人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

こんなハズでは無い!

2014-10-26 18:26:08 | スピリチュアル
私は物心ついた頃から、この現実世界にある種の違和感を感じていました。
時折、現実に生きているという実感がよく分からなくなって、親に「この世界は本当に有るの?」などと意味不明のことを訊いて困らせたりしました。
生きているとは、一体どうゆうことなのか?本当に生きたものとはどんなものなのか?肌触りが分からなくなるのです。
5歳の時だったか、「死」という意味を父から初めて聞いた時、とても衝撃を受けて夜も寝られないほどでした。
「死んだら体も心も無くなっておしまいだよ!」
そんなバカなーッ!
平然とそんな言葉を話している父には血が通っているとは思えませんでした。
「そんな世界によく生きていられるものだ…。そうだ、きっとみんな夢を見ているんだ。」
人間を初め生き物は皆死んで、朽ちて、消え去る…
物という物は全てコンクリートで固められていて、我々を閉じ込めてしまうのか?
私はこんな思いを意識のどこかに巣食わせながら育ちました。
大学4年の頃、この霧がかかったような心の底部に光が差した事が有りました。
ロシア人の哲学者ニコライ・ベルジャーエフの「精神と現実」という本を読んでいた時です。
どこをどう読んだのか定かでは無いのですが、何だか読んでいるうち、ガタガタ震えて来ました。
その本には、この目に見える現実世界を取り巻いている幻想を浮き彫りにし、そこから顕わになる別なる本当に精神の生きた、リアリティの世界について書かれていました。
といっても通俗的な宗教書のように、たとえば霊界といった安易に想像を逞しくさせ、意識を現実から遊離させる表現で無しに、どこまでもリアルな筆致なのが新鮮に映りました。
人々は宗教に神、真理を見出そうとするが、それを形にしようとした途端、生命の無い紙に書いたようなドグマという模造にスリ変わる…
恋愛を永遠なるものにしようと夫婦、家庭を築こうとしたのに、行き着いたのは愛の墓場だった…
我々を取り巻いている世界には、こうした生き生きとした精神が硬化して死に絶えてしまうプロセスに溢れています。
ベルジャーエフはこうした過程を「精神の客体化」と表現しました。
それは我々の精神が、自分自身の本姓と切り離される事により生まれると言います。
という事は精神が本姓(神的自己)に帰るならば、世界は別なる様相で生まれ変わるという事を示唆しているのです。

「こんなハズでは無い」感…。
私が現実感というものを喪失していた時、本当に生きたリアルな世界というものをどこかで知っていたのです。
世界が夢のように思われた時、目覚めた世界を知っていたのです。
こうした気付きが数年後の体験とつながっていたのです。
言わば、予告です。
実際に沈黙の声が告げたようでした。
「ここに書かれているのはお前自身の事なんだよ!」
これは覚醒体験というものは特別なものとして、その事だけを切り離して語られるものでない、という事の一例です。
人それぞれの生き様、トレースに根っこのように息づいているものが有り、やがて花も咲き、身を結ぶという一連の仕組みのようなものでしょう。
それは個人の意志でどうなるというものでは有りません。
花は咲くべき時に咲くだけですから…
花は本来咲くように仕組まれているのです。
それが摂理です…。
コメント
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