春が来たぞと言えば、私の中では「すみれ・たんぽぽ・れんげ草」である。
先日、タンポポとレンゲ草は見つけたが、簡単だと思っていたスミレが見つからなかった。
ところが今日は、歩く先々でスミレに出会った。
(野のすみれ)
田んぼ道ばかり探していたら、畑コースの畦にちゃんと咲いていた。
レンゲやタンポポは田んぼの方が多いのだが、スミレはやはり畑か。
さて、スミレの咲く場所で気になるところがある。
木山城趾の登り口の一つで、石段の途中に咲いているスミレを去年は見かけた。
実は今年も、一番先に階段を見に行ったのだがその時は咲いていなかった。
ところが今日はちゃんと咲いていた。
階段の、上段と下段が直角に交わる場所のちょっとした隙間に根を張っている。
同じ階段の2箇所で逞しく菫の花が咲いていた。
漱石の「菫程な小さき人に生まれたし」という句が、直ぐに頭に浮かんできたのもこの場所である。
この句はいろいろな人がいろいろな解釈をしている。
世間のしがらみや組織・権威などに縛られず自分の価値観、自分の尺度で生きていきたいというのが半藤一利氏の解釈。
句の解釈など、人間の頭数だけあるわけだが、私は半藤氏の解釈に1票。
などと、菫を予定の場所で今年も探せたことを喜んで帰り着いたら、庭で猫が笑っていた。
どうやら、帰って来た私の顔を見て大あくびをしただけのこと。
猫には笑い顔は出来ないらしい。
ところが、猫の直ぐ後ろにある、ほとんど雑草状態になっている「赤花夕化粧」の鉢の中にスミレの花が見えた。
(赤花夕化粧の中のスミレ)
赤花夕化粧の葉っぱの中で、薄紫のスミレが咲いていた。
鉢の縁よりも低い位置なので、ちょっと見過ごしてしまいそうな状態で咲いている。
もちろん、植えた覚えはないから種が飛んで来たもの。
背も低く小さな花ではあるが、逞しさは天下一品。
「小さき人に生まれたし」は、けっして小さく弱々しいということではない。
目立たなくとも、咲くべき時に咲くべき場所でちゃんと咲く。
ただ、庭で咲いているスミレを見過ごすとは、私としたことが・・。
やはりスミレは小さかったのか。
スミレが咲いて、やれやれ「春が来た」の帳尻が合った。