシェイクスピアを演じてハムレットの亡霊を見たり、リア王と荒野にさまようたりした。一體私には、一つの芝居の中で人物が多く死ねば死ぬほどその作が面白いやうに思へた。丁度この頃であつた、私が最初の脚本を書いたのは。それは紛れもなく悲劇といふべきもので登場人物が皆死んでしまふのであつた。筋は古くからある『ピラムスとティスベーの歌』から取った。然し私は、事件を擴げる爲に一人の者と彼の息子とを附け加へた。この二人はティスベーを愛してゐたが、彼女が死ぬと、自分達も自殺してしまふ。職者の話す言葉は大抵聖書の文句で、簡易基督教問答書から、就中『隣人に對する義務』から借りて来た。

――「アンデルセン自伝」」(大畑末吉訳)


『Papa told me』第一巻読んだ。よのなか頭のいい作家たちがうじゃうじゃいる。しかし、一話完結という形式のためか、道徳的な決めぜりふが早すぎる気もした。母親の死が起点になっているせいもあり、主人公の女の子は生き急いでいる。これは死に向かわない急ぎ方である。物語はその急ぎ方を道徳的な周囲の人物たちが宥めながら進行する。この穏やかさはしかし主人公のおっとりした性格に拠っている。こういうことは、ジェンダーの議論に載っけない方が良いような気がする。

生き急ぐと、つい我々は結果は度外視して断行をしたがる。「断行すべし実際に断行しました」、みたいな人たちは、自分が子どもの頃、勉強でも何でもいいけど断行してどれだけの何が出現したのかよく思い出してもらいたいのである。ほんとうに断行できたのか?目の前をよくみろ。

生き急ぐために死にたがる場合は、どうか。たぶん、それは幼児性である。「伝説巨神イデ★ン」が鏖のお話になっているの、自分の力のなさだったと監督が言っているのにたいし、いろんな意見があると思う。アンデルセンがまだ学校にも行ってないような頃つくっていたのが、上のように鏖の話で、死ねば死ぬほど悲劇としてよいと思ってたらしいのだ。おそらく、彼のつくる筋立てがシェイクスピアの剽窃だったことと関係がある。みずからの生の痕跡が否定的に作品に作用して全否定に走る。おそらく、社会の歯車になることは、主体的には歯車の剽窃を地で行くことになり、――だから、全否定に走りがちなのである。

神の国がやってきた

2025-02-22 23:16:54 | 文学


聞ゆれば、少将、いと悲しく思ひまさりて、いといたう泣かるれば、直衣の袖を顔に押しあてて居たまへれば、あこき、いみじと思ふ。しばしためらひて、「なほ今一たび聞えよ。あが君や、さらにえ聞えぬものになむ。あふことのかたくなりぬと聞く宵はあさを待つべき心こそせねかうは思ひ聞えじ」宣へば、また参る。道にて、心にもあらず物の鳴りければ、北の方、ふと驚きて、「この部屋の方に物の足音のするは、なぞ」と言へば、あこき泣く泣く、「疾くまかりなむ」と申せば、女君、「ここにも、みじかしと人の心をうたがひしわが心こそまづは消えけれ」と宣ふも、え聞あへず。「しかじか、驚きて宣ふめれば、よろづもえ承らずなりぬ」と言へば、少将、ただ今もはひ入りて、北の方を打ち殺さばやと思ふ。

窪んだところからの脱出、ついで幽閉からの救出劇とくれば、もはやこれは地上の人間の物語としか思えない。当たり前なのではない。世の中、神が神を殺す世界においては、腐乱した屍体であっても神は洞窟から逃げようとする神を追いかけるし、剣の先っぽにあぐらをかいたりするのであるが、人間が人間を殺す世界は、白が黒にひっくり返るオセロの世界に過ぎない。復讐の鬼と化した少将が「北の方を打ち殺さばや」と思った時点で話は本質的には終了しているのである。

しかし、世の中、そんなふうに終了はしない。最近のリアルポリティクスにしちゃ大げさな展開も、「トランプは王様だ」みたいな人間界的なお話ではない。露西亜とウクライナの戦争を止めようとしているトランプの狙いはおそらくNATOの解体である。すなわち、アメリカも問題だが、そういうアメリカに見捨てられたNATOがそのままでいられるかといえばそうではないだろうが、百年前の体たらくは嫌だから、そうだ中国とヨーロッパが合体だ、朝青龍あたりが大統領でいいのではないだろうか――こんな展開の方がリアルだと思っていた方が良いのである。

