人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

覚醒の一人歩き

2014-10-09 18:52:14 | 覚醒
学生の頃、理由も無いのに幸せな気持ちになり、感謝の気持ちが自然と湧き上がってくるということがしばしばありました。
年とると中々そんなことにはならないですね。
当時はまだ覚醒という表現はなじみが無かったですが、「何か宗教的回心といったものに出くわすと、人生が一変するらしい」という事が念頭から離れなくて「どうかその素晴らしい体験が有りますように」などと祈ったりした事が有りました。
その時それでどうかなった、という事は無かったですが、ずっと後になってその事を思い出すと「何てオメデタイ人間だったんだろう、私は!」と呆れ返る他ありません。
そのような得難い気持ちに預かりながらも、その上で何か特別な体験を求めていたのです。
それから数年後の昭和58年の夏、その突出した幸福の訪れが有りました。
私は、特別な宗教信者にもならず、特別な修行もして来ませんでしたが、何がしかの宗教的土壌によって育まれ、素養らしきものも身に付けていたのは間違いありません。
そうでないと、冒頭に書いたような気持ちにはまずならなかったでしょう。

最近スピ系で、世界的にも国内でも覚醒体験について盛んに語られている訳ですが、もしその体験そのものが一人歩きし始めるとなると、大変由々しきことだと思います。
私も無責任な事書いてしまったかなあ、と感じているところです。
前に「至福感の源、充足感の源にたずねる」と書きましたが、それが何かは敢えて書きませんでした。(言い換えると書きそびれました。)
神、キリスト、ハイアーセルフ…何でもいいですが、思っただけで有難くなってくるもののことです。
一人歩きとはその源から離れて、特別な体験というものに捉われ、追っかけていく事を指します。。
頭デッカチにただ分かったつもりになるのならまだいいとして、実際にぶっ飛んだ体験をしてそれに酔いしれたりすることになると、
それは麻薬中毒と大差有りません。
私はそういう傾向は人智を超えた領域に、自分の意志でどうにかしようというところから来ると思います。
私は得難い思いもしているのかも分かりませんが、救いようのないアホな事もしているので敢えて書いているのです。
「世界平和の祈り」の五井先生はこう言っています「守護の神霊の導き無しでは誰も悟れないのです。」と。
何もどっかの宗教に入る必要はありません。
ただ単にぶっ飛んだ体験をしたという事よりも、いつも有難い気持ちで居られることの方がどれだけ得難いものである事か…
そのような人には起こるべき時には、起こるべき事が起きます。
然るべき導きの元に…
もし、起きなくとも得難いものであるのは一緒です。
人智を超えた縁で結ばれているのですから…。
世界人類が平和でありますように。
コメント
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