人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

臨死体験と覚醒

2014-10-01 19:38:09 | 覚醒
前回のクンダリーニの話よりもっと前に遡りますが、まだ覚醒といったことが一般的に認知されて無かった時分(平成8年頃)のことです。
私は全くと言っていいほど人にあの体験のことを話したことなど無かったのですが、(この時は人から変に思われそうなのでためらっていたのです。他にもう一つ大きな理由が有ったのですが、その辺のことは機会を改めて…)
思い切ってある人に話してみました。
で、帰ってきた言葉が「臨死体験をしたのですね!大変でしたね」とこれまた決めつけたようなもの云いで、至福の体験のはずが、まるで九死に一生を得たものとして受け取られたようなのでした。(笑)
私の話っぷりが深刻そうだったようです(笑)
まあ、確かに私は「死ぬんじゃないか」とかあるいは「もう、何時死んでもいいや」と感じたことは有りましたが、別段生死をさまよっていたという訳
でもなかったんですがねえ…
それまで例えば高熱でうなされていた時など、浅い夢見でケッタイな光景とか見たことはありますが(まあ、あまり気分のいいものでは無いです)
特にそういう体験は有りません。
前述した様にその頃は、阿部敏郎さんのような覚醒のメッセンジャーはあまり居ませんでしたし、臨死体験とよく混同されて認識されていたようです。
最近では木内鶴彦さんのそれが話題になっていますが、何かルドルフ・シュタイナーなどが言うアカシック・レコードを連想させ、実にスケールが大きいですね。
私は臨死体験についてはあまり多くは語れないのですが、覚醒体験と比較して共通する点は(光の存在に出会ったとか)あるものの、書かれたものを読んだ限りですが、やはり異質なものという印象がします。
(といってもそれを否定するつもりは毛頭有りません。念のため。)
まず、前者のその体験の有り様を伝える描写はとてもヴィジョナリーというか「どこそこに何が有る」と観られた景色のように写実的に表すことが可能であるという点です。
あの目覚めた時の気づきについて描写するのはとても困難を覚えます。あらゆる相対性を超えた普遍性や過去、現在、未来が一つに貫かれて同在して生き通して居るものなど、それらは実際に映像として観た訳では無いですが、それまで観てきたどんなものよりもリアリティーに満ちたものでした。
もう一つ、例えば木内さんが「他人の心に侵入した」とか、意志的なハタラキかけが可能である事ですが、これについては前回述べた通りです。
(今のは言うまでも無くあくまで私の場合のことについて述べているだけで、他に異なった受け取られ方が有るのかも分かりません。)
この相違は意識の層(相?)が異なっているという事なんでしょうか?
臨死体験から導き出された境域には、意志想念がまだ及ぼされているような気がしますがどうなんでしょう?
何にせよ、人間の内面の知られざる世界が徐々に解明されつつあるのを喜びたいですね。

コメント
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