共産主義という妖怪はまさに妖怪であって、ソ連あたりが「人間の理想郷」でござるみたいな様だったときにはそこから離脱してどこかに行っており、ソ連が崩壊したときにNATOを再組織化すべく暗躍したに違いない。人間の話としてみれば、――ソ連があったおかげで美味い汁を吸ってた連中が――共産主義者にもリベラルにも軍事産業にいて、ほんと世界中にいたわけだ。そういえば、最近、教育界にもいて、ソ連が居なくなったら「一方的な講義」をそこに代入して溜飲を下げている。つまり、これらは実体のない「反共」であったという話にすぎないが、それを動かしている側から見れば、「妖怪」の為業である。たぶん、この「妖怪」が死ぬのは、原子爆弾のような、上の少将の「ころさばや」の極めて人間的な物象によってである。その規模が「神」を思わせるかもしれないが、あの爆発は人間の姿である。そして、妖怪や神は、爆弾同士の均衡とやらで原子爆弾が作動しなくなると、我々をコントロールし始めたのである。それが戦後の歴史である。

我が国の学問の対立に置き換えてみれば、実学は原子爆弾である。どうみても金と広い意味での殺意が絡んでいるのが「実学」である。そもそもこれが大学での学問を僭称せずに撤退すれば、国も大学にそんなに金かけなくてすむ。それが人間的行為だからいずれ単なる死に向かうのが実学である。

役に立たない学問を排除するのはケシカランという意見はわかるし、上のような意味でも実際だいぶケシカランのだが、学問の世界には「本質」的なことに絶対に向かえないタイプの本質的逃避型みたいな学者もいて、事態をややこしくさせることは確かである。人間的感情、この場合は忌避の感情だが、これが絡みすぎている。これはザ実学ではないが、実学の一種である。しかしこういう人たちにたいして、その「本質」を生活や社会に置換して攻撃するのは卑怯だし、意味がない。

例えば、自分のパートナー?が横暴だからといって怒りのあまりそれを「家父長制」とか「ジェンダー何とか」のせいにしきってしまうのは「実学」なのである。その人が人としてアレな部分の帰趨を考えること、その人がいずれ死んだ後の歴史を怨恨を超えて考えることが妖怪や神として考えることである。左翼や右翼のことではなく、生き残りをかけた改革を煽っていた――怒りのあまり、ここ二十年ぐらい、危機を煽ってばかりいた人間はほんとに危機が来たとき「それみたことか」と言うかもしれないが、彼らのやってきたことはたいがい何事も危機に脊髄反射するレベルに多くの人を人間化してしまうことだったと思う。狼が来ないので村人から金を盗んでその金で狼を連れてきたみたいな話になる。すなわち寓話にしかならない。

アンデルセンと髙塚謙太郎

2025-02-21 23:01:09 | 文学


母はよく落穂拾ひに畑に出かけた。その時は私も一緒に、丁度旧約聖書にある「ボアズの富みたる畑」のルツのやうに母にくつついて行つたものだ。或る日、私達は有名な意地悪おやぢが差配してゐる畑に行つた。ふと気がつくと、その男が見るも恐ろしい大きな鞭を持つてやつて来た。母と他の人達は皆逃げてしまつた。私は素足に履いてみた木靴を失くしたものだから、切株が痛くて走る事が出来ず、一人だけとり残されてしまった。既に鞭は振り上げられた――私は彼の顔をじっと見上げて叫んだ、『打つならお打ちなさい、神様が見ていらつしやるよ。』すると、そのおつかないおやぢは、急に相好をすつかり崩して私を見下ろした。そして私の頬を突つつきながら名前を聞いて、その挙句にお金を呉れた。私がこのお金を母に見せると、母は他の人々に向つてかう云つた。『このハンス クリスティアンといふ子は、まあ、何といふ奇妙な子でせう。誰でもこの子を見ると不思議に憎めなくなるのですよ。あの意地悪がお金を吳れたんですとさ。』

