近年、精神世界で急速に注目されている、アドヴァイタ~非二元の道では「個我は幻想である」と言われていますね。
まあ、今問題、悩みを抱えて苦しんでいる人には、本当にそう思えるんでしたら福音となるのは間違いないでしょうね。
苦しんでいる個我は無い=苦しみも何の問題も無くなる訳ですから…。
「何の誰兵衛」という諸々の条件付きの個我なるものは「幻想だった!それまでの人生は夢だった!」という事は、文字通り目覚めてみたら分かります。
そして、ではその事に気付いた当体は何か言うと…本当の私、真我ということになる訳ですね。
(これが又分かったような…分からないような…。)
ただ、この真我に気付くというのは、あくまで「自分と思っていたのは、そんなもんじゃなかった!」という認識によって示されるものであって、
「その実体はこういうものです。」と言って示すことは出来ないものですね。
何故ならば、この肉体的個体のような形、輪郭を持っていませんから…(少なくとも私にはそう認識された。)
それは空間的には、どこまでつながっているのか分からない、普遍性を帯びたもので、
固定的な空間では無い、超空間性とでも言うようなものです。
これを仮に横軸として表せば、縦軸としては時間的無限性~超時間性の中で生き通しているものが示されるのです。
何か如何にも観てきたような物言いですが、これが強烈な主体を持った私性とのつながりにおいて実感されるのです。
それは輪郭が無いので、どこまでつながっているのか分からないし、全体像も分かりません。
でも、だからと言って無限宇宙とか無限時間とかに自分が溶け入ってしまうというものでも有りません。
そこには何らかのハッキリとした形、輪郭でない際立ちが認められるのです。
これは微妙な表現になるのですが、そこにはある種の「個的顕現」といったものがあるのを私は疑う事が出来ません。
それが端的に強烈な「私性」というところから来る訳ですが、リアリティ感覚をもたらしているのもおそらくはそれなのでしょう。
個的と言いましたが、それは言うまでもなく日常的個我とは明らかに違うものです。
それは個的現れであっても、永遠なるものと分離していないのです。
言うなれば、そもそもの個我的なものの本体、出所と言ってもいいかと思います。
そして普遍性、永遠性といったものを際立たせているのもこの個的顕現でしょう。
よくワンネス体験などで「宇宙と一つになった」などと言いますが、自分が溶けて無くなってしまったら、そもそもそういう認識は生まれないはずで、この一体感をもたらしているのもおそらくこのものでしょう。
このものは無限なるものと個的なるものを結び合わせるのです。
玉城康四郎先生はこの辺の消息を「宇宙共同体であると同時に私性の極まり」と表現しております。
一人一人の人間は他に代えることが出来ない、掛買の無いものだと言われますね。
それは一人一人の内に独一無二の個の本源が有るからこそ言えるのではないでしょうか?
それはしかし、寿命が尽きたら消えてしまう個我と違い、永遠なるものと一つなるものです。
アドヴァイタの道のマスターたちは、そもそも何故物心ついた時から、我々はこの個我という大きなお荷物を背負って生きなければならないか、
ということについては多くを語ってはくれません。
その秘密もこの辺に存しているのかも分かりません。
非二元の道は面倒くさい修行や、ややこしい信仰をパスして、直接経験に導くという意味で実に素晴らしいと思います。
ただこの日本では根付かないんじゃないかと思いますね。
というよりこの国では突出した道は生まれ得ない。
八百万の道が百華繚乱している感じです。
これを言い換えれば、いいかげんな道と言います。…
まあ、今問題、悩みを抱えて苦しんでいる人には、本当にそう思えるんでしたら福音となるのは間違いないでしょうね。
苦しんでいる個我は無い=苦しみも何の問題も無くなる訳ですから…。
「何の誰兵衛」という諸々の条件付きの個我なるものは「幻想だった!それまでの人生は夢だった!」という事は、文字通り目覚めてみたら分かります。
そして、ではその事に気付いた当体は何か言うと…本当の私、真我ということになる訳ですね。
(これが又分かったような…分からないような…。)
ただ、この真我に気付くというのは、あくまで「自分と思っていたのは、そんなもんじゃなかった!」という認識によって示されるものであって、
「その実体はこういうものです。」と言って示すことは出来ないものですね。
何故ならば、この肉体的個体のような形、輪郭を持っていませんから…(少なくとも私にはそう認識された。)
それは空間的には、どこまでつながっているのか分からない、普遍性を帯びたもので、
固定的な空間では無い、超空間性とでも言うようなものです。
これを仮に横軸として表せば、縦軸としては時間的無限性~超時間性の中で生き通しているものが示されるのです。
何か如何にも観てきたような物言いですが、これが強烈な主体を持った私性とのつながりにおいて実感されるのです。
それは輪郭が無いので、どこまでつながっているのか分からないし、全体像も分かりません。
でも、だからと言って無限宇宙とか無限時間とかに自分が溶け入ってしまうというものでも有りません。
そこには何らかのハッキリとした形、輪郭でない際立ちが認められるのです。
これは微妙な表現になるのですが、そこにはある種の「個的顕現」といったものがあるのを私は疑う事が出来ません。
それが端的に強烈な「私性」というところから来る訳ですが、リアリティ感覚をもたらしているのもおそらくはそれなのでしょう。
個的と言いましたが、それは言うまでもなく日常的個我とは明らかに違うものです。
それは個的現れであっても、永遠なるものと分離していないのです。
言うなれば、そもそもの個我的なものの本体、出所と言ってもいいかと思います。
そして普遍性、永遠性といったものを際立たせているのもこの個的顕現でしょう。
よくワンネス体験などで「宇宙と一つになった」などと言いますが、自分が溶けて無くなってしまったら、そもそもそういう認識は生まれないはずで、この一体感をもたらしているのもおそらくこのものでしょう。
このものは無限なるものと個的なるものを結び合わせるのです。
玉城康四郎先生はこの辺の消息を「宇宙共同体であると同時に私性の極まり」と表現しております。
一人一人の人間は他に代えることが出来ない、掛買の無いものだと言われますね。
それは一人一人の内に独一無二の個の本源が有るからこそ言えるのではないでしょうか?
それはしかし、寿命が尽きたら消えてしまう個我と違い、永遠なるものと一つなるものです。
アドヴァイタの道のマスターたちは、そもそも何故物心ついた時から、我々はこの個我という大きなお荷物を背負って生きなければならないか、
ということについては多くを語ってはくれません。
その秘密もこの辺に存しているのかも分かりません。
非二元の道は面倒くさい修行や、ややこしい信仰をパスして、直接経験に導くという意味で実に素晴らしいと思います。
ただこの日本では根付かないんじゃないかと思いますね。
というよりこの国では突出した道は生まれ得ない。
八百万の道が百華繚乱している感じです。
これを言い換えれば、いいかげんな道と言います。…