★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今年読んだ本ベスト10――2024

2024-12-31 23:42:46 | 文学


今年は、とにかく校務によって思考も読書も分断されてめちゃくちゃであった。一応書いたと言えば書いたが、あまり読めなかったきがする。

1、島崎藤村『夜明け前』……やはりすごい作品であった。この作品を褒めていた亀井勝一郎をバカにしていた思春期のわたくしをひっぱたきたい。ただ、わたくしは、やはり藤村が木曽から世界を眺めているその視野の変容が気に掛かり、そもそもかれにその視野が失われているかも知れないという想定ができない。やはり同郷人は不利である。

2、有朋堂版『絵本西遊記』……ゼミ生の卒論のために読んだ。我々がこれを名文と感じるのはなぜか。これは難しい問いだが、それ以前に、この作品にある語彙を失ったのがわれわれにとって決定的に深刻である。

3、『寺田寅彦「線香花火」「金平糖」を読む』……書評のために読んだ。同門の研究者が関わっている本で、けっこう面白かった。ほんと文理融合とかいっている権力意志の輩はこういうのをちゃんと読め、そして調子に乗るなと言いたい。

4、五味渕典継『〈敗け方〉の問題』……これも書評のために読んだ。さすがに上手な書き方であった。問題を分割して攻め込んでゆくのがうまい研究者というのがいて、氏はその典型であるが、ほんとの長所はそこではなく率直さなのである。

5、『書経』、『詩経』……よくわからなかった。やっぱりこれぐらい暗誦しなければならぬのか。

6、『好色一代女』……文才とはかかるものを言うのかとおもわれる。むかし、ピンク映画が映画監督の登竜門であった時代があったが、これには何か意味があるのではないだろうか。芥川龍之介賞をとったひとたちの受賞第一作はピンク小説を書けとかそういうことにすればいかがであろうか。そのまえに、ピンク映画もびっくりな場面がある小説が受賞することがあるから無理か。。。

7、中沢新一『精神の考古学』……横道誠氏の仕事とかも考慮すると、これからクルのは、こういう精神を考古学的に掘って行くような仕事ではないかと思われる。ほとんどの書き手は立ち往生する。

8、大塚英志『二層文学論』……大塚英志を唯物論者として追い込んでいる世の中はどうかと思う。この人は本来、そういう役回りの人ではない。

9、『チ。――地球の運動について――』……NHKでアニメーションが始まったが、これは良い作品であったと思う。ただ、この作品を褒めてよいのは、ブルクハルトとか花★清輝みたいなひとであろう。

10、村上春樹『羊をめぐる冒険』……村上春樹が読まれるのはこれからだと思う。すくなくとも私にとってはそうである。いままでは、とにかく精神に喧嘩を売られているような気しかしなかったのであるが、これは村上春樹の「大衆化路線」でありオルグであると回することができるようになってから読み方が変わった。

あとは、授業で短歌を扱ったから、短歌関係の資料をけっこう読んだが、パーツが一部埋まった感想以外はまだない。来年は、今年の十倍は読む必要がある。

素朴さの妨害

2024-12-30 23:10:20 | 文学


朝焼夕焼食べるものがない(種田山頭火)


種田山頭火はどうだったか忘れたが、自由になるためには貧乏になることが重要であった時代もある。ほんとはいまだってそうで、金があると人間がそこにくっつく。気を遣って疲弊して行くのがせきのやまだ。その代わり貧乏だとカラダが死ぬ。

浅野いにおの『MUJINA IN TO THE DEEP』は、貧乏と疲弊の限界を超えるとある種の犯罪としての自由が開けているみたいな世界が描かれているように思うが、この人の世界は案外、七夕の話とか15少年漂流期みたいなところがあるから、たぶん自由では終わらない。

読書の時間というのは、自由の時間である。案外、読んでいる時間そのものは短かったりするものだ。これに対して、ネットの世界は、五感を全て映像に縛り付けられる時間が長い。テレビよりもずっと長い。これは疲れるはずだ。ということで、まだましなテレビをみていたら、先日、『光る君へ』総集編をやってた。一年間の本編と違い、源氏物語風に編集されていた。なにしろ「道長まひろ密通→子ども生まれた→宣孝死んだ」このあたりまで全部で5分ぐらいで、まさに読書のスピードとはこれなのである。だからといって、これはこれで物語の壮大さを毀損しない。

一方で、物語ばっかりになれると普通の時間、というより感情の長さが分からなくなりがちである。ネットでは、道長が紫式部の子どもが自分の娘とは気付いていなかった問題に対して、ツッコミをいれている人が多い。フィクションへのツッコミとしては定番であるが、――本気で惚れてしまっている人が陥る「不義への疑惑」というのは山よりも地球よりもでかいので、惚れたらむしろそういうことははっきりと確信をもてなくなるのが普通なのである。いわば「恋は盲目」な訳で、このドラマはその点、盲目性が二人の境遇と性格によって押さえられ、うまくいきすぎてるくらいである。