「アンデルセン自伝」――恥ずかしながらはじめてよんだきがするが、なにこれすごく面白いぞ。。

髙塚謙太郎氏の『Sound & color』も読んだぞ。韻律については昔も今も「実践的」な問題だ。

臭き物どもの並びゐたる、いみじうみだりがんはしく苦しうてなむ

2025-02-20 23:26:56 | 文学


いとあはれと思して、「さらに物もおぼえぬほどにて、え聞えず。対面は、
消えかへりあるにもあらぬわが身にて君をまた見むことかたきかな
と聞えよ。臭き物どもの並びゐたる、いみじうみだりがんはしく苦しうてなむ。生きたれば、かかる目も見るなりけり」とて、泣きたまふとは世の常なりけり。あこきが心ちも、ただ思ひやるべし。人や驚かむと、みそかに帰りぬ。


ついに臭いところに閉じ込められてしまったお姫様である。最近、マイナーなことを調べたりすることだけでなく、深く複雑に考えたりすることがマニアックといわれてることに今更気付いた。こんな腐臭のする環境で思想文学をこころざす若人たちはえらいといわざるをえない。

まず、価値観なんか多様になってねえし、もし仮に価値観が多様になっているのなら、ひとの行動様式を縛る適性的な通念(社会的常識)なぞ崩壊しているはずだが、建前上そうはなってない。むしろ正しさを裁くための方便としての、――崩壊している常識(つまり実際はその都度の、不利な状況を回避できそうな意見への阿諛)で裁いて良いという特殊で残忍な思想が広まっただけではないか。ハラスメントや合理的配慮みたいなものにはその実基準がない、というか基準を作りようがない。だからその社会的適用の中で進行していたのは、社会的な顧慮、というより阿諛である。

そういう場合、正しさを踏みつぶされた人の感情は、「汝の欲する所をなせ」みたいな絶対性を帯びた方向性ではけ口を求めることになる。そうして、通信や資料を読むのさえめんどくさがってやたら人に聞けばいい――あくまでも膂力を削らないような主体性の発露であろう――と思っている人というのはますます多くなっており、そういう人が「学生が極端に受け身だよ~、自分で調べようとしないよ~」とか言うてしまうのはほんとだめである。お前に似てるからだとしかいいようがない。

窪みと井戸は開いている

2025-02-19 23:37:49 | 文学


北の方「そがいとくちをしきこと。おのが思ふやうは、あまねく人知らぬ先に、部屋に籠めて守らせむ。女思ひたれば、出であひなむず。さてほど過ぎて、ともかくもしたまへ」と申したまへば、「いとよかなり。ただ今追ひもて行きて、北の部屋に籠めてを、物なくれそ、しをり殺してよ」と、老いほけて物のおぼえぬままに宣へば、北の方、いとうれしと思ひて、衣高らかに引き上げて、落窪にいまして、つい居たまひて、「いといふかひなきわざをなむ、したまひたる。子どもの面伏せにとて、おとどのいみじく腹立ちたまひて、『こなたに、な住ませそ。とく籠め置きたれ。われ守らむ。ただ今追ひもて来』となむど宣へる。いざたまへ」と言ふに、女、あさましくわびしう悲しうて、ただ泣きに泣かれて、いかに聞きたまひたるならむ、いみじとは、おろかなり。

「リング」の貞子さんは、井戸に落とされて殺されてしまうが、井戸がいつの間にか空いており、念慮が這い出てきてしまう余地がある。落窪の姫の最初から窪んだところにいるが、男の人に好かれたり連行されたりして移動する。「北の部屋に籠めてを、物なくれそ、しをり殺してよ」――これが最初から実現したら危なかった。しかし、我々はそれが案外実現しない物語を紡いできている。「リング」はその不在の主人公が、現実の人間社会ならあり得るであろう子殺し、井戸に幽閉されて死んだ子どもをえがいていたから怖かったのである。もっとも、映画の中で井戸の死骸を救い出しても呪いが終わらないのは、その呪いが発しているのは井戸でなく、コピーが伝播するビデオやパソコン、いやそれ以前にテレビの画面であるからであった。現実を閉じ込めているそれらの箱は、我々の閉鎖空間への欲望を駆り立てながらつねに現実に開いている、と同時に閉じられている。郡司ペギオ幸夫氏が『ユリイカ』所収の「リング」論で、この作品がビデオの最後にでてくるノイズのような現実・外部を受けいれることを知らしめたと述べていた。非現実と現実がリングのようにつながるようなこういう作品が、実際我々をひらく可能性があるのかを、わたくしは、ビデオではなく現実を見て考えようと思っている。

