★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

日和山神社を訪ねる(香川の神社74)

2017-10-05 19:38:57 | 神社仏閣

N★K高松放送局の近くにあります。

 
狭い神社だが、狛犬のクオリティがすばらしい。


注連石は大正九年。裏に「伯爵 源頼壽」とある。松平頼壽伯爵のことである。中野稲荷にも関わっておったなあ……


金比羅大権現の燈籠は文化三年。

由緒碑曰く、
「明暦二年(一六五六)高松藩がお船蔵を築いたときほりおこした土砂をもりあげて丘をつくり、そこへ航海の守護神といわれる金毘羅大権現(大物主命)を勧請して祀ったもの、俗に「お船蔵のこんぴらさん」「日和山のこんぴらさん」などといわれて、庶民に親しまれた。日和山とは、このかたわらに、藩の日和見番所があったからで、この番所は、藩主が参勤交代で江戸に出府するさいけらいが当社につかわされ、航海安全を祈願するいっぽうその出航前後には、ここから刻々城内へ海の模様が報告された。」

日和のための丘に建てられたので、日和山の金比羅さんだったのであった。それにしても、学生運動の時代に大量に出現した日和り野郎たちのために、「日和る」というのはほぼ「卑怯者」みたいな意味になってしまったが、もともと海上保安庁みたいなものを日和っているヤツラと言うべきなのである。あえて言えば、我々の文化的伝統には、この「日和」が重要な要素なのではないかと思うのだ。安倍晋三もいつも日和っている。小池百合子も日和っている。三浦瑠璃も山口二郞も共産党も日和っている。しかし、これをやめると、トランプとかえりんぎ将軍の様に、「焼け野原にしてやるぜ」とか言わなくてはいけなくなるのだ。「待てば海路の日和あり」。問題は、普段どんなよいことをしているかにかかっているのだ。卑怯者が多い昨今である。

「当社は藩主の社であったから、一般には参拝をゆるされなかった。」

参拝が許されていないのに、庶民に親しまれている神社ってすごいね……

「八代藩主松平頼儀の文化年(一八〇四-一八)初めて庶民に公開された。」

上の燈籠が建てられた頃である。ちなみに、賴儀さんといえば、

「当初は緊縮財政を行っていたが、次第に奢侈に傾き、藩札の乱発により物価高騰と紙幣の価値低下(インフレーション)を起こした。また、殖産振興策にも失敗し、更に江戸屋敷が火災に遭ったり、屋島神社(讃岐東照宮)造営の建築費を支出するなどした結果、江戸・大坂の商人からの借財が50万両以上に達し、藩財政が破綻状態に陥った。そのため、東浜の海岸一帯を埋め立てて問屋街を造ったり、「讃岐二白」と呼ばれる製塩と製糖の産業育成を行うなどした。就任中、16回の旱魃に遭う。文政4年(1821年)、婿養子の頼恕に藩主を譲り、隠居した。文政12年(1829年)死去。」(Wikipedia)

踏んだり蹴ったりの人生である。まさか、この神社の公開も金策か……この神社、鉄道拡張の工事のため昭和三二年にここに移ってくる前には、高松駅のあたりにあったらしいのである。戦前の夏祭りには、数千の市民たちが列をなして参拝していたという。『神社誌』には、崇敬者六千九〇〇人と記されている。いまはたぶん、熱心な少数の市民が狭い神社を守っている。日和が、日の丸親方に負けたのである。


拝殿。中に神輿があった。


本殿。




賴儀さんの魂が乗り移っているのか、泣きそうな感じに見えます。


境内社。


きつねがいるからお稲荷さんであろうか。

とりあえず、祭神は「大物主命、上筒男命、中筒男命、底筒男命、大山咋命、菅原道真公」らしい。金比羅住吉日吉と天満が混じっているような、そんなような……。


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