現代小説のアンソロジーぼおっとよんでて、急に緊張感あるやつきたと思ったら山田詠美だった。物語の山に向かってもったいぶったかんじをだしてくる、しかもこれが文章の上手さだと思っている現代の書き手が多いが、山田詠美はさすがに古典的なリアリズムの人で容赦ないかんじがわれわれの素直さに導く。現代は、こういう素直さを妨害する仕組みに満ちている。

第一に、声を出して読みたいなんちゃら――朗読である。教育界でも下手すると音読はあたまが良くなるみたいな話がときどき出てくる。範読の重要性はあるが、音読に多くの意味を被せすぎである。わたくしなんか、最近というか、かなりまえから、鷗外、一葉とか安吾とか大江とかを授業で読んでいると突然泣きそうになってしまうので、断固決然、黙読の伝統で近代文学を守り抜く所存だ。オープンダイアローグみたいなものもあれで、一度それらしきものに参加したことがあるんだが、とにかく自分がしゃべり始めると泣きそうで無理である。むろん、前田愛以来、近代文学の黙読性が強調されもするわけだが、おもったよりも朗読にも向いている作品も多いという感じはするのだ。黙読が多くされていたかもしれないが、朗読にむいていないとは限らない。なんというか、黙読性と朗読性が同時に強力に走るありかたがある。わたくしが、泣きそうになるのは、そもそもそういう状態に向かって作品が造られていはしないだろうかという疑惑である。

第二に、妙な思考力への誘いである。そういえば、国語における落ちこぼれの問題はあまり問題にしないことが倫理でもあったと思うけれども、国語教育が素朴さを失って妙に方法論的になってくると当然問題にしなくてはならないと思う。それは教育する側の問題なんだから。特に、テキストを半ば無視しても言語能力の発達を愛でるやり方は、そのあとの発達によってきちんとしたテキストとの扱い方ができると想定されているわけだが、ほんとにそんな都合よくいっているかな。そうはおもえない。国語は、基本、小学校から大学までゝやり方の反復であるべきである気がする。むろん、その場その場での工夫は必要だが、落ちこぼれても、国語のありかたが歪んでいないようにしないといけないと思うのである。弁証法的発展が難しい教科だと思う。

子ども=初老向け

2024-12-29 23:29:11 | 文学


オイオイみんな気を付けろ。ここに毒茸が固まって生えているぞ。よくおぼえておけ。こんなのはみんな毒茸だ。取って食べたら死んでしまうぞ」
 とおっしゃいました。茸共は、成る程毒茸はえらいものだと思いました。毒茸も「それ見ろ」と威張っておりました。
 処が、あらかた茸を取ってしまってお父さんが、
「さあ行こう」
 と言われますと、姉さんと坊ちゃんが立ち止まって、
「まあ、毒茸はみんな憎らしい恰好をしている事ねえ」
「ウン、僕が征伐してやろう」
 といううちに、片っ端から毒茸共は大きいのも小さいのも根本まで木っ葉微塵に踏み潰されてしまいました。


――夢野久作「きのこ会議」


上の怪人は「バンデル星人」といって、キャプテンウルトラという子ども向け番組にでてくるようだ。そもそもウルトラシリーズは子ども向け番組だったのに、さらに子ども向けがあったということがおもしろいことだ。そして、この番組はもはや子どもではなく、初老に入りかけの趣味人の大人がお金を払って見ていると思われる。その実、子どもの向けのつもりが初老向けだったというわけだ。

年末、帰省しない場合は、仕事をしながらその年上演のバイロイトのトリスタンを聴いている。きけなかった次の年は碌なことがありません。この作品も、どうみても中二病みたいな話であるのに、この作品の襲いかかる音の浪が聞き取れるようになるのにわたくしは五十年かかった。

子どもの頃、テレビでオリビア・ハッシーのジュリエットを見て、彼女はまだ若いから将来求婚したくなった訳だが、先日亡くなっていた。このごにおよんでは、天国でのロミオ(Leonard Whiting)の横恋慕を阻止すべくわたくしもはやめに死んだ方が良いかもしれない。奴はまだ死んでないからだ。

かんがえてみると、「ロミオとジュリエット」だって、死が近づいてくるおじさんおばさんにとって切実な話だったのかもしれない。確かに愛と死を真剣に考えるのも若者達だが、彼らの場合、愛の先に死があるようなフロイトみたいな状態にあって、そんなかんじで生きられてはたまらない。結局、それは愛と革命とかいうてなにもせん人たちを増やしただけである。これくらべれば、ナボコフの「ロリータ」の方が実践的な愛の話なのではないであろうか。

生の繋がり関しても、われわれは案外正確な予測をしないものである。落合選手の息子が声優になったのは、父親の映画好きとどこか関係があるのであろう。結局、遺伝子なんかより趣味のような気質の問題の方が大きい。とすると、大谷氏の息子か娘は、睡眠とか犬関係の仕事に就くであろう。大谷君の子どもは、父親の曼荼羅好きをうけつぎ大思想家になるであろうか。

結局、我々は本人の自由には勝てないようになっているのだが、なぜか身近な人間に関しては希望や遺伝子が勝つような錯覚を起こす。我々は考える人間であり、その自由の可能性がない職業には就かない。野球やスポーツには実はその自由があるのだ。しかし、教師はどうであろうか。自由がないところに人が集まったりするはずがない。

そういえば、人間自体も案外自由である。ちゃんと新しく入れ替わっている。人間の細胞は7年ぐらいで完全に入れ替わるとか聞いたことがあるが、七年目の浮気というのはそういうことと関係があるのであろうか。

「我が物にして首尾を仕掛けける」現代

2024-12-28 23:19:57 | 文学


「いかにしてか、奥さまの髪の事を殿様にしらせて、あかせまして」とおもふより、飼猫なつけて、夜もすがら結ひ髪にそばへかしける程に、後は夜毎に肩へしなだれける。
 あるとき雨の淋しく、女まじりに殿も宵より御機嫌のよろしく、琴のつれびきあそばしける時、かの猫をしかけけるに、何の用捨もなく、奥さまのおぐしにかきつき、かんざし・ごまくらおとせば、五年の恋、興覚まし、うつくしき顔ばせかはり、絹引きかづき、ものおもはせける。 その後はちぎりもうとくなり給ひ、 よの事になして御里へおくらせける。 その跡を我が物にして首尾を仕掛けける。


上のような悪い女の、髪の毛作戦はともかく、いまだに女性のロングヘアは美のアイテムであって、そういえば最近は高校生の髪型など平安朝の貴族みたいになっている。初音ミクの髪の毛も半分重力に逆らうが如きである。

来年度、少しボーカロイドにふれた授業をしなきゃいけないので、初音ミクなどについての参考文献などを調べていたんだが、アマゾンで売ってた初音ミクの応援水着はさすがに買わなくてもいいだろという研究者にあるまじき倫理観が発動したので、少しオチツケということで、東大の「ボーカロイド音楽論」の本を買っただけにして置いた。

サブカルチャーの本は、東浩紀の動物とポストモダンの影響が原点にあるからか、あるいは、宮台真司のサブカルチャー分析が雛形なのか知らないが、妙な論理的なところとサブカル的な蓮っ葉な――はっきり申し上げれば幇間的な雰囲気が同居している。来年の授業のテクストにしようかと『現代の短篇小説ベストコクション2024』などをよんでいると、ある小説においては、論理的なかんじとコミュニケーションみたいなかんじがぴったり合っていて、なるほどこの二つを実現すると戯作になるんだなと思った。近代の小説とは、これへの抵抗であったにちがいない。そこにある種の論理性を求めるときには気を付けなければならない。

それはそうと確かに現代の小説の役割はたしかにある。ときどき近代から離れて、現代の小説を読むと、じぶんが「現代」なんてほとんど分かってないことが判明してショックである。歳とってくると、よけい、人間かくも過去に対する認識の歪みが甚だしいことがわかり、過去の小説を読まずにはいられない。――メディアなんかだと、昔の教育は暴力容認だったが今は違うとか平気でいっているがウソもいいところである。人間はその同時代にあっても認識はえられず、もっと歪んだかたちで記憶を呼び出しているに過ぎない。「記憶」に正確であろうとしているのは現代に即しようとする小説の分野しかない気がする。詩や短歌は、――確かにそれぞれ違うけど、思ったよりもある種の普遍性や時間を超えた何かに向かう傾向がある。これはこれでしぶとい。現代性にする四重否定ぐらいになっている。

すると、はたして研究論文などはどうなのであろうか。今年の久谷雉氏の詩集とか普通に傑作だったわけだが、研究書や論文で「普通に傑作」があり得るかどうかは若い頃からひっかかっているのだ。むかしは、前田愛とか指導教官の論文とかを一生懸命書写したものであるが、論文としての、あるいは論理としての「傑作」というのものとそれらは違った。ただ、論者たちにはたしかに傑作を書いてやろうという意識があったようにおもう。そしてわたくしは、そういう論者しか面白く読めない気分がずっとある。

思うに、少し昔の論文や評論には、耐久消費財としての矜持があったと思うのである。それは文学の思考として思考した痕跡としての耐久性である。しかし、ふつうは論文はそうではなく、事柄の差異=改良性としての独創性をほこるものである。最近のパソコンとかエアコンとか壊れやすいものばっかりだが、これは明らかに売るために何か改良しましたといわなければならないために開発されているからである。学会発表でこんなこといったら馬鹿扱いされかねない「記号の差異化の競争」を地で行っている。もちろん研究や創作もそういうことになりかねないのは自明の理である。

白隠をまねてみた

2024-12-27 23:47:37 | 文学


ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥が見える。上から友禅の扱帯が半分垂れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい衣裳の間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に白隠和尚の遠良天釜と、伊勢物語の一巻が並んでる。昨夕のうつつは事実かも知れないと思った。
 何気なく座布団の上へ坐ると、唐木の机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟んだまま、大事そうにあけてある。夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「海棠の露をふるふや物狂」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏」とかいたものがある。


――「草枕」


実践的と称する研究が想像以上に具体的でないのは、研究者がさぼっているというより、具体的なものはむしろ上のような思弁の中にあるからだ。単なるイスとかタブレットが具体的なわけではない。もちろん、実践的をうたう研究のいくらかは、理念にあわせた「事実」を集めているに過ぎない。一部があってるから有効性が一部あるのではない。単なる実証の誤りである。

我々にとっての実践とは、理論の実践という実験の中にではなく、単に読まれることに因って起こる。文学とか歴史とか研究が存在しているだけでなく読まれることで大変効果があると私がおもうのは、小学校高学年の頃に思春期についての作品や研究をたくさん読んだために、自分の思春期は比較的心おだやかであったような気がするからである。結果どうなるか推測される場合、人間あまりいきり立たない。そして、そのためにか、ある意味思春期以降どことなく死んでる気がするのも確かである。偶然、小学校時代はあった喘息がほぼおさまったので、穏やかになった気もしたこともある。また、小さい頃病気がちな人は病気の緊張感にノスタルジアを覚えたりもするから、それもあるかもしれない。つまり、わたくしは読まれることに因る効果がいずれ懐疑にゆきつくことを言って居るのである。

しかし、こんな事情よりも、記号の呪術的作用は大きい。それを疑わしむる大きさを持つものである。

例えば、幼稚な例であると、クリスマスや正月にならないとコミュニケーション能力が発動しない輩と、おれは制度には縛られないぜとずっといっしょの輩と、どちらが記号に反応する文化的人種なのかと言えば前者なのである。記号に縛られない輩は動物化するにきまっている。

つまり、懐疑は意識以上のものである。例えば、面従腹背みたいな実践化した言葉がある。普段からそれを実践していると、正論を吐いてやるぜみたいな局面でもやはりどこかで面従腹背しているのを美事に忘れる、というありふれた風景がそこここで展開されている。よくみると弱いもものたちに正論を言っているにすぎない。

すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。


漱石が「百年はもう来ていたんだな」と言うのは、百年死んでいたんだな、みたいなのに近い。人生百年時代でようやく実感として実証されるぞ。漱石は、百合は百年という記号で半身奪われている。記号への信仰と懐疑はかくも意識には登らず、百年ぐらいではどうにもならないのであった。

パノプティコン断固決然

2024-12-25 23:22:53 | 文学



「銀八十目にさしつまり、内証借りにして、その代りには、朝夕念ずる、弘法大師の御作の如来を済ますまで預け置くべし。うき世の恋はたがひ事、さる女を久しくだました替りに、いやといはれぬ首尾になりて、子を産ますうちの入目、是非に頼みたてまつる。平野屋伝左衛門様まゐる。賀茂屋八兵衛より。この文の届け賃、この方にて十文、魚荷にわたし申候」との断り書、「よくよくなればこそ、目安書くやうなる様書きて、はるばる十三里の所を、無心は申しつかはしけるに、しらぬ事ながら、これはかしてもとらさいで、京にもない所にはない物は銀ぞ」と、おのおの腹抱へて大笑ひ、しばらくやむ事なし。

クリスマスなので谷崎の「悪魔」を読んだりした。

ガンダムで人生を学びましたとか言っている人には共感しないではない。わたくしもドスト氏やツルゲ氏からじんせいを学んだ気がしないでもないからだ。しかし人生は人生から学ぶものだ。谷崎最高。

庭でカマキリが顔と腕だけになって死んでいた。サンタクロースが踏みつぶしたに違いない。

クリスマス契機とかいらない。おいしい納豆と目玉焼きでいいです。クリスマスに物語要素事典を嬉しそうに抱えて帰宅した私が家庭内不和という物語要素の事例を一つ増やしたことをご報告いたします。――むろん、嘘である。こんな本は隠れて買うに決まっている。サンタクロースの行事は、金のつかいどころは家族で共有すべし。欲望は人に伝えるべし。――という教育をやっているのだ。

そういえば、最近ネット上で、フーコーの『監獄の誕生』などにでてくるパノプティコン(全監視システム)に学校が含まれるのか、みたいな議論があった。家族の欲望など、サンタクロースで明らかになるのかもしれないが、集団は監視しがたい。だから、工夫して見張りのシステムを作り出す。最近の住宅なんかも、一階は1フロアーで家族を監視(ケア)することが堂々と推賞されていたりもする。そういえば、図書館も硝子張りの1フロアーのつくりが増えた。おちついて勉強なんかしようがない。そういうことが好きな人種は昔からいたので、むしろ我々にいつも必要なのは隠す知恵だ。

もっとも、どこかでフーコーも言っていたように思うが、学校はそこに適応出来ない輩をいつまでも留まらせる隙もちゃんと内部に作り上げるものである。日本近代文学をやっているわたくしとしては、全監視機構というと思い出すのが、「砂の女」で、主人公が女主人と性行為を衆人環視の元で強要されそうになるところや、いまだに読書した大学生たちに袋だたきに遭っている蒲団に頭ツッコんでいる時雄さんとかである。日本近代文学の作家たちは、全監視システムのイメージをそのままひっくり返して、平凡なゲス共の欲望を、暗黒の穴を覗き込む人々として図と像が反転するように描いて、いや読者に読ませている。

そういえば、ふつうに全監視機構のあれっておれの書斎に似てるよな。どうみてもわたくしは本に監視されている。

わたくしの周りの学生もパノプティコンといってもぴんとこないような囚人たちである。まったく、何回言ってもまだ分からないようなので、レポートを倍増することにする。もっとも、パノプティコンといってもわからない学生でも、志村けんの下ネタは、下ネタ以下の下ネタである、みたいなことはすぐ理解する。よってパノプティコンも、監視以前の監視とか、覗き以前の覗きとか言えばよいのではかろうか。しかし分かりそうもないので、断固決然レポート倍増だ。

正義とはアイデンティティと見つけたり

2024-12-24 23:51:13 | 文学


いつのまにか俺は笑いやみ、蒸し暑い部屋で天井に差す青白い光を見あげている。蟬も力つきたのかいまは静かだ。パネルみたいに薄い壁で隔てられた隣の部屋にも、家のなかにも、ひとの気配はない。光はゆわんゆわんと揺れ、にじんで輝きを増していく 。まばゆさに耐えきれず俺は目を閉じる。あともう少しだ。光が全身を包みこむ日を、俺は待っている。

――三浦しをん「夢みる家族」


現代文学の主人公に見られるナルシシズムの原因はつねに私の脳裏から離れない問題である。「マジンガーZ」とかにでてくる敵側のロボットが毎回創意工夫と多様なイメージに溢れているところに対し、正義の味方の方は毎回同じである。普通にマジンガーZは多様性の敵と認定して良いが、正義がアイデンティティを持つものであるという想定がすでにある。

人間はおそろしく馬鹿なので、それが逆に、アイデンティティのあるものは即ち正義であるという風にいつもひっくり返ってしまう。

風邪ひきました

2024-12-23 23:23:13 | 文学


ヘエヘエむろんそうですとも。その学生さんは何も知らずに普通の聖書と思って売りに見えたに相違御座んせん。聖書なんてものは信心でもしない限り滅多に読んでみる気がしないものですし、その本を持ち伝えた先祖代々の人も、それがソンナ本だって事を云い伝える事も出来ずに、土蔵の奥に仕舞い込んで御座ったんでげしょう。そいつをあの学生さんがホジクリ出して……何だコンナ物、売っチャエ。バアへでも行っちゃえテンで、私の処を聞いて持込んでいらっしたものでしょう。聖書なんてものは、今の学生さんにはオヨソ苦手なもんですからね。

――夢野久作「悪魔祈祷書」


風邪ひきました

学校・老人・漫才

2024-12-22 23:38:44 | 文学


「はなしておくれよ、クロック先生。」
 やはり、ひくい、かなしい、機かい的な調子でした。かはいさうに、ちようどお祈りをでも暗誦してゐるやうに、つゞけました。
 とうとう車はとまりました。私たちは学校へもどつたのです。クロック夫人は、校舎のまへに、がんどうぢようちんをもつて待つてゐました。
 夫人はひどくおこつてゐて、いきなりガスパールをぶちのめさうとしました。クロック先生は、それをおさへとめ、意地わるさうに笑つて言ひました。
「あす計算をつけよう。今晩はもうたくさんだ。」


――ドーデー「村の学校」(鈴木三重吉訳)


わたくしのいつもの印象であるが――、わりとおおくの日本人がたぶん先生の努力のおかげであろう、学校が根本的に好きで、だからこそ大人になって文句つけたり恨みを晴らそうとしたりしている。やはり彼らが普通に祝福されながら卒業しているだけのことはある。よって、一部の反抗的な輩を除きやる気のない羊共をみな退学にすればよいのではないか。小学校退学とか、あれだ、黒柳さんみたいだし。

黒柳さんの育った戦前では、彼女のようなブルジョアジー以外はまともに小学校にかよったか怪しい。市民講座とかに出講していて観察されるのは、戦前に小学校しか行けなかった向学心にあふれた秀才たちがいなくなって、戦後生まれの「市民講座に行ってきまーす」みたいな人たちが増えて雰囲気が悪化した事態である。正直申し上げて、知ったかぶりの人たちがとても増えた。いまや、その孫たちは、じいちゃんばあちゃん、親父やおかんの知ったかぶりをうざがり、無知の無知に向かって突入しつつある。

「羊をめぐる冒険」が書棚からようやく発見されたから再読しているが、結構面白いではないか。村上春樹はむしろこれからクルのではないだろうか。かれの表現していた空=物自体としての現実は、人間の発する意味を打ち消していってあらわれるはずであった。無知の無知の境地はその現実のあらわれと似ている。似ているだけであるが。

いったい戦後とは、戦後のヒーローとなった戦後の子どもたちの時代の否定による、戦前への回帰、それを更に超えた近代以前への回帰そのものであった。昨日、FMで大山のぶ代の「浪曲ドラえもん」みたいな曲が流れていたが、妙に声が合ってて、ドラえもんとか悟空の声は浪曲系の変形かも知れないと思った。たぶん、浪曲的なものはアニメーション文化として復活している。それは子どものが爺婆化したおとぎ話としての現実である。おとぎ話では子どもと爺婆しかいないという説があったが、まさにそれは現実のことであった。

例えば、親にとっては子どもはいつになっても子どもとかいうけど、子どもに対して堂々と言っていい事じゃねえし、――さすがに長生きするようになって、親と子どもは一緒に朽ちて行く、結構な割合で子どもが先だ、みたいな人生観のほうが実感に近いひとも多いはずである。のみならず、子どもに対するイメージだけではなく、親に対するイメージも変容しているはずで、自分が老いても長く付き合わなければならない何者かになってきているはずである。ともに衰えることによって最終的に屈服するしかない何ものかである。策は一つである、親と一緒に早く衰えボケてしまうことだ。

最近、若手のお笑い芸人が台頭してきたが、この連中の、特に大学お笑い出身者の一部の頭の回転はすごく、全てをボケてツッコむ、――つまり全てを解かず、全てを喋りつくすがごとくである。いわば、西鶴の俳諧の連続技のようだ。上の問題に置き直すと、いわば人生を痴呆のケアとして展開することだ。もう少しで、「どうでもいいじゃないか」運動のようになるであろう。もう日本の人文学の難問は、令和ロマンとかラランドに任せりゃ30分ぐらいで全部解けるんじゃなかろうか。

三島由紀夫が見た/見られた世界

2024-12-21 23:16:29 | 文学


なにが秘密かというと、宇宙と男性との間の関連性の問題でしょう。[…]月ぐらい行ったってなんにもならないんですよ。もっと宇宙の深淵の中に、男性原理の根本的なものとのつながりがあるはずなんですよね。それを稻垣さんは言っちゃった人ですよね。

――三島由紀夫「タルホの世界」


小室直樹が「三島由紀夫は復活する」とかいう風な本を出していて、それは願望というより必然に見えていたのかも知れないが、――三島に限らず、作品は未来によって左右されるのは確かである。角川文庫に入っているベルリオーズの「ベートーヴェンの交響曲」に書いてあったのでよく覚えているのは、第2番があまりに過激でスキャンダラスだったらしいことと、第3番「エロイカ」は長すぎるという評判が圧倒的であったので、それ以降、ベートーベンが少し交響曲を短めにしているんじゃないかという説であった。しかし、ロマン派以降、ベートーベンでも長すぎると感じたであろう程の大交響曲が成功を収めてしまうことで、ベートーベンの作品自体の聞こえ方が変わったと思うのである。しかしその聞こえ方はベートーベンの作った曲そのものから発している。文学でもそうだが、作品の価値は、同時代に何を乗り越えたことで決まる面もあるが、その作品以降何がおこったかにも因る。未来は折れ曲がって過去に行く。実際にベートーベンは未来にも会ってたというべきであろう。もしかしたらそれは過去の顔をしていたかもしれないが。

文章は他人にわかってなんぼなので分かりやすく書くべしみたいなことを言っているうちに、自分のぐずり(つまりそこには過剰な攻撃性がある)みたいなものを平気で公の文集などに載せてしまう人間が大量発生してしまった。結局、その『わかりやすさ教』は他人への顧慮ですらなく、そう言う者の、自己への愛=他者への攻撃性、にすぎなかった。感想文や思い出文みたいなのは他人が面白く読めなければだめだが、別に分かりやすい必要はない。そもそも人間の思いはそんなわかりやすくはないからである。自己理解が分かりやすくなっている阿呆はいるにしても、そういう人でさえつねに攻撃性と自己愛を付け加えるのを忘れないほどには単純ではない。

我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆んど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドックと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。 一人の学生が椅子に乗ってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。

――村上春樹「羊をめぐる冒険」


村上春樹は、マルクス主義運動の一部のように、経験が意味の塊しかならないような事態から我々が自分を救うためなのかしらないが、積極的に直接に経験されるものを消して行く動きをいち早く読み取っていた。我々はいわば壊れたボリュームによって意味を消し、自分を救う。一見そうはみえないが、テレビもスマホもボリュームを壊すことなのである。その結果、意味の消去を試みる村上春樹の小説を「分かりやすい」と評するものが出てくる。ボリュームの壊れた世界にも我々は簡単に慣れたのである。

しかし、人間は慣れへの違和感にもいずれ慣れる。最近は、別の意味でのボリュームを求めてカラダが動き出している。だいたいワークライフバランスとかいうものもその一環である。余計忙しくなっているではないか。――そういえば、オンライン学会はスマホで音声聞きながら資料を左手に右手で洗濯物を干すという学者のワークライフバランスを促進し聖徳太子化をうながしている。今日のわたくしは更に同時にカロリーメイトを食べるという技を加えた。ここでトイレに行けば、後使えるところは鼻の穴とおへそぐらいだ。

昨日、学生から「コードギアスは基本文献と言われております」と言われたのでみなくてはならぬ。ますます我々は忙しくなっている。

そもそも二足歩行は親の期待に応えただけで、ほんとは四足歩行、あるいは1とか3とかも可能性としてあったのではなかろうか。少なくとも暇になった二本の足に逆に忙しさを与えて人間は文明を築いた。

ナベツネさん死への転向

2024-12-20 23:13:15 | 文学


得月楼の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通る。これらが煩悩の犬だろう。松が端から車を雇う。下町は昨日の祭礼の名残で賑やかな追手筋を小さい花台をかいた子供連がねって行く。西洋の婦人が向うから来てこれとすれちがった。牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎の霜枯れの色が実に美しい。高阪橋を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。

――寺田寅彦「高知がえり」


渡邊恒雄氏がなくなった。私と比べて明らかにこの人の方が長生きしそうな名前であった。長篇小説ような名前である。この読売新聞の首魁は、もと共産党員で、といっても花★清輝を訪ねるようなタイプであったが――元共産党はかくも世の中の役に立つ、あるいははやり元共産党はコワイなというエビデンスだったので、それが失われてこまっているひとは結構いると思う。

転向するひともそれなりに考えている。特に、運営する側にまわってみないと、だれが本質的に差別的な人間であるかは分からないことが多い、――そういうことに運動をやっているうちに気付くことが多いのであろう。むろん、廻った人間がまっさきにその評定をうけるわけである。こういう現実に比べて、疎外論は学生むきだ。例えば、むかしは、疎外されるんだったら、自分から疎外しろ、みたいな論法でガンバル闘士が多かった。志はよしという気がするけれども、自分から疎外するみたいな奴らばかりになるとどうなるのか想像しなかった人間を信用すべきではない。そういう空気じゃなかったとはいわせない。十分疑念は提出されていたからである。

そうはいっても、――確かに、転向し逆立し逆張りしたりしている我々は疲れているとは言えるであろう。

飜訳=注釈

2024-12-19 23:27:03 | 思想


予は其後、又堺君と共に『共産党宣言』を訳した、是はマルクス名著傑作であつた、議論文章堂々として当る可らざる者があるが、扨て訳して見ると我ながら其佶屈贅牙なのに恥入つた、此の失敗は、斯る世界のクラシツクとあつて、社会問題、経済問題研究者のオーソリーチーとする歴史的文章は、成可く厳密に訳さねばならぬといふ考へで、非常に字句に拘泥したのと、荘重の趣を保ちたい為めに多くの漢文調を混じた故である、昨年『総同盟罷工』に関する一書を訳し、今又た『麺包の略取』を訳して居るが、前に懲りて、極めて自由な言文一致にした。
 一篇の文章の中でも、言文一致で訳したい所と、漢文調が能く適する所と、雅俗折衷体の方が訳し易い所と、色々あるので、若し将来、言文一致を土台として、之を程よく直訳趣味、漢文調、国語調を調和し得たる文体が出来たならば、翻訳は大にラクになるだろうと思はれる。


――幸徳秋水「飜訳の苦心」


廣松渉にはまる人は今もむかしも結構多いのであるが、わたくしが学んだことと言えば、論を確実にゆっくりにするときに使える漢語の言い回しだ。いま具体的に出てこないほど影響を受けた(いや受けてない)。こんなことを先日書いたように思うが、――まことに、まるで廣松の文章は外国語である。いや確かに日本語なのだが外国語である。

坂口安吾が古典は現代語で読みまくればよろしいと言っているのはある種の正論だったと思うのだが、安吾自身は古文をよめたと思う。で、いまや現代語訳をしつこくやらなくなった古典教育は、それがかつてどこかしら現代語への倫理も担っていたことが判明するわけであった。――適当な感想だが、日本語の書き言葉は根本的に翻訳言語で、飜訳行為によって語彙力を再生し感覚を拡大してきたんだとおもう。いまだってそうだ。雑な話だけど、鷗外や漱石以上に、日本の古典を再生して何とかしようとした硯友社の言文一致体との関係の密接さを想起すべきである。

この飜訳行為は、無論、注釈行為ともいえる。注釈の演習をやっていると、学生の報告が「いまネットで現在のこの話題に対してこういう情報がえられました。これはエビデンスなので正しい」みたいなことになることがある。同時代資料の誤った扱い(注釈のミス=つまり本文に対する飜訳のミスである)はそれが過去にたいする場合は案外おだやかにすむように一見思えるけれども、現代についての注釈をやってみると、けっこうなことを過去に対してやる可能性があるというのがわかる。もともとどういう意味でありうるのか、ということと、伝承や都市伝説や風評が一緒くたになってめちゃくちゃになる。ある種の学生にとっては、ある言説について似たような言説が存在していただけで、それが「正しい」ことに直結する場合がある。「みんなが間違えている」可能性がないことになっている。これによって、たしかに、その都度間違えて飜訳された意味が散乱することで面白いことも起こってきたけれども、いっぽうで他者性に対する倫理の問題は常に我々自身に引っかかってくる。だから、注釈行為を厳密にやろうとする姿勢はやむことがない。

多読してしまう有能さというのは必ず多読してしまう欠点と裏腹であるのも同じ現象と言ってよいであろう。オタクとか推しとかいろんな呼び方はあるがそういう現象を覆うものである。

これは、我々の自我の問題ともつながっている。自分もそうだったからあれなんだが、――若い頃は自分に当てはまらない(自分の注釈とならない)世の中の事情をあまりに軽視することが、自分からの逃避であることにあまり気付かない。我々は、思った以上に注訳による飜訳を多く必要とする。そうでないと、我々には何もないからだ。

教師という職業も注釈行為である。教育者があまり忙しすぎると、生徒や学生を知ることが人間や自分を知る(注釈する)ことであることからはずれ、多様性とか類型からの自由とか言って何かを認識した気になってしまう。むかしだったら普通にそれ、――観念論てやつであろう。注釈によって我々は自分やテクストを唯物論化するのであった。他人の多様性をキャラクターや属性の多様性だと思っているうちはかならずそれは差別(人間がきちんと注釈されていないために起こるのである)に行き着く。いまや重要なのは、少しいいこと言える奴が多くの間違えを抱えているような人格の不成立の方だ。人格の陶冶みたいなのがある種の教育を超えた治療になっていたことをおもわせる。

逆説的世界観

2024-12-17 23:10:21 | 思想


ビウキャナン氏は、大いに賞讃して人口に関するマルサス氏の著作から次の如き有能な章句を引用しているが、それは私には、完全に彼れの反対論に答うる所あるものと思われる。『労働の価格は、その自然的水準を見出すに委ねられている時には、食料品の供給とそれに対する需要との間の、消費せられるべき分量と消費者数との間の、関係を示す所の、極めて重要な政治的晴雨計である。そして、偶発的事情を別として平均をとるならば、それは更に、人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すものである。換言すれば、現在の人口を正確に維持するためには、一結婚に対し幾何の子供が必要であろうと、労働の価格は、労働維持のための真実の財本の状態が静止的であるか、進歩的であるか、または退歩的であるかに従って、この数をちょうど維持するに足るか、またはそれ以上であるか、またはそれ以下であろう。しかしながらそれをかかる見解において考えることなく、吾々は、それをもって吾々が恣に引上げまたは引下げ得るもの、主として国王の治安判事に依存するものと、考えている。食料品の価格騰貴が供給に対して需要が余りに大なることを示している時に、労働者を以前と同一の境遇に置かんがために吾々は労働の価格を引上げる、換言すれば吾々は需要を増加する、そしてしかる後食料品の価格が引続き騰貴するのに大いに驚く。この場合に吾々の行為は、普通の晴雨計の水銀が暴風雨になっている時に、ある強制的圧力によってそれを快晴に引上げ、そしてしかる後に引続き降雨が続くのに大いに驚いているのと、極めて類似しているのである。』

――デイヴィド・リカアドウ「経済学及び課税の諸原理」(吉田秀夫訳)


村木道彦氏が有名な「ノンポリティカル・ペーソス」でたしか、自分は自閉症的に生を嗅ぐんだ、みたいな言い方をしていたと思うが、いまや病名が比喩的機能を失ってこまっているというのはあるであろう。で、困ったあげくに多くの文人気質たちがイデオロギー的になるというのはあるとおもう。

死と生についても、互いが互いを比喩のようにみていた。金子平吉(金子雪齋)なんか、中野正剛に、政治家は公のために餓死して当然さすれば国賓だみたいな説教をしたらしい(『魂を吐く』)。プロレタリアートの戦いが崇高化されるのもこういう土壌があってこそだったにちがいない。死が生であるからこそ、我々は立ち上がる。しかし、死が無限に未来に引き延ばされて生と関係ないかんじになってくると生そのものが衰弱するのである。

相手に勝つことに長けた人は、社会の運営もそのモードでやってしまうことがあるように思う。社会の運営というのはむしろみんなで負けることなのである。この逆説が理解出来ないひとが暴力的になっていずれ来る負けを引き寄せる。組織の運営なんかも、勝ちのこるために卑怯なことはしてもしょうがないみたいなセンスが繁茂しているわけだが、その姿勢によって、その主体的行為=運営自体が崩壊、――勝ち負け以前に崩壊するのは必然である。おそらく、いま一部が善意で背負っている過剰労働をする気がない、人にも自分にも優しい世代が組織の中心になってそれが加速する。その優しさは、それが及ばない外部を従えるために暴力を発動させる。これはそういうものと決まっているのである。

そのような暴力に対抗する暴力をいかに考えるか思考した哲学者に廣松渉がいるが、――だからこのひとにはまる人は結構多いのであるが、わたくしが学んだことと言えば、論を確実にゆっくりにするときに使える漢語の言い回しだ。いま具体的に出てこないほど影響を受けている(受けてない)。彼のおかげで、漢文の文化は西洋哲学の飜訳的世界に残ったが、一方で勝手な大和言葉信仰へのスライドも人によっては早めたのである。

そういえば、デジタルコレクションを愛用しているけれども、そもそも活版印刷の本になれた我々のような人種は活字が立っていないと読めた感じがしない。デジタルコレクションの場合は今の印刷よりも更にぼやっとしている。活字は一度死んで更に死ぬのであった。そして広く読まれるのであった。