注釈的・真逆的

2025-02-18 23:44:38 | 文学


 やがて急ぎ縫ひかけつるほどに、北の方起きて、「縫ひさすと見しを、まだしくは、血あゆばかりいみじくのらむ」と思して、「縫ひ物賜へ。出で来ぬらむ」と言はせたまへれば、いとうつくしげにしかさねて出だしたれば、本意なき心ちして、くちをしく、「いかに出で来にけむ」とて、やみぬ。

最後の「やみぬ」について、新日本古典文学大系は「話型的には一つの難題が解かれた感じ」と注をしている。注釈の本というのはこういう問いを放り投げるという趣がある。もちろん、何かを論じるにはこういうことが安定にも繋がるのであるが、かえって作品が謎に包まれることが屡々である。その謎を作品そのものの存在で意味ありげにとじてしまうやり方があってそれがエセーというものではないだろうか。

来年度は、自分の文章に注をつけていったモンテーニュのエセーといくつかの日本の随筆を比較して何か考えてみたいと思っている。

モンテーニュを読んでいると、彼が過去の出来事が現在によって次々に変形してゆくことをよく知っていたように思われてくる。それを現在によって注釈する形で表現しようとするとエゴイズムになる。そのかわり過去によって変形するとどうなのか?モンテーニュの表現しようとした「わたし」は、そういうエゴではない「私」の原形みたいなものなのかもしれない。歴史の相のもとでみるとは何なのか、むかしわたしもそういうことを考えたことがあった。

むかし。大学院に行って、学問とか好奇心ではなく、褒められるまで教育を受けようというモチベーションというのは、案外大学院生に共通するものだという気がした。箔をつけるよりイイノカもしれんが、それはそれで何かおかしい。学歴ロンダリングみたいなものが定期的に話題になるたびに、そう言いたがる人間がどういう人間・現実に出会っているのか想像することも大事である。大概は、ただの怨恨だとしても、怨恨の周囲にいろいろなものがある。ほとんどのひとは、そこから自分だけの「わたし」しか見出さないが、わたくしは不肖の文士として、目的に憑かれた学者という原形をみいだすのである。ゆえに、――わたくしが権力者だったら、人類の進歩のために学問をやってますという学者を解雇する、日本のために学問をやってますという学者を追放する、そして残った目的がない学者を一年間試験監督の刑に処す、みたいな妄想さえする。論理的には、私には権力者は無理である、となるが、その結論のほかに、学者が権力を持って目的に奉仕している様が浮かんでくるわけである。

本当は、文士全般が持っている「汝の感情や論理や欲望に忠実たれ」という側面に対して、文士的学者に必要なのは、元も子もない「汝を知れ」というユマニズムなのであるが、それはかなり昔に滅びたらしい。その原因がたぶん通俗的な相対主義である。それがなんなのかは分からんが、「お前が言うな」という伝家の宝刀を失効させた罪は重いと言わざる得ない。それはほんとは相対主義ではなく、本質的な批判にたいして心理的に軽く扱ってどうでもよいところでお茶を濁す処世術だったはずなのだが、それをただ単に嗣ぐ人はそれがわからないのでお茶を濁していた方を本質だと錯覚、というか――お茶を濁すほど簡単な事柄が多いので居丈高に騒いでいられるわけである。平たく言うと、結局それは馬鹿の台頭である。で、今度は形式論理的なことって馬鹿でも分かるからな、という批判が形式的に起こり、本質的なこととか人としてのコミュニケーションを大事にしようと「逆」に振ったら、こんどは字が読めないとかそのまま受け取れないなどの基盤的な崩壊がおこって今に至る。

「真逆」という言い方が定着して行く過程は、我々の社会が、葉蔵もびっくりの常に対義語しか浮かばない失格状態に突き進む過程だったと思う。

We few, we happy few, we band of brothers

2025-02-17 23:56:22 | 文学


This story shall the good man teach his son;
And Crispin Crispian shall ne'er go by,
From this day to the ending of the world,
But we in it shall be rememberèd—
We few, we happy few, we band of brothers;
For he to-day that sheds his blood with me
Shall be my brother; be he ne'er so vile,
This day shall gentle his condition;
And gentlemen in England now a-bed
Shall think themselves accurs'd they were not here,
And hold their manhoods cheap whiles any speaks
That fought with us upon Saint Crispin's day.


スタンダールが引用した有名なヘンリー五世の演説のシーンである。が我々が、we happy few などと言えなくなっているのは、戦うつもりがないために、少数派でないからだ。落窪の姫君はどちらかといえば、少数派ではない。虐められているだけである。我々はつい、闘いを復讐として行う。それは、闘いではない。闘わないから少数派ではなく、多数派になるのをまっている卑怯者である。虐められていても我々はいつも気分が卑怯な戦前派である。闘いを回避した人間は逆恨みを抱く。これが第一の敗戦である。

だいたい哲学や文学が逆恨みから発しているうちは、その匂いをかぎ取った社会の側が理不尽な理路を用意したり、たんなる優等生的正義派みたいなのが全権掌握をねらったりする現象は止まない。で、逆恨みの人たちは、二度目に負けるときには、逆恨み状態が心理的にはコンプレックス=複雑だとおもっているから、「転向」して頭が悪くなる道をえらぶ。たいがいインテリの「転向」は、かように、二の敗北を契機に起こる。

最近は、更なるそのあとの現象が顕著であって、いわゆる嘘による自己回復というやつである。学者達がじぶんの学問以外の道具的基準をもちだして何かを主張するようになったらおしまいなのだが、人間なのでなにか道具をあたえたらかならずそうなってしまう。業績やらなにやらを数や賞で代替できるようなおもちゃを与えちゃだめなのである。本人はもはや転向者でも敗者でもない、どこかしら狂ったピエロみたいな雰囲気を漂わせるようになる。化けの皮がはげないようにするために、本質的には保守主義者となる。

で、――ほんとこの二十年ぐらい、悪目立ちしたら負けみたいな雰囲気に棹さした奴は差別主義者として石碑に名を刻まれるべし。上の保守主義者の為業である。そういうコンプレックスもなにもない小人たちがあつまっても、コモンセンスは形成されない。最近は、かくして、小さい組織の投票行動のおいてすら、およそコモンセンスの意思表示にはなりえなくなってしまった。空気を読んでいるのでさえないから、ほんとに最悪である。

復讐するは吾にあり

2025-02-16 20:10:59 | 文学


人の聞くに恥づかしく、恥の限り言はれつる名を我と聞かれぬること、と思ふに、ただ今死ぬるものにもがなと、縫ひ物はしばしおしやりて、火の暗き方に向きて、いみじう泣けば、少将、あはれに、ことわりにて、いかにげに恥づかしと思ふらむと、われもうち泣きて、「しばし入りて臥したまへれ」とて、せめて引き入れたまひて、よろづに言ひ慰めたまふ。「落窪の君」とは、この人の名を言ひけるなりけり、わが言ひつること、いかに恥づかしと思ふらむと、いとほし。継母こそあらめ、中納言さへ憎く言ひつるかな、いといみじう思ひたるにこそあめれ、いかでよくて見せてしがな、と心のうちに思ほす。

復讐するは吾にあり。

「マッドドッグ」という青春・任侠映画をみたことがあるが、寄り添い恋愛モドキ映画より、よほどこういう物語のほうが寄り添い映画である。北野映画もそうだが、ともに死ぬみたいなものがテーマである。ヤクザ映画でよく、俺の骨を拾ってくれ、みたいなセリフがあるけど、こういうことを最近は右も左も言わずに病院で長生きしてしまうからだめなのであろう。「マッドドッグ」では、丁寧に、三人組の悪ガキの反抗する親がそれぞれ、ヤクザの親分、対立する漁業組合の頑固オヤジ、火葬場のオヤジという設定になっていて、前二者の親父たちが殺されたことでガキたちは親とは和解することになり、しかし逆に仇を討つためにお互いに殺し合い、と思いきや、いろいろあってお互いに和解してともに死ぬことになる。で、残された火葬場の息子が彼らを焼いてやるみたいな話である。彼らの人生とは、親への反発やヤクザの抗争、あるいは貫いた友情から導かれたものではかならずしもなく、なんだかそれらがパズルのパーツと化した宿命だったのである。しかしそれでも、なにゆえこんな宿命がドラマになってしまうかと言えば、そこにどことなく救いがあるからだ。これは悲劇のカタルシスではなく、もっと根本的なものであろう。ヤクザ映画にもいろいろあるけど、資本主義の絞りかすみたいな夢に向かって生きるのではなく、親のカタキとか兄弟のカタキみたいな宿命を生きてしまうすばらしさをテーマにしているのはけっこう意味があったのだ。この意味を仕事にある程度混ぜ込んで働いてしまったのが昭和の男どもであろう。いまや、学校教育でも社内教育でも、ほんと毒にも薬にもならん「夢に向かって生きる」みたいなことを復唱させられて、その夢のために人生を棄てて妥協しろと言われているわけであり、それにくらべればかなりましと言わざるを得ない。

たしかに、それがいずれ剥がれる脆い心理的抵抗であったことは無論である。いろんな芸術作品や娯楽作品から人生を学んだという人はわりとおおいけど、その人生からロボットやヤクザや狂人や不倫を引いて何が残っているか一度考えてみることは必要である。はたして我々が生きている生は人生であろうか。

戦後の「うたごえ」運動的なものも、考えてみると脆いものであった。そもそも歌声と内心からでてしまう「声」を錯視したところに問題がある。そういえば昔、「そこはもっと歌え」とピアノの先生に言われるので、ほんとに合唱団に入って歌ってばかりいたら、あるときピアノの先生に「そこは歌うな」と言われて、よくよく楽譜を見てみたらナルホドと思った経験があった。落窪物語だって、こころを歌ったと同時に、作為満々でつくったものであるところが我々に残された理由である。

労働者としてのお姫様の夢

2025-02-15 22:43:51 | 文学


「さもあらず。『まだ御殿ごもりたり』と、あこきが申しつるは」と言へば、北の方、「なぞの御殿ごもりぞ。物言ひ知らず。何われらと一つ口に。なぞ。言ふは聞きにくし。あな若々しの昼寝や。しが身のほど知らぬこそ、いと心憂けれ」とて、うちあざ笑ひたまふ。
 下襲裁ちて、持ていましたれば、驚きて几帳の外に出でぬ。見れば、表の袴も縫はで置きたり。けしき悪しうなりて、「手をだに触れざりけるは。今は出で来ぬらむとこそ思ひつれ。あやしう、おのが言ふことこそあなづられたれ。このごろ御心そり出でて、けさうばやりたりとは見ゆや」と宣へば、女いとわびしう、いかに聞きたまはむと、我にもあらぬ心ちして、「なやましうはべりつれば、しばしためらひて」とて、「これはただ今出で来なむものを」とて、引き寄すれば、「驚き馬のやうに手な触れたまひそ。人だねの絶えたるぞかし、かう受けがてなる人にのみ言ふは。この下襲も、ただ今縫ひたまはずは、ここにもなおはしそ」とて、腹立ちて、投げかけて、立ちたまふ


我々はトランプを馬鹿にするけれども、その実、骨の髄まで資本主義の病に冒されているので、古事記でスサノオが機を織っている女人に乱暴し、その家の畑を荒らしたときいて、なんで貴人レベルが労働者を虐めているんだと思ってしまうが、昔は神の家でもちゃんと家の中で生産と消費の循環があった。むろん、武士の家のほとんどが自作農みたいなものだったのはよく知られていよう。で、落窪のおひめさまも、裁縫をやらされて、変なところに住まわされているとはいえ、裁縫係としての地位を与えられている。故に、次の復讐の土台も用意されているといえるのであった。これが、追放されていたり、虐めもなくほっておかれていたら逆になんにも起こらなかった可能性があるのではなかろうか。

我々は、労働者として奴隷なのか?果たして労働者であることをやめれば奴隷にならなくて済むのか?

教師志望が減ったというのは、教師が国家の走狗(労働者)と化し、ついでに子どもと親の下僕となってしまったことに起因するけれども、教育界のみずから進んで、教育ではなく支援だみたいなことを言って、国家にも子どもや親にもいい顔をしようとしてきたつけでもある。教師の権力はつねに批評されなければならないが、教育は政治と同じく、知でもって統治や運営を担うことであって、それへの誇りや快感を奪ってしまっては、有能な奴がそこに参入するわけがない。ときどき、自分は不登校やいじめにあっていたので逆にそういうことを考えられる教師になりたいという学生がいて、その志はいいとおもうけれども、教師はもっと統治の過酷な快をともなうので、それだけじゃだめなのだ。不登校やいじめでなくても、いまいち勉強が出来なかったので、でも同じである。そうはみえなくても、教育は知の統治である。そのうえで教師もいろいろあっていいよ、ということにならなくてはならないのではなかろうか。

こういう教師のような統治者の目的は、子どもの権利や未来を守ることであるから、いわば「縁の下の力持ち」であるという逆説を生きることになる。しかし、かかる「縁の下の力持ち」みたいなのを讃える文化をいまの評価システムは粉砕してしまった。が、これは単に業績を上げさせる人参馬車馬システムではない。なぜなら、社会の変容や改革は「縁の下の力持ち」の集積によるしかないからだ。それを機能不全にさせることが真の目的だ。そういうものを推し進めてきた人間が馬鹿でなければそのはずである。

小中高でも児童会やら生徒会やら部活やらの運営を児童生徒がやりたがらないのも、慰め合いみたいなコミュニケーションばかりして運営の価値を讃えないからであって、それゆえ、ほんとはできるやつが虐められたくないからやりたがらず、ただ威張りたいヤバイ奴の台頭を許す結果となったのだ。リーダーは縁の下の力持ちであるぐらいしか価値がないのである。本当はそれがコモンセンスだ。だからこそ、そういうヤバイ奴の中には猫被りがうまいタイプがいて推薦入試候補に潜り込み、大学で本性を現したりしている(以上だいたい妄想)そういう人間の下ではその他の人々には、学級崩壊かひたすら沈黙して我慢するしか方法がなくなる。そして実現するはずのない夢を実現しますと言い続けて死ぬことになる。そして、その夢とやらも貧弱きわまりないマンガ化されたものだ。

まだ、戦前の国家は正直で、そのマンガ化しがちな夢に物質的基礎をあたえようとしたと思う。よく転向左翼が満州に渡るのをその転向の証拠として論じる人もいなくはないのだが、当然、「アカ」を我が村から追い出せみたいな目に遭って満州に逃げた側面があるわけだし、あからさまに「満州にいってしまえ」と村長などに言われた人もいたと聞いた。王道楽土とか言ってるが、そんなものである。マンガ化された夢であることを前提にしていたのである。

落窪の場合は、裁縫をする人々が団結するのではなく、なんだかマンガ化したスカトロ的なドタバタで生じるカオスが復讐となっていったようだ。姫が裁縫に崇高な夢を付与しなかったのも悪い。結局、夢は男に掠われることであったのであろうか?しらんけど。人の悲しみや苦しみをそのままでは我々は信用できない。

太宰が女酒に執着せずきちんと赤化していたならば、「恥の多い一生を送ってきました」ではなく、「税の多い一生を送ってきました」、が名言となったであろう。

無理やり森林メタファー

2025-02-14 23:41:30 | 文学


天に雲雀人間海に遊ぶ日ぞ

この一茶の人間は「人間界」みたいな意味を想定しないとうまく響かない。仏教では人間というのは人間界みたいな意味だとおもうが、堕落論の「人間は墜ちる」とか相田みつをの「人間だもの」みたいなものも、人間を「人間界」という意味として取れば別に不思議でもなんでもない。

人間界自体が森のように堕落と蘇生を多重に繰り返している。森で幼稚園をつくるとか、意義は分かるような気もするが、もはや自然にそこに行ったのではないので、どこかで別種の自然を求める(つまり安吾的に「堕落」する)はめにはなる。これはただの真実である。

よく言われていることだろうが、近代の出発を江戸後期の大衆文化の出現のなかに見れば、「小説神髄」なんかそれに対する抵抗であって、それに続く近代文学なんか反近代そのものな訳だ。そしていまはますます近代である。森で起こっていることが、人間界の場合は、派手にバイナリー的になって顕れる。

むかしから学会などで「刺激を受けました」と言っている人がイヤだったが、認識に関わることが「刺激」な訳がないからである。大学や入試の議論でも、人間と人間との関係を「刺激を与えあう関係」みたいに考えている人がかなりおり、非人間的であると思うね。刺激というのは実際は支配に似ている。森の木を無理やり伐採して公園にするようなものである。

映画「リング」のよいところは、貞子の呪いを人間的なケアで終わらせなかったことだ。呪いは自生して止むことがない。人間だって人間が考えている以上に森のように人間界そのものとして自